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書斎の漂着本(93)蚤野久蔵 すたこらさっさ(その1)

  • 2016年11月10日 16:57

紀伊国屋書店創業者の田辺茂一は連日連夜、銀座に繰り出し、バーからバーへと飲み歩き華麗な女性関係を繰り広げて<夜の市長>と言われた。ところが「いつ書くのだろう」と思われるほど多くの著作を残した。その代表作をあげるとするとやはり自身の処世術をそのまま題名にした自伝小説『すたこらさっさ』ではあるまいか。昭和48年(1973)3月に出版されると話題を呼び、同じ年の11月に「続」が出された。装丁は人気切り絵画家の宮田雅之だからこの題名部分も切り絵である。

田辺茂一著『すたこらさっさ』(流動刊)

田辺茂一著『すたこらさっさ』(流動刊)

表紙見返しには親交のあった流行作家の梶山季之が一文を寄せている。

この小説は、田辺茂一先生の最初の週刊誌連載小説の筈である。『すたこらさっさ』と言う題名も、先生らしく軽妙ながら、文体にも新しい試みを大胆に駆使して居られるあたり、心憎い次第だ。田辺先生は、粋人として名高いが、志は文学にあると伺っている。それも通り一遍のものではない。われわれ如き駆け出し文士は大いに範としなければならぬ。

梶山は週刊誌などのフリーライターとして活躍し、多くのスクープを手がけて「トップ屋」と呼ばれた。小説家に転身して書いた『黒の試走車』が大ヒットし、長者番付のトップを飾ったことで「稼ぎでもトップ屋に」と書かれた。田辺とは二回り以上(25歳)の年齢差があったのに<駆け出し文士>とへりくだっているのがおもしろい。

『すたこらさっさ』の主人公は本名をもじった田原茂助、生家で紀州備長炭や石炭、コークスなどを扱う薪炭問屋・紀伊国屋は木之国屋としている。幼時の記憶に残る新宿界隈の風景や生家をこう描写する。

新宿停車場も、人っ気少なく、その周囲に、二十数軒の薪炭間屋があり、荷をつけた馬車の轍の、ぬかるみの道路が続いて、人呼んで、馬糞横丁と言っていた。
一歩裏へ入ると、茶畑、田圃、原っぱで、今日の歌舞伎町は鬱蒼とした森林であった。
薪炭問屋木之国屋は五間木造二階建ての店で、小僧、中僧、女中、併せて七、八人の奉公人がいた。

茂助はこの店の跡取りだった。生まれたのは明治38年(1905)2月、日露の大戦争が終わりに近づいたころで、父親は尋常小学校を4年で終え、夜間の正則英語学校に半年通っただけだが神田佐久間河岸の炭屋に奉公していた。実直な働きぶりが認められ、奉公先の親戚筋にあたる栃木県黒磯出身で共立女子職業学校を優秀な成績で卒業した2歳年上の才媛と結婚していた。茂助が生まれた時、23歳だった父親は名付けに窮し、町内の十二社熊野神社の宮司に相談して茂助という名前をつけたという。

このあたり、生まれた年といい父母の経歴といい本人(=田辺茂一)とまったく同じであるが、これはあくまで小説であって主人公の田原茂助が繰り広げる物語なのである。なぜかというと6、7歳で近所の理髪店で聞いた若い職人たちの会話から前夜の遊郭での相手の話であることがわかったり、年始の得意先参りに中僧に連れて行かれた先が新宿、品川、洲崎、吉原の遊郭で、応対に出てきたお女郎さんを「あんまりきれいなのはいないね」と評したり。母と同じ布団に寝るとき、すぐ乳房のあたりをまさぐったり、自分の足を、それとなく母の股間に入れたりして間もなく離れ座敷にひとりで寝るように言い渡されたり。早熟な茂助の<ヰタ・セクスアリスな日々>をこと細かに書いているが、あくまで茂助の、であって、茂一の所業ではないのである。

早生まれの茂助は7歳から町立淀橋尋常小学校に通った。ところが言葉遣いが乱暴になったのを心配した母は2年生から大久保にあった私立高千穂小学校に転入学させた。3年生からは本所から転入学してきたのちの作家・舟橋聖一と一緒になり、中学では同じクラスになった。仲良くなった二人は本屋で茂助はトルストイの翻訳物を買った。
それを見て舟橋は
「そんなの読んでいるのかい。トルストイなんてつまんないだろう。ぼくは嫌いだなあ」
舟橋の言い方には自信らしいものがあって、ちょっとたじろいだ茂助は
「いやぼくだって知らないんだ。今日が初めてだよ。もう読んだのかい?」
あらためてたずねると
「ウム読んだサ。ちっとも面白いとは思わないね」
と言い、茶色のポケット型の絹地本の新汐(潮)文庫の田山花袋『蒲団』を買った。茂助はまだ花袋の名を知らなかった。茂助の場合は健康な性欲をもて余しての小説本の乱読で、のちに発禁になる島田清次郎の『地上』とか生田春月の『相寄る魂』、有島武郎の『或る女』といった<官能路線>だった。

一方では町内にできた市内初の映画館「武蔵野館」に入り浸った。新宿に地下街ができるという噂に対抗して茂助の父ら有力商店主が資金を出し合い完成させた。鉄筋木造3階建ての建物で、茂助も優待パスが出される重役の末席に収まった。客席が満席になると赤い大入り袋が配られるのを父は居間の長火鉢の横に吊るして飾りにしていた。これを母が見とがめて「大入り袋なんか吊るしてあるから茂作の勉強がおろそかになるんです。はがしてしまいましょう」ということになった。思春期の茂助には小説本もだが映画も楽しかったから、この一件を知ってか知らでか、学校から帰ると相変わらず武蔵野館に直行した。座るのはいつも2階正面の特等席、一列目の左側だった。すぐ脇に制服を着た案内嬢が立っていて、かすかな香料の匂いもした。茂助より三つぐらい年上に見えたが、制服のなかの成熟したカラダがすぐそばにある、ということだけでたまらない。場内が明るくなると、スカートの下の太い脚も見える。久留米がすりの中学生の視線を案内嬢のほうも意識する。
「新しいプロ(グラム)ある?」
「あります」
「今日は混んでいるね」
「ええ、とても」
その程度のやりとりではあったが帰ったあとでひとり思い出しては興奮した。

茂助17歳の夏、超チブスで2カ月ほど寝込んだ母があっけなく死んだ。以前、母とはこんなやりとりがあった。
「本屋以外には、なんにもなりたくはありません」
と答える茂助に、その性格を知り抜いて行末を案じていた母は
「本屋になりたければ、なってもいいが、お前は商人にはなれないと思うよ。そんなことをするより、本が好きなら、ただ本を買って、読んでいれば、それでいいじゃないか」
それとは反対に父は長男には炭屋を継がせればいいと考えるだけだったから、母だけが茂助の最大の理解者といえた。学校の成績簿を貰ってくるとすぐ母にだけは見せた。その見せる人は、見せ甲斐のある人はこの世にいない。とすれば、学校の成績なんぞは、もうどうでもいいことであった。

母の死後、茂助の気持ちは荒れた。秋の運動会のプログラムには「中隊訓練」というのがあり、茂助は小隊長を命じられた。運動場を音楽隊に合わせて進み、中央右手の台上にいる校長のところまで来ると、小隊長の声で「頭右っ!!」いっせいに生徒たちが右を向く。校長が挙手で挨拶すると「直れ!!」で、また小隊が進むという段取りである。これを茂助は運動会には無縁のように思った。予行演習で腰にサーベルを下げさせられた茂吉は、声はかけたが自分は前方ばかりを見ていた。校長の怒声が響き渡り、突き飛ばされた茂助は腰の帯皮ごとサーベルを取って思いきり地面にたたきつけた。「サーベル事件」は校内に広まり、校長批判の漢文の教師からは
「田原、よくやったなあ。あれでいいんだよ」
と激励されたが、茂助はそのころから性格も変わった。表よりも裏が人生の真実のようにも考えられた。善良が不良に見え、不良が善良に見えた。倉田百三の『愛と認識の出発』『善の知識』や阿部次郎の『三太郎の日記』をむさぼり『菜根譚』を手にした。

翌年、落第覚悟で受験した一ツ橋は不合格でそのまま5年生に進級した。放課後、週一度は日本橋の三越に出かけ、真っ白いエプロン姿の給仕の少女の胸の番号札で
「30番ってのがとても綺麗なんだ」
「いや17番のほうがいいぞ、すぐ耳を紅くする」
と話題にしたりしたがそこまでだった。

夏休みには九十九里浜の真ん中ほどにある千葉県の一の宮海岸に出かけた。田原家が所有する一万坪を超える地所でキャンプ生活をすることを思いついたからである。さっそく天幕店からテントを取り寄せ、飯盒を用意して缶詰をいっぱい鞄に詰めた。友人の美少年、下田を誘い、二人はデパートで揃いの海水パンツを買った。計画した自炊生活はうまくいかず、地所の管理人夫婦に食事の世話を頼んだ。毎朝、ご飯やみそ汁鍋を運んできたのはそこに東京から避暑に来ていた三姉妹で、12歳の次女アコチャンに淡い恋心を抱いた。

再度受験した一ツ橋はまたまた不合格だったが、三田の慶応義塾が新設した専門部を受験した。予科一年、本科三年の修了で、受験勉強など用意のなかった茂助は、そそくさといい加減な答案を書いた。またダメかと思っているところへ<意外にも>合格の通知が来た。「ペンに勲章のKOボーイか・・・」茂助は特別に嬉しいとも思わなかったが三田へは新宿から市電で通った。四谷塩町、青山一丁目、さらに飯倉で乗り換えて50分で三田に着く。慶応はハイカラな学校と期待していたのに専門部は地方の中学や商業の出身者ばかりで、甚だ泥臭い。数学も歴史も心理も原書ばかりなのが珍しいとはいえ、授業は退屈で教室の後ろであくびばかりしていた。夏休みになると再び一の宮海岸に出かけた。こんど誘ったのは水戸高校に進学していた舟橋である。舟橋は夏の制服に、太い鼻緒の朴歯の下駄をはき、帽子の白線も誇らしげにやってきた。舟橋は茂助が関心をもっていたアコチャンに眼をつけて
「利巧そうだね、いくつだい」
と聞く。
「ウム、ちょっと気に入ってんだ。13だよ、ことし竹早(府立第二高女)に入ったらしい。頭脳(あたま)はよさそうだがね、熟していないのがキズさ。水泳はうまいがね」
「待っていればいいじゃないか」
「四、五年は待てないね」
オカッパの髪の下に見える、頸筋が可愛かった。瞳も澄み利発そうであった。

舟橋が帰ったあと、町まで買い物に行くというアコチャンの付き合い、舟を漕いで出かけた。午後いっぱいの買い物ごとに赤い兵古帯の間から小さいノートを出し、金額を書き入れるのをみて
「ナカナカ家計簿はしっかりしてるね」
と冷やかしたのに対し
「私、お嫁さんになれるかしら」
といわれ、
「提灯を買っていこう。この分だと途中で日がくれちゃうから」
と茂助。櫓を漕ぎながら茂助が
「新世帯を持ったようだね」
「新所帯なんて、新家庭とおっしゃって・・・」
夕暮れのなかで19の少年と13の少女との会話だが、茂助自身はほんとうにアコチャンが嫁に来てくれたなら、と心のうちで思った。帰りはアコチャン一家と同じ汽車で一の宮駅を発った。
「若さん、すっかりアコチャンがお気に入りのようで」
と管理人からささやかれると茂助はちょっと、顔を赤くした。

帰って一日おいて9月1日午前11時、東京は関東大震災に見舞われた。激しい余震が続いた。東京市街の大部分は震災後の延焼で焼失したが、新宿の角筈に近い部分はその厄を免れた。親類知己が茂助の家を頼って大勢避難してきて寝泊まりした。ラジオ放送もなかったころだから得意先や親戚の消息も判明しない。茂助は父の命を受けて自転車に乗って安否を見舞いがてら洲崎の吉原神社を訪ねることになった。まだ夏のきざしの強いさなかだったが火事装束のような刺し子半纏を着込み、握り飯を風呂敷にかたく結んで荷台に縛り付けた。
「気をつけろよ!」
と父から言われ、朝早く家を出た。ところが茂助は目的地ではなく小石川植物園近くにあると聞いていたアコチャンの家へ向った。何をおいても、まずそこへ行き、彼女の安否を確かめたかったのである。

(以下続く)

新・気まぐれ読書日記 (43) 石山文也  酔眼日記

  • 2016年11月1日 00:52

<緑陰読書>にちょうど良さそうと購入したが、ヒマな日に限って雨。キャンプのお誘いもこないうちに読了した。本山賢司の『酔眼日記』(東京書籍)は建設業界誌などに寄稿した約100作を一冊にまとめた。「旅と酒」なら当方も負けはしないだろうが、遠征も含めてあくまで遊び=自腹だから帯にあるように「あっちこっちで酒のんで、文とスケッチ」がシゴトというのはホント、うらやましい。

本山賢司著『酔眼日記』(東京書籍刊)

本山賢司著『酔眼日記』(東京書籍刊)

著者の本山は私が<アウトドア・野遊び系>と勝手に名付けているイラストレーターのひとり。書庫を探すとデビュー作の画文集『海流に乗って―僕と九つの島』(山と渓谷社、1987)が見つかった。他にもあるだろうがこれだけでいい。『「宝島」探訪記』を読んでいるうち、「そういえば」と思い出したからである。「宝島」は鹿児島県の屋久島と奄美大島の間に連なるトカラ列島のひとつで、北から口之島、中之島、諏訪瀬島、悪石島、小宝島、宝島、横当島と並んでいる。この7島が住民の住む有人島で、残りの無人島3島を含めて十島(としま)村といい鹿児島市内に村役場がある。

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なぜ詳しいかというと私も宝島に行きたいと資料を集めたもののどうしても休みが取れず断念したから。島に渡るには鹿児島と奄美大島の名瀬間を結ぶフェリー「としま」しかない。鹿児島を出るとそれぞれの有人島に寄港しながら名瀬へ。名瀬からは同じように折り返す。もちろん鹿児島と奄美大島には空路があるがフェリーに乗り継ぐには運航日の確認だけでなく、空港から港までのアクセスにも気を配る必要がある。いまは週2便だが当時はたしか週1便だけで、海が荒れたら欠航し、島まで行っても入港できずに通過することもあるからスケジュールによほど余裕がなければとんでもないことになる。『海流に乗って』では運航日の変更などトラブルに見舞われたと紹介しているが今回はすんなり渡れたようだ。

島には新しい住人がいた。大物釣り師のKと、画家のKの両氏だ。かって泊った坂本さんの離れは廃屋になっていたがオバさんは元気だった。むろん僕のことは覚えていない。小柄なオバさんはプロレス好きで、テレビを見ながら「この野郎!殺(や)っちまえ、そこだ」と大声で怒鳴る。ふだんは大人しい人で、毎日おいしい料理を作ってくれた。大物釣り師のKはザルの飲み助で、毎晩ふたりで「さつま白波」をあびるように飲んだ。

そのKから「すっかり禿げてしまったが島の娘と結婚した」と便りがあった。手紙と一緒に、トビウオの干物や、島の野生のミカン、今や名物になった落花生を送ってくれた。甘味が苦手なのを知っていて、黒砂糖も荷に入れてくれた。「今年あたりか来年か、はたまたいつになるかはわからないが、三度目の宝島行きを考えている。そんな計画が頭に棲みつくと、旅の虫が騒ぎだす。あの亜熱帯の島が懐かしい」とある。なぜか画家のKのことは何も書かれていないが、あこがれの島へシゴトとはいえ何度も行けるというのはいいですなあ。

『下山家宣言』は、山の雑誌からの原稿依頼を「登山はしないので」と断ろうとしたが断れずに「下山家第一号」を宣言したオハナシ。下山に開眼したのは富士山という。登山口の五合目まで早朝新宿発の富士急行バスで行って、ひたすら下山する。高尾山は頂上まではケーブルカー。それから参道脇の道を下山する。どんな手段を取っても登らずに下るだけ。これが下山の条件。ありそうだがなかなかないと。たしかに、下りといっても多少の凹凸はあるだろうし。

おもしろかったのは『大岩の真実』だ。山梨と静岡の県境を流れる佐野川上流部で渓流釣りのエキスパートの友人が見つけたという<謎の大岩>に心を動かされてその友人を引っぱり出して探索に出かける。

富士宮市の浅間神社を横手に身延線と合流、南へ5キロほど下り、富士川沿いに北へ。県境を超えると山梨で、ここで佐野川が富士川と合流している。井出から佐野川の上流を目指す。ダム湖の天子湖をやりすごし、さらに上流へ向う。岸辺にしげるマタタビの葉の一部が白化し、木漏れ日を浴びて輝く。梅雨入り前のぐずついた空模様。太陽が雲間にかくれて、道路が意味ありげに陰る。と、その大岩が忽然と姿を現した。全体はひしゃげた五角形。一部が岸にかかり、片側は流れにえぐられている。流れは清冽で、苔むした巨岩があちこちの岸にゴロリと寝転がっている。大岩の中心には太陽らしきものが描かれ、プリミティブな線が表面をのたくっている。

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あたりは緑が濃く、空気がねっとりと重い。天候のせいか、不気味な気配がしないでもない。スケッチをすませ、大きさの目安になるように岩に乗って証拠写真を撮った。帰り道、川下の無人だと思っていた店先で、オバさんがムシロを敷いて赤ジソの葉を取る作業をしていた。昭和16年創業のタバコ屋のオバさんに大岩のことをたずねてみたら・・・。

著者が50年来、続けてきた居酒屋とバー通いは、焼酎のホッピー割りでスタート。おおよそ1時間で神輿をあげ、仕上げは50.5度の七面鳥のレッテルの酒をストレートでダブルというのがお決まりのコースという。「酩酊はしない。鼻歌のひとつやふたつ出るぐらいに飲んだ翌日、宿酔いにはならないが妙に涙目になり、うるうるする。これを酔眼というのである」とわざわざ「追記」に書いている。

「50.5度の七面鳥のレッテルの酒」といえば<バーボンの王道>と言われるアメリカ、ケンタッキーを代表するワイルド・ターキーですな、サントリーの巨額買収で話題になった。今夜も著者のいう獣道をいそいそと辿り、どこかの店の片隅で飲っているかな。

ではまた

私の手塚治虫  最終章   峯島正行

  • 2016年10月30日 15:00

私の手塚治虫(終章)
峯島正行
小林一三の恩恵

手塚構想力の背景

思想家・鶴見俊輔は、その著、『漫画の戦後思想』(昭和四八年 文藝春秋)の「都市」という手塚治虫を論じた章の冒頭で「大正の末年に生れて宝塚で育ったという事実が、手塚治虫の構想力の背景をなしている」と述べている。
この文章の手塚は、大正末年生まれとされているが、これは昭和初年と訂正されなければならない。当時、手塚は大正一五年生まれと誤報され、それをあえて訂正しなかったために、それが世間にとおってしまった。事実は昭和三年生まれであることが、世間に知れたのは、亡くなった後のことである。だから、鶴見の文章が間違いだとは言えない。大事なのは、その後の言葉だ。
鶴見は、関西の私鉄の事業家は、一種のユートピア構想を持っていたとし、「中でも小林一三は、慶応義塾出身で、福沢諭吉の町人道を生かそうという志を持ち、(中略)私鉄阪急の経営に乗り出してから、彼は大阪の起点に百貨店を作り、終点の宝塚には大衆娯楽センターをつくることを考えた。先ず温泉ホテルをつくってから、そこに泊り客に見せるための少女歌劇を工夫し、自分で脚本を書いて、興行をはじめた。やがて、俳優を養成するための学校をつくり、それは寄宿制度の学校で、終点宝塚に置かれた」と、宝塚の生立ちを簡略に述べている。当時は少年少女の交際が自由でなく、親や教師の監視が厳しかった。それが宝塚ならば、同じ年頃の少女のしている芝居であるから、親たちも心配せずに、宝塚の歌劇を見ることを許した。
そこで娘たちは、同年輩の少女が男役と女役に扮して、はなやかな人生を演じるのをみた。普段見ている父親や兄弟の粗野な男と違って、女性が作り出す理想の男性を見て楽しむことができた。だから、現実の日常生活から逃避するという側面を持っている。
鶴見は、宝塚は、女形の演技が現実逃避の夢をもたらす歌舞伎と同様に、現実逃避の機会を売るという産業を開発し、それを維持したところに、小林一三の独創性があったという。温泉の附属的存在から離れて、宝塚独自の世界を築き上げたことは事実だ。
「『モン・パリ、わがパリ』、『私の夢の都マンハッタン、ブロードウエイ』というようにヨーロッパ、アメリカを謳いあげた出し物も多く、それらの歌のかけらとともに、西洋近代の理想が、手塚少年の心に住みついて、後に来る軍国主義時代にも変わることがなかった。
このユートピアの設計者小林一三が、彼の日本国家改造計画をひっさげて東京に乗り込み、国粋主義と格闘したころ、その影響をうけた手塚治虫は中学校の片隅で、彼なりに時流とたたかいつづけた」(前掲書)と書いている。
間接的に、であろうが、鶴見流にいうなれば、手塚治虫という人間形成に、最も影響を与えたのは、小林一三ということになる。

小林一三の手のぬくもり

私はこの小林一三という、日本資本主義史上稀にみる傑出した人物に会ったことがある。随分と昔の話で恐縮だが、たしか昭和二七、八年ごろのことである。
その頃、私は「実業之日本」という雑誌の新米の編集者であった。ある日、山田勝人編集局長が、編集部員に向かって、「明日の朝、東宝の小林一三を訪ねることになったが、誰か一緒に行きたい奴がいるか。尾崎(八十八助編集長)君も同行するが、もう一人くらいならいいだろうから」と大声を上げた。小林一三は阪急電鉄、東宝などの創業社長で、大物財界人である。私はすぐに手を挙げた。
「よし、ほかに希望者はいないか、よしそれじゃ峯島来い」

当時、映画が好きだった私は、東宝という会社に興味を持っていた。その前身をPCLといったが、そのころから映画界で最新の設備を誇り、後進の会社にもかかわらず、長谷川一夫、大河内伝次郎、山田五十鈴、入江たか子等の大スターを他社から引き抜き、いろいろ注目された。山本嘉次郎、衣笠貞之助、島津保次郎等の名監督を入社させ、話題作を提供し、戦時中は、東宝映画と名前を変え、その技術で「ハワイマレー沖海戦」を制作、特殊撮影を完成させ、また、黒沢明という世界的名監督を育てた。
戦後は、東宝争議という日本の労働運動史上に残る大闘争が行われ、その鎮圧にGHQの軍隊まで動員した。その為スターが皆離散、荒れ果てた撮影所だけを残して、ようやく収まった。
だが何事もなかったように見事に復活を遂げた映画会社、その実質経営者に会って見たかった。
もう一つ、私の勤務する会社では、「少女の友」という古い少女雑誌を刊行していた。その編集部の人たちは常に宝塚を話題の中心において、編集している姿に接していた。
仕事関係で日比谷付近を歩くと、東京宝塚劇場の周辺には、常に女学生達がたむろしていた。「少女の友」の編集部が宝塚を追いかけるのは当然だと思い、「宝塚とは何だろう」と日ごろ思っていた。その面からもその創始者であり、今日まで発展させた小林一三に関心を持っていた。それで一も二もなく、山田の誘いに応じたのであった。
ついでながら付け加えると、その頃「少女の友」には手塚治虫が何回か執筆している。

「小林邸に行く者は、明朝、八時一〇分前、都電某停留所前に集合」ということになった。当時実業家は、朝の仕事前に、ジャーナリスト等に会う人が多かった。
その日は、早めに下宿に帰った。ただ天候の具合が心配だった。夕刊を見ると大雪の情報が出ていた。翌朝、六時半ごろ目が覚めて、直ちに雨戸をくくると、はたして、庭に一〇センチほどの雪が積もっていた。当時は、雪が積もると、国鉄、私鉄、都電を含めて、電車やバスが、運航を停止することが多く、大雪により全都交通途絶の状態になることもしばしばであった。タクシーも普及せず、あっても雪の中を走ることはなかった。それに、公衆電話は極めて少なく、電話のある個人の家というものは稀であった。だから役所も、会社も、機能停止状態になってしまうのだった。
その朝、私はまず、電車が遅れ、遅刻して、編集局長に怒鳴られるのをまず恐れた。ニューギニア、ガダルカナル戦線生き残りの元軍曹、山田の大きな顔が、眼先にチラついた。私はゴム長をはいて、ともかく家を出た。下宿は世田谷、小田急の経堂であった。経堂には、車庫があったせいだろうか、私が駅に着くと、新宿行きの臨時電車が出るところだった。やっと飛び乗ったが、雪のため電車は超のろのろ運転。新宿に着いた時は、約束の時間も迫っていた。
都電の停留所に駆けつけたが、これも間引き運転の、のろのろ電車だ。やっと三〇分ほど遅れて約束の場所についたが、山田も尾崎もカメラマンもいなかった。後で叱られるのはいいとして、これからどうするか。とにかく、小林邸に行ってみることにした。玄関は閑散としていた。ベルを押すと、玄関の大きな障子が開いて出てきたのは、写真だけで知っている一三氏の長男で、当時東宝社長の米三氏だったので、吃驚して声も出なかった。ご本人の白髪の一三氏が、後ろに立っている。立ち竦む私を招き入れながら、一三氏が
「実業之日本の人か」と聞く。「はい」と答えると、
「雪の中をよく来た、寒かったろう、さあ上がれ、あがれ」
と手を取って、部屋へ案内してくれた。山田も、尾崎も来ていなかったのだ。部屋の中では,赤々とスト-ブの火が燃えていた。
「約束の時間を遅れまして」
と頭を下げると、一三氏は真っ白な白髪の頭をあげて、じっと私を見つめた。鋭い目つきと定評のある瞳が、揺れ動いた。それは、清く正しく美しくという、言わば、歯の浮くような言葉を本気に自分のものとして、多くのスターたちを何十年かけて育て上げた男の、厳しさをあえて抑えた目の色だったのかも知れない。
それから何を話したか、仔細は、今は忘れた。しばらくして、とにかく他日、山田、尾崎と尋ねることにして、また玄関まで送られて、社に向かったと思う。
次に会ったのは、季節がやや緩んだ早春の一日、尾崎編集長と大阪郊外の池田の自宅を訪れた時であった。今その家は池田文庫になっているが、静謐で趣のある家だったが、普通の住宅とは変わりない大きさだった。その時も鬼の経営者が、温和な老爺となって、宝塚の生徒たちの自慢話をされた。自宅で作られた暖かい昼食をごちそうになりながら、「嫁を貰うなら絶対宝塚の娘がいいぞ、清く正しく美しくというのは、お題目ではない。私は本気に、そういう娘を育てているのだ、」というような話をされたように記憶する。
私は独身だったが、華やかな宝塚の少女歌劇の女性など雲の上の存在と考えたりしながら、その話を聞いていたように思う。
付け加えると、山田と尾崎は、小林に親しい経済人、文化人との連載対談の企画があり、そのた打ち合わせのために、小林を訪ねたわけであった。小林がすぐに承諾し、実現することになった。雑誌で連載され、それが「小林一三対談一二題」という本にまとまって、昭和三〇年実業之日本社から刊行された。

「阪急沿線」という文化

それはともあれ、「私の手塚」を書くことになった時、すぐに、思い出したのは、この時の小林一三の事であった。手塚と小林とは、私には、二つの面から考えて、大きな関係があったと思える。
第一は、手塚は、小林が作った世界、文化的環境の中で、生まれ、成人し、仕事をし、成果を上げたということである。
第二は、やろうと決意をして手を付けた仕事は独特のアイデアを生かして、何が何でもやり抜くという、仕事の仕方が、両者に共通している。二人とも、とても一人の仕事とは思えぬ巨大で、膨大な仕事をし遂げたが、その方法に共通項があるように思えてならないのである。
鶴見俊輔に倣うようであるが、あの一見優しい穏やかな白髪の小柄な老人が、知らずして手塚治虫という、世界に冠たる英才を作り上げたことになるのではないかと思う。

小林を敬愛し、『「わが小林一三」――清く正しく美しく――』という小説を書いた芥川賞作家、阪田寛夫は、同作品の中で、「人文的世界・阪急沿線」という概念を打ち出している。そしてそれを作ったのが、小林一三だというのである。阪急沿線地域について次のように書いている。
「阪急神戸線の西宮北口あたりから六甲山系沿いに神戸の東の入り口まで、また西宮北口まで戻って直角に同じ六甲山脈を今津線で東の起点宝塚の谷まで、そして宝塚から宝塚線で北摂の山沿いに大阪に向かって花屋敷から池田、豊中辺りまで、その線路より主として山側の、原野であった赤松林と花崗岩質の白い山肌、川筋に、まるで花壇や小公園や、時には箱庭をそのまま植え込んだような住宅街が、ある雰囲気を以って地表をしっとり蔽っていた。いまから四〇年前のことである。
すべて山の斜面に面しており、中でも西宮―神戸間は海から山へせり上がってゆく狭い傾斜地を、一番海に近い家並みに沿って阪神電車、すぐその上を阪神国道電鉄(今日の阪神電鉄)、もう一段上を官鉄(今日のJR)一番山手を阪急電車が並んで走っていたのだが、一番上の線路のなお上に大正以来造られた住宅街は、山際をかすめて、大阪神戸間を二五分で駆けぬけた小豆色で統一された電車の姿や機能と相俟って、長い長い立体的で緑色の休息地――これまでの日本にはなかった、宙に浮かんでいる匂いのいい世界を、この地上に形作ってきたように思われる。昭和でいえば十年代半ばごろまで、……おそらく日本国中どこにも、これほど自然と人工の粒のそろった美しい住宅街はない」(阪田寛夫 わが小林十三)
著者の阪田は、少年時代のある日のたそがれ時、赤松の香りにむせぶような、その街の一画に立って、感傷に身を包まれ、洋風赤屋根の家の瓦や壁が紫色に染まっていくのを眺める。谷間や丘の上の家々に灯がともり、その窓ガラスの内側には、どうしてもスリッパをはいた聡明そうな美しい少女が憂い顔をして、立つていると信じざるを得なくなるのであった。蔦や薔薇の絡みついた家々に住む人には高貴な精神が、息づいているような感覚に襲われるのであった。
そこに住む人は、彼の想像するところ、衣食を大阪より神戸の外人街に依存し、令嬢や令夫人たちは、そこで手練れの職人の手になる外套を着、パンやチーズはトーアロードのドイツ食品店で求める……そんな感傷的な空想にふける少年の耳朶に強く響くのは、その美麗な住宅街の坂下の駅舎の周囲に咲く桜の花を吹き飛ばして、突っ走る、海老茶色の鋼鉄製の特急電車が発する鋭い轟音であった。
梅田駅を発車する流線形でもなんでもない海老茶色の車両が、二本に一本は特急となり、どの特急も西宮北口で前の普通電車に追いつき、三宮まで二五分で走るのだから、実に実用的だが、夢を追う少年阪田には、物足りないくらいであった。
この素敵な電車と共に、宝塚があった。
阪田は次のように書く。
「昭和一五年まで少女歌劇と呼ばれていた宝塚レビューは、これまた大阪育ちの私などにとっては「阪急沿線」と分けることのできない一つの世界の別な呼び方のようなものであった。花崗岩質の六甲と北摂の山塊との境界を流れてきた武庫川が大阪平野へ出る場所にたしかに宝塚という明治生まれの温泉地があった。その対岸に箕面有馬電気軌動線(阪急の前身)が、明治末から大正の初めにかけて建設した『新温泉』の建物のなかで、女ばかりの『学校』が『歌劇』の余興を続けているうちに、主客が転倒して少女歌劇の方が有名になってしまったには違いないのだが、この美酒に一度でも酔った人にとっては、それは形の無い香しい雰囲気のようなものであった。
……西宮北口にプラットフォームに降り立つと、山から吹き渡る風の匂いがまるで違って爽やかだった。たちまち私たちは精神の平衡を失った。プラットフォームに袴をはいた若い女性がいたとすれば、誰もが宝塚の生徒かと疑われた。男役の人たちは短く髪を刈り上げ,七三に分けたり、オールバッグにしたのを、ポマードで押さえつけていたからすぐ分ったが、娘役は普通の女の人と区別はつかなかったというより、この電車に乗る女の人は、身も魂も美しいという信仰がこちらの胸に最初からあって、その象徴が宝塚の生徒なのであった」(前掲書)
この作家の「阪急沿線」に対するほれ込みようは、それこそ信仰と化しているようにさえ思える。なお著者は続ける。
「……今津線の宝塚線に乗り換えて、三つ目の下車駅に来ると、(中略)このレールの先の同じ平面に、宝塚という匂いのいい世界が実在することがほとんど信じられないほどであった。それでいて、駅を出て丸い白みがかった石でしっかり土手を固めた水の無い川に沿い、松の枝の間から、時々赤い屋根の見える住宅街や、高台の果樹園や、まだ家の建たない広い松林だのは、すなわち宝塚の舞台装置であり、もう始まっているオ―ケストラの音合わせの響きなのであった」(前掲書)

宝塚の、この赤い屋根の住宅街に、手塚治虫が育った家があった。
だから、手塚は「阪急沿線文化」によって純粋培養された人間と言えるのだ。
先の阪田の表現を借りると、赤松林に四季だけがめぐってきた場所、ある日美しい住宅が生まれ、最初の種まき人である小林一三の意図を超え、おのずから美女の顔立ちをした住宅が育っていった。そこに住みついたのは妖精でも天女でもなく、具体的には大阪や神戸に仕事場を持つ人たちがその家族であった。その阪急沿線に生れた住宅街の住み手は、宝塚方面は部長、課長クラスであったという。
文学者らしい美化した表現であるが、この町は日本の資本主義社会が生んだ市民社会の人々の住み家であった。
東京にも田園調布や成城学園とか、近代的な住宅地が、昭和年代にできたが、これらは東急系電鉄を作り上げた五島慶太に招聘された小林一三の指導の下に出来たか、その真似であった。近代的な住宅地は、最初は小林一三が、阪急沿線に創造したものである。

手塚家の系譜

手塚治虫が五歳の年、住友金属の社員だった父の手塚粲(ゆたか)は、西宮から宝塚に引越した。大阪で、住友の社員と言えば、それだけでエリートであった。東京で三井、三菱の社員というのとはちょっと違ったニュアンスがあったようである。これは私が財界記者の頃、住友系の人と交わり会得した感覚である。
治虫の祖父太郎は、関西大学創立者の一人で、長崎控訴院長を務めた法律家であった。治虫の曽祖父は緒方洪庵の適塾出身の伊達藩藩医だったという名門の家柄、新しき阪急住宅に住むにふさわしい系譜であった。
だから手塚は、典型的な阪急沿線文化の先端的担い手の家に育ったわけで、そういう自己の育ちに、内心、強い矜恃をもっていたに違いがない。
手塚は、池田の池田師範付属小学校(現大阪教育大学付属小学校)というエリートの子弟がゆく小学校に通い、大阪の秀才校No1と言われた、府立北野中学に進学、さらに浪速高校を経て、大阪大学付属医学専門部を卒業するという秀才の道を進んでいった。

漫画家には、こういう育ちの人は殆どいない。地方の漫画好きの少年が、志を抱いて、上京して、苦労しながら画を出版社に持ち込みをやりながら、次第に認められて、世に出るといった、立志伝型の作家が多い。
例えば、加藤芳郎は、都庁の給仕をしながら、漫画を描きたくてたまらず、川端画学校の夜間部に通い、アサヒグラフその他の雑誌の投稿欄に投稿するということから、漫画家への歩みを始めた。その川端画学校で、やはり漫画を投稿していた小島功と知り合い、お互い切磋琢磨しあうという仲になった。
小島は尾久の洋服屋の長男に生まれ、当然親の跡を継がなければならないのを、何とか親を説得して、漫画の投稿をしていた。
もっと若手の、秋竜山は伊豆の漁師の息子、漁師をやりながら、漁村の若者宿から、漫画の投稿することから始まった。
サトウサンペイや杉浦幸雄など裕福な育ちの人もいたが、それなりに、世に出るまで衣食には苦労した。
少年漫画でいえば、藤子不二雄の二人、安孫子素雄、藤本弘二人は、富山県から、上京し、今日有名になったトキワ荘に住みつき、漫画家を目指した。そのトキワ荘に、満州引揚者の赤塚不二夫、岩手から上京した石森章太郎、寺田ヒロオなどなどが住みつき、それぞれの道を開いて行ったことは今更、言うまでもないことだ。

手塚は漫画家となり、日本一の稼ぎ頭となっても、以上述べた阪急沿線住宅地の人の住人生活を崩さす、むしろそれをよりどころとしていたといえる。
手塚は、多くの連載漫画を抱え、多忙過ぎて、締め切りにおくれがちな手塚の行動に、つねに多くの編集者の目が光っていたことは前に縷々述べた通だが、手塚は「逃げの名人」と言われ、編集者の目を逃れ、消えていなくなることがままあった。マスコミのパーティーなどで手塚の周囲には編集者がたむろし、或いは監視の目を光らしていた。にも拘らず行方不明となるのだ。
先に紹介した石津嵐は、よく手塚がパーティーに出るとき、きっと抜け出てくるから、どこそこで待っていてくれ、二人だけでゆっくり、一杯やろうと言われた。そして必ず監視の目を逃れて約束の場所に現れた。
「どうやって、抜け出てくるのか分らないけど必ずやってきた」
と石津は語るが、そうして苦労して出てきて、大酒を食らい、女の子の尻でもさすって騒ぐといったことをするかと思いきや、手塚のすることは、
「たいしたことはないのさ、例えばバーの『数寄屋橋』の皮の禿げたような粗末なソファーに座ってさ、ウィスキーを一,二杯、舐めるくらいのことで帰ってしまう。酔っぱらったり、騒いだりしたことは一度もない。あれで息抜きになったんだろうか」
と石津はいう。寝る間もない忙しい手塚にとって、たとえ十分でも自由な時間が持てればよかったのだろうか。私が思うに、手塚の観念でいえば、それで銀座で飲んだくれた事になるのだろう。手塚の書いたものを見ると、よくそんな表現をしている。その実態は以上のようなものだったと思う。

彼の本当の休息とか慰藉は、やはり阪急沿線の紳士としてのそれであらねばならなかったのだ。それは赤い屋根の住宅の中、綺麗に片づけられた美しい部屋で、家族と団欒することにあった。すなわち小林十三が期せずにつくった阪急沿線の文化の中に浸ることが、最大のリクリエーションだったのである。今その家庭の一場面を紹介しよう。
手塚の妻悦子が書いた『手塚治虫の知られざる天才人生』(講談社文庫)という本の後書きを子供達が書いている。娘、千以子の文章に次の一節がある。
「父と母はとても仲の良い夫婦でした。居間で私がテレビを見ていると、その横で父が母の膝枕で耳掃除をしてもらっていたり、あるいはこたつの中で足の引っぱりあいをしていたり。また、テレビからワルツが流れてくると、父は母を誘って立ち上がり、ダンスを始めます。二人とも恋人同士のようにはしゃいでいるのを見ると
『とてもお見合いで結婚した夫婦に見えないぞ』と感じます。いつか結婚したら、自分もこんな夫婦になりたいなぁと、あこがれていました」
そうして、なにかのお祝いでもあると、手塚はバイオリンを弾き、ピアノを叩き、家族で合唱する……。
手塚の精神の慰藉、そして肉体の慰安はここにあったのだ。
しかも手塚は、この家庭内でも、子供たちを一個の独立した人間として扱い、上から親の権威を使って言うことをきかしたり、過剰な甘えをさせることはなかったと、長男真が講演の中で、語っていたのを思い出す。
手塚は、阪急沿線の紳士としての、典型を演じ、その中に、紳士としての威厳、自負、をもって生きていたのだ。

宝塚と共に育つ

宝塚の手塚家の住まいは歌劇長屋と通称された地域にあった。そこには宝塚歌劇のスターたちが住んでいたからだ。隣に天津乙女、雲野佳代子の姉妹が住み、母親が熱心な宝塚フアンであったため、この二人に可愛がられたことは既に述べた。治虫は、舌がまわらない頃、「歌劇ねえちゃん」と呼ぶところを「タヌキねえちゃん」と呼んで笑われたものだという。
つまり、三,四歳のころから、毎月のように母親に連れられて、宝塚大劇場に行った。
長じてからも、手塚は宝塚を日常的に観ていたようだ。
講談社の漫画全集281 新宝島 に「ぼくのデビュー日記」と称して、大阪大学医専の学生だった昭和二一,二年の日記が併載されているが、それを読むとその一八,九歳の頃、宝塚大劇上に、よく見物に行ったことが、わかる。
例えば昭和二一年六月八日に「ヅカへ行った。割合良い席であったが、歌劇はあまり良くなかった」
とあり、六月二七日には「朝五時から新温泉の行列に立たされて、友達の義理と言いながら……」とあり、著者の注がついている。それには、当時宝塚劇場はよい席をとるため早朝から入り口に行列する。私は宝塚に住むものだからその役を仰せつかったとある。
また「母、美奈子(妹)と歌劇に行く」という文字も散見される。
またその頃すでに宝塚歌劇の機関誌、ファン雑誌「歌劇」「宝塚グラフ」などに、漫画を連載していたのだから驚く。
前述の日記に、その件についての記述が散見される。
昭和二二年三月二九日「本日、「歌劇」発売、小生の漫画が綺麗に出ていた。
五月一一日「一日中宝塚グラフの原稿」
五月一五日「歌劇事務所に拠ったら先日の漫画が気に入られたそうである」
このような記述が、随所にある。ということは、幼児の頃から成人するまで、宝塚歌劇にどっぷりつかり、そこから栄養を吸収してきたということであろう。それが漫画を描くようになって、文字どおり、鶴見俊輔の言う「想像力」の背景に成ったことは確かである。

宝塚の歌劇というものは、歌劇とは言いながら、全く西洋の「オペラ」とは別物で、全くの宝塚、小林一三の創造物である。
そのストーリーは、日本で言ったら、神話から、源氏物語から、中世、江戸時代をへて、近代文学に到るまで、最近では「ベルサイユのばら」のよう舞台で、西欧の楽器による音楽にのせて演技者が、歌とセリフにのせて、ものがたりを進展させてゆく。しかもその演技者は、しっかりと訓練された若い女性ばかり、男性役も老人役も若い女性が演ずるという歌舞伎と正反対の役作りで、演じられる。
勿論欧米の原作についても日本のそれとと同様、あらゆる舞台芸術、文芸作品からも、それも古典から現代作品までを、材料として、脚本をつくっていった。
これらのことは、長い年月をかけて、小林一三が、若いころ文学を志したという文才を生かし、自ら率先脚本を書き、後進の専門家を導いて創り出したものである。
しかも、レビューという、舞踊、歌謡による絢爛たる、舞台芸術を作り出し、興行のフィナーレを飾るという方式まで、独創したのである。
筆者は、この本書の原稿執筆中、たまたま初演時の「ベルサイユのばら」のマリー・アントワネット役を演じられた、宝塚月組のプリマドンナだった、初風諄さんに知己を得たのを幸い、宝塚東京公演の二,三をご一緒させていただいた。初風さんのお陰で、その組のトップスターに会うこともできた。
そこで最初に感じたのは、男性の観客が思ったより多いということだった。勿論若い女性が圧倒的に多いには違いないが、男性が真剣に観劇していることにあらためて驚かされた。
そこで私は、日本の昨今の舞台芸術を考えると、リードしている集団は三つだと思えたのであった。一つは歌舞伎、一つは宝塚歌劇、一つは劇団四季のミュージカルではないか。その是非はともかく、宝塚は日本の最強の舞台芸術であることは確かだろう。
歌劇の舞台の面白さもさることながら、レビューの絢爛たる美しさも大変なものがある。
主役のスターが、舞台いっぱいに広がった階段を下りてくる華やかさ、そのスターが背負う羽飾りの大きさは尋常なものではない。
「あれは二〇キロもあるのです」
と、初風さんは言った。
この絢爛たる存在が、肥料となり、栄養となり、手塚のあの芳醇な漫画を生んでいったのだろう。
春日野八千代、越路吹雪、久慈あさみ、有馬稲子、淡島千景、月丘夢路、乙羽信子、轟夕起子、霧立のぼる、小夜福子、宮城千賀子、葦原邦子、寿美花代と、思い出すまま名前を並べただけでも、凄い顔ぶれだ。この人たちの舞台を、手塚は見つめたのだ。無数の彼女たちが作る舞台が、漫画を生む土壌とならぬはずはない。

手塚は、描きたい。描くことはいくらでもある。頼むから、仕事をさせてくれ。
手塚はそういって、あの虫プロが倒産し、何億の借金を背負いながら、あたかもなにごともなかったように、描き続け、漫画界第一人者の地位を微動だにも、させなかった。
昭和六年、発展途上にあった、宝塚大劇が火事になった。これで下手をすれば、せっかくファンを集めてきた、宝塚少女歌劇が、消えてなくなるピンチに立った。小林社長も焼けるおちる大劇を見つめていた。
だが箕面有馬電軌以来、阪急電鉄の急行化、住宅地の開発、少女歌劇と幾多の難関を乗り越えてきた小林は、わずか五二日間で、大劇場を再建させ、何事もなかったように、旧の如く少女歌劇を続けて行った。
或いは、戦後最大のストライキによって、目茶目茶になった東宝映画を、社長に復帰するや、たちまち復旧させ、何事もなかったように、旧に倍して繁栄をさせていった小林一三、その姿と、日本最初のテレビアニメ、アニメ映画を作った虫プロが無残な姿で倒産したにもかかわらず、借金取りが押し寄せる中で、平然と漫画を描き続け、ことが落着した後、何事もなかったように、一層漫画界における権威を増していった手塚と、その精神の強靭さにおいて通底、共通するものがあるように思えてならない。
それは手塚が、宝塚から学んだ、漫画のアイデアの出し方を持っていたこと、その腹の底には、あの美しい、阪急沿線の住宅地で培われた、端正で、力強い紳士の精神を持ち続けたことに拠ると私は確信する。

あと読みじゃんけん (15)    渡海 壮 日本の探検家たち

  • 2016年10月27日 10:51

この連載10回目に角幡唯介の『探検家36歳の憂鬱』(文藝春秋)を取り上げたが、もう一冊、探検記マニアの私の蔵書から滋賀県の「西堀榮三郎記念 探検の殿堂」が創館記念に発刊した『日本の探検家たち―未知への挑戦』を紹介しよう。そもそも探検とは、探検家とは、を国立民族学博物館の初代館長で企画の選考委員長をつとめた梅棹忠夫が「明快な基準」で選んでいるのが興味深いと思っていただけるのではないかと考えるからでもある。書店に並ぶ一般書とは違い美術展や博物館の図録のように館内だけで販売されていたのだろうが図録のように写真ではなく選ばれた49人の探検家のそれぞれが肖像画で紹介されているから「画集」といえるかもしれない。なぜか東京・早稲田の古書店で見つけたのは、実際に見学に行った旧蔵者が手放したのを当時、自宅のある滋賀を離れて東京に単身赴任していた私がたまたま見つけたというだけのことだろうが、本への興味はともかく「この本がわざわざ滋賀から・・・」と一瞬の<里ごころ>をかき立てられたのかもしれない。

『日本の探検家たち―未知への挑戦』

『日本の探検家たち―未知への挑戦』

西堀榮三郎(1903―1989)は、京都市出身。南極観測隊の第一次越冬隊長や日本初の8千メートル峰挑戦となったマナスル遠征ではネパール政府との困難な交渉役を担った。旧制三高、京都大学時代にはのちにいずれも文化勲章を受けるフランス文学者の桑原武夫や生態学の今西錦司らと日本アルプス登山で活躍、京都大学学士山学会を創設して朝鮮半島北部の白頭山(ペクトウサン)に遠征するなど海外における学術的登山の先鞭をつけた。いまも登山愛好者に広く愛唱されている『雪山讃歌』の作詞者でもある。「南極大陸犬橇横断」を生涯の夢としながら厳冬のアラスカ・マッキンレー峰登頂後に行方不明になった植村直己(1941―1984)に六分儀などの天測器具の使い方を教えるなど有力な支援者の一人だった。研究者としても独創力に富み、戦後日本での製品品質管理などの分野でのパイオニアとしてデミング賞などを受賞した。「西堀語録」のいくつかを紹介すると「石橋を叩けば渡れない」、「百の論より一つの証拠」、「人生は実験なり」などがある。人呼んで<八ヶ岳>、さまざまな分野で活躍し、取り巻く人たちを元気にさせたことでも知られる。

松尾敏男画「西堀先生像」

松尾敏男画「西堀先生像」

「西堀榮三郎記念 探検の殿堂」は平成6年(1994)8月、滋賀県愛知郡湖東町(現・東近江市)にオープンした。西堀家は代々この地で続いた近江商人だった。メイン施設はマイナス25℃を体験できる「南極体験ゾーン」が売り物で、冷蔵設備の老朽化から6年前に休止するまでのべ42万人超が訪れた。南極・昭和基地とのテレビ会議など多くのイベントを行ったが、現在は西堀の活躍や交友を紹介する記念室や著名探検家の業績や探検精神を伝えるコーナーがあり地域の文化施設として活用されている。

「日本の探検家たち49人」を選定するにあたり委員長の梅棹は吉良龍夫・滋賀県琵琶湖研究所長、本多勝一・元朝日新聞編集委員ら4人の委員をまず選んだ。いずれも探検・登山の猛者で西堀とは深い交流があった。選考の前提として「ここでいう探検とは、未知の地域に分け入って、新しい発見をもたらす行為のことである」を明確にした。

未知の地域とは、厳密にいえば、いわゆる人跡未踏の地であるが、多くの探検はすでに人が住んでいる地域で行われた。地理的には知られた土地であっても、その地域の民族、動植物、地質などが十分調査されていない場合、そこに赴き、これらを学術的に明らかにすることも探検ということができるのである。未知を明らかにすることであれば、実験室で未知なる現象を探求することや、技術的に新分野を開発することも探検に類する行為かもしれないが、ここでは現地に赴いて調べる行為に限って「探検」と呼ぶ。

登山における初登頂やヴァリエーション・ルートの開拓は未知の領域へ踏み込んだものとして探検に準ずる行為であるが目的が純粋に登山である場合は除外した。

さらに危険そのものを求める冒険的行為とは一線を画し、近世以降の人物に絞り、存命中の人物は70歳以上という制限を設けた。探検家の資格としては、明確な意図をもち、みずから探検に参加し、または組織した人であること。これは漂流の末、たまたまその地域に漂着したとか、戦争などでその地域に足を踏み入れたなどなどの偶発的なものでないことを意味する。一方で、みずから探検隊に参加することはなかったが内外の探検の記録や未知なる地域に関する文献を収集、研究し、それらをもとに探検に関する著書を発表して多くの人たちを鼓舞し、探検家の要請に貢献した人の功績を顕彰するために、例外的に「探検の研究家」として加えることにした。

探検家は探検した地域について報告を行う義務がある。いくら未開の地域に分け入ったとしても、報告がなければ、何をしたのかを知るすべがない。ただし、ここにいう報告とは、必ずしも報告書という体裁をとったものでなくともよい。日記、写真、地図、紀行文など、どのような形でも良いわけであるが、知的に考察されたもので、人類の知識の蓄積に加えられるべき質の高さを持つものでなくてはならないとした。

前置きはいいから早く紹介しろ!と言われそうなので「日本とその周辺」で、まずは江戸中期小笠原諸島の探検で知られる嶋谷市左衛門(しまや・いちざえもん、生年不明―1690)から。1675年、江戸幕府が編成した探検調査隊長として小笠原諸島の調査に向かった。八丈島を経て20日後にめざす無人島を発見、島の地図を作成し、それぞれに名前を付けるとともに植物、鳥類、魚類などについても調査し、種々の標本を持ち帰った。また、神社を建て、日本の領土であることを示す柱も立てている。幕末になってアメリカやイギリスとその領有権が問題になった時にこの調査記録が日本側の大きな根拠となった。

千島列島探検の最上徳内(1755―1836)、択捉島探検の近藤重蔵(1771―1829)、国後から択捉への海路を開いた高田屋嘉平(1769―1827)、樺太=サハリンの北端を明らかにした松田伝十郎(1769―1843)、間宮海峡の確認で知られる間宮林蔵(1775―1844)、最初の実測地図を作製した伊能忠敬(1745―1818)、北海道探検とアイヌ民族抑圧を報告した松浦武四郎(1818―1888)と続く。当然ながら西堀は「極地」で、日本初の南極探検を成し遂げた白瀬矗(しらせ・のぶ、1861―1946)に続いて紹介されている。3人目がグリーンランド犬橇縦断の植村直己である。肖像画を担当した五十嵐晴徳は「どこかで生存していてほしいと思う心や、同行した犬たちの気持ちを描写できたらと制作した」と語っている。

五十嵐晴徳画「植村直己氏像」

五十嵐晴徳画「植村直己氏像」

漂流・漂着を経験した人物でも「冒険家を自覚した日本人」として唯一、ジョン万次郎(1827―1898)が選ばれている。どんな人物かはよくご存じだろうから小山硬(おやま・かたし)が担当した絵の方を紹介する。小山は高知県にあるジョン万次郎の記念館を訪れたとき、鮮烈に印象付けられたのが革靴をはいた姿だったという。後年、遣米大使の通訳としてさっそうとアメリカへ渡る姿を描いてみたという。私が抱いていたのよりも「美白の美青年」の印象であります。

小山硬画「ジョン万次郎像」

小山硬画「ジョン万次郎像」

委嘱を受けたのは日本画壇を代表する松尾のような大家から新進気鋭の若手までさまざまだったが、それぞれが「自分の探検家像」を模索して苦しみながら、あるいは楽しみながら思いを込めて描いた秀作・力作ぞろいである。写真なら見慣れていても肖像画、しかも構成自在な日本画となると自由な発想がこちらの想像を刺激してやまない。そこが企画としても画期的で面白いところではあるまいか。

「探検の研究家」では極地探検の先導と研究で知られる加納一郎(1898―1977)とヒマラヤ・中央アジアの研究者である深田久弥(1903―1971)が選ばれている。加納は北海道大学在学中にスキー部を創設し、冬季の大雪山に初登頂。山の雑誌『山とスキー』、『ケルン』を創刊、今西錦司らと日本初の探検専門誌『探検』を創刊するなど探検の精神的・理論的指導者として今日の日本を代表する多くの探検家に大きな影響を与えた。深田は作家、登山家で『中央アジア探検史』、『ヒマラヤの高峰』、『日本百名山』など数多くの山岳紀行や旅行記を執筆した。55歳のときにネパールのジュガール・ヒマール踏査隊を組織し、隊長として参加した。それまでの登山隊と違い、大学や日本山岳会のような大きな組織を背景とせず、現在のトレッキング(軽登山)のさきがけで個人的にヒマラヤに出かけた最初の試みとされる。蒐集した内外の膨大な文献や地図などの資料は国立国会図書館に収蔵されている。

ところで選ばれた49人というのは率直に言わせてもらえば「中途半端な人数」である。梅棹は選んだ49人について「この数は今後も増加してゆくであろうがその人選は将来の選考委員にまかせるほかない」と結んでいるが少なくとも「50人目」は間違いなく梅棹であろう。その資格は十分にある。ジグソーパズルに例えれば、梅棹が「日本の探検家たち」として選んだピースは50ちょうどあり、最後のピース(=梅棹)がぴたりとはまれば、まさに<思い通りの完成をみた>のではなかろうか。そう思えてならない。

書斎の漂着本 (92) 蚤野久蔵 日米會話必携

  • 2016年10月19日 08:49

敗戦直後の混乱の中で文字通り<飛ぶように売れた本>は占領軍兵士たちとの「会話手引書」だった。旺文社の『日米會話必携』もそのなかの一冊である。こちらは父の所蔵していた改訂版で、昭和20年に発刊したのを25年10月に「普及版」として出版している。

 『日米會話必携』(旺文社刊)

『日米會話必携』(旺文社刊)

陸軍士官学校を出た父は職業軍人として旧満州から南方=トラック島守備隊に転属となったが幸いにして大きな戦闘に巻き込まれることなく無事、妻の実家のある広島に復員した。ところが公職追放で公務員などにはなれず、原爆で焼け野原となった広島での需要を見込んだ材木屋の仕事にようやくありついた。たしか「M木材」という名前の零細会社で、中国山地のあちこちへ出掛け、仕入れた丸太をトラックに積み込んで広島市内に運び、製材、乾燥して販売していた。戦前は大本営や帝国議会が臨時に移されるなど「軍都」として大きく発展した広島の復興は、他都市に比べ遅く、バラックなども含め需要が一巡したのと仕入れ価格の急上昇などで会社は資金繰りに苦労し廃業に追い込まれたと聞いている。

山口県岩国市の旧日本海軍の航空基地跡に在日米軍の岩国基地が設置された影響もあり、広島市を訪れるアメリカ兵の姿も多かったが、父が彼ら相手の商売を始めるとか通訳などに転じる気もなかっただろうから、この本を購入したのは、単に「流行に乗り遅れまいとしただけ」だったのではなかろうか。というのも本全体には経年変化による相応の日焼けや色褪せなどはあるものの繰り返してページをめくったような<使用感>は見られない。いくつか残る赤鉛筆による下線も

どう致しまして、少しでもお役に立って嬉しいです→Not at all.  I am only too glad to have been of some help (or service) to you.

私の言うことがお解りですか→Do you get me now? (米語)

聞きとれますか→Can you follow me?

憲兵→M.P(Military police)

米兵→G.I(Government Issue)

など十数カ所に引かれているだけで、会話に役立ったとは思えない。もっともいまふうのブロークンな会話にはこんな表現は使わないよ、というご意見もあるだろうが、そこはご寛容に願いたい。とどのつまりは長く本棚の奥に眠っていたわけである。

あらためて詳細にみると「普及版」とあるから表紙カバーはなかったか。全264ページで定価100円、下に見慣れない「地方定価105円迄」とあるから、北海道や九州など東京からの送料のかさむ地域は105円のところもあったのだろうか。著者はJ.A.サージェント、J.B.ハリス、須藤兼吉の3名で、人名事典などで調べたところサージェントはイギリス・ランカスター出身でケンブリッジ大学を卒業後、広島の江田島海軍兵学校の英語講師として来日していた人物。ハリスは日本名を平柳秀夫といい兵庫県・神戸出身で新聞記者だったイギリス人の父と日本人の母との間に生まれた。横浜で関東大震災に遭い、父の転勤に伴いアメリカ・ハリウッドで少年時代を送ったが父の死で横浜に戻り、英字紙の給仕から苦労して記者に昇進した。太平洋戦争が始まると外国人収容所に一時拘束されたものの、釈放後は日本人として徴兵されて戦地に行った。もうひとりの須藤は東京商船学校の教授で海洋文学に造詣が深く、詩人でもあった。戦後は旺文社の顧問をつとめ、昭和24年に新制大学となった玉川大学で初代の英米文学科教授に就任した。英語・英文学の権威で専門は古代ウエイルズの封建制度というから米語より英語に明るかったのではなかろうか。

余談ながらハリスはすべての出版物の著者名を「J.B.ハリス」で通している。昭和61年に同じ旺文社から『ぼくは日本兵だった』という自叙伝を出版しているが、訳者がいることからすると著作はすべて英語だったか。著者は創業者で社主の赤尾好夫。昭和6年に欧文社の名前で創業したが「欧」の字を軍部から敵性語とみなされて旺文社に改名させられたエピソードは有名である。私も高校時代に購読していた『螢雪時代』や、ポケットサイズで「赤尾の豆単」と呼ばれた『英語基本単語集』にお世話になったからなつかしい。

当時の旺文社の雰囲気が伝わる奥付の「讀者へ」を紹介しておこう。

出版事業の使命は文化の向上と普及にあります。新しい文化国家建設についての出版の重要性を認識する吾々は、此の社の微力をあげて、良き本の刊行に努力します。尤もらしい言論出版が自由の名の下に横行しています。何人も言う事は易くして行うことは難い。敢て吾々は言う事を少なくして真価を讀者の批判に俟(ま)ちます。道義というものを諸賢が高く評価されることを信じ、かかる観点に立っての審判こそ吾々は絶対視します。人、社各々主張があり主義があり方針があります。吾々は一切の小手先の手段を排し、ひたむきに真価あるものの提供に此の社の総力を結集しその命運を賭します。真価を御認めの上は切に御支援御鞭撻を懇請する次第であります。

まさに<赤尾節>であり、「教育産業の雄」をめざしたその心意気が伝わる。

「讀者へ」は他の出版物にもそのままの文章で使われただろうが「尤もらしい言論出版が自由の名の下に横行しています」というのは、同じようなことが日米会話本のジャンルでも、ということだろう。<戦後出版界の神話>とまでいわれる昭和20年発行開始の誠文堂新光社の『日米會話手帖』は昭和56年に黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』が出現するまで総発行数360万部という未曽有の記録を作り「戦後最大のベストセラー」といわれた。創業社長の小川菊松が旅行先で「天皇陛下の重大発表」を聞いて終戦を知り、東京へ帰る列車の中で出版を思いついたとされる。会社に戻るとさっそく社員に命じて作らせた日本語の例文を東大の大学院生にわずか3日の徹夜作業で英訳させたという。32ページの小冊子にもかかわらず、軍関係の印刷を引き受けて大量の用紙在庫があり東京大空襲でも焼け残った大日本印刷に持ち込んだのが功を奏した。

ちなみにいつも使っている古書ネット「日本の古本屋」を検索すると発行年を昭和20年から22年までに絞ってもあるわあるわ。『ポケット米日会話』(愛育社)、『ハンドブック日米会話』(朝日新聞社)、『日米会話の手引』(松陽書房)、『誰ニモスグ役立ツ速成日米会話』(金園社)、『英語略語辞典』(産業図書)、『自習英語の学び方』(荻原星文館)・・・某古書店が出品している『新版日米會話手引』(新生相互研究所)の商品説明には「B5判、二つ折り、少シミ、少インクシミ、ツカレ有、表紙には「進駐軍兵士トノ接触ハ円滑ニ!コノ表サヘアレバ誰デモ兵士ト簡単ニ話ガ出来ル」とある。加えて「四分の一サイズに折り畳まれた跡が見られるため旧蔵者は進駐軍兵士との接触に備え、本品をポケットに忍ばせていたのだろうか」とこれまた懇切丁寧な解説までついている。こういった本の性格上、傷んだり、用済み後はそのまま捨てられただろうから古書としてはほとんど残っていないようで価格はいまや5千円超となかなかの<貴重品>ではありました。