そして名古屋の子どもたち 校條 剛
元・新潮社
今回は、私の幼少期の思い出を書いてほしいというリクエストです。
私は小学校を五回変わっています。東京杉並区沓掛小学校に入学し、卒業したのもやはり杉並区の桃井第二小学校ですが、その間、兵庫県尼崎市の園和小学校、同じく神戸市の高羽小学校、さらに愛知県名古屋市の東山小学校と転校しています。
サンドイッチに譬えると初めと終わりのパンの部分は東京ですが、具の部分は関西・中部地方であったわけです。父親の転勤に素直に従っていたら、京都と豊橋が加わっていたのですが、中学校からは東京の荻窪近辺から離れませんでした。
入学したときの一年生のときのことで覚えているのは、岡(実名)というまだ若い男性教諭が四六時中怒鳴っていて、飛び出た眼球の白目の部分を赤く充血させている顔ばかりです。我々は「団塊」の最後っ屁を飾る世代ですから、児童数は一クラス優に五十人を超えていました。教師も児童一人一人の事情なんかには手が回らなかったのでしょうが、それでもね。小学校生活の出だしは最悪。
児童数の多さはどの学校に変わっても弊害でしかありませんでした。二年生から転校した尼崎の小学校では、二部授業といって、午前と午後でクラスが入れ替わりました。同じ机を二人で共有するわけです。午前中登校して、午後は帰宅する、あるいはその逆もあったかもしれません。給食はもちろんありませんでした。
尼崎には数ヶ月しか居らず、すぐに神戸市灘区の省線(国鉄?)六甲道駅の近くに転居しました。六甲山の麓にある高羽(たかは)小学校には、越境して入学していました。本来の学区では六甲小学校なのですが、母親は成績のいい優良校に子どもたちを入れたがりました。当時は、学区内の知り合いに頼んで「寄留」という行為が当たり前に行なわれていて、その家の住所だけを借りて申告するのです。
高羽小学校は、神戸市内でも最高ランクの公立小学校だったので、定期券を首に提げて、省線や阪急で通ってくる同級生がたくさんいました。まだ偏差値の高い私立校など存在しない時代で、最終的には東大や京大に通じる公立ルートを確保しようと教育熱心な家庭では一所懸命だったのです。
しかし、この小学校にもいい思い出は少ないです。比較的豊かな家の子どもが多いといっても、やはりさまざまな地域からやってきています。神戸は山口組の発祥の土地ですから、「ガラの悪さ」では、大阪か神戸かというくらい天下無双の地方です。チンピラまがいの子どももいて、何の理由もなく「しばくぞ」と、ポケットのなかから肥後守という折り畳みのナイフを出して脅しを掛けてきたりします。どこそこで、不良が待ち伏せをしているぞという情報が入ると、遠回りして別の道で帰宅したりしました。
学校給食がありましたが、その不味いこと、不味いこと。いまでも思い出すのは、豆腐とゴボウの煮物です。しかも、それをコッペパンのお菜として食べろというのです。残した給食は自分で持って帰るのがきまりでしたから、給食袋には食器からはみ出した残飯の臭いとともに醤油の色で染まっていました。神戸を美食の街と思っている人には意外な話でしょうが、庶民の実情はそんなものでした。
給食の話題続きで、小学校五年の一学期だけ住んだ名古屋に飛びましょう。今日の話のエッセンスはこの土地にあります。
私が住んだのは千種区唐山町というところで、まだ地下鉄は出来ておらず、市電の駅がすぐ傍にありました。唐山町から二駅目くらいが、有名な東山動物園駅です。つまり、東山動植物園のすぐ近くに転居したのです。
現在のこの場所は名古屋市の中心部といっていいほどレヴェルの高い住宅地ですが、昭和三十五年当時は、神戸よりもはるかに田舎っぽい地域でした。学校の近くの池で、アメリカザリガニを吊ったり、田んぼの用水でぶっといドジョウを捕まえたり。名古屋大学のキャンパスも近かった記憶があります。そのキャンパスに付属する池を周遊する銀ヤンマのツガイを捕虫網でとったりもしました。
給食の話の続きをしなければなりませんね。実はこの名古屋市立東山小学校は、全国給食コンクール(ってものがあったそうです)で、三位という栄冠を勝ち取った有名校だったのです。確かに、この学校の給食はそのあと体験した東京の小学校のかなり上を行っていました。大げさに言えば、この学校のポテトサラダの味がまだ舌に残っていると言っていいほど美味しかったのです。念のため、当時は現在のような集中給食センターなるものはなく、すべて自校でつくっていました。
突然ですが、仁丹ガムをご存じでしょうか。正式な名称は知りませんが、その時代、板ガムのおまけにプロ野球選手のカードが一枚入っていたのです。選手の上半身写真入りの板ガムと同じ形をしたカードで、チームごとにカラーが違っていました。タイガースはオレンジ、ジャイアンツは薄緑という具合に。このカードほしさに仁丹ガムを買うという少年たちも多かったことでしょう。
私は野球ファンではなく、相撲のほうに興味があり、若乃花びいきでしたが、やはり野球のこととなると長嶋茂雄選手は特別の存在でした。まだプロ入り三年目でしたが、すでに少年たちのあいだでも最高の人気を保っていたのです。
仁丹ガムでは、タイガースの安達とか、地味な選手ばかりを引いていた私でしたが、ある日、なんということでしょう、長嶋選手のカードを手にしたのです。さっそく見せびらかしていたのですが、同級生の今枝(実名)というヤツに取られてしまいました。
今枝は決して粗暴な不良ではなく、ある意味いい奴なのですが、何分、話すことの半分はウソというような虚言男だったので、クラスの「正義の少年」たちからは阻害されていました。
転校してきたばかりの気の弱そうな私からことの経緯を聞いた「正義漢」たちは今枝を追い詰めて、私の長嶋カードを取り返してくれました。
名古屋のカッコいい少年たち! 東京でも神戸でも少年の髪はぼっちゃん刈りが当たり前だったのに、この土地では正義のダンディーたちは、横分けをしていました。
彼らは、それぞれが極めて個性的でした。男児は男気があって、弱者をかばい、美男が多く、女児たちは気品と優しさと芯の強さを示し、しかも美人揃いでした。
名古屋畏るべし。
東京に戻ることになったとき、周囲からは「東京の学校はたいへんだよ」と脅かされていました。なにしろ、日本の首都なのですから、全国でも最高レヴェルの子どもたちが集まっているのだからと。
しかし、東京に転校した時に、その心配が的外れであったことを知りました。東京の子どもたちは、あまりに「角」がなかったのです。あまりに個性がなかったのです。
これ以上、言い募ると差し障りがありますので、東京の子どもたちについては、このくらいに。
名古屋の同級生たちのなかで、名前を覚えているのは三人だけ。今枝はともかく、あとの二人、えくぼの可愛かった河合君! 親友だった近藤君! 顔は覚えてますが、名前を忘れたその他のみんな、どうしていますか? 元気でやっているよね? 僕のほうもなんとか元気でやっています。
子どものころのオリンピック 齋藤俊夫
元・電通
私が初めてオリンピックに出会ったのは、メルボルンオリンピックの時で、その時小学校3年生であった。その前はヘルシンキであるが、五歳なのでほとんど覚えていない。メルボルン五輪ではラジオ放送があり、水泳の中継をよく憶えている。特に一五〇〇メートル自由形で山中選手とオーストラリアの選手が競り合っていたのが耳に残っている。山中選手は惜しくも銀メダルだった。二〇〇メートル平泳ぎで古川選手が金メダルを取ったが、二〇〇メートルはあっという間に終わってしまうので、印象に残ってない。この大会で日本は4個
金メダルを取った。古川選手の他に、体操鉄棒で小野選手、レスリングの笹原、
池田両選手である。水泳、体操、レスリングが日本のお家芸といわれるようになった。
次のローマオリンピックでは、テレビ放送で見ることができるようになった。
このように回を重ねる毎に、放送するメディアが進歩していく。さらに次の東京オリンピックでは、カラー放送が始まったわけである。
ローマオリンピックをテレビで見て、憶えているのは、体操の小野選手の活躍。男子団体で見事金メダル、小野選手個人も鉄棒で金メダル。メルボルンに続いて連覇。「鬼に金棒」をもじって「小野に鉄棒」と称賛された。小野選手は跳馬でも金メダル。3個の金メダル獲得の偉業を成し遂げた。この大会で日本選手の取った金メダルは4個。あとの一つは体操徒手の相原選手。全部体操で取ったわけである。テレビ放送で印象的だったのは、閉会式で電光掲示板に「ARRIVEDERCI A TOKYO(東京で会いましょう)」と表示されたことだ。いよいよ東京へオリンピックがやってくるという思いが湧いてきた。
そして4年後、東京オリンピックの年となった。ENGLISH AID という来日する外国人に道を教えたりする、ボランティアみたいなことができるようになるための養成講座があり、友人が応募していたので一緒について行った。講師はNHKのTV語学番組に出ていたハリー・クイニ―という人だった。1日ぽっきりの講座で、その後具体的に活動することなく、オリンピックムードを感じるだけで終わった。しかしそのことで、オリンピックを実際に観てみたいという思いが強くなった。
観るには入場券が必要。入場券の一斉発売の記事を新聞で見つけ買いに行こうと思いついた。しかし、その日は平日。当時通っていた学校は埼玉県の熊谷。チケット販売は、東京。行って帰ってくるのにかなりの時間を要する。まさか休むわけにもいかない。そこで思いついたのは、出席を取るのは、1時間目だけなので、2時間目までの休み時間に学校を抜け出し、最後の6時間目までに戻れば良い。中抜けというかキセルみたいなもの。しかし一人でやるのはどうもと思っていたところ、同級生に同行の士を見つけることができた。彼は何と射撃というマイナー種目を希望していた。季節はたしか7月だったと思う。そうすると制服はなしで、ワイシャツだけなので目立たない。
そして、決行当日一時間目終了後、うまく学校を抜け出した。正門からだと校舎から見えてしまうので、横の出口から脱出。熊谷駅から東京へ向かった。入場券の販売所は交通公社(今はJTB)やプレイガイドで種目別に何か所かに分かれていた。先ずは神田の交通公社で友人が射撃のチケットを入手。次に銀座の十字屋へ行く。(当時十字屋はプレイガイドをやっていた)買った種目はホッケーとサッカー。人気の陸上や水泳、バレーボールなどは当然売り切れていた。恐らく開店前の朝早く並ばねば買えなかったであろう。従ってそれは最初からあきらめていた。ただ、オリンピックを見られれば良いと思っていたので、競技種目のこだわりは無かった。ホッケーは見たことがなく、珍しさもあって選んだ。サッカーは、秩父宮、駒沢、大宮、横浜の4会場あったが、家にわりと近い大宮でのゲームにし、母親、兄貴の分も合わせ3枚購入した。こうして無事使命を果たし、午後には何食わぬ顔で学校に戻ることができた。
十月になり、十日の開会式を迎える。テレビ中継を見たが、どこで見たのか思い出せない。当日は土曜日だったので、家で見ることは可能だったはず。しかしカラーで見た憶えがある。日本選手団の赤のブレザーが鮮烈な記憶となっている。その頃家のテレビは白黒だった。開会式はファンファーレで始まり、続いて古関裕而作曲のオリンピックマーチに乗せて各国選手団の入場。最後に聖火の入場。坂井選手が場内を一周。聖火台への長い階段を駆け上る。階段脇に合唱団が陣取っており、その中に学校の音楽担当の先生が居て、いいところにいるなと思ったものだ。苦労して買ったチケットを持って、実際の競技を観に行ったのはその3~4日あと。学校ではオリンピックを観に行くのは欠席にしないとなったので、正々堂々と制服を着て出かけた。ホッケーの会場は駒沢だったので、渋谷から玉電に乗った。初めての経験だった。正面が卵形のまあるい電車でユニークだった。5年後に玉電は廃止になったので、良い思い出となった。試合の対戦は、ドイツとオランダだったと思う。オレンジのユニフォームが印象的だった。サッカーの試合は大宮であり、チェコとブラジルの対戦だった、チェコのユニフォームは白、ブラジルは今も変わらないカナリア色。勝敗は0対0で伯仲していたが、後半にチェコが一点ゴールして勝利した。
試合終了後、出口で待ち構えて何人もの選手からサインを貰った。サインは期間中、選手村や町中でも集めてサインブックとなったが、今はどこへ行ったか
見当たらない。オリンピック期間中、競技を見るだけでなく競技会場周辺や銀座の街、選手村などを回ったことがあった。各国の選手がそれぞれカラフルなお揃いのブレザーを着て、闊歩している姿を見て、これがオリンピックならではの風景なのだなと強く感じた。世界が東京に集まって来ていると。選手村は今の代々木公園。ゲートに待ち構えて、出入りする選手開催となったからサインを貰った。
他の日はテレビ中継を見ていた。学校にも体育館にテレビが置かれ、授業の合間に観ることができた。オリンピックの期間は一五日間であったが、まさにどっぷり浸かったわけである。振り返ると、若き頃のことで一番憶えているのはこの時のことである。世界を身近に感じることができ、その後の人生に少なからず良い影響を与えてくれたと思う。また、このオリンピックは日本の国と国民に大きな自信と活力を与えたと言って良いだろう。
少し蛇足になるが、今年のオリンピックは、やったという記録が残るだけで
人々の間に残るものの何と少ないことか。国の借金は沢山残った。本来は世界の人々が集まることがオリンピックの大義ではないかと思う。単に選手だけでなく。選手は来ただけで、日本の人々と触れ合うことなく帰って行った。開会直前まで、開催の是非論が飛び交ったが、結局無観客開催となった。人々は、画面を通してオリンピックを観るしかなかった。折角東京でやっているのに、誠に味気ないこととなった。最近とみに画面で済ませてしまうことが多い。画面を通じては伝わる情報の質量共に実際より少ないものになってしまう。東京オリンピックの一年延期が決まる前の昨年3月に、二年延期を提案した人がいた。組織委員会の理事で、私も知っている人だった。そうすれば、少しはましだったかもしれない。不可能なことではないはずだ。一年延期を決めたのは時の政権の意向が反映されていたのではないか。どうもスポーツに政治が介入してくるのは良い傾向ではない。とにかく今回のオリンピックは様々なことを浮き彫りにさせてくれた。そういうことでは意味があったのかもしれない。
こどものころのことがテーマなので、ちょっと脱線し始めたのでこの辺で。結局は「昔は良かった」ということなのか。少し寂しい気がする。
15の春の記憶 井上 元
環境緑化新聞 編集・発行人
十五歳の頃、私は何をしていたのだろうか。小学校を終え、中・高校生するまでのことを書いてみる。
そうだなあ、彼女と出会ったきっかけは、母が交通事故で入院したことであった。母子家庭でただ一人の働き手を失い残った子ら3人は小・中学生だった。姉が中三、弟の私が中一、弟はまだ小学生だった。子どもたち3人は一致団結して、この事態を乗り越えていく必要があった。指令長官は姉である。部下となった弟2人には厳しい戒律が課せられることになった。
朝、起床の目覚ましが響くと、まず自分の寝ていた布団を畳んで押し入れに押し込む。これが1日のスタートだ。
頃合いもよく、ラジオのラジオ体操が始まる。小さな裏庭に出て。顔を見合わせながら運動だ。終わると玄関前の掃除だ。姉は炊事兵となってご飯炊き、味噌汁つくりに専心する。弟2人は部屋中の障子にはたきをかけ、箒を持つと畳を掃く。廊下の板間を雑巾がけもある。こうした一連の仕事を終えてはじめて、朝食にありつける。
これでおわりではない。私は自転車にまたがり、近くの新聞配達店に寄る。30軒ほどの朝刊を受け取って、家々に投げ込んでいく。近所の小父さんが不憫に思ったのかどうか、仕事を世話してくれたのである。 新聞配りのラストが道立病院だった。市内から離れた奥にあった。7月の夏の朝の空気は澄んでいて、なぜか気持ちも晴れやかになった。
病院の窓が見えると、母が2階の窓から乗り出し手を振った。病室に入ると新聞を手渡し、「みんな変わりなく元気にしてるよ」と型どおりの報告をする。
そんな毎日のある日、少女と出会った。同じ年頃であろう。髪を三つ編みにして両方の肩に流したおさげだ。パジャマではなく浴衣を着ていた。顔が白い。驚くほど白い。お前の肌は雪のように白い、といった外国の詩人の詩の一節を思い浮かべたぐらいだった。太陽の陽を浴びず室内に閉じこもっているせいなのか。右腕に刷毛でサッと剥いだようなシミがあった。肌が白いだけに実に目立った。
ともあれ、思いもかけない場所で見慣れぬ女性を目撃したことで、私はあわてた。「こんにちわ」といった声を出すこともなく、すれ違っただけだった。
母からの話によれば、最近隣町から引っ越してきた一家4人姉妹の3女ということだった。当時、肺結核が話題になっていて、私の父親も喉頭結核でなくなっていた。彼女の入院は脳膜炎ということだった。どのような病気かも知らず、14歳の夏は終わった。
母も家に戻った。以前の日常が戻った。すべて世は事もなしである。
夏休みも終わり、学校が始まった。学校に行くと、ちょっと騒がしい。隣のクラスに転校生が来たというのだ。胸騒ぎがした。行くとやはり例の白い顔の少女だった。覗いてみるとやはり腕にパピヨンのある彼女だった。最後席に静かに座っていた。セーラー服姿を初めて見た。ただ1時間目の授業が終わると、病院に戻った。学校からの配慮で、出席を確認出来たら単位をあげる。そうして無事卒業にこぎつけた。後年、彼女は「留年だけはしたくなかったから」と言った。そのまま高校生に進み、卒業した。他の生徒とは変わらないほど元気になり、修学旅行もみんなと一緒だった。
肝心の私は元気ではなかった。鬱々とした学生生活を送っていた。生意気にも一人の同級生を好きになっていたからだ。片思いでもあったからつらい日々だった。相手と目があうと微笑んでくれるような気がしてうろたえた。満足に顔も見ることができない。告白ができないのだからいっぽう通行である。
それでも、少しでも彼女の近くに行こうと決め、彼女が卓球部に入ると、そのあとを追って入部、さらにブラスバンド部にも移るとそのあとを追って入部する。彼女はクラリネットを最前列で吹いていた。私は小バスを与えられ、ほとんどメロディはなく、ブオブオと伴奏で盛り上げ役だった。
問題はそこになかった。私を悩ませたのは、彼女が男子同級生にとてもモテるということだった。何しろ愛嬌がある。憂いも満点だ。とてつもない美人ではないが、どういうわけか男心をそそるのである。私は、心の中で「電動磁石の女」とよんでいた。近づくと強い磁力で引っ張り込まれ吞み込まれてしまう。そんな感じなのだ。
私の中高の6年間は彼女の交友録でうずまっている。彼女が同級生と付き合っているとの同級生と付き合っていると聞くと、なぜか胸の内がカーと熱くなる。次いで別れたと聞けの事実を目撃すると、胸の内は切なく、食事も咽喉を通らない感じなのだ。恐怖と安堵の気持ちがそのたびに襲ってきて、勉学も運動もおろそかになって、高校生活も虚しく終わった。
卒業後、そうした思いを直接彼女にぶつけてみたのだが「ちっとも気が付きませんでした」との短い言葉で関係は終わった。そもそも、最初から関係はなかったのである。強烈な磁力の中で、喘ぎ悶えていたのはわれ一人芝居だったということになる。
十五歳時の私は決断した。もし結婚を意識するにしてもあまりにモテる女性は警戒して当たるのが肝要である。ハートがやさしくて決して浮気をせず一途な女性がいい。そう結論した。それが高校を卒業した時の私の信念となった。大学を卒業した時「白い顔の女」と結婚した。出会ってから今年で六十年になる。今では蝶の入れ墨にも似た痣も見えなくなった。肌がパピヨン色に追いついたのである。えくぼも跡形もない。皴の中に埋まってしまってる。
色は匂へど散りぬるを我 梶屋隆介
「恋」の記憶というものは、その時の「あなた」を思い出せる、思い出したいということだ。だから、思い出せない「色の事」は「恋」とは呼ばない。
甘かろうがしょっぱかろうが、香しかろうがそうでなかろうが、記憶されていれば「恋のむかし話」はいつでも始められる。
恋のむかし話の系統樹を辿ってゆくと、新ピンのトヨペット・クラウンの車内の匂いがした。昭和三十三年春、幼稚園の卒園を間近にした頃のことになる。丸山恵子という女の子が同じふじ組にいた。家が近かったので、帰りによく一緒に歩いていた。会話はない。途中にあるパン工場の前を通る時に、ふたりで鼻をクンクンさせて空を見上げていただけだ。
その丸山恵子がこう言った。「うちにクルマのきたけん、今日、乗ってみらんね」。
寄り道をして彼女の家に行くと、トヨペット・クラウンがピカピカに輝いていたのだった。黒とシルバーの観音開きドアのトヨペット・クラウンだった。この一台でゆうに家が建ったはずだ。後ろの座席に座らせてもらって、丸山恵子と鼻をクンクンさせて高級車の匂いをかいだ。彼女が「パパ」と呼んでいた父親が、クルマを発車させてくれることはなかった。「パパ」は開業医だった。丸山恵子は卒園すると地元で唯一のお坊ちゃんお嬢ちゃんの学校へ進んだ。女医への道を歩み始めたのだろう。私は小学校二年生まで、パン工場の前で鼻をクンクンさせて胸いっぱいに酵母の香り吸い込み、空を見上げていた。
系統樹を少し上がってみる。ネアンデルタール人からホモ・サピエンスに行きついた頃合いだ。世渡りに長けた子も出てくるもので、そういう子にくっついて行って、パン工場の裏口でもじもじしながら立っていると、おばさんがやってきて五円玉と引き換えに乾袋いっぱいのパンのクズが手に入ることを教わった。多くは食パンの耳だったが、運がいいと菓子パンの残りものの山に当った。小学校三年生になっていた。パンの切れはしを頬張って三角ベースボール、凧あげ、紙ヒコーキ作りに忙しいから「恋」はない。
小学校四年生になった日、ひとりの女の子が転校してきた。「大阪の豊中から来ました」と彼女が挨拶をした途端、クラス中が笑った。『てなもんや三度笠』や藤山寛美の松竹新喜劇のテレビ放送にも笑いころげていたが、この時の笑いは違った。オレたちと同じ歳の女の子が藤田まことや白木みのる、藤山寛美と同じようなイントネーションでしゃべるという「発見」であった。
驚いた。驚いた時の感情表現は、小学校四年生のイナカの子らには笑うことしかできなかった。以来、糸木恵子は学校ではほとんどしゃべらなくなった。
そして冬が来たある日、昼休みの校庭で彼女がひとりで鉄棒をやっていた。片脚を鉄棒にかけて、後ろへクルックルッと回っている。鮮やかな緑色の毛糸のタイツがクルッ
クルッと回っている。大阪の都会の色だと思った。あの頃のイナカの女の子は、いったい、冬は何をはいていたんだろう。その日によってオレンジ色や黄色や空色に変わる毛糸のタイツは、糸木恵子だけのものだった。
ランドセルの中にしまっているクレヨンや折り紙にこそ原色はあったが、日常に原色は見当たらなかった。レナウン娘がワンサカワンサカと明るい色をまとって街に飛び出してくるのは、もう少し先だ。結局、糸木恵子とは卒業まで同じクラスのままだった。そして、卒業式が近づいた日、彼女が渡り廊下を駆けてきた。
「あたしのこと、どげん思っとるん?」
もうフツウのイナカの女の子のしゃべりだった。多分、その時も糸木恵子は原色の毛糸のタイツをはいていた、に違いない。
「恋のむかし話」はこれでおしまいになる。小学生まではみんなこんなもんじゃなかろうか。『ロッテ 歌のアルバム』は毎週のように観てたから、歌謡曲の大人のそのような世界は耳に入ってくるが、脳ミソが消化できない。消化できるようになった頃には、それこそ色香に惑わされるだけで、腹ペコの時に鼻をクンクンさせたことや原色のタイツに驚いたことなど、どこかへ置いてきてしまっている。鼻をクンクンさせるのは、鰻屋の前を通る時だけ、という約束事になってしまっている。