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季語道楽(35)春夏秋冬、名句60句をめぐる   坂崎重盛

  • 2020年3月25日 16:58

字多喜代子著『名句十二か月』(角川学芸出版刊)

この著者の俳書はすでに一冊、この連載で紹介している。同じく角川選書に収められている好著『古季語と遊ぶ』である。この本では、珍しい季語と例句、そして遊戯的センスに富んだ実作の例句と文章を楽しませていただいたが、この『名句十二か月』も著者ならではの“実感的エッセイ”の中に、季節ごとの名句が数多く(約六百句)はさみ込まれ紹介、解説される。

 

この『名句十二か月』の最初に登場する季語は「去年今年(こぞことし)」、もちろん新年、一月。去年今年となると、それはもう高浜虚子の、

去年今年貫く棒の如きもの

でしょう。この句は俳句と無縁の人でも知っている人が多いのでは。種々の歳時記の新年、一月の項で、この虚子の句が載っていなかったりすると、ぼくなどは(ほう……)と、かえって、その歳時記の編者に妙な関心を抱いてしまったりする。

著者の字多喜代子さんも、

高浜虚子の代表句というより、新年の句の代表としてまず思い出すのが、

この「去年今年貫く棒の如きもの」である。

といい、さらに虚子の同じく新年の季語「初空」二句を紹介する。

初空や大悪人虚子の頭上に

初空や東西南北其下に

そして、この二句の解説として、

前句は大正七年の作、後句は昭和三十年の作である。「初空」は元日の空

のことだが、もっと限定して元朝の空のことと思いたい。それにしてもめ

でたい初空に「大悪人虚子」を取り合わせるとは、なんともすごい。

とし、さらに、

そのすごさが歳月を経て自身より空の大きさのほうを立てた違うすごさに

変わってゆく。

と、二句を並べた上での“読み”を披露する。このあたり、著者“うた”(宇多)さんの力量の一辺を垣間見せますね。

ぼくは、虚子の自らの俳号の上に「大悪人」と付けたスタイルに、虚子の余裕というか、自然主義的なスタイルを借りて、その実オシャレなモダニズムをかぎとってしまう。ちょっとやんちゃなナルシズムというか。

 

ちなみに高浜虚子の本名は「清(きよし)」。それを先輩の正岡子規がーー「きよし」だから「虚子」でいいんじゃないーーと命名してしまったとか。俳句界の巨人、虚子のの誕生が、いかにも青春のアバウトな(=俳諧的な)感じがして、好きな逸話だ。

逸話といえば子規が同郷の河東碧梧桐とともに虚子(そのころはまだ清)を自分のもとに誘ったのは、俳句の同人としてではなく、そのころ子規が熱中していた野球のメンバーとして、という話もいい。

ちなみに上野公園の一隅にあるグラウンドには、子規らがプレイした野球場跡という碑が立っている。

 

話が横道に入ってしまった、本題に戻す。

著者・うたさんは先の虚子の二句と、その解説のすぐ後に、松瀬青々(ホトトギス派、ということは子規、虚子を師とする関西俳壇を代表する一人、明治二年生まれ)の、いかにも関西人ならではの剽軽(ひょうきん)な正月句を掲げる。

正月にちょろくさいことをお言やるな

これに対する、うたさんの評がまたいい。

マジナイのような口調の句でとくに名句というのではないが、知っておく

便利である。

「便利である」ってーーなるほどね、「知っておくと便利」な句って、あるんですね。うたさんによる便利な教えでした。

 

さて、この稿を楽しんでいる今の季節は早春、小石川植物園の梅もほとんど終わってしまったが、桜の開花は例年より早いようで、今週末とか。早春から春にかけての句を見てみたい。

まず、「二月」から。

初っぱなに出てくるのが、こんな句だ。すごい!

寒からう痒からう人に逢ひたからう

子規の句だ。前詞が付されている。「碧梧桐天然痘にかかりて入院せるに遺す」。「天然痘」に、失礼ながら、つい笑ってしまった。このころは天然痘という病気がまだ健在だったのですね。

句友というか、子規の弟子、虚子の盟友であり、後のライバルとなる河東碧梧桐(へきごどう)が天然痘にかかり一ヶ月ほど入院した(明治三十一年一月のこと)ことを思いやってのーー見舞い句。

うたさんの解説。

前詞あっての句で、もしそれがなかったら何のことやらわからないという

人もあるが、必要あって置かれた前詞なんだから、ともに吟味したらいい

んじゃないの、と思う。

「いいんじゃないの」が、いかにも“うた節”。自在な精神の文体じゃ、ありませんか。ぼくは、この句、前詞がなくても全然いい。

寒からう痒からう人に逢ひたからう   —

︱︱アトピーの思春期の娘(知り合いの娘さんでもいい)を思いやっての早春の句でもいいじゃないですか。しかし、子規、やっぱりすごいですね。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」だけの子規じゃないね。

 

おや、さっきの河東碧梧桐の句が出てる。

赤い椿白い椿と落ちにけり

これまたぼくでも知っている有名な句である。さすが俳句に写生句の態度を主張した 子規の高弟の句である。うたさんの評。

椿がポトリと落ちる様子を言葉で表現する場合、もうこうとしか言いよう

がないと思われるほどに贅肉をそいだ表現がなされている。

この後の椿の句が、またすごい。この本で初めて出会った。

老いながら椿となって踊りけり     三橋鷹女

一読、ぞくっと鳥肌の立つような、女人俳人ならではの句ですね「老いながら椿となって」がコワスゴイ。作者、鷹女の作句に対する思い、も紹介される。

「一句を書くことは、一片の鱗の剥奪である。一片の鱗は、生きて鑄るこ

との証しだと思ふ」

一片の鱗ですか! 男性の表現者からは絶対に出てこない言葉でしょう。余計なことは書かず、次の句を見よう。これまた、不可解ながら、とても有名な句。

 

梅咲いて庭中に青鮫が来ている     金子兜太

安易すぎる言葉で言ってしまえばシュールリアリズムの絵を見るよう。当てずっぽうに喩えていえばヒエロニムス・ボッシュかブリューゲルの版画と岡本太郎の初期作品の合体のような。ま、これまた半可通のコメントなど控えておいたほうがよいでしょう。

「三月」に入ってみよう。

うわぁ〜、なんか大丈夫? 感じようによっては、やたらエロくないですか?

戀人は土龍のやうにぬれている    富澤赤黄男

もちろん季語は「土龍(もぐら)」。「戀びと」「もぐら」「ぬれている」︱︱落語、人情噺の傑作「芝浜」が寄席の客から受けた「よっぱらい」「財布」「芝浜」の三つのお題から即興で生み出した三題噺だったように、この赤黄男の句の先の三つのキーワードで、誰か艶笑噺を作れないかしら、なんて考えてしまったりする。

にしても「戀人は土龍のやうにぬれている」、初見ながら一発で憶えてしまう。

 

エロティックといえば、やはりこの人、日野草城。

をみなとはかかるものかも春の闇

ちょっと室生犀星の世界を連想してしまうが、草城、の例の「ミヤコホテル」の連作から。

草城、この「ミヤコホテル」が原因でか、「ホトトギス」同人から閉め出されることになる。昭和十一年、軍靴の音が次第に近づきつつあった時世。

 

この項の最後に、春、四月から。

さまざまの事おもひ出す桜かな    芭蕉

さすが芭蕉、横綱相撲。

うたさんの『名句十二カ月』、読み出したらやめられない止まらない。