Web遊歩人

Web遊歩人
You are currently browsing the Web遊歩人 archives for 3月 2018

あと読みじゃんけん (18) 渡海 壮 秘宝館という文化装置

  • 2018年3月21日 00:42

「こんな本をよく見つけて、しかも買ったね!」と言われそうだが、我ながらそう思う。妙木 忍 著『秘宝館という文化装置』(青弓社刊)の表紙を飾る写真は、栃木県日光市の「鬼怒川秘宝殿」の目玉展示、マリリン・モンローだそうな。有名すぎる「不滅のセックス・シンボル」に似ているといえば似ている程度だと思うし、そもそも好みのタイプではない?からこの表紙を見て買う気になったわけではない。かといって秘宝館に入館した経験はないからノスタルジーなどがあるわけもない。あえて言えば女性である著者が<まっとうな研究対象>として選んだことに興味が湧いたからとしておこう。

妙木 忍 著『秘宝館という文化装置』(青弓社刊)

「秘宝館」は「秘宝」の「館」と書く。「秘宝」とは、大切にし、一般の人には見せない「宝」という意味が一般的だが、この本で取り上げた「秘宝館」は<性愛をテーマにした博物館>という意味である。いまふうに言えば<性のテーマパーク>だろうか。1970年に開催された大阪万博から2年後に初の秘宝館が生れ、その後の十数年間に全国の温泉観光地などに少なくとも20館が存在し、性愛シーンの人形や性にまつわる品々を展示した<おとなの遊艶地>として人気を博した。日本各地には柳田國男の『遠野物語』に出てくる金精様(こんせいさま)のように信仰対象そのもの、神社の奉納物やお祭り、性文化財を集めた資料館、歓喜天など性的要素を含む仏像などを集めた美術館があることは知っていた。当然、秘宝館にも古い歴史があると思っていたが半世紀そこらの新しいものだとは意外だった。

著者は秘宝館がそれらとは一線を画す理由を観光産業と結び付いた性の展示であるから表紙のマリリン・モンローのような等身大人形が含まれているのが大きな特徴であると指摘する。こうした等身大人形の製造文化と日本古来の性信仰と娯楽産業とが融合した世界でも特異な「文化装置」に他ならないという。モンローといえば地下鉄の通気口から吹きあがる風で白いドレスがめくれる『七年目の浮気』の名シーンが有名だが、秘宝館にもハンドルなどを操作すると風が出る仕掛けがあり、訪問者参加型の動的な展示を備えているのも特色のひとつという。

本を書くほど秘宝館の研究にのめり込むきっかけは、旅行好きな著者が『遠野物語』の舞台となった岩手県遠野市を訪問した際に「山崎のコンセイサマ(=金精様)」を見たのが原点という。そこには記念スタンプが置かれ、性の信仰の対象が観光地化されていた。愛媛県宇和島市の性文化財の資料館では「収集されたコレクション」が性の観光化でもあることを知った。伊勢旅行では日本初の秘宝館である元祖国際秘宝館伊勢館(以後、伊勢館と略)に立ち寄り、性というテーマの等身大人形などに別の形態を“発見”していく。ここでは妊娠した子宮の実物大の医学模型に、同じ女性として女性の人生や出産に関心を持っていたこともあって引き込まれていく。さらに「旅の文化研究所」の公募研究プロジェクトに選ばれたことで研究が加速、国内だけでなく海外の性愛博物館にも研究を広げていった。

「秘宝館の誕生」では伊勢館を創設した松野正人氏のライフヒストリーが紹介される。1929年(昭和4年)生れ、多くの失敗にもめげず、さまざまな事業に挑戦し宝飾品の型枠製造から真珠販売会社で成功し、「フジヤマ・パール」としてニューヨークでの万国博覧会(1964-65)の展示販売で大好評を博すと、アメリカでドライブインやモーテルを見たのを参考に伊勢神宮参拝の団体観光バスが利用するドライブインを建設する。将来予測される車時代を先取りしたものだった。松野氏は生来の宣伝上手でもあり、テレビコマーシャルで繰り返し放映することで人気を集めて規模を拡大、一時は姉妹館までできて従業員数も200人を超えた。自身もラジオやテレビに積極的に出演、道路の看板広告なども含めて年間3億円もの宣伝費を使ったという。観光バスでやってくる団体客を積極的に受け入れたが、案内するのは女性の「フロントガイド」でバスが到着すると迎えに行き、秘宝館入口まで案内、受付にも女性が常駐しやがて女性館長も誕生した。このあたりは大阪万博のコンパニオンを真似たのか。松野氏は三重県ドライブイン協会や伊勢市観光協会の理事などを歴任、地元の観光振興に尽力したなかなかの著名人だった。一時は温泉観光地にも続々と誕生した秘宝館人気もやがて凋落、伊勢館は2007年(平成19年)に、鬼怒川秘宝殿も2014年(同26年)に閉館した。他も数カ所を残すだけというからまさに<絶滅危惧種以上>か。

この本を紹介する気になったのはつい先日、新聞の記事でコメントする著者の名前を偶然見かけたから。東京大学大学院の上野千鶴子教授のもとでジェンダー研究を学びながら観光研究を手がけ、本の執筆当時は北海道大学応用倫理研究教育センターの助教だったが現在は東北大学国際日本研究講座の准教授で戦後の女性の生き方を巡る「妻無用論」などの論争を研究してきた論客でもあるという。

本にはカラーも含め多くのカット写真が掲載されている。モンローの等身大人形はロンドンのマダム・タッソー蝋人形館なども映画のシーンと同じ白いドレスのあのポーズである。いずれも著者が自ら撮影した日付データが添えられている。著者が上野サン譲りの「論客」というのを気にしているわけではないが、いずれもハンドル手前からの<全体像>なので残念ながら?風は出ていないから紹介しないでおく。

ヒトラーの時代 (29) 池内 紀

  • 2018年3月14日 13:14

強制収容所第1号

ジュタリーン文字

 

ナチスの時代に独特の活字が使われていたことは、あまり知られていない。アルファベットの形に特徴があった。ナチスが好んだ書体であって、そのため文字を見れば、ひと目でナチス時代の刊行であることがわかる。またおおむねナチス賛美であることもわかる。

英語、フランス語、ドイツ語、デンマーク語、オランダ語……。ヨーロッパの言語は共通して同じアルファベットにより、違いといえば言葉によって多少の変化が加わる程度である。どの国に行こうとも、意味はともかくとして文字は読める。

ただドイツでは、そうではなかった。ヨーロッパ語が共通してラテン文字を用いているなかで、ドイツ語には古来、「ドイツ文字」と言われている字体があって、ラテン文字と共存してきた。ナポレオン軍占領下の十九世紀初め、軍事力ではかなわなくても、文化や思想ではフランスを凌駕するといった愛国主義が背景にあったのだろう。ドイツ文字がラテン文字を圧倒しだした。おおかたの書物はドイツ文字で印刷され、書体もドイツ文字の書き方で書く。まったくちがった活字、まるで別の書き文字であって、きちんと勉強しないと読めないし、書けない。エリートの進むギムナージウム(九年制の中・高等学校)はドイツ文字、早々と社会に出る職業学校はラテン文字と、教育も二分された。ドイツ人であってドイツ語が読めないといった事態にもなったが、ドイツ文字が読めなくても、その人はべつに不便を感じたりしなかっただろう。自分には用のない世界の文字と割り切っていてよかったのである。

私自身でいうと、ドイツ文字の読み方、書き方を、学校ではなく、すでに公務から退いていた老ドイツ人に個人教授を受けて学んだ。ドイツ文学者と称するためには、古い本も読まねばならない。ゲーテをはじめとする十九世紀の文学書は、初版はドイツ文字で印刷されている。詩人リルケが書いた手紙を、オリジナルで読もうとすれば、ドイツ文字の筆記体を知らなくてはならない。概してラテン文字よりもドイツ文字の方が格段に美しい。リルケの頃はすでに、ドイツ文字の筆記体は時代遅れとみなされていたはずだが、詩人として、流麗な書体を捨てきれなかったと思われる。

第一次世界大戦終了ののち、いまや始まったワイマール共和國では、ドイツ文字は帝政ドイツの古くさい遺産にすぎなかった。ラテン文字一色となり、ドイツ文字はせいぜい、商号や看板などに装飾として残っている程度だった。教育も当然、ラテン文字であって、ドイツ文字は急速に捨てられた。過去の威光をおびた旧ドイツの文化遺産とみなされた。

そこへナチスが現れた。ワイマール体制の打倒を叫び、過激な政治闘争に打って出た。ヴェルサイユ条約破棄や赤色革命への防御とともに、ドイツ固有の文化、ドイツ的伝統の復権を主張した。党首アドルフ・ヒトラーは『わが闘争』を著して、過激派への支援を呼びかけた。

当然のことながら『わが闘争』はドイツ文字で印刷されていた。その主張からして、ラテン文字は使えない。ヒトラーは第一次大戦以前に教育を受けた世代であって、ドイツ文字をたたきこまれており、書くこと読むことに不自由はない。

読み手の側はどうであったか。ここに厄介な問題が生じた。党首ヒトラーをはじめ、ゲーリングやゲッベルス、ヒムラーといったナチス幹部たちはドイツ文字が使えるが、ナチ党を構成している大多数、また若いSAのメンバーたちは、党首の主著が読めない。ラテン文字で出されて、ようやくひもとくことができる。しかし、ラテン文字はナチの排撃する文化の一つであって、それでもって党首の「聖典」をつくるのは、自己矛盾もはなはだしい。『わが闘争』はどうあってもドイツ文字で刊行されなくてはならず、インテリしか読めないドイツ文字ではなく、誰にも読めるドイツ文字でなくてはならないーー

そんな時代背景があって、一つの活字が浮上してきた。のちに考案者の名をとって「ジュタリーン文字」と言われるようになった。L・ジュタリーン(一八六五〜一九一七)はベルリンの意匠家で主に広告業にたずさわっていた。現代でいうグラフィック・デザイナーであり、企業の広告、商標、ロゴマークなどのデザインをする。『デザイン教程』といった著書があるから、この方面で知られた人だったのだろう。

いつのころからかわからないが、このデザイナーは文字に関心を持ち、ドイツ文字の書体をラテン文字に応用する試みを始めた。一見のところ、ドイツ文字だが、よく見るとラテン文字であって、ドイツ文字を知らなくても、このドイツ文字は読める。ひとことでいえば、インチキくさいドイツ文字だが、インチキではなくラテン文字をドイツ文字式にデザインしたまでともいえる。デザインのあかしのように、ジュタリーンは大文字にはヒゲ状の、あるいは細いツルのような飾りをつけた。ドイツ文字自体、微妙なヒゲがついており、日本ではかつてドイツ文字を「ヒゲ文字」と言ったりした。あるいは単語がひとかたまりの亀甲のように見えるところから「亀の子文字」とも言った。装飾性の強い点で、ジュタリーン書体はドイツ文字の性格を色こくおびていた。

ヒトラーの『わが闘争』初版本文(1925年) 古典的ドイツ文字による熟読のあとが見られる。

ヒトラーの『わが闘争』初版本文(1925年)
古典的ドイツ文字による熟読のあとが見られる。

いずれにせよ、考案者の生前はほとんど陽の目を見なかったものが、ナチズムの拡大とともに、はじめはおずおずと、のちには大っぴらに使われ始めた。当初はポスターや党の文書類だった。大きく目立つところにジュタリーン文字があてられている。突撃隊員は手にとって、読めないはずのドイツ文字がちゃんと読めるのに目を丸くしただろう。急に自分が偉くなったような気がしたかもしれない。

ナチ党の機関紙「フェルキッシェ・ベオーバハター」には、ユダヤ人の排撃、共産党撲滅を呼びかける毒々しい言葉が、格調高いドイツ文字に似た字体で並んでいた。一面には党首の過激な呼びかけが、ゲーテの箴言に見るのとよく似た活字で印刷されていた。

ためしに並べてみよう。

Aはヒトラーの『わが闘争』の初版(1925年)、表紙はわかりやすくラテン文字、本文は古典的なドイツ文字である。

Bはヒトラーが政権についたのち、神格化を図って出されたプロパガンダの一つ。フリードヒ大王、ビスマルク、ヒンデンブルク元帥と並ぶかたちでヒトラーが据えられ、

「ドイツの4偉人」ナチ党の宣伝ハガキ(1943年) 下にジュターリン文字によるスローガン

「ドイツの4偉人」ナチ党の宣伝ハガキ(1943年)
下にジュタリーン文字によるスローガン

下にジュタリーン文字のスローガンが見える。出だしの大文字に二つの丸いループがつき、アルファベットが広告の絵文字のように見え、いかにもデザイナーの作品である。

いつの時代にも、教育界がいち早く体制に順応するものだが、1935年、ドイツの小学国語にジュタリーン書体が取り入れられた。いわば「国字」となったわけで、以後、公文書、法令、政府のスローガンなど、目につくところにジュタリーン文字があふれてくる。イベントの街がナチ党員の褐色のシャツと卍マークで占められたように、活字の森をジュタリーン文字が埋めていく。

ギュンター・グラスの長編小説『ブリキの太鼓』は、ナチス時代に三歳かぎりで成長を拒む少年オスカルが主人公だが、三歳児の身の丈のまま学齢期を迎え、母親につれられて入学式に出向いた。教室の黒板には、新入生歓迎としるされていた。

「そのころ使われていたジュタリーン書体の文字の先端を意地悪く尖らせ、詰めものをされてうさんくさい丸みをつけて……」

うさんくさい書体が、いの一番に新しい人生の門出を祝っていた。

オスカルの言うとおり、「派手な出来事や簡略にした表現やスローガン」にジュタリーン文字が用いられていた。予防接種の証明書やスポーツの記録などにも使われた。

黒板にしるされたお祝いの書き出しのMはジュタリーン特有の

ナチスの宣伝ポスター(1938年) スローガンはジュタリーン文字による。

ナチスの宣伝ポスター(1938年)
スローガンはジュタリーン文字による。

二重ループをもち、オスカルには「陰険な匂い」がして、なぜか「絞首台」を思わせた。たしかに絞首台によるか、よらないかにかかわらず、ナチス時代の数かぎりない死亡証明書は、必ずやジュタリーン文字でしるされていた。

第二次世界大戦とともに、多くのものが悪夢の消えるように消え失せたが、ジュタリーンもその一つである。現在ではせいぜい古書店のゾッキ本のコーナーに、ヒトラーの時代の存在したあかしのようにして、なにくわぬ顔でまじりこんでいる。