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書斎の漂着本 (100) 蚤野久蔵 西洋音楽の知識

  • 2018年2月10日 18:19

4年前に始めたこの連載もちょうど100回目。まだ道半ばなので、はしゃぐ気はないものの「節目」ではあるので、これまでに取り上げたことがないジャンルを紹介することにした。明治・大正・昭和と作曲家、音楽教育家としてわが国の音楽界に大きな足跡を残した小松耕輔(こまつ・こうすけ)が初心者向けに書き下ろしたわが国初の入門書『西洋音楽の知識』である。大正9年5月25日に発刊されると30日に早くも再版、6月5日に3版を出していることからも大変な人気だったことがわかる。発行元は東京・神田のアルス書店で、巻末の出版案内に北原白秋、室生犀星、三木露風、相馬御風などの小唄楽譜や歌集が掲載されているところから音楽、詩歌関係専門の出版社のようだ。

 

     小松耕輔著『西洋音楽の知識』(アルス書店刊)

 

数年前に京都・寺町通りの古書店の「均一棚」=店頭にある雑本を並べた棚=のいちばん上にあったのを手にとったのがきっかけ。外函もぼろぼろで何度も修理したあとがあるし背表紙の金箔押しも剥げかかっている。所有者は余程大切にしてきただろうに誰も購入しなければそのまま廃棄処分されてしまうだろうと思ったわけで・・・。現在と違い当時の本は著者のプロフィール紹介がないのがほとんどで、私も関心分野以外は不勉強ゆえ、著者が「わが国の音楽界に大きな足跡を残した人物」とは知らなかった。当然ながら出版社そのものも少なく、逆に言えば著名人や有名な学者が著者なのだから購入する側は「書いたのが誰であるか」がわかっていたわけですね。新聞広告やこの本にも書かれている楽器店の店頭ポスターなどで知ると<書店に急いだ>から短時間に版を重ねた事情も伺える。

 

 

外函と表紙の裏側の2か所に「U.SUGIMOTO」のゴム印らしきものが押してある。この本を長く愛蔵していたのはこの「スギモト」なる人物なのか。インクはセピア色に変色しているが最終処分、つまり売却されたのが京都の古書店だから京都市かその近辺に住まわれていたのだろうと想像する。

函が壊れかけているので慎重に本を取り出し、ぱらぱらとめくりながら目次などを走り読み、あとで紹介する写真や挿画、このゴム印を見てわずか数分、いや1分足らずで音楽には門外漢ながら興味が湧いた次第。いつもながらの古本買い主義というか、均一棚を前にしての私の心得は<迷ったら買う>。かといってここまで傷んだ本を買ったことは経験がないし、そんな本を連載の節目に選ぼうとは自分でも不思議ですねえ。

 

冒頭に紹介した小松耕輔についての記述は書斎に戻ってから仕入れた「あと知識」と告白して続ける。

 

『広辞苑』には、作曲家、秋田県生れ、フランスに留学。音楽評論や音楽教育の分野でも活動。日本最初の歌劇「羽衣」、歌曲「泊り船」など。(1884-1966)とわずか3行だった。何冊かの人名辞典にあたるとほとんどにその名があるが、なかでも詳しかった『コンサイス日本人名事典』(三省堂)にはさらに、東京音楽学校(東京芸大)在学中にわが国最初の洋楽の手法による本格的なオペラ「羽衣」(1906)を作曲するなど、創作オペラ運動の先駆者として活躍。1920~23(大正9~12)パリ音楽院作曲科に留学後、1927(昭和2)国民音楽協会を起こしてわが国最初の合唱コンクールを創始し、みずからも童謡や合唱曲を多数発表して合唱運動の先駆者の1人となり、敗戦後は学習院大、お茶の水女子大、東邦短大の教授を歴任し、音楽教育の面からわが国音楽界の発展につくした。

 

「序」には「此書は音樂の初學者に向って其の一班を知らしめんがために書かれたものである。其故になるべく専門的の説明を避けて通俗を旨とした。止むを得ざる限り樂譜等の挿入をさけ、文字の説明のみを以て了解せしむるやうに心掛けた。樂譜を讀み得るものに向って音樂を説くは容易であるが、然らざるものに向って説明を試みるは極めて難事である。」と書く。目次に続く最初の挿画はその下に右から左へ「黙想せるヴエトオヴエン」とある。あごを引き、目は真正面をぐっとにらみつけているように見えるからとても「黙想している」ようには思えないけれど。

 

 

もうひとつはざっと数えただけで数百人規模が写る写真である。「グスタアヴ・マアラア氏作第八交響楽の演奏」(フイラデルフイアオルケストラ)とある。

 

「ヴエトオヴエン」にしても「グスタアヴ・マアラア氏」や「オルケストラ」もそのままでは読みにくいと思われるので以下は現行漢字、現代仮名遣い、人名は『広辞苑』最新版(第七版)に拠ることとし、最低限の言い換えはお許しいただきたい。例を挙げると「序」は「この本は音楽の初心者向けに(略)文字の説明だけでわかりやすく(以下略)」、挿画は「黙想するベートーヴェン」、写真は「グスタフ・マーラー、フィラデルフィアオーケストラ」とさせていただく。

 

小松が言う通り<難しいことを初心者向けにわかりやすく>というのは難事だろう。管楽器についての助言をもらったことに謝意を表するとあげた瀬戸口藤吉も『コンサイス日本人名事典』によると、

 

明治・大正期の軍楽隊指揮者・作曲家。海軍軍楽師時代に鳥山啓作詞によった<守るも攻むるも>の「軍艦」を作曲、のちに「軍艦行進曲」として改作、1911年のイギリス国王戴冠式には軍楽隊を率いて列席し、ヨーロッパ各地で演奏した。

 

余談ながらこのイギリス国王はエリザベス女王の祖父に当たるジョージ5世である。「軍艦行進曲」は昔よく通ったパチンコ店でかかっていたあの曲、「軍艦マーチ」ですね。調子のいい時には鼻唄が出そうになった。ただし「攻むる」じゃなくて「攻める」と覚えていた。反対にかなりつぎ込んでもう帰ろうかと思っている時にこれがかかると、もうちょっとやって負けを取り戻そうなんて気になって・・・結局、食事代までスッてしまう羽目に。

 

他にも多くの助言や協力をもらい、忙しいなか何年もかけて試行錯誤や推敲を重ねてようやく脱稿に漕ぎつけたと思われる。ありきたりの表現で恐縮だが<懇切丁寧><微に入り細にわたり>構成されて仕上げられた「本物の労作」なのだ。「あくまで音楽初心者にわかってもらうためどうするか!」という小松の並々ならない目配りがあふれている。「序」は5月1日付、初版が20日印刷、25日発行で、パリ音楽院に留学したのはこの本の発刊と同じく大正9年である。当時ヨーロッパへ向かうのはイギリス領だったシンガポールからインド洋、スエズ運河、地中海経由の南回りの船便で2か月近くかかったたから、そのあとあわただしく出発したのだろう。

 

書き出しは「秋もようやく更けて、夜な夜なの虫の声も何となく身にしむ頃となると、楽器店の飾り窓や新聞の雑報がはやくも音楽会の開かれることを報じるであろう」と始まる。「そこで私は諸君と共に音楽会のために楽しい一夜を過ごそうと考えた。そして音楽会について心ゆくばかり諸君と会話を交え、興つきない秋の夜を語り明かそう」「上野の秋の日曜はそうでなくても人出が多い。その中を自動車や俥(=人力車)が列をなして音楽会の会場へと急ぐ。定刻の午後2時近くなると、はやくも会場が立錐の余地もないほどになる。諸君が会場のドアを入ろうとするその手には今日演奏されるプログラムが渡されるであろう」として例をひく。

 

プログラムには「曲目」、ソナアタ(=ソナタ)は「奏鳴楽」、シムフオニイ(=シンフォニー)は「交響曲」、コンツエルト(=コンツェルト)は「司伴楽」、ロンドは「旋轉調」、メロデイ(=メロディ)は「旋律」、リズムは「節奏」、ハーモニーは「和聲(声)」の漢字を当てているが、それぞれの<たとえ>もおもしろい。

 

「いまここに一つの川がある。川は昼夜を分かたず流れる。流れ行く水はすなわち旋律(Melody=メロディ)である。川の水は時に洋々と流れ、時に滔々と流れる。そこには水の足踏みが聞かれるであろう。これが節奏(Rhythm=リズム)である。川の両岸にはたえず変わりゆく景色がある。時には広々とした野原を過ぎ、時には緑したたる杜(森)の影をうつし、あるいは白楊(はくよう=ドロノキ、ドロヤナギ)の茂みを通り、咲き誇る花びらに接吻(くちづけ)してゆく。これらの水にうつることごとくの物象が即ち和聲(Harmony=ハーモニー)である。水の流れが歌い、足踏みし、岸の影をやどして流れゆくとき、そこには全き(まったき=欠けたところがない)音楽の象(すがた)がある。」

 

思いついたのは<大正ロマンの香り>。門外漢の私には「そうですか、たしかに・・・」とひたすら頷くしかない。

 

演奏会で使われるさまざまな楽器については弦楽器、管楽器から始まって大型打楽器のティンパニーからシンバル、トライアングル、タンバリンに至るまで詳細な図を紹介しているからこの本を会場に持参しても見比べられそうだ。演奏される曲の作者も器楽・声楽の作家として41人、歌劇では17人を網羅しているから十分すぎるほどだったろう。とくに歌劇はモーツアルトの『魔笛』、ワグナーの『タンホイザー』、ヴェルディの『アイーダ』、ビゼーの『カルメン』というように代表作品の舞台写真を添えている。

 

なかでも「黙想せる」の挿画まで紹介したベートーヴェンには13ページといちばん多くを割いている。

1770年12月16日、ドイツ・ボンに生れた。父はエレクトラル寺院のテノール唱歌者で、祖父もまた協会の楽師長を勤めた人である。父は飲酒家で幼児の家庭はかなり悲惨を極めた。かつ彼は病身であったために常に荒涼たる生活を送り、家庭の温かさを知ることができなかった。このために彼は却って満足を芸術に求めるようになる。日常交際を嫌い、隠遁的な偏狭な生活を送らせた。

 

「田園シンフォニー」、唯一の歌劇「フィデリオ」、「第九交響曲」、「荘厳ミサ曲」を次々に公にしたあたりから聴力を失い、手の指のマヒが進行してピアノが弾けなくなると「音楽家にとってこれ以上の悲惨はあり得ないことである。彼はまた物質的にも非常な貧窮に陥った。彼を扶(たす)けた貴族たちも大方死に、また四散して今は僅かばかりの金を得るさえ困難であった。靴に穴ができたため外出を見合わせることもしばしばだった」と苦しい生活をこれでもかというくらい紹介する。

 

かくして彼は1826年11月に重い風邪にかかり、次第に衰弱して翌27年3月26日、雷鳴とどろき、暴風雨の激しい午後の6時に最後の息を引きとった。彼の葬儀にはたくさんの人の大なる哀悼のうちに行われた。

 

これでお終いかというとまだ続く。さらに代表的な作品の細かい解説が終わると「彼は古典音楽の殿将であると同時にロマン的音楽の最初の人である。音楽はバッハに至って一転し、モーツアルトに至って再転し、ベートーヴェンに至って更に衣を着け替えて近代音楽の急先鋒となったのである。彼は日常寡言、人と交わることを好まず、陰鬱なる性質を懐いて、しかも心中には燃ゆるがごとき情熱と人生に対する愛とをもっていた。ある批評家の言った通り、彼の音楽は「人間の精神から霊火を発せさせるもの」である。その熱烈真摯な点は他のいかなる音楽家も及ばない、と絶賛して結ぶ。

 

ここまで読むとなんというかフーッと息を吐いてしまいそうな・・・。他の人物についてもそれぞれ緩急をつけるように描かれているから持ち主と思われるゴム印「スギモト氏」も繰り返し読みふけったのではあるまいか。

新・気まぐれ読書日記 (53) 石山文也 琥珀の夢(その2)

  • 2018年2月3日 19:05

気の早い読者ならタイトルが『琥珀の夢』だから、信治郎いよいよウイスキーに挑戦するのか、と思われるかもしれない。とんでもない。明治・大正のこの時代、日本酒の需要に比べれば洋酒は微々たる需要しかなく、輸入販売でまかなえたから国産ウイスキーを手がけるという発想すらなかった。たとえ技術や生産設備があったとしても熟成されたウイスキーが商品となるのに早くて5年、ことによっては10年の歳月、まったく利益を生まない時間をかかえなくてはならない。利どころか、借り入れた金の利子を払い続けなければならない。世に幾多の商人がいてもこれまで誰一人として挑んだことはなく、それを「夢」として追いかける信治郎が<酔狂の極み>と言われながら挑戦を始めるのは表紙を紹介したこの下巻でも後半3分の2を過ぎてからである。さまざまな試行錯誤や戦争、天災地変、失敗や事業の撤退などをいちいち書き留はしないがもう少しお待ちいただきたい。


伊集院 静 著『琥珀の夢 下』集英社刊

 

開業9年目、寿屋洋酒店と名前を変えて間もなく誕生したのが「赤玉ポートワイン」である。作業場に籠ること丸二日半、新たな葡萄酒は昇る朝陽のようなお天道さんにあやかって「赤玉」と命名した。ラベルも気に入るまで何度もやり直させた。印刷所のオヤジとはこんなやりとりだった。

「あんさん、そんな赤色ではあかん。空にぐんぐん昇って行く朝陽の、あの真っ赤っ赤やないとあきまへん。一目見たら、あっ、これや、これが赤玉やと目に焼き付く赤やないとあきまへん」

「へぇ~、そやさかい、こうして三晩も店の職人と色出ししましたんだす」

「あかん、三晩やろうが、こないな赤色やあきまへん。すぐ戻って、やりなおしなはれ。あんさんとこの印刷なら博労町で一番の色出しがでけると見込んで頼んでんのや。銭はなんぼかかってもかましまへん。工場の方はもう赤玉がどんどんでけて、あんさんの仕事を待ってんだっせ。その子らに着せる着物だっせ。気張っとくれやす」

 

値付けも東京の「蜂印」葡萄酒を上回る1本38銭と米1升が10銭の当時、4升分に近い価格をつけることによって<真っ向勝負>に出た。とはいえ、販路拡大は自らの体力と持って生まれた愛嬌が頼りだった。四国への売り込みでは高松の得意先や松山の商人宿あてに100本ずつ送り、それを大八車に積んで大洲、八幡浜、宇和島、西条、新居浜をはじめ小さい町まで残らず回った。ひと回りする頃に顔は赤銅色に日焼けし、何度か草履を買い替えるほどで、知らない店では「漁師でもしとられましたかの」と聞かれるほどだった。

 

少し時期は遅れるが、寿屋第一号のポスターとなる赤玉のポスターは、女優の松島栄美子が赤玉の入ったグラスを手に何か言いたげな表情をみせるあのポーズが大評判となり世間を驚かせた。当時の常識からすれば大胆ではあったが半裸になっただけなのに日本初のヌードポスターと噂になり、赤玉を飲まない人たちからも、ポスターが欲しいとの申し出が殺到した。これも合格となるまでには実に1年近い歳月をかけてようやく完成したもので、後にドイツで開催された世界ポスター展で堂々の第一位を獲得した。

 

第一次大戦後は一時的に不況に陥ったが消費の増大が日本経済を下支えした。「赤玉」の売れ行きは地方都市で伸びていった。新聞広告も積極的に出し東京支店を開設するなど進出攻勢を本格化させた。国分商店を筆頭とする関東圏の問屋は信治郎の熱心な説得とさまざまな販売策により「蜂印」と対抗する葡萄酒として「赤玉」をプロモートし始めた。まさに自分の足で開拓した得意先の多さは強みであり、缶詰め問屋として十分繁盛していたから安売りをしなかったのも信用となった。この国分商店とは関東大震災直後に自ら準備した救援物資を海軍省に頼み込んで海路を運び、焼け残った社屋に届けた。集金に来たのかと心配する番頭に残った伝票を出させるとその場で全てを破り捨てて「これで決済は完了だす」と驚かせたエピソードも紹介される。

 

洋酒以外のさまざまな商品開発に信治郎は自慢の鼻と独特の勘で挑戦し続け次々に商品化していく。それでも国産ウイスキー作りへの道はまだまだ遠かった。

 

「誰もやったことのないことをやる」――信治郎のとてつもない夢は「赤玉」の好調な販売があったとはいえ、周到な準備と海軍のような洋酒党の開拓、資金にしても銀行だけではないスポンサーの確保、ありとあらゆる壁があった。

 

必要資金は大正期に入社した大番頭で秘書役でもあった児玉基治たちにこの先5年間で必要となる資金を試算させた。ようやく出てきたウイスキー蒸留所の建設費用は200万円を超えていた。当時の200万円は現在の金に換算すると十数億円になる。これに招聘する技術者の十年間の給与、材料費を加えると全ての金額がどれほどになるか見当もつかない。その上、そこに借り入れた金の利息がかかる。

 

壁のひとつが解決したのは中心となる技術者としてスコットランドで洋酒造りを学んで帰国した竹鶴正孝との出会いだった。京都・大阪府県境の山崎に作られた醸造所に仕込まれた原酒は眠りつづけた。10年間の契約のあと竹鶴は北海道の余市でニッカウヰスキーを興すが、残された原酒が目覚め「サントリーウイスキー12年もの角瓶」として日本特有の切子細工から発想を得た亀甲型のボトルデザインで登場したのは昭和12年だった。美しい琥珀色、黄金の色が売り出しから好調で国産ウイスキーの夜明けを告げるのにふさわしかった。

 

信治郎は「ようやっとでけたんやな。13年か・・・」と次々に入る「角」の注文を聞きながら山崎蒸留所が完成してからの歳月を思っていた。

 

今夜あたり、私もグラスを傾けながらもういちどこの本の余韻に浸ろうと思う。

ではまた

新・気まぐれ読書日記 (52)  石山文也 琥珀の夢(その1)

  • 2018年2月2日 18:40

明治12年の年が明けてほどなく“商いの都”大阪、道修町に近い釣鐘町の一角でひとりの男児が産声を上げた。江戸期から両替商を営む三代目鳥井忠兵衛、こまの第4子、次男で信治郎と名付けられた。道修町は江戸時代から薬種問屋が集まり「薬の町」として知られる。現在では田辺三菱のほか、武田薬品工業、塩野義製薬など日本を代表する製薬メーカーが本社を構えているものの「どしょうまち」と正確に読めた20代は10%を割り込んだことがつい最近もニュースになった<なにわ難読地名>のひとつである。

『琥珀の夢 小説 鳥井信治郎』(伊集院 静、集英社刊)は、その次男坊を主人公にした小説である。13歳で道修町の薬種問屋の丁稚となり、薬種以外の合成葡萄酒の製造などを学び、20歳で鳥井商店を興すと洋酒造りと販売にまい進していく。研究を重ね「赤玉ポートワイン」を発売、さまざまな新事業、新製品開発にチャレンジするなかで周囲の大反対を押し切って日本初の国産ウイスキーの製造事業に乗り出した。鳥井商店は寿屋、サントリーと社名は変わるが、戦争などさまざまな苦難を乗り越えて世界有数の企業となったそのバックボーンには信治郎の「生き方」があった。

いわゆる企業小説や経済小説とは縁がなかった著者が日本経済新聞からの執筆依頼を引き受けたのは「信治郎の生涯を書くことは日本人の仕事に対する考え方、ひいては日本人とは何かということにつながると思ったからだ」と新聞インタビューに答えている。

伊集院 静 著『琥珀の夢 上』集英社刊

 

信治郎は三歳の頃、死地をさまようほどの重い病にかかった。このとき、信心深かった母のこまは御百度参り重ねたが、治ってからは決して体躯の大きくなかった息子の足腰を鍛えようと手を引いて天満天神や四天王寺へ連れていった。人が集まるこうした場所には物乞いがずらりと並んでいた。天神さんへ向う天神橋も別名“物乞い橋”と呼ばれ、橋が近づくとこまは信治郎に小銭をくれるが「お銭(ぜぜ)あげたかて振り向いたらあかんで。振り向いたらあかんよってにな」と鬼のような顔で言い聞かせた。少しでもキョロキョロしようものなら恐ろしく強い力で手を引っ張った。普段やさしい母が、どうして物乞いに施しをした後、彼らを振り向いて見てはならないときつい口調で命じたのかはずっと疑問だったが後年、ある意味の「陰徳」ではなかったかと思い至ったという。

 

信治郎が丁稚奉公に入った小西儀助商店は、倒産寸前まで追い込まれた店を彦根の薬屋で修行を積んだ奉公人だった店主が当時大阪にはなかった薬を刻む技術で借財を完済して身代をつないだ。研究熱心で知られ、店の仕事が終わった後の夜鍋もいとわなかった。信治郎は他の丁稚仲間が敬遠するこの手伝いを進んでつとめるうちさまざまな薬品の調合や活用知識を蓄えていく。手がけたのは合成葡萄酒、ブランデー、ベルモト酒はいまのブランデーである。失敗を重ねながらも実験の手控えだけでなく頭の中に膨大な知識が詰め込まれていった。近江商人に伝わる商売のやり方である<売り手良し><買い手良し><世間良し>の「三方良し」の精神も教わった。「商い言うもんは、山を見つけたら誰より先に登るこっちゃ。人がでけんことをやるのが商いの大事や」ということも叩き込まれた。

 

鳥井商店を開業したのは明治32年2月1日。京町堀と阿波掘にはさまれた細長い土地の間口2間の狭い店だった。商売の中心地の船場とは川を隔てた西へ延びる一画で、淀川から船で入る葡萄酒樽などは店の真裏から直接荷揚げできた。商いの中心となる葡萄酒の製造販売には欠かせない製瓶商が近くにあり、甘味を出すのに必要な砂糖商もある。何より大切な得意先の外国人居留地が橋を渡った中州にあったから、注文を受けるにも納品にも最良の場所だった。自前の「向獅子」ブランドの葡萄酒は東京、大阪だけでなく名古屋、九州圏でも国産のシェアトップの東京の「蜂印」には歯が立たない。経営の基盤となったのは缶詰、洋酒、炭酸水などで、店頭に置いてもらえたとしてもお付き合い程度でしかなかった。しかも日清戦争で軍への大口納入話を仲介した男に代金を踏み倒されて店が潰れかけるなど苦労が続いた。

 

明治39年9月1日に信治郎は屋号を寿屋洋酒店に変更した。新しい門出に際し葡萄酒のラベルもあざやかな金粉を加えた印刷に仕上げ、店内に棚を設けて並べ、問屋にも同じように陳列してもらった。さらに4色の色彩絵具で商品名を浮き彫りにした檜造の宣伝看板を各問屋や商店へ自らが木工店の職人と出向いて掲げてもらうと手代にも看板のお守代として祝儀袋を忘れなかった。得意先を回るのに購入したのは当時、百円、現在なら50万円以上もした輸入品の「ピアス号」で、昼間の船場界隈を「すまへーん、すまへーん、気い付けておくれやす、すまへーん」と猛スピードで走り回った。

 

購入先の五代自転車店の丁稚だったのがのちの松下幸之助で幸吉どんと呼ばれていた。修理したピアス号を届けるシーン。

棚の葡萄酒を珍しそうに眺める幸吉少年に信治郎は

「ところで今、何を見てたんや」

「す、すんまへん。こ、この棚の葡萄酒があんまりきれいなんで、つい見惚れてもうて。ほんまにすんまへん」

「何も謝ることはあらへん。坊の目にこの葡萄酒が綺麗に見えたか。そら、嬉しいこっちゃ」

「坊は故郷(くに)はどこや?」

「和歌山の海草だす」

「そうか、坊は紀州か。紀州は昔からええ商いがでける商人を出しとる土地や。坊も気張るんやで」

嬉しそうに信治郎を見返した目に強い光があったのに気付くとさらに続ける。

「坊には見どころがある。この棚の、この葡萄酒が綺麗やと思えることが商いの肝心のひとつや。商いはどんなもんを売ろうと、それをお客はんが手に取ってみたい、使うてみたい、この葡萄酒ならいっぺん飲んでみたいと思うてくれはらなあかん。それにはどこより美味いもんやないとあかんのや。ええもんをこしらえることが肝心や。ええもんをこしらえるためには人の何十倍も気張らんとあかんのや。そうやってでけた品物には底力があるんや。わかるか。品物も人も底力や。坊、気張るんやで・・・」

信治郎は丁稚の頭をやさしく撫でた。

 

この少年がのちに“経営の神様”と呼ばれる人物になろうとはお互い知るよしもなかったが二人が大阪から日本全国に商いの規模をすさまじい勢いでひろげ、やがて日本有数の企業となってからも、船場出身の商人として、互いに助け合う日々が来る。

(以下続く)