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ヒトラーの時代(28) 池内 紀

  • 2017年12月6日 13:14

「長いナイフの夜」

 

1934年6月30日から7月1日にかけての夜、大規模な血の粛清が生じた。ナチス・ドイツには底流として、つねに残虐劇がつきまとっていたが、これがその幕開けにあたる。一般には少々芝居がかった「長いナイフの夜」と呼ばれた。ヒトラーの指令のもとに、SS(親衛隊)と、創設されてまのないゲシュタポ(秘密警察)が総動員され、全国のSA(突撃隊)幹部らを襲撃、銃殺した。粛清されたのは政府発表では77名、パリの「粛清白書」には400名。戦後の調査では1000人以上にのぼる。反主流派を殲滅(せんめつ)させて、ヒトラーによる権力掌握の決定的な日となった。

本来、ナチスの防衛団であるSAを、その母体から生まれたSSが、どうして襲撃したのか? それについてはSAの成り立ち、以後の発展、指導者をたどらなくてはわからない。

一九一九年のワイマール共和国誕生とともに、さまざまな政党が誕生した。共産党、社会民主党、国家人民党、中央党、ドイツ国権党……、ひところは二十にあまる政党が林立していた。絶えず離合集散し、多数派をつくって政権についても、たがいに足を引っぱり合って何ごとも決まらない。短命の政府があわただしく入れ替わる間に、天文学的インフレが進行し、一時はドイツ通貨が用をなさなくなった。

突撃隊員と共にSAの行進をながめているシュトラッサーとゲッペルス。1931年。このときはまだ宿敵同士ではなかった。

突撃隊員と共にSAの行進をながめているシュトラッサーとゲッペルス。1931年。このときはまだ宿敵同士ではなかった。

当時の主要な政治的メディアはホールや広場での演説である。ラジオは始まっていたが、受信機が高価で、一般の人には手が出ない。党首が演台、あるいはベランダに立ち、長々と演説をする。それを支持者が取り巻いて、要所ごとに熱烈な拍手を送った。

当然、反対党が妨害にくる。支持者が撃退に打って出る。政治集会がしばしば乱闘の場になった。そのころの写真は、広場を埋めた大群衆の一方で、つかみ合い、殴りあう山高帽や鳥打ち帽のむれを伝えている。

おのずとどの政党も防衛団をそなえていた。極右団体にかぎらず、リベラルな党も屈強な若者をよりすぐって演説防衛隊をつくり、演台の周りに配置した。ワイマール憲法は、世界でもっとも民主的な憲法といわれたが、各政党はいずれも、前近代的な暴力組織に頼っていた。

1921年7月、ナチスの臨時党大会でヒトラーは党首に選ばれ、直ちに組織の改変に取りくんだ。これまで「整理隊」「秩序隊」「警備隊」などと呼んでいたのを「体育・スポーツ隊」に統一した。会場防衛が任務で、具体的には共産主義者の妨害を排除する狙いがあった。「体育・スポーツ」の名称は無害化して目的をくらますためだったが、意味不明で意気が上がらないといった声が隊員から出てきたのだろう。二カ月後の9月、「突撃隊(SA)」と改め、11月の党大会で正式に発表した。弱小政党ながら、それまでに何度か、集会場の乱闘で勝利を得ており、勇ましくて格好いい名称に昇格したわけだ。ヒトラーの古くからの盟友エールンスト・レームが突撃隊指揮官についた。

レームは一八八七年、ミュンヘンの生まれ。ヒトラーより二歳年長。第一次世界大戦では陸軍大尉であって、この点で伍長どまりのヒトラーのはるかな上官にあたる。軍事組織をつくる才能の持ち主だったのだろう。ミュンヘン一揆失敗のあと、党首ヒトラーが入獄中に「戦線団(フロントバン)」という三万人の組織をつくり、それをそっくり再建されたナチスの突撃隊として採用した。

ヒトラーにとってはSAはナチスの下部団体だが、育ての親レームには、自立した軍事部門であり、いずれナチスが政権につくときには、国防軍を補助する予定だった。そんな両者が折り合うはずはなく、一九二五年四月、対立が激化してレームは突撃隊指揮官を辞任した。ヒトラーは党員ザロモンを後任に任命、レームはボリビアより軍事顧問に招かれ、ミュンヘンを去った。

やがてナチスは国内の政情不安のなかで着々と勢力をのばし、1930年の国会選挙で第二党に躍進。この間、突撃隊は着実に増加したが、その一方で不満が高まってきた。薄給に据えおかれ、党員でありながら国会議員選挙の名簿にも加えられない。

共産党員とSAの睨み合い。1933年1月。ベルリン共産党本部前。

共産党員とSAの睨み合い。1933年1月。ベルリン共産党本部前。

1930年8月には、ベルリンの東部SA副司令官が部下を率いて、ナチス・ベルリン大管区長ゲッベルスの選挙演説を妨害する事態になった。守るべき者が逆に妨害を引きおこした。ザロモンが辞任したが、責任をとったというより、いっこうに改善されない待遇を党本部に抗議するためだった。さしあたりヒトラー自身が指揮官を兼務しつつ、急遽ボリビアのレームに帰国を促し、あわせて突撃隊員の報酬増額を約束した。

11月、レーム、帰国。ナチス突撃隊幕僚長に就任。一方、ヒトラーはSSのSAからの分離を指令した。SS隊長ヒムラーの要請に答えたもので、SAの指揮官はSSに命令する権限を持たない。独立を強調するため、SS独自の黒い制服を定めた。

以上が「長いナイフの夜」の前史にあたる。この間の三年間にレームの育成のもと、突撃隊は300万を数えるまでに増大した。国防軍をはるかに凌駕する勢力である。ヒトラーが権力を掌握し、全権委任を取りつけて二年目。1934年の初頭から、出所不明の不穏な風評がひろまっていた。SAが武装蜂起するというのだ。ヒトラーはわざわざナチ党の二番目の実力者レームに公開書簡を送り、「ともに協力して共産主義者との戦いに勝つこと」を呼びかけた。

これが1月のこと、ついで2月、ヒトラーは国防省にSAと国防軍の幹部を招き、双方の妥協と、国防軍の優位性をうたった協定書にレーム(SA隊長)、ブロンベルク(国防相)に署名させた。SAの準国防軍的役割を明確化したものだったが、レームはその夜、ひそかにSA幹部を集め、自分は協定を守るつもりはないことを言明した。「彼(ヒトラー)が一緒に来ないならば、我々は彼を置き去りにして進む」というのだ。秘密の会合のはずだったが、幹部の一人ヴィクトール・ルツェよりヒトラーにこまかく内報されていた。

6月始め、再びSAの武装蜂起の噂が流れた。6月5日、ヒトラーはレームと五時間に及ぶ会談をした。国防軍は国防相より、SAの武装蜂起にそなえ、完全武装で待機する命令をうけていた。一方、ヒトラーは内閣改造を実施して、レームを無任所相として入閣させる案を示していた。懐柔策でライバルを取りこもうとしたようだ。エルンスト・レームこそもっとも古くからの同志であり、ヒトラーとは唯一「おれ」「おまえ」で話せる仲だった。何としてもこの軍事的才能を、手元にとどめておきたかったのだろう。

粛清に傾くのは、副首相パーペンの演説あたりと思われる。6月17日、パーペンはマールブルク大学で政府の言論の自由禁止を非難し、SAによる第二革命に言及した。脅威としての警告を装って、SAの武装蜂起を期待していることはあきらかだった。蜂起を理由にヒンデンブルク大統領の命令で戒厳令を敷き、首相を解任するというのだ。パーペングループにそんな筋書きができていたらしい。

SAと社民党員との殴り合い。1932年。

SAと社民党員との殴り合い。1932年。

グループのメンバーの作家エドガー・ユングがパーペンの演説原稿を書いたとされている。ゲッベルスは演説の危険性を察知して、ラジオ、新聞の公表を禁止。パーペンは抗議して副首相辞任を申し出たが、ヒトラーは拒絶した。内閣の混乱を知られたくなかったからにちがいない。粛清後のことだが、パーペンは副首相を解任され、ウイーン大使に送り出された。演説原稿の起草者ユングは7月1日に殺された。

6月21日、ヒトラーは車椅子の大統領を訪問。もしSAの問題が解決されなければ、大統領令の戒厳令の下に首相の権限を陸軍にゆだねる旨の警告を受けた。ヒトラーがレーム派粛清の舵を切ったのは、この瞬間からだろう。直ちにゲーリング、ゲッベルスらと入念に最終計画を練った。

6月28日、すべてのSA上級指導者は二日後、バート・ヴィースバーデンでの会談出席を申し渡された。

その日、つまり6月30日、ヒトラーはゲッベルス、及び少数の側近とボンから飛行機でミュンヘンに飛んだ。早朝4時30分着。車で、レーム以下のSA幕僚たちの宿泊しているバート・ヴィースバーデン郊外のホテル・ハンゼルバウアーに向かう。到着午前七時。まだ全員が寝静まっているころあいである。即刻、よりすぐりの親衛隊により粛清が開始された。

一方、ヒムラー指揮下のSSとゲシュタポは、全国のSA支部を襲撃、レームの息のかかった者たちを銃殺。さらに別働隊が元首相シュライヒャー、元ナチ党員幹部シュトラッサー、元バイエルン首相フォン・カールらレームに肩入れしていたと思われる有力者の自宅に向かった。シュトラッサーはゲシュタポの拘禁所に連行され、射殺された。(公式には自殺と発表)。シュライヒャーは自宅でくつろいでいたところ、料理番の女に案内されて二人の客が訪れた。机に向かっている人は主人かとたずね、当人が「そうですが」と答えた瞬間、銃声がした。夫人が走り寄ったところ、これも撃たれた。

レームは逮捕され七月1日の午後、シュターデルハイム刑務所の独房にいた。その処置をめぐり協議したところを見ると、ヒトラーは苦難時代からの盟友の処刑に逡巡したようだ。ゲーリング、ゲッベルス、ヒムラー、いずれも処刑を進言。レームは翌日、独房内で射殺された。これを待ってブロンベルク国防相は「非常事態宣言」を解除した。

7月2日、大統領ヒンデンベルクは年来の友人フォン・シュライヒャー夫妻の殺害に憤慨して、事件の捜査を要求した。しかし、五体不自由の身で、メッセージすら伝えられず、逆にナチスが起草したヒトラー宛の祝電に署名を強要された。文面は親ナチスの官房長官の手になったと思われる。

「あなたが決断力のある行動と勇敢さによって反逆を芽のうちに摘み取り、ドイツ国民を重大な危機から救ってくれたことに、余は心からの感謝を伝え……」

7月3日、政府は「国家緊急防衛の諸措置に関する法律」、並びに「国家緊急防衛法」を閣議決定。直ちに発表された。法律は単一条文により、全文は次のとおり。

「1934年6月30日、7月1日、2日の叛逆および売国的攻撃を鎮圧するために執られた諸措置は、国家緊急防衛として正当なものとする」

殺した上で、殺しを正当化する法律をつくった

7月13日、ヒトラーは特別国会で「6月30日事件」にわたり、二時間に及ぶ演説をした。同時中継で国民向けラジオ放送も実施された。まず今回の事件の犠牲者は74名、3名の「自殺者」があったと伝えた。

「我が国の歴史のうちに悲しみと同時に警告の追憶となるべきこのたびの危機が、いかにして生じ、それがいかにして克服されたか、諸君に対し、また国民に対して明らかにするのが当演説の目的であり……」

すべての報道がナチス管理のもとに一元化されており、民衆操作は意のままだった。終了の時点から、事件は直ちに勧善懲悪劇にすりかえられた。大々的な殺人を「道徳的粛清運動」に仕立てあげる。そのためにはレームのホモ気質が格好の理由になった。6月30日の夜、SAのメンバーが、ずっとのちにイタリアの映画監督ヴィスコンティが「地獄に堕ちた勇者たち」で描いたような性的放埓を呈していたかどうか疑問だが、妄想の素材を提供していたことは確かである。国民はヒトラーの「決断」に喝采を送り、救世主神話を高めていく。

以後、SAが党内の非政治的補助組織となったのに対して、SSがヒムラーの指揮のもとに強力な別動機関として育っていった。さながら国家の中の国家であって、そのメカニズムのおもむくところ、総統の威光をも凌いだのである。

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