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あと読みじゃんけん (17)  渡海 壮  熔ける

  • 2017年11月16日 16:21

井川意高著『熔ける』(双葉社刊)は帯にあるように「カジノで106億8千万円を失った男の懺悔録」である。

ティッシュペーパーなど<エリエール>ブランドやこの名を冠した女子プロゴルフの大会スポンサーで知られる大王製紙の前会長、名前は「もとたか」と読む。カジノで使う資金を子会社から借り入れた会社法違反(=特別背任)により最高裁で懲役4年の実刑が確定、昨年末に仮出所したが「井川もとたかって覚えている?」と聞かれていくらニュースに明るい人でも「それ誰?」と答えるのではあるまいか。「海外カジノで大負けした大王製紙社長の御曹司・・・」と言っても「そんなこともあったなあ」程度かもしれない。106億円は地方都市の年間予算に匹敵する。有力企業のサラリーマン数十人分の生涯賃金、あるいは米プロバスケットボールリーグや欧州の有名サッカークラブの超人気選手だって年収の何年分、といってもピンとこないだろうがとにかく“とてつもない金額”であることは間違いない。

 

 井川意高著『溶ける』(双葉社刊)

 

大王製紙は手すき和紙の産地として有名だった愛媛県東部の伊予三島(現・四国中央市)に井川の祖父、伊勢吉が1943年(昭和18年)に創業した。東予地方と呼ばれるこの地には書道で使う半紙や奉書紙を作る数百もの小さな製紙会社があったが伊勢吉は戦後の急成長という時流にうまく乗り全国レベルの大会社に育て上げた。意高はその孫である。創業家二代目髙雄の長男として1964年(昭和39年)に生まれ、小学校までを大王製紙の四国本社がある伊予三島で育った。祖父母の家と自宅は隣接しており土地は合わせて1200坪あったから家にやって来た友達と庭を運動場がわりにして「三角ベース」をしてよく遊んだという。東京の中学校を受験することになったのは営業を担っていた父の転勤による。第一次オイルショックが一段落し会社の営業ターゲットが従来の段ボール原紙や新聞社への用紙供給から大きく変わる。新たに出版物向け用紙のマーケットを開拓するため営業本部長として出版社が集中する東京で陣頭指揮を執ることになった。小学校5年生から夏休みなどを利用して東京の予備校に通い、6年の三学期だけ渋谷区立の小学校に転校した甲斐あって合格した私立と公立の2校のうち、父親の意向もあって授業料が安く中高一貫の東京教育大学附属駒場中学校(のちの筑波大学附属駒場中学校)に通った。

 

競争率10倍以上の難関校だけに優秀な生徒ぞろい、熱心に勉強しなくても田舎ではトップだったのに勝手が違った。周囲の生徒との学力差は開く一方で、とりわけ英語の授業にはついて行けず、中学2年の頃は学年最下位に近かった。これを知った父親は、自身が慶應大学英文科出身ということもあって怒り心頭に発するところとなる。平日は取引先との会食があっても終わるとすぐに帰宅、土日も半日以上かけて英語を叩き込んだ。ものを投げつけるだけでなく、鉄拳制裁もしょっちゅうで「ゴルフクラブを振り上げる父のスパルタ鬼教育」、「瞬間湯沸かし器の父から喰らった往復ビンタ」の見出しさながらの厳しい指導が続いた。中学は1学年120人、高校は同160人で毎年、浪人も含め120人以上が東京大学に進学する。東大に合格できない者は劣等生と見なされる雰囲気があり、必然的に周りの生徒と同じように東大へ進学しようと考えるようになった。父親のスパルタ教育を受けた中学時代の劣等生は高校になると自己流ながら地道な勉強を重ね東大法学部への現役合格を果たす。

 

大学ではゴルフサークルに入り、車の免許を取ると買ってもらった外車は「BMW635を乗り回した東大生時代」にあるようになんと1000万円以上の新車で、一度もバイトをしたことはないというのもさすがにお坊ちゃまらしい。学生時代から銀座などで自由に遊んでこられたのはファミリー企業の役員としての交際費が使えたことや、翌日の仕事に備えて取引先との会合は早目に切り上げるという父親の<身代わり>に出向くのがしょっちゅうだったということもある。この本は出版前から有名女優や人気女性タレントらとの交際が紹介されるらしいというので週刊誌などで噂になったがそこはあえて控えておく。卒業後は当然ながら大王製紙へ入社した。借金900億円の赤字会社を立て直し、王子製紙による日本初の敵対的TOBを切り抜けて42歳で社長に就任する。ここまでは井川家三代目の<予定コース>だった。有名会社の社長や歌舞伎役者、いまや実業家として人気のあるホリエモンこと堀江貴文らとの交友録もさまざま語られるが割愛させていただく。この本を取り上げる気になったのもあくまでなぜここまでカジノに溺れたのかのほうに興味があるからだ。

 

初めてカジノを体験したのは30代前半、ゴールデンウイークを使った家族旅行でオーストラリア東海岸のリゾート地・ゴールドコーストだった。「軍資金」として用意したのは帯封がついたままの100万円。どうせ失っていいと思ったのに見事に大勝ちし数日間で2000万円を稼いだ。この大きすぎたビギナーズラックが後に恐るべき底なし沼に引きずり込まれる快感体験となる。その後の10年ほどは年2回の長期休暇のうち1回はラスベガスへ出かけたがまだほんの余興程度の遊びだった。

 

浮き沈みはあったものの傍からは順風そのものにみえた人生が一挙に奈落へと転がり始めたのは社長に就任してから。六本木のクラブで知り合った人物がマカオのカジノホテルの「ジャンケット」の資格を取り、そこへ誘われることでのめり込んでいく。なかでも好んだのは偶然性が大きいバカラ。ジャンケットは世界中からやってくるVIPとカジノとを繋ぐエージェントのような存在で、コンシェルジュとカネ貸しを兼ねる。電話一本で往復の飛行機からホテルの手配などいっさいをしてくれる。空港との送り迎えは高級車ロールスロイス、泊るのは一流ホテルのスイートルーム、ギャンブルに興味のない同伴者はレストランやショーなどに案内してくれる。たとえ数千万の負けとなってもそのまま一発逆転の勝負を続けられる。一方的に負け続けたら誰しもこうまで深入りしなかっただろうが、時に大勝を重ねると自身の運とツキを信じて更に掛け金を積む。なかでもカジノにとっては上得意となったこのVIPルームの客はいつも勝つまで止めようとしない。目の前に積まれた大量のチップをさらに増やせると信じ「まだまだ。もっとだ。もっと勝てるに決まっている」――東日本大震災が起きた2011年(平成23年)3月期の連結決算が182億円の巨額赤字になった責任を取って社長を辞任し会長に退いた頃からはマカオからシンガポールの高層カジノホテル「マリーナ・ベイ・サンズ」に転戦し、ますますのめり込んでいく。数千万の掛け金がやがて億を超えるようになっていく。前年の5月以降、カジノでの負けを子会社7社から借り入れる手法で総額はすでに50億円を超えていた。

 

最後の勝負は目の前に積まれた20億円のチップだった。運と偶然のみが支配するバカラの勝負に私は全生命をかけて挑んだ。カジノ史上誰も成功させたことがない奇跡を呼び起こす。そして伝説をつくる。目の前に開きかけた地獄の釜の蓋を、我が強運によって轟音高らかに閉じてみせる――。

 

だが、ひとたび開いてしまった地獄の釜の蓋は、二度と閉じることはなかった。48時間の死闘が終わったとき私は煮えたぎる熔鉱炉のごとき奈落で熔解していた。

 

ギャンブルに没入するあまり、周囲のことがまるで見えなくなり、連結子会社から借り入れを繰り返していた。「どんなに借りても、いずれは自分のカネから返すのだから・・・」と、自分勝手な言い訳を繰り返しながら、さらに蟻地獄の奥深くへと落ちていった。

 

自分が犯した愚かな罪から、誰かに何かを伝えるほどのものは何もない。本書を手にとってくださった方には、一人の愚かな男の転落記として読んでいただければ充分だ。一番信用できないのは自分――1068000万円の代償として私が得たものは、かくも悲しい事実のみだった。

 

(出所後の「独白」を加えた同名の幻冬舎文庫=写真が本年1月に出版された)

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