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ヒトラーの時代(27) 池内 紀

  • 2017年10月5日 18:05

強制収容所第1号

建築家ヒトラー

建築はヒトラーにとって終生かわらぬ情熱だった。当人も自分の志向を自覚していたのだろう。『わが闘争』の生い立ちをつづったくだりに、ウィーン美術学校入試に二年つづいて失敗したとき、学長から絵画はダメだが建築には才能があると指摘されたと述べている。

学長がわざわざ不合格者に、そんな感想を口にするかどうか疑問だが、受験のとき参考画を提出してもよいきまりがあって、受験生アドルフ・ヒトラーが提出した建物の素描が残されている。設計に際して建築家が「完成図」として描くのと似ており、一つの建物の全貌がわかるぐあいに描きとめてある。背の高い痩せっぽちの受験生のしょげ返りぶりを見て、わきにいた学長が参考画をとりあげ、ひとこと慰めを言ったのかもしれない。

その点はともかく、以後の数年、美術学校がかなわず、仕送りもままならず、浮浪者のような暮らしをしていたころ、建築が「飯のタネ」になっていたことはたしかである。ウィーン名所の建物をペンで絵葉書大に描きとめる。浮浪者収容所の仲間がそれを夜の酒場で、「某有名画家直筆」として売りあるいた。口上は怪しくてもタバコ代程度の安値とあって、酔っぱらいが我が家への手土産に買わないでもない。元美術学校受験生は写真絵葉書を手本にペン画に仕立てたが、まわりで見物の浮浪者は口々に、世に容れられない天才を称賛した。そんなとき政治談義の好きな青年は口をゆがめて、自嘲のセリフをつぶやいた。

ウィーンの建築家マクス・ファビアーニによると、二十代はじめのヒトラーがウィーンからミュンヘンに移る少し前のことだが、三か月ばかりファビアーニの事務所が図工として採用したという。ミュンヘンへ移ると聞いて、ミュンヘンの建築事務所ハイルマン&リトマンを紹介した。

マクス・リトマンは劇場建築で知られていた。ヒトラーがそこに勤めたかどうかは不明だが、リトマン設計の劇場のことはよく知っていて、首相になってのちのことだが、話題が劇場建築に及ぶと、こまかい数字をあげて説き立てた。ヒトラーは初めてガルニエ設計のパリ・オペラ座の前に立ったとき、誰も気づかなかった改造された部分を的確に指摘したと、建築家アルベルト・シュペーアは述べているが、「総統の建築家」として名を馳せた人物であって、ヒトラー神話化のケースにあたるかもしれない。

「総統の建築家」アルベルト・シュペーア

「総統の建築家」アルベルト・シュペーア

ミュンヘンの超過激派政党の党首時代は建築どころではなかっただろう。武力闘争を捨て、合法政党に転じ、1929年、おりからの経済不安に乗じて急激に勢力を拡大していたころであるが、ヒトラーはミュンヘンのサロンでパウル・トローストを知った。みずからは建築家を名乗っていたが、むしろインテリア・デザイナー、特に客船のデザインで知られていた。要するに建築家としては、ほとんど仕事の場がなかったからである。

ヒトラーはトローストを「ヘア・プロフェッサー」と呼んで才能を高く評価した。それまで建築家としては無名だったトローストは、ヒトラー直々の依頼による「ナチ党本部」や「ドイツ芸術会館」の設計によって一挙に世に知られた。

1933年10月、ドイツ芸術会館の定礎式にあたり、ヒトラーは「八都市改造宣言」を発表した。ドイツの主要都市をナチスの考えにもとづいて、大改造する。ベルリン、ミュンヘン、ハンブルグ、ブレーメン、ライプツィヒ、ケルン、エッセン、ヒュムニッツの八都市で、ドイツの首都、州都、中核都市にあたる。

なかでもベルリンには「ゲルマニア計画」という壮大な都市改造が想定されていた。「世界を支配する第三帝国の永遠の都市『ゲルマニア』建設」をうたい、十九世紀フランスでオスマン男爵が設計したパリ大改造に匹敵する。首都中央部にはトロースト好みの新古典主義の様式でアドルフ・ヒトラー広場、総統官邸、国防軍最高指導部、新国会議事堂、新パンテオン、凱旋門など整然と並んでいる――

様式はトロースト直伝だが、あきらかに総統のトロースト崇拝を見こしてのことで、設計図を引いたのは別人である。アルベルト・シュペーア(1905〜81)は当時二十八歳、ベルリン工科大学建築学科助手。ヒトラーに見出された才能の一つで、のちに回想記に述べている。

「私は二十八歳だった。大仕事がやらせてもらえるなら、ファウストみたいに魂を売ってもよいという気持ちだった。そういうところへ、私のメフィストが現れたのである。彼はゲーテのそれに劣らず魅惑的だった」

当時は経済不況のさなかであって、「ゲルマニア計画」が机上の空論であることはよく知っていた。だからこそなおのこと、青年建築家は壮大なと都市設計にいそしんだ。建築学科のファウストは、ありったけの夢想を盛りこんだ。たしかに広場一つも実現できなかったが、メフィストの目にかない、以後、「総統の建築家」として縦横に腕を振るった。

1937年、シュペーアは総統令によって首都建築総監兼土木総監に任じられた。若冠32歳だった。好みの建築家集団を組織してよし、またすべての官庁に自由に出入りできる。ついでシュペーアはニュルンベルクのナチ党大会会場の設計を依頼され、四十万人収容の「ドイツ・スタジアム」とともに「光の大聖堂」を設計した。ドイツ・スタジアムはあまりの巨大さのため見送りとなったが、もう一つの案は実現した。対空サーチライト140基が天空に「光の大聖堂」を描き出した。

アルベルト・シュペーア設計による、ニュルンベルク・ナチ党大会会場の40万人収容のドイツ・シュタジアム。1973年

アルベルト・シュペーア設計による、ニュルンベルク・ナチ党大会会場の40万人収容のドイツ・シュタジアム。1973年

同年、パリ万博に展示されたシュペーアの「ニュルンベルク都市計画案」はグランプリを受賞。ヒトラーに「あらゆる時代を通じて最大の天才」と褒めそやされた。

 

1936年のベルリン・オリンピックは世界中にナチス・ドイツの躍進ぶりを見せつけた。とりわけ人々はオリンピック・スタジアムの壮大さに目をみはった。公称六万人だが、優に十万人は収容できる。当時としては破天荒のスケールだった。さらに要所にはエレベーターや電動式移動設備がととのっていた。一般人にはうかがい知れぬことながら、スタジアムの下にあるトンネル、あるいは観覧席の地下構造物など、スポーツ施設をこえており、見る人が見れば戦争に備えた軍事施設の性格を感じとっただろう。

「ゲルマニア計画」が典型だが、ナチス時代の建築は破格の大型プロジェクトを特色とした。トローストは設計した「ドイツ芸術会館」の完成をみずに1934年死去したが、もし現物に立ち会っていたら、その途方もない大きさに唖然としたのではあるまいか。

ヒトラーにとって公共の建物は巨大で、かつ壮麗でなくてはならない。その大きさが国民に、みずからの偉大さ、存在の意味深さを思い出させる。建物が大きければ大きいほど、市民には国家が強大なものに見え、アーリア人の偉大さを伝えて、民族共同体の意識を高めていく。建造物がナチス原理の効果的なメディアの役割を果たしていく。

さらに「ゲルマニア計画」見てとれるのは、首都と他の都市の一体化である。ベルリンが首都として中心的な都市であれば、そのまわりに総統都市が中核をつくり、他の諸都市がこれに準じる。おのずと建築物にも都市のヒエラルヒーが適用される。パレードに欠かせない広場にしても、都市のスケールに応じており、バイロイトでは収容者数30000人とすると、ワイマールでは60000人、アウクスブルクでは100000人、ドレスデンでは300000人規模というわけである。

ナチス特有の大集会を催すホールでは、座席数がかかわってくる。バイロイトが5000人とすると、ワイマールでは15000人、アウクスブルクでは20000人、ドレスデンでは30000人となる。ホールはつねに市民の半分は収容しなくてはならない。市民ホールには党本部が寄りそい、鐘の音が民族共同体に呼びかける。そのため党本部の建物には、教会に似た鐘の塔が付属していなくてはならぬ――

ナチスは「第三帝国」を、古代ゲルマン時代の行政区画になぞらえて「ガウ(大管区)」で区分した。大管区の中核が「ガウシュタット(大管区都市)」である。おのずとその下には中管区、小管区にあたる都市が位置づけられる。

帝国のすべての建物は様式的に統一され、都市の区分に応じて建物の大きさ、塔の高さ、収容者数も定まってくる。大管区都市は、古代ローマ時代に市民集会の裁判などにあてられた「フォールム(公共広場)」をもち、それは旧市街のはずれに設置される。そこで建物とフォールムが一体となって、旧市との相違をきわ立たせ、ナチス思想を視覚化して伝えるはずだった。

ヒトラーが先に八都市、ついで五つの総統都市の大改造を発表したのは、建築と権力と理念とを造形として実現するためであって、壮大なプランに応じて精巧な模型がつくられた。1937年にはその実現のためのスタートの年であり、土木総監シュペーアの名において第一次五年計画が発表された。さしあたりはベルリンで着手。第二次、第三次と継続して、壮大な建築群が出現する。ヒトラーが唱えた「千年帝国」は、わずか12年で終了した。もし千年つづいていたら、奇妙に画一化した大小の都市がドイツ全土に散らばっていたにちがいない。

ナチス首都建築総監アルベルト・シュペーアのもとにいくつものチームがつくられ、首都改造にとりかかったが、大プロジェクトは総統の思いつきのたびに、変更されて、実質的にはほとんど進まなかった。独裁者の時代にはよくあることだが、夢のような青写真をつくり、とりかかると無理なことがわかってとりやめになったり、その場しのぎの変更をした。ベルリンの地下には不思議なトンネルや地下壕が無数にあって、新しく発見されるたびに「ナチスの隠し金塊」とか、運びこんだ名画が噂になったが、とどのつまり、目的不明の工作物と判明する。総監シュペーア自身、首都大改造をどこまでまともに受けとめていたものか。総統のご機嫌とりに、形だけ地下工事を始めたことにしていたのではなかろうか。

案の定、第一期五カ年計画自体が二年たらずで放棄された。ヒトラー・ドイツは第二次世界大戦に突入した。当然のことながら「ゲルマニア計画」は中止、シュペーアのまわりにできた建築集団は、大管区都市の整備ではなく、首都防衛のための土木工事、また西部要害や大西洋要害の建造に振り分けられた。要害の設計にあたっても、ヒトラーの狂気じみた特色が見てとれる。シュペーアが総統から受けとっていたメモには、西部要害は二万二千の要塞の建設からなり、大西洋の要塞には、攻撃型、監視塔型、司令塔型、防空壕型、都市要塞型の五種が細かく指示されていたのである。

ノルマンディ一帯には指令塔型と防空壕型があてられていた。フランス占領が完成したのち、シュペーア隊がノルマンディ要塞建設に取り組んだ。1944年の連合軍ノルマンディ上陸のあと、イギリス、フランスの軍事技術者たちは要塞建設のあざやかさに舌を巻いた。本来は全部爆破すべきものであるが、フランス政府は建造技術を惜しんで、いくつかを残すことにした。現在それらはノルマンディ観光の名所の一つになっている。

 

「総統の建築家」のその後について、少し触れておく。一九四二年、高速道路の建造をはじめ、国家的事業を推進したトット軍需相が飛行機事故で死亡。ヒトラーに諫言した直後のことで、謎の死が取り沙汰された。

宮廷地下壕で「総統都市」リンツの改造案を検討するヒトラー、1945年.(自殺の二カ月前)

官邸地下壕で「総統都市」リンツの改造案を検討するヒトラー(1945年。自殺の2カ月前)

シュペーアがあとを継いだ。行政手腕の点でも卓抜した人物だったのだろう。軍需品の生産を飛躍的に増大させて総統をよろこばせた。シュペーア当人には本意ではなかったのだろうが、このファウストはいや応なくメフィストのふところに取りこまれていく。

1944年、ヒトラーは敗北を予期し、先んじてドイツ全土を焦土と化す「焦土作戦」を命じた。忠実な土木総監兼軍需相は、初めて独裁者に逆らった。焦土作戦を阻止するため、さまざまな奔走をした。東部戦線のソ連軍が刻々と首都に近づき、西からは連合軍が攻め上がるなかで、ドイツ国防軍を説得し、ナチ幹部には術策をもってあたって、命がけの潜行と脱出をくり返しながら、首尾よく焦土作戦中止をかちとった。

戦後、ニュルンベルクの裁判でナチスの高官として被告となり、戦争に対する「共同責任」を認め、二十年の禁固刑に処せられた。

敗戦まぎわ、1945年2月9日の日付入りの写真が残されている。場所は総統官邸地下壕、大元帥の制帽、制服、手に白い手袋を握りしめたヒトラーがシュペーア・チーム作成のリンツの改造模型に見入っている。ドナウ河畔の町リンツはヒトラーの故郷であり、そのため総統都市に格上げされていた。

赤軍に包囲され、陥落まじかのベルリンである。ヒトラーの自殺は二カ月あまり後のことだ。そのまぎわに改造都市のモデルを前に独裁者は何を思っていたものか。狂気と接した正気、あるいはその逆の姿というほかないような気がする。