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ヒトラーの時代(26) 池内 紀

  • 2017年8月28日 16:42

 

ゲシュタポの誕生

ヒトラー政権誕生の二カ月後にあたる1933年4月、プロイセン首相ヘルマン・ゲーリングはプロイセン州政治警察を、ベルリンのプリンツ・アルブレヒト通り8番地に移し、独立の部局とした。六月、正式名称を「ゲハイメ・シュターツ・ポリツァイ(秘密国家警察)」と決定。いわゆる「ゲシュタポ」、「無慈悲」の代名詞として恐れられた国家機関の誕生である。プリンツ・アルブレヒト通り8番地を本部として、やがて順次、各地に分署が設けられた。開戦後は占領地に拡大した。

初代長官はルドルフ・ディールス。翌34年4月、SS国家長官ハインリヒ・ヒムラーにゲシュタポの管理権が代理委譲されてより、ヒムラーとその部下ラインハルト・ハイドリヒのもとに戦慄すべき部局へと変貌していく。なお「ゲシュタポ」の用語は郵便局員が

Geheime StaatspolizeiのGe・sta・poを組み合わせて短縮形のスタンプをつくったのに由来するといわれている。

時代はややさかのぼる。19世紀の80年代は、新興ドイツ帝国の首都ベルリンがとめどなく膨張していたころだが、目抜き通りのウンター・デン・リンデンから少しへだたったプリンツ・アルブレヒト通りの9番地に一つのホテルが誕生した。当初は「ホテル 四季」、十年ほどして「ホテル・プリンツ・アルブレヒト」と改名。「ルネサンス様式の華麗な一流ホテル」と案内にあるが、当時ベルリンの代表的なホテルの「アドロン」や「カイザーホーフ」よりはやや劣るクラスとみなされていた。

ホテル・プリンツ・アルブレヒト。後のゲシュタポ本庁

ホテル・プリンツ・アルブレヒト。後のゲシュタポ本庁

狂乱の1920年代にホテルとして立ちいかなくなったのだろう、となりの8番地にわたって改築され、プロイセン芸術工芸学校になった。

1933年、ナチス政府の所有となり、ヒムラーを長官とするSS(親衛隊)の本部になった。のちに「プリンツ・アルブレヒト」は顔をこわばらせてささやかれる地名になったが、本来はにこやかに旅客を迎え、また芸術家、工芸家の卵をやしなうところだった。写真には十九世紀末におなじみの装飾の多い鈍重な建物が見える。正面は女神が柱頭を担うかたち。屋上にメダイヨンのような飾りファサーデがのっている。少なくとも外観からは、合法的テロ集団の拠点であったなどとはつゆ思えない。

SSの組織は急激な拡大につれて変遷があったが、一応落ち着きに至った1939年以後で見ると、ゲシュタポはSSの一部局、国家保安本部(RSHA)傘下の保安警察(SIPO(ジポ))に属し、その「罤6局」にあたる。SS中将ハインリヒ・ミュラーがゲシュタポ長官として指揮をとった。

ゲーリングからヒムラーへの管轄委譲を伝えるナチ党新聞

ゲーリングからヒムラーへの管轄委譲を伝えるナチ党新聞

同格の「第5局」が刑事警察(KRIPO(クリポ)でネーベ中将が長官をつとめた。ついでながら保安警察の同格として保安諜報部(SD)があり、これは「第3局(内務局)」と「第4局(外務局)」に分かれていた。名称はそれぞれ微妙に異なるが、いずれもスパイ活動を任務として、反ナチスを摘発、超法規で処理する権限が与えられていた。いかにナチス・ドイツが入念に国民監視の網を張りめぐらせていたかが見てとれる。

ゲシュタポはSS内の一部門にすぎないのに、その悪名がとどろいているのは、反ナチス、またレジスタンスの人々を捕え、拷問し、虐殺した凄絶な歴史による。もっとも速くにゲシュタポ通史として著されたジャック・ドラリュの『ゲシュタポの歴史』が、邦訳では『ゲシュタポ・狂気の歴史』となっているのは、組織が先鋭化するにつれ、狂気の沙汰としか思えないことが横行したからである。

1933年の設立当初、ゲシュタポ本部のスタッフは200人から300人だったと推定されている。翌年4月、ヒムラーに権限委譲されて、680名に増加。1940年には1100人を数えた。十年足らずで設立時の四倍から五倍の増加からも、いかに猛威を振るったかがうかがえる。

当初、ゲシュタポが標的としたのは共産党員だった。ナチス政権誕生直後、国会議事堂放火事件を名目に非合法化され、選挙で選ばれたばかりの国会議員七十八名は、一度も登院できないまま資格を抹消された。非合法化されたがドイツ共産党(KPD)は依然として最大の野党であり、左翼勢力の牙城だった。共産党殲滅のために、ゲシュタポは手段を選ばなかった。名目は何であれ、「反ナチスの陰謀」をデッチ上げ、逮捕、拘留、拷問をくり返した。ハンス・オトー事件がもっとも早い時期の典型的な一例である。

ハンス・オトー(1900〜1933)は、早くから俳優の道にすすみ、フランクフルト、ハンブルグを経て、ベルリンの劇場の若手俳優として嘱目されていた。演劇だけでなく社会問題にも関心をもった青年は二十代で共産党に入党、1931年、ドイツ俳優連盟左翼部会委員長。ドイツ労働者演劇連合委員長、反ナチス党総本部の主要メンバーと目された。

1933年12月、ハンス・オトーはゲシュタポに逮捕され、十日後、建物五階から墜落死。書類上は事故死だが、同僚の報告がべつの事態を告げている。

もう少し詳しく言うと、12月13日、ベルリン市中の小さなレストランで仲間と一緒に逮捕された。密告者がSA(突撃隊員)を現場に案内した。オトーたちはなじみのレストランで次の芝居の相談をしていただけであるが、それが反アチス謀議とみなされた。逮捕された全員はSA分署に連行され、したたか殴る、蹴るの暴行を受けた。

「彼らが疲労して中止するまで続けられた」

4日後、ベルリン郊外のケペニックへ連行された。イヤな臭いのする防空壕に、同じく連行されてきた男や女たちがいて、全員がSAから手ひどい扱いを受けた。さらにSAのべつの分署に移され、プリンツ・アルブレヒトのゲシュタポに引き渡された。連日、尋問と拷問がつづいた。食べ物、飲み物は一切与えない。ゲシュタポは反ナチス陰謀の証言をとりたかったのだろうが、ありもしない謀議を伝えようがない。その間、真夜中ごろ、仲間の一人がハンス・オトーを見かけた。主謀者として隔離して尋問されていた。

「もはや話せなかった。口も目も大きく腫れ上がり、ただ、呻くだけだった」

数時間後に見かけたのが最後だった。「半裸体で、顔の見分けがつかなかった。全身血まみれで、気を失っていた」

屋上からの墜落はその直後のこと。突撃隊員が運び上げて、投げ落としたと思われる。

証言者がいるのは、逮捕から拷問、虐殺までの手順がシステムとして確立されていなかったせいだろう。その後、権力側は迅速に「学習」した。そのためにハンス・オトー事件のケースは数多くあったはずだが、表面に出るのは、めだって少なくなる。拷問と虐殺を「事故死」「病死」とスリかえるシステムが完成していた。

いかにゲシュタポでも証拠なり密告がないと、逮捕は難しい。そのために愛用したのはシュッツハフト(保護検束)である。「国家と民族の敵」とされる人々を保護するという名目で拘束する。

保護検束は通常、地区警察の要請をゲシュタポ長官が了承する形で行われた。検束者の正確な数は不明だが、逮捕された者の名前の頭文字に通し番号をつける方法で記録された。そんな書類の一つに「M 34591」が残されていて、1945年までに少なくともMで始まる姓の人三万四千五百九十一人が検束されたことを示している。総計でどれほど多数が「保護」のもとにしょっぴかれたか。「保護」のあと拷問ののち、辛うじて生きのびても、次には強制収容所の「保護」へと移され大半がそこで死んだ。あるいは殺された。

辛うじて生きのびた人々の証言によって、本庁、分署を問わずゲシュタポ内部の構造はおおよそわかる。正面玄関を入ると、正面にSS長官ヒムラーの写真が掲げてあり、テーブルは卓布にかえて鉤十字の旗で覆われている。

「執務室」と呼ばれる部屋を通り抜けると、地下室じみた廊下につづく。赤味がかった小灯が点々とともり、弱々しく辺りを照らしている。廊下の左右は頑丈な扉のついた小部屋(独房)で、さらにいくつもの重々しい格子戸を抜けていくと、最後に窓のない一室に行きついた。奇妙な道具がいくつか置かれていて、天井から鎖つきの鈎のようなものが下がっている。

執務室の経過も、ほぼ定まっていた。冷ややかなヒムラーの写真のもとにドアが開け閉めされ、長靴をひびかせた男たちが忙しく出入りしている。まずSD(の管轄で、制服の袖口に黒いSDの縫いとりのある係官が身分証明書を調べて書きとめる。たいてい偽造の証明書だが、とっくに承知ずみのように一切問わない。次に連行者がわずかに身につけている小物、財布やネクタイを没収。すべてが商取引きさながらの手ぎわよさで処理されていく。

かわってSSの係官が執務室にやってくる。カーキ色の制服にSSの黒いマークをつけ、手首に革リボンつきの一メートルほどの鞭をたらしている。拷問者にはこれが出番を意味しており、連行者に声をかける。

「アルゾー・ロース(では、いくか)」

それから弱々しい明かりの照らす廊下を、いくつもの鉄格子のドアを音高く開け閉めして、先に触れた窓のない部屋へつれていく。現場ではSSのほか、逮捕したゲシュタポが立ち会った。

戦後明るみに出たゲシュタポの独房跡

戦後明るみに出たゲシュタポの独房跡

さまざまな拷問の仕方があったようだが、さしあたり共通して一つの尋問形式をとった。天井から滑車のついた鎖がぶら下がっていて、鎖の端に頑丈なS型の鈎がついている。連行者はうしろ手に縛られたまま鎖の前につれて行かれ、鉤がうしろ手の縛り目にかけられる。ついで滑車がまわり、連行者は鎖で床から一メートルばかりの高さに宙づりにされる。そして「仲間は? 隠れ家は? 連絡の方法は?」といった尋問を受ける。

とびきり頑健な肉体の持ち主でも、そう長くは我慢できない。両肩が割れ、ある証言者によると「フライパンから玉がとび出るように」両肩が脱臼して、全身が宙吊りになる。肩からもがれたうしろ手がぶら下がり、その手が頭上でねじくれている。その間にも、たえまなく革の鞭が降ってきて、みるまにズボンが裂けていった。もっとも苦痛の多い肩の脱臼による宙吊りは、ゲシュタポが効果を見定めた方法だろう。脱臼をもとにもどせば、何度でもくり返しがきく。証言を拒めば、焼いた針を刺しこんだり、火のついた葉巻を押しつけたり、基本の宙吊りに、いろいろな「細工」をしていく。拷問担当はSDなどと比べて下級官吏とされたが、肉体に加える途方もない無法に関しては、上級官よりも下級官吏が有能で知恵に満ちているものなのだ。

ヒトラー体制を支えていたものは、ゲシュタポ、強制収容所という「装置」だったことはよく言われる。拷問はナチスにかぎらず、至るところでなされたし、今なおひそかに至るところでなされているだろう。それはナチスの専売特許ではなかった。しかし、まさに拷問において第三帝国が現にあったとおりのものとなったのも事実だろう。金色の党員バッジや純血や勲章が、総統とそのイデオロギーの召使いにしたわけではない。もう一つ、優秀な召使は拷問することができなくてはならない。「他人の苦しみを耐えることにおいて偉大」でなくて総統の臣民とはいえないのだ。

ナチズムはいかなる理念とも縁がなかったが、混乱し、錯綜した理念の「片われ」はどっさりもっていた。唯一の政治組織として非人間的な支配を実践した点では、他のテロ政体とかわりはないが、ナチズムの独自性は、非人間的な支配を、はっきり原理として確立していた点にあったといえる。ユダヤ人問題に見るように人間性の破壊と奴隷化を実践しただけでなく、手をかえ品をかえてそれを理論づけた。拷問においても同様で、拷問を原理として、国家の機密を独占しようとした。

辛うじて生きのびたユダヤ人の一人、ジャン・アメリーは、ナチス・ドイツを省察した『罪と罰の彼岸』に「拷問」の章を設けて、そこで述べている。

「拷問という悪夢の体験を突きぬけて、一つの認識が残っている。もはやいかなる人間的なまじわりによっても、この世との違和感を消し去ることはできない」

愕然として知ったわけだ。絶対的な支配者としての他人がおり、その支配権は社会契約にもとづく権力とはまったくもって無関係なのだ。呻いている相手を見下している拷問官は絶大な勝利を得た一人の強者であって、拷問によって限りなく自分を主張する他人であり、この世から死の世界へと追いやる者を傲然と見つめている。ごく身近な拷問の一種である強姦になぞらえるとわかりやすいかもしれない。

「拷問された者は二度とふたたび、この世になじめない。屈辱の消えることはない」

拷問されるなかで崩れ去った世界への信頼というものを、もう二度と取りもどせないからだ。

ヒトラー体制の中核として機能した組織に、SSのほかにSDとRSHAがあったことは先に述べた。ゲシュタポ同様に略称を通称として国民にニラみをきかせた。おおかたが聡明な若者たちで構成されていた。当初は知的な教養人であり、理想に燃えてナチスに入党した。その知識人部隊が、またたくまに変質した。国家的監視システムだけでなく、東欧ユダヤ人の絶滅という恐るべき企ての中核となった。どうしてこんな事態が生じたのだろう?

心理的にも社会的にも微妙な問題を含んでおり、ナチス研究であまり手をつけなかった分野にあたる。ナチス組織の有能なテクノクラートとして、昇進を競うなかで、期せずして先鋭化していったのか。ナチスはユダヤ絶滅の正当化にあたりレトリックを多用したが、若手の実務官僚たちも、ナチス原理を巧みに消化して、みずからレトリックの実行者となったのか。

いずれにせよそのなかで巧みなシステムが編み上げられた。アイヒマン裁判で実証されたが、責任者が表にあらわれないのだ。ユダヤ人問題、また拷問の事実を知りながら、仕方がないと呟いて、大方の市民は良心をくびり殺していられたのである。

 

 

 

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