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ヒトラーの時代(26) 池内 紀

  • 2017年8月28日 16:42

 

ゲシュタポの誕生

ヒトラー政権誕生の二カ月後にあたる1933年4月、プロイセン首相ヘルマン・ゲーリングはプロイセン州政治警察を、ベルリンのプリンツ・アルブレヒト通り8番地に移し、独立の部局とした。六月、正式名称を「ゲハイメ・シュターツ・ポリツァイ(秘密国家警察)」と決定。いわゆる「ゲシュタポ」、「無慈悲」の代名詞として恐れられた国家機関の誕生である。プリンツ・アルブレヒト通り8番地を本部として、やがて順次、各地に分署が設けられた。開戦後は占領地に拡大した。

初代長官はルドルフ・ディールス。翌34年4月、SS国家長官ハインリヒ・ヒムラーにゲシュタポの管理権が代理委譲されてより、ヒムラーとその部下ラインハルト・ハイドリヒのもとに戦慄すべき部局へと変貌していく。なお「ゲシュタポ」の用語は郵便局員が

Geheime StaatspolizeiのGe・sta・poを組み合わせて短縮形のスタンプをつくったのに由来するといわれている。

時代はややさかのぼる。19世紀の80年代は、新興ドイツ帝国の首都ベルリンがとめどなく膨張していたころだが、目抜き通りのウンター・デン・リンデンから少しへだたったプリンツ・アルブレヒト通りの9番地に一つのホテルが誕生した。当初は「ホテル 四季」、十年ほどして「ホテル・プリンツ・アルブレヒト」と改名。「ルネサンス様式の華麗な一流ホテル」と案内にあるが、当時ベルリンの代表的なホテルの「アドロン」や「カイザーホーフ」よりはやや劣るクラスとみなされていた。

ホテル・プリンツ・アルブレヒト。後のゲシュタポ本庁

ホテル・プリンツ・アルブレヒト。後のゲシュタポ本庁

狂乱の1920年代にホテルとして立ちいかなくなったのだろう、となりの8番地にわたって改築され、プロイセン芸術工芸学校になった。

1933年、ナチス政府の所有となり、ヒムラーを長官とするSS(親衛隊)の本部になった。のちに「プリンツ・アルブレヒト」は顔をこわばらせてささやかれる地名になったが、本来はにこやかに旅客を迎え、また芸術家、工芸家の卵をやしなうところだった。写真には十九世紀末におなじみの装飾の多い鈍重な建物が見える。正面は女神が柱頭を担うかたち。屋上にメダイヨンのような飾りファサーデがのっている。少なくとも外観からは、合法的テロ集団の拠点であったなどとはつゆ思えない。

SSの組織は急激な拡大につれて変遷があったが、一応落ち着きに至った1939年以後で見ると、ゲシュタポはSSの一部局、国家保安本部(RSHA)傘下の保安警察(SIPO(ジポ))に属し、その「罤6局」にあたる。SS中将ハインリヒ・ミュラーがゲシュタポ長官として指揮をとった。

ゲーリングからヒムラーへの管轄委譲を伝えるナチ党新聞

ゲーリングからヒムラーへの管轄委譲を伝えるナチ党新聞

同格の「第5局」が刑事警察(KRIPO(クリポ)でネーベ中将が長官をつとめた。ついでながら保安警察の同格として保安諜報部(SD)があり、これは「第3局(内務局)」と「第4局(外務局)」に分かれていた。名称はそれぞれ微妙に異なるが、いずれもスパイ活動を任務として、反ナチスを摘発、超法規で処理する権限が与えられていた。いかにナチス・ドイツが入念に国民監視の網を張りめぐらせていたかが見てとれる。

ゲシュタポはSS内の一部門にすぎないのに、その悪名がとどろいているのは、反ナチス、またレジスタンスの人々を捕え、拷問し、虐殺した凄絶な歴史による。もっとも速くにゲシュタポ通史として著されたジャック・ドラリュの『ゲシュタポの歴史』が、邦訳では『ゲシュタポ・狂気の歴史』となっているのは、組織が先鋭化するにつれ、狂気の沙汰としか思えないことが横行したからである。

1933年の設立当初、ゲシュタポ本部のスタッフは200人から300人だったと推定されている。翌年4月、ヒムラーに権限委譲されて、680名に増加。1940年には1100人を数えた。十年足らずで設立時の四倍から五倍の増加からも、いかに猛威を振るったかがうかがえる。

当初、ゲシュタポが標的としたのは共産党員だった。ナチス政権誕生直後、国会議事堂放火事件を名目に非合法化され、選挙で選ばれたばかりの国会議員七十八名は、一度も登院できないまま資格を抹消された。非合法化されたがドイツ共産党(KPD)は依然として最大の野党であり、左翼勢力の牙城だった。共産党殲滅のために、ゲシュタポは手段を選ばなかった。名目は何であれ、「反ナチスの陰謀」をデッチ上げ、逮捕、拘留、拷問をくり返した。ハンス・オトー事件がもっとも早い時期の典型的な一例である。

ハンス・オトー(1900〜1933)は、早くから俳優の道にすすみ、フランクフルト、ハンブルグを経て、ベルリンの劇場の若手俳優として嘱目されていた。演劇だけでなく社会問題にも関心をもった青年は二十代で共産党に入党、1931年、ドイツ俳優連盟左翼部会委員長。ドイツ労働者演劇連合委員長、反ナチス党総本部の主要メンバーと目された。

1933年12月、ハンス・オトーはゲシュタポに逮捕され、十日後、建物五階から墜落死。書類上は事故死だが、同僚の報告がべつの事態を告げている。

もう少し詳しく言うと、12月13日、ベルリン市中の小さなレストランで仲間と一緒に逮捕された。密告者がSA(突撃隊員)を現場に案内した。オトーたちはなじみのレストランで次の芝居の相談をしていただけであるが、それが反アチス謀議とみなされた。逮捕された全員はSA分署に連行され、したたか殴る、蹴るの暴行を受けた。

「彼らが疲労して中止するまで続けられた」

4日後、ベルリン郊外のケペニックへ連行された。イヤな臭いのする防空壕に、同じく連行されてきた男や女たちがいて、全員がSAから手ひどい扱いを受けた。さらにSAのべつの分署に移され、プリンツ・アルブレヒトのゲシュタポに引き渡された。連日、尋問と拷問がつづいた。食べ物、飲み物は一切与えない。ゲシュタポは反ナチス陰謀の証言をとりたかったのだろうが、ありもしない謀議を伝えようがない。その間、真夜中ごろ、仲間の一人がハンス・オトーを見かけた。主謀者として隔離して尋問されていた。

「もはや話せなかった。口も目も大きく腫れ上がり、ただ、呻くだけだった」

数時間後に見かけたのが最後だった。「半裸体で、顔の見分けがつかなかった。全身血まみれで、気を失っていた」

屋上からの墜落はその直後のこと。突撃隊員が運び上げて、投げ落としたと思われる。

証言者がいるのは、逮捕から拷問、虐殺までの手順がシステムとして確立されていなかったせいだろう。その後、権力側は迅速に「学習」した。そのためにハンス・オトー事件のケースは数多くあったはずだが、表面に出るのは、めだって少なくなる。拷問と虐殺を「事故死」「病死」とスリかえるシステムが完成していた。

いかにゲシュタポでも証拠なり密告がないと、逮捕は難しい。そのために愛用したのはシュッツハフト(保護検束)である。「国家と民族の敵」とされる人々を保護するという名目で拘束する。

保護検束は通常、地区警察の要請をゲシュタポ長官が了承する形で行われた。検束者の正確な数は不明だが、逮捕された者の名前の頭文字に通し番号をつける方法で記録された。そんな書類の一つに「M 34591」が残されていて、1945年までに少なくともMで始まる姓の人三万四千五百九十一人が検束されたことを示している。総計でどれほど多数が「保護」のもとにしょっぴかれたか。「保護」のあと拷問ののち、辛うじて生きのびても、次には強制収容所の「保護」へと移され大半がそこで死んだ。あるいは殺された。

辛うじて生きのびた人々の証言によって、本庁、分署を問わずゲシュタポ内部の構造はおおよそわかる。正面玄関を入ると、正面にSS長官ヒムラーの写真が掲げてあり、テーブルは卓布にかえて鉤十字の旗で覆われている。

「執務室」と呼ばれる部屋を通り抜けると、地下室じみた廊下につづく。赤味がかった小灯が点々とともり、弱々しく辺りを照らしている。廊下の左右は頑丈な扉のついた小部屋(独房)で、さらにいくつもの重々しい格子戸を抜けていくと、最後に窓のない一室に行きついた。奇妙な道具がいくつか置かれていて、天井から鎖つきの鈎のようなものが下がっている。

執務室の経過も、ほぼ定まっていた。冷ややかなヒムラーの写真のもとにドアが開け閉めされ、長靴をひびかせた男たちが忙しく出入りしている。まずSD(の管轄で、制服の袖口に黒いSDの縫いとりのある係官が身分証明書を調べて書きとめる。たいてい偽造の証明書だが、とっくに承知ずみのように一切問わない。次に連行者がわずかに身につけている小物、財布やネクタイを没収。すべてが商取引きさながらの手ぎわよさで処理されていく。

かわってSSの係官が執務室にやってくる。カーキ色の制服にSSの黒いマークをつけ、手首に革リボンつきの一メートルほどの鞭をたらしている。拷問者にはこれが出番を意味しており、連行者に声をかける。

「アルゾー・ロース(では、いくか)」

それから弱々しい明かりの照らす廊下を、いくつもの鉄格子のドアを音高く開け閉めして、先に触れた窓のない部屋へつれていく。現場ではSSのほか、逮捕したゲシュタポが立ち会った。

戦後明るみに出たゲシュタポの独房跡

戦後明るみに出たゲシュタポの独房跡

さまざまな拷問の仕方があったようだが、さしあたり共通して一つの尋問形式をとった。天井から滑車のついた鎖がぶら下がっていて、鎖の端に頑丈なS型の鈎がついている。連行者はうしろ手に縛られたまま鎖の前につれて行かれ、鉤がうしろ手の縛り目にかけられる。ついで滑車がまわり、連行者は鎖で床から一メートルばかりの高さに宙づりにされる。そして「仲間は? 隠れ家は? 連絡の方法は?」といった尋問を受ける。

とびきり頑健な肉体の持ち主でも、そう長くは我慢できない。両肩が割れ、ある証言者によると「フライパンから玉がとび出るように」両肩が脱臼して、全身が宙吊りになる。肩からもがれたうしろ手がぶら下がり、その手が頭上でねじくれている。その間にも、たえまなく革の鞭が降ってきて、みるまにズボンが裂けていった。もっとも苦痛の多い肩の脱臼による宙吊りは、ゲシュタポが効果を見定めた方法だろう。脱臼をもとにもどせば、何度でもくり返しがきく。証言を拒めば、焼いた針を刺しこんだり、火のついた葉巻を押しつけたり、基本の宙吊りに、いろいろな「細工」をしていく。拷問担当はSDなどと比べて下級官吏とされたが、肉体に加える途方もない無法に関しては、上級官よりも下級官吏が有能で知恵に満ちているものなのだ。

ヒトラー体制を支えていたものは、ゲシュタポ、強制収容所という「装置」だったことはよく言われる。拷問はナチスにかぎらず、至るところでなされたし、今なおひそかに至るところでなされているだろう。それはナチスの専売特許ではなかった。しかし、まさに拷問において第三帝国が現にあったとおりのものとなったのも事実だろう。金色の党員バッジや純血や勲章が、総統とそのイデオロギーの召使いにしたわけではない。もう一つ、優秀な召使は拷問することができなくてはならない。「他人の苦しみを耐えることにおいて偉大」でなくて総統の臣民とはいえないのだ。

ナチズムはいかなる理念とも縁がなかったが、混乱し、錯綜した理念の「片われ」はどっさりもっていた。唯一の政治組織として非人間的な支配を実践した点では、他のテロ政体とかわりはないが、ナチズムの独自性は、非人間的な支配を、はっきり原理として確立していた点にあったといえる。ユダヤ人問題に見るように人間性の破壊と奴隷化を実践しただけでなく、手をかえ品をかえてそれを理論づけた。拷問においても同様で、拷問を原理として、国家の機密を独占しようとした。

辛うじて生きのびたユダヤ人の一人、ジャン・アメリーは、ナチス・ドイツを省察した『罪と罰の彼岸』に「拷問」の章を設けて、そこで述べている。

「拷問という悪夢の体験を突きぬけて、一つの認識が残っている。もはやいかなる人間的なまじわりによっても、この世との違和感を消し去ることはできない」

愕然として知ったわけだ。絶対的な支配者としての他人がおり、その支配権は社会契約にもとづく権力とはまったくもって無関係なのだ。呻いている相手を見下している拷問官は絶大な勝利を得た一人の強者であって、拷問によって限りなく自分を主張する他人であり、この世から死の世界へと追いやる者を傲然と見つめている。ごく身近な拷問の一種である強姦になぞらえるとわかりやすいかもしれない。

「拷問された者は二度とふたたび、この世になじめない。屈辱の消えることはない」

拷問されるなかで崩れ去った世界への信頼というものを、もう二度と取りもどせないからだ。

ヒトラー体制の中核として機能した組織に、SSのほかにSDとRSHAがあったことは先に述べた。ゲシュタポ同様に略称を通称として国民にニラみをきかせた。おおかたが聡明な若者たちで構成されていた。当初は知的な教養人であり、理想に燃えてナチスに入党した。その知識人部隊が、またたくまに変質した。国家的監視システムだけでなく、東欧ユダヤ人の絶滅という恐るべき企ての中核となった。どうしてこんな事態が生じたのだろう?

心理的にも社会的にも微妙な問題を含んでおり、ナチス研究であまり手をつけなかった分野にあたる。ナチス組織の有能なテクノクラートとして、昇進を競うなかで、期せずして先鋭化していったのか。ナチスはユダヤ絶滅の正当化にあたりレトリックを多用したが、若手の実務官僚たちも、ナチス原理を巧みに消化して、みずからレトリックの実行者となったのか。

いずれにせよそのなかで巧みなシステムが編み上げられた。アイヒマン裁判で実証されたが、責任者が表にあらわれないのだ。ユダヤ人問題、また拷問の事実を知りながら、仕方がないと呟いて、大方の市民は良心をくびり殺していられたのである。

 

 

 

新・気まぐれ読書日記 (50) 石山文也 星の王子さま

  • 2017年8月11日 21:26

「そうか、この連載も50回目となるのか」と、取り上げた本が並ぶ書棚を見ながらささやかな感慨にふけっている。前身となるミニコミ誌への連載は、読んだ本の中から毎回、何冊かを紹介するスタイルの『気まぐれ読書日記』を計65回続けた。『Web文源庫』に移ってからは「1回1冊」に変えたが、取り上げる本や書くペースは同じく<気まぐれ>にさせてもらうことで、タイトルはそのままに「新」だけを付けた。初回は探検家・角幡唯介の『空白の五マイル』(集英社)だったがそれからの6年半はあっという間だった。多く読むジャンルや作者を聞かれれば「雑読です」とはぐらかすものの、新刊が出れば必ず読む何人かはいるわけで彼もそのひとりである。かといって同じジャンルや作者に偏らないよう、なるべく幅広い選択を心がけている。節目の50回目はさてどの本にしようかと迷ったが、所詮は通過点にしか過ぎないと思い直し、読み終わったばかりの岩波文庫創刊90年にして初めて文庫化となったサン=テグジュペリ作『星の王子さま』にした。訳は<歴史的名訳>とされる内藤濯(あろう)。子息でノンフィクション作家だった内藤初穂が残した誕生秘話満載の「備忘録」エッセイやテクジュペリの略年譜が収録されているのもうれしい。

 

サン=テグジュペリ作『星の王子さま』(岩波文庫)

 

時々に本を整理してきたが「たしか書庫にあったはず」と探したら第54刷(1992年7月10日刊)の単行本が見つかった。外函の底に「小学6年、中学生以上」とあるが、子供のではなくどこかの古書店で入手したのだろうか。もちろんこちらも内藤濯訳である。

『星の王子さま』(1992年刊、第54刷)

 

「岩波少年文庫」として1962年11月27日に発行され、10年目の1972年9月30日に大型単行本の体裁になり現在も再版されているからロングセラーとしては実に半世紀以上、読者に愛され続けていることになる。単行本化に合わせてこの年の初夏に書かれた「訳者あとがき」が今回の文庫化でも同じく再録されている。

 

この高度の童話を書いた人は、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリというフランスの作家です。1900年6月29日、リオンに生まれ、1944年7月31日、フランスの飛行中隊長として、コルシカ島の沖合を偵察しているうちに、姿を消したといわれている人です。20歳の頃からはやくも、航空に異常な興味をもちはじめ、なん度ともなく危地におちいったのでしたが、そのたびごとに、ますます情熱を燃やしつづけたほどの人で、それだけに、作家としての地歩もまた、たしかなものになったのでした。「南方郵便機」(1928)、「夜間飛行」(1931)、「人間の土地」(1939)などと作がつづいたのでしたが、それらの作の基調はといえば、北アフリカをはじめ、インドシナや南アメリカへと、いわば息つくひまもなく機翼をのばした人のいきいきした体験です。積雲と積雲との間を縫って“知られた世界と不可知な世界との国境”を身命を賭して感じた人の呼吸です。はるかな上空から見下ろした人間の土地の実相です。ところで、そういう異常人であるサン=テグジュペリは、1942年、北アメリカの客となっていました。

 

長く引用したのは、この「異常人」という表現が気になったからでもある。内藤はテグジュペリの人生をいい意味で「常人を越える」と表現したのだろうが、この言葉はここ半世紀で「異常な人」という負のイメージに変ってしまった。

 

それはそれとして続きを要約紹介すると、ナチスドイツに占領されたフランスを逃れてアメリカに亡命したテグジュペリは祖国に残した友人たちの悲境を思うと胸が痛んだ。なかでも若い頃から心を許しあってきたユダヤ人の親友、レオン・ウェルトのことがいちばん気がかりで、彼のためにこの物語を書いた。人によっては、この物語を逃避の文学と言う。苦痛となっている当面の問題、つまり祖国の急には触れずに、いわば散文詩風な美しい形で物語の筋を運んでいるからだが、人知れず心の底に燃えている憂愁なり信念なり待望なりは、さまざまな象徴となって読む人の心に迫る。見落としてならぬことは、散文詩風な物語が、一応は童話らしく見えても、つきつめると、童話を越えた魅力をもっていること。これこそは作者が子供時代との自然なつながりを絶えず念頭に置いて、それを新鮮ないのちの糧とした人だったから。「私のふるさとは、私の子供時代である。ある一つの国が、私のふるさとであるように」と強く言い続けた作者だけに「心で見なければ、物事はよく見えない。肝腎なことは目に見えない」という人間生活のほんとうの美しさが書かれている。喉が渇いた王子が航空士と手に手をとって、井戸を探しに砂漠を歩いて行く場面こそはこの作の絶頂だと、この作を読みぬいている誰もが言う。

――砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ。

――家でも星でも砂漠でも、その美しいところは、目に見えないのさ。

かようにぴたりと呼吸の合った言葉のやりとりがきっかけになって、王子の姿はまるで湯煙りのように空へ消えて行く。そういう「目に見えぬ美しさ」こそは、この作の最後の結びで、私(=内藤)は「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」と言って演能の美を浮き彫りにした世阿弥の卓見をしぜん思い出す。

 

内藤初穂の「『星の王子さま』備忘録」では父の濯がこの物語を訳したのは満70歳の春で、第一高等学校や東京商科大学(現一橋大学)で永くフランス語を教えてきたが、翻訳を引き受けるまでその本の存在すら知らなかったことが明かされる。それを英訳本で初めて注目したのが当時、「岩波少年文庫」の編集顧問だった児童文学作家で翻訳家の石井桃子。濯は一読するなり宿命の出会いを感じた。なかでも序文の結びの「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない」には身がすくんだ。さらに加えて、王子が試みる「星めぐり」を通しておとなの悪さもやんわりついている。その志の高さに言葉を失ったそうだ。原題は『ル・プチ・プランス(=小さな王子)』だが、濯は必ずしも王子のありようを写していないと感じて『星の王子さま』という新たな名を王子に与え、期せずしてロングセラーへの道を開いた。原作は数十ヶ国語に訳されているが原題を改めたのは日本語版だけである。当時は筆が持てないほど書痙(しょけい=手の震えや痛みを伴う病気)が進んでいたので、作業は口述筆記で行われ、出張筆記を担当したのが「岩波少年文庫」の編集員だった初穂の妻で毎週日曜日に行ったが原文のリズムを訳文に移す試行錯誤を重ねた。それは「日本語に砕くよりも、原文を活かし切る日本語を探して歩く、そう、散歩するような気持で、仕事に気が入りましたと話していた」と妻は回想している。たった一節一語をああでもないこうでもないとわずか一行に半日かかることも稀ではなかったという。

 

他にも多くのエピソードが紹介されているが、気になったのが略年譜もそこで終わりになっているフランスの飛行中隊長として、地中海で行方不明なったテグジュペリのその後。こういう雑学には詳しい歴史ライターの蚤野久蔵に尋ねたら、2003年9月にマルセイユ沖の海中からフランス空軍が第二次大戦中に使っていたロッキードP38型機が引揚げられ、その機体番号からテグクジュペリの搭乗機と判明したことを教えてくれた。さらに彼が今回の文庫の「王子のマントの色」を聞くので「緑色だよ」と答えたら、「持っていると言っていた単行本と比べてみたら面白いよ」と。そんなことってあるのだろうかと多少いぶかりながら確かめてみた。それがこちら。上がニューヨークでの初版の色に統一された緑色マント姿の王子、下はフランス版から続いた青色マント姿の王子である。

統一後の緑色マント姿の王子

フランス版以来の青色マント姿の王子

なんでも2000年のテグジュペリ生誕100周年に、それまで二種類あったマントの色を亡命先のニューヨークで先に出版された初版(オリジナル版)通りの「外側が緑で内側が薄い赤」に統一されたという。ニューヨーク版に遅れること2年後のフランス版出版当時、戦中戦後のどさくさもあって手がけたガリマール社は「外側が青で内側が赤」とした。その後、原画が見つかったことなどもあって遺族が統一を希望したのだそうだ。「テグジュペリ本人も緑色を<心の糧であり魂が落ち着く色>として大好きだったからね。喜んでいるんじゃないかな」と雑学の大家は付け加えた。

もし、みなさんも単行本の『星の王子さま』をお持ちなら、そのマントの色を確かめてみるのも一興かもしれない。

ではまた

新・気まぐれ読書日記 (49)  石山文也 平家物語 犬王の巻

  • 2017年8月2日 13:53

あらゆる物語には続きがある。たとえば続編があり、たとえば異聞がある。どうしてそんなものが生まれてしまうのだろうか。一つには、物語は語られては消え、語られては消え、読まれては忘れられるからだといえる。
なれども、それだけでは単に儚いではないか。
そのために<続き>がやってくる。

古川日出男の『平家物語 犬王の巻』(河出書房新社)の前口上である。

前回、池澤夏樹=個人編集「日本文学全集」(河出書房新社)の同じ古川訳『平家物語』を取り上げ、わが読書生活はこのところ『平家物語』にはまっていると書いた。池澤の狙い通り古川は多くの琵琶法師などの<作者>が編み上げた中世のメガノベルである『平家物語』をスピード感あふれる巧みな現代語訳として送り出した。一気通読とはいかなかったが数か月がかり、多くのシーンに感動を覚えながら時には翻弄されるように読み進んだ。その古川が同じ出版社から別の平家物語を出すというので発売前から期待が膨らんだ。古書以外は出来る限りネットではなく、実際に店頭で手に取ってから購入する主義?の私、古くさい表現ながら「書店に走った」のはいうまでもない。

 

古川日出男著『平家物語 犬王の巻』河出書房新社刊

 

最初に種明かししておくと、犬王はいまも教科書に紹介される観阿弥や世阿弥などと同じ時代に活躍し、時の将軍らからも可愛がられながら歴史からは消えてしまった芸能者である。人名事典風に紹介すればこうなろうか。

【犬王】[生年不詳~応永20(1413)年5月9日没]南北朝~室町期の能役者、能作者。同時代を生きた観阿弥、世阿弥の父子と同様に三代将軍足利義満の愛顧を受けて、むしろこの二者よりも贔屓にされていたと伝えられる。

 

前口上は続く。

そしていま一つ。ひとたび耳で聞かれ、目を通して読まれた物語は、じつのところ聞き手の心に、また、読み手の身に種を蒔いている。すると人というものは問うのだ。「あれはどうなったのか。あれからどうなったのか」と。これは、蒔かれた種を自ら芽吹かせるということ。あるいはまた、繁らせるということ。そのために続編が生じ、異聞が掘り起こされる。

他にもあと一つある。世には知られていないからこそ、それゆえにこそ語ってほしいと願う者たちがもたらす真の異聞だ。平家の物語は、滅んだ一門の物語である。しかし、一門に味方した全員が絶えたわけではなかった。ここに異聞の、そして続編の種がある。ほら、また種が―。

 

ここまで読んだ私は「古川平家」の世界に引き戻される。気付かないうちに古川によって私のなかに蒔かれた種はすでに枝が広がり、想像の葉がすっかり繁っていたようだ。

 

『平家物語 犬王の巻』には主役が二人いる。いずれも芸能者であるが、松本大洋描く表紙画が犬王。あまりに醜悪な姿から、外出の際は顔をひょうたんの仮面で覆い、手足をも布で隠さざるを得なかった人物であるがやがて生まれながらの傷が癒えるとともに猿楽(=能)の舞台に立ち一世を風靡していく。もう一人は漁師の子の友魚(ともな)といい、海の底に沈んだ平家が残したある遺物を目撃したことで、光を失い、盲になる運命となる。友一、友有と名を変え、後年、琵琶の演奏の名手となっていく。

 

物語は平家一門が滅んだ海「壇の浦」から始まる。ここにイオの一族という海の潜り手の海人(あま)集団がいた。イオは文字にすれば五百、魚類(=うろくず)さながらの比類なき潜水能力を賞讃された。彼らは源平合戦から百年もの間、合戦の行われた海に潜り、その遺物を引きあげては時の実力者に献上してきた。なかでも平家一門の遺財こそは至高の貢ぎ物だったが、そうした宝物がなくなったこの五、六十年は時折見つけた破損した甲冑などを売り捌くほかはただの漁夫として暮らしてきた。一番若いのが13、4歳の友魚で、いつも父親と二人で漁に出ていた。

 

都では権力の内側の深いところにいる人間は彼らのことを「力がぬきんでた海人たち」と認識していた。あるとき、都から来た連中が友魚らに声をかけた。「一つ大切な秘密を教えるから海に潜ってほしい」と。与えられた地図にはある秘密の場所が明確に示されており、その海底深くから親子はある遺物を引き揚げた。舟の上では連中がやたら距離を置いて親子の様子をじっとうかがう。指に数珠をからめ、ひそひそと咒(じゅ=呪文)を唱える者もあったが、見るからに彼らは何かを<うずうずと>待っていた。

 

親子がひき揚げたのは剣で長さは二尺と五、六寸ほどだった。父親のほうが鞘を払った。刃(やいば)から閃光が走ると、父親は悲鳴とともに水中へ沈んでいった。不思議なことに剣は自ら舟の上から飛び出したかのように海中に戻った。友魚は命までは吸われなかったが刃を直視したから切っ先とは反対側に節があるのを見た両目がたちまち暗み、鼻孔からは血がびゅうびゅうと噴出した。都から来た連中は「ああ、神器が。神器が!」と叫ぶ。友魚の鼻血は止まらず、それから数日で失明した。

 

友魚はあとで知るが、この剣は凡人が決して目にしてはならない宝剣で古くは「天の叢雲(あまのむらくも)の剣とか、草薙ぎの剣」といわれ、皇位の保証に関わる品だった。壇の浦の戦いで安徳天皇とともに水中に落ちたがあとで納めた木箱ごと浮かび上がって回収された神鏡や勾玉など三種の神器の残る一つだがこれだけは水底深く沈んで度重なる捜索にも行方がようとして知れなかった。なぜ都の連中がそのありかの地図を持っていたのかというと、鎌倉幕府亡き後の足利将軍家に雇われた琵琶法師を連れた山伏たちが平家の落人たちを各地に訪ね、平家の物語を聞かせることで彼らのかたくなな心をほぐし情報収集した成果だった。中でも南北に分裂した朝廷のうち、都に残る北朝にとってはその存在をゆるぎないものにするためにもどうしても手に入れたい宝剣でもあった。

 

やがて病床から起き上がり体力が戻った友魚は、自分たちが受けた災難のわけを知るために京の都へと旅立つ。杖を用意してくれた母親は友魚に「お前がもし、都に着けたら<イオノトモナ=五百友魚>と名乗るんだよ」と言い含めた。何より力強かったのは窮地に陥った時にはなぜか死んだ「おっ父」の声がどこからか聞こえることだった。途中、厳島に渡る港で師匠となる琵琶法師に巡り合う。もちろん、すぐに弟子入りを許されたわけではないが、あるとき招かれた館で出された焼魚に骨が苦手な法師が敬遠するのを食べやすいようにむしることで気に入られる。漁師の子ならではの何でもないことだったが以来、身の回りの世話する代わりに、曲を教わりながら重い琵琶の「担ぎ役」として京を目ざした。

 

もう一人の犬王は近江猿楽の筆頭、比叡座の棟梁の子として京の都に生まれたが、取り上げた産婆も母親さえも悲鳴を上げるほど醜怪だった。母親は犬王に一度も直には乳を吸わせず、器に絞ったのを舐めさせた。ようやく乳児期を生き延び、外で遊ぶようになると異形を隠す措置が取られた。顔には面、頭には頭巾、手には手袋を着けさせられた。当然ながら稽古場には入れてもらえず外から兄たちの練習を盗み見ながら所作を盗んだ。するとある日、膝から下の両足がきれいに変っていた。

 

足が自由になると右京のあちこちに出没した。目だけをくり抜いたひょうたんの面を外すと子供だけでなく大人までが腰を抜かし失禁するものまでいた。やがて妖怪が出るという噂まで立ったが、ある日、犬王と友魚がばったり出会う。いつものように顔のひょうたんを外して驚かせようとする犬王に対し、友魚は「悪いが、俺はどうにも腰を抜かせん。何も見えんのだ。何もなぁにも」、「じゃあ、ひょうたんだっていらないじゃねえか。そもそも」こうして二人は出会い、数年後、友魚はいっぱしの琵琶奏者として認められて友一、有一と名を変えていく。

 

犬王から学んだのは平家にまつわる多くの物語だった。やがて共に舞台を踏み、平家を語らせたら、舞わせたら彼らの右に出る者はいないと言われるほどになる。平家にまつわる多くの秘曲はもともとも比叡座に代々伝わるものだったが、座のあとを継ぐ兄たちに対抗して新曲を次々に生みだすことで人気を不動のものにした。たとえば「竜中将」、海に沈んだ平家の公達の亡霊が竜宮城に遊び、滅んだはずの一門の末裔が現れる。それは幻の経となった竜畜経の霊験譚でもあり夢の体現だったから「昔のことだ」と断じられない。劇の冒頭に地謡(じうたい)を用いて観客に「これは夢、これは夢。夢の通路をただ進み、これぞ平家の直路(ただじ)なり。滅した一門の直路なり」と合唱させることで、おおそうなのか、と了解させた。

 

さらにもう一つ、人気を集めたのは犬王の変身だった。醜から美へ、いまや面を付けなくても犬王は人気を集めて余りある美形となっていた。芸を大成するうちに変身していったのである。有一も自身の座を持つまでになり「壇ノ浦殿」と呼ばれるまでになった。彼らの深い交わりは終生続くはずだったが室町殿と呼ばれた時の将軍、足利義満に花の御所に召され、そこで座の解散と、正本以外の平家物語は今後、語ってはならぬと申し渡される。「犬王の巻」が禁制になったのである。

 

終章、亡き将軍足利尊氏の墓所で禁制の「犬王の巻」を捧げる友有は当代の将軍=義満に使われる騎馬武者に引致され、賀茂の河原で斬られる前に「我、ただの賤の者に非ず。わが名は五百友魚。イオのトモナ!」と名乗って果てた。

 

もう一人の犬王はまだ数十年を生きた。猿楽界の第一人者として将軍義満の愛顧を賜り、観世座の初代太夫となった観阿弥、その子の世阿弥とも交わりつつ応永15年(1408)には後小松天皇の天覧猿楽(能)の大舞台まで務めた。その五年後に没した時には「紫雲が立った」という奇瑞が記録されている。

 

が、歴史になど記されていないこともある。あらゆる物語には、たとえば続編が、たとえば異聞があるのだから、この終章にもある。儚さのその彼岸に。

 

犬王は往生の前に阿弥陀仏に「ちょっと待って」と言った。

「俺は、ちょっと尊氏殿の墓に寄ってくる」と申し出た。

「そこに、あいつがいるんだよ。成仏できずに、まだ、いるんだよ。縛られて。あいつが、盲いた友有が。いや友一が。いや、友魚が。つまり、俺の朋が。だからその呪縛の様を、この犬王が解いてやらないと。ねえ、俺がね、いいや、俺たち二人でね、解きあうよ。それから最後に、こう言うんだよ。『さあ、お前、光だ』って」

ではまた