新・気まぐれ読書日記(48) 石山文也 平家物語
本を「厚さ」や「重さ」で論じるべきではないことは重々承知しているが、あえてそこから始める。古川日出男訳の『平家物語』(河出書房新社)は、厚さ4.5センチ、重さ860グラム、解説を含め、全905ページもある。池澤夏樹=個人編集「日本文学全集」(河出書房新社)第Ⅱ期の<しんがり>として昨年12月30日に出版され、年初に書店に並んだ。「諸行無常のエンターテインメント巨編、完全新訳!」「シン・へイケ爆誕!」という出版予告の惹句を目にして大いに期待していた。たかだか数日違いとは思ったが京都に出かけたついでに購入しようと立ち寄った書店で手に取ったものの、これ一冊でカバンがふさがりそうなので断念、後日、行きつけの系列書店へ車で出かけて入手した。多少ともおわかりいただけるようにいつものスキャナーでの表紙カットではなく写真でお目にかけることにする。
平家物語は平安後期から鎌倉前期にかけての源平争乱を描いたいわゆる軍記物語である。平清盛を中心とした平家一門の興亡が仏教的無常観を基調とした壮大な抒事詩として描かれる。それが無数の琵琶法師によって連綿と語り継がれ、謡曲をはじめとして後世日本の文学や演劇などに大きな影響を与えた。過去、多くの現代語訳が生まれたが、思いつくだけでも作家では尾崎士郎、永井路子、木下順二・・・変ったところではフランス文学者の杉本秀太郎もいる。物語本編では「俊寛流罪」「一門都落ち」「宇治川先陣争い」「木曽殿最期」などはくり返し読んできたし<国民作家>といわれた吉川英治が物語に想を得て7年間がかりで書きあげた『新・平家物語』も手元に置いている。ほかにも平家一門の若武者の「逃亡記」になぞらえた井伏鱒二の『さざなみ軍記』に涙し、ラフカディオ・ハーン(=小泉八雲)の『怪談』では盲目の琵琶法師が平家の亡霊から「壇の浦合戦の段」を所望される『耳なし芳一のはなし』は読むたびにぞくぞくした。とはいっても全編を通して読む機会はこれまでなかっただけに、古川が「<現代の平家>として訳したい。幸い僕はその答えを持っている」と語っていたのに興味をそそられもした。
全12巻に加え、清盛の娘で高倉天皇の中宮となった徳子=建礼門院が、壇ノ浦合戦で子の安徳天皇とともに入水したものの助けられて京の都に戻り、尼となって大原・寂光院で一門の菩提を弔う余生を描いた「灌頂の巻」まである文字通りの完全版であるから、一気に通読とはいかず、珍しく「机に座ったら平家物語」の毎日が数か月、ようやくのことで読了した。あらためてその魅力をあげれば、琵琶などの演者は原作の文語文をそのまま語るのに対し、古川訳は「語り手」がまるでこちらにしゃべりかけるように訳されているところであろうか。
おなじみである物語冒頭の「祇園精舎」を例にあげると「耳を用い、目を用い」として
祇園精舎の鐘の音を聞いてごらんなさい。ほら、お釈迦様の尊い教えを説かれた遠い昔の天竺のお寺の、その鐘の音を耳にしたのだと想ってごらんなさい。
諸行無常、あらゆる存在は形をとどめないのだよと告げる響きがございますから。
それから沙羅双樹の花の色を見てごらんなさい。ほら、お釈迦さまがこの世を去りなさるのに立ち会って、悲しみのあまりに白い花を咲かせた樹々の、その彩りを目にしたのだと想ってごらんなさい。
盛者必衰、いまが得意の絶頂にある誰であろうと必ずや衰え、消え入るのだよとの道理が覚(さと)れるのでございますから。
はい、ほんに春の夜の夢のよう。驕(おご)り高ぶった人が、永久には驕りつづけられないことがでございますよ。それからまた、まったく風の前の塵とおんなじ。破竹の勢いの者とても遂には滅んでしまうことがでございますよ。ああ、儚(はかな)い、儚い。
語り手は「ほら」などの間投詞や「ああ」などの感嘆句を交えつつ、ときに饒舌に話しかける。多用される「ございました」や「ございます」も清盛が死んだ途端に一転してぶっきらぼうな「だった」に変る。その清盛を帯に描いたのは漫画家でイラストレーターとしても活躍する松本大洋で、ポストカードとして付けられた挿画がこちら。清盛は緋色の衣をまとい、扇で口元を隠す。一門の隆盛はすべてがこの男から始まった。
そして原因不明の熱病にとりつかれた清盛の突然の死。それからは雪崩を打つように暗転する平家一門の運命、名を轟かせた武将たちそれぞれの最期。源氏の嫡流でも一瞬の栄光ののちに消えて行った木曽義仲や、兄、頼朝に最後まで許されなかった九郎判官義経は都落ちしていく。権力争いの奥には天皇や法皇の存在も大きく仏門といえども時の権力者におもね、あるいは造反し僧兵や荒法師も暗躍する。戦場は馬のいななきや具足がぶつかり合い、刀合わせの金属音に矢音、兵たちの阿鼻叫喚で満ち溢れる。逆に静かな場面で耳を澄ませば琵琶をかき鳴らす撥(ばち)の音までが聞こえてくる。まさに静と動の混沌としたダイナミズムが全編を貫く。そんな一大スペクタクルを読み終わるのに数カ月かかった。朝から晩までこの一冊だけに根をつめれば数日もしないうちに読了したはず。それがどうしてそんなにかかったのかをあえて告白すれば「気になるシーン」にぶつかるたびにわが書庫の『日本古典文学大系』(小学館)や吉川『新・平家』などを拾い読みしたから。道草しながら平家物語の世界にどっぷりとつかり楽しむという私流の<至福の読書時間>を過ごしたという次第である。
ではまた
新・気まぐれ読書日記 (47) 石山文也 文庫解説ワンダーランド
このブログを愛読されている先輩の某氏から久しぶりのリクエスト。「文庫か新書で、何か面白い本ない?」続けて「寝転がって読むにしても単行本は重いからね」とのたまう。おざなりに答えるわけにはいかないし、単行本を文庫化したのを勧めると「それ読んだ」とくる。そうなると新書かな、というわけで年初から読んだのを机の上に並べてみる。川上仁一の『忍者の掟』(角川新書)、呉座勇一の『応仁の乱』(中公新書)、武田徹の『日本ノンフィクション史』(同)は私の好きないわゆる歴史関連。高村薫の『作家的覚書』(岩波新書)と養老孟司の『京都の壁』(PHP新書)は連載を一冊にしたものだし、無類の犬好きゆえ倉阪鬼一郎の『猫俳句パラダイス』(幻冬舎新書)はお気に召さないだろう。<辛口評論家>吉川潮の『毒舌の作法』(ワニブックスPLUS新書)は「悪口と毒舌は違います」とはいうものの「何で」と言われそう・・・。それにしてもよく読んだなあ、とつぶやきながら斉藤美奈子の『文庫解説ワンダーランド』(岩波新書)を選んだ。
斉藤美奈子著『文庫解説ワンダーランド』(岩波新書)
見返しに(文庫解説を)「基本はオマケ、だが人はしばしばオマケのためにモノを買う」とある。まさしくその通りだから、帯にあるように、抱腹絶倒の<解説>批評であるし、「こんな読み方があったのか!」と楽しんでもらえそうだ。
取り上げるのは内外の約40冊の解説、よく知られた作品ばかりだがサブタイトルでまず笑わせる。夏目漱石の『坊ちゃん』は「四国の外で勃発していた解説の攻防戦」、川端康成の『伊豆の踊子』と『雪国』は「伊豆で迷って、雪国で遭難しそう」、林芙美子の『放浪記』は「放浪するテキスト、追跡する解説」とくる。太宰治の『走れメロス』に至っては「走るメロスと、メロスを見ない解説陣」と、どれから読もうかと迷ってしまう。シェイクスピアの『ハムレット』は「英文学か演劇か、それが問題だ」、バーネットの『小公女』は「少女小説(の解説)を舐めないで」、渡辺淳一の『ひとひらの雪』はエロスの世界を意外にも女性作家が担当して「解説という<もてなし>術」を展開する。最新作では百田尚樹の『永遠の0』に「軍国少年と零戦が復活する日」という具合だ。
なかでも「試験に出るアンタッチャブルな評論家」とした小林秀雄は<コバヒデ>の愛称で登場する。もちろん著者の、である。テキストは『モオツァルト』、『無常という事』、『Xへの手紙』。しかも解説は江藤淳が<コバヒデ専属>なのだという。江藤は慶應大学在学中に『夏目漱石論』で華々しくデビューし、評伝と批評の間をいく『小林秀雄』で文芸評論家として地位を固めた。小林とは30歳違いで父と息子ほど差がある新鋭だったが「江藤君なら」と容認、いや大抜擢したのであろうか。ならば解説がわかりやすいかというと、さにあらず。文庫解説の中でも特殊な部類に属する文芸評論の解説は、解説を読んでも本文の理解の助けになることはなく、もっと頭が混乱することも少なくない。日本を代表する批評家二人の最強のタッグ、文庫解説とは「権威を権威たらしめるツールとして機能する」のだと喝破する。
対象作品であれ、解説であれ、それでも理解できなかった場合はどうするか。対処法は「薄目を開けて読む」。能を鑑賞するごとく、わからなくてもいいから幽玄の世界に遊ぶことだろうと指南する。でも私の場合、そうしたところで神秘体験のようにコバヒデが降ってくることはないだろうね、いまさら。
「あとがき」で、著者は文庫本の巻末についている「解説」は誰のためにあるのだろうとあらためて触れている。書く前は「読者のため」に決まっている、と思っていたが、さまざまな文庫の解説を読んでみると、そうとばかりもいえないケースが少なからず存在することに気づいた。「読者のため」ではないとすると、誰のため?ひとつは「著者のため」、もうひとつは「自分のため」であると。
文庫解説はどうあるべきかという問いに正解はない。読者としては、メディアリテラシー(=たくさんの情報メディアを主体的に読み解くことで真偽を見抜き活用する能力)を磨いて、解説をも批評的に読むのが最良の対抗策と結ぶ。いま流行の新語でうまくまとめられてしまった。
ではまた
あと読みじゃんけん(16)渡海 壮 ビーチコーミングをはじめよう
まもなく梅雨明け、海水浴シーズン前の海辺はビーチコーミング(=漂着物さがし)には絶好の季節である。折しも台風一過、大量の漂着物が打ち上げられている光景を想像していると海辺の漂着物博士、石井忠さんからいただいた『ビーチコーミングをはじめよう』(2013、福岡市・木星舎)があったのを思い出した。謹呈の短冊には「異国から届くメッセージ入りの漂着瓶」の版画が添えてある。石井さんが病身をかえりみず情熱を込めて書きあげたこの本は、表紙イラストや挿絵、カットのほとんどを自ら手がけた。40年以上もの海辺歩きで「海からのメッセージ」を拾い、その魅力を伝え続けた思いが詰まった石井さんの<宝箱>でもあり、最後の本になった。
石井忠著『ビーチコーミングをはじめよう』(福岡市・木星舎刊)
石井さんは福岡県福間市在住の漂着物研究家だった。<広げたパラソルのふち>と名付けた玄界灘沿いの海岸線を歩きまわり、打ち寄せられた漂着物を採集、分類、分析することによってなじみのなかった分野を「漂着物学」として位置づけた。最初に出版した『漂着物の博物誌』(西日本新聞社、1977年)には「よりもの」とルビをふっている。わが書斎には「漂着物・海流・漂着ゴミ他」というコーナーがあり、石井さんの『漂着物事典』や『新編 漂着物事典』をはじめ多くの関連本が並ぶが、この一冊以外は一般用語となった「ひょうちゃくぶつ」だからもとよりルビなどない。
冒頭、海水浴シーズン前、と書いたのはビーチの管理者にとって漂着物は厄介なゴミでしかないわけで、当初はなぜそんなものを拾うのかといぶかる声や偏見もあったはずだ。それ以上に石井さんを海辺へと誘ったのは「寄り来るもの」への限りないロマンだったのだろう。
「まえがき」代わりに短冊と同じ呼びかけからはじまる。
「オーイ!海君」
海が見える砂丘から大声で叫び、砂丘を駆け下りて波打ち際へ・・・・・。
そうして四十年が過ぎました。
海で見たこと、拾ったもの、調べたことを絵と写真でまとめてみました。たくさんの出会いがありましたが、これは、そのほんの一部です。
さ、一緒に海岸を歩いてみましょう。
石井さんが『玄海を歩く』で漂着物採集に案内してくれるのは、北九州市に近い遠賀郡芦屋浜から岡垣浜までの9キロ弱。JR鹿児島本線の水巻駅で下車、駅の近くの店でパンとお茶、あめ玉を買い、タウンバスに乗り、終点の芦屋中央病院前で降りると海までは歩いてわずか2、3分ほどのロケーションという。
「今日はいいぞ!」
波打ち際にまず目をやると、黒い帯となって漂着物が続いています。黒い帯の中心は海底に生えている海藻類がちぎれて寄せられたものです。漂着した黒い帯を見て「今日はあるぞ」という予感がします。目的地の人家が潮風にかすんで遠くにぼうと見えます。
波に寄せられた海藻は、主にホンダワラやカジメ類です。それに混じって流木、ガラスビン、ポリタンクやポリ容器類が目につきます。海藻にからんだビニールの袋や洗剤のポリ容器など、ずいぶん多くあります。日本の製品ばかりでなく、ハングル文字や漢字ばかり書かれてものもあります。特に韓国や中国のプラスチック製の浮子(うき)や洗剤の容器は、いたるところに見られます。缶やビン類をよく見ると、フジツボやエボシガイ、海藻類や薄い石灰質のものが付着し、これらが海を長期間、漂流していたことがわかります。ここで、フィリピンあたりに生えているマングローブ(monggi=マレー語、紅樹林)の樹種であるホウガンヒルギの種子を拾いました。南方果実にしても、種子にしても、同一のものが一度に多く見られることは滅多にありません。それがなんと一カ所に固まるようにして5、6個漂着しているのです。次いで、緑色をした細長い、長さ5~10センチほどのものが。これもヒルギの仲間で、マングローブ林から流れ出たものに違いありません。丸いままのココヤシもありますが流れ着くココヤシは大部分が皮や「内果皮」という中の殻の部分です。私はこれまで660個ほど、玄海沿岸で採集しましたが、波にもまれ、表面の皮がはげたりしているものが多く、丸いままのものとなると十分の一です。この日の採集行でも丸いままのを1個見つけました。
少しばかり長く引用したのは採集したココヤシの数を紹介したかったからである。「玄海沿岸で」というだけで660個、「ヤシと言えば、皮でも拾ってくる」とも書いているからそれ以外のも含めるととんでもない数量ではあるまいか。「流れ寄る椰子の実」(玄海にて)という説明の写真にはほんの一部だろうが小山ほどの物量が写る。
「はやる気持ちを落ち着けて」
私はいく度も「今日はいいぞ、あわてるな、もう少し注意して歩け」そんなことを自分に言い聞かせながら歩きました。するとククイナットの種子を一個拾いました。一見クルミのようですが、真っ黒でクルミのようなシワがありません。油分を多く含んで「キャンドルナット」とも呼ばれ、灯りにも使われるのです。殻を作ってその中に卵を産むタコの一種アオイガイ、アカウミガメの死骸、台湾から中国へ向けて流す宣伝ビラが入った「海標器」、弥生土器や古墳時代の須恵器、中世の陶磁片なども百片ばかり・・・帰宅すると早速、採集した漂着物を水洗いして乾燥したら油性ペンで採集月日と場所を記入します。フィールドノートには天候、漂着状況、採集物と数量、それにちょっとしたコメントを書いておけば後でその日の状況を思い出すきっかけになります。植物図鑑でヒルギについて調べるとこれまで約300個採集しているホウガンヒルギではなくはじめてのオヒルギとわかりました。新しいものの発見はうれしくなります。
どうです、海岸歩きは?異国から種々のものが潮に乗り、何千キロの距離を旅してくるのです。初めの姿や形がなくなって、角が取れて丸みをおびたりして、また違った美しさになっている漂着物もあり、それを手にすると、何とも言いようのない、いとおしさを感じますから不思議です。
『椰子の旅』では「流れ寄る椰子の実ひとつ」の島崎藤村の歌から正倉院御物になった椰子の実まであれこれを。『漂着物と文化』では各地に残るさまざまな漂着物伝承を紹介。『いろいろ漂着する』では種子・果実、生きもの、お札や仏像まで<漂着物の百科事典>。『あらそいの漂着物』では近年、海底の発掘調査が続く元寇船が沈む鷹島の海岸で破片を見つけた石弾(=てつはう)を紹介する。ビーチコーミング入門編となる『さあ、海に出かけよう』では採集品を入れる袋から筆記用具類、カメラなど用意するもののリスト、服装から足回り、雷など天候急変の際の諸注意を挙げ、漂着物を拾うコツは「まあ次にするか」ではなく「チャンスは一度」の気持ちで、と書き添える。
日本漂着物学会の発起人に名を連ねるなど漂着物研究は石井さんの人生そのものだった。そう考えると<達人>のこんなひとこともなかなか味があるのではないだろうか。
漂着物を拾うだけでなく、砂丘に寝ころんで、海を、風を感じてみると、海岸歩きが一層楽しくなります。心も癒されますよ。
書斎の漂着本(98)蚤野久蔵 畫譜 吾輩は猫である
近藤浩一路の『畫譜 吾輩は猫である』(昭和29年、龍星閣刊)には汗の思い出がある。いつだったかは忘れたが毎夏に京都・下鴨神社で開催される「下鴨納涼古本まつり」で見つけた。お盆をはさんでの6日間、それでなくても暑い盛りの恒例イベントである。市中が大混雑する「五山送り火」の日は敬遠するが、帰りに友人とビアホールで待ち合わせして冷たいビールを飲むのを楽しみに地下鉄、バスを乗り継いで出かける。会場となる参道、糺(ただす)の森の両側に店ごとに数十のテントが並ぶ。張り出した枝が直射日光をさえぎるとはいえ到着する頃にはもう汗びっしょり。私のお目当ては均一棚の雑本なので入口で配られるうちわを使いながら見て回る。汗を拭きながらのせいぜい数時間だから掘出し物のあるなしにかかわらず脳内ランプに生ビールマークが点滅?し始めると退散である。
『畫譜 吾輩は猫である』(龍星閣刊)
近藤は明治17年(1884)山梨県生まれ、東京美術学校西洋画科を卒業、白馬会や文展に出品を重ねた。大正4年(1915)に読売新聞の漫画記者になると政治漫画や挿絵を担当した。美術学校時代の同級生で朝日新聞の漫画記者として活躍した岡本一平と双璧で「一平・浩一路時代」と評された。新聞連載を『校風漫画』と題して出版すると人気を呼び、続いて企画したのが夏目漱石の『吾輩は猫である』と『坊ちゃん』で文章は漱石、漫画が浩一路といういわばコラボ作品で当時の新潮社版は<幻の漫画本>とされる。
そこまで知った上でこの『畫譜 吾輩は猫である』を求めたのかというと、それは違う。「吾輩は猫である」→夏目漱石→畫譜?→近藤浩一路?→値段(多分数百円)という反応順で、中身をのぞいて「おもしろそう」と思ったから即購入ということに。前段で紹介したのはあくまで「あと仕入れの知識」というわけ。ついでに紹介すると漱石が『吾輩は猫である』を初めて「ホトトギス」に書いたのは友人の高浜虚子の依頼だった。初稿は虚子からの指摘もあって書き直したが再提出すると「なかなかおもしろい」と採用となった。題名は「猫伝」はどうかという漱石に対し、虚子が書き出しの一節から『吾輩は猫である』に決めた。(高浜虚子『俳句の五十年』)連載は大変な好評を博し、一躍作家・漱石のデビューとなったから上編を初め服部書店、のち大倉書店から。中編、後編を大倉書店から出版した。いずれも現在は数万円から程度のいいものは数十万円というマニア垂涎の高価本らしい。
龍星閣刊『畫譜 吾輩は猫である』は、漱石の文をあらかた引用しながらどこにもその名前はなく、奥付も「著者、近藤浩一路」だけであることからも「復刻版」ではなく、あくまで近藤が漱石の『吾輩は猫である』の各シーンをイメージして描いた「畫譜」という位置づけのようだ。権利関係がうるさくなった現在では考えられないのではなかろうか。
書き出しの部分は「一 苦沙彌先生」のタイトルで、吾輩は猫である。名前は無い。から始まる。原作は、吾輩は猫である。名前はまだ無い。だから「まだ」が省略されている。腹が減った吾輩が忍び込んだ屋敷が英語教師の苦沙彌先生宅で、見つけた下女の「おさん」が吾輩の首根っこをつまんで外へ抛り出す。何せ空腹だから侵入、抛り出しを4、5回繰り返しているうちに「何だ騒々しい」と言いながら奥から出てきた先生、吾輩の顔をつくづく眺めていたが「そんなら内へ置いてやれ」と言ったまま引っ込んでしまう場面。畫譜では「おさん」の名前はなく単に下女となっている。いまや下女も差別語で「お手伝いさん」と言い換えるのだっけと思い、『朝日新聞の用語の手引』を引いてみたらいずれも見当たらなかった。畫譜では「おさん」の出番はここだけなので「名前なし」となった。
かくして「家猫」になった吾輩、恩義のある先生には精一杯の感謝をしなくては申し訳ない。先生が書斎で昼寝をしている時には背中の上に乗ってマッサージ?をしているわけです。
畫譜は各場面ごとに挿画を添えて合計100場面。ページの代わりに番号を振ったタイトルが付く。いわゆる菊版を横にした版型で、見開きの右ページは文章が右側、左ページはその逆で、それぞれ中央に漫画=挿絵が配されている。原作から猫の手ではないがそれぞれを「拝借」しているからストーリーそのものはほぼ同じのようだ。いくつか紹介しようと思ったがきりがないので吾輩の毛色、その最後、まだ無かった名前はどうなったのか、の三点に絞ってお届けする。
毛色はご覧に入れた2場面でおわかりのように畫譜の吾輩は全身真っ白、つまり白猫である。手元にある角川文庫(平成9年6月10日、改版85版)の表紙を担当したわたせせいぞうのは白黒ブチである。右目のあたりが黒でなんともかわいい。
同じこの角川文庫版には初版本の写真が掲載されている。「挿画 橋口五葉、中村不折」とある。漱石は熊本五高時代の教え子の弟で東京美術学校を卒業したばかりの橋口五葉(本名・清)をわざわざ千駄木の自宅に呼んで本の装丁を頼んだことが日記に残る。五葉は巨人猫が人間世界を睥睨するイメージの表紙カバーを古代エジプト絵画風のカットで提案しているから署名はないが初版本上編のほうの黒猫の扉絵が五葉であろう。その裏の同じく初版本の下編の挿画は署名があるからもう一人の中村不折で、尻尾の先まで全身が黒一色でいずれも黒猫である。
毛色がさまざまあるということは原作には毛色について書かれているかもしれないがこれ以上詮索しない、つまり「白黒つけない」ということで次に進む。
先生宅は来客が多く、友人などが集まって議論をたたかわせたり、碁を打ったりする。この日も熊本出身の三平が嫁をもらう報告に、おみやげのビールを抱えてやってきた。居合わせた迷亭、独仙、寒月、東風は三平の艶福を祝してそれで乾杯、ひとしきり大騒ぎしたが秋の日暮は早い。「大分遅くなった。もう帰ろうか」と一人が立つとお開きになった。
「九七 月下のビール」 吾輩が勝手へ来て見ると、コップが盆の上に三つ並んでいる。その二つには半分ほどビールが残っている。ものは試しだ。猫だって飲めば陽気になれぬこともあるまい。思い切って飲んでみる。舌がピリピリして口の中が苦しくなったのには少々驚いた。一度は見合わせたが、人間は良薬口に苦しと言って風邪などを引くと、顔をしかめて変なものを飲む。飲むから癒るのか、癒るから飲むのか、今迄疑問だったが丁度よい機会だ。この問題をビールで解決してやろうと思ってぴちゃぴちゃと・・・。
「九八 猫ぢゃ猫ぢゃ」 吾輩は一杯のビールを飲み干し、更に二杯目も。ついでに畳の上にこぼれたのも拭うごとく腹に収めてやった。すると次第にからだが暖かくなる。眼のふちがボウッとする。歌が唄いたくなる。猫ぢゃ猫ぢゃが唄いたくなる。最後にはふらふらと歩きたくなる。外へ出ればお月様今晩はと挨拶がしたくなる。どうも愉快だ。
「九九 行水」 陶然と酔った吾輩は、そこらじゅう目的もなく、ふらふら、よたよた散歩をするような、しないような心得で、しまりのない足をいい加減に運ばせて行くと、前足をぐにゃりと前へ出したと思う途端、ぼちゃんとばかり吾輩は大きな甕(かめ)の中におっこちてしまった。ここは夏まで水草が茂っていたが、その後鳥が来てそれを食い尽したうえに行水を使ったりした。吾輩は今、吾輩自身が鳥の代わりにこんな所で行水を使おうとは思いも寄らなかった。水から縁までは四寸余もある。足をのばしても届かない。飛び上がっても出られない。呑気にしていれば沈むばかりだ。無暗にがりがりともがいてみたが、そのうちに身体が疲れてくる。
「一〇〇 南無阿弥陀仏」 吾輩も最早いくらもがいたって到底助かりっこないのを知ったので「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれ限り御免蒙るよ」と足も頭も自然の力に任せて抵抗しないことにした。次第に楽になってくる。苦しいのか有難いのだか見当がつかない。水の中に居るのだか、座敷の上に居るのだか判然としない。どこにどうしていても差支えはない。ただ楽である。否楽そのものさえ感じ得ない。日月(じつげつ)を切り落とし、天地を粉韲(ふんせい=粉々に)して不可思議の太平に入る。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、有難い有難い。
最後の場面のこの挿画、なかなか出色と思いませんか。日月いずれかといえば夜だから月でありましょう。蛇足だけど。
裏表紙は座布団に後ろ向きで座っている「ありし日の吾輩」でおしまいおしまい。
近藤は大正11年(1922)には岡本らとヨーロッパ各地を旅行、フランスを拠点にゴヤやエル・グレコの作品を鑑賞するためスペインにも足を伸ばした。このときの旅行記が『異国膝栗毛』。昭和に入ってからも長くフランスに住み美術評論家のアンドレ・マルローらと親交を結んだ。昭和37年(1962)に78歳で没した。
そうそう、名前はどうなったのかが残っていました。忘れるところだった。正解は「最後まで無かった」。小説のほうは吾輩という猫の目から見た先生宅というか人間社会を痛烈に風刺した作品だからそれでいいけれど、名前なしでは呼ぶのに困ると思うのは私だけではないはず。