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ヒトラーの時代 (25) 池内 紀

  • 2017年6月30日 16:53

亡命という生き方

ユダヤ系のドイツの作家ヨーゼフ・ロートは、1933年2月、ベルリンを発ちフランスへ亡命した。パリ・トゥルノン通りのホテル・ホワイヨが仮の住まいになった。ヒトラーの政権掌握後、二週間たらずのことである。

ロートはもっとも早くからナチス・イデオロギーの危険を語った一人だった。さらにヒトラーの狂信的な信奉者たちがドイツを制することを正確に見通していた。その過激な主張からして、左翼知識人、とりわけユダヤ人にとって亡命は逃がれようのない事態であって、それをいち早く予告した。ロートは亡命とは言わず「追放された者」と呼んだ。一つの政治体制により、人間の基本的な生の条件を根こそぎ奪い取られたことを明確にしておくためだった。

同じユダヤ系の売れっ子作家シュテファン・ツヴァイクは、困窮に陥った友人ロートに、しばしば援助の手をさしのべた。パリに亡命後、まっ先にロートはツヴァイクに「亡命の勧め」を書き送った。「いずれあなたにも、はっきりするでしょう。われわれは大きな破局に直面しているのです。いずれ全面的な新たな戦争に至るでしょう」

ドイツ市民は歓呼してヒトラーとナチ党に政権をゆだねた。このような野蛮に支配をゆだねる社会に、なんの未練があろうか。「幻想を抱かれませぬように。地獄が支配するのです」

この上なく正確な警告だったが、ツヴァイクは幻想を捨て切れなかったのだろう。亡命は五年後の1938年までズレこんだ。あわただしくスイス、イギリスを経由してブラジルに逃れ、結婚して間のない新妻とともにリオ・デ・ジャネイロで自殺した。

ロートの仮住まいのホテル・ホワイヨはパリ・トゥルノン通り33番地にあった。それが1937年に取り壊されることになり、やむなく筋向いの十八番地、ホテル・トゥルノンに移動した。どうして同じ通りを動かなかったのかはわからない。根無し草の亡命者として、住みなれた界隈を離れたくなかったからか。それとも若いころ、南フランス・ローヌ川沿いの町トゥルノンを訪れたことがあった。十六世紀の枢機卿トゥルノン師にちなみ、パリの通りは、その町トゥルノンにちなんでいる。そんな記憶があって、同じ通りに居つづけたのか。

リュクサンブール宮殿の北にあたる。すぐ東が、オデオン座のあるオデオン通り。さらに北へすすむとブールヴァール・サン・ジェルマン。この辺りはいつも人であふれているが、トゥルノン通りは忘れられたような一角であって、人通りも少ない。両側は昔ながらの小店といった感じで、花屋、万年筆専門店、洋服屋、古書店、税理士事務所……。

取り壊されたホテル・ホワイヨもほぼ同様だったと思われるが、ホテル・トゥルノンは現存していて、どういうホテルかひと目でわかる。四階建ての粗末な建物の両側が六階建てで、ここだけ歯が欠けたようにへこんでいる。一階はカフェ兼居酒屋、二階から上がホテル。知られるようにパリのホテルは星の数で区分されるが、ホテル・トゥルノンは無星、ふつう言うところの安宿である。

 

ナチス政権の誕生とともに堰を切ったように亡命者の流れが始まった。作家でいうとユダヤ系、コミュニストを中心にして、エールンスト・トラー、アルフレート・デーブリーン、リオン・フォイヒトヴァンガー、エミール・ルートウィッヒ、ルネ・シッケレ、ヤーコプ・ヴァッサーマン、フランツ・ヴェルフェルと夫人のアルマ=マーラー・ヴェルフェル、ベルト・ブレヒト、トーマス・マンの兄ハインリッヒ・マン、『西部戦線異常なし』の作家エーリッヒ・マリーア・レマルク……。

トーマス・マンはロート同じころ、ミュンヘンの住宅を出た。短期のフランス、オランダ講演旅行のためであって、亡命は考えていたにせよ、さしあたりは講演を終えてからのこと。出発に先立ち、ミュンヘンのゲーテ協会主催の講演会で、ワーグナーを私物化し、党大会のいろどりにワーグナー音楽を悪用するナチスを、こっぴどく批判した。国外に出るやいなや、ナチス政府はこの機会を待っていたかのようにノーベル賞作家マンの帰国を差しとめた。期せずしてマンは着のみ着のままで亡命状態に陥った。

亡命者たちの亡命理由はさまざまだったし、亡命先も人ごとにちがっていた。さしあたりフランス、スイスが多かったが、ブレヒトのように、スウェーデン、ノルウエーを経てアメリカに逃れた者もいた。

フォイヒトヴァンガーやルートウィッヒはユダヤ系作家のうちでも大衆に人気のある通俗的歴史小説で知られ、豊かな印税にめぐまれていた。当時の一つの流行だったようだが、ドイツの富裕層はスイスに別荘をもち、休暇ごとにスイスで過ごした。はからずもそれが幸いして、人気作家たちは国を捨てても、代わりの国で別荘暮らしができた。

レマルクはベテランの通俗作家たちとはちがって、1929年、超ベストセラーとなった『西部戦線異常なし』でドイツ文壇に登場した。それまでの十年あまりは、しがないセールスマン、小学校教師、スポーツ新聞記者などを転々とした。世界的なベストセラーによって莫大な印税が入ったとき、苦節十年がムダではなかった。ころがりこんできた印税を上手に運用し、スイスの銀行に預け、かたわら南スイスの保養地アスコーナ近傍に売りに出ていた別荘を買った。美しいマジョーレ湖の湖畔にあって、地名から「ポルト・ロンコの家」と名づけ、第二の住居にした。ヨーゼフ・ロートと同じく1933年2月、さっさとベルリンを引き払い、アスコーナに移った。亡命にちがいないが、レマルクには、それは同時に別荘暮らしを意味していた。

これらはほんの少数の例外であって、亡命者のおおかたはロートのように異国で「仮の宿り」生活を始めなくてはならなかった。仮であって住居はホテル、それもせいぜいが中程度、どちらかというと「小」にあたる規模で、一般には「安宿」と分類されるもの。

こころならずも亡命状態に入ったトーマス・マンはスイスに移り、南スイスのルガーノや近傍の町のホテルを転々とした。ノーベル賞作家という背景が当座の助けになったが、いつまでも過去の栄光にたよっていられない。やがてマンのスイス滞在地がルガーノのような景勝地ではなく、ごく小さな町が中心になったのは、およそ不安定な身にあってホテル代の節約を考えてのことと思われる。

ヨーゼフ・ロートの亡命生活は、一見、おおかたの亡命者と同じだったが、くわしく言うと大きくちがっていた。大半の亡命者にとって異国でのホテル暮らしは初めての体験であり、たちまち困惑と困窮に苦しんだ。これに対してロートは二十代で結婚したのちの数年はウィーンに住居をもったが、妻が精神異常の兆しをみせ、病院に収容しなくてはならなくなって以後、家を捨ててホテル以外に住居をもたなかった。ホテルやカフェのテーブルが仕事場兼書斎であって、その小説やエッセイは酔っ払いや婦人のおしゃべりのかたわらで生まれた。早くから彼がおそろしく正確に時代を見通していたのは、定住の場をもたず、つねに「純粋観客」としての生活スタイルを選びとっていたせいでもあるだろう。

エッセイではことさら名をあげていないが、マルセイユの定宿はノーティク・ホテルだった。パリは先に述べたとおりホテル・ホワイヨ。フランクフルトではエングリッシャーホーフ、ベルリンではホテル・アム・ツォー。大半が古い小さなホテルの部類に入る。つまるところ亡命者ロートはナチス・ドイツからの亡命に先立ち、二十年に及んで亡命者的暮らしをしてきた。その証言は、おのずと微妙な亡命者の日常を、かいま見せてくれるのである。

「静かであっても寂しくはなく、ひとりぼっちであっても見捨てられてはいず、離れていても隔離されているのではない……」

ホテルに入り、つかのまの安息を得たときの気持ちが的確に要約されている。旅の途上のホテルではない。亡命という生き方にあって、そこにいるのが二日や三日ではなく、二週間、三週間に及び、ひと月、ふた月となるかもしれない。先の予測が立たず、たとえホテルを出るとしても、我が家に帰るためではないのだ。わが家、また、「わが国」を捨ててきた。帰るためではなく、別のホテルへ移るだけのこと。ホテルの一室そのものが、「わが家」のすべてであって、そんな生き方を、こころならずも選び取った。

朝、目をさましても、台所で食器の触れ合う音がしたりしない。聞こえるのは、早発ちの旅行者が足早に廊下を通っていく足音である。隣室にいるのは家族ではなく、まるきり見知らぬ人間であって、ほんの壁一つ隣合わせなのに永遠の他人である。しかもその他人は、もしかすると自分に害をなす誰かかもしれないのだ。

かたわらに本棚があっても自分の書棚ではなく、ひらけば慰められる愛読書が収まっているわけではない。戸棚があっても、そこに見つかるのは使い慣れたコーヒーカップではなく、ひややかなホテルの調度品にすぎず、フロントに備えつけの調度品リストに記載されているたぐいである。

「おはようございます」

部屋係の女が声をかけてくれる。

「よくおやすみになれましたか?」

やさしく問いかけ、にこやかにほほえんでも、べつに彼一人へのほほえみではないのである。どの客にもひとしく、ひとしい分量だけ配られるほほえみ。どの部屋にも備えてあるタオルや石鹸のようなもので、洗いたてのシーツのように清潔で、いかなる気持ちがこもっているわけでもないだろう。

外出のとき、支配人がチラリと視線を走らせる。ほほえんでもくれる。ただし帳簿にきちんと、週ごとの「支払いズミ」のサインがついているかぎりであって、少しでも遅れぎみのときは、ほほえみがぎこちない。もし支払いのとどこうりが「少し」ではなく「かなり」となると、あきらかに目つきがちがう。その視線は、さりげなく探っている。客の服装、しぐさ、表情などから、相手の懐ぐあい、金銭の出入りを推しはかっている。いつ滞在を打ち切るべきか思案している。

「かしこまりました」

用向きを伝えると、すぐさま引き受けてくれる。何であれ頼みをきいてくれる。気の好い母親とそっくりだし、適切なアドバイスを与えてくれる点で、たのもしい父親のようでもある。

だからといって父でも母でもないだろう。だいいち父や母は、こんなに薄気味悪くはないのである。ホテルの支配人ときたら、若いのか老(ふ)けているのかわからない。三十代に見えるかと思うと五十代のようでもある。髪に白いものがまじっているようだが、見たところは黒々としている。やたらに丁寧に撫でつけてあって、頭髪全体がカツラのようでもある。

話すとき、口を開かない。歯を見せたりない。そのくせ、きわめて発音明瞭にしゃべり、ゆっくりした口調なのに、唇はせわしなく動いている。

夕方、あるいは夜遅く、亡命者は帰ってくる。かけずり廻って情報をあつめた。亡命者仲間とカフェで長いこと話し合った。政局はますます悪化していて、まったく見通しが立てられない。封鎖された預金を、どのように引き出すか。スイス経由の印税は安全なのか。耳にした強制収容所の実態はどうなのか。何一つ定かでないなかで、なにを判断の根拠にすればいいのか……。

重い足取りで帰ってくる、いそいそと妻が出迎えたりしないし、子供がとびついてくることもない。フロントには宿直の者が新聞をひろげている。新聞から目を上げ、数字つきの鍵を取る。いちいち宿泊者名簿で確認されないのが、長期滞在者の唯一の特権だ。

「おやすみ」

声をかけると返事はあるが、相手はすでに読みさしの新聞に目を落としている。

鍵を差し入れて部屋に入る。白い壁。窓を開くと、眼下に町がある。だが、自分はここの住人ではなく、市長選挙に投票することもない。通過点の一つにすぎず、「仮の宿り」の人間であって、永遠のよそ者、たかだか部屋番号の人間である。はたしてこんな暮らしが、あとどれほどつづくものか。予測のつかないことがこれほど辛いことを初めて知った。四六時中、身を切るような不安のなかで過ごさなくてはならない。そんな生き方。亡命者という、そんな無法な生き方に追いやられた。

 

トーマス・マンは1933年3月以後、克明に日記をつけていた。ルガーノに滞在中のことだが、ある日、ルートウィッヒのアスコーナの別荘に招かれた。ノーベル賞作家を迎えてパーティが開かれたらしく、日記には「談論風発、ただし話題はほとんど政治問題」とある。パーティ参加者として外交官、弁護士、亡命作家たちの名がしるされている。「レマルク夫妻」もいた。同じアスコーナ在のよしみから招かれたのだろう。

すこしあと、マン日記の5月8日付。

「ドイツ国内での身の毛のよだつような事件や殺戮についてのニュースだけでなく、国外のそうした事件のニュースさえ聞こえてくる。メンデルスゾーン青年が、〈事故死〉したが、どうやらレマルクと間違えられたらしい」

スイスに亡命していたベルリンのジャーナリスト、フェリクス・メンデルスゾーンはレマルクを訪ねたあと、別荘の敷地内で死んでいるのが発見された。マンが〈事故死〉とカギカッコつきで書いたのは、殺害されたとする見方があったからだ。一介の若いジャーナリストを暗殺する必要がないから、有名人レマルクとの人違いだと考えた。

レマルクの身辺に、そのような危険が及んでいたのだろうか? ナチス・ドイツが1933年に作成した禁書作家のリストには、トーマス・マンと並んでレマルクも入っていた。映画『西部戦線異常なし』は情報宣伝相ゲッベルスの指示でドイツ国内では上演禁止。ベルリンの広場における焚書事件では、ベストセラー小説が他の禁書作家の作品とともに火に投じられた。

しかし、スイスに亡命した作家のもとに刺客が送られたなどのことは、とうてい考えられない。マンは何かの情報を得ていたのかもしれないが、混乱した状況のなかの混乱した情報だったと思われる。少なくとも、現在判明している事実は、そうではない。第三帝国プロパガンダ大臣ゲッベルスが差し向けたのは刺客ではなく、亡命作家レマルクに帰国を促す使者だった。当代きっての人気作家が翻意してナチス・ドイツに帰国するとなれば、二つとない宣伝になる。使者は執拗に帰還を説いたが、相手はどうしても「うん」と言わない。祖国ドイツへの郷愁(ノスタルジア)はないのかと問われたとき、レマルクは「郷愁?」と訊き返ししてから答えたという。

「どうして郷愁を感じなくてはならないのです? この私はユダヤ人でしょうかね?」

ここには注釈が必要だろう。この場合の「ユダヤ人」は、ナチス政府が公布したニュルンベルク法により、いや応なく規定されたユダヤ人である。代々にわたりドイツ人であったにもかかわらず 、いまや一つの法令の下にドイツ人ではなく、ユダヤ人にならなくてはならない。だからして身を焼くようなドイツへの郷愁を感じている。第三帝国の「血の系譜」の政策によって祖国と縁切りにされ、往きくれたユダヤ人の郷愁。レマルクが自分はユダヤ人かと問い返したとき、自分の亡命は思想と信条から出たまでで、どうして郷愁を抱く必要があるかと、昂然と述べたわけだ。

ナチス政府は祖国帰還の説得をあきらめたのだろう。一九三八年、レマルクのドイツ国籍を剥奪。この年の末にレマルクはアメリカに移った。そのため先にアメリカ移住を果たしていたマンの日記に出てくる。一九三九年、映画の試写会で顔をあわせた。

「レマルクとディートリッヒ女史、劣等感につきまとわれている感じ」

そのあと何があったのか、「レマルクの不作法な振る舞い」と書き足しがある。

ドイツの女優マレーネ・ディートリッヒは『嘆きの天使』の大ヒットのあと、アメリカの映画会社パラマウントに引き抜かれ、ハリウッドで活躍していた。このとき37歳のディートリッヒと妻ある身のレマルクの恋愛は、ドイツ亡命者仲間のなかで公然の秘密だった。昔かたぎのマンにとっては、二人がつれ立って試写会に現われ、しかも不倫中の男が大っぴらに愛のしぐさを見せつけるのが、「不作法」に映ったのではあるまいか。

その後、レマルクのことはほとんど語られない。マンにとって風雲急を告げるヨーロッパ情勢のなかで、映画ではなく実地に「許されぬ愛」を実演している中年男女に関心の余地などなかったのだろう。

ドイツ国籍を失っても、また同じ亡命者たちの顰蹙(ひんしゅく)を買おうともレマルクにとっては痛くも痒くもなかっただろう。むしろ「亡命者」の肩書きに箔がついた気がしたのではあるまいか。なにしろ人気作家大歓迎のアメリカという大国が、さらにハリウッドという金のなる木が控えている。『西部戦線異常なし』を皮切りに、つづいて『帰還』『黒いオベリスク』『三人の戦友』『凱旋門』。映画はほぼ正確に原作をたどっており、レマルクの小説づくりの骨組みというものを無慈悲なまでに見せつけている。デビュー作とまったく同じで、わかりやすい筋立て、危機と不正のなかで主人公が苦しみ、劇的なスリルと感動のシーンがはさまって、やがて悲劇的な愛と死で終わる。ナチス・ドイツから亡命した知識人のおおかたが困窮と自殺に追いこまれていったなかで、ひとりレマルクは優雅に過ごした。

 

ヨーゼフ・ロートが1938年、つまり死の前年に亡命者仲間とカフェ・トゥルノンで撮った写真が残されている。髪が薄く、目がたるみかげんで、垂れた鼻ひげがさみしげだ。背広に蝶ネクタイ、いで立ちはオシャレだが、服もネクタイも相当くたびれていた。左手にタバコ、テーブルにワイングラス、コップと水差しも写っていて、ペルノーなどの強い安酒のあいまに水を飲んでいたのだろう。

まだ四十半ばのはずだが、写真ではどう見ても六十代である。亡命して5年目、亡命貴族のレマルクとはちがって、苦労がたえなかった。さらに深酒が衰えを加速させた。友人が酒量をへらすようにさとしたとき、ロートは答えている。酒は命をちぢめるかもしれないが、少なくとも「眼前の死」は遠ざけてくれる︱︱「眼前の死」が自殺を意味していたことはあきらかだ。

ロートは早くからナチズムの予兆をはっきりとかぎとっていた。1933年7月の総選挙でナチ党が第1党に躍り出た。歓呼する市民たちは、カギ十字をつけた褐色の制服の集団こそ、自分たちを守ってくれる力強い用心棒だと考えた。困難な時代には汚れ役が必要だ。ボスがチョビ髭をはやした、多少ともうさんくさい人物であろうとも、政党が暴力とユダヤ人憎悪を公然と掲げていようとも、大切なのは「わが家」を守ってくれること。「わが家の幸福」を保障してくれること。「わが家」はそのまま「わが町」「わが国」につながり、同じ髪、同じ肌、同じ血でなくてはならない。

これと対比させるようにして、ロートは自分の「わが家」、すなわちホテルの住民構成を語っている。電話交換手はイタリア人女性、給仕はオーストリア人、門番はフランス・プロヴァンス生まれ、接待主任はノルウェー人、給仕長はドイツ人、女中はスイス人、臨時雇いの男はオランダ人、支配人は中東人……。

「コックはチェコ人とにらんでいる」

客もまたそうなのだ。ここにつかのまの安住を見出す側は大陸や島や半島、さまざまなところからやってきた。キリスト教徒、仏教徒、ユダヤ人、イスラム教徒、自由思想家……。こちらもいたってまちまちであって愛国主義の息苦しさや民族心の傲慢と自惚れといったものから、しばらく遮断してくれる。ホテルそのものが小世界であるように、ホテル人間こそ国境のない「世界人」というもの。とするとヨーゼフ・ロートの選び取った亡命という生き方こそ、思想と信条そのもののスタイルだった。

1939年5月、ロートはホテルの玄関を出てすぐの街角でバッタリ倒れ、病院に運ばれて、まもなく死んだ。

もう少しくわしく言うと、フロントから電報をしらされて階下におりてきた。友人の劇作家で、ニューヨークに亡命していたエールンスト・トラーの自殺を告げるものだった。強いショックを受けたらしく、電報を握ったまま足がフラついた。ボーイやフロント係が駆けつけると、手を振って人々を制した。そしてヨロヨロと歩き出し、玄関を出て、一つ先の角まできて崩れるように倒れた。

きっと愛する「わが家」に迷惑をかけたくなかったからだろう、ホテルの正面から死体が運び出されるなど、まったくもってあってはならないことだからだ。

 

[付記 トーマス・マンの日記は『トーマス・マン日記』(全十卷・紀伊國屋書店)による。]

新・気まぐれ読書日記 (46) 石山文也 孤道

  • 2017年6月29日 23:09

「浅見光彦シリーズなどで知られる作家、内田康夫さん(82)が休筆宣言」という気がかりなニュースが3月中旬に一斉に報道された。一昨年夏に脳梗塞に倒れ、小説の執筆が難しくなったという。毎日新聞夕刊に連載していた『孤道』もやむを得ず休載になっていたが“未完小説”として毎日新聞出版から出版されるというので珍しく発売前に書店に注文した。サラリーマン時代から同シリーズの全作読破を公言しているから心が動いたのである。その割にはこの『新・気まぐれ読書日記』でお目にかかったことはないなあと言われる方もあろうがそこはお許しいただきたい。堅苦しい方針などはもとよりなく、なるべく多いジャンルから取り上げることにしているだけだが、いくら名探偵・浅見の推理が冴えたとしてもミステリーだから詳しく書くと<ネタバレ>になるので紹介しにくいということもある。

内田康夫著『孤道』(毎日新聞出版刊)

言い訳はともかく、ご存知、浅見光彦は推理作家としてデビューした内田が生みだした若きヒーローである。甘いマスクで長身の33歳独身、雑誌『旅と歴史』に紀行文や旅のルポを寄せるフリーのルポライターでありながら多くの難事件をスピード解決してきた。各テレビ局の人気ドラマとして水谷豊、榎木孝明、辰巳琢郎、沢村一樹ら多くの俳優が光彦役を演じてきた。榎木はその後、兄で警察庁刑事局長の陽一郎役も。母の雪江未亡人役といえば先日亡くなった野際陽子を思い出す。母と兄一家と東京都北区西ヶ原の屋敷に居候しているが取材に行った先々で事件に巻き込まれるだけでなく探偵としての実力を見込まれて事件解決に向かうケースもある。ところが浅見のことを知らない第一線の警官から「あやしい奴」と取調室に連れ込まれて身元照会され、兄が警察庁の刑事局長と分かった途端に待遇が一変するという<お決まり>のシーンは「このお方をどなたと心得る、控えおろう!」というあのセリフと印籠の登場で水戸の御老公とわかる<水戸黄門の現代版>と言えなくもない。

浅見光彦シリーズとしては3年ぶりの新刊となる『孤道』は世界遺産の熊野古道が舞台。最初の事件は和歌山県田辺市の熊野古道中辺路にある人気スポット「牛馬童子像」の首が何者かによって切られて持ち去られる。高さ55センチ足らず、牛と馬の背に跨った法衣姿の石像はとりわけ女性ファンが多いことでも知られる。この事件を知り合いの田辺市役所の鈴木女史から聞いた大毎新聞田辺通信部の若手記者、鳥羽がスクープを飾る。鳥羽は東京生まれの東京育ち。東京本社の採用で初任地が和歌山支局だったが、定年間際のベテラン通信部記者が体調を崩して急遽補充が必要になったため支局長から「肴は旨いし、女性は美人で人情がいい。とりあえず1年ばかり」という条件に乗せられてやってきた。女史とのパイプも前任記者からの引き継ぎだった。

牛馬童子像の損壊事件が全国ニュースとなったことから浅見家では兄の陽一郎や母の雪江未亡人が話題にしていたところへ光彦が懇意にしている「軽井沢のセンセ」から連絡が入る。用件は下半身に原因不明の違和感があって、自身に代わり「紀州の熊野権現」に病気平癒の代参に行って欲しいというものだった。センセは「熊野では浅見ちゃんにぴったりの事件が起きているし、お礼はちゃんとする。ついさっき、カミさんが銀行に行って口座に振り込んだはずだ」とたたみかける。さらに事件を報じる記事の署名は何と浅見の大学の後輩の鳥羽だった。途中、京都で一泊した光彦が鳥羽に連絡を取ると、こんどは殺人事件が起きていた。海南市で不動産業、八紘(はっこう)昭建を営む女史の夫の義弘が大阪市中央区の淀川に浮かんでいるのが発見される。後頭部に打撲痕、頸部にロープで絞められた痕跡があるところから何者かに殺されて遺棄された殺人事件と断定された。現場は熊野古道の大阪側のスタート地点、八軒家の船着場跡近くだったことから「八軒家殺人事件」として天満橋警察署に捜査本部が置かれたことがわかった。

義弘は8年前まで田辺市役所に勤めていて職場が同じだった女史と結婚したが、父親の急逝で実家の家業を継いだ。鈴木家は全国の鈴木姓の総本家のひとつ、藤白鈴木家に連なる名家で祖父、義麿の時代には和歌山県だけではなく大阪府北部から京都府南部、兵庫県東部に跨る広大な農地や山林を保有する大地主だった。その大部分は軍用地として接収され、戦後の農地改革で失われたが海南市に残る鈴木屋敷はすぐ隣にある藤白神社の神域として残された。浅見に鈴木家の歴史をレクチャーしてくれた書店主の門脇は義弘の幼馴染で事件の背景は鈴木家が所有していた不動産にあるのではないかと示唆する。藤白神社の大谷宮司は半年前に義弘から預かったという祖父、義麿が大学ノートに残した段ボール箱入りの日誌類を託して事件の究明を頼んだ。

ここまでがミステリーの<つかみ>というか序盤、呼び込みなら「はじまり、はじまり」と声をあげるところだ。

神童と評された義麿がブルーブラックのインクの細かい字で大学ノートに書いた日誌は中学2年生の13歳の時から残されていた。書き出しは

「僕はその時真っ暗闇の底に居た。闇がしきりに揺れて居る。大きく左に右に上下に揺れて居る。一體何が起きたのか判らない」とあった。

浅見はこれを地震に遭遇した記憶ではないかと直感した。調べてみると義麿が9歳の1927年3月7日に兵庫県北部を震源とする北丹後地震が発生し海南市でも強い揺れが観測されたことがわかった。これをきっかけに地震に関心を持つようになった義麿は「地震少年」として育っていく。現在も京都大学の地震観測所がある高槻・茨木市境の阿武山(あぶさん)近くに鈴木家の別荘があり、観測所の建設を進めていた理学部の森高教授と知り合いになる。中学の夏休みにはその建設現場の飯場にも出入りした。教授の「お弟子」であり、大地主である鈴木家の「お坊ちゃん」だったから作業を仕切る人夫頭の竹さんからも可愛がられた。竹さんは南紀・田辺の出身で鈴木家や藤白神社のこともよく知っていた。

ところが工事現場でやっかいな「事件」が持ち上がる。地震計などを設置するトンネル掘削が古墳の石棺に阻まれて工事がストップしてしまう。ある夜、義麿と竹さんが石棺を運んだ倉庫を窓越しにのぞくと森高教授がカナテコで石棺の蓋を開けようとしている。外まで聞こえるようなギイという音を立てて蓋ははじけ飛び二つに割れた。教授は棺の中に両手を差しこんで西瓜程もありそうな丸い物体を取り出すと近くの池の方角へ向った。のちに阿武山古墳と呼ばれることになるこの古墳は、すわ天皇陵かと騒がれたものの被葬者は藤原鎌足ではないかということに落着いた。天皇陵ではなかったこともあって宮内省も関与せず、石棺は再埋葬され地震観測所は完成、義麿はその後、京大に進むが専攻したのはなぜか地震学ではなく考古学だった。

そして再び現代へ。幸い牛馬童子の首は熊野古道から遠く離れた大阪府高槻市の今城塚古墳公園で発見されて無事戻ってきて一件落着した。ところが鈴木家の葬儀に八紘昭建では唯一の社員で、浅見らに社長が行方不明になる直前の様子を話してくれた松江が姿を見せず、葬儀で留守だった鈴木家には空き巣が入る。

ちょうど320ページ、あとわずかで上巻が終わるボリュームに思えるが「軽井沢のセンセ」こと内田を病魔が襲った。

「ここまでお読み下さった方々へ―あとがきに代えて」では

2015年夏、僕は脳梗塞に倒れて、左半身にマヒが残りました。以降リハビリに励みましたが思うようにはいかず、現在のところ小説を書き続けることが難しくなりました。(中略)『孤道』を発表したい、しかし今の僕にこの続きは・・・と思いついたのが、未だ世に出られずにいる才能ある方に完結してもらうということでした。思えば僕が作家デビューしたのも、思いがけないきっかけでした。1980年、当時の仕事の営業用に自費出版した『死者の木霊』が、ひょんなことで評論家の目に止まったのでした。そういうこともあり、世に眠っている才能の後押しができれば・・・と。うれしいことに毎日新聞出版、毎日新聞社、講談社、内田康夫財団が<『孤道』完結プロジェクト>を立ち上げてくれましたという口述筆記を寄せている。

帯には内田康夫「休筆宣言」。『孤道』完結プロジェクト、始動!に続いて、この物語の<完結編>を募集します。最優秀作は本として出版します。と赤色の大活字が躍る。

作品の発想のきっかけについて内田は、牛馬童子の頭部盗難事件から幕が開いた物語は戦前に起きた阿武山古墳から持ち去られた被葬者藤原鎌足の出自を示す何か、それは考古学的にも歴史的にも決定的な証拠で正倉院御物にもなろうかというお宝だったはず。「義麿ノート」を通して彼のロマンスや成長過程を描きたかった。現代の事件とノートの絡みに光彦はどういう道筋をつけるのか。謎をこれからどう収束させるかという前段で中断となったのはいかにも残念。牛馬童子の首と殺人事件に鎌足の謎が絡んだぼくの作家生活最大の傑作になるのではないかと考えていたと吐露している。

巻末にはくわしい募集要項と主要参考文献約20冊の紹介もある。

実はうちのカミさんも熱烈な浅見ファンなので、私の読み終わるのを急かして『孤道』を読了した。珍しくこれからの展開予想を聞かれたのであれこれ推理したことを披露したところ「その程度じゃ応募しても間違いなく無理だろうけど、完結編はぜひ買ってきてね!」ですって。

ではまた