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ヒトラーの時代 (24) 池内 紀

  • 2017年4月12日 16:19

 

平穏の時代

1933年から38年まで、ヒトラーが政権についてからポーランド侵攻前年までの五年間は第三帝国の「平穏の時代」と呼ばれている。第一次大戦終了後、狂乱の20年代があった。古今未曾有のインフレで、ドイツ・マルクが紙屑になり、預金が一挙にかぎりなく0になった。失業者がうなぎのぼりで、総数600万をこえ、ドイツ人の10人に1人は失業者だった。ワイマール憲法は史上もっとも優れた憲法といわれたが、20をこえる政党の足のひっぱり合いで、どの政権も半年ともたない。とめどない混乱を縫ってナチスがめざましく勢力をひろげ、ついに過激を売りものにする極右政治家に首班の座をあけわたした。

ヒトラーは内閣を組織した翌日のラジオ演説で、「われに4ヵ年の猶予を与えよ、しかるのち批判し審判せよ」と大ミエをきった。誰もがいつもの大ボラだと考えていた。数ヶ月もせぬうちに行き詰まり、すごすごと政権を投げ出すだろう。

ところが、そうはならなかった。「ドイツ国民への檄」に始まり、きびすを接して「経済4ヵ年計画」「フォルクスワーゲン(国民車)構想」、「自動車専用道路計画」……。人気とりの青写真と思われていたことが、一つ、また一つと実現する。日ごとに膨大な雇用の場が生まれ、600万もの失業者が、めだって減っていく。約束の四年が過ぎたとき、全国民所得が1・⒌倍にふえ、失業者は100万台にまで減少していた。造船所からは次々と巨船が進水していく。世界で初めての自動車専用道路は「アウトバーン」の名のもとに、全長3000キロに及び、完工式には50万の道路労働者のうち3000人が招待客になって、お祝いをした。

この間、1936年にはガルミッシュ=パルテンキルヒェン(冬)とベルリン(夏)の2度のオリンピックがあり、世界中からの報道陣が急テンポのドイツの復興ぶりを故国に報道した。オリンピックが一つの国で1年に2度開催されたのは異例のことで、大戦の後遺症から抜け出せないヨーロッパにあって、ナチス・ドイツがいち早く放れワザをやってのけた。

首相アドルフ・ヒトラーへの全権委任法、反国家的運動、出版に対する取締強化、デモ及び屋外集会の禁止、報道の自由制限、共産党の禁止、と社会民主党の機関紙発行停止命令、ユダヤ人弾圧……。ナチスの政策は、ことあるごとに国外の批判をあびていた。ナチズムによる不当な全体国家ドイツのイメージは広く流布していた。それをオリンピック報道が大きく修正した。世界中からベルリンへやってきた報道陣は、予期したような暗いドイツではなく明るいドイツを見出し、奇蹟の復興に目をみはった。これほど短期間に、これほどの成果をなしとげたヒトラー独裁をあらためて見直した。政党党首、首相、国防軍最高司令官、国家元首︱︱一人で何役も兼ねた人物に並外れたカリスマ的指導者を見た。

この間の主だった出来事は、次のとおり。

1933年7月 ヒトラー、ローマ法王とのコンコルダート(政

教条約)締結。

同年10月 ドイツ、国際連盟脱退。

1934年6月 ヒトラー、SA幕僚長レームらを粛清。

1935年1月 住民投票でザール地方がドイツ復帰。

同年3月 ヒトラー、ヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄。ド

イツ再軍備。

1936年3月 ヒトラー、ロカルノ条約破棄。ドイツ軍、ライ

ンラント進駐。

同年8月 ベルリン・オリンピック。

1938年3月 ナチス・ドイツ、オーストリアを併合。

同年9月 ミュンヘン会議。ドイツ、チェコのスデーデン地方

を併合。

いずれも総統ヒトラーの決断による。ローマ法王庁との宗教条約は、ナチスがカトリック教会や学校の宣布を承認する一方で、ヴァチカンはカトリック政党(中央党)や労組の強制的解散を承認するというもの。ヒトラーはナチズムを宗教にとって代わらせ、最終的には無宗教を信念としていたが、当面はあいまいな妥協策をとった。ヒトラーによる最初のめざましい外交的成果とされた。対外的には、反教会的といわれるナチス権力をヴァチカンを通じ国際的に承認させたし、国内的には反ナチスのカトリックを体制内にとりこんだからだ。

国際連盟の脱退に際しては、国民に信任を問う総選挙を約束。95・1%の支持を得た。

SA(突撃隊)は幕僚長レームの育成のもとに隊員三〇〇万を数え、「第二革命」が噂されていた。レーム事件は「長いナイフの夜」と呼ばれ、34年6月30日から7月1日にかけての夜に起きた。ヒトラー指揮下のゲシュタポ(国家秘密警察)とSS(親衛隊)が全国のSA幹部と反ナチス政府分子を襲撃、銃殺した。レームのほか、元首相シュライヒャーとその夫人、元ナチ党幹部シュトラッサー、元バイエルン首相ファン・カールら、粛清されたのは公表では70名。パリの粛清白書では401名。戦後の公表では1000人以上にのぼる。強敵レームを武力で排除して、この日がナチスの権力掌握の決定的な日となった。

きわめて血なまぐさい事件だが、国民には「反逆を芽のうちにつみとった決断力と勇気ある行動」として報じられた。ヒトラーは直ちに緊急閣議を開き、「国家緊急防衛法」を発布。正式には「国家緊急防衛の諸措置に関する法律」といって、緊急防衛の必要があれば殺人行為も正当化される。

「長いナイフの夜」にSSが果たした功績にかんがみてだろう、SSをSAから正式に独立させ、ヒトラー直属の党内機関とした。SS中央指導者ヒムラーのもと、SSは国家の中の国家、国防軍にも手のつけられない軍隊の中の軍隊へと変貌していく。

ライン川東部のザール地方は石炭と鉄鋼業で栄え、ドイツ重工業の心臓部にひとしかった。第一次大戦終了後、国際連盟の管理に委ねられ、実質的にはフランスの占領下にあった。ヒトラーにとっては再軍備に欠かせない資源地域であり、政権を固めるやいなやザールのドイツ復帰を呼びかけ、35年1月、国際連盟管理下の住民投票を実現させた。90・5%の多数決でドイツ復帰を決定。ヒトラーが国際条約に準拠して行動した最後の事例である。

つづいて満を持していたかのように同年3月、ヴェルサイユ条約の軍備にかかわる条項の破棄を通告、ドイツ再軍備を宣言した。直ちに「ドイツ国防軍編成法」を公布。

  • 国民兵役制度。第二条、平時陸軍兵力を12個軍団36個師団の55万に拡張整備……2年後には第13軍団設立、38年秋、18軍団51個師団とする」

急激な兵力増員はドイツ国内の労働力に不足をきたすまでになった。

ライン川西岸のラインラントはヴェルサイユ条約、及び1925年にスイスのロカルノでドイツが自発的に締結したロカルノ条約によって、非武装地帯と定められていた。1936年3月6日、ヒトラーはひそかに国防軍のラインラント進駐を命令。翌7日、3万五5千のドイツ国防軍はライン川を渡り、同地帯を占領。この日、ヒトラーが国会で「只今ドイツ軍、進軍中」と発表したとき、国会は興奮のるつぼと化した。ヒトラーは合わせて国会を解散して信を問うと宣言。同月末の国民投票では、98・8%がヒトラーの政策を支持した。

1938年3月のオーストリア併合。同年9月のチェコ・ズデーテン地方併合後、ナチスはにわかに拡大した領土全域に「大ドイツ帝国」の名称を定めた。いずれも神がかり的なヒトラーの決断により、国民の熱狂的な賛同を得た。

 

ドイツ国民がやっと迎えた「平穏の時代」であり、安らぎの時期だった。経済が安定し、暮らしが目に見えて向上した。ナチス体制は多少とも窮屈であれ、体制に口出しさえしなければ平穏に暮らせる。ナチ党員のユダヤ人苛めは目にあまるが、われ関ぜざるをきめこめばすむこと。ナチスの好きな式典の華麗さ、もどってきた戦車隊の大行進、強大な戦艦、短期間にヨーロッパ一に整備されたドイツの翼。第一次大戦後、打ちひしがれていた国民感情が誇りと自負をとりもどした。そのすべてがヒトラー総統の偉業によった︱︱。

一枚の写真がある。ベルリン・オリンピックの直前、一九三六年六月のもので、ハンブルクのブローム&ヴォス造船所での海軍の練習船「ホルスト・ヴェセル号」進水式の模様を撮影している。船がドックを離れて海に浮かんだ瞬間、いっせいに「ハイル・ヒトラー」の声が上がり、人々はこぞって右手を差し上げるナチス式敬礼をした。

前方にSSの制帽、制服が見える。群衆はいでたちよりして招待客と造船所の労働者と思われる。よく見ると右上にひとり、憮然とした顔で腕組みした人がいる。いっせいに差し出された腕に委細かまわず、やや顔をしかめている。

あらためてまわりの人々をよく見ると、多くが前方の船ではなく、カメラの方向に顔を向けている。上方のカメラをうかがう目つき。撮影に気がついて、あわてて腕を差し出したようでもあり、自分が敬礼していることをカメラに確認させたようでもある。圧倒的な多数のなかで、ひとり自分の考えをつらぬくのは勇気のいることだった。なにげない写真が、強大なナチス体制のなかのささやかな市民的良心のあかしを伝えている。

のちの歴史的経過で判明していったことだが、「平穏の時代」をもたらしたヒトラーの明察と決断は、少なからず情報宣伝大臣ゲッベルスのお手柄だった。この間の「偉業」はつねに演出ずみの方法で国民に伝えられた。オープンカーで帰国する総統、あるいはバルコニーに立つヒトラー、威厳をおびた肖像にはつねに圧倒的な熱狂で迎える大群衆の写真がそえられた。総統と国民の一体性を、くり返し、またくり返し報道した。

一九三三年の欺瞞的な政教条約ののち、ヴァチカンはドイツの神父たちにヒトラー政権への忠誠を命じたが、ナチス時代を通じ、良心的な神父たちの抵抗はやまなかった。

レーム派の粛清に際し、殺してからの殺人正当化立法は茶番劇というしかないことを人々は知っていた。

ラインラント非武装地帯への進軍と占領はあきらかに政治的賭けであって、まだ未整備だったナチスの軍事力にとって無謀な博打的行為だった。ヒトラー自身がそれを認めていて、フランス軍の反撃がある場合は、直ちに撤退を命じていた。フランス政府とフランス軍首脳は協議にあけくれて決定を先送りした。その消極的な姿勢がヒトラーに幸いした。

ミュンヘン会談に先立ち、ヒトラーは国防軍と外務省の人事を行い、骨のある幹部たちを更迭した。あわせてアウトバーン建設の監督だったフリット・トットに西武要塞ジークフリート線建設を命じ、五十万の労働力を約束した。いち早く戦争を見こしての対フランス防御システムの整備にとりかかっていた。

ミュンヘン会談は、ドイツ人住民の多いチェコのズデーテンのドイツ併合をヒトラーが要求したのに応じるもので、チェンバレン(イギリス)、ムッソリーニ(イタリア)、ダラディエ(フランス)それにヒトラーの四名が会談した。ヒトラーの恫喝的外交に、イギリス、フランス首相はなすすべがなかった。チェンバレンはイギリスに帰国したとき、「名誉ある平和」を持ちかえったと胸を張って声明したが、チャーチルが下院の演説で、「全面的、包括的敗北」とチェンバレンを非難したとおり、「名誉ある平和」は一年とつづかなかった。

「平穏な時代」が、底流ではまっしぐらに戦争へと、ひた走りに走っていたことが見てとれる。ひとたび政治システムができあがったとき、もはや押しとどめるすべがないのである。亡命を拒み、まさに肌身で時代に立ち会った作家ケストナーは述べている。「雪の玉が小さいうちに踏みつぶさなくてはならない。雪崩になってからでは、もう遅すぎる」

 

新・気まぐれ読書日記 (45) 石山文也 昭和十八年幻の箱根駅伝(その2)

  • 2017年4月6日 23:42

選手たちはひとかたまりになって、三宅坂の陸軍省前を通過、虎ノ門から三田の慶応義塾前を通り、札の辻で旧東海道の京浜道路(国道15号線)に入った。品川を過ぎる頃には先頭集団が絞られてきたなかで意外にも頭一つ抜けたのが立教、これに日大が懸命に喰らいつく展開となった。その後ろを文理科が追い、やや遅れて慶應、法政、専修、早稲田、中央、東農大が続いた。拓殖と青学はしばらくすると集団から離された。この順位で大井、大森、蒲田と選手たちが駆け抜けてゆく。異変が起きたのは六郷あたりで、突然、立教が一気に飛び出して独走し始めた。これに他選手はついてゆけず、9時25分過ぎにそのまま鶴見中継所に飛び込んだ。1分25秒後に日大、続いて東京文理、4位が慶應で首位から3分25秒遅れだった。

各校の1区の攻防のあらましを<いまふうに>紹介するとこうなる。現在の箱根駅伝は大会のはるか前から各校の有力選手が話題になる。前年に行われる出雲、全日本で各校主力選手がぶつかり、今年の青学のように「三冠」の行方や各校の戦力分析が細かく報道される。そういう意味では主力選手や話題選手は視聴者にあらかじめインプットされ、テレビ中継にしても放送各社が先頭の第1放送車から後方の放送車、バイクカメラ、中継所のカメラなどを駆使することで選手それぞれの刻々の動きを多面的に伝える。しかも年々、技術革新が競われるのはご存知のとおりである。

澤宮も同じように各校の順位の変動を詳しく紹介しているが、読者諸氏は各選手についてご存知ないのであるからその健闘ぶりについては本書に譲ることにする。試合経過よりも戦時中に行われたこの大会は既に始まっていた繰り上げ卒業などもあり、出場選手を集めるのも容易ではなかったことを思い起こして欲しい。しかも前年の大会は見送られていたから最低人数の頭数をようやく揃えた各校には初めて箱根を走る選手や異色のメンバーもいた。例えば東京文理は短距離=400m専門の5人に加え、家庭の事情で退部していた800mの元部員と校内マラソンで快走を見せたラグビー部員を口説き落として補欠1名を入れた11人の選手をようやく確保した。他校も似たり寄ったりの状況で同じ陸上競技でも投擲(とうてき)専門の選手までいた。投擲とは手を使って物を遠くに投げることで、砲丸投げ、円盤投げ、ハンマー投げの総称である。澤宮は資料を駆使して各選手の育った環境や練習風景、あるいは日大の中距離=800m選手で青森県弘前市出身の成田青司が残した日記を織り交ぜて練習風景や大会当日の模様などを紹介していく。成田は復路山下りの6区を走り、襷を繋いだ。

そんなことはいいから往路の結果はどうなったのか?ですか。まあ、そう急ぎなさんな。おっと国なまりが思わず出てしまった。

この写真、サイドカーからの声援を受けて力走するのは日大の4区、古屋清一である。他校よりも日大は比較的資金に余裕があったのか、それともOBが提供したのだろうか。

往路の山登り5区はトップで襷を受けた慶應の岡博治が安定した走りを見せた。多くの学校がガソリン不足の折、木炭車や自転車を使ったなかで慶應はここでもサイドカーを投入、急傾斜地点でも選手にぴったりとくっついて走った。おかげで岡も2位の日大を5分45秒も引き離して往路優勝を飾った。

大会二日目の6日は真冬の寒さで草木も霜で凍りついた夜明けを迎えた。芦ノ湖には霧がかかり吹く風も冷たいなか、選手らは午前7時には箱根神社に集合、周辺の道を軽く走り始めた。同30分には選手関係者全員が揃って参拝した。スタートは予定より30分遅れの8時半。慶応、日大に次いで17秒差で法政が飛び出していった。途中、宮ノ下では往路と同じく慶大塾長の小泉信三が帽子を振って大きな声援を送ったがその甲斐なくこの5区で慶應は抜かれて法政、日大に次いで3位となった。日大・成田も気力を振り絞って2位に食い込んだ。

その後の展開も下位の各校は大きな順位変動があったものの上位3校は互いに譲らず、最終10区のスタート順は1位法政、2位慶應で3位日大はトップから1分半遅れだった。多摩川にかかる六郷橋で慶應が法政をいったんは抜くが再び並ばれて蒲田、大森と並走が続く。逆に日大・永野は21回大会(昭和15年)で兄弟選手として優勝に貢献した弟の常平で本来の専門は800mだったが「区間賞男」として鳴らした兄に勝るとも劣らぬ勝負強さがアンカーには最適だったものの序盤で早くも2分50秒の差を付けられていたから当然ながら先頭2選手の姿は全く見えない。永野の伴走は主将・杉山繁雄で「お前、どこで抜くか」という杉山に永野は「八ツ山(橋)で抜く!」と大きく答えた。「よし、それで行こう!」と杉山は応じたが八ツ山橋は国鉄(現JR)品川駅の手前で、レースも後半どころか終盤に近い。

6キロ付近でようやく杉山が慶應と法政の選手の姿をとらえた。「永野見えたぞ!」という声を聞くと永野は加速して予定通り八ツ山橋で追いつき、3人が並んだ。そのまま、品川駅前、泉岳寺前、札の辻まで来た。ここから赤羽橋に向かって左折すると慶應のキャンパスとなる。そうなれば地元だけに応援団も多い。日大・永野はここで猛然とスパートした。差は一気に広がり、「優勝確実」を信じて約5百人が詰めかけた慶應応援団は目を疑った。それでも慶応・荘田は大応援団の前で法政を抜き返して面目を保ったが順位は変わらず、日大が13時間45分5秒で見事総合優勝、全校が無事完走した。6区を走った日大の成田はゴールの靖国神社に先廻りしていた。この日の日記に「遂に永野氏トップに出で九段に入ったのはピンク、ピンクだ、日大だ。熱戦の末遂に勝った」と記した。天気は快晴で、暖かい日だったとも記録している。

「死ぬまでにもう一度箱根を走りたい」という学生たちの必死の思いが大会を実現させ、長く「幻の」と言われ続けた昭和十八年の箱根駅伝はこうして終わった。冒頭にも紹介したこの本のサブタイトルは「ゴールは靖国、そして戦地へ」である。各選手の活躍ぶりを細かく紹介する紙幅がなかったので戦地に散った選手名はいちいち挙げないが、日大・成田は終戦前日の8月14日に二人乗りの特攻機でジャワ島のアメリカ軍基地へ向う途中、静岡県沖でエンジンが故障して墜落、同乗者は即死したが大けがをしたもののたまたま通りかかった漁船に救助されて奇跡的に生還した。成田はさっそく陸上競技を再開し、昭和21年の第一回国体の400mに青森県代表として出場、3位に入賞している。その後は建築業を興したが箱根駅伝の思い出は特攻で亡くなった仲間への哀惜もあってか多くを語らなかったという。

もう一人、日大の主将だった杉山は3年間のシベリア抑留を経て帰国、山形県庁に勤務しながら、山形市の陸上競技の大会審判を引き受けた。地域のマラソンのコーチをする一方で日大の校友会の世話役も積極的につとめ、91歳で亡くなる直前に娘が聞き書きで校友会誌に箱根駅伝の思い出を『秘話』として残したが、シベリアでの悲惨な体験は語ろうとはしなかった。人生最期の思いを語るとき、その心はあの18年の箱根が占めていたはずだと澤宮は書いている。

ではまた