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ヒトラーの時代(23) 池内 紀

  • 2017年3月10日 16:06

強制収容所第1号

強制収容所第1号

 

1933年3月20日、ナチスによる強制収容所第1号が誕生した。この日、ミュンヘン警察長官ハインリヒ・ヒムラーが記者会見で収容所の設立を発表。2日後の22日に開所式を迎えた。

場所はミュンヘンの北西約20キロのダッハウ。街の郊外に第一次世界大戦に使われた火薬工場があり、操業を停止して以来、広大な工場跡は廃屋のまま放置されていた。それを政治犯再教育のための施設とする。収容能力五〇〇〇名。ヒムラーは、そのように説明した。放置されていた工場跡に多くの人が入り、すでに修復作業が進められていた。作業には政治犯が動員されたが、ヒムラーはそのことは言わなかった。開所式を終えると、昨日までの作業員が「囚人」として入所した。さしあたりはヒムラーが所長を代行。6月になって正式に第二代所長として親衛隊上級大佐テオドール・アイケが赴任した。

初期のころの写真がのこされているが、火薬倉庫だった石造りの建物が兵舎のように並び、送られてきた人々が整列してナチス幹部の訓辞を聞いている。はじめのころは囚人服といったものはなく、全員がおもいおもいの平服で、監視兵もいない。収容棟のベッドは、のちのアウシュヴィッツのようなカイコ棚式ではなく、病院のような配置になり、作業棟のほかに談話室、図書室、をそなえていた。

3月30日、バイエルン知事の名のもとに、ダッハウ強制収容所開設が新聞に発表された。

ヒトラーが政権についたのが、この年の1月30日である。それから二カ月たらず、この間、めまぐるしい政治的事件があった。政権成立直後、各地でヒトラー反対のデモとストが起こり、ナチスと衝突した。2月1日、ヒトラーの強要でヒンデンブルグ大統領は国会を解散。ヒトラーは全権委任をめざして総選挙を選択、直ちに広範な選挙活動に入った。

2月4日、「ドイツ国民保護のための大統領令」発令。老齢のヒンデンブルクはいまや、ヒトラーの操り人形にすぎず、指令されるままに次々と大統領令を出した。「ドイツ国民保護」をうたった法令は出版と言論の自由を厳しく制限し、さらにデモや屋外政治集会禁止など、七つの基本権停止をうたっていたが、パーペンをはじめとする閣僚の誰一人として、この規制に抗議しなかった。

2月6日、「プロイセンにおける秩序ある統治関係設定のための大統領緊急令」プロシア政府の権限を代理執行官(ゲーリング)に委譲する命令で、ゲーリングが事実上、プロイセンの全面的支配権を手にし、共産党大弾圧の中核となった。

2月27日、国会議事堂炎上。翌28日、ヒトラーの要請で「ドイツ民族に対する裏切り及び反逆的陰謀取締りのための大統領令」発令。ドイツ帝国国会議事堂が放火されたのは、27日の夜九時すぎである。10時間後の翌朝の閣議で、すでに起草されていた緊急令が審議、承認され、首相ヒトラーが大統領府に出向いて署名を取った。驚くべき手廻しのよさである。

放火犯としてオランダの共産党員マリヌス・ルッペが逮捕され、ナチス政府は共産党の陰謀として大々的に発表した。28日、国会議長兼プロイセン内相ゲーリングは、共産党員の国会、州議会、町議会議員、及び公務員約40000名を逮捕、あわせて共産党員の全活動禁止を命令した。

3月3日、ドイツ共産党党首エルンスト・テールマン、党紙「赤旗」編集長エルンスト・シュネラー逮捕。

3月5日、ヒトラー体制での最初で最後の総選挙。全議席647のうち、ナチス288(得票率四十三・九%)、社会民主党120、共産党81、中央党73。共産党議員は475万票を獲得したが、一度も登院できなかった。ドイツ共産党禁止にともない、共産党員の国会議席が剥奪され、81名の共産党国会議員資格も抹消されたからである。その結果、議員総数が566に減少し、ナチスが単独で過半数を獲得することになった。

3月13日、情報宣伝省創設。ゲッベルスが大臣として入閣。

強制収容所開設式の前日、ポツダムのフリードリッヒ大王の棺の前で、新国会の開会式が挙行された。ゲッベルス演出により、1871年のビスマルクによる統一ドイツ国会開会記念日とナチス国会開会を「ポツダムの日」の名のもとにかさねて、強く印象づける儀式だった。

3月23日、ベルリンのクロル・オペラハウスで新国会開催。ヒトラーは「全権委任法」の審議を要請した。憲法を除く法令の制定にあたり、国会の承認も大統領の署名も必要とせず、外国との条約締結に対しても議会の批准を必要としない権限を与えるというもの。即日投票の結果、賛成441、反対94で可決成立。翌24日付で発効。ここにヒトラーの独裁が確立した。強制収容所の設立と独裁制の確立とが同時に進行したのは、きわめて意味深いだろう。強制収容所が秘密警察(ゲシュタポ)と並びヒトラー体制を支える二本柱として機能しはじめる。

 

強制収容所はドイツ語(Konzentrationslagar)を略してKZ(カーツェット)とよばれた。コンツェントラツィオーンは「集中する(konzentrieren)」の名詞で、そのため初期の邦語文献は「集中収容所」と訳している。

ナチス幹部は、どういうわけで、こんな名称にしたんだろう? 共産党大弾圧に見られるように、四〇〇〇人もの共産党員がいっせいに検挙された。警察署は逮捕者であふれかえっている。分散している多数者を「集中」させて管理する必要が生じたのか。強制収容所はさしあたり、政治的な理由で検挙された者たちを一括して収容する施設だった。

KZ(カー・ツェット)がその一つだが、ナチの時代には大量の略語が使われた。党名そのものがNSDAP(エヌ・エス・デー・アー・ペー)、「国民社会主義ドイツ労働者党」である。とりわけ知られたのがSA(エス・アー)突撃隊、SS(エスエス)親衛隊、だろう。秘密警察は略語(Gestapo)を読み下してゲシュタポとなった。

HJ(ハー・イヨット) ヒトラーユーゲント

Pg(ペー・ゲー) ( NSDAP)党員

KdF(カー・デー・エフ) ドイツ労働者戦線

TV(テー・ファオ)どくろ軍団

ナチスは自分たちの理念の新しさ、独自性をいうために大量の新造語をあてた。強引な造語であって、すぐには意味のわからない言葉もあった。音のひびきが荘重で、重々しく、学術っぽい語を好んで採用した。その点、鉤十字や鷲の紋章や勲章の多用やナチスの建築に見られる極度の威容誇示のスタイルと共通している。

それにしても“集中”収容所とは何だろう? 言語学者ヴィクトール・クレンペラーは(1881〜1960)はユダヤ人というだけで大学を追われ、妻がアーリア人のために収容所送りは免れたが、ことあるごとに暴力と迫害を受けた。その只中で秘密警察の野獣のような罵りや地区役員の居丈高な口のきき方をはじめとして、ナチ特有の言葉を記録し、LTI(エル・テー・イー)と名づけ分析した。この言語学者には、ドイツ語の「強制収容所」をはじめて耳にした時、「まったくドイツ語らしくない、エキゾチックな植民地風の響き」に聞こえたという。十九世紀末に起きた南阿戦争の時、イギリス軍の捕虜になったブーア人が捕虜収容所で監視されていて、その際、集中(コンセントレーション)が使われたのを思い出した。それ以来、すっかり姿を消していた言葉が突如としてよみがえった。ヨーロッパ大陸ではじめて、敵の人間ではなく、治安維持のため自国民を収容する建築物が出現した。

「将来、強制収容所という言葉を口にするとき、人が思い起こすのはヒトラーのドイツであろう。いや、ヒトラーのドイツのみであろう」

この上なく性格な予言というものだった。

体制に異議をとなえるだけで、いや応なく罰せられる。共産党員を狙いうちにした初期の段階から、つづいて大がかりな反体制派の検挙へと拡大した。国内各地に収容施設が必要となり、第2号、第3号、第4号とつくられていく。ザクセンハウゼン、ブーヘンヴァルト、フロッセンビュルク、ラーヴェンスブリュック……。強制収容所の「強制」は、そこに待ちうけている強制労働によるものだが、国家権力という強制力のもっとも具体的なあらわれでもあっただろう。

ダッハウの設立からほぼ半年後の1933年10月1日、ダッハウ強制収容所所長テオドール・アイケは「強制収容所規律懲罰布告」及び「監視部隊服務規程」を発表した。「ダッハウ方式」とよばれたもので、ナチス強制収容所管理体制の骨格となった。ナチスは囚人棟の監視役に選抜した囚人をあて、「カポ」と名づけて優遇した。そのような人間がどれほど猛威を振るい、有能な監視者になるものかをよく知っていたからだが、すでに第1号収容所の服務規程にカポ制度が明示されていた。カポとしての管理能力の不足と見なされれば、当然のことながら直ちに死が待っていた。

囚人が脱走を試みた場合、「警告なく射殺する」であって、射殺者には賞金が与えられる。のちの恐るべき管理システムのおおかたは、最初の服務規程にすでに導入されていたのである。

ユダヤ人狩りが始まり、ホロコースト(ユダヤ人迫害)が常態化するなかで、強制収容所はみるみるうちに数を増し、収容者が途方もない数になっていった。強制収容所は親衛隊の管理になり、親衛隊全国指導者、ヒムラーのもとに腹心のラインハルト・ハイドリッヒ上級大佐が実務をとっていた。ユダヤ人が日ごとに何千人単位で送られてくる。現場の担当官たちは頭をかかえていたにちがいない。この途方もない数を、どうしろというのか。強制労働の場が、急速に人間処理の機構、巨大な「屠殺場」に変貌していく。そのなかでダッハウは、強制収容所のショーウインドウの役まわりをつとめ、少なくともある時期までは厚生、教育の場の体面を保持しつづけた。

 

のちの批評家ジャン・アメリーは1943年7月、ブリュッセル市内で逮捕された。レジスタンスの一員として尋問され、拷問を受け、翌44年1月、アウシュヴィッツへと送られた。辛うじて生きのび、解放後20年あまりして収容所の生活をつづったなかで、「オランダの友人で私と同じく強制収容所を体験した作家ニーコ・ロストのすてきな本」を引きながら述べている(『罪と罰の彼岸』・法政大学出版局)。『ダッハウのゲーテ』の標題を持ち、そこにはアウシュヴィッツの生活者には「夢のようなくだり」があった。

「空襲警報の間、一心にヘルダーについて考えていた」

「再びマイモニデスを読んだ」

「より多く読むこと、より多くを、より激しく学ぶこと。赤十字の小包よりも古典文学が望ましい」

アウシュヴィッツで古典古代のマイモニデスを読むなど、ありえないこと。赤十字からの食糧の差し入れの代わりに古典文学が届けられたりしようものなら、舌打ちしてお断りしただろう。ニーコ・ロストが収容所内の病棟看護人という比較的めぐまれた現場にいたのに対して、自分は収容所のなかの無名の大衆の一人だったことはさしおくとしてーーつづいてアメリーは述べている。ニーコ・ロストのいたところがダッハウであって、アウシュヴィッツではなかったこと。

ともにひろく知られた収容所ながら、ダッハウはいわば「由緒ある」強制収容所だった。収容者は政治犯が多くを占め、収容者の管理にあたっても、収容者にかなりの程度まで権限がゆだねられていた。ダッハウには図書室がそなわっていたが、アウシュヴィッツでは一冊の本すら夢のようなものだった。ダッハウでは収容者に、ナチズムの国家管理機構に対抗して、「精神の底力を示す余地」がなくもなかった。アウシュヴィッツでは、精神はその本来の資質、つまり「超越性」というものを一切失っていたーー

ダッハウ強制収容所の特殊性がうかがえる。

1945年、東からソ連赤軍が急テンポで迫っていた。南から連合軍はライン川をこえた。ナチス政権は強制収容所を秘密のまま葬り去ろうとしたのだろう。旧ポーランド内の絶滅収容所を閉鎖、焼き払い、収容者を順送りに西へ移動させた。ダッハウは西端にあって、一挙に収容者が四万人をこえた。

4月のある日、そのうちの7千人ちかくに命令が出された。行き先その他、何も知らされていなかった。パン少々とマーガリンが支給され、長い列が収容所を出ていった。一路南へ下り、ミュンヘン近郊を通り抜け、シュタルンベルク湖畔をさらに下っていった。ただでさえ衰弱した人々がバタバタと倒れていく。「五十メートルに一人」の死者が出た。6日後、行列は半減、この間、3千人あまりのユダヤ人が死んだ。

「ダッハウ死の行進」としてナチス汚辱の歴史のなかに残っている。行く先その他、いっさい知らされていなかったのは、知らすべき行く先がなかったからだ。二十世紀が演じた悲しくも滑稽なページェントであって、そこから死者が出たのではなく、死者を出すための行進であり、そして「誰もいなくなる」ための行列だった。

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