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ヒトラーの時代(22) 池内 紀

  • 2017年1月26日 18:30
ヒトラーの時代

ヒトラーの時代

民族共同体

ドイツ北部の港湾都市フレンスブルクは人口10万たらず。その町でかつて「フレンスブルガー・イルストリールテ・ナッハリヒテン」という新聞が出ていた。イルストリールテは「絵入り・写真入り」といった意味で、グラフ誌のようなつくりだったと思われる。発行のモットーが「世界と故里を結ぶリング」というのだから勇ましい。その1933年5月17日号の表紙が意味深い歴史的資料として残されている。

画家による肖像画と写真を組み合わせたコラージュの方法であって、とりわけ1930年代に流行したスタイルである。上に顔が一つ、下に大群衆、旗を掲げ誓いをするように右手を差しつけている。

肖像はヒトラーだが、即座にはわからない。写真でおなじみのヒトラーと何かちがうからで、全体に若々しく、理想化されて描かれている。さらに顔だけがアトバルンのように空中に浮いていて、なにか異様な感じがする。

顔がヒトラーとなれば、下の大群衆もすぐにわかる。ナチ党の集会であって、右手を差し上げるのが正式な挨拶だった。制帽・制服に身をつつみ、党組織の団旗が林立している。よく見ると上と下のあいだにドイツ文字で「総統と民族共同体」としるされている。

1933年1月、ヒトラーが政権につき、ナチス政府が発足した。それから四ヶ月、ヒトラー総統のもとに国民一丸となって民族共同体の実現に向かう。港町の一メディアがそのための特集を組んだ。

当時の情勢からして、それ自体は特別のことではないが、表紙のコラージュが興味深い。虚空に顔が浮いていて異様な感じがするが、当時のドイツ人は異様とは思わなかっただろう。ひと目見て、同時に別の顔を連想した。正面を向いたキリストの顔であって、それと二重写しにこの顔を見た。

ヒトラー

キリスト伝説の一つで教会の言い方では「ヴェロニカの帛(はく)」と称されている。十字架をせおってゴルゴタの丘に向かうキリストの汗と血を拭うため、ヴェロニカという女が白い布を差し出した。教会のカレンダーには「御公現の日」あるいは「顕現の日」とあるが、ヴェロニカの布にキリストの顔が現れる。布の中央に一つの顔が浮かび出る。

カソリックの教会には「聖遺物」といって、伝説ゆかりの品が保存されているものだが、「ヴェロニカの帛」もその一つで、なぜか数多くある。ヴェロニカの祝い日には司教座のある教会などで、展示され、善男善女が大挙して見物に来る。

聖遺物としては眉つばものだが、人々は顕現するキリストの顔のことを幼い時から聞かされ、イメージに描いてきた。フレンスブルクのグラフ誌を手にした人は、いまや政治の表舞台に登場した人物に、救世主キリストを見たにちがいない。ヒトラーを神格化する動きは、すでにこのころ始まっていた。

主義主張から反ナチの人は除いて、一般国民にナチス政権は好感を持って迎えられた。何よりも街に秩序が戻ったことが大きかった。秩序、ドイツ語では「オルドヌンク」こそ、ドイツ人にとって世界の始まりであり、ワイマール共和国の14年間は、まさしく秩序の失われた時代だった。経済の要(かなめ)である金銭が未曾有のインフレで紙クズになった。政党が乱立して、どの政権も半年ともたない。失業者がとめどなくふえていく。往来では党派に分かれて殴り合い、流血沙汰が絶えない。夜は娼婦と酔っぱらいがワンサとたむろしているーー。

ヒトラーが政権についたのは1月30日である。2月10日、ラジオで「ドイツ国民への呼びかけ」を行った。ワイマール体制がなにをもたらしたか。国を破壊し、「一つの廃墟」を生み出しただけではないか。「ドイツ国民よ、われら(ナチス)に4年の猶予を与えよ。しかるのち、われらに裁断を下せ」

2月10日、ベルリンでの「自動車展」に際して、国民のための国民車(フォルクスワーゲン)計画を発表。政治的な花火ではなく、すぐさま自動車工学のフェルディナント・ポルシェに具体的に設計を依頼。

フォルクスワーゲン計画は、つづいて「自動車税法」(国産自動車の所有者に対する税金の一切免除)、自動車専用道路建設へと拡大する。アウトバーン計画はナチス以前からあったが、本格化するのはヒトラー政権になってからで、失業者救済事業を兼ねており、第一期三万人、第二期六万人の雇用を実現。五年間で延べ3000キロの高速道路網を完成させた。

3月16日、ドイツ帝国銀行総裁に民間人ヒャルマー・シャハトを抜擢。シャハトは「経済の天才」といわれた人で、ナチス嫌いで知られていた。おのずと党内から反対、干渉、妨害があいついだが、ヒトラーの全権を受け「メフォ手形(政府保証の信用手形)」の発行など、経済の安定のために辣腕を振った。

3月23日、全権委任法成立。

ヒトラーに全権を委任するというこの法律は、「逼迫(ひっぱく)する諸要素に迅速に対処する指導者(ヒューラー)国家を創設するための四年間の時限立法」とし提出され、ドイツ共和国議会は圧倒的多数で承認した。この法律により、ヒトラーは議会制度の制約から解放され、合法的に独裁権を獲得する。時限立法であれ、四年後に反対多数とならないかぎり自動延長する。やがてナチス一党制となった議会の「反対多数」などあり得なかった。

3月27日、1933年度の会計年度に対し、「失業者救済課金」実施を指令。

3月31日、「ドイツ国とドイツ支邦との統整のための暫定法」成立。ドイツは州の権限が強く、独自の政府と議会と軍隊をもち、国家として対処しなければならない対外関係以外は、州の自治に委ねられていた。そのような州の自治、独立性を撤廃して、中央で統制する。ここに名実ともに統一されたナチス国家が出現した。

4月10日、国民労働祝祭日の創設。5月1日の労働者のメーデーを廃止して、ドイツ全国民の祝祭日とする。

5月3日、「労働奉仕制度」を発令。18歳から25歳までのドイツ人青年男女に、年間20万人規模で6カ月の労働奉仕を義務づけたもの。農地開墾、土地改良、営林作業、農作業、道路建設など、「民族共同体のための労働」を提供する。

このころから「民族共同体」がメディアやポスターにしきりに現れるようになった。党大会におけるヒトラーの演説では、「労働を通して全てのドイツ人を統合し、一つの共同体を形成する」「民族共同体の実現をめざす」といった言葉とともに現われた。

6月1日、「結婚奨励法」発令。少子化に対処するため、無利子で妻帯貸付金を支給。結婚ローンであって、子供1人が生まれると、四分の一が即座に贈与金に切り替わった。4人生めばローンはゼロになった。より正確に言うと、ナチスの財政的措置は結婚ローンのほか、さらに子供への補助金、家族手当の三本柱からなり、子供への補助金は、子沢山の低額所得者に家具、備品、衣料費のための一時金として支給された。こういった政策により、ドイツの出産率は急速に改善された。

大半が「総統指令」として世に現われ、ヒトラー=救世主のイメージが日ごとに高まっていく。

7月15日、新婚者のための新築住宅の税金免除。

8月20日、国民ラジオ(フォルクスエンプェンガー)展示。政府がラジオ時代の到来を告げ、」当時としては驚くべき安価なラジオを提供。数年で全所帯の70%が所有するまでになった。

9月13日、冬季救済事業の開始。失業者や老人に対して、ヒトラーは国民的規模による事前運動を呼びかけ、それは1000万人の人々が恩恵にあずかる運動に発展した。さらに拡大、発展させたのが、KdF=歓喜力行団の創設である。労働は営利の手段ではなく、ドイツ民族共同体の福祉に奉仕するものとし、そのためには「喜びを通しての力」、ドイツ語ではクラフト・ドゥルヒ・フロイデ(略してKdF)運営組織を発足させた。一流のコンサート、映画、スポーツ、国内旅行、海外旅行を、労働者にもまかなえるように安く提供、余暇の喜びだが、明日への労働力を生み出す。

もともとKdFはイタリア・ファシズムの「ドッポラーヴォーロ=労働のあと」の制度をまねたものだが、ナチスはイタリア人よりもより大々的に、より効果的に運営した。組織はやがて大きく発展、事務職2、547名、ボランティア75,000人を数え、ナチス国家に対する良質の宣伝をもたらした。それまでナチスの運動に懐疑的だった人々も、KdFの進展のなかで、なだれを打つようにしてナチス体制に同調し始めた。

さらに自然保護運動がある。エコロジズムの実践活動で、植林には針葉樹ばかりでなく広葉の落葉樹も含めること、野生動物の生息環境を守るため、低木や雑木林の保護をうたう法律を定めた。

また健康に関する研究に巨額の援助をして、タバコは肺ガンの主因であることを、世界で初めて証明した。アスベストの発ガン作用についても警告した。いずれもヒトラーが独裁制を確立して以後の業績である。600万を数えた失業者の数が数年で半減。労働条件の改善がはかられ、社会保障と老齢福祉の大胆な試みが発表された。浩瀚なヒトラー評伝の作者ジョン・トーランドは述べている。もしこの独裁者が政権四年目ごろに死んでいたら、ドイツ史上、もっとも偉大な人物の一人として後世に残ったであろう。

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