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書斎の漂着本(96)蚤野久蔵 五分間演説集

  • 2017年1月10日 21:36

有名人といえども「スピーチが苦手」いう人は意外に多い。英国王・ジョージ6世も吃音(=どもり)を克服するまでは大変な努力を重ねたことをアカデミー賞の作品賞など4部門を受賞した映画『英国王のスピーチ』(2010年)で知った。「スピーチ下手の国民」と言われる日本人ならなおのこと悩みは尽きなかったろうから多くのハウツー本が出版された。先日、京大前の古書店で見つけて思わず購入した雄辧研究會編『祝辞挨拶五分間演説集』もそんな一冊である。幅9センチ、高さ14.5センチのほぼはがき大で336ページの外函付。昭和4年9月に大阪の村田松榮館から定価60銭で売り出されている。

雄辧研究會編『祝辞挨拶五分間演説集』(村田松榮館刊)

雄辧研究會編『祝辞挨拶五分間演説集』(村田松榮館刊)

この年は前年に起きた「満州某重大事件(張作霖爆殺事件)」での政府責任を追及する野党民政党の動きが不発に終わるなかで、天皇の<不信>により田中義一内閣が総辞職して、浜口雄幸内閣が誕生した。新内閣は緊縮財政を唱える一方では金解禁を実施するなど経済立て直しをスローガンに掲げたがそれは遅々として進まず、世界的な恐慌の波が目前に迫っていた。巷には「東京行進曲」、「君恋し」などが流れ、これらヒットレコードの映画化が進んだ。こうした時代背景が例文にも見られるのが興味深い。

表紙は蝶ネクタイにメガネと髭の「弁士」が握りこぶしを振り上げて熱弁をふるっている。例文の多くにあるように「諸君」から始まる演説そのままをイメージしたカットである。ガラスコップの水はまだ七分目ほどだから最初の一口を飲んだばかりだろうか。いや、題名が「五分間」だから水は単なる<お飾り>だったか。「水をさすのは止めろ!」とヤジが出そうなので本題に戻す。そもそも雄辧=雄弁とは弁論ともいい、歴代首相や多くの政治家を輩出した早稲田大学雄弁会が有名だが、この演説集を手がけた雄辧研究会なるものは正体不明で、書店のお抱え筆者が手がけたのかもしれない。いまどきの「専門ライター」ですね。

「序文に代へて」では「ラジオを聞きながらボロボロと涙を流している人があるかと思うと一方には馬鹿に興奮して聞いている人がいる。これを見てラジオに泣いたり、怒ったりしていると思ったら大間違いである。彼らはその放送された題目のプロット(筋)とリズムとを銘々の境遇に取り入れ、これに共鳴してある者は涙を流し、ある者は緊張するのである。演説もこれと同じだ。話す人は一人で聴者は多い。従って一人の口から出る同一の話によって聴者に多種多様なショックを与えることになるのだ」と演説の意義を強調する。そして「聴者の受け取る感動はラジオや蓄音器よりも深刻だ。それらは単に耳にだけしか刺激を与えないが演説となると話す本尊(=演説者)を前において耳と目の二覚官(=感覚器官)に刺激を受けるからである。話すということは文章よりも、その他あらゆる方法や機関よりも自己を表白する上において最も強い機能を持っている。しかし同じ話すにしてもその話ぶりに巧拙があり、その内容に貧富の差があり、態度やその他の影響も手伝って相手に与える反響に異同があり、時をすると目的と全く反対の結果を招くことがある。これらは話すことの最も下手な例である。ともかく人は巧みに話すことによって、自己の幸福をより多く受け取り得られるのである以上、何人も上手に話したいと望むのは人情である。本書はこうした要求に応じ、最も新しい時代において巧みに話すことを望む人たちに対し、何かの便宜を与えるであろうことを自信して現れた(出版した)ものである」とPRしている。「機関」は当時、情報を受信するための主要な手段だったラジオや蓄音機=レコードを指し、「内容に貧富の差がある」とはそれが「豊かであるか貧しいか」ということだろう。当時も今も変わらないが、こうしたハウツー本は「手に取ったときから<読後の効果>をそそのかすのである」と言ってしまうと身もフタもないか。

「演武場開場祝賀演説」は「諸君、今日の日本は奢侈淫靡の悪気流が渦を巻き、ただでさえ人は文弱に流れんとしているのであります。そこへ加えてあてにもならない平和論を振り回して惰弱の空気を吹き送るから士気の萎靡はほとんど収拾すべからざる有様であります。堂々たる日本男子でありながら白粉(おしろい)をつけ、香水を振りまいて得意然と反り返っているがごときはその現れである。恋愛至上主義だの、享楽気分だの歯の浮くような寝言ともうわ言とも分からぬことを臆面もなく吹き散らし、新しい思想の持ち主らしい顔で高く止まっている変性男子の多いのもその現れの一つであります。そんな奴らを跋扈させておいたら帝国の前途は一体どうなるのか、諸君、思いここに至るは痛憤浩歎、自ら涙のこぼれるのを覚える次第ではありませんか」が前段。「かかる軟体動物性時代において武士道的競技の随一なる柔道の修行を行い、かつこれを宣伝することはそれによって勇猛清廉なる男子的気象を養い、

おっと気象は気性の誤植とここでミスを発見!

頑丈事に堪える壮健なる肉体を作るのみならず、鼻持ちならぬ方今の文弱を押しつぶし、憐れむべき惰眠から叩き起こす痛快なる一大面棒である。かくして初めて我が帝国はその惰弱より救われ、淫蕩より引揚げられ、その尊厳と神聖とが保たれるのである。柔道の道場が開かれるのを見て痛快に堪えず、あえて駄弁を叩いてこれを祝し、諸君の批評に訴えるものである」。ウーム。

「只」や「之」などは平仮名にし、文語表現の一部は現代語に変えたが文弱、奢侈淫靡(しゃしいんび)、萎靡(いび)、跋扈(ばっこ)、痛憤浩歎(つうふんこうたん)、一大面棒(いちだいめんぼう)などは、正直、タイムスリップしてこの演説を聞いただけでは漢字を思い浮かべる自信はないことをおわかりいただこうとそのままにしてある。これが全文であるが率直に言って頭でっかちで龍頭蛇尾の見本のような気がする。

「結婚披露会にて」では大時代的な定型そのものだから失礼ながら皆さん下を向いてアクビしていそう。「本日は目出たき結婚披露会に招待の栄を受け、祝意を表するは私の欣慶措く能わざるところであります」から始まって新郎を「学識において徳望において青年紳士の模範的人格者であり・・・」とか新婦を「女学校在学時よりすでに才媛を唄われ、花の如き美貌と多方面にわたる高尚な趣味と貞淑なる婦道の持ち主で・・・」など誉めちぎって最後は「尾の上の松の幾千代かけて両君の上に幸多からんことを祈り、謹んで祝意と敬意を表する次第であります」と。ま、五分間なら居眠りまではいかないか、というのが意地悪な感想である。

勇ましいタイトル「壇上の獅々吼」として紹介されているのは移民問題、戦争と軍縮、芸術と思想、漢字の難しさとローマ字の普及、軍事演習と兵士の民家分宿批判とさまざまだがまさに雄弁会の面目躍如といったところだから少しばかり紹介しておこう。

「生ぬるい救済」は、当時流行した富豪からの寄付が病院や医学研究にのみ傾いているのをチクリ。「金ができると病気にかかりやすい」という経験からの思いつきかもしれない。せいぜい長生きして現生の享楽に耽溺したい、もし病気にかかった時はできるだけ尽力をつくしたいという人情に対しては非難をさしはさむ余地はない。寄付者に敬意を払うにやぶさかではないが、何ゆえに彼らは病院ばかりに寄付をしたがるのか。病院を建てるとその名は永久に残るからか。諸君、わが国の医療機関は大体において不自由を感じていないのであります。社会公共とか救済のためならばもっと緊急な火の付くようなことがたくさんある筈で、売名的ではなく真に社会を救済したいという精神があるならば火急なるものから順を追って救うことがより意義のある行為ではありますまいか。寒い夜を公園のベンチの上で明かしている幾千の失業者は少しも省みられずして、数年先または十数年先に至って初めて役に立つ救済機関(=病院)に寄付する篤志家の行為は涙ぐましいことではあります。だが、失業者に一杯のうどんを振舞うことは一時的ではあるが、それを知らない篤志家が多い現世相を何と言ったらよいのでしょう。私は売名を予期する公共事業には賛成できない一人であります。私もそう思うからこれには一応パチパチ(拍手)。

「ヤンキーの挑戦と国民の覚悟」では米国海軍が大正14年の大演習以来、ハワイ真珠湾の防備に力を入れ、太平洋艦隊の大部分が入ることができる岸壁や大船渠(ドック)、将校や兵員宿舎の建設を急いでいることを挙げ、米国の軍備論者の着眼点がハワイを中心とした太平洋に置かれ、明らかに日米戦争を予測した企てであるまいか、とブツ。さらに彼=米国は20浬(=かいり、約37キロ)の距離にある一切のものを焼き尽くす威力を持つ死光線を発明し、これを太平洋に配備する準備を進めているのは見逃すことのできない敵対行動であると。死光線とは「死のレーザー光線」の意味だろうが「しかし諸君、今は起(た)つ時ではない。沈勇を誇る日本人はあくまで慎重な態度をとり、満を持して放たざる覚悟を定めることが今の場合、最も大切なことであります」と結んでいる。太平洋戦争の火ぶたを切ったのはこの真珠湾だったが、最後は死光線をはるかに上回る広島、長崎への新型爆弾=原爆の投下だった。

ところで本体はめくったりしたあともほとんどないのに外函だけはひどく傷んでいる気がする。ひょっとして元の所有者は演説のたびに「緊張してあがらないお守りがわり」にこれを持ち歩いていたのでは。まさかそれはないか。

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