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書斎の漂着本 (94) 蚤野久蔵 すたこらさっさ(その2)

  • 2016年11月15日 00:28

前回は田辺茂一、いや田原茂助の<ヰタ・セクスアリスな日々>を少しばかり紹介した。茂助の淡い初恋の行方が気になるかもしれないのでまずはそちらから。

ある日、慶応からの学校帰りの青山6丁目電停で山脇女学校4年生だった三姉妹の長姉に声をかけられた。
「田原さんじゃありません?震災のときはせっかくおいでいただいたのにお構いもしませんで。またお遊びにいらっしゃらない」
「ええ、ありがとう、また・・・」
惚れたとなると、その恋人の姉に対してでさえ、ぎこちない。それからも同じ電停で彼女に出会った。姉に会うことは妹に会ったのも同様と思っていたが、三度目の九十九里浜、一の宮海岸行きで、本命の妹からは
「姉も田原さんを好きらしいんです」
と言われて狼狽する。

帰京した茂助が腸をこわして入院したことをどこから聞いたのか姉が毎日面会にやってきて
「あたし以前から田原さんのこと好きだったのよ。お嫁にもらって下さる」
と言い寄る。返事に詰まると
「わかったわ、妹の方が好きなんでしょう」
「そうよ、それに決まっているわ」
とエスカレートした挙句、死ぬの生きるの、とまで。ようやくなだめたものの
「そうだわ、あたし生きていてあなたを看視する。あたしの眼の黒いうちは、けっして、けっして、田原さんのところに妹をお嫁にやらさない・・・」
こうして3年がかりの初恋はあっけなく幕となったのである。

茂助の学窓生活もようやく終わりに近づいた。追慕する教授もいず、語り合うクラス仲間もなく、味気ないものであった。登校時間こそ少なかったが店の売上金をくすねることで、茂助の懐具合はいつも良かった。友人の洋服代や授業料を代わりに支払ってやったりしたので何となく異色の存在でもあったから春の卒業を控えたクラス会の世話役に選ばれた。クラスの大半は地方中学の出身で東京の事情には暗い。それなのに最後だから盛大にやろう、芸妓もあげよう、記念写真も撮ろうということになった。茂助にしても父親の代理で18歳から炭問屋の組合の宴会に出て芸妓などの見聞はあるがそれ以上の仔細は知らない。玉代、祝儀、心づけのことは皆目分からないし料亭もどこを選べばよいのか。窮余の揚げ句、父親に相談して津之守の「伊勢虎」を紹介してもらった。
「津之守って四谷荒木町ですか。昔、年始に行ったことがあるから知ってはいますが芸妓はどういう名前のを呼べばいいんですか」
「ウム、名前か。そうだなあ、千成、高弥、まあ、そういうのは婆さんだけどな・・・じゃ、あとで電話しといてやるよ」
「値段のほうもひとつ、勉強するように言って下さい」
「ウム、ようしきた。心配するな」

有名料亭の「伊勢虎」は植え込みの奥へ石畳を抜けて行くと大きな玄関があった。学生たちにとっては分に過ぎたが正月も押しつまったある日、クラスのほぼ全員40人近くが2階大広間に顔をそろえた。父親はここの主人と飲み仲間だったこともあって半玉の3人を加えて、10人ほどの芸妓が裾をひいてあらわれ、三味線、太鼓に、手踊りが繰り広げられた。世話役の委員長格だった茂助は対の細かい柄の久留米絣にセルの袴で豪華で艶やかな場を仕切り、当然のように肩を張って一座の中央で記念写真におさまった。招かれた老教授のひとりが
「田原さんでなければこういう立派な宴会はできませんね」
と耳もとでお世辞をささやいた。
酔いも廻った茂助は芸妓の案内でクラス仲間の3人と「ひさご」という待合へ二次会に繰りこんだ。右にも、左にも、前にもおんな達がいて狭い座敷は<混浴>のようでもあった。その夜、仲間たちは当然のように別室に分かれておんな達を抱いたが、そんな経験がなかった茂助は<酔余の勢い>には乗れずわが家へ帰った。

それからは毎夜のように「ひさご」に通うことになった。「木之国屋の若旦那さん」と呼ばれれば親の七光りとはいえ、悪い気がしない。軍資金には事欠かない。
「若旦那、明日の晩もネ、お待ちしているわ」
と言われるとまだ初心(うぶ)な茂助は
「ウムウム・・・」
とこたえる。

やがてここで知り合った三、四歳年上の「すま子」という芸妓と出かけた御殿場の宿で結ばれた。留年を覚悟したのにビリから二番の成績で無事、卒業して炭屋の帳場に座る毎日。兄弟もなく、母もいない。父は若い女房を迎えていたから茂助は家ではひとりぼっちだった。炭屋は夕方の帳付けの付け合わせが済むとそれで終わる。現金売りは適当に省略して帳面には載せないからその一部をふところに、家の前からタクシーを拾い荒木町の花街へ。入り浸ったのは後年、パリ帰りの画家たちが<メイゾン・ルージュ>と呼んだ「小花」だった。何せ<芸事は抜き>だからいきなり別室で、一夜に二人が常習となった。それもあきたりないと三人になる。狭い土地だから一日も欠かさない「小花のたあさん」は、年齢はともかく<新顔一辺倒>で、掃くのは一回こっきりというところから「箒(ほうき)のたあさん」と言われて検番のおんな連には鬼門となった。しかも茂助が飲むのは「金線サイダー」だけで酔うこともなく12時を過ぎたらきちんと家に帰っていたから父親も文句のつけようがなかった。

芸妓遊びも退屈になったころ、茂助は父に
「もう炭屋は無理、本屋しかしたくない」
と言いだした。
困った父は知人の弟分が四谷見附に町田書店という本屋を開業していたので
「そこへ行ってみろ」
ということになった。店主は銀座の近藤書店で丁稚小僧からたたきあげた人物で、茂助の事情を聞くと
「若旦那も一度、そういう奉公をなさったらどうですか。商売を本当に覚えるならそのほうが近道だと思いますがね」
と近藤書店での修行をすすめた。

五日後、木綿の盲縞の筒っぽに角帯、前掛け姿で町田店主に付き添われて銀座に出かけた。尾張町角(銀座4丁目交差点)の近くにあった近藤書店は本屋らしい間口の狭い、奥行きの長い店だった。奥の突きあたりが帳場で、背を円くしたやせた年輩の老主人がそこに座っていた。先方も新宿の木之国屋の若旦那であることは知っていたから丁寧だった。
「御参考にもならないと思いますがネ。まあ、辛抱してやってご覧なさい」
茂助は初めて奉公する身となった。

もちろん近藤書店へ行ったのは初めてではなかったから、どこに雑誌があり、どこに全集があり、どこに新刊書が並んでいるかは先刻承知だった。新宿の本屋へは暇さえあれば三度の飯よりも多くのぞいていたから本の背中を見ただけでどこの出版社の本だかも見分けがついた。棚から本を取り出すのはカルタ取りのようなものだ。素早く取り出して見せるぞ、と意気込んでいたが誰一人そういう客はいなかった。ただ本を包み、有難うございます、だけでは芸もなければ曲もない。銀座通りの人波をただ眺めているのは退屈で、万引き監視人に等しいから馬鹿らしくなってきた。

正午になったところで帳場に座る老主人に
「いろいろ有難うございましたが、だいたいわかりましたから、これで・・・」
驚いた主人は
「左様ですか。立ち通しでなかなかお辛かったでしょう」
と引き止めはしなかった。
朝の8時からきっかり12時まで正味4時間、茂助の生涯では最初で最後の奉公だった。

戻ってきた茂助を見て父は
「やっぱり本屋なんて面白くないだろう」
と言った。
「とんでもない。だいたいわかったからすぐ始めようと思って帰って来たんで、板塀と風呂場のところを貸して下さい」
と茂助はかねて計画していた新店舗の構想をしゃべった。
「大工はどうするんだ」
「それも見積もりをとってあります。総坪数36坪で6千円です」
手順の早さに父もあきらめたようすだった。

明けて昭和2年1月22日、木之国屋書店は開業した。間口3間、奥行6間、木造2階建。階下が売場で、階上に通じる階段下の空間に机を一つ置いて帳場にし、その横の四畳半の洋間を作り、そこを茂助の応接兼事務室にした。階上は絵の展覧会用のギャラリーにした。昭和の初めの東京には画廊は日本橋の丸善と銀座の資生堂があるだけで珍しかった。店の売場のことは分かったが仕入れのほうは皆目わからなかったので町田書店の主人に依頼して近藤書店の老番頭に来てもらった。その老番頭に町内の鳶の倅の16歳の小僧、新聞広告で集めた女店員2人と茂助の5人でフタをあけた。ときに茂助22歳だった。

父親は「今に飽きるだろう。どうせ永続きしっこない・・・」。その目算をよそに2月は階上ギャラリーで「現代洋画大家展」を企画した。画廊が少ない時代だったので大家のほとんどが出品してくれ新店舗開業祝いにと近所の人が気前よく買ってくれた。それをきっかけにして東郷青児ら二科系や1930年協会の画家が出入りするようになった。一方では水戸高から東大へ進んだ舟橋とも付き合いが続いていた。築地小劇場で演出を担当していた舟橋は茂助に歌舞伎役者で劇団前進座の創設メンバーの河原崎長十郎や演出家の村山知義を紹介してくれ、役者や新劇女優らとの交友関係も広がって行く。

それから40年、茂助は日本テレビの深夜番組「11PM」に出演した。
司会のKさんが
「女の数が多いようですが、なぜそんなに?・・・」
「つまり、母親が理想でネ、そういうのに似た女を探してネ。それが見つからないままの遍歴でしてネ。三千人というけれど、まあ洒落みたいだが、母をたずねて三千里ということでしょうな」
茂助に用意はなかったがとっさに出たこのやりとりも半分冗談で、半分、真相であるらしい。書店経営も40年だが、女の清掃も40年の「すたこらさっさ」。小突かれたり、つんのめさせられたり、足払いを食ったりしながら、それでも懲りずに女の影を慕ってきた。「人生多彩」が茂助の標語だが、言葉を換えれば「七転び八起き」だ。賽の河原の石と知りつつも、積んで積んで積み抜くのが、世間の約束というものである。

田辺茂一著『続すたこらさっさ』(流動刊)

田辺茂一著『続すたこらさっさ』(流動刊)

「続」は一変して文化人としての交友が綴られる。相変わらず茂助は<その数ドーダ>の生きざまである。毎日のように銀座の文壇バーをハシゴしてドーダ、ドーダ。そして「すたこらさっさ」となる・・・。

それは茂助の心象風景でもある。春夏秋冬、花鳥風月、ぶれない生き方がすっかり身に付いた。

「すたこらさっさ」

いま、茂助はひとりだ
まわりに
だれもいない
春も
夏も
秋も
冬も
ない
花も
鳥も
風も
月も
ない
そんなもの
なにひとつ欲しくない
そんな男に
成った
毛頭
生きていることが
嫌に成ったわけ
ではない
だが別のことで
欲しいものは
いっぱい
ある
思えば
それが欲しさの
すたこらさっさ
であった
なんだろう
わかっている
わかっているから
茂助だけは
疲れない
それが
自慢だ

そういえば以前、よく通った京都祇園のお座敷バーでこれを毛筆で書いた直筆の屏風を見た覚えがある。一言一句この通り、最後に「田邊茂一」と署名があった。ということは、茂助は茂一、いや茂一は茂助なのか。

いいではないか、余計な詮索はこちらも「すたこらさっさ」ということにしておこう。

ヒトラーの時代(20) 池内 紀

  • 2016年11月10日 17:12
ヒトラーの時代

ヒトラーの時代

ヒトラーとマイク

第二次世界大戦中のエピソードである。1941年12月21日、イタリア海軍の秘密潜水艇「マイアリ」号が、当時イギリス海軍最大の基地であったアレキサンドリア港に侵入、主要戦艦二隻を爆破して航行不能に陥らせ、それまでイギリス優勢のうちにすすんできた地中海のバランスを一気に崩した。ヒトラーは盟友ムッソリーニに祝電を送り、枢軸同盟の勇気と戦力を賞賛した。

マイアリは「豚」といった意味で、潜水艇のまるっこい型から名づけられたのだろう。二人乗りで「人間魚雷」とも呼ばれた。ただし、これは誤ったネーミングで、たしかに魚雷を装備していたが、日本帝国海軍の発明したような玉砕タイプではなかった。弾頭部は着脱式で、目標の船にとりつけて、爆発させる。そのため目標船体は港に繋留されているか、錨泊している場合にかぎられた。

イギリス海軍はこの潜水艇に手を焼いた。中立国スペインのジブラルタル湾は、そのころイギリスの領有化にあって海軍基地が置かれていた。厳重な警戒にもかかわらず、くり返し被害を受けた。潜水艇は航行距離が限られており、目標の近くまで船で運ばなくてはならない。ジブラルタル近辺にイタリア海軍の船が入ってくるなど、もとよりあり得ないこと。にもかかわらず小さな「豚」がわがもの顔に出没する。いったい、どうやって港まで入ってくるのか。

のちに判明したところだが、ジブラルタルの対岸の港アルヘシラスの湾内に、イタリア商船「オルテラ」号が座礁して、傾いたまま放置されていた。イタリア軍はこれを発信基地として利用した。修理するように見せかけて船首の水面下に大きな穴をあけ、それを秘密のハッチにして「豚」が自由に出入りした。ついでながら商船「オルテラ」号が座礁したすぐ上の岬にイギリス領事館があり、スタッフは血まなこになってイタリア側の情報を収集していたのである。

イギリス側が首をかしげるのは、もう一つあった。海軍自慢の最新電波探知機がどうして敵の潜水艇の接近を察知しないのか。より精妙な電波装置でもって探知をはぐらかしているのだろうが、イギリス秘密情報部はドイツ軍のテコ入れを疑っていた。どこかに研究基地が隠されていて、高性能の音波システムを開発したのではあるまいか。

推測は当っていた。ナチス・ドイツは音響学に力を入れ、ひそかに高性能の音波装置を開発した。研究施設はドイツ中央部の都市パンベルクの郊外にあり、建物の屋根に大きく赤の十字がしるされていて、病院兵舎と思われていた。

たしかに施設は秘密の基地としてカモフラージュされていたが、製品とシステムそのものは秘密でもなんでもなかった。ヒトラー愛用のマイクが仕掛けてあって、イタリア海軍の秘密のハッチと同様に、白昼公然とひと目にさらされていたのである。

ヒトラーの大きな武器は演説だった。独特のシャガレ声と間の取り方、短いフレーズにまとめて断言するときの力強さ。ミュンヘンの泡沫政党が1920年代後半に、一躍中央政党の仲間入りをしたのは、主として演説の力だった。ナチ党の演説会が終了して会場を出て行く人々の多くが、上気したように目を輝かせ、われ勝ちに入党した。五万、二十万、六十万……当時の記録が、うなぎのぼりの党員数の増加を示している。

はじめのころの会場はミュンヘンのビアホールだった。醸造元直営の大きな建物で、お祭り騒ぎにちょうどいい。ビアホールでは収容しきれなくなって、スポーツ施設にうつった。こちらは数千人を入れることができる。「ヴェルサイユ条約屈辱の日」といった記念日には野外の集会になった。ニュルンベルク郊外の通称「ツェッペリン台地」は数万の人を入れる。写真では見わたすかぎりの大群衆のなかに演説台が孤島のようにのこされている。

権力掌握後、ニュルンベルクのナチス党大会を記録したリーフェンシュタールの「意志の勝利」は中央の通路をはさみ、制服の大集団が整然と居並んでいる。演説台が壮大な幾何学模様の中心で、すべてがその一点に集中するように構成されたことはあきらかだ。ワーグナーの音楽が演奏され、つづいてヒトラーの演説が始まる。聖なる神託を聴くようにして人々は微動だにしない。画面には映っていないが、制服の集団の外まわりには数万の一般ナチ党員がいて、ひとしく神託に耳をすましていた。

リーフェンシュタールのナチ党大会の記録映画『意志の勝利」のシーン(1934年)

リーフェンシュタールのナチ党大会の記録映画『意志の勝利」のシーン(1934年)

どうやって「声」を伝えたのだろう? マイクロフォンを通してだが、声が割れたり、残響がまじり合ったりしなかったのだろうか。誰にも覚えがあるはずだが、屋内の場合、声や音が壁や天井に反響して、語り手にもどっていく。屋外では要所にスピーカーが設置されるものだが、それぞれの声が混声して何が何だかわからない  。

ヒトラーの演説が短いフレーズのくり返しから成っていたことは、よく言われるところだ。反ヴェルサイユ、反ユダヤ、再軍備、反コミュニズム。すべてを短くとりまとめ、要点は数を付してあげていって、一刀両断に断言した。それを飽きもせずくり返した。

ヒトラーの「文法」であるとともに、演説につきものの厄介な条件がそれをさせた。声を通して人を動かそうとすれば、知識人にはせせら笑われるような単純な語りで通すしかない。事実、ヒトラーの演説メッセージは知識層には冷笑されたが、庶民層には福音のようにひろがっていったのである。

党首の声をより広く、より正確に伝えるためには、より性能のいいマイクやスピーカーなど、高度な音響設備が必要である。ナチスが音響学に力を入れたのは、切実な必要に迫られてのことだった。当然のことながら、さまざまな試みがされたと思われる。政権について二年目の一九三四年の写真が、演説中のヒトラーを至近距離でとらえている。肥満の兆しを見せはじめていたころで、顔がむくんだような丸みをおび、ナチスの制服がきゅうくつそうに見える。

演台のマイクを、丸いメガフォンのようなものがとり巻いている。マイク、またメガフォン型の装置のまわりに、シュロの小枝と似たものがばらまいてある。マイクの台にひっかけた小枝も見える。金属製マイク群とシュロの小枝は奇妙な取り合わせだが、音響担当のチームが何らかの効用を図って採用したにちがいない。演台に立ったヒトラーの問いに、スタッフがどのように答えたか知りたいものだが、マイクとシュロの関係はどこにも文書になっていない。

演説中のヒトラー(1934年)マイクの周辺に小枝がばらまかれている。

演説中のヒトラー(1934年)マイクの周辺に小枝がばらまかれている。

むろん、いつまでもシュロの小枝ではないのである。音響研究の秘密施設がいつごろつくられたのかはっきりしないが、政権獲得後まもなくのことと思われる。大司教座の都市バンベルクの近傍にフォイアーシュタイン城という中世の砦があった。ナチス幹部はカムフラージュするには絶好の場と考えたのだろう。古風な宗教都市に近い古色蒼然とした砦のなかでこそ、最新の音の科学が生きてくる。砦のまわりに病院に似せた兵舎がつくられ、屋根に赤い大きな十字がしるされた。第三帝国音響実験室の主任は、オスカー・フィアリング博士といって当時四十代の物理学者だった。古ぼけた砦の門を、ほぼ二百人のスタッフが出入りしていた。

一九三六年はベルリン・オリンピックの年である。メイン・スタジアムに「グロー放電式オルガン」が設置された。これまでなかった大音響で明晰な音をひびかせる。現代でいうシンセサイザーのはしり(傍点)であって、フィアリングの音響実験室から生まれたものだった。

翌三七年にナチスが催した祝典のために、フィアリングは当時としては破格の5000ワット可動の大音響マイクを実現した。また同年の党大会には、ツェッペリン台地を埋めた群衆のまわりに特殊スピーカーを立てまわした。それは残響をもたず、相互にまじり合うこともなく、総統の演説をくまなく広大な野にゆきわたらせた。その功績に対して、ヒトラーみずから主任フィアリングに「帝国音響技師」の称号をさずけた。

フィアリングと秘密研究施設のことは、ながらく知られていなかった。フィアリングは一九八六年に死去しているが、公には自分の任務につき、一切沈黙していた。もともとナチスに対して、必ずしも協力的だったわけではなく、研究者としてのつとめは果たしたが、ナチスの活動には冷淡で、そのためゲシュタポ(秘密警察)に疑惑をかけられたこともあるらしい。ナチス体制の終末に、当局は秘密施設を先んじて破壊し、書類棟は燃やしたが、音響基地にはその手が及ばなかった。

1945年、アメリカ軍のASA(Army Security Agency)がフォイアーシュタイン城を押収して、主任以下を尋問した。その調書がのこされていて、基地の活動のおおよそがわかる。アメリカ軍担当官は、基地のスタッフが友好的で、調査に協力的だったことを伝えている。フィアリングは研究成果のくわしく一覧を用意していた。音響学のパイオニアはあきらかにヒトラーの演説台だけではなく、研究の成果が戦後のさまざまな分野で利用されることを願っていた。特殊マイクロフォン設計図や構造分析表なども、もれなく提出した。

音響基地のスタッフはマイクやスピーカーだけでなく、コンピューターの原型にあたる伝説的な記号機械SZ42号の改良にとりくんでいた。これは「煙突掃除夫」の暗号でよばれていた。潜水艇の音響装置製作の暗号は「ハゲタカ」だった。潜水艇にとりつけた特殊レーダーによって、敵の警戒網をすり抜ける。ほかに音響の働きによって鉱山内部を発火させる研究なども行っていた。

ナチ当局の破壊を免れたのは、所員のトリックが大きかった。古い砦には迷路状の通路がつきもので、思いがけないところに通じている。いち早く主だった研究成果を迷路の奥の隠れた部屋に移していた。カモフラージュに選ばれた中世の砦が、近代科学の成果を保護する役目を果たした。

ヒトラーは「帝国音響技師」などという変テコな称号を与えて、単なる「マイクの男」とみなしていたようだが、主任物理学者は、はるかに多彩な分野と取り組んでいたと言える。フィアリングはヒトラーの時代、また占領下を大過なく過ごして、バンベルクの大学に招じられ物理学教授をつとめた。年金生活者となってからだが、音響学にもとづく補聴器を考案。「フィアリング式」の名で、ひところ多くの難聴者の耳を助けていた。

書斎の漂着本(93)蚤野久蔵 すたこらさっさ(その1)

  • 2016年11月10日 16:57

紀伊国屋書店創業者の田辺茂一は連日連夜、銀座に繰り出し、バーからバーへと飲み歩き華麗な女性関係を繰り広げて<夜の市長>と言われた。ところが「いつ書くのだろう」と思われるほど多くの著作を残した。その代表作をあげるとするとやはり自身の処世術をそのまま題名にした自伝小説『すたこらさっさ』ではあるまいか。昭和48年(1973)3月に出版されると話題を呼び、同じ年の11月に「続」が出された。装丁は人気切り絵画家の宮田雅之だからこの題名部分も切り絵である。

田辺茂一著『すたこらさっさ』(流動刊)

田辺茂一著『すたこらさっさ』(流動刊)

表紙見返しには親交のあった流行作家の梶山季之が一文を寄せている。

この小説は、田辺茂一先生の最初の週刊誌連載小説の筈である。『すたこらさっさ』と言う題名も、先生らしく軽妙ながら、文体にも新しい試みを大胆に駆使して居られるあたり、心憎い次第だ。田辺先生は、粋人として名高いが、志は文学にあると伺っている。それも通り一遍のものではない。われわれ如き駆け出し文士は大いに範としなければならぬ。

梶山は週刊誌などのフリーライターとして活躍し、多くのスクープを手がけて「トップ屋」と呼ばれた。小説家に転身して書いた『黒の試走車』が大ヒットし、長者番付のトップを飾ったことで「稼ぎでもトップ屋に」と書かれた。田辺とは二回り以上(25歳)の年齢差があったのに<駆け出し文士>とへりくだっているのがおもしろい。

『すたこらさっさ』の主人公は本名をもじった田原茂助、生家で紀州備長炭や石炭、コークスなどを扱う薪炭問屋・紀伊国屋は木之国屋としている。幼時の記憶に残る新宿界隈の風景や生家をこう描写する。

新宿停車場も、人っ気少なく、その周囲に、二十数軒の薪炭間屋があり、荷をつけた馬車の轍の、ぬかるみの道路が続いて、人呼んで、馬糞横丁と言っていた。
一歩裏へ入ると、茶畑、田圃、原っぱで、今日の歌舞伎町は鬱蒼とした森林であった。
薪炭問屋木之国屋は五間木造二階建ての店で、小僧、中僧、女中、併せて七、八人の奉公人がいた。

茂助はこの店の跡取りだった。生まれたのは明治38年(1905)2月、日露の大戦争が終わりに近づいたころで、父親は尋常小学校を4年で終え、夜間の正則英語学校に半年通っただけだが神田佐久間河岸の炭屋に奉公していた。実直な働きぶりが認められ、奉公先の親戚筋にあたる栃木県黒磯出身で共立女子職業学校を優秀な成績で卒業した2歳年上の才媛と結婚していた。茂助が生まれた時、23歳だった父親は名付けに窮し、町内の十二社熊野神社の宮司に相談して茂助という名前をつけたという。

このあたり、生まれた年といい父母の経歴といい本人(=田辺茂一)とまったく同じであるが、これはあくまで小説であって主人公の田原茂助が繰り広げる物語なのである。なぜかというと6、7歳で近所の理髪店で聞いた若い職人たちの会話から前夜の遊郭での相手の話であることがわかったり、年始の得意先参りに中僧に連れて行かれた先が新宿、品川、洲崎、吉原の遊郭で、応対に出てきたお女郎さんを「あんまりきれいなのはいないね」と評したり。母と同じ布団に寝るとき、すぐ乳房のあたりをまさぐったり、自分の足を、それとなく母の股間に入れたりして間もなく離れ座敷にひとりで寝るように言い渡されたり。早熟な茂助の<ヰタ・セクスアリスな日々>をこと細かに書いているが、あくまで茂助の、であって、茂一の所業ではないのである。

早生まれの茂助は7歳から町立淀橋尋常小学校に通った。ところが言葉遣いが乱暴になったのを心配した母は2年生から大久保にあった私立高千穂小学校に転入学させた。3年生からは本所から転入学してきたのちの作家・舟橋聖一と一緒になり、中学では同じクラスになった。仲良くなった二人は本屋で茂助はトルストイの翻訳物を買った。
それを見て舟橋は
「そんなの読んでいるのかい。トルストイなんてつまんないだろう。ぼくは嫌いだなあ」
舟橋の言い方には自信らしいものがあって、ちょっとたじろいだ茂助は
「いやぼくだって知らないんだ。今日が初めてだよ。もう読んだのかい?」
あらためてたずねると
「ウム読んだサ。ちっとも面白いとは思わないね」
と言い、茶色のポケット型の絹地本の新汐(潮)文庫の田山花袋『蒲団』を買った。茂助はまだ花袋の名を知らなかった。茂助の場合は健康な性欲をもて余しての小説本の乱読で、のちに発禁になる島田清次郎の『地上』とか生田春月の『相寄る魂』、有島武郎の『或る女』といった<官能路線>だった。

一方では町内にできた市内初の映画館「武蔵野館」に入り浸った。新宿に地下街ができるという噂に対抗して茂助の父ら有力商店主が資金を出し合い完成させた。鉄筋木造3階建ての建物で、茂助も優待パスが出される重役の末席に収まった。客席が満席になると赤い大入り袋が配られるのを父は居間の長火鉢の横に吊るして飾りにしていた。これを母が見とがめて「大入り袋なんか吊るしてあるから茂作の勉強がおろそかになるんです。はがしてしまいましょう」ということになった。思春期の茂助には小説本もだが映画も楽しかったから、この一件を知ってか知らでか、学校から帰ると相変わらず武蔵野館に直行した。座るのはいつも2階正面の特等席、一列目の左側だった。すぐ脇に制服を着た案内嬢が立っていて、かすかな香料の匂いもした。茂助より三つぐらい年上に見えたが、制服のなかの成熟したカラダがすぐそばにある、ということだけでたまらない。場内が明るくなると、スカートの下の太い脚も見える。久留米がすりの中学生の視線を案内嬢のほうも意識する。
「新しいプロ(グラム)ある?」
「あります」
「今日は混んでいるね」
「ええ、とても」
その程度のやりとりではあったが帰ったあとでひとり思い出しては興奮した。

茂助17歳の夏、超チブスで2カ月ほど寝込んだ母があっけなく死んだ。以前、母とはこんなやりとりがあった。
「本屋以外には、なんにもなりたくはありません」
と答える茂助に、その性格を知り抜いて行末を案じていた母は
「本屋になりたければ、なってもいいが、お前は商人にはなれないと思うよ。そんなことをするより、本が好きなら、ただ本を買って、読んでいれば、それでいいじゃないか」
それとは反対に父は長男には炭屋を継がせればいいと考えるだけだったから、母だけが茂助の最大の理解者といえた。学校の成績簿を貰ってくるとすぐ母にだけは見せた。その見せる人は、見せ甲斐のある人はこの世にいない。とすれば、学校の成績なんぞは、もうどうでもいいことであった。

母の死後、茂助の気持ちは荒れた。秋の運動会のプログラムには「中隊訓練」というのがあり、茂助は小隊長を命じられた。運動場を音楽隊に合わせて進み、中央右手の台上にいる校長のところまで来ると、小隊長の声で「頭右っ!!」いっせいに生徒たちが右を向く。校長が挙手で挨拶すると「直れ!!」で、また小隊が進むという段取りである。これを茂助は運動会には無縁のように思った。予行演習で腰にサーベルを下げさせられた茂吉は、声はかけたが自分は前方ばかりを見ていた。校長の怒声が響き渡り、突き飛ばされた茂助は腰の帯皮ごとサーベルを取って思いきり地面にたたきつけた。「サーベル事件」は校内に広まり、校長批判の漢文の教師からは
「田原、よくやったなあ。あれでいいんだよ」
と激励されたが、茂助はそのころから性格も変わった。表よりも裏が人生の真実のようにも考えられた。善良が不良に見え、不良が善良に見えた。倉田百三の『愛と認識の出発』『善の知識』や阿部次郎の『三太郎の日記』をむさぼり『菜根譚』を手にした。

翌年、落第覚悟で受験した一ツ橋は不合格でそのまま5年生に進級した。放課後、週一度は日本橋の三越に出かけ、真っ白いエプロン姿の給仕の少女の胸の番号札で
「30番ってのがとても綺麗なんだ」
「いや17番のほうがいいぞ、すぐ耳を紅くする」
と話題にしたりしたがそこまでだった。

夏休みには九十九里浜の真ん中ほどにある千葉県の一の宮海岸に出かけた。田原家が所有する一万坪を超える地所でキャンプ生活をすることを思いついたからである。さっそく天幕店からテントを取り寄せ、飯盒を用意して缶詰をいっぱい鞄に詰めた。友人の美少年、下田を誘い、二人はデパートで揃いの海水パンツを買った。計画した自炊生活はうまくいかず、地所の管理人夫婦に食事の世話を頼んだ。毎朝、ご飯やみそ汁鍋を運んできたのはそこに東京から避暑に来ていた三姉妹で、12歳の次女アコチャンに淡い恋心を抱いた。

再度受験した一ツ橋はまたまた不合格だったが、三田の慶応義塾が新設した専門部を受験した。予科一年、本科三年の修了で、受験勉強など用意のなかった茂助は、そそくさといい加減な答案を書いた。またダメかと思っているところへ<意外にも>合格の通知が来た。「ペンに勲章のKOボーイか・・・」茂助は特別に嬉しいとも思わなかったが三田へは新宿から市電で通った。四谷塩町、青山一丁目、さらに飯倉で乗り換えて50分で三田に着く。慶応はハイカラな学校と期待していたのに専門部は地方の中学や商業の出身者ばかりで、甚だ泥臭い。数学も歴史も心理も原書ばかりなのが珍しいとはいえ、授業は退屈で教室の後ろであくびばかりしていた。夏休みになると再び一の宮海岸に出かけた。こんど誘ったのは水戸高校に進学していた舟橋である。舟橋は夏の制服に、太い鼻緒の朴歯の下駄をはき、帽子の白線も誇らしげにやってきた。舟橋は茂助が関心をもっていたアコチャンに眼をつけて
「利巧そうだね、いくつだい」
と聞く。
「ウム、ちょっと気に入ってんだ。13だよ、ことし竹早(府立第二高女)に入ったらしい。頭脳(あたま)はよさそうだがね、熟していないのがキズさ。水泳はうまいがね」
「待っていればいいじゃないか」
「四、五年は待てないね」
オカッパの髪の下に見える、頸筋が可愛かった。瞳も澄み利発そうであった。

舟橋が帰ったあと、町まで買い物に行くというアコチャンの付き合い、舟を漕いで出かけた。午後いっぱいの買い物ごとに赤い兵古帯の間から小さいノートを出し、金額を書き入れるのをみて
「ナカナカ家計簿はしっかりしてるね」
と冷やかしたのに対し
「私、お嫁さんになれるかしら」
といわれ、
「提灯を買っていこう。この分だと途中で日がくれちゃうから」
と茂助。櫓を漕ぎながら茂助が
「新世帯を持ったようだね」
「新所帯なんて、新家庭とおっしゃって・・・」
夕暮れのなかで19の少年と13の少女との会話だが、茂助自身はほんとうにアコチャンが嫁に来てくれたなら、と心のうちで思った。帰りはアコチャン一家と同じ汽車で一の宮駅を発った。
「若さん、すっかりアコチャンがお気に入りのようで」
と管理人からささやかれると茂助はちょっと、顔を赤くした。

帰って一日おいて9月1日午前11時、東京は関東大震災に見舞われた。激しい余震が続いた。東京市街の大部分は震災後の延焼で焼失したが、新宿の角筈に近い部分はその厄を免れた。親類知己が茂助の家を頼って大勢避難してきて寝泊まりした。ラジオ放送もなかったころだから得意先や親戚の消息も判明しない。茂助は父の命を受けて自転車に乗って安否を見舞いがてら洲崎の吉原神社を訪ねることになった。まだ夏のきざしの強いさなかだったが火事装束のような刺し子半纏を着込み、握り飯を風呂敷にかたく結んで荷台に縛り付けた。
「気をつけろよ!」
と父から言われ、朝早く家を出た。ところが茂助は目的地ではなく小石川植物園近くにあると聞いていたアコチャンの家へ向った。何をおいても、まずそこへ行き、彼女の安否を確かめたかったのである。

(以下続く)

新・気まぐれ読書日記 (43) 石山文也  酔眼日記

  • 2016年11月1日 00:52

<緑陰読書>にちょうど良さそうと購入したが、ヒマな日に限って雨。キャンプのお誘いもこないうちに読了した。本山賢司の『酔眼日記』(東京書籍)は建設業界誌などに寄稿した約100作を一冊にまとめた。「旅と酒」なら当方も負けはしないだろうが、遠征も含めてあくまで遊び=自腹だから帯にあるように「あっちこっちで酒のんで、文とスケッチ」がシゴトというのはホント、うらやましい。

本山賢司著『酔眼日記』(東京書籍刊)

本山賢司著『酔眼日記』(東京書籍刊)

著者の本山は私が<アウトドア・野遊び系>と勝手に名付けているイラストレーターのひとり。書庫を探すとデビュー作の画文集『海流に乗って―僕と九つの島』(山と渓谷社、1987)が見つかった。他にもあるだろうがこれだけでいい。『「宝島」探訪記』を読んでいるうち、「そういえば」と思い出したからである。「宝島」は鹿児島県の屋久島と奄美大島の間に連なるトカラ列島のひとつで、北から口之島、中之島、諏訪瀬島、悪石島、小宝島、宝島、横当島と並んでいる。この7島が住民の住む有人島で、残りの無人島3島を含めて十島(としま)村といい鹿児島市内に村役場がある。

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なぜ詳しいかというと私も宝島に行きたいと資料を集めたもののどうしても休みが取れず断念したから。島に渡るには鹿児島と奄美大島の名瀬間を結ぶフェリー「としま」しかない。鹿児島を出るとそれぞれの有人島に寄港しながら名瀬へ。名瀬からは同じように折り返す。もちろん鹿児島と奄美大島には空路があるがフェリーに乗り継ぐには運航日の確認だけでなく、空港から港までのアクセスにも気を配る必要がある。いまは週2便だが当時はたしか週1便だけで、海が荒れたら欠航し、島まで行っても入港できずに通過することもあるからスケジュールによほど余裕がなければとんでもないことになる。『海流に乗って』では運航日の変更などトラブルに見舞われたと紹介しているが今回はすんなり渡れたようだ。

島には新しい住人がいた。大物釣り師のKと、画家のKの両氏だ。かって泊った坂本さんの離れは廃屋になっていたがオバさんは元気だった。むろん僕のことは覚えていない。小柄なオバさんはプロレス好きで、テレビを見ながら「この野郎!殺(や)っちまえ、そこだ」と大声で怒鳴る。ふだんは大人しい人で、毎日おいしい料理を作ってくれた。大物釣り師のKはザルの飲み助で、毎晩ふたりで「さつま白波」をあびるように飲んだ。

そのKから「すっかり禿げてしまったが島の娘と結婚した」と便りがあった。手紙と一緒に、トビウオの干物や、島の野生のミカン、今や名物になった落花生を送ってくれた。甘味が苦手なのを知っていて、黒砂糖も荷に入れてくれた。「今年あたりか来年か、はたまたいつになるかはわからないが、三度目の宝島行きを考えている。そんな計画が頭に棲みつくと、旅の虫が騒ぎだす。あの亜熱帯の島が懐かしい」とある。なぜか画家のKのことは何も書かれていないが、あこがれの島へシゴトとはいえ何度も行けるというのはいいですなあ。

『下山家宣言』は、山の雑誌からの原稿依頼を「登山はしないので」と断ろうとしたが断れずに「下山家第一号」を宣言したオハナシ。下山に開眼したのは富士山という。登山口の五合目まで早朝新宿発の富士急行バスで行って、ひたすら下山する。高尾山は頂上まではケーブルカー。それから参道脇の道を下山する。どんな手段を取っても登らずに下るだけ。これが下山の条件。ありそうだがなかなかないと。たしかに、下りといっても多少の凹凸はあるだろうし。

おもしろかったのは『大岩の真実』だ。山梨と静岡の県境を流れる佐野川上流部で渓流釣りのエキスパートの友人が見つけたという<謎の大岩>に心を動かされてその友人を引っぱり出して探索に出かける。

富士宮市の浅間神社を横手に身延線と合流、南へ5キロほど下り、富士川沿いに北へ。県境を超えると山梨で、ここで佐野川が富士川と合流している。井出から佐野川の上流を目指す。ダム湖の天子湖をやりすごし、さらに上流へ向う。岸辺にしげるマタタビの葉の一部が白化し、木漏れ日を浴びて輝く。梅雨入り前のぐずついた空模様。太陽が雲間にかくれて、道路が意味ありげに陰る。と、その大岩が忽然と姿を現した。全体はひしゃげた五角形。一部が岸にかかり、片側は流れにえぐられている。流れは清冽で、苔むした巨岩があちこちの岸にゴロリと寝転がっている。大岩の中心には太陽らしきものが描かれ、プリミティブな線が表面をのたくっている。

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あたりは緑が濃く、空気がねっとりと重い。天候のせいか、不気味な気配がしないでもない。スケッチをすませ、大きさの目安になるように岩に乗って証拠写真を撮った。帰り道、川下の無人だと思っていた店先で、オバさんがムシロを敷いて赤ジソの葉を取る作業をしていた。昭和16年創業のタバコ屋のオバさんに大岩のことをたずねてみたら・・・。

著者が50年来、続けてきた居酒屋とバー通いは、焼酎のホッピー割りでスタート。おおよそ1時間で神輿をあげ、仕上げは50.5度の七面鳥のレッテルの酒をストレートでダブルというのがお決まりのコースという。「酩酊はしない。鼻歌のひとつやふたつ出るぐらいに飲んだ翌日、宿酔いにはならないが妙に涙目になり、うるうるする。これを酔眼というのである」とわざわざ「追記」に書いている。

「50.5度の七面鳥のレッテルの酒」といえば<バーボンの王道>と言われるアメリカ、ケンタッキーを代表するワイルド・ターキーですな、サントリーの巨額買収で話題になった。今夜も著者のいう獣道をいそいそと辿り、どこかの店の片隅で飲っているかな。

ではまた