Web遊歩人

Web遊歩人
You are currently browsing the Web遊歩人 archives for 3 10月 2016

ヒトラーの時代(19) 池内 紀

  • 2016年10月3日 16:01
ヒトラーの時代

ヒトラーの時代

顔の行方

「ヒトラーの顔を知っているか?」と問われると、たいていの人が「もちろん」と答えるだろう。二十世紀の歴史に欠かせない人物であって、無数の本があり、ドキュメンタリー・フィルムになっている。写真アルバムといったものによって幼児アドルフから死ぬまでの姿をたどっていける。当然のことながら、国民の歓呼をあびているころの写真が一番多い。ノッペリした顔、おなじみのチョビ髯、髪をぴったりなでつけ、無表情で、鋭い目つき。とりわけひろく流布した顔は一九三九年のものと思われる。(1) ななめ右から撮った写真で、正装の背広にネクタイ。目を一点に据えて、口を引きしめている。ネクタイには鷲をあしらったナチスのバッヂ。

1939年のヒトラー。

写真(1) 1939年のヒトラー。

第二次世界大戦に突入する直前である。政治家アドルフ・ヒトラーが神格化にもひとしい評価を受けていたころであって、新聞、雑誌、ポスター、プラカード、ビラ、絵ハガキ……あらゆる情報の場にこの顔が使われた。ポスターやプラカードには高らかに「一つの民族、一つの国家、一人の総統」とうたってあった。国民的英雄であって、それに応じる顔だった。

正確にいうと1939年4月、ヒトラー五十歳の誕生日に出版された記念アルバムの中の一点である。計十六枚の写真が、1919年から38年までの「英雄の戦い」をたどる構成になっており、タイトルは『総統の顔』。初版25万部。たちまち売り切れて増刷をくり返した。

ナチス・ドイツはアルバムをしめくくる一枚を公式の「顔」として採用、広く世界に出廻った。撮影はハインリヒ・ホフマン。アルバムにはヒトラー・ユーゲント指導者バルドゥーア・フォン・ジラッハが総統讃歌を書いている。ジラッハはホフマンの義理の息子にあたり、親子でヒトラー写真帖をつくったわけだ。総計数百万部をかぞえ、膨大な印税を手にしたと思われる。

「ハインリヒ・ホフマン」の名前に聞き覚えはないだろうか。このWEB連載の第一回に「ヒトラーのおかかえ写真家」として紹介した。連載のタイトルに用いている奇妙な肖像写真は、ホフマンがガラス絵に仕立てたポートレートである。ナチス広報部が差し止め、ヒトラーが破棄を命じたものが、ヒビの入った形で後世にのこされた。髪をととのえ、精悍なシェパードと並んでポーズをきめたはずが、しゃちこばり、おびえるような姿で写ってしまった。奇妙という以上に異様な肖像であって、ナチス当局が差し止めにしたのは当然の処置だった。

ミュンヘンの写真家ハインリヒ・ホフマン(1889〜1966)がヒトラーを知ったのは1923年のこと。自分と生年が同じ極右の政治家によほど強い印象を受けたのだろう。当時、武力蜂起(ミュンヘン一揆)失敗で指名手配を受けていたヒトラーを追ってカメラに収めた。ヒトラーは逮捕されて収監。晴れて釈放ののち、武力革命を放棄し、合法政党に衣替えしたNSDAP(国家社会主義労働者党)党首の公式の写真家に指名された。1925年以降、ヒトラーの肖像はすべて「ハインリヒ・ホフマン撮影」になる。ほかに公人として、さまざまな場で写真にとられた。1933年の権力掌握以後、報道写真はゲッベルスのプロパガンダ省が検閲した。外国通信社の写真ももとよりである。検閲外の写真使用が判明すると、通信員は直ちに国外退去を命じられた。ヒトラーの顔は公私ともに厳しい規制の下にあった。

そういった事情を思い出しながら、あらためてヒトラー像をながめてみよう。もっとも広く使われた1939年の肖像はどうだろう。髪型、衣服、姿勢、表情、すべてにわたり演出されている。とりわけ、やや上方に向いた視線と口元に写真家の注文があったにちがいない。大いなる民族国家の全責任を負う政治家の強い意志と決意を示した顔がなくてはならない。背後は黒で統一して、3分の2ちかくは漆黒、のこりはやや明るみをおびさせた。

たしかに強い使命感をおびた指導者を思わせる。だがそれは、この人物が絶頂期の政治家ヒトラーだと知っての上のことであって、先入観なしにながめた場合はどうだろう? ちょっと気取った中年紳士、鼻ヒゲなどはやして、大会社幹部とはいかないが、中堅会社の社長などによくあるタイプ。そんなタイプは、なぜかオシャレしてネクタイにバッジなどつけたがるーー。

視覚を変えてみる。その上で、伝わっているヒトラー像を見ていくと、どのような顔があらわれるだろう。

「ハインリヒ・ホフマン撮影」の初期の写真の一つだが、ナチスの制服、腕に鉤十字の腕章、革バンドをしめたヒトラー像(2)がある。1929年のもの。ナチ党が泡沫政党から脱皮しかけていたころで、このときSA(突撃隊)の制服を新しくした。新ユニフォームのお披露目に、党首がモデルになって写真に収まった。

写真(2)

写真(2)

あきらかに似合わないし、自分でも浮かぬ顔をしている。以後もそうだが、よほどの必要がないかぎり、ヒトラーはナチスの制服を身につけなかった。どうしても必要なときは制服姿であらわれたが、似合わなかったし、自分でも気持ちが乗らなかったのだろう。たいてい仏頂づらで写っている。

1933年1月、フォン・ヒンデンブルク大統領は不本意ながらヒトラーを首相に任命、ヒトラー内閣成立。演説会場へ向かうヒトラー(3)。背広にネクタイにコートをはおり歓呼の人ごみの中にはいる。晴れの日にそなえて床屋に寄ったらしく、散髪したての頭だ。ごくふつうの中年男であって、写真だけ見れば、誰もヒトラーとは思うまい。

写真(3)

写真(3)

1939年3月、ナチス・ドイツ軍がチェコのズデーテン地方へ侵攻。チェコ解体の第一歩となった。政治的整合性を図って、急遽条約の取りまとめをしたときの写真(4)である。いかなる演出もおびていない。軍幹部と打ち合わせをしているヒトラーは、厄介な仕事をしょいこんだ外務省局長クラスの役人といったところで、ここに一人の独裁者を見つけるのは難しい。

写真(4)

写真(4)

同じ39年、ナチスが設立したミュンヘン・ドイツ芸術会館において「大ドイツ芸術展」が開催され、画家フリッツ・エアラーが描いた「総統の肖像」が中央に飾られた(5)。ハインリヒ・ホフマンは左右に「アーリア系男女」のブロンズ像を配置して写真をとった。

写真(5)

写真(5)

軍帽から腕章、長靴まで、そっくりナチスの正装をしたヒトラーである。背後にシルエットの女神が、手に鷲をとまらせている。世界権力に馳せのぼる国の偉大なる指導者。そのはずであるが、肖像の与える印象は、偉大さからはほど遠い。せいぜい突撃隊長の晴れ姿といったところだ。ヒトラー自身気に入らず、展覧会終了後、おクラ入りにして、以後もついぞ肖像画を描かせなかった。

権力者には馬に乗った肖像がおなじみである。猛々しい馬にスックとまたがる雄姿は、とりもなおさず並ぶことのない権力者イメージを伝えるものだが、ヒトラーは馬にまたがったりしなかった。

一九三六年といえば、ヒトラーが政権について四年目。神がかり的な明察と決断で独裁者の評価と地位を固めたころだが、ナチスの機関紙「フュルキッシェ・べォーバハター」のグラフ版である「イルストリールテ・べォーバハター」が特集号を組んだ。タイトルは「闘争がつくりあげた顔」(6)。1916年のドイツ軍伍長時代から政党の旗上げ、武力蜂起、政党革新、内部闘争、権力の座、現況に至るまでの顔が切手状に十四点並べてある。ヒトラーの顔尽くしだが、どのように変貌しても「ふつうの人」にかわりはないだろう。若さが失せるにつれてオヤジ風になり、表情が乏しくなっていくだけの違い。

写真(6)

写真(6)

不思議な権力者なのだ。「総統」の名のもとに絶対的な独裁制を実現しながら、その顔、また顔を含めた全身は、ごくふつうの人だった。専属の写真家もまた並びない第一人者の姿を求めず、日常性の色濃いスナップ風の姿でとらえた。ふつうの家庭の延長にある中年男として撮影しつづけた。それが権力者を支えるイメージとして、もっとも有効と考えてのことだろう。

やはりこれも世界大戦に突入する直前だが、しきりに「大ドイツ帝国」といった言い方がされた。「第三帝国」が登場する前であって、第一次大戦で失った領土を回復して、大ドイツを復活させる。ヒトラーを神=創造主になぞらえて、「大ドイツ帝国創造者」とうたったポスターがつくられた(7)。国土をあらわす太線の上にハインリヒ・ホフマン撮影のヒトラーがいる。だが、そこに見る肖像は、なんと「神の似姿」から遠いことだろう。会社でいえば課長クラス、官僚でいうとリチギがとりえの係長といったところ。ごくふつうの人が大いなる国士の衣装を着ている。その写真がポスターに使われたからには、ヒトラー自身は気に入っていたからにちがいない。

写真(7)

写真(7)

独裁制を確立して以後、ドイツ経済は復調をみせ、失業者は大幅に減少した。アウトバーンの建設、平均的な市民のための小型・低価格の車フォルクスワーゲンの生産、「あらゆる環境の美化」をスローガンとする労働条件の改善、社会保障と老齢福祉の大胆な試み……。ヒトラーは病的なほど潔癖性で、工場地帯には公園や緑地帯をつくらせ、産業界に大気や環境汚染の防止を要請した。浩瀚(こうかん)なヒトラー伝の作者ジョン・トーランドは述べている。もしこの独裁者が政権4年目ごろに死んでいたら、ドイツ史上、もっとも偉大な人物の一人として後世に残っただろうーー

まさにその権力の絶頂にいたころ、ヒトラーは最初の遺言書を書き、遺体の安置の仕方から始めて、妹や異母兄、さらに従僕に至るまで、年金の額から支払いの方法まで指示していた。

敗戦前夜、ソ連軍の総攻撃にさらされたベルリンの官邸地下壕で、いずれ建築するはずだった帝国首都の模型とたわむれていた。

やはり人はヒトラーの顔を知らないだろう。おかかえ写真家の演出と、宣伝の天才ゲッベルス検閲済みのヒトラーは記憶にしみついていても、ふつうであってふつうでないヘンな男ヒトラーは知る由もない。

ヒトラーの顔の行方をたどっていくと、思いもかけない出会いをする。経歴がはっきりしないのだが、ハインリヒ・バセドゥという画家がいた。何かのときにヒトラーを見たのかもしれない。あるいはハインリヒ・ホフマンの写真をモデルにしたのだろうか。モデルと似ても似つかぬ肖像を描いている(8)。姿、いで立ちは「総統の顔」と瓜二つだが、表情は大きくちがう。魅入られたように大きくあけた両眼、表情全体は恐怖でひきつれたようなのだ。

写真(8)

写真(8)

ゲッベルスはこの異端の肖像をよろこばなかったが、破棄を命じもしなかった。そのため、もう一つの「総統の顔」として後世に伝わった。

画家クラウス・リヒター(1887〜1948)は、たまたま大本営「狼の巣」でヒトラーを見かけたという。1941年夏のこと。すぐにスケッチをとり、それをもとに油絵にした(9)。

写真(9)

写真(9)

蝋人形のような顔、焦点の定まらない目、半びらきの口。まだ「総統神話」の健在なころに、はやばやと一人の画家が独裁者の狂気をあばいていた。リヒターは用心のため、同じ絵を二点描き、べつのところに保管した。1945年、秘密警察の脅威が消えてようやく、一つの「総統の顔」が世に示された。現在は美術館ではなく、ベルリンのドイツ歴史資料館に展示されている。

くり返し言えば、われわれはヒトラーの顔を知らない。ふつうであって、かつふつうでないヒトラーを後世はやはり知らない。