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あと読みじゃんけん (12)   渡海 壮 惜檪荘だより(その1)

  • 2016年9月13日 11:10

岩波書店の創業者・岩波茂雄は太平洋戦争が始まる直前の昭和16年(1941)9月、熱海・伊豆山に別荘を建てた。眼下に熱海湾、正面には相模灘に浮かぶ初島、遠くに大島を望む絶景の地だ。設計から施工までのすべてを任された建築家・吉田五十八(いそや)は日本古来の数寄屋造を独自に改良した住宅を手がけ<近代数寄屋建築の旗手>と評された。そこに岩波が惚れこんだ。敷地内に檪(れき=クヌギ)の老木があり、それを伐ることを惜しんで建物の位置を変えたことから惜檪荘(せきれきそう)と名付けられた。竣工から70年、建物が売却されることを聞いて「番人」に名乗りを上げたのが人気時代小説作家の佐伯泰英である。『惜檪荘だより』(岩波書店)は佐伯初のエッセイ集で、主役でもある惜檪荘の歩みや、縁あって譲り受けるに至ったきっかけ、解体修復工事の一部始終を縦糸に、写真家としてスペインの闘牛を追った半生などを横糸に紹介している。

佐伯泰英著『惜檪荘だより』(岩波書店刊)

佐伯泰英著『惜檪荘だより』(岩波書店刊)

惜檪荘はJR熱海駅から東北方向に800mほど離れた熱海市海光町に建つ。昭和10年代に分譲された別荘地の一角で、当時は山本五十六の別邸、水光荘や、後年、文化勲章を受章した彫刻家・平櫛田中旧宅、野村証券創始者・野村徳七の塵外荘などが並んでいた。近年は昭和レトロの雰囲気を残す「石畳地区」として人気の観光スポットになっているが、佐伯が仕事場探しのため初めて訪れた当時は訪れる人もなく、敷地に通じる門柱の照明器具に「岩波別荘」とあるだけで「なんだ、岩波さんか」と思ったという。同じ出版界に生きる人間とはいえ、思想書や哲学書、さらには岩波文庫を中心として広く出版事業に携わるアカデミックな社風とはまるで縁がなかったからでもある。

佐伯は時代小説に転じて4、5年目、大出版社が見向きもしなかった中小出版社相手の「文庫書き下ろし」というスタイルで『密命』や『秘剣』シリーズなどを書いていた。売れなければあとがないなかで、ようやくその日暮らしを脱する目途が立ったところで、編集者との付き合いを必要最小限にし、パーティーの類いも出席したことはなかった。熱海に仕事場を持とうと考えたのは都内のマンションでの職住同居から抜け出したかったからということもあるが、都内からだと新幹線や車でわずか1時間半ほどなのに、その当時の熱海は寂れていた。「熱海の住人には叱られようが、その寂れようが気に入って熱海に白羽の矢を立てたのは生来のへそ曲がりのせいだ」という。

契約した建物は「岩波別荘」のすぐ上にあって共用の石段があり、「惜檪荘」という正式名があるのはあとから知った。仕事場からは海側に一段下がった位置にあるため、山桃や柿など木々に遮られて屋根がちらりと見えるだけで建物の全容は知れなかったが70余年の松籟を聞いてきた屋根は軽い弧を描いて、艶を漂わせて官能的であった。娘さんがインターネットで建物について書かれた本を買い集めて、岩波と吉田の頑固と意地のぶつかり合いの末に生まれた作品であることを知るにつけ「見てみたい」と希求するようになった。数か月後、惜檪荘に庭師が入っているのを見て、親方に見せてくれませんかと声をかけてみた。「家は見せることはできないが庭ならいいよ」ということで初めて敷地に足を踏み入れた感動をこう書く。

まず海が目に入った。「ええっ」と娘が絶句した。わずかに距離が離れただけで海の風景が違っていた。松の枝越しに見える相模灘、その真ん中に初島が浮かんでいた。視界を東に転じたら別の海が待っていた。真鶴半島の突端の三ツ石に白く波が洗う景色だった。(中略)惜檪荘の名の由来となった老檪は、支え木に助けられて地上二メートルのところから直角に角度を変えて横に幹を伸ばしていた。昔の写真で見るより幹は痩せ細っていた。筋肉を失い骨と皮だけになった媼(おうな)の風情、平ったい幹の所々にうろを生じさせていた。

植木屋の親方が、「隣にあるのが二代目の檪」と教えてくれた。初代が枯れることを想定して二代目が用意されたらしい。だが、私の目にはすくすくと育つ二代目より腰の曲がった初代礫がなんとも好ましく、したたかに映った。

惜檪荘は雨戸が建て回されて内部の様子は窺うことはできなかった。だが、見慣れた屋根と茶色の聚楽壁が調和した簡素な佇まい、三十坪の建物が相模灘を眼下に従えて清楚にして威風堂々としていた。雨樋を設けていないせいで屋根の庇の景色がなんとも淡麗であった。屋根を流れてきた雨を雨落ちが受ける仕組みは、建物を実にすっきり見せた。

これだけで佐伯が惜檪荘にぞっこん惚れ込んだことが伝わるが、すぐに変化があったわけではない。熱海に仕事場を設けた佐伯はますます仕事に打ち込んだ。年間の出版点数が12冊を超えて<月刊佐伯>と呼ばれ始めたころだった。自分ではさほど意識しなかったがストレスが溜まり、体調を崩してしまう。「石畳の住人」となって3年目のことだ。初めて出版各社の編集者に集まってもらい、今後の出版点数を抑制する話し合いの後、当分の静養が決まった。その夜、家族としみじみ話し合い家族が洩らした「お父さん、無理してこの仕事場を手に入れておいてよかったね」の言葉に自身も共感し、心から安堵した。毎日仕事場からぼおっと相模灘を眺めて、ジョウビタキ、目白、四十雀、雀が庭木を飛び回る風景を見ていれば心が休まった。こうしてこの石畳の風景に体調を取り戻すことができ、仕事を再開した。

岩波の代理人から惜楽荘を手放すことになりましたので隣人の皆様にはお断りをしておきますという丁寧な挨拶を受けたとき、佐伯は言葉を失った。垣根越しに季節を楽しんできた桜も、その桜に絡みついて季節の様子を見せる椿も花のつかない藤も、鳶が遊ぶ大松も、いや惜楽荘までも消えていくのかと茫然自失した。時勢が時勢だけに開発業者に渡ればその先の展開は目に見えていた。松が切られ、惜楽荘が潰され、崖地の起伏が整地されマンションが建築される。仕事場の向こうにコンクリートの塊が出現すると思うとぞっとした。恐る恐る代理人に連絡をとり、無謀な思いつきを打診してみた。

その結果、佐伯が惜楽荘の番人に就くことになり、初めて建物の内部を見ることができた。しかしこの建物をどう活用するか、どう社会に還元するかのアイデアはなかった。

戦時下、新築家屋30坪の制限があるなかで吉田は岩波の要望をすべて満たすことに全力を注いだ。

・指呼のうちに見える、大洋の青緑、初島を真正面に眺めるため、方位を三十五度東に振って建てること。
・居間はもちろん、浴室、便所、洗面所などの雑室にいたるまでいずれの部屋からも海が眺められるように平面計画を考慮すること。
・浴室の位置は、その浴槽に浸りながら寄せくる怒涛が巨巌を噛むさまを眺め得るようなところを選ぶこと。
・家全体から受ける感じを出来得るだけ簡粗にすること。

信州人であった岩波の海へのあこがれがそのまま表れたように思える。吉田も眼前に広がる相模灘と岩波の注文をどう拮抗させるかに頭を悩ませたろうが、それだけに佐伯の素人目にも、建物自体に無駄なく景観との完璧な調和があった。戦前に建築された建物は岩波という出版文化の組織と資金に庇護されていたにも拘らず、やはり目に見えないところが痛んでいた。

あらためて家族と話し合い、岩波茂雄と吉田五十八がイメージした建物へ修復しようと決心した。吉田のまな弟子の建築家と永年、惜楽荘を手入れしてきた工務店の助力を得ることができた。「なにも付け足さずなにも削らず」という修復の基本路線と「七十年の歳月が加えた景色、古色」は大事にすべきという考えでいよいよ修復工事が始まった。

(以下、続く)

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