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あと読みじゃんけん (13)   渡海 壮 惜檪荘だより(その2)

  • 2016年9月13日 22:20

実はこの『惜檪荘だより』(岩波書店)を読むまで、知らなかったというか、気付かなかったことがある。著者は人気時代小説の『酔いどれ小藤次留書』や『居眠り磐音 江戸双紙』シリーズなどで活躍しているのはご存じの通りだが、1970年代には写真家としてスペインに滞在し「黄金の時代」といわれた闘牛社会を取材していた。私は以前、鹿児島県の徳之島で「伝説の横綱」として活躍した実熊(さねくま)牛を描いた小林照幸のノンフィクション『闘牛の島』(新潮社、1997)に惚れ込み、沖縄に売られていった実熊牛の哀れな末路を追いかけたことがある。そういえば、と書庫の奥から探し出したのがこの『闘牛はなぜ殺されるか』(新潮選書)である。同一人物だったとはと不思議な偶然に驚いた。

佐伯泰英著『闘牛はなぜ殺さ れるか』(新潮選書)

佐伯泰英著『闘牛はなぜ殺さ れるか』(新潮選書)

「闘牛への招待」から始まって、地中海一帯にあった牡牛信仰、男社会から女の時代に変わる「闘牛社会の変革」、「闘牛はピカソに何を与えたか」、「闘牛はなぜ午後5時に始まるか」など微に入り細にわたり闘牛を紹介した労作である。題名の理由は、牡牛は信仰の対象で猛きものの代名詞として闘牛場の砂場に登場するが「祝祭の当然の帰結」として殺される。表舞台からラバに引かれて去ったわずか5分後には食肉として処理される。年間3万頭以上もの牛が闘い死んでいく闘牛は「スペイン文化の神髄」とされ、失業率の高い国を支える観光産業ではあるが、動物愛護の思想が強く主張されるにしたがって捕鯨反対の国際世論に押されて商業捕鯨が禁止されたように確実に衰退の道を進むだろうと示唆している。

写真家時代に佐伯が取材に同行したのは作家の堀田善衛、詩人の田村隆一、英文学者の氷川玲二らがいる。一時期、佐伯は堀田がマネージャー役の夫人と住んでいたスペイン・グラナダのマンションに運転手兼小間使いとして居候していた。いつもは寡黙でレース編みなどで静かに時を過ごしていた夫人は一度その勘気に触れると老練の編集者も出版社の重役も震え上がる。日本では永く逗子に住んでいたから「逗子のライオン」と怖れられていた。あるとき「佐伯、作家というものはね、文庫化されてようやく一人前、生涯食いっぱぐれがないものなのよ」としみじみ、そして誇らしげに呟いたという。芥川賞作家の堀田は老舗文庫に名を連ねていた。売れっ子作家は雑誌連載をハードカバーに纏め、さらに数年後か十数年後に、読者と識者の厳しい目に曝され、価値を認められた本が「古典」として文庫化されるのだと言いたかったわけである。田村からは詩人らしくあれこれあった人間関係を学んだ。スペインで知り合った氷川とはその生前20年ほどの付き合いがあり、文章の手ほどきを受けた。いまでも覚えているのは「原稿用紙でもいい、初校ゲラでもいい。一見して黒っぽく感じたら、こなれた文章ではないということだ」と教わった。こうしたエピソードが惜檪荘修復のさまざまな場面に挿まれているから、単に熱海での専門家を巻き込んだ純粋な工事進行の紹介にとどまらず飽きさせない。

佐伯はなぜ仕事場の条件として「海の見える地」を選んだかについてあらためて書く。スペイン時代にお金の工面を願った佐伯に母親は「先祖は豊後の大友宗麟配下の地下者(じげもん)で、天正年間、薩摩に追われて肥後に逃げた一族であるから恥ずかしい真似だけはするな」と手紙で説諭した。豊後はリアス式海岸の海の国、南蛮に憧れを抱いたキリシタン大名の大友宗麟が活躍した地である。佐伯は福岡県の旧八幡市折尾(現・北九州市)生まれで「幼い頃は海への思い入れが格別にあったとは思えないが後年、時代小説を書くようになった時、豊後を迷うことなく物語の舞台に選んだ。スペインに憧れたのも宗麟が夢半ばにして潰えた野望を思うてか。また海を想う気持ちも海の民の豊後者だからか、ともかく私の体内にも同じ血が流れていて海に憧憬を抱いたのだと勝手に考えている」と。だからか、『酔いどれ小藤次』の主人公赤目小藤次にしても豊後森藩ゆかりで『居眠り磐音』の坂崎磐音は架空だが豊後関前藩中老の嫡男という設定だ。

修復工事に戻ろう。建築当時の設計原図は吉田が描いた22枚のスケッチが東京芸大建築学科に残されていたが、現況の「実測図」を起こすことからはじめられた。窓の金具から戸車にいたるまで原寸大で、さらに床下と天井にはカメラを入れて現況を出来るだけ正確に把握することが進められた。吉田は京都からわざわざ職人を呼んでさまざまな工夫を凝らした。なかでも洋間の開口部は、雨戸、網戸、ガラス戸、障子、それぞれ3枚、計12枚の戸をすべて戸袋に仕舞うことで創られた開口部=額が醸し出す壮大な「絵」でまさに<十二単>を思わせた。のちに岩波ホールの支配人岩波律子に聞いたエピソードが紹介されている。ここに一夜泊ったポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ夫妻が窓からの眺めに感動した。日本画、なかでも浮世絵にも関心があった監督の絵には歌川広重風の斜めに突き刺さる雨が描かれていた。<吉田の黄金比率>ともいわれる横広のガラス窓をそのまま額縁に見たてたか。静的な雨だれよりもあえて広重の動的な雨を描くことで滞在記念の絵にダイナミズムの息吹を与えている。

工事はまず、洋間の床板のチーク材が一枚一枚丁寧に剥がされてナンバーが打たれた。吉田デザインの応接セット、文机、天井の照明器具も取り外され修理技術のある高島屋(=デパート家具部)に預けられた。すべての建具、部材、建物の解体から始まり、例えば石畳は庭の一角に砂を敷き詰めた「仮置場」が作られてそのままの配置で移動、保存された。上棟式には岩波家からワイダ監督が描いた絵と岩波茂雄と親交があり惜楽荘にも縁があった安倍能成の書が届けられた。

長く続いた再建工事については詳細にわたり過ぎることもあるからあえて紹介しない。この間、佐伯に前立腺がんが見つかって手術したり、その気分転換のためにベトナムに旅行したりとさまざまあったが、特筆しておきたいのは佐伯を大いに力づけた俳優・児玉清の存在だろう。古今東西の書物を読破し続けた児玉には『寝ても覚めても本の虫』(新潮文庫)などの著書がある。『居眠り磐音』シリーズが15巻に達した新聞対談が初回だった。児玉は幼い頃、講談本を愛読していて時代小説に親近感を持っており、佐伯の著書を読破していた。いつの日か時代小説を書こうと思っている。それを文庫書き下ろしでねと、どこか引け目を感じていた佐伯の胸中を見抜くように「面白いからこそ読者の支持を受け、売れるんです。悔しかったらキャッシャーのベル(会計レジの音)を鳴らす作家になれということですよ。作家は読者に支持されてなんぼの存在です」と喝破した。児玉はその後も年2回のペースで佐伯と対談し、以来、会うたびに同じ言葉を吐いて鼓舞してくれたばかりでなく、いろいろなところで『居眠り磐音』は面白いよと宣伝これ努めてくれたお陰で、二百万部だったシリーズ累計が五百万部を超え、一千万部に化けた。いわば大恩人である。惜檪荘の洋間で行われたNHKのテレビドキュメンタリーでは「佐伯さん、これはやりがいのあるすばらしいプロジェクトです」とその決断を認めてくれたのに楽しみにしていた完成披露を待たずに亡くなった。

完成した惜檪荘のたたずまい

完成した惜檪荘のたたずまい

惜檪荘の修復落成式は平成23年(2011)10月13日に行われた。付き合いのある編集者、岩波家と岩波書店関係、不遇な時代を支えてくれた友人知人たちだけで60名になった。そうなると惜楽荘での飲食はできないので、建物見学のあとは近くのレストランでの宴となった。出版関係では角川春樹事務所の御大自ら出席し、乾杯の音頭をとってくれるということが知れると、他社も「うちも幹部を」となったが、それをすべて断ったのも佐伯流だった。当日は曇り空で宴が始まる頃には雨が降り出した。主賓の角川は「新たに惜楽荘主人に就いた佐伯は、時代小説に転じた当初から売れたわけではありません。うちでハードカバーとして出した『瑠璃の寺』は全く出ませんでした、はい。ところが文庫化すると動き出した」とスピーチした。児玉の令息で当時はタレントだった北川大裕も児玉の元マネージャーと出席してくれて降り続く雨を「これは父が流すうれし涙の雨です。おれもこの場に居たかったという雨です」と佐伯を感動させた。なかでも場を盛り上げたのが司会に指名された某社の文庫担当だった。佐伯が考えもしなかったほどの「あがり屋」で、冒頭から惜檪荘を「落石荘」と言い間違え、佐伯を「そ、それでは落石荘番人の・・・」と失笑ならぬ爆笑を誘って会場を大いに和ませた。それもあってではなかろうが、文庫版には背と表紙に、単行本では帯だけにしかなかったルビがふってある。

佐伯泰英著『惜檪荘だより』(岩波現代文庫)

佐伯泰英著『惜檪荘だより』(岩波現代文庫)

あと読みじゃんけん (12)   渡海 壮 惜檪荘だより(その1)

  • 2016年9月13日 11:10

岩波書店の創業者・岩波茂雄は太平洋戦争が始まる直前の昭和16年(1941)9月、熱海・伊豆山に別荘を建てた。眼下に熱海湾、正面には相模灘に浮かぶ初島、遠くに大島を望む絶景の地だ。設計から施工までのすべてを任された建築家・吉田五十八(いそや)は日本古来の数寄屋造を独自に改良した住宅を手がけ<近代数寄屋建築の旗手>と評された。そこに岩波が惚れこんだ。敷地内に檪(れき=クヌギ)の老木があり、それを伐ることを惜しんで建物の位置を変えたことから惜檪荘(せきれきそう)と名付けられた。竣工から70年、建物が売却されることを聞いて「番人」に名乗りを上げたのが人気時代小説作家の佐伯泰英である。『惜檪荘だより』(岩波書店)は佐伯初のエッセイ集で、主役でもある惜檪荘の歩みや、縁あって譲り受けるに至ったきっかけ、解体修復工事の一部始終を縦糸に、写真家としてスペインの闘牛を追った半生などを横糸に紹介している。

佐伯泰英著『惜檪荘だより』(岩波書店刊)

佐伯泰英著『惜檪荘だより』(岩波書店刊)

惜檪荘はJR熱海駅から東北方向に800mほど離れた熱海市海光町に建つ。昭和10年代に分譲された別荘地の一角で、当時は山本五十六の別邸、水光荘や、後年、文化勲章を受章した彫刻家・平櫛田中旧宅、野村証券創始者・野村徳七の塵外荘などが並んでいた。近年は昭和レトロの雰囲気を残す「石畳地区」として人気の観光スポットになっているが、佐伯が仕事場探しのため初めて訪れた当時は訪れる人もなく、敷地に通じる門柱の照明器具に「岩波別荘」とあるだけで「なんだ、岩波さんか」と思ったという。同じ出版界に生きる人間とはいえ、思想書や哲学書、さらには岩波文庫を中心として広く出版事業に携わるアカデミックな社風とはまるで縁がなかったからでもある。

佐伯は時代小説に転じて4、5年目、大出版社が見向きもしなかった中小出版社相手の「文庫書き下ろし」というスタイルで『密命』や『秘剣』シリーズなどを書いていた。売れなければあとがないなかで、ようやくその日暮らしを脱する目途が立ったところで、編集者との付き合いを必要最小限にし、パーティーの類いも出席したことはなかった。熱海に仕事場を持とうと考えたのは都内のマンションでの職住同居から抜け出したかったからということもあるが、都内からだと新幹線や車でわずか1時間半ほどなのに、その当時の熱海は寂れていた。「熱海の住人には叱られようが、その寂れようが気に入って熱海に白羽の矢を立てたのは生来のへそ曲がりのせいだ」という。

契約した建物は「岩波別荘」のすぐ上にあって共用の石段があり、「惜檪荘」という正式名があるのはあとから知った。仕事場からは海側に一段下がった位置にあるため、山桃や柿など木々に遮られて屋根がちらりと見えるだけで建物の全容は知れなかったが70余年の松籟を聞いてきた屋根は軽い弧を描いて、艶を漂わせて官能的であった。娘さんがインターネットで建物について書かれた本を買い集めて、岩波と吉田の頑固と意地のぶつかり合いの末に生まれた作品であることを知るにつけ「見てみたい」と希求するようになった。数か月後、惜檪荘に庭師が入っているのを見て、親方に見せてくれませんかと声をかけてみた。「家は見せることはできないが庭ならいいよ」ということで初めて敷地に足を踏み入れた感動をこう書く。

まず海が目に入った。「ええっ」と娘が絶句した。わずかに距離が離れただけで海の風景が違っていた。松の枝越しに見える相模灘、その真ん中に初島が浮かんでいた。視界を東に転じたら別の海が待っていた。真鶴半島の突端の三ツ石に白く波が洗う景色だった。(中略)惜檪荘の名の由来となった老檪は、支え木に助けられて地上二メートルのところから直角に角度を変えて横に幹を伸ばしていた。昔の写真で見るより幹は痩せ細っていた。筋肉を失い骨と皮だけになった媼(おうな)の風情、平ったい幹の所々にうろを生じさせていた。

植木屋の親方が、「隣にあるのが二代目の檪」と教えてくれた。初代が枯れることを想定して二代目が用意されたらしい。だが、私の目にはすくすくと育つ二代目より腰の曲がった初代礫がなんとも好ましく、したたかに映った。

惜檪荘は雨戸が建て回されて内部の様子は窺うことはできなかった。だが、見慣れた屋根と茶色の聚楽壁が調和した簡素な佇まい、三十坪の建物が相模灘を眼下に従えて清楚にして威風堂々としていた。雨樋を設けていないせいで屋根の庇の景色がなんとも淡麗であった。屋根を流れてきた雨を雨落ちが受ける仕組みは、建物を実にすっきり見せた。

これだけで佐伯が惜檪荘にぞっこん惚れ込んだことが伝わるが、すぐに変化があったわけではない。熱海に仕事場を設けた佐伯はますます仕事に打ち込んだ。年間の出版点数が12冊を超えて<月刊佐伯>と呼ばれ始めたころだった。自分ではさほど意識しなかったがストレスが溜まり、体調を崩してしまう。「石畳の住人」となって3年目のことだ。初めて出版各社の編集者に集まってもらい、今後の出版点数を抑制する話し合いの後、当分の静養が決まった。その夜、家族としみじみ話し合い家族が洩らした「お父さん、無理してこの仕事場を手に入れておいてよかったね」の言葉に自身も共感し、心から安堵した。毎日仕事場からぼおっと相模灘を眺めて、ジョウビタキ、目白、四十雀、雀が庭木を飛び回る風景を見ていれば心が休まった。こうしてこの石畳の風景に体調を取り戻すことができ、仕事を再開した。

岩波の代理人から惜楽荘を手放すことになりましたので隣人の皆様にはお断りをしておきますという丁寧な挨拶を受けたとき、佐伯は言葉を失った。垣根越しに季節を楽しんできた桜も、その桜に絡みついて季節の様子を見せる椿も花のつかない藤も、鳶が遊ぶ大松も、いや惜楽荘までも消えていくのかと茫然自失した。時勢が時勢だけに開発業者に渡ればその先の展開は目に見えていた。松が切られ、惜楽荘が潰され、崖地の起伏が整地されマンションが建築される。仕事場の向こうにコンクリートの塊が出現すると思うとぞっとした。恐る恐る代理人に連絡をとり、無謀な思いつきを打診してみた。

その結果、佐伯が惜楽荘の番人に就くことになり、初めて建物の内部を見ることができた。しかしこの建物をどう活用するか、どう社会に還元するかのアイデアはなかった。

戦時下、新築家屋30坪の制限があるなかで吉田は岩波の要望をすべて満たすことに全力を注いだ。

・指呼のうちに見える、大洋の青緑、初島を真正面に眺めるため、方位を三十五度東に振って建てること。
・居間はもちろん、浴室、便所、洗面所などの雑室にいたるまでいずれの部屋からも海が眺められるように平面計画を考慮すること。
・浴室の位置は、その浴槽に浸りながら寄せくる怒涛が巨巌を噛むさまを眺め得るようなところを選ぶこと。
・家全体から受ける感じを出来得るだけ簡粗にすること。

信州人であった岩波の海へのあこがれがそのまま表れたように思える。吉田も眼前に広がる相模灘と岩波の注文をどう拮抗させるかに頭を悩ませたろうが、それだけに佐伯の素人目にも、建物自体に無駄なく景観との完璧な調和があった。戦前に建築された建物は岩波という出版文化の組織と資金に庇護されていたにも拘らず、やはり目に見えないところが痛んでいた。

あらためて家族と話し合い、岩波茂雄と吉田五十八がイメージした建物へ修復しようと決心した。吉田のまな弟子の建築家と永年、惜楽荘を手入れしてきた工務店の助力を得ることができた。「なにも付け足さずなにも削らず」という修復の基本路線と「七十年の歳月が加えた景色、古色」は大事にすべきという考えでいよいよ修復工事が始まった。

(以下、続く)