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ヒトラーの時代(18) 池内 紀

  • 2016年9月1日 14:34
ヒトラーの時代

ヒトラーの時代

二人のワグネリアン

―ヒトラーとトーマス・マン―

ヒトラーは大のワーグナー好きだった。世にいう「ワグネリアン」である。自分では二十代のはじめにミュンヘンで「開眼した」と述べている。ウィーンの美術学校をあきらめ、3年あまりの浮浪者暮らしののち、晴れて父親の遺産を受ける年齢となり、支払通知を懐に忌まわしいウィーンを去ってミュンヘンへ出てきて以後のことだろう。当人の言葉以外、ほとんど資料のない時期であるが、1913年から第一次世界大戦の始まる14年8月あたりと思われる。

R・ワーグナー

R・ワーグナー

ワーグナーの死(1883年)以後、バイロイトの音楽祭は妻コジマ・ワーグナーが運営していた。赤字つづきで7月の開催を見送った年もあったのは、ワーグナー自身の考えから、出し物が「ニーベルンクの指輪」と「パルジファル」にかぎられていたせいもあったと思われる。二本だけで音楽祭を維持するのは難しい。あとを継いだコジマ・ワーグナーは順次、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「タンホイザー」「ローエングリーン」を追加して人気を高めていった。

コジマの死(1906年)ののちは、ワーグナーの息子ジークフリートが総監督の座についた。バイロイト音楽祭が世界的な評価を得るのは、このジークフリートの時代からである。みずから作曲家、演出家である一人息子は、1924年、世界大戦で閉鎖していたバイロイト歌劇場を再開。新しく「トリスタン」を加えるかたわら、全レパートリーにわたり、大胆な演出と斬新な意匠、舞台装置、一流揃いのスタッフで、バイロイトのイメージを一新した。

新総監督が世間にとりざたされてきたのは、ミュンヘンの新興政党NSDAP(国民社会主義労働者党)が、しだいに人をとらえはじめた時期にあたる。党首ヒトラーの演説が評判を呼び、毎回数千人もが駆けつけ、ミュンヘン最大の会場を埋めつくす。

演説だけではなかった。演出がうまいのだ。集会の始まりと終わりに楽隊がハデな行進曲を演奏した。党首の登場にあたっては、ベートーヴェンやワーグナーが鳴りわたった。登壇を名曲がつきそい、壇上に立つやいなやピタリとやんだ。

バイロイトが再開したころ、ヒトラーは政治犯としてランツベルグ刑務所にいた。前年のミュンヘン一揆は失敗。逃走ののち逮捕され、入獄中に秘書役をつとめたルドルフ・ヘスに『わが闘争』を口述した。1924年12月、出獄、直ちに党の革新に着手し、武力放棄、合法政党へと再編した。

ヒトラーが7月のバイロイト詣でを恒例とするようになったのは、新ナチ党誕生に際してである。「血統書つきのワグネリアン」を公言し、音楽祭出席のみならず、ワーグナー一家の住居であるヴァーンフリートを訪ね、家族ぐるみの知己を得た。

ジークフリート・ワーグナーの妻はイギリスの生まれで、ヴィニフレートといった。夫とは二十八の年齢のへだたりがあり、ヒトラーと出会ったとき、二十七歳だった。若い野心家の夫人は、新興党首によほど強い印象を受けたのだろう。1926年、ナチ党に入党。夫のジークフリートの死(1930年)以後は、バイロイトの総監督をつとめた。おのずとワーグナーは「ナチス御用達」音楽家の性格を強めていった。

ミュンヘンにもう一人、大のワグネリアンがいた。作家トーマス・マンである。1875年の生まれ。ヒトラーより十四歳年長にあたる。「血統書つき」というなら、こちらのほうがはるかに由緒深い。十代のころ、生地リューベックの市立劇場でワーグナーのオペラを見た。壮大な音楽のもとに神々や妖精が自在に出入りする楽劇は、少年の魂を魅了した。

ミュンヘンのプリンツ・レツェンテン宮廷劇場ポスター

ミュンヘンのプリンツ・レツェンテン宮廷劇場ポスター

生家が没落してミュンヘンに移ってより、プリンツ・レツェンテン宮廷劇場がトーマス青年の行きつけの場所になった。ワーグナーがかかれば何度でも出かけていく。作家マンの実質的なデビュー作は長編『ブッデンブローク家の人々』だが、ちょっとした人物のやりとりにもワーグナーが顔を出す。

若いころの短編の一つは、文字どおりワーグナーを借りて「トリスタン」と題されていた。「ヴェルズンクの血」はワーグナーに題材をとっている。代表作『魔の山』には、バックミュージックのようにして「タンホイザー」が鳴りひびいている。晩年の大作『ヨーゼフ四部作』には、『指輪』四部作のワク取りを借りた。

マン自身、青春時代を回想したなかに述べている。

「要するに私はワーグナー心酔者でした」(「来るべき人間主義」)

執筆中でもラジオからワーグナーが流れてくると、直ちにペンを休めて耳を傾けずにいられない。友人と夜のディナーをともにするときなど、興に乗ると「ラインの黄金」の最後のメロディーを口ずさんだ。旅行中にライン河の支流がうねっているのを目にとめると、すぐさま「ローエングリーン」の中のシェルデ川を思い出す人だった。

ミュンヘンの「二人のワグネリアン」は目に見えない糸に結ばれている。いまも述べたとおり、1924年はバイロイト音楽祭再開の年であるが、これはヒトラーが党の再編にとりかかった年でもある。トーマス・マンにとっては『魔の山』誕生の年だった。

1929年、トーマス・マンはノーベル文学賞を受賞した。この年、世界恐慌に対応してヒトラーのナチスが群小政党から一気に政権を狙える政党に駆け上がった。作家マンはさっそく短篇「マリオと魔術師」で、やたらに過激なことを叫ぶデマゴーグを揶揄した。揶揄にとどめたのは、早急に消え失せるキワモノと信じていたからだろうが、予測はまちがっていた。ナチス支持は選挙のたびに倍々ゲームのように増えていった。

1933年一月、ヒトラーが政権についた。2月、マンはミュンヘンでワーグナーをめぐる講演をした。その足でベルギー、フランスを巡る講演旅行に出発。旅行を終えてミュンヘンにもどるはずだったが、それが十二年間に及ぶ亡命生活の始まりになってしまった。

講演のタイトルは「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大」だった。地元ミュンヘンのゲーテ協会の主催、ミュンヘン大学の大講堂をかりて開かれた。タイトルの言うとおり、芸術家ワーグナーの苦悩と偉大さを語るものだが、実際はべつの苦悩が主なテーマになった。

マンにとっては意味深い芸術家の偉大な作品が、一政党の引き立て役に使われているのが我慢ならない。ヒトラーによる稚拙なワーグナー偶像化と政治的悪用を痛烈に批判した。さらにナチスは、ワーグナー楽劇の素材になったゲルマン神話こそ、ナチズムのめざす「ドイツ文化」の精髄であって、ワーグナーはナチズムの精神的先覚者だと主張しはじめており、マンはそのことにも立ち入って批判した。

ヒトラーが政権の座についたのは、マンの講演の十日前である。権力を握ったからには、行動は迅速だった。マン自身は知るよしもなかったが、SS(親衛隊)が動き出し、ノーベル賞作家の公的行為が「非ドイツ的」「国家反逆」「マルクス主義的」とする書類を作成、バイエルン秘密警察に提出した。講演旅行から帰りしだい、「保護拘留」の名のもとに逮捕する手はずになっていた。

トーマス・マンには長男クラウス、長女エーリカという有能な息子、娘がいた。クラウス・マンは当時、新進作家また雑誌編集者であり、エーリカは文筆のかたわら、反ナチの運動家として知られていた。二人は父親に先立ってフランスに亡命していたが、本国ドイツに強いネットワークをもっており、最新の情報にくわしかった。権力者に成り上がった党派に対する仮借ない批判が、どのような権力側の反応を引きおこすものか、手にとるようにわかっており、母をともなって講演旅行に出た父親に、祖国に帰ってはならないことを説いてきかせた。即座の逮捕が待っている。そのあとは強制収容所送り。

マン夫妻は小旅行のつもりで家を出た。暮らしと仕事の全てを家にのこしている。マンの書卓には、書きかけの小説草稿がひろげられたままになっていた。とにかく一度、我が家に立ちもどり、準備を整えた上で亡命の途につく。その予定を先に伝えていた。

どのようなやりとりがあってマン夫妻が帰国を断念したのか、くわしいことはわからない。トーマス・マンは若いころから日記をつけており、そこに委細が記されていたはずだが、日記は二度にわたってマンが自分で焼却した。わずかな例外をのぞき、残されている日記は、1933年3月10日以降のみである。だから推測するしかないのだが、両親と息子・娘間には、封印された我が家の処置、重要書類の持ち出しなどをめぐり、慌ただしくやりとりが交わされ、マン夫妻はひとまずスイスに滞在することになった。亡命というのは、ふつう熟慮と慎重な準備の上になされるものだが。トーマス・マンはもっとも軽装の身で祖国喪失に追いやられた。

スイスに落ち着いて、ひと月ばかりのちの日記。

「嫌悪と恐怖のまじり合った激しいショックは、きのう一日中その影を落としていた」(1933年4月)

「ワーグナー都市ミュンヘンの抗議」新聞掲載の宣言

「ワーグナー都市ミュンヘンの抗議」新聞掲載の宣言

亡命地に奇妙なニュースがもたらされた。講演で用いたワーグナー論文に対して、「ワーグナー都市ミュンヘンの抗議」と題する宣言が、ミュンヘンの新聞に掲載され、ラジオでも放送されたという。宣言にはマンの知人、またこれまで友人として振る舞っていた人たちが多数署名している。「嫌悪と恐怖」はそのことを指している。多年にわたり友情とみなしていた人間的なつながりは、はたして何だったのだろう?

新しい権力に迎合する動きが、いっせいに始まった。「激しいショック」は亡命初期の精神状態のせいだろう。マンはすぐさま立ち直り、一つのテーマを思いついた。ナチス・ドイツにおけるワーグナー関係のニュースは、なるたけ漏らさず日記に書きとめておく。人間識別のリトマス試験紙になるからだ。たとえば前月の三日、ワーグナーの演奏曲目について宣伝大臣ゲッベルスが介入してきたことに対して、指揮者ブルーノ・ワルターは異議を唱えてポストを失い、リヒャルト・シュトラウスがポストを得た。さらにナチスのイベント用に「マイスタージンガー」の指揮を言われたとき、トスカニーニは断り、フルトヴェングラーは承諾した。マンは日記に書いている。

「このお先棒かつぎども奴(め)」

世俗のことに加えて、おりにつけ日記にワーグナー批判が書きとめてある。ワーグナーの実態を述べることによって、これに寄りそたナチズムの実態を暴くことができるからだ。ワーグナー特有の恣意的な神話の使い方、大げさなロマン主義、度しがたい反ユダヤ主義と小市民的怨念。ワーグナーについて言えることは、より野蛮なかたちでナチズムに通用する。

「……この小市民的なワーグナーが事実国民社会主義をどれだけ先取りしているのか、ぞっとするような気持ち」(1935年2月)

ヒトラーのバイロイト詣でを年代記で見てみよう。政権一年目の1933年。

「7月22日〜30日 ヒトラー、例年のバイロイト音楽祭に出席、ワーグナー家をたずね、ウィニフレート・ワーグナーと親しく話をする。」

トップがワーグナー狂であれば、部下はお追従をする。音楽祭の期間は、ナチス行政府がバイロイトに引っ越した感を呈した。

政権2年目の1934年。

「7月22日 ヒトラー、ワーグナー音楽祭に参列のためにバイロイトに到着。」

三夜目の25日は「ラインの黄金」だった。その観劇中に、オーストリア首相ドルフスがオーストリア・ナチスによって暗殺されたとの一報が入った。ドルフスはムッソリーニの盟友であり、ナチス・ドイツは何としてもムッソリーニとの良好な関係を損ないたくない。ヒトラーはバイロイトから指令して、オーストリア・ナチスの地方責任者を罷免、オーストリア・ナチスとの絶縁を声明した。

一年とんで一九三六年は、スペイン内戦が拡大していく只中だった。

「7月19日 (スペイン全土で大内乱に戦火拡大始まる)ヒトラー、ベルリンを離れ、バイロイトでの恒例の音楽祭に出席。」

さすがに3日間で切り上げて、オーバーザルツブルグの私邸に移った。

ワーグナーに対する痛烈な批判を書きつらねながらも、ワグネリアン・マンの日記には、次のような記述がまじりこむ。

「『トリスタン』第一幕のいくつかの場面を感嘆しつつ聴く」(1934年7月)

どんなに政治的に悪用されても、音楽そのものは悪魔的に美しい。

「夕食後ワーグナーのレコードをかけ、『ラインの黄金』の終曲部に感動」(1936年5月)

「バイロイトから『ローエングリーン』の終曲を聴く。洗練された要素と灰色の要素とのおぞましい混淆」(一九三七年七月)

この日記は7月24日、土曜日の日付。バイロイト音楽祭初日であって、マンは亡命先のラジオで聴いた。日記にしばしば「(ラジオの)調子悪し」とあるのは、古ぼけたラジオだったようだ。

同じ年の同じ日の独裁者ヒトラー。

「7月23〜30日 ヒトラー、バイロイトでの恒例の音楽祭に出席。」

首相の到来に合わせ、ヴィニフレート・ワーグナー主催の晩餐会が開かれた。ゲーリング以下、ナチ党幹部全員が出席。ナチス・ドイツにとってバイロイトは音楽聖地であり、ヒトラーは手厚い物心両面の援助を約束していた。歌劇場正面の貴賓席がお歴々に用意されており、ヒトラーは美しい総監督直々の接待を受けながらワーグナーをたのしんだ。

そのコンサートの実況を、トーマス・マンはラジオで聴いた。両手で古ラジオを抱くようにして耳をすませていた。貴賓席で得意満面の独裁者と、亡命先の粗末なラジオにじっと耳を傾けているノーベル賞作家。はからずもワーグナーが、皮肉な歴史の断面を、かいま見させてくれるのである。

【注・トーマス・マンの引用は『トーマス・マン日記』(全十卷・森川俊夫ほか訳・紀伊国屋書店刊)、ワーグナーの年代記は阿部良男『ヒトラー全記録』(柏書房)による】