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新・気まぐれ読書日記 (41)  石山文也 旅の食卓

  • 2016年9月27日 16:20

北海道の石狩鍋から九州屋久島の焼酎を使った豚骨まで、紹介される「忘れられない味」はどれもが思わず<食欲が湧いてくる>のが不思議だ。エッセイストでドイツ文学者、池内紀のおとなの旅日記『旅の食卓』(亜紀書房)は、写真ひとつないのにそう思わせるのはなぜだろう。高級旅館や一流ホテル、料亭などはいっさい登場しない。ふるさとの風土と人々が育て守ってきた<庶民の味>ばかり。さあ、あなたならどれを味わう旅に出ますか?

池内紀著『旅の食卓』(亜紀書房刊)

池内紀著『旅の食卓』(亜紀書房刊)

著者は1940年生まれであるという。

食べざかりが戦後の窮乏期ときている。ひもじい思いをかみしめながら成長した。腹がへると、おなかが声を上げることをよく知っている。「グー」とうなったり、「クエー」と叫んだり、「グワー」とうめいたりする。子ども心にカラっぽの胃袋の中で腹の虫が七転八倒している姿を想像した。だから、グルメ自慢ではなく庶民の味をおいしく食べることに人一倍情熱を傾ける。「おいしく食べる秘訣は何?」と聞かれれば迷わず「腹が減っていること」と答える。少年期に身にしみて知ったとおり、空腹はいかなる料理にもまさる味つけをする。

たしかにそうである。著者がいう「わがルール」の一つがそこから生まれた。

「食事は三度ではなく朝夕の二度、省いた一度分は、空腹をもたらす調味料」。

そ、そこまではちょっと・・・

『石狩川と鮭』は、石狩川の下流域、石狩平野のまん中あたりにある当別町のビジネスホテルを足場にして3泊の取材行である。石狩川はアイヌ語の「非常に屈曲する川」を意味するイ・シカリ・ベツに由来するそうで北海道中央部の石狩岳を水源にして平野部に入って蛇行を繰り返しながら日本海に注ぐ。長さは信濃川、利根川につぎ国内3番目、流域面積は利根川についで2番目、日本を代表する大河である。道内きっての穀倉地帯となった現在からは想像できないが、探検家近藤重蔵が明治政府に提出した報告書には「水源までおよそ百里の間、左右うち開け候は平地沃野のみにて樹木鬱茂、夷人所々に住居、川上まで夷人粮魚(りょうぎょ)おびただしくこれあり」とあると紹介する。

ここでいう粮魚の代表はもちろん鮭である。ビジネスホテルのフロントには、第二、第三のおつとめといったタイプの年輩者がおられるもので、土地のこと、また夜の居酒屋にくわしい。そんな人の助言をかりる場合は知ったかぶりをしないこと。素直にきいてメモをとったりしていると、親身になって教えてもらえるというのが池内流の極意だ。「アキアジ(=鮭)ならここ」、「石狩鍋ならこちら」と地元イチ押しの店を地図にしるしをつけてもらうと、いざ出陣!

石狩鍋は漁師が食べていたのをそれぞれの料理店がメニューに取り込み工夫をこらした。はじめは単に鮭鍋、あるいはドンガラ鍋と言っていたものが、いつのころからかこの名前に落着き、北海道の鍋料理の代表になった。一番の特徴は、鮭の身だけでなく、頭も背骨も内臓も全部入れこむこと。生鮭の「あら」がうまいのだ。その点でいくと、「ドンガラ」の言い方がもっとも合っていた気がする。

ここまで書いたら何度か味わった店自慢の「合わせ味噌」と適度に煮込んだ野菜、蓋を取ったらグツグツ煮立つ音と鮭のあのじんわりした香りを思い出した。人気番組の裏アナウンサーではないが「もう、たまりませーん」。

二日目は少しはりこんで鮭料理のコース。はじめに背ワタの塩辛「めふん」、鮭味噌、塩引き鮭の焼物、飯(い)寿司、かじ煮、焼き漬、骨せんべい、酒びたし・・・。すべて鮭づくし。欲ばって平らげたので、腹を撫でながら、軒につるされた鮭のように口をアングリあけてホテルに戻ってきた。

当然ながら<食レポ>に留まらない。北海道に移住した元佐賀藩士で開拓者の子としてこの地に生まれたプロレタリア作家、本庄陸男(1905-1939)を取り上げる。肺結核により35歳で亡くなる前年の昭和13年(1938)に『石狩川』を発表した。これが代表作になる。本庄は石狩川を一つの川ではなく、生死のはじめから語られた大いなる生きものであって、野の生きものと同じように季節ごとに姿を変える存在と書いた。冬は冬眠である。

「イシカリの原野を二つに区切るこの大河も冬は眠って了うのであった。水は底ひくくもぐって鳴りをひそめた。その上に雪が降り積っていた。川も全く姿をかくしていた」

そっと春の息吹がただよってくると、川がムックリと目をさます。雪が沈んで川筋を見せ始める。

「ぶきみな音を、うおンうおンと響かせる。閉めつけた凍氷を呪うような叫びが聞こえる。やがて春は、下から、地のなかからも来るのであった」

三日目もまた鮭料理、いささか食傷気味だったが教わった店に出かけた。鮭の店で鮭を避けるのは失礼なので三日続きであることを断わって「とびきりをちょこっと」と注文した。頭に白い鉢巻をした主人は頬をふくらませて思案してから、小皿をいくつか並べてくれた。串に刺した鮭の心臓の塩焼き、軟骨の「ひず」、皮とすり身とはらこを一緒に煮た「こかわ煮」、白子の刺身、みそ汁には内臓が入っていた。

なんともうらやましい「鮭修行」ではないか。

『播州のそうめん丼』では生まれ故郷だけに、生産地の中心の「龍野そうめん」のうんちくが面白い。銘柄は市中を流れる揖保川にちなむ「揖保乃糸」だけ。手延べそうめんは播州のあちこちでつくられているが、龍野にある兵庫県手延素麺協同組合が一手に製品を管理して、合格したものをこのブランドで出荷するからだ。もうひとつ、龍野で有名な醤油は協同組合の大工場が、麹づくり、仕込み、醗酵、圧搾までの工程を一手にやって「生(き)揚げ」と呼ばれる醤油のもとにする。そののち、配分された各社で独自の味つけをしてそれぞれの銘柄で市場に出荷する。地場産業ならではの知恵だ。私の知る奈良大峰山の登り口、天川村に共同の製造所がある伝統薬の「陀羅尼助(だらにすけ)」は醤油方式に近い。下痢止めや胃薬として用いられ<和薬の元祖>といわれる。丸薬にしたのが飲みやすさから今は製造の主流となった「「陀羅尼助丸」である

「そうめん丼」は龍野のうどん屋でたまたま食したそうで、丼鉢にごはんを盛り、上から野菜をたっぷり入れた味噌汁仕立のそうめんをぶっかける。「冷や飯に熱い汁がしみて、なんともうまい」という。ふー。

もうひとつ、『長崎のカツ丼』はこうだ。

まず容器がいい。丼は丼鉢がつきもので、大ぶり、厚手、まん丸い蓋付き。全体がお多福の頬のように福々しい。おいしく食べるということの幸せを、まさしく容器であらわしていて、アツアツを、しばらくうれしく撫でまわしている。蓋をとると、フワリと湯気が立ちのぼる。いっしょに仄かな匂いが鼻をくすぐりにくる。知られるとおり丼物は上の具と下の飯からなりたっており、正確にいうと、下の飯は二種類あって、おしるのしみたところと、しみていない白いごはんのところとがある。わが独断であるが、その比率七・三といったところが望ましい。おしるのしみていない白いごはんが大切なのだ。三くち四くちとしみたのが続くと、舌が重くなる。そんなとき白いごはんを口に運ぶと、舌が浄められたぐあいで、味覚が再び活気づく。

おしんこをつまんでひと息入れ、目分量で勘案する。具の残り、おしるのしみた残り、白いごはんの残りと、せわしくかきこんでいるようでも、きちんと味と量の配分をしながら、一つぶ残さず、きれいにたいらげた。丸い丼物はそれ自体が胃袋の形と似ており、中身がそっくり鉢から袋に移動した。手にした鉢の重みが胃袋に移り、鉢にしたのと同じように、われ知らず腹を撫でていた。

おっと忘れるところだった。巻末に特別付録:イケウチ画伯謹製「旅の絵はがき」3葉が付いている。旅先で思い出した誰かさんにあなたの「旅日記」を出すというのも一興かもしれない。

(こちらもお腹が空いたので)ではまた

新・気まぐれ読書日記 (40) 石山文也 残夢の骸

  • 2016年9月21日 15:26

『残夢の骸』(新潮社)は船戸与一が足掛け10年以上、最後は肺がんの余命告知を受けて残された体力を削りながら書いた『満州国演義』全9巻の完結作である。昨年春、たまたま古書店で入手した前作の『南冥の雫』を読もうとした矢先、船戸の訃報に接した。平成27年4月22日、肺がんの一種である胸腺がんで死去、71歳。記事には同2月に『残夢の骸』の単行本が出版されたばかりで、それが絶筆となったとあった。『満州国演義』は400字詰め原稿用紙で実に7千5百枚、まさに著者畢生のオデッセイ=叙事詩である。船戸作品を多く読んできたし、何かの対談で自身ががんを闘病中ながら『満州国演義』に賭ける思いを語っていただけに「そうか、見事にやりきったか」という感慨が湧いた。

船戸与一著『残夢の骸』(新潮文庫)

船戸与一著『残夢の骸』(新潮文庫)

初めて船戸作品を読んだのはもう30年以上前になる。昭和59年(1984)の第3回日本冒険小説協会大賞を受賞した『山猫の夏』(講談社)だった。ブラジルの辺境にある田舎町で起こる血で血を洗う抗争がこれでもかと描かれる。町の名はここに黒人奴隷として連れてこられた人たちの言葉で「悪霊」を意味する。現地を旅した船戸はこの町で数十年も抗争を続ける地元の二大勢力に警察も手が出せない無法ぶりをつぶさに体験する。その原体験を素材として船戸は見事な作品に仕上げた。

ブラジルの東北部を旅すると、時として感じる強烈な眩暈(めまい)を感ずることがある。それは何も暑さばかりのせいではない。そこでは近代が張りめぐらした網から抜け落ちた世界が突如として眼のまえに現れることもあるからだ。熱暑のなかで汗にまみれながら旅を続け、ふと立ち寄った幻の町で見たただの白日夢にすぎない―と語られるすべては<純然たる妄想の産物>である。だが読み始めるとたちまちにして「衝撃の船戸ワールド」に引き込まれた。名前は忘れてしまった船戸が実際に足を運び小説の舞台になった実在の町をようやく「ブラジル全図」で見つけた。ブラジルを大西洋に向いた「顔」にたとえると「鼻」の部分、今回オリンピックが開催されたリオデジャネイロは「下あご」に当たる。首都ブラジリアからなら東北方向に千数百キロ、同じブラジル国内とはいえ、どうやって行くのだろうという地の果てのそのまた果てのような場所だった。何でそんな場所に、と思ったが「早稲田大学探検部OB」という経歴を知ってなるほどねとようやく納得した。以来、『神話の果て』、『カルナヴァル戦記』、『猛き箱舟』、『伝説なき地』・・・と新刊が出るたびに読んだ。しばらく遠ざかっていたが、興味ジャンルの北海道を舞台にした『蝦夷地別件』を完読、この『満州国演義』はそれ以来の作品だった。

さまざまに面白く脚色した話(=白話)を織り込んだ『三国志演義』を略して『三国志』というように『満州国演義』は東京・霊南坂の名家に育った敷島家の4兄弟がそれぞれの生きざまを通してわずか13年間で終わった満州国と<切り結ぶ>壮大な物語である。舞台は満州だけにとどまらない。中国の各都市、蘭領東インドのジャワ、昭南島=シンガポール、英領ビルマからインパール・・・いやまだまだある。ところでこの霊南坂は国会議事堂の南の方角、赤坂1丁目のアメリカ大使館と虎ノ門2丁目のホテルオークラに挟まれたゆるやかな坂である。住所表示は変ったが霊南坂一帯は「東京の一等地」であることに変わりない。敷島家は長州=山口県にルーツをもつ一族で、祖父は奇兵隊で活躍、父は著名な建築家だからこの地に屋敷を構えることができた。

4人はまったく別々の道を歩く。長兄の太郎は東京帝大を卒業。満州国建国のきっかけになった満州事変の勃発時は奉天総領事館の参事官で、国家を創るという最高の浪漫を地でいくように国務院外交部政務処長へと出世していく。次男の次郎は18歳で日本を飛び出し、やがて満州で馬賊の頭目になる。何にも頼らず何も信じない生きかたは風まかせでその日その日をただ生きて上海から東アジアへと流れていく。風に吹かれる柳絮(りゅうじょ=柳の綿毛)の如く。三男の三郎は陸軍士官学校を出ると関東軍の将校として満州全域の抗日武装ゲリラ掃討作戦を指揮する。時には軍規を犯した日本軍将校を射殺するなど剛直な帝国軍人でもある。末弟の四郎は早大生だったが大杉栄の思想に共鳴して左翼劇団に入る。その後、上海同文書院で学び、阿片窟や売春宿での生活を経てロシアと対峙する北辺の武装開拓村、天津の親日新聞の記者、甘粕正彦の満映、関東軍司令部の特殊情報課の嘱託として中国、満州の地を這い回る。

船戸作品は<正史と叛(はん)史をつむぐ力技>と評される。船戸は「歴史とは暗黙の諒解のうえにできあがった嘘の集積である」というかのナポレオン・ボナパルトの箴言(しんげん)を引きながら「小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない」と喝破する。つまり歴史=正史は客観的と認定された事実の繋がりによって構成されているが、その事実関係の連鎖によって小説家の想像力が封殺され、単に事実関係をなぞるだけになってはならない。かといって、小説家が脳裏に浮かんだみずからのストーリーのために事実関係を強引にねじ曲げるような真似はすべきでない。認定された客観的事実と小説家の想像力。このふたつはたがいに捕捉しあいながら緊張感を持って対峙すべきであると。ではこの『満州国演義』はその対極にある「叛史の集積」なのか。否である。叛史が民衆のアナーキーな情念をも吸収しながら野史とか稗史などと、時にはさげすんだ評に甘んじることがあったとしても「船戸叛史」は少しも揺るぎはしない。ましてや巷間言うところの<自虐史観>とは全く無縁である。

ところで第1巻の『風の払暁』は戊辰戦争で長州奇兵隊の間諜が会津の武家の若妻を凌蓐するシーンから始まる。不肖私、あえて書かれたということは<望まない妊娠>で誕生する子かその子孫が主要な登場人物になるのだろうなあと想像した。この俗過ぎる発想は的中したが、なぜはじまりが戊辰戦争だったのかを見落としてしまったことに『残夢の骸』を読んでいてようやく気付いた。船戸は終戦の玉音放送を太郎と一緒に聞いた同盟通信の記者に日本における民族主義の地下水脈を語らせる。

「日本の民族主義は黒船の来航で一挙に顕在化し、このままでは欧米によって植民地化されるという危機感に包まれた。その打開策を論じたのが吉田松陰だ。それが尊王攘夷となって現れた。明治維新という内戦を終えたあとも吉田松陰の打開策は生き続けた。欧米列強による植民地化を回避するためには国の近代化と民営国家づくりを推進しながらアジアを植民地化するしかない。松陰が『幽囚録』で示した通り朝鮮を併合し、満州領有に向かうことになった。これに日本民族主義の発展形たる大アジア主義が合流し、東亜新秩序の形成をめざして走り出していった・・・それがアメリカの投下した2発の原子爆弾によって木っ端微塵にされた。日本の民族主義の興隆と破摧(さい)。たった90年の間にそれは起った。これほど劇的な生涯は世界史上類例がないかも知れない。この濁流のあとかたづけに日本は相当の歳月を要することになるだろう」

だから、はじまりは戊辰戦争に置いたわけだ。「王道楽土」といわれた満州国はわずか13年で理想の欠片まで失い、重い鉄鎖と化した。終章は昭和21年5月の広島である。三郎が助け、回り巡って預かることになった10才の孤児を連れた四郎が広島駅前のバス停から木炭バスに乗ってその祖父が住む佐伯郡石内村へ向う。満州に新天地をめざす開拓民として村を出ていった三人の息子たちやその家族は一人も帰らず消息すらつかめない。孤児は三男の長男なのである。関東軍に入った父親も、一緒に避難する途中で母親も、妹も死んだ。祖父の「何で死んだんじゃ?」と繰り返す問いかけに「言わんよ、言えん!」・・・嗚咽が慟哭に変わっていく。

四郎はこの子が他人には言えないような地獄に直面したと聞いていたが、それがどんな地獄だったのかは見当もつかないし、別に知りたくもなかった。この時代を生きている人間はだれもが地獄を経験しているのだ、いかに幼くても耐えるしかないだろう。(中略)

歩いて市街地に戻る四郎は脚を速めていった。熱情も憤怒も、高揚も失意も、恐怖も後悔も、満州に絡むすべてはがらがらと音を立てながらどこかへ流れ去っていった。いまや過去に拘ったところで何かが産み出せるわけじゃないだろう。問題はこれからどう生きるかしかない。しかし、どう生きていくのだ?そのまえに、どういうふうに生きたいのだ?この答えは見つかりそうもなかった。

ただひとつ紹介したこの満州の大地で生きながら地獄を見た孤児と祖父との再会場面にしても何かの救いがあるわけではない。四郎にも少年にもただふるさと日本に戻ってこられたというだけで、夢破れて山河あり。それにしてもさまざまな舞台でさまざまに描かれた地獄絵図に比べれば命がつながっただけでも。「不感症になれ。そうでなくては、気が狂う」というフレーズが頭の片隅にまだ消えずに残っている。

船戸はあとがきに「資料渉猟はわたしのもっとも苦手とするところである。文献に当たっては執筆し、執筆しては資料を再確認するという作業の繰り返しは苦行僧の営為のごとく感じられた」と書く。たしかにこの作品を仕上げるには膨大な量の文献との格闘が不可避だったろう。巻末にまとめられた参考文献は、単行本では13ページ、文庫本では23ページに及ぶ。船戸はさらに「文献を読むかぎり」と前置きして、「昭和初期の時代の濃さは後期とは比較にならない。戦争。革命。叛逆。狂気。弾圧。謀略。抗命。破壊。哄笑。落胆。敗戦。抑留。幕末維新時に巣立ちした日本の民族主義が明治期に飛翔しつづけ、第一次世界大戦後の国内外の乱気流に揉まれて方向感覚を失い、ついにはいったん墜死を遂げるのだ。あらゆるものがぎっしり詰まっている。そしてこの濃密な歴史は満州を巡る諸問題を軸に展開していく。わたしは昭和19年山口県生まれで、戦争にたいする記憶がまったくないにも拘わらず、満州を舞台に四つの視点からの叙事詩を書きあげようと思ったのは凝縮された時間に引きつけられたからに他ならない」と付け加える。

さて、この大作をどう読めばいいのか。単行本をじっくり読むのもいいかもしれない。私なら各巻に解説が付いた文庫本のほうをお勧めする。あえてその顔ぶれを紹介すると第1巻『風の払暁』が馳星周、第2巻『事変の夜』が志水辰夫、第3巻『群狼の舞』が北方謙二、第4巻『炎の回廊』が高山文彦、第5巻『灰塵の暦』が西木正明、第6巻『大地の牙』が北上次郎、第7巻『雷の波濤』が高野秀行、第8巻『南冥の雫』が佐々木譲、この第9巻『残夢の骸』が井家上隆幸である。いずれも船戸と親交があり、日本における冒険小説というジャンルの地平をともに切り開いてきた、あるいは文芸評論家として見続けてきた面々である。船戸という稀有な作家を、いや歴史を舞台にした小説というものをさまざまな面から案内してくれるはずだ。選りすぐりのガイド役9人を従えていざ行かん。この一大歴史小説を読み解き、あるいは歴史そのものに内在する欺瞞を学ぶもいい。シリーズの題を船戸が「演義」としたのもそこにありそうに思う。

ではまた

あと読みじゃんけん (13)   渡海 壮 惜檪荘だより(その2)

  • 2016年9月13日 22:20

実はこの『惜檪荘だより』(岩波書店)を読むまで、知らなかったというか、気付かなかったことがある。著者は人気時代小説の『酔いどれ小藤次留書』や『居眠り磐音 江戸双紙』シリーズなどで活躍しているのはご存じの通りだが、1970年代には写真家としてスペインに滞在し「黄金の時代」といわれた闘牛社会を取材していた。私は以前、鹿児島県の徳之島で「伝説の横綱」として活躍した実熊(さねくま)牛を描いた小林照幸のノンフィクション『闘牛の島』(新潮社、1997)に惚れ込み、沖縄に売られていった実熊牛の哀れな末路を追いかけたことがある。そういえば、と書庫の奥から探し出したのがこの『闘牛はなぜ殺されるか』(新潮選書)である。同一人物だったとはと不思議な偶然に驚いた。

佐伯泰英著『闘牛はなぜ殺さ れるか』(新潮選書)

佐伯泰英著『闘牛はなぜ殺さ れるか』(新潮選書)

「闘牛への招待」から始まって、地中海一帯にあった牡牛信仰、男社会から女の時代に変わる「闘牛社会の変革」、「闘牛はピカソに何を与えたか」、「闘牛はなぜ午後5時に始まるか」など微に入り細にわたり闘牛を紹介した労作である。題名の理由は、牡牛は信仰の対象で猛きものの代名詞として闘牛場の砂場に登場するが「祝祭の当然の帰結」として殺される。表舞台からラバに引かれて去ったわずか5分後には食肉として処理される。年間3万頭以上もの牛が闘い死んでいく闘牛は「スペイン文化の神髄」とされ、失業率の高い国を支える観光産業ではあるが、動物愛護の思想が強く主張されるにしたがって捕鯨反対の国際世論に押されて商業捕鯨が禁止されたように確実に衰退の道を進むだろうと示唆している。

写真家時代に佐伯が取材に同行したのは作家の堀田善衛、詩人の田村隆一、英文学者の氷川玲二らがいる。一時期、佐伯は堀田がマネージャー役の夫人と住んでいたスペイン・グラナダのマンションに運転手兼小間使いとして居候していた。いつもは寡黙でレース編みなどで静かに時を過ごしていた夫人は一度その勘気に触れると老練の編集者も出版社の重役も震え上がる。日本では永く逗子に住んでいたから「逗子のライオン」と怖れられていた。あるとき「佐伯、作家というものはね、文庫化されてようやく一人前、生涯食いっぱぐれがないものなのよ」としみじみ、そして誇らしげに呟いたという。芥川賞作家の堀田は老舗文庫に名を連ねていた。売れっ子作家は雑誌連載をハードカバーに纏め、さらに数年後か十数年後に、読者と識者の厳しい目に曝され、価値を認められた本が「古典」として文庫化されるのだと言いたかったわけである。田村からは詩人らしくあれこれあった人間関係を学んだ。スペインで知り合った氷川とはその生前20年ほどの付き合いがあり、文章の手ほどきを受けた。いまでも覚えているのは「原稿用紙でもいい、初校ゲラでもいい。一見して黒っぽく感じたら、こなれた文章ではないということだ」と教わった。こうしたエピソードが惜檪荘修復のさまざまな場面に挿まれているから、単に熱海での専門家を巻き込んだ純粋な工事進行の紹介にとどまらず飽きさせない。

佐伯はなぜ仕事場の条件として「海の見える地」を選んだかについてあらためて書く。スペイン時代にお金の工面を願った佐伯に母親は「先祖は豊後の大友宗麟配下の地下者(じげもん)で、天正年間、薩摩に追われて肥後に逃げた一族であるから恥ずかしい真似だけはするな」と手紙で説諭した。豊後はリアス式海岸の海の国、南蛮に憧れを抱いたキリシタン大名の大友宗麟が活躍した地である。佐伯は福岡県の旧八幡市折尾(現・北九州市)生まれで「幼い頃は海への思い入れが格別にあったとは思えないが後年、時代小説を書くようになった時、豊後を迷うことなく物語の舞台に選んだ。スペインに憧れたのも宗麟が夢半ばにして潰えた野望を思うてか。また海を想う気持ちも海の民の豊後者だからか、ともかく私の体内にも同じ血が流れていて海に憧憬を抱いたのだと勝手に考えている」と。だからか、『酔いどれ小藤次』の主人公赤目小藤次にしても豊後森藩ゆかりで『居眠り磐音』の坂崎磐音は架空だが豊後関前藩中老の嫡男という設定だ。

修復工事に戻ろう。建築当時の設計原図は吉田が描いた22枚のスケッチが東京芸大建築学科に残されていたが、現況の「実測図」を起こすことからはじめられた。窓の金具から戸車にいたるまで原寸大で、さらに床下と天井にはカメラを入れて現況を出来るだけ正確に把握することが進められた。吉田は京都からわざわざ職人を呼んでさまざまな工夫を凝らした。なかでも洋間の開口部は、雨戸、網戸、ガラス戸、障子、それぞれ3枚、計12枚の戸をすべて戸袋に仕舞うことで創られた開口部=額が醸し出す壮大な「絵」でまさに<十二単>を思わせた。のちに岩波ホールの支配人岩波律子に聞いたエピソードが紹介されている。ここに一夜泊ったポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ夫妻が窓からの眺めに感動した。日本画、なかでも浮世絵にも関心があった監督の絵には歌川広重風の斜めに突き刺さる雨が描かれていた。<吉田の黄金比率>ともいわれる横広のガラス窓をそのまま額縁に見たてたか。静的な雨だれよりもあえて広重の動的な雨を描くことで滞在記念の絵にダイナミズムの息吹を与えている。

工事はまず、洋間の床板のチーク材が一枚一枚丁寧に剥がされてナンバーが打たれた。吉田デザインの応接セット、文机、天井の照明器具も取り外され修理技術のある高島屋(=デパート家具部)に預けられた。すべての建具、部材、建物の解体から始まり、例えば石畳は庭の一角に砂を敷き詰めた「仮置場」が作られてそのままの配置で移動、保存された。上棟式には岩波家からワイダ監督が描いた絵と岩波茂雄と親交があり惜楽荘にも縁があった安倍能成の書が届けられた。

長く続いた再建工事については詳細にわたり過ぎることもあるからあえて紹介しない。この間、佐伯に前立腺がんが見つかって手術したり、その気分転換のためにベトナムに旅行したりとさまざまあったが、特筆しておきたいのは佐伯を大いに力づけた俳優・児玉清の存在だろう。古今東西の書物を読破し続けた児玉には『寝ても覚めても本の虫』(新潮文庫)などの著書がある。『居眠り磐音』シリーズが15巻に達した新聞対談が初回だった。児玉は幼い頃、講談本を愛読していて時代小説に親近感を持っており、佐伯の著書を読破していた。いつの日か時代小説を書こうと思っている。それを文庫書き下ろしでねと、どこか引け目を感じていた佐伯の胸中を見抜くように「面白いからこそ読者の支持を受け、売れるんです。悔しかったらキャッシャーのベル(会計レジの音)を鳴らす作家になれということですよ。作家は読者に支持されてなんぼの存在です」と喝破した。児玉はその後も年2回のペースで佐伯と対談し、以来、会うたびに同じ言葉を吐いて鼓舞してくれたばかりでなく、いろいろなところで『居眠り磐音』は面白いよと宣伝これ努めてくれたお陰で、二百万部だったシリーズ累計が五百万部を超え、一千万部に化けた。いわば大恩人である。惜檪荘の洋間で行われたNHKのテレビドキュメンタリーでは「佐伯さん、これはやりがいのあるすばらしいプロジェクトです」とその決断を認めてくれたのに楽しみにしていた完成披露を待たずに亡くなった。

完成した惜檪荘のたたずまい

完成した惜檪荘のたたずまい

惜檪荘の修復落成式は平成23年(2011)10月13日に行われた。付き合いのある編集者、岩波家と岩波書店関係、不遇な時代を支えてくれた友人知人たちだけで60名になった。そうなると惜楽荘での飲食はできないので、建物見学のあとは近くのレストランでの宴となった。出版関係では角川春樹事務所の御大自ら出席し、乾杯の音頭をとってくれるということが知れると、他社も「うちも幹部を」となったが、それをすべて断ったのも佐伯流だった。当日は曇り空で宴が始まる頃には雨が降り出した。主賓の角川は「新たに惜楽荘主人に就いた佐伯は、時代小説に転じた当初から売れたわけではありません。うちでハードカバーとして出した『瑠璃の寺』は全く出ませんでした、はい。ところが文庫化すると動き出した」とスピーチした。児玉の令息で当時はタレントだった北川大裕も児玉の元マネージャーと出席してくれて降り続く雨を「これは父が流すうれし涙の雨です。おれもこの場に居たかったという雨です」と佐伯を感動させた。なかでも場を盛り上げたのが司会に指名された某社の文庫担当だった。佐伯が考えもしなかったほどの「あがり屋」で、冒頭から惜檪荘を「落石荘」と言い間違え、佐伯を「そ、それでは落石荘番人の・・・」と失笑ならぬ爆笑を誘って会場を大いに和ませた。それもあってではなかろうが、文庫版には背と表紙に、単行本では帯だけにしかなかったルビがふってある。

佐伯泰英著『惜檪荘だより』(岩波現代文庫)

佐伯泰英著『惜檪荘だより』(岩波現代文庫)

あと読みじゃんけん (12)   渡海 壮 惜檪荘だより(その1)

  • 2016年9月13日 11:10

岩波書店の創業者・岩波茂雄は太平洋戦争が始まる直前の昭和16年(1941)9月、熱海・伊豆山に別荘を建てた。眼下に熱海湾、正面には相模灘に浮かぶ初島、遠くに大島を望む絶景の地だ。設計から施工までのすべてを任された建築家・吉田五十八(いそや)は日本古来の数寄屋造を独自に改良した住宅を手がけ<近代数寄屋建築の旗手>と評された。そこに岩波が惚れこんだ。敷地内に檪(れき=クヌギ)の老木があり、それを伐ることを惜しんで建物の位置を変えたことから惜檪荘(せきれきそう)と名付けられた。竣工から70年、建物が売却されることを聞いて「番人」に名乗りを上げたのが人気時代小説作家の佐伯泰英である。『惜檪荘だより』(岩波書店)は佐伯初のエッセイ集で、主役でもある惜檪荘の歩みや、縁あって譲り受けるに至ったきっかけ、解体修復工事の一部始終を縦糸に、写真家としてスペインの闘牛を追った半生などを横糸に紹介している。

佐伯泰英著『惜檪荘だより』(岩波書店刊)

佐伯泰英著『惜檪荘だより』(岩波書店刊)

惜檪荘はJR熱海駅から東北方向に800mほど離れた熱海市海光町に建つ。昭和10年代に分譲された別荘地の一角で、当時は山本五十六の別邸、水光荘や、後年、文化勲章を受章した彫刻家・平櫛田中旧宅、野村証券創始者・野村徳七の塵外荘などが並んでいた。近年は昭和レトロの雰囲気を残す「石畳地区」として人気の観光スポットになっているが、佐伯が仕事場探しのため初めて訪れた当時は訪れる人もなく、敷地に通じる門柱の照明器具に「岩波別荘」とあるだけで「なんだ、岩波さんか」と思ったという。同じ出版界に生きる人間とはいえ、思想書や哲学書、さらには岩波文庫を中心として広く出版事業に携わるアカデミックな社風とはまるで縁がなかったからでもある。

佐伯は時代小説に転じて4、5年目、大出版社が見向きもしなかった中小出版社相手の「文庫書き下ろし」というスタイルで『密命』や『秘剣』シリーズなどを書いていた。売れなければあとがないなかで、ようやくその日暮らしを脱する目途が立ったところで、編集者との付き合いを必要最小限にし、パーティーの類いも出席したことはなかった。熱海に仕事場を持とうと考えたのは都内のマンションでの職住同居から抜け出したかったからということもあるが、都内からだと新幹線や車でわずか1時間半ほどなのに、その当時の熱海は寂れていた。「熱海の住人には叱られようが、その寂れようが気に入って熱海に白羽の矢を立てたのは生来のへそ曲がりのせいだ」という。

契約した建物は「岩波別荘」のすぐ上にあって共用の石段があり、「惜檪荘」という正式名があるのはあとから知った。仕事場からは海側に一段下がった位置にあるため、山桃や柿など木々に遮られて屋根がちらりと見えるだけで建物の全容は知れなかったが70余年の松籟を聞いてきた屋根は軽い弧を描いて、艶を漂わせて官能的であった。娘さんがインターネットで建物について書かれた本を買い集めて、岩波と吉田の頑固と意地のぶつかり合いの末に生まれた作品であることを知るにつけ「見てみたい」と希求するようになった。数か月後、惜檪荘に庭師が入っているのを見て、親方に見せてくれませんかと声をかけてみた。「家は見せることはできないが庭ならいいよ」ということで初めて敷地に足を踏み入れた感動をこう書く。

まず海が目に入った。「ええっ」と娘が絶句した。わずかに距離が離れただけで海の風景が違っていた。松の枝越しに見える相模灘、その真ん中に初島が浮かんでいた。視界を東に転じたら別の海が待っていた。真鶴半島の突端の三ツ石に白く波が洗う景色だった。(中略)惜檪荘の名の由来となった老檪は、支え木に助けられて地上二メートルのところから直角に角度を変えて横に幹を伸ばしていた。昔の写真で見るより幹は痩せ細っていた。筋肉を失い骨と皮だけになった媼(おうな)の風情、平ったい幹の所々にうろを生じさせていた。

植木屋の親方が、「隣にあるのが二代目の檪」と教えてくれた。初代が枯れることを想定して二代目が用意されたらしい。だが、私の目にはすくすくと育つ二代目より腰の曲がった初代礫がなんとも好ましく、したたかに映った。

惜檪荘は雨戸が建て回されて内部の様子は窺うことはできなかった。だが、見慣れた屋根と茶色の聚楽壁が調和した簡素な佇まい、三十坪の建物が相模灘を眼下に従えて清楚にして威風堂々としていた。雨樋を設けていないせいで屋根の庇の景色がなんとも淡麗であった。屋根を流れてきた雨を雨落ちが受ける仕組みは、建物を実にすっきり見せた。

これだけで佐伯が惜檪荘にぞっこん惚れ込んだことが伝わるが、すぐに変化があったわけではない。熱海に仕事場を設けた佐伯はますます仕事に打ち込んだ。年間の出版点数が12冊を超えて<月刊佐伯>と呼ばれ始めたころだった。自分ではさほど意識しなかったがストレスが溜まり、体調を崩してしまう。「石畳の住人」となって3年目のことだ。初めて出版各社の編集者に集まってもらい、今後の出版点数を抑制する話し合いの後、当分の静養が決まった。その夜、家族としみじみ話し合い家族が洩らした「お父さん、無理してこの仕事場を手に入れておいてよかったね」の言葉に自身も共感し、心から安堵した。毎日仕事場からぼおっと相模灘を眺めて、ジョウビタキ、目白、四十雀、雀が庭木を飛び回る風景を見ていれば心が休まった。こうしてこの石畳の風景に体調を取り戻すことができ、仕事を再開した。

岩波の代理人から惜楽荘を手放すことになりましたので隣人の皆様にはお断りをしておきますという丁寧な挨拶を受けたとき、佐伯は言葉を失った。垣根越しに季節を楽しんできた桜も、その桜に絡みついて季節の様子を見せる椿も花のつかない藤も、鳶が遊ぶ大松も、いや惜楽荘までも消えていくのかと茫然自失した。時勢が時勢だけに開発業者に渡ればその先の展開は目に見えていた。松が切られ、惜楽荘が潰され、崖地の起伏が整地されマンションが建築される。仕事場の向こうにコンクリートの塊が出現すると思うとぞっとした。恐る恐る代理人に連絡をとり、無謀な思いつきを打診してみた。

その結果、佐伯が惜楽荘の番人に就くことになり、初めて建物の内部を見ることができた。しかしこの建物をどう活用するか、どう社会に還元するかのアイデアはなかった。

戦時下、新築家屋30坪の制限があるなかで吉田は岩波の要望をすべて満たすことに全力を注いだ。

・指呼のうちに見える、大洋の青緑、初島を真正面に眺めるため、方位を三十五度東に振って建てること。
・居間はもちろん、浴室、便所、洗面所などの雑室にいたるまでいずれの部屋からも海が眺められるように平面計画を考慮すること。
・浴室の位置は、その浴槽に浸りながら寄せくる怒涛が巨巌を噛むさまを眺め得るようなところを選ぶこと。
・家全体から受ける感じを出来得るだけ簡粗にすること。

信州人であった岩波の海へのあこがれがそのまま表れたように思える。吉田も眼前に広がる相模灘と岩波の注文をどう拮抗させるかに頭を悩ませたろうが、それだけに佐伯の素人目にも、建物自体に無駄なく景観との完璧な調和があった。戦前に建築された建物は岩波という出版文化の組織と資金に庇護されていたにも拘らず、やはり目に見えないところが痛んでいた。

あらためて家族と話し合い、岩波茂雄と吉田五十八がイメージした建物へ修復しようと決心した。吉田のまな弟子の建築家と永年、惜楽荘を手入れしてきた工務店の助力を得ることができた。「なにも付け足さずなにも削らず」という修復の基本路線と「七十年の歳月が加えた景色、古色」は大事にすべきという考えでいよいよ修復工事が始まった。

(以下、続く)

あと読みじゃんけん (11)  渡海 壮 本で床は抜けるのか

  • 2016年9月8日 19:04

西牟田靖の『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)は、蔵書家の不安な気持ちを射止めるそのものズバリの題名である。帯には、気づけば部屋中本だらけ、床抜け危機、勃発!家族も巻き込む蔵書問題へ果敢に挑んだ体験記・・・と「読まねば」と思わせる惹句が並ぶ。

西牟田靖著『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)

西牟田靖著『本で床は抜けるのか』

かくいう私、サラリーマン生活最後となった東京での11年半におよぶ単身赴任生活では、本が溜まりにたまってしまった。若いころから本を「偏愛すべき宝物」と思っているせいか本に囲まれていると、まったりした気分になる。書店もそう、あの雰囲気がたまらない。週に何回かは大手書店の新刊・話題書コーナーをのぞいて読みたい本を「品定め」するのを楽しみにしていた。限られた小遣いを有効に使うためには優先順位が要るわけで、実際に手にとり「新本で買うかどうか」を決める。将来、使えそうな資料として入手するのなら「古書でもいいや」ということになる。

素面(しらふ)の場合は、もより駅からの帰りに必ず古書店に寄り道した。わざわざそう書いたのは「飲んだら寄るな」は店への礼儀であると思うし、そもそも反省多きわが人生、オーバーかもしれないが酔ったはずみで、はロクなことがない。古書店での本選びはまさに真剣勝負、店頭の均一棚にせよ、店内の棚でめぼしい本をチェックするにせよ、わが流儀は「迷ったら買い」だから酔いは禁物なのである。当時はいまほど古書店のネット情報が普及していなかったのであくまで現物の「掘り出し」しかなかった。値段が安いからといって記憶に頼ることなく、手帳にはさんだジャンル別に抜き書きした「探書本リスト」で確かめることにしていた。喜んで買ってきたらすでに本棚に並んでいたなどという残念な思いを重ねた失敗から学んだというわけだ。

住んでいたのはJR中央線西荻窪から徒歩7、8分の2階建ての木造アパートの2階だった。階下と2階が一所帯ずつで階下の住人は「女性占い師」といううわさだった。中央線沿線、なかでも荻窪や西荻窪界隈にはアンティークショップと並び古書店も多い。駅からは、どの道から帰っても古書店があるし、よく行った店をあげると片手では収まらない。休日は散歩代わりに早稲田や神田神保町の古書店街へよく出かけた。神田も含め「古本まつり」があるとリュックを担いで足を伸ばした。まるでハイキング気分、購入した本を入れて帰るのには重宝した。「品定め」した新刊はほとんど宅配専門の「さかえだ書店」に注文した。店主の栄田さん自ら毎日、大手取次が集まる通称・神田村に出かけて本を仕入れて自転車で配達するという東京ならではの無店舗書店で、手作りのミニコミ誌に本にまつわるエッセイを書いていたからでもある。

住み始めはがらんとしていた部屋は数年たらずのうちに本で埋まった。壁際はすべて本棚、高さ180cm、幅80cm、7段のスチール書棚だけでも最後には10本ほどになった。その半分を変形3畳ほどの板の間部分に向かい合わせに置き、地震で倒れないように突っ張りを入れていた。雑誌類は腰高窓の下に二段ほどの棚をいくつか作って平積みで並べた。栄田さんが納品にやってくるたびに「大丈夫ですかね」と言い始めたのはいつごろからだったか。注文した本の代金を渡して少し立ち話をしての帰り際に「それにしても地震が起きたら」とか必ず付け加えた。それが聞こえたのか、それとも何かの霊感が働いたのか、階下の占い師は「田舎に帰ることにしました」と挨拶に来て引っ越していった。いまもどこかの街で「他人の運勢」を占っているのだろうか。そのあとを借りたのは、すぐ隣に住む某私立大学の名誉教授で、定年退官と同時に研究室の本を整理してくれと言われたので、ということだった。「横文字の専門書ばかりなので図書館に寄贈するわけにもいかないし・・・」とこぼしておられた。相槌はうったものの不勉強がばれてしまいそうなのでそれ以上は尋ねなかったが一時期、あのアパートは上下とも「本だらけ」だったわけだ。

『本で床は抜けるのか』に戻ろう。筆者は自宅とは別に書斎として友人と借りていた都内のシェアハウスが本で埋まってしまったため、引越しを検討するところから書き始める。アジア・太平洋諸島の元日本領土、北方領土や竹島といった国境の島々をテーマにしたノンフィクション作家なので、自身だけでなく蔵書の悩みやその解決法をテーマとして取り上げる取材の旅が始まった。

私もたまたま新聞の切り抜きを持っているが平成17年2月に東京・目白の古いアパートの二階の床が崩れ、階下に住んでいた老人が挟まれて重傷を負った。原因は住人で埼玉県の某市役所に勤務する当時56歳の男性が、住み始めた昭和50年代後半から、新聞や雑誌をほとんど捨てず、ひたすら部屋に積み重ねていたのがその重さに耐えきれず・・・というものだった。発生は午後7時前、本人の帰宅前だった。近所の主婦の証言では「ドーンという爆発のような音がして水道管も破裂した。レスキュー隊や消防団がバケツリレーで雑誌などをかき出したが、救出に2時間もかかった」という。アパートの前に山のように積み上げられた雑誌や新聞の写真が添えられている。

これほどでなくても本は時に凶器になる。崩れた本で扉が開かなくなって半日近く浴室に閉じ込められた評論家・草森紳一は『随筆 本が崩れる』(文春新書)で体験を生々しく伝えたが東京のマンションだけで3万冊あったという。草森死後の蔵書の行方、都下あきるの市にある少女マンガの館のルポ、蔵書のすべてを処分し『捨てる女』(本の雑誌社)で紹介したノンフィクション作家の内澤旬子のケース。蔵書を電子化した人、私設図書館を建てた人、大きな書庫を建てた人・・・いまふうに「ヤバイ本」も多すぎると大地震の場合は凶器になりうるし、同居人=家族からすればあまりの偏愛ぶりはヤバイわけで、筆者もそれが原因で(それだけではないかもしれないが)奥さんが娘を連れて出て行ったとカミングアウトする。その時の蔵書数は1,000冊以上、2,000冊未満。自慢するわけではないがわが書斎に比べれば・・・いまのところカミサンが出て行く気配はないが、これ以上の蒐集は止めておこう。