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私の手塚治虫 第27回  峯島正行

  • 2016年7月21日 09:27

私の手塚治虫 (第27回)
 アニメ鉄腕アトムの四年間
                  峯島正行
  手塚の作家精神  
            
手塚のアニメ制作方針は、前に述べたように、まず、第一に、実験的、芸術的なアニメの制作であり、そういう作品を継続的に制作するための、必用な資金を得ていく必要から、テレビの視聴者大衆を動員できる娯楽的な作品を作っていく、というものであった。その方針にしたがって、最初に作られた実験的な芸術作品が、「ある街角の物語」であり、次に、作られたのが、多くの子供たちを喜ばせた「鉄腕アトム」である。これがテレビ放映され、大成功を収めた。しかしその大成功ゆえに、娯楽作品としての成功を、一層発展させようという雰囲気も、生まれたことは確かである。
その経緯は、前回まで縷々述べてきた通りである。
手塚は「鉄腕アトム」の制作にあたっても、当初の基本姿勢を崩すことはなかった。手塚にとって「アニメ作家とはあくまで、実験作品を作ることで、芸術の前衛を切り開いて行く存在であり、厳しい生き方を強いられるものだ。そうしたアニメ作家の集合体が虫プロである。そんな虫プロが、娯楽作品を作って儲けようとするのは、あくまで実験アニメの資金を得るためで、生活安定のためではない」
この精神に徹していた手塚は娯楽作品である「鉄腕アトム」であっても、手塚の作品として納得のいく作品でなければならなかった。だから実際の制作現場では、一話、一話、制作をするに当っては、最初のキャラクターの原画制作、絵コンテ、シナリオ等、アニメの内容の根本をなす作業は、手塚自身が制作するか、或いは出来上がった案を手塚が承諾するということを厳密に実行した。  一話の作品が完成してからでも、気に入らなければ納期を遅らせてでも、徹底した作り直しをさせた。それには莫大な経費がかかったが、その埋め合わせのためなら、命を削るような思いで描いた漫画の原稿料を、惜しげもなくつぎ込んだ。

ただ、毎月、毎週の雑誌漫画の執筆、それに虫プロの経営の仕事、アニメ制作と、いくつも仕事が重なって、漫画原稿の締め切り時など、アニメのシナリオや絵コンテ、原画のキャラクターなどの仕事が、遅れて、しばしばアニメのスタッフの「先生待ち」という状態になり、スタッフ全体が手を空けて待っているというような状態が現出し、その為に生ずる出費も莫大なものになることも多かった。手塚の理想に共鳴して集まってきたベテラン・スタッフたちも、手塚の精神を自分のものとし、作品の質を維持するために払われる出費がいくらだろうと、自分のベストを尽くすという考え方だった。そのため寝食を忘れ、仕事に没頭するのが、虫プロ・アニメーターの意地であった。

重役たちの問題

以上のような状況の中で、「鉄腕アトム」は次々と視聴率を上げて行ったわけだが、その間、経営に当たる重役たちは、ただ人員の増加をもって、多忙さを切りぬけていったとしか思えないのである。当初6人で始まったスタッフが、昭和四〇年代に入ると、350人に膨れ上がってしまった。その人件費だけでも莫大である。
創業以来勤務している幹部アニメーターの給料は、日本のサラリ-マンとしては超高級になり、航空会社のパイロット並みとなったといわれ、一般のスタッフとの差が付きすぎてしまった。前にも言ったが、これが虫プロ崩壊まで糸を引くことになる。手塚は「といって大勢の社員の給料を上げたら、虫プロは崩壊する。頭が痛い」(月刊「現代」 昭和四二年九月号)と嘆いた。
ともあれ「鉄腕アトム」の成功によって事業としては赤字だったが、巨額の金が動いたことは確かである。巨額の金が動けば、当然それに群がる、わけのわからぬ人物が往来する。社員が増えれば、おのずから派閥や、それによるいがみ合いさえ起きるのは、当然の成り行きであっただろう。
当時、文芸進行課長という職にあった石津嵐はその頃の思い出について、次のように述べている。
「この頃の事では本当にいやな思い出しか残っていない。例えば、上層部では、重役同士の牽制から、役員閥とでもいったものが出来上がり、主だったスタッフたちはそれぞれの閥につながって、何やらきな臭い動きに終始していた。
そんな雰囲気に入りこめないスタッフたちはいつか知らず知らずのうちに蹴落とされ、裏切られ……」(『秘密の手塚治虫』 昭和五五年 太陽企画出版)
それに次いで、石津は、一つのエピソードを紹介している。沢山あった鉄腕アトムの原作も、二年程のするうちには底をついてきて、アトムを続けるためには、オリジナルな話を作っていかなくてはならなくなった。そのストーリーを造るためには、手塚と話しあい、その意中をくみ取って、新規な物語を創作し、それを、シナリオにまで組立てなければならない。その創作とシナリオを造るために、若い新進のSF作家、豊田有恒が起用された。豊田は、こうして虫プロの企画文芸課長の石津の元で、シナリオを書いていた。
ところが、時を同じくして、虫プロの次期作品として、新たに企画されていた作品の重要なキャラクターと近似したものが、某テレビ局の新番組の中で、そのまま使われていることが判明した。明らかに企画漏洩であった。誰かが某局に秘密を流したと疑われた。ところで、豊田が、その某局でも仕事をしていたのである。厭な空気が社内に流れた。豊田が情報漏洩の当事者と疑われたのである。
ある日、石津は役員室に呼びつけられた。そこには専務、常務といった連中がならんでいた。席上、代理店萬年社を辞めて虫プロ常務となった穴見薫が「企画を他局に漏らした犯人は豊田君としか思えない。君は彼の上司として、彼の身近にいる人間だ。思い当たることはないか」と問うた。
石津は自分にこの問題が絡んでくるとは思っていなかったので、驚愕した。
「そんな馬鹿な!豊田君に限って、そんなことをするような人間ではない」
さらに穴見は「某局の作品がつくられている同時期に、豊田君はうちのシナリオライターとして働いていたのだ。彼を疑うのは当然だ」という。
「いい加減にしてくれ、彼がそんな卑劣なことをするわけはないじゃないか。僕は男として、豊田を信じているのだ。彼の人柄を私ほど知っているものはない」
と石津は激怒して、怒鳴りまくった。
それから間もなく豊田の冤罪が晴れたが、一時期的にせよ、冤罪を着せられて傷つかぬ者はいない。豊田はそんな虫プロ幹部に失望して、虫プロを去って行った。後でわかったのだが、この時の真犯人は、石津を難詰したその重役にごく近い人物だった。
「よくもまあ、ぬけぬけとあんな尋問めいたことがやれたなものだ」と石津はそんな重役の存在を嘆いた。豊田は、その後、SF作家としてどんどんと実績を上げて行った。石津もやがて虫プロを去り、SF作家としての道を歩んでいくことになるわけだ。
このような経営陣を抱え、生涯の夢だったアニメを作っていった、手塚に、深い同情の念を禁じ得ない。
しかも、多くの従業員を抱えるしか能のない、これらの幹部たちが、虫プロがいつまでも赤字である責任を、芸術にこだわるあまり、仕事を遅らせ、出来上がった作品を自分のイメージに沿わないと、平気でリテイクをさせる、手塚の責任のように言いまわしていることを思うと、手塚の純粋さが気の毒で、涙が出てくる。

豊田有恒は、後年虫プロ時代を回想して、次のように言っている。手塚は「実際のところ、社長の仕事をするよりも、一クリエイターとして現場に居たかったようだ。シナリオ部門ばかりでなく、アニメの制作現場などにもよく顔をだしておられた。クリエイターであることを好んでいたからで、こう言っては語弊があるだろうが、社長の器ではなかった。社長ならだれでも勤まるが、世界の手塚治虫の仕事は、手塚治虫以外の人間にはできない」といい、制作中の作品のラッシュ試写の段階にいたって、リテイクが出ることがあったが、こういう場合「手塚治虫という人は、社長としての判断かけていた。(中略) 社長としての判断ならこうなるだろう。これは会社の信用にもかかわる欠点だから、リテイクしよう、だがこのミスの方は、まあこのまま出してもそれほど信用が損なわれるというものではない。だから不満は残るがこのままにしよう。社員も疲れているからここでは無理をさせられない。こういう判断が、世の中の社長のものだろう。だが、手塚先生はそうではない」(『日本SFアニメ創世記』 TBS・ブリタニカ 二〇〇〇年)
たしかに、手塚は社長の器ではない。それに数字、つまり金勘定のわからない人だ。このことは、虫プロが倒産した時、その整理に当たった葛西健蔵氏が、手塚の天才ぶりと人柄を称揚しながらも、百万円以上の金勘定になると全く分からない人だったと回想している。
だから、手塚のもとで経営の任に当たる人は、会社経営の経理部門の数字をはっきりつかみ、芸術家気質の手塚が納得する説明をしなければ、ならなかった筈である。その経営に当たった重役が、経理、会計に疎く、制作にあたって原価計算もしなかったことは、前述したとおりである。
作品内容については手塚の目が行き届いていたが、経理経営面では、どんぶり勘定のまま、進んでしまったのである。
そして社員の数が300人以上に膨れ上がるにつれて、人間的な問題が複雑になり、浅ましい問題まで起きるようになったのであろう

製作費を巡って

先にフジテレビと、鉄腕アトム放映の契約するとき、手塚は、フジテレビの幹部や広告代理店の萬年社の担当者の前で、鉄腕アトムの一回分の制作費は、55万円でいいといい、それで契約が成り立ったことを述べた。その席上には、虫プロの山下専務が同席していたことは確かである。
これは手塚の自伝『ぼくはマンガ家』の中で、述べられている。その席に萬年社の担当者の穴見薫がいたかどうかは、分明ではない。しかしこの事実は、身近な問題として知っていたことは確かだろう。フジテレビからの制作費は、55万円として契約が結ばれたとなっている。
ところが実際払われていたのは55万円でなく、155万円が支払われていたと、後年出版されたアニメ史研究書でも指摘されている。例えば『アニメ作家としての手塚治虫』 (津軽信行著 NTT出版 平成一九年)の中で、著者が虫プロの営業担当者だった須藤将三という人にインタビューをしている。それを引用させて貰うと
「これは穴見さんと、それから今井(義章)さんしか知らなかった話なんですが、『50万円はあまりにひどいよ』ということで、手塚さんには『50万円でうけていますよ』と話していましたけれど、実際は代理店の萬年社から155万円を受け取っていたんです。それでも非常に安いですけどね」
と須藤は言っている。これについて、著者は、「最終的な契約は一本55万円というのは事実だが、実は萬年社が虫プロとの裏契約的な措置として、萬年社がプラス100万円、つまり155万円を虫プロに払っていたという、驚くべきエピソードである」と述べ、さらに
「スポンサーとの交渉の場面に立ち会っていた虫プロのプロデューサー今井義章や萬年社の穴見薫らが再度スポンサーと交渉し、虫プロへ155万円が払える程度の条件を得て、手塚には55万円で契約していると言いつつ、実際には155万円が虫プロに支払われていた……。
それにしても放送局やスポンサーとの関係を考えると、虫プロがそんな『二重契約』のような状態で作品を代理店に送り込んでいたことが公になって、問題にならなかったかという疑問がわいてくる」と述べている。
「虫プロが萬年社から『二重契約』を得ていたとすれば、よく言えば虫プロという一法人の経営戦略が功を奏したといえようが、業界全体のありようを考えると、やはりこれは禁じ手である」と断じている。
また『日本動画興亡史 小説手塚学校』(皆河有伽著 講談社 平成二一年)という本によると、上記の問題について、手塚が、55万円で交渉した段階では、スポンサーの明治製菓、萬年社、虫プロの間には、まだ正式な契約書が交わされていなかったらしい。だから後になって
「手塚には内密に、一本分の制作費を155万円とした契約が取り交わされた。
本来、虫プロの社長である手塚が判を押さねば、契約が成立しないはずだが、手塚はこの事実を放映開始から半年近くの間知らされなかったという。
社長も知らぬ間に契約を成立させてしまうことができる……この不思議な体制が数年後、虫プロの危機を招くことになる。」
とこの本には書かれている。この文章の結びの部分は甚だ、不穏な話である
手塚の知らぬ間に印が持ち出されて、契約書に捺印されていたとすれば、明らかに違法である。著者は「この不思議な体制」と言っているが、誠に怖いはなしである。と共に、これが事実であったなら、純粋な「世界の手塚」を冒涜する事態であったといえよう。
以上二つの研究書を、たまたま私が読んだわけだが、ほかにもこういうレポートがあるのかどうかは、今のところ不明だが、このレポートの内容が真実であるかどうか、今の私には、調べようもない。だから、ここでは、このようなレポートがあるという報告だけにとどめて置く。

ただ穴見は、その何年か後、虫プロ商事を設立するとき、手塚の知らぬうちに、預かった手塚たちの実印を使って、手塚のアニメ全作品の放映権をテレビ局に売り渡す契約をして、虫プロを崖っぷちの危機に陥れたことがあった。それはいずれ、後段で述べるが、その萌芽が、このテレビアニメの最初の契約のときに現れているのかもしれないと思うのは、単なる邪推で済まされるかどうか。

赤字体質の実際

テレビアニメ「鉄腕アトム」のキャラクターが、商品に利用された版権料、いわゆるマーチャンダイズで稼ぎ、またアメリカに版権が売れて、版権料を稼いだにも拘わらず、虫プロは赤字だったらしい。週一本の制作費は、当時から250万円かかると、ずっと今日までいわれてきたが、この金額は、直接生産費なのか、間接経費や、人件費まで入れた額なのかは、分らない。いずれにしても、テレビ局から支払われる制作料だけでは、大赤字だったに違いない。それを、マーチャンダイジングによる収入や、アメリカに版権を売った代金で賄ってきたわけであるが、それでも、間に合わなかったようだ。
虫プロの中では、海外に版権輸出と、マーチャンダイジングによって虫プロは儲かっている、という空気が流れていて、そういう気分からおのずと増えていく出費の増大によって、赤字は、解消には向かわなかったらしい。
この赤字は、さすがの経営陣にとっても頭痛の種だった。その頃の経営陣の困惑ぶりを前掲山本暎一の『虫プロ興亡記』に拠ってみよう。
昭和三九年末の事と思われるが、ある日、チーフ・アニメーターの山本は重役室に呼ばれた。そこには穴見常務が待っていた。
「虫プロもねぇ、表面華やかだけど懐は苦しいんだよ」と常務がいう。
「まさか、だって、マーチャンダイジングの収入や海外売りやら、いっぱい入ってきているんでしょう。虫プロが金に困っているなんて誰が信じますか」
「しかし『鉄腕アトム』がテレビ局からくる製作費だけで出来てないのは、分るだろう。その制作費の赤字は莫大な額だ。版権収入や海外売りは、それを埋めるのにかなり消えてしまう」
「はあ」
穴見の説明は続いて行く。次の大企画である「ナンバー7」と「虫プロランド」の準備に金を食われている。さらに将来の発展を目指して増やしている社員の人件費とその教育費にも金がかかっている。それに設備投資も盛んである。第一スタジオの建坪を倍にしたし、道を挟んで、畑を借り、第二スタジオの建設中だ。ほかに二つの分室の部屋も借りているし、高価な撮影機や、連絡用の自動車も買い込んでいる。これではいくらアトムが稼いでも金は足りない。
本来なら、マーチャンダイジングの収入の大部分は原作者の手塚治虫個人のものであるはずである。それを全部、手塚からの借金ということにして、虫プロで使わして貰っているのだ。以上のことを穴見は諄々と説くのであった。
その上で、この赤字体質を治すために、これから制作するものは、制作費を倹約するために、一作ごとに制作予算をたて、その範囲内で制作して、その原価以上の金額で売るようにして、虫プロを黒字体質に変えていくのだと、穴見は山本に説明したという。
その方式による第一の作品に、手塚の名作「ジャングル大帝」を持ってくるというのであった。その総責任者、プロデューサーに、山本がなってほしいというのが、穴見の相談の目的だった。
当然、手塚の了解が必要な大事である。その了解を得ていると穴見は言う。

 プロデューサー・システムの導入

やっとここにきて穴見たちは、生産に当たっての金銭管理、経理のあり方について、無知な自分たちのやり方のまずさに、気が付いたというわけだ。やっと売値以下の金で商品を制作しなければ、企業は成り立たないことに気が付いたのであった。遅きに失する。それでは経営者としては落第だ。それでもなお、経営に対する自分たちに無知と無策を棚に上げて、赤字の責任は、手塚の作家的な芸術家的な制作方法にのみあるような考えから、抜けられなかった。手塚を抑えれば、黒字に転換できると安易に考えすぎていたと私は思う。

手塚は、次のように述べている。
「一昨年五月(昭和四〇年)、虫プロでは、穴見薫常務がこれまでのドンブリ勘定的経理を改め、虫プロを儲かる会社にしようとその改革に着手、まず僕にこう提言した。『手塚さん、あなたは経営に作家的立場を持ち込みすぎる。改革の第一歩はあなたに経営の主体からのいて貰うこと……今後の経営は、私たちにまかせてください』ぼくは彼の意見にしたがい、それまでのワンマン・システムを改めて、各人の個性を思う存分発揮してもらうため、社内にプロデューサー・システムをしくことにした。この新しいシステムによる第一作が『ジャングル大帝』である。(中略)勿論『ジャングル大帝』はぼくの原作だが、これのアニメーション化はぼくよりはるかに若いスタッフが手掛ければきっと若々しい、子供たちにアピールする作品になるだろうと期待した。思い切ってプロデューサー・システムに切り替えた理由の一つも、そこにあった」(月刊「現代」 一九六七年九月号 鉄腕アトム苦戦中)
そのプロデューサー・システムの第一回目のプロデューサーに選ばれたのが、山本であった。
穴見は、山本に向かって苦しい虫プロの経理面を説明したうえ、プロデューサー・システムに切り替えるにあたって、その最初の作品を山本にやってもらうことが、重役会で決まったから、早速準備にかかるように、と強く言うのであった。
漫画「ジャングル大帝」は、それまでの手塚の代表作の一つとされた傑作で、昭和二五年から七年間「漫画少年」に連載された長編ストーリー漫画である。手塚の作品の中でもひときわ長い大河ドラマであった。
アフリカのムーン山近くのジャングルの王者、白いライオンのパンジャの子、これも白いライオンのレオが、人間に育てられ、やがてジャングルに戻り、人間がきづいた文明を動物社会にも移そうと奮闘する物語である。
穴見は「これを30分番組で、毎週一回放送して、一年間、52本作る。勿論オール・カラーだ。どう、引き受けてくれるかい」
「やります。やらせて下さい」
これをやれば、先行する「ナンバー7」や手塚代表作の一時間番組「虫プロランド」担当の、坂本や杉井に肩を並べられる。山本の競争心を煽る提案である。
「坂本さんの『ナンバー7』の次の放送予定だ。今から準備してくれ。ただし三つの条件を守ってほしい。アメリカに売ることを成功させたい。そのためにNBCの関係者と話し合った結果なのだ。
第一が、放送一回一話完結、放送の時の順番を変えてもいいようにするためだ。
「しかし、先生の原作は話が連続して続いて行くんです。それを順序変えて放送したら、目茶目茶になっちゃう」
「そこを何とか、ストーリー構成で工夫してくれ。第二は黒人を出さない。もし出すなら悪役に使わない。第三は人間が動物を苛めないこと。まあ槍を突きさしたり、切り刻んだりしなければいいのだろう」
「先生は承知なんですか」
「承知している」
「手塚フアンは怒るだろうなー。どうでもあの名作をぶっ壊しても、アメリカに売らなきゃならないのですか」
「さっき話したような、経済事情でな。それを救うのは『ジャングル大帝』で成功するしかないんだ。最後にもう一つ条件がある」
「まだあるんですか」
「それは制作管理面だ。作品が出来たけれど、制作費に湯水のように使ってというのでは困る。厳密な予算管理の下でやってほしい」
「予算管理っていうのは、誰がするんですか」
「君に決まっているじゃないか。一本250万円、52本で1億3千万円、君に預ける。その範囲で作ってくれ。かかるものはしょうがないというやり方は止めにしてくれ」
穴見は初めて、もの造りの会社の重役らしいことを言った。今までは、それこそ、掛かるものはしょうがない、虫プロのあらゆる出費は「制作費」という「勘定科目』で一緒くたに処理すると言う、大雑把なものである。それをやめて、一本あたりに予算を立ててやろうとするのであった。
引き受けた山本は、原作を克明に読んで原作者の手塚の注文を聞く事から始めた。
手塚は、聞き分けのいい返事と意見を述べた。「あれは一〇年以上前の作品で今の子供にアッピールするように、現代感覚でやってほしい。ただ原作の持っている壮大な叙事詩という感じはなくさないで下さい」と話の分かるところを見せ、それから、放送の一年目は、レオの子供時代編にして、好評なら二年目大人時代編にするようにアドバイスするのであった。つまり大人と子供の二つのキャラクターに分けてそれぞれのエピソード集にするのがいいと、言うのだった。これだけ、大胆な料理法を出されると、山本は思い切ってやれると、肩の荷が少し軽くなったという。
ストーリー作りにかかるにあたって、シナリオライターに気心の知れた、辻真先を起用して、ストーリーを練った。一方、予算による制作の方は如何にするか、という問題は、先行する「ナンバー7」の制作費の立て方を見て、参考にしようと暢気に構えていた。ところが、その年、昭和三九年の暮も押し詰まって、穴見が慌ただしくやってきた。
「大変だ。坂本さんが、『ナンバー7』の制作担当を降りた。『ナンバー7』は中止だ」
坂本は、虫プロのプロデューサーで、アニメーターのトップである。その人物が新企画を降りたとなると大変ことである。
「『ナンバー7』は中止、虫プロランドは、この正月『新宝島』一本の放送で終わることに決まった。そうなると虫プロの放送のアニメは『鉄腕アトム』だけとなる。ここまで大所帯になった虫プロは支えられなくなる。だから残ったのは『ジャングル大帝』しかない。来年早々現場に入って、一〇月放送は可能だな、」
「まあまあ」
「その線で頼む、もし失敗したら、虫プロはおしまいだ」
山本は期せずして、虫プロの存亡を担うことになった。山本は考え込んでしまう。山本のアシスタントについた もり・まさき(後年漫画家となった真崎守)が、「でも、日本最初のオール・カラーのアニメをやるんだから楽しいじゃないですか」と山本を励ましたという。

アニメ「ジャングル大帝」の完成

昭和四〇年の正月四日。「ナンバー7」の中止、「ジャングル大帝」の発足などの新事態に備え、スタッフの編成替えが行われた。その会議には手塚を始め、プロデューサー、チーフ・ディレクターが集まった。山本は「ジャングル大帝」班に115人のスタッフを要求した。社内で一貫作業するために必要な人員だった。制作費の無駄を省くよう指示されていた「鉄腕アトム班」は90人の要求だった。虫プロの製作スタッフは230人いたから、25人ばかり余る事になった。そこで手塚が提案した。「W3」という手塚の漫画を急遽アニメ化する。チーフ・ディレクターは手塚が担当、白黒で30分、週一回放送の番組とすることに決まった。「鉄腕アトム」班から10人減らし、「W3」班は35人として、労力が足りない分は外注で間に合わせることになった。
「大丈夫ですか、先生」と穴見が心配したが、手塚は
「こうなったらやりますよ」手塚は意気軒昂ぶりを示した。
52本分の粗筋が出来たところで、山本は手塚の意見を聞きにいった。手塚は、ストーリーは最後の締め切り間際までに考えろ、と機嫌が悪かった。しかし、山本としては、端からスト-リー作りにかけたら日本一の手塚の目に適う筈がないと思っていたので、傑作を作ろうとするのを諦め、どんなことがあっても、時間に間にあうものを作る気持ちで、ストーリーを作った。これも予算の範囲で仕事をする、手段の一つであった。
もう一つ、予算の範囲で作るのは、計画的な生産である。その為には、一作ごとに、企画、作画、撮影、現像、編集、音響といった制作のプロセスごとに、いくらかかるかを掴んでいないといけないし、しかも完成後いくらかかったかを知るだけではなく、途中の時点でわからないと統制ができない。それらの方法は坂本の経験をもとに作ろうと思っていたのだが、もはやそれは自分でやるよりほかはない。
山本は何冊もの、簿記の本を買ってきて研究した。そうして工業簿記の原価計算ということが理解できるようになり、独自の原価計算の方法や月計、週計、日計の方法を創り出していった。アシスタントのもり・まさき(真崎守)が分析力のある所から、もりと協力して伝票や集計表を作っていった。それにしたがって、生産費の管理、原価計算を行っていった。演出家が原価計算の方法まで、自ら創らねばならない、というのも、虫プロが、経営面で、異常に遅れていたという証拠になろう。
ともあれここに、虫プロが、複式簿記による計算で、計画的生産が初めて、おこなわれるようになったのである。然しそれは虫プロ全体の経理とは違ったものなので、ジャングル大帝の班だけの専用にするしかなかった。それが
虫プロの経理の体制と合わないため、経理とやりあう場面もあったという。
“いいものを 早く 安く 楽しく”
をモットーに、山本は制作に打ち込み、四月の初めには、第一話が完成し、オープニング・フィルムを、スポンサー筋に見せるまでに至った。手塚もそれを見て
「画調がすごくモダーンになっているんでね、こりゃ僕のジャングル大帝とは違うなーと思ったけど、考えてみりゃ、テレビのアニメと漫画は違うんだし、あれでいいんじゃないか。自信を持ってやってください」とご機嫌だった。
昭和四〇年八月にスポンサーも決まった。カラーテレビの生産に進出した三洋電気、テレビ局はフジテレビ、一〇月六日の水曜午後七時から放映と決定した。「W3」もロッテがスポンサーとなり、六月からフジテレビ放送と決まった。
そして、「ジャングル大帝」はPTA全国協議会第一回推薦番組に決定した。その他多くの推薦を受けるに至る。
版権収入も着々のびて大ヒットの「鉄腕アトム」に迫る勢いであった。海外売りもアメリカの三大ネットワークの一つ、NBCにセールスが成功し、八月末に手塚と穴見が渡米していった。
視聴率も悪くなかった。第一話が21.7パーセント、以後21パーセントを上下していた。20パーセントを越えればヒット番組である。「鉄腕アトム」程の勢いはなかったが、手塚が制作に参加して無い事を思うと、まずまずの成績だった。
こうして放映が始まったが、次第に世評は上昇した。昭和四一年一月、テレビ記者会賞を受賞。三月には厚生省のテレビ映画優秀作品ベストテン第一位になり、五月には、厚生大臣児童福祉文化賞を受けるに至った。
こうして「鉄腕アトム」放送開始から、三年半の歳月がたった。その頃、テレビアニメは毎週一〇番組が放送さるにいたっていた。その内訳は、虫プロ、東映動画、TCJに三社が各二本、東京ムービー、Pプロ、日放映、チルドレンス・コーナーが各一という内訳になった。虫プロの二本は「鉄腕アトム」と「ジャングル大帝」で、「W3」は六月で終わっていた。「鉄腕アトム」は三年半という歳月を経て、陰りが見え初め、40パーセントを超えた視聴率も、27,8パーセントにまで落ちていた。
かわって、トップに立ったのは、ナンセンス・ギャグの流行の勢いに乗った、藤子不二雄原作、東京ムービー制作の「オバケのQ太郎』で、35パーセント超える視聴率を得ていた。「ジャングル大帝」は平均24パーセントで、健闘した。
虫プロの経営者は、「ジャングル大帝」の劇場用映画作成を企画したが、担当したプロジューサーの坂本が、意気込みすぎたのか、なかなか進行しなった。そのうちに映画の封切り予定日が迫ったので、山本がテレビ版「ジャングル大帝」を何本か纏めて、構成して、急遽映画版を作った。七月東宝系で封切られたが、大評判というほどにはならなかった。それでも次の年のベニス国際映画祭に出品され、サンマルコ銀獅子賞を受賞した。

子会社虫プロ商事の設立

「鉄腕アトム」の放映は、その一二月で、丸四年目を迎えようとしていた。それで、虫プロはさらに一つの転機を迎えようとしていた。「鉄腕アトム」はその年いっぱいで終了が決まった。かわって「悟空の大冒険」と「リボンの騎士」の二本が、準備されつつあった。
前者は手塚の漫画「ぼくの孫悟空」を原作に、チーフ・ディレクターに、杉井儀三郎、プロヂュウサーに、虫プロ最古さんの制作進行係であった、川端栄一が当たり、発足させたものである。後者は同名の手塚の漫画を原作に、これは手塚がチーフ、ディレクターとなり、プロデューサーには、東映から来た渡辺忠美が担当と決められた。
川畑と渡辺の二人のプロデューサーには、「ジャングル大帝」制作で行われたような、予算管理方式による制作が、穴見常務から厳命されていた。「ジャングル大帝」では穴見の指示した予算枠内での制作が、山本の努力により、ほぼ実現できていた。このことが穴見に強い自信をあたえた。それで予算管理方式を一層強化しようというのである。
それと同時に、経理部には、帳簿や伝票のシステムを改良し、従来のドンブリ勘定方式を排して、迅速に原価計算が出来る、複式簿記による管理方式に切り替えることを命じた。事業発足五年たって初めて、近代的経理方式に切り替えようとするのである。あまりに遅きに失したというべきであろう。
それでも穴見は、
「プロデューサー・システムと管理機構が育てば、よい作品が健全な財政の中で生み出されるようになる。そうなってはじめて、虫プロの事業体としての基盤がしっかりして、アニメ文化形成に、リーダーシップを発揮できる」
と周囲に説いて回った、という。同時に彼は新しい酒は新しい革袋に盛らねばならない、という言葉を引いて、虫プロの新スタジオの建設を主張してやまなかった。
虫プロの社員は今や、400人を超えて、彼らを収容するスタジオも、手塚の私邸内の第一スタジオではとっくの昔に、足りなくなり、近所の土地を借りて第二スタジオを建てて、まだ足りず、第三、第四、第五スタジオと富士見台のあちこちに分散して存在していたし、その他に、池袋に版権部、渋谷に営業部と、諸方に虫プロは分散している現状だった。これらを一か所に集めって機能的なスタジオを造ろうという計画を、穴見は立てていた。用地も、東急が開発中の多摩ニュータウンに決めた。
それらの実行には、多額の金がかかる。
そのためにも創立からの赤字体質から脱却しなければならないと穴見は、説いて回った。
テレビ局からの制作費の中で、アニメをつくっていかないと、虫プロは真に、儲けることはできない。ジャングル大帝は、一応、予算管理で作る道筋を付けたが、局からくる製作費の中で制作出来たわけではない。一本あたりに250万円で作ったが、それはテレビ局からの制作費と、マーチャンダイジングや輸出で得た収益で補填した数字なのである。
テレビ局からくる製作費の中で、制作して、海外売りやマーチャンダイジングの収入があれば、それがまるまる利益になるようにするべきだ。マーチャンダイジングや、海外売りは恒常的にあるものではないし、その額も予想できるもではないので、それに頼っては危険だ。以上のように穴見は説いて回った。こういう考え方は、事業をする者にとっては、ごく当たり前の事柄だが、それまでの虫プロのスタッフの頭にはなかった問題である。
これまでは海外売りや、マーチャンダイジングで、運よく莫大な収入を得て来たので、制作費が増大しても、赤字は何とか補填できるという安易な考えが、浸みついてしまったわけである。
そこで、その年の九月、虫プロの独立採算を維持する考えが浸透するようにと考え、虫プロという会社から、版権部、出版部、営業部を切り離し、「虫プロ商事」という別な子会社とし、虫プロは制作部門だけの会社にした。こうして虫プロは、テレビ局から払われる制作費だけで採算をとるようにしたわけである。マーチャンダイズの版権料や海外売りの収入を、虫プロ商事に入金して、温存し、これをもっと有効に使おうというのであった。こうして虫プロの赤字体質からの脱却を図ったわけだ。虫プロ商事は今井専務を社長にして、池袋に事務所を開いた。   
これらの施策は穴見の主導で、展開したので穴見体制と社内では呼んだ。
手塚は特に反対はしなかったようだが、このような会社に組織にしてしまって、虫プロが持っていた最大の長所であった、「作家精神」の衰退により、今後つくられる作品の質について、危惧したようだ。
だが、冷静な第三者の目から見れば、この方策は、はなはだ危険を孕んだものと見なければならなかった。組織というものは、一つできれば、その組織は、それが生み出された事情を離れて、勝手に動いて行くものである。そのことを頭に入れているものが、虫プロには、誰もいなかった。はたして虫プロ商事が、虫プロの繁栄に反した事業を、勝手に始めたりして、虫プロの存立を脅かしていくのである。このことは後章で述べることになろう。

 恐るべき背任
ところで、二社に会社の分離が行われて、間もなく、つまりその年の一二月、残業をしていた、穴見がスタジオで夜食を食いながら、急病で倒れ、そのまま亡くなるという惨事がおきた。病名は「クモ膜下出血」であった。
日本で最初のテレビアニメ「鉄腕アトム」の創始に奮闘した穴見が、それから丸四年「鉄腕アトム」が放送を終了した、昭和四一年一二月、時を同じくして生涯を閉じた。享年四二歳の若さであった。
手塚は、穴見の葬儀を虫プロの社葬にした。そして穴見の改革した構想をそのまま続けることにして、スタッフたちの不安を解消した。ただし新スタジオ建設計画は、見送りとなった。

その、穴見の急死のショックがまだ消えぬうちに、穴見の犯した大事件が発覚したのである。その事件を『日本アニメーション映画史』(山口且・渡辺泰共著、有分社 一九七七年)によって、述べてみよう・
穴見の死後、その居室の整理にあたっていた虫プロの社員が、とんでもないものを発見した。
それは虫プロの誰も知らないうちに作られた、フジテレビとの契約書であった。その契約書には、虫プロの社長以下重役の判が押され、全く合法的に完全なものであった。
その契約の内容というのは、虫プロがフジテレビから1億3千388万円の金を借入する代償に、虫プロの全フィルム資産をテレビ局に譲渡するという内容であった。なぜそのようなことが、穴見一人で出来たかというと、虫プロと、虫プロ商事とに分離するにあたって、新会社の登記のために、穴見が、虫プロの役員、つまり手塚を始め、手塚の家族で、役員をしていた人の印鑑、他の役員の印鑑を、全部穴見が預かっていた時期があった。その間に、その印鑑を使い、秘密裏にフジテレビとの契約書が作成されたのであった。
手塚をはじめ役員一同青くなって、フジテレビに契約書破棄の交渉に行った。局の方でも
「手塚先生もご存知なかったのですか」
と驚く始末だった。それからあれこれ交渉し、やっとフィルムの所有権は取り戻すことができた。しかし向こう一〇年間、放映権はフジテレビが占有するということで、やっと決着がついた。昭和五三年になって、フジテレビの占有はやっと終了した。
この事件は、まったく穴見の背任であった。なぜ穴見が、そんな背任を犯したのか、今日なお不明である。
手塚はその著書、『ぼくのマンガ道』(平成20年 新日本出版社)の中で、この事件について
「人を信じろ、しかし、人を信じるな」
ということを、深く胸に刻んだ、と述べている。(続く)

新・気まぐれ読書日記 (39)  石山文也 奇妙な孤島の物語

  • 2016年7月8日 19:52

新刊コーナーで珍しく衝動買いした一冊である。『奇妙な孤島の物語―私が行ったことのない、生涯行くこともないだろう50の島』(河出書房新社)。著者のユーディット・シャランスキーは、1980年に旧東ドイツの北東部、ポーランド国境近くのバルト海に面した港湾都市グライスヴァルトに生まれた。彼女は作家で、ブックデザイナーでもあったから地図の製作から装丁までを自身で手がけ、2009年の「もっとも美しいドイツの本」賞と「ドイツデザイン賞」の銀賞を受賞した。訳者の鈴木仁子は著者があるインタビューで「幼年時代は遮断されていた西側世界へはもちろん、故郷の外へすら出ることも許されず、行ったことも、行けるはずもないはるかな場所への想いが、自宅の居間にひろげた地図のうえではぐくまれた。港町とはいっても目の前に果てしなく広がる海だけがあり、東ドイツ全体がひとつの<島>でした」と語っていたのを知り日本語版の題名に「奇妙な」を付け加えた。私が目にしたのも真夏の海を思わせる表紙のブルーとこのひと言だった。

ユーディット・シャランスキー著、鈴木仁子訳 『奇妙な孤島の物語』(河出書房新社刊、本体2,900円)

ユーディット・シャランスキー著、鈴木仁子訳 『奇妙な孤島の物語』(河出書房新社刊)

「文学の棚なのか、紀行エッセイの棚なのか、地図の棚なのか、書店が置き場に悩むような本である」と鈴木は「訳者あとがき」に書いている。続けて「できるならどこにも置いてほしい。けれど孤島のロマンティシズムにあふれたエッセイ、きれいな地図のついた秘境ガイドだと思って手に取るとちょっと拍子抜けするかもしれない。未知の土地への憧れをかきたてるような旅の本とはいくぶん趣向がちがうのだ」とも。たしかにそうだ。それならわが書庫のように「島宇宙」というコーナーをつくって並べればいいと思うけどそんなのどこの書店でも見たことがないか。

著者を孤島への探索に向かわせたのは「はるかな世界」へのあくなき憧憬からだった。ベルリン州立図書館の地図閲覧室で「人の高さほどある地球儀のまわりを廻り、米粒ほどの大きさの島々の名を目にした時に、大洋にぽつんと浮かぶ僻遠の島のありようにひどく心をそそられた」という。ひところ私もパソコン画面で「Google Earth」に夢中になり、思いつく限りの地名を入力して楽しんだことがある。なかでも孤島探しは、はるか上空から海へと一気に落下していくような不思議な体験だった。インド洋や南太平洋、カリブ海などにはそれこそ無数の島があり、何もない海のど真ん中を指すアイコンをググって(=拡大して)いくとようやく島のかたちが現れる。さらに操作すると道路や集落や港などが・・・。もっとも地球儀には最初から島が書かれているのだからそこは少し違うかもしれないけど。

文学の世界では孤島を舞台にした『ロビンソン・クルーソー』や『宝島』、『ユートピア』、『テンペスト』、『ガリバー旅行記』などで<ここではないどこか>を繰り返し描いた。小説にとどまらず映画やアニメなどは古今東西、数知れない。漂流・漂着の果て、不幸にも置き去りにされたケースもあっただろう。手つかずの原初そのままの自然のなかで生命をかけたサバイバル、そこは既存社会から隔絶した理想国家でもあり、あるいはその逆も。「島は天国だ。また地獄でもある―」と帯にあるように島は世界の縮図であり、日常世界から逃れた「別世界」としてイメージされる。現実にも19世紀から20世紀にかけて野生の生命力にあこがれた画家ゴーギャンがタヒチに最初に移住した。地図だけが世界を知る術だった少女は、自らの想像力と地図を<道しるべ>にして行ったことのない孤島の物語を書き上げた。

手元の辞書を引いてみると【孤島】には「大陸や他の島から隔絶されて、海上にただ一つある島、絶海の―」(新明解国語辞典、第五版)、「海上遠く離れて一つだけある島」(広辞苑、第六版)、「陸地や他の島から遠く離れて、海上にただ一つある島」(明鏡国語辞典、携帯版)などと「一つだけある」と、用例の「絶海の―」が共通している。ところがこの本に紹介された孤島は必ずしもそうとは限らない。表紙のセント・キルダ島はご覧のようにいくつかの島から構成されている。イギリススコットランドの北西に位置する。(57°49′N、8°35′W)とあるから、ご関心があればググってみては。

聖(セント)キルダ、という聖人は実在せず、この群島の名の由来ははっきりしない。絶海に営巣する鳥のかすかなさえずりほどにおぼつかない名前である。イギリスの最果て、アウター・ヘブリディーズ諸島のいちばんはずれの島々だ。北西の風が吹くときでもなければ、とうてい渡る勇気の起きないところ。ひとつしかない村は、16軒の小さな家と、3軒の大きな家と、1つの教会からなっていた。島に未来があるかどうかは墓地をみれば一目でわかる。つまり、こういうことである―島の赤ん坊は、出生直後はみんな元気だった。4日目か5日目か6日目の夜に、ほとんどの子が乳を吸わなくなった。7日目と9日目のあいだに、新生児の3分の2が死んだことから、いつからか「8日病」と呼ばれ、原因は島民が常食にしているフルマカモメの肉や卵が母乳の味を苦くするとか近親婚、あるいは暖房に使う泥炭の煤に原因があるという見解もささやかれた。島民はといえば、これも全能の神のご意思だろうとつぶやくばかり。
(中略)
1876年6月22日、ひとりの女が船のデッキに立っていた。島に戻る船だった。セント・キルダの女がみんなそうであるように、この女も肌が柔らかく、頬が赤く、驚くほど澄んだ目をし、若い象牙のような歯をしていた。彼女は無事に子どもを産んだのだった。ただし故郷の島ではないところで。そうやって難を避けたのである。北東の風が吹いていた。故郷の浜からその姿が見えるようになる前から、女は生まれた子を潮風のなかに高々と差しあげてみせた。

もうひとつ紹介しよう。ラパ・イテイ島(27°36′S、144°20′W)フランス領ポリネシア、南太平洋オーストラル諸島。

フランス、ヴィージュ山脈の裾野にある小さな町で6歳になる男の子がしきりと夢を見るようになった。まったく知らない言語を誰かからおそわっているという夢だった。やがてこの男の子マルタ・リブランは、その言語がどこの言語なのか、そもそもそんな言語があるのかどうかも知らないまま、現実でもすらすらと話せるようになった。

ブルターニュ地方で暮らしていた33歳のリブランにレンヌ大学の研究者が目をつけた。彼らは2年間にわたりリブランが夢で学んだ言語を解読し、翻訳することを企てた。一風変わった発音を巨大コンピュータに入力してみたが成果は出なかった。港の酒場で船乗りたちに聞き回るうち、海軍にいたという男が反応した。「その言葉はたしかに聞き覚えがある。ポリネシアの孤島のなかでも、いちばんへんぴな島の言葉じゃないか」と。そして軍人と結婚してフランスに来たが離婚して郊外の福祉住宅に住んでいる女が同じ言葉を話すのを告げた。

女の住まいを訪ねたリブランが例の言葉で挨拶すると女は即座に挨拶を返した。彼女の生まれ故郷のラパ語で。

せっかくだから後日譚を書いておく。

ヨーロッパから一度も出たことのなかったリブランは、彼の言葉を理解してくれたたった一人の女性と結婚し、彼女とともに1983年、彼の言葉が話されている島に移り住んだ。

とまあ、こうした「奇妙な<実話>」が他の48の島にもそれぞれあって飽きさせない。

著者は「ここにおさめた内容の真偽を問うのは混乱のもとである。島はつねに現実の地理的座標を超えた、人心を投影する場所であるということからしても、学術的手法ではなく文学的な手段でしか捉えることができない」と書いている。当初は、眠りに就く前にいくつかの孤島を(読むことで)訪ねるのもおもしろいじゃないか、と始めたもののあれこれと想像が広がり、かえって眠れなくなることがわかってからは昼間に読むことに変えた。私の場合、聞いたこともない言語や<実話のその先>は夢には出てこなかったけれど孤島はやはり人間にとってそれだけですでに非日常的な、幻想の空間なのであろう。

ではまた

ヒトラーの時代(16) 池内 紀

  • 2016年7月7日 13:16
ヒトラーの時代

ヒトラーの時代

ナチス的選挙

ナチスは独裁制を非難されるたびに、それが民主的な手続きのもとに生まれたことを力説した。いかなる武力で権力を強奪したわけでもない。選挙でもって選ばれ、つねに国民の審判を仰いできた。

いかにもそのとおりである。泡沫政党に始まり、十数年で多数党となった。すべて厳しい選挙戦を戦ってのこと。ヒトラーへの全権委任を取りつけるにあたり、重要な政策決定には国民投票を約束した。必ず国民の同意を求める。民意が「否」とするなら、直ちに政権から去るであろう。——

たしかにヒトラーが政権についた1933年1月より重要な政局の展開のたびごとに国民投票が実施された。ナチス体制は民主制以上に民主的であるとナチスはつねに主張した。国際連盟脱退、ヴェルサイユ条約軍備制限条項廃棄と再軍備、ラインラント進駐など、国を左右する決定のつど、国民投票で信を問うた。その点で言うとナチズムは、民主的な手続きのもとに運営された独裁制ということになる。

だが、よりくわしくながめていくと、どうだろう。国民投票という制度のあり方、「民意」なるものがいかに危ういものであるか、あぶり出されていくのではなかろうか。

政権獲得以前にさかのぼる。

1923年11月のミュンヘン一揆の失敗のあと、ヒトラーは戦術を転換した。暴力的蜂起によるのではなく、民主主義の枠のなかの合法的、もしくは擬似合法的手段を求め、それを仮借なく利用し尽くすことで権力の座に到達する。

翌24年5月の総選挙でナチスは32議席を獲得。戦術転換は一応の成果を収めた。前年末の天文学的インフレは、レンテンマルクの発行によって鎮静。社会民主党は171議席から100に激減、第一党の地位を失い、かわって農民に基盤を置く保守的なドイツ国家人民党106が第一党になった。ヒトラーがランツベルク獄中で私設秘書ルドルフ・ヘスに『わが闘争』を口述していたころである。

国会はドウズ賠償案をめぐり混乱して解散。1924年12月の総選挙では、社会民主党が躍進(131)、国家人民党103、カトリック中央党69、共産党は62から45、ナチスは前回の32から4に激減した。極右と極左が減少して、全体には変化がなかったわけだ。

この間、ヒトラーはSA(突撃隊)の党中央部統制、党員の拡大、キレ者ゲッベルスのベルリン管区ガウライター(大管区指導者)抜擢(ばってき)、ニュルンベルクでのナチス全国大会開催など、党再建につとめた。1928年5月の総選挙。

社会民主党  153

国家人民党  78

中央党    61

共産党    54

人民党    45

ナチス    12

再建後初の総選挙にあたり、ナチスは全ドイツに候補者を立て、大々的に党の宣伝につとめたが、結果は悲惨だった。3100万票中の81万票、得票率2・6%にとどまった。その同じ党が、わずか5年後に権力の座につき、あらゆる政治的慣例と伝統を弊履のごとく捨て去る勢力となったのだから、党自体の力学ではなく、大波さながらの時代の流れが、木の葉のように「民意」を動かしたことが見てとれる。

1931年のナチス、諷刺。「党への貢献」。まだ、情況は逼迫してはいなかったが……

1931年のナチス、諷刺。「党への貢献」。まだ、情況は逼迫してはいなかったが……

1929年10月、ニューヨーク株式取引所大暴落。「暗黒の木曜日」といわれ、(日本では「暗黒の金曜日」)、世界恐慌の始まりである。それはただでさえ脆弱なドイツ経済をなぎ倒した。工業生産は三分の二に急落、失業者は増大の一途をたどり、全労働者の三割に達した。とめどない不況と社会不安のなかで、反コミュニズム、反ユダヤ過渡派が急激に勢力をのばしていく。

1930年7月、ブリューニング首相の財政改革案が否決され、国会解散。ヒトラーは飛行機を使って猛烈な選挙戦を展開。スローガンは「強いドイツの復活、ヴェルサイユ条約破棄、ユダヤ金権貴族征伐」このときはじめてプラカードに「フューラー(総統)」の名称があらわれた。

9月の総選挙の結果。

社会民主党   143

ナチス     107

共産党     77

中央党     68

ドイツ国家人民党 41

深刻な経済不況と500万をこえる失業者のなかで、ナチスが地滑り的に躍進、これまでナチ党に懐疑的だった保守的農民層も一部がナチス支持に転じたことがうかがえる。

10月の新国会開催にあたり、ナチス国会議員はSAの褐色の制服で登院。ブリューニング首相への不信任案、ヴェルサイユ条約破棄など矢つぎばやに要求して、国会を混乱に陥れた。

同じ10月のことだが、ユダヤ人劇作家エルンスト・トラーが雑誌「世界舞台」に「帝国首相ヒトラー」を発表している。明敏な劇作家には、社会民主党をはじめとする民主勢力が党内闘争にあけくれて大衆の支持を失い、ファシズムが着々と権力を掌握していくプロセスがまざまざと見えたのだろう。「ヒトラーは権力の座を目前にしている。多くの人びとは彼に一度政権を委ねてみようと考えている。そうすれば彼はすぐに失策し、政権の座を降りるだろうというのである」

たしかにそれが、おおかたの時代の「空気」だった。対してトラーは警告した。ナチスは民主主義の形式にしたがい、ひとたび権力を手にしたならば、もはや民主主義的手段によっても、決してその権力を手放しはしない。「ヒトラーは社会民主主義の成果を一掃するだろう。一夜にして共和国のすべての社会主義的な官吏、裁判官、警察官たちはその職を奪われるだろう……。自由が奪われたあとには、恐ろしくも血なまぐさい混乱と戦乱が続くだけである。時計は12時1分前を指している」

三年もたたないうちに、ほぼその言葉どおりになった。なんと的確に見通していたことだろう! ちなみにトラーは1939年、ニューヨークに亡命したのち、その地で自殺した。

1932年4月の大統領選挙にヒトラーは出馬。

ヒンデンブルク(再選) 1939万票

ヒトラー(次点)    1341万票

テールマン(共産党)  370万票

同年7月の総選挙。

ナチス   230

社会民主党 132

共産党   89

中央党   76

国家人民党 37

ナチスは投票者数1373万2779票を集め、議席608の中の第一党に躍進、得票率37・4%。ヒトラーは政権と国家権力の移譲をヒンデンブルク大統領に要求。これに対して大統領は連立政権の副首相としてパーペン内閣への入閣を説諭したが、ヒトラーは拒否。11月、またもや国会解散。総選挙でナチスは第一党を維持したが、あまりにも強引なやり方が反発を買ったのだろう、196にとどまり、34名の減少、社会民主党121、共産党100で躍進、中央党70、国家人民党54。国防相シュライヒャー将軍が内閣を組織したが、寄せ集めの連立内閣はこれまでと同じく早々に行きづまる。

1932年3月.共産党のポスター。やがて、この風景も消えていく。

1932年3月.共産党のポスター。やがて、この風景も消えていく。

1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領は不本意ながらヒトラーを首相に任命。ヒトラー内閣成立。2月1日、ヒトラーの強い要請で大統領は国会を解散した。ヒトラーは広汎な全権委任を求め、必要な多数決を獲得するために総選挙を選んだわけだ。あわせて2月4日、「ドイツ国民保護のための大統領令」を公布した。出版と言論の自由に対する厳しい制限、取り締まり強化をうたった法令で、デモ及び屋内政治集会など七つの基本権の停止、新聞その他の出版物の発行停止を命じることができる。ヒトラーは「ドイツ国民保護」の名のもとに法令を通過させた。パーペンをはじめとする閣僚のだれ一人として、反対政党の機能をマヒさせ、世論を支配することを可能にするこれらの規制に抗議しなかった。

1933年3月5日、総選挙。(全議席・647)

ナチス    288

社会民主党  120

共産党    81

中央党    73

ドイツ国家人民党 52

ヒトラー政権の最初で最後の総選挙となった。3日後、国会議事堂炎上の疑義のもとに共産党は禁止され、共産党議員は国会議席を剥奪された。議席数は566に減少し、ナチスが単独で過半数を獲得する事態になった。

同じ3月、ヒトラーは政府内に啓蒙宣伝省を創設。ゲッベルスが情報宣伝大臣として閣僚に加わった。

ほぼ十年間の選挙から目につくことはないだろうか。たとえば、右から左まで民主勢力の中核になった国家人民党、中央党、社会民主党の得票率に、大きな変化のないことだ。都市労働者が支持母体である社会民主党に多少の変動はあれ、終始100前後の議席数を維持している。共産党も、ほぼ同じ。

ナチスの膨張については、つねづね、ドイツ経済の破綻と社会不安が地滑り的な勝利をもたらしたと言われるが、しかし、民主勢力の支持者はほとんど奪っていないのだ。ふつう選挙結果のリストにはなかなか出てこないが、ワイマール国会は常時30にちかい弱小党を持ち、おおかたが集合離別をくり返していた。ナチスが標的としたのはこのその他大勢の浮動票である。ヒトラーのイデオロギーは小市民層に対応することがよく言われたが、それは正しくはないだろう。小市民層はとりたててイデオロギーに固執などせず、そのときどきの利害によって、簡単にイデオロギーを取り替える。その際、わかりやすくなくてはならず、仮想敵が名ざしであって、怒りをぶつけやすいことが必要だ。ヒトラーのあきもせずくり返す演説の手法、またユダヤ人をなざしした論難は、まさしく浮動票のとりこみを意図していた。

ナチスが政権についてのちの1933年3月5日の選挙は、あきらかに自由選挙とは言えなかった。ゲッベルス率いる啓蒙宣伝省の猛烈なプロパガンダの一方で、他の政党の機関紙はさまざまな名目で発刊停止を命じられた。SAによるデモ行進が新聞社になだれこんで印刷所を破壊する事件も起きた。ゲーリング支配下の警察は傍観し、最終的に「暴徒からの保護」を名目に編集長らを拘束した。

そのような状況のなかで、ナチスは第一党の票数を得たが、民主政党もかわらず堅実に議席を確保していた。ゲーテやシラーを生み出し、古くからドイツ市民層の屋台骨を形成してきた中産階級は未曾有のインフレや底知れぬ不況のなかでも、おおむね健全な政治感覚を失わず、自分たちの支持母体を変えなかった。

そのことをとりわけ痛感したのは、ナチス幹部たちだったのではなかろうか。だからこそ「国民保護のために」といった詐称を用いて合法的テロの法令を通過させた。単独多数を獲得するため、強引に共産党を禁止して解党させた。政治学では「ユーフェミズム」といわれるが、遠まわしの言い方で、自分たちに都合のいい法律を実現していく。いかにそれが威力を発揮したか。ナチス政権誕生後半年たらずの間に、ドイツの伝統ある政党がすべて解党に追いこまれ、ただ一党の政党からなる国家が出現したことからもわかるのだ。

以上は全国的な視野から見た選挙結果である。ごく小さな視点から同じ結果をながめてみると、さらにちがった位相があらわれるだろう。ナチス式選挙のおさだまりの手法が見えてくる。

南ドイツ・ボーデン湖のやや北寄りにメスキルヒ(Messkirch)という小都市がある。人口約4500人。これといって何もない町だが、哲学者マルティン・ハイデッガーの生まれた町として知られている。南ドイツはもともとローマ・カトリックの強いところで、メス(ミサ)・キルヒ(教会)の地名からわかるように、メスキルヒ市民の九十%はカトリック教会に属しており、政治的には圧倒的にカトリック中央党の地盤だった。

ドイツの文芸学者がハイデッガーとナチズムの問題を調べていて、思いがけない現象に気がつき、「メスキルヒでの権力掌握」の名で一章にまとめた。(

H・D・ツィマーマン『マルティンとフリッツ・ハイデッガー』平野嘉彦訳・平凡社・2015年)。哲学者ハイデッガーが、いち早くナチ党に入党し、ヒトラー総統への熱烈な連帯の挨拶を送っていたころだが、生地ではナチ党と中央党の最後の戦いが演じられていた。結果を先に言えば、最初から、そして権謀術数を弄した最後の戦いにいたるまで、メスキルヒ、また周辺の地域全域では、ナチスは一度たりとも権力掌握に成功しなかったのである。

ナチスがメスキルヒに登場するのは1924年12月の総選挙で0・5%の得票率、全国では3%だった。

1928年5月はメスキルヒ0・3%、全国で2・6%。この同じ党が、わずか5年後に第一党に躍り出るなど、果たして誰に予想できただろう?

世界恐慌ただなかの1930年9月、やはり大きな変化があった。ナチ党員はメスキルヒでも大きく躍進した。ただし、全国で18・3%だったのに、メスキルヒではその半分にも足りない8・4%である。これに対して中央党は46・6%、近郊のオーバーバーデン全域では58・5%。中央党は全国平均では⒒%であって、それはワイマール時代を通じて変わらなかった。

ナチス政権前夜にあたる1932年の二度にわたる選挙において、ナチスは大きく得票率をのばした。メスキルヒでも同様で、七月は25・5%。しかし中央党は52・5%を誇っていた。12月の選挙はナチスの伸びにかげりが見えたときで、メスキルヒでは19・7%に低下、全国で33・1%だった。中央党はメスキルヒで52・5%、地区全域では58・4%を獲得していたのである。

1933年5月が「自由選挙」ではなかったことは、いまも触れた。ナチスはなりふりかまわず策をもってあたり、メスキルヒで34・7%、地区全体で43・9%の成果を出した。だが中央党はメスキルヒで44・4%地区全体で45・3%。ナチスは権力掌握にはいたらず、中央党の絶対多数に制約されていた。「民意」に見るかぎり、ナチスは当地では、伝統的なカトリックの多数党と張り合える勢力ではついぞなかったのである。

中央党の機関紙「ホイベルク民衆新聞」は、党派をこえて市民に親しまれていた新聞だった。自治の発達したドイツでは、地方また小都市ごとに新聞が発行されており、それが本来のメディアだった。いわゆる「全国紙」にあたる新聞がなくもないが、部数は五十万なり八十万なりで、百万をこえることはない。ごく限られた層の新聞であって、地方に根づいた部数一万、二万の新聞こそ人々の日常紙にあたる。

メスキルヒは無数の全国の小都市の一つだった。国家人民党はドイツの農民層に基盤をもち、第一党からすべり落ちてのちにも、中央党に次ぐ議席を常に確保していた。カトリック都市メスキルヒがみせたような現象が、農村都市のあちこちで見られたにちがいない。ナチスは多くの地方において、浮動票にわずらわされない「民意」では、絶対多数に達することはなかったのである。

1933年1月、ヒトラー政権が移譲されたのは、政治的野心家パーペンの策動の結果とされている。パーペンは遅から早かれゆきづまるはずのヒトラーの後任を意図して、さしあたり権力を譲った。その手のことはお見通しのヒトラーは、パーペンの策動を逆手にとって権力を確保し、そののち、無用となった野心家は閣外に放逐した。

ナチスは勝利は獲得できなかったが権力は手に入れた。むろん、それで十分であって、あとは直ちにナチス流をすすめるまでのことなのだ。中央党の町メスキルヒの市民は、勝利を与えなかった政党に、心ならずも屈しなくてはならず、自分たちのあずかり知らぬイデオロギーを奉じなくてはならなかった。むろん、それだけではなかったのである。

ツィマーマンの『マルティンとフリッツ・ハイデッガー』は、ハイデガー家の二人の兄弟とナチスの関係を克明にあとづけたものだが、兄マルティンは新進哲学者として頭角をあらわし、ナチスの時代にはフライブルク大学総長をつとめた。弟フリッツは生涯、地元メスキルヒの信用金庫のしがない窓口職員だった。

キャリアが大きくちがうように、ナチスとのかかわりでもそうだった。高名な哲学者はいち早くナチ党に入党。その後、少しずつ距離を置いて時代に対処した。信用金庫の弟は当初からヒトラーに批判的で、町の祭礼では道化に扮して辛辣にナチスを槍玉にあげた。ゲシュタポの嫌疑にかかりながら、ナチスの時代を生き延びることができたのは、カトリック教会をはじめとする小都市の反ナチ援護システムが陰に陽にはたらいたからである。おのずとそんな経過から、1933年1月以後の小都市におけるナチスの選挙対策が見てとれる。

2月16日、メスキルヒ中央党機関紙「ホイベルク民衆新聞」は言いがかりとしか思えない理由により3日間の発行禁止処分を受けた。禁止がとけて発行を始めたとき、おのずと「論調は従来より慎重」にならざるを得なかった。

さらに当地では中央党をはじめとする党の政治集会が、ナチス突撃隊員によって妨害された。突撃隊員は松明(たいまつ)とファンファーレとともに街路をデモ行進。それはあきらかに「人心を抑圧する」狙いをもっており、また実際に「あやまたぬ効果」をおさめたのである。

3月の選挙でナチスが、これまでなかった高得票をあげたことは先に述べた。にもかかわらず中央党は、それを上まわる得票で、ナチスに強力に対峙していた。「ホイベルク民衆新聞」はナチ党員を「不平不満をかこち、猟官運動をする連中の扇動者」と名づけ、総統ヒトラーを、近年ドイツを騒がせた連続殺人犯ハールマンになぞらえた。

そんな場合のナチスの常套手段だが、ひそかに警察に図って報復に出る。4月のある日、編集長が保護検束された。名目は「民衆の怒りから守る」ためだった。つづいて編集者が同じ処分を受け、「ホイブルク民衆新聞」発行禁止を命じられた。

5月1日、編集長は地区の役所の許可をとって新聞発行を再開したが、それが最後の号になった。この日は哲学者マルティン・ハイデッガーがナチ党に入党した日であって、ベルリンでは総統を迎え、十数万規模の大集会が開催された。5月2日、計画されたデモ隊が「ホイベルク民衆新聞」社前で騒動を起こし、屋内に侵入して編集室を荒らしまわった。そののち編集長を「民衆の怒りから守る」ために警察が姿をあらわして保護検束。カトリック系新聞の社屋に鉤十字の旗がかかげられた。

カトリック司教区の司祭が弁護に立った結果、編集長はメスキルヒ地区に立ち入らないという条件で釈放された。「ホイベルク民衆新聞」はひきつづき刊行を許されたが、「カトリック日刊新聞」としてであって、「ドイツの民族的新秩序の精神と基盤」にもとづき、「国と地方の政府を積極的に支持する」ことが発行の義務となった。

メスキルヒでは、ほかに「メスキルヒ民衆新聞」「メスキルヒ新聞」の二紙が出されていたが、ともに廃刊に追いこまれ、1935年以後、この地域に存在したのは、ナチスの新聞である「ボーデンゼー評論」のみだった。

まだ正常だったころの「ホイベルク民衆新聞」が、いまや我が世の春のナチス党員を「不平不満をかこち、猟官運動をする連中の扇動者」ときめつけたのは、これもナチスにおなじみのことで、政権をかさにきて地区の役職に介入を始めたからである。ナチ新聞はそれを「大掃除」と称していた。何やかや理由をつけて市の職員を追い出し、古参党員から順にポストをあてがっていく。ナチスの地区指導者は健康保険組合長になった。SS部隊長は市会計課、SA攻撃部隊長は市参事会にポストを得た。虎の威をかる狐、権力の片棒かつぎ。社会的なひがみをもって生きてきた者が権力の、末端をになうと、いかに凶悪であるか。また時流に敏感な小市民タイプは、いかに小狡(こずる)く、小さな権力者にすり寄っていくものか。

1933年6月、社会民主党は禁止され、メスキルヒ市議会の社会民主党議員も辞職せざるを得なくなった。七月。中央党がみずから解散する羽目になった。つまりはそこまで追い詰められた結果であって、メスキルヒ市議会の中央党の代表も全員辞職。国会とひとしく南ドイツの小都市でも、市議会はナチス一党のみの運営になった。

くり返し言えば、メスキルヒは大小問わず多くのドイツの都市のサンプルである。全国いたるところで同様の「ナチズム一元化」が進行した。わずか半年にたりないなかでのできごとであって、気がついたとき、市民は自分たちの代弁者を失い、よるべなき代理者ももはや持たず、公私を問わず監視の目にさらされていた。二年前にある週刊誌は、「党への貢献」とするカリカチュアをのせた。雪の上に小水で鉤十字をえがく酔っぱらい。いまやそれは命がけの冒険にもひとしくなった。ナチスが誇らかに述べた「国民投票」がいったい、どのような「国民」の「投票」によるものか、たやすく推測がつくのではあるまいか。

ヒトラー体制最初の国民投票は、1933年11月12日に実施された。ヒトラー内閣信任と10月14日の国際連盟脱退の当否をめぐる投票が一つ、これに国会議員選挙がかさなった。選挙とはいえ政党は一党のみ。「ホイベルク民衆新聞」は最後の意地と良心を微妙な言いまわしに託して市民アピールを掲載した。

「カトリック教徒たる善男善女の選挙民に次ぐ。汝は、11月12日の国民投票に赴くや。われらが平等と平和がために一票を投ぜんものと、すでに決意せるや。汝ははや決意し、大々的なる国民社会運動に賛意を表する欄に、おのが十字の印を書きこみつつ、おのが手の内なる平安がためにさしだすほどに、十分に無私たりうるや。もしくは、憤りつつも拱手傍観し、カトリック教徒は国民の一員たるにあたわずとの非難に、いまや論拠を与えんとするや」

国民投票と、帝国議会選挙の二種の投票用紙が用意されていた。緑色の国民投票の用紙にはこう書かれていた。

「あなたはドイツ人として、あなたの帝国政府のこの政治を承認しますか、そして、それがあなた自身の意見と意志の表現であることを宣言し、厳粛にこの政治にたいする支持を表明しますか」

下に可否を記入する欄が設けてあった。帝国議会選挙の投票用紙には、ヒトラーの党のみが示されていて、十字印を記入すべき欄も一つしかなかった。ともに誤解の余地などなかったが、ご丁寧にも、次のような注意が添えてあった。

「有権者は、国民投票に際しては、緑の投票用紙のあらかじめ「可」と印刷された箇所の下部にあたる欄に、十字印を記入しなければならない。「否」の下部の欄は、空白のままにしておくこと。帝国議会選挙の投票用紙には、国家社会主義労働者党の後の欄に、十字を記入する」

総統に賛意を表明しないでおこうと思えば投票を棄権するか、無効票を投ずるしかない。メスキルヒでは1555人の有権者を数え、その96・4%が投票した。棄権すると記録にとどめられ、56名だった。「否」の投票は47名だった。無効票47。合計するとこの時点でなおナチスを拒否する勇気を持ち合わせた人は有権者のおよそ10%だった。

1933年11月。ナチス一党の国会。まさしく独裁の完成。

1933年11月。ナチス一党の国会。まさしく独裁の完成。

あとは簡単に触れておく。

1934年8月19日、「国家元首法」に対する国民投票が実施された。総統兼首相が大統領を代行することの賛否を問うもので、投票率96%。さすがに権力者の臆面もなさに、賛成は88・9%とどまり、約500万の「否」票が出た。

1936年3月29日。ロカルノ条約破棄と非武装地帯だったラインラント進駐の信任に関する国民投票が施行され、投票率99%、そのうちの98・8%がヒトラーの決定を支持、独裁者にとって夢のような数字が実現した。

1938年4月10日、国民投票。同年3月のオーストリア併合の是非を問うもので、ドイツ99・08%、オーストリア99・75%が賛成。オーストリア生まれのヒトラーは「わが人生、最高の時」と談話を発表。

これが最後の国民投票となった。不要とみなされたからだろう。情報宣伝省による情報と宣伝の一元化にはじまり、国と地方のあげての信任と監視システムが完成したのであれば、わざわざ用紙を用意して箱に投ずるまでもないのである。

* 引用は次による。

* H・D・ツィマーマン『マルティンとフリッツ・ハイデッガー哲学とカーニヴァル』(平野嘉彦訳・平凡社・二〇一五年)

書斎の漂着本(90)蚤野久蔵 新鬼平犯科帳「誘拐」

  • 2016年7月6日 18:05

池波正太郎の人気シリーズ「鬼平犯科帳」は『誘拐』の連載3回目を月刊『オール讀物』に発表したところで著者の死去により未完となった。帯に「最終巻!」とあるように逝去直後の平成2年7月に文藝春秋から単行本として出版された。ご存じのように盗賊どもから「鬼の平蔵」と怖れられている幕府の火付盗賊改方長官・長谷川平蔵が、配下の与力・同心、密偵たちを従えて、怪盗妖盗を相手に毎回水際立った活躍をする。スリルのなかにユーモアがあり、サスペンスの陰に濡れ場がある。しかも通り一遍の勧善懲悪ではなく、江戸の風物や四季折々の食べ物などが登場して忘れがたい味を添える。

池波正太郎著『誘拐』(文藝春秋刊)

池波正太郎著『誘拐』(文藝春秋刊)

所有する単行本はこの一冊だけだが文庫は旧版と、同じく日本画家・橋田二朗画伯の挿絵が表紙を飾る新装版を取り混ぜて24巻すべてを持っている。読み出したらクセになるのに加え「そのことについては〇〇で詳しく述べておいたが」と書かれているとどうしても確かめたくなるので手放せない。作者を問わず「お気に入りのシリーズがある」という皆さんならおわかりいただけるのではあるまいか。とはいえジャンルを問わず乱読の私、毎月の『オール讀物』を欠かさず購読していたわけでも単行本や文庫が出るたびに次々に求めたわけではない。うち何冊かを読むうちその魅力にどんどん引き込まれていったわけで、この『誘拐』もたまたま古書店の均一棚で見つけたのだから根っからの鬼平ファンからすれば<新参者>のそしりは免れないだろう。

おさらいしておくと長谷川平蔵は江戸時代中期に実在した人物である。長谷川家は大和国=奈良県長谷川にルーツがあってその地名を姓とし、戦国末期に籐九郎正長が徳川家康に仕えて以来、代々旗本として四百石を知行した。平蔵の没年は寛政7年(1795)で享年50歳だった。幕府の西丸書院番、御先手弓頭などを経て火付盗賊改方長官となり当時は大川と呼ばれた隅田川の中州の石川島に罪人たちの更生保護を目的とした人足寄場を創設して運営を任された。激務に追われ休む間もなかった人生の<早すぎる死>だったが生年月日も含め細かい記録までは残っていない。シリーズ最初の『本所・桜屋敷』に詳しく描かれた平蔵の生い立ちなどはすべて池波の創作である。池波によると籐九郎正長から八代後の宣雄が平蔵の父で、末弟の三男坊に生まれた宣雄は謹厳実直な人物ではあったが養子の口もないまま長兄の世話になっていた。三十近くになっても妻を迎えることもできない寂しさから下女のお園に手を出し、その腹にやどったのが平蔵である。お園の実家は巣鴨村の裕福な農家・三沢仙右衛門家だ。宣雄は長谷川家の跡を継いだ長兄の子である甥の逝去で家督を継ぐため姪の波津と結婚したあとも平蔵は17歳の夏まで祖父である巣鴨の仙右衛門宅で暮らし続けた。継母となった波津は気性も激しく自分で後継ぎを産みたいと言い続けたため平蔵の引き取りを頑なに拒んだが女子しか生まれなかった。ようやくあきらめて平蔵を屋敷に迎えてもことあるごとに「妾腹の子」と言い立てるだけでなく、食事も奉公人と同じ扱いとするなど死ぬまで苛め抜いた。

反発した平蔵はしばしば屋敷を抜け出し、本所・深川界隈を根城にして無頼の者と交友した。放蕩三昧の一方ではその腕力で盛り場や悪所にはびこる無頼漢たちを押さえ「入江町の鬼」とか「本所の銕(てつ)」と呼ばれたことが紹介される。こうした前半生が昔なじみの登場人物たちにも投影される。火付盗賊改方はあくまで犯人を追跡し、身を挺して悪と闘う。厳しさと優しさを併せ持ち、部下の統率にも優れ、多くの密偵からもこの人のためならたとえ命を捨ててもと慕われる。平蔵はまさに民衆の下情に通じたキャラクターだけに長官(おかしら)にはうってつけの人物で、そこも読者をとらえて放さない。「人間というやつ、遊びながらはたく生きものさ。善事を行いつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ」という人間観はそれまでの捕物帳とはひと味違い、江戸の暗黒街や盗賊、武家社会、そこからはみ出た浪人まで眼を配った<世話物>の連作である。単行本では7冊が「鬼平犯科帳」その後の12冊が「新鬼平犯科帳」として出版された。

さきに新参者であることはお断りしておいたが創作といえば「犯科帳」というタイトルも連載を始めるにあたり「いわゆる<謎とき>の捕物帳を書くつもりはなかった。そうした小説は、これまでに何人もの作家が手がけているし、どうしてもパターンが決まってしまう」と書いている。22年にわたって書き継がれた人気の連作だけに盗賊たちのユニークなネーミングだけでなく多くの用語が生み出された。例えば盗賊の仕事は「盗(つとめ)」、押し込みに適当な商家を探し、屋敷の図面や財産、使用人の人間関係などを調べ上げて情報を盗賊に売る仕事を「嘗役(なめやく)」フリーランスの盗賊を「流れ盗(づとめ)」、その紹介や周旋にあたるのが「口合人(くちあいにん)」といった具合である。池波は「真の盗賊」のモラルとして繰り返し

一、盗まれて難儀するものへは、手を出さぬこと。
二、つとめするとき、人を殺傷しないこと。
三、女を手ごめにせぬこと。

をあげるが、それだけの仕事の準備には長い時間と費用がかかるから鬼平の時代には荒仕事に走る輩が増加した。鬼平は三カ条から外れた泥棒はあさましい「急ぎばたらき」「畜生ばたらき」として容赦しない。

ところでこの『誘拐』は未完ながら読者アンケートでは常に「ベスト5」に入っているという。他の長篇は5回か6回で完結するからようやく半ばにさしかかったあたり。女密偵のおまさが誘拐され、その背後に幾組もの盗賊の影が見え隠れする。なかでも有力なのが炎の赤い色、火付けに異常な関心をもつ女賊でレスビアン、荒神のお夏である。密偵であることを隠して一味に加わったおまさとは過去に盗めが終わったら上方で一緒に暮らそうと約束しながら裏切られた。おまさは命を失うことも覚悟の上で「おとり」になることを申し出た矢先に賊の手中に落ちた。火付盗賊改方は同心や密偵総動員でおまさ奪還に動き、ついに誘拐にあたった浪人たちの隠れ家を突き止めたところで終わっている。

池波は対談で「いまさら綿密なノートをとったり、構成を組み立てから書き始めるということはできない。書き出しても結末がどうなるなんてことは自分でも分からないんですよ。登場人物である密偵たちが危難にあうのも彼らの過去と性格とかが抜き差しならないものになってしまっているからではないかなあ。ばかばかしいと思われるかもしれませんがね、ペンで作り上げた人物が本当に生命を持ってしまうとしか思われないときがあるんですよ」と語っている通り、それからの展開は何も残さないまま逝ってしまった。果たしておまさはどうなるのか、お夏との濡れ場は・・・ここまで書いて来てちょっとドキドキしてきたことを告白しておく。