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私の手塚治虫  第26回  峯島正行

  • 2016年6月24日 15:09

どんぶり勘定だった虫プロの経理

記録的視聴率

日本最初の毎週放映のテレビ・アニメ「鉄腕アトム」好調にスタートを切った。第一週は27・8%の視聴率であったが、二週目は28・9%、第三週は、29・6%としり上がりの好調ぶりであった。そして第四週目の1月22日の放送では、大ヒットの基準である、30%の線を越え、32・7%の視聴率を記録した。
それに気をよくして、制作者一同、昼夜兼行で頑張った。手塚は当時を回想して、次のように書いている。
「三八年一月一日、アトムは第一回の放映を開始した。この時の感慨は終生忘れられないだろう。わが子がテレビに出演しているのを、はらはら見守る親の気持ちだった。終って、エンドタイトルが出た時、
『アーあ、もうこれで一本分終わってしまったなあ』
とつくづく思った.次の一週間はあっという間にたってしまった。
スタッフは、死にものぐるいで徹夜の奮闘を続けた。作っても、作っても、毎週一回の放映というテレビの怪物は、作品をかたっぱしから食っていった。二,三ヶ月のうちに、視聴率や、評判が上がるのに反比例して、スタッフの顔はぞっとするほど痩せ衰えていった。みんなを支えていたものは、我々は開拓者なんだというプライドだけだった。何人かが、ノイローゼになり体にガタがきて休んでしまった。アトムの画面に、ときどき、楽屋落ちのスタッフの似顔絵が出てくることがあったが、それがみんな、やつれはて、鬼気迫った顔に見えた」(『ぼくはマンガ家』大和書房、昭和54年)
と当時の苦闘ぶりを振り返っている。
だが視聴率ますますあがった。第五話にいたって、34・2%とさらに増加した。2月5日の第六話にいたっては、34・6%と驚異的な数字に跳ね上がった。大ヒット番組である。最初の連続テレビ・アニメとしては大成功であった。第七話では、30%と一時後退したがすぐに持ち直し、第十一話では35・1%を記録した。それ以後、同程度の視聴率を獲得し続けた。テレビ局もこうなっては黙っていられなくなり、五十万円という馬鹿安かった、一話の売値を、百万円ほどに自発的に上げたという。それでも製作費は赤字であった。

マーチャンダイジングとアメリカ輸出

やがて、多くの玩具メーカーや繊維業者がアトムのキャラクターを商品のマークに使いたいと、申し込んできた。つまりマーチャンダイジングの申し入れである。それまでの日本の漫画を商品に応用することは、ほとんどが野放しの状況だった。何処の誰でもが勝手に雑誌の漫画や映画の主人公を使って商品に利用しても、野放しの状態で、原作者は泣き寝入りの状態であった。そのなかでデイズニー・プロのバンビやダンボを使った場合には、確実にロイヤリティをとって、そこから大きな利潤を得ていた。手塚はこのディズニーを手本に、ロイヤリティを確実にとることにした。
一方、それまであった手塚治虫ファンクラブを発展的に解消させ、あらたに「鉄腕アトム倶楽部」という名の虫プロクラブを発足させた。これによって、全国に虫プロとキャラクター商品の愛好者を組織して、視聴率のアップとマーチャンダイジングの料金増大を図った。
この業務は虫プロ専務の今井が担当したが、さばききれない量になり、4月には大阪に虫プロ関西版権部を設ける繁盛ぶりだった。この好況ぶりで、版権収入は瞬くうちに、一憶数千万円を超す収入を上げた、という。
その年、昭和38年の暮れ、ビデオ・プロモーションというエージェンシーの社長から、「商談でアメリカに行くことになったが、ついては向こうの業者に、アニメのアトムを見せたいと思うが、見本に一巻、貸してもらえないか」という申し込みを受けた。そのビデオ・プロモーションというのは、広告の企画制作を行う会社であったが、タレントやアーティストのマネージメント、テレビ番組の企画制作から、テレビ番組の輸入業務まで、幅広く活動していた。永六輔などのようなアイデアタレント。久里洋二、柳原良平、トシコ・ムトーといった異色の漫画家を抱えた先端的なプロモーションだった。
そこでアトムの第一話「アトム誕生の巻」と第三話「火星探検の巻」を選び「お願いします」と渡した。このことによつて手塚は、
「だが正直なところ、一本や二本ならともかく、日本のアニメ・フィルムがアメリカで売れるとは信じられなかった。(中略)ことテレビ界に関する限り、本家のアメリカが相手では、せせら笑われるだけだと思っていた」(前掲『ぼくはマンガ家』)
と自ら語っている。
ところが、何か月かたって、アメリカの三大ネットワークの一つ、NBCの商事部が興味を示していると、ビデオ・プロモーションから連絡があった。さらに何本か見本を送った。すると、一年の放送分の52本買うから契約したいという話になった。このときは、手塚は欣喜雀躍したという。この話をまとめてくれたのは、ビデオ・プロモーションのSという敏腕部長だった。S部長は、アメリカ人より英語が達者と言われるくらい語学が達者なうえに、商売の駆け引きも、達者な人だった。
この商談の成立は、たちまち業界に漏れて、日本中が大騒ぎになった。その年の10月、手塚は正式契約をするため、アメリカに飛んだ。その頃は海外旅行が珍しいころだったので、行くとなれば、空港に大勢の人が送りに来て、大変な騒ぎになるのだった。手塚の場合も、バスを一台、チャーターして、虫プロ関係者全員が羽田に見送りに行った。同行のビデオ・プロモーションの社長はソフトを被っているのに手塚は、いつものベレー帽姿のままだった。
この時の契約内容は、ビデオ・プロモーションのS部長の手腕によって、買い手側が、フィルムに自由に手を入れることが出来る買い取り制でなく、売値を配給歩合制にした。それによって編集権はプロヂューサーの手塚のものとして、上映に際しては、日本人のメインスタッフの名前を、放送フィルムの中で明記することなどを条件に、一年52週分のフィルムを渡すという契約であった。収入は一本当たり1万ドル、52本で二億円の収入が見込まれた。
放送に当たっては、アトムという名前は「アストロ・ボーイ」と変えられた。アトムという言葉はアメリカでは「屁」を意味する言葉なので、このことは虫プロも飲まざるを得なかった。
アストロ・ボーイとなづけたわけはというと、NBCのゼネラルマネージャーのシュミットという人が、自分の子供にパイロットフィルムを見せて、どういう名前を付けたらいいと思うかと質問したところ、少年が「アストロ・ボーイ」と叫んだので、つけたのだという。渡米した、手塚がその家に招待されて、その話を聞き「じゃ坊やにパテント料を払わなければなりませんね」と冗談を言って、大笑いになったというエピソードが残った。
「アストロ・ボーイ」は全米の子供たちを大いに喜ばせた。

以上述べたような「鉄腕アトム」の成功に、アニメ界は驚くべき速さで、反応した。テレビのCM等を制作していた大手のアニメプロダクションが,新たにストーリー・アニメを造りだし、テレビで放送されるようになった。早くも、アトムの人気が高まった昭和38年の9月、大手のプロダクション、TCJが小島功の仙人部落をアニメ化して、日本テレビで放送した。然しこれは大人対象のエロチックな作品で、放送時間が深夜であったためか、先駆的作品ながら家庭になじまず、すぐに打ち切りとなった。
その一方、TCJは「鉄人28号」をフジテレビに、「エイトマン」をTBSに登場させ、東映動画が「狼少年ケン」をNETから送りだし、これらは、アトムのライバルとなってゆく。
競争相手の乱立

迎え撃つ、元祖虫プロ側は、新たな対抗手段を考え出してゆく。昭和39年1月に放映された「鉄腕アトム」の「地球防衛隊の巻」がテレビ・アニメ最初のカラー版として、40%を超える視聴率を稼ぐという大成功をおさめた。それを契機に、手塚の漫画作品「ナンバー7(セブン)」を日本最初のオールカラーでテレビアニメ化する企画を立て、虫プロ最高のアニメーター坂本雄作をチーフに選び、その準備にはいった。
同時に、手塚の傑作マンガ群の中から「新宝島」「リボンの騎士」「0マン」等傑作、36本を選び、これをそれぞれ1時間のカラーアニメに作り、順次放映してゆくという企画をたて、これも俊英アニメーターの杉井儀三郎をチーフにして、制作準備を開始した。坂本は「鉄腕アトム」のチーフディレクターだったが、それを山本暎一にバトンタッチし、「ナンバー7」のかかりきりとなるという熱の入れようだった。

このような虫プロの成功によって、その中核をなす原画家、演出家は、全スタッフの花形で、虫プロの大看板になった。一方、アニメーターの不足から、アニメーターを増やしていった。最初は手塚関係から人を入れていた。手塚のアシスタントだった北野英名、漫画家の村野守美、りん・たろうなどが入ってきたが、それだけでは到底足りず、一般からも募集して、アニメーターばかりでなく、スタッフ全体を増やしていった。
そういう連中が、それぞれ我こそはテレビ・アニメのパイオニアと自負して、虫プロの中をのし歩いた。最初六人で始まった虫プロも昭和40年代に入ると三百五十人という大所帯になってゆく。
こうなると、古いアニメーターは、虫プロの大看板となって、その給料は、「日本のサラリーマン」としては、超Aクラスの高給取りになり、多くの社員との差がつきすぎるようになってゆく。ここに虫プロの禍根が生まれる素地の一つがあった。

雑誌の原価計算とアニメの原価計算

ともあれ、このように順調な滑り出しを見せた虫プロだったが,裏に回ってみると、その財務、経理、計算の面では、全く原始的で、億という金を扱いながら、家計簿にも及ばない、どんぶり勘定的な計算でしか、収支が計算されていなかったのだから、驚く。なぜ、もっと精密な、原価計算、複式簿記式のシステムによる、経理、経営がなされなかったのであろうか。一つの商品を作るときは、まず精密な原価計算によって、収支のあり方を研究することから始まる。
虫プロの出発は、手塚とその下に集まったアニメーターが中心になって始まった。彼らはまず、アニメを創る意欲に燃えた芸術家であった。彼らの最大関心はいかにして、アニメを作り出してゆくか、という創作家の心情から出発した。これは当然な話であろう、だが事業が進むに従い、多種類の多くの人が協力し合い、出来上がったものを売ってゆくとなると、制作から、販売までのマネージングをする人が必要となるわけである。このマージャーが最初にやることは、作るものの原価計算である。それはごく自然に、普通の事業体では行われているものである。

ここから私個人の経験をもとに話を進めてみよう。
私は、昭和30年代から40年代かけて、週刊誌二誌、月刊誌数誌の創刊当事者だった経験がある。一つの雑誌を創刊しようとすると、まず、編集内容、方針を決める。その方針、内容に従って、雑誌の版型、ページ建て、発行部数などを決める。それによって、直接の原価を算出する。
まず紙代、表紙の紙代から、本文用紙、オフセットページの用紙、本文用紙の紙代を、部数に従って、割り出す。さらにこれらの原稿を印刷する印刷費、これらが物理的な制作費である。
次に編集経費を出す。まず編集担当者の役割に従って、人数とその総人件費を出す。次に原稿制作の費用、原稿料、取材費、カメラなど諸道具の費用を割り出す。これらの総計が直接編集費である。
編集経費と制作費を足したものが、直接生産費である。これに広告収入をプラスして、さらに、宣伝費を差し引いた金額が、雑誌の直接総原価となる。
さらに、この直接原価に間接経費をプラスしたものが、この雑誌の総原価となるわけである。間接経費とは、雑誌を発行する当該事業を維持する諸経費、つまり販売、広告、宣伝、経理、総務の経費など当該事業の総経費のうち、その雑誌が負担すべき金額をいう。その金額は、当該事業の総売り上げのうち、その雑誌売り上金が何パーセントを占めるか、によって割り出してゆく。これが間接経費である。直接経費に、この間接諸経費を足した金額が、この雑誌の総生産費となるわけである。これを発行部数で割った金額が一冊当たりの生産費となるのである。
その雑誌の総売上金から、総生産費を引いた金額が、一号当たりの利益あるいは損失となるわけである。
雑誌の販売を簡単に述べておくと大体定価の七掛けで、販売取次業者に卸される。卸した雑誌が全部売れるわけではない。必ず返品がある。その返品があまり多いと、収入は原価を割ってしまう。出荷部数の何割何部まで売れればとんとんになるかの境界線を、返品許容率という。この数字を見ながら、次の生産部数を考え、また生産費を減額するか、増額するか、調節していかなければならない。ここに雑誌経営の困難さと面白さがある。販売実部数が、伸びれば伸びるほど、販売益は幾何級数的に上り、反対だと、幾何級数的に、利益は減少する。だから一冊当たりいくらの原価でできているか、ということが、雑誌経営担当者が考えていなければならない根幹なのである。
このように原価計算と雑誌経営とは密接な、因果関係にあり、その数字は、経営担当者が、常に把握していなければならない。

どんぶり勘定の経理

以上のような雑誌経営担当者の苦労を味わってきた、私の目から見ると、虫プロでは、「鉄腕アトム」が終わるころまで、何等の財務管理、生産管理、原価計算のもとに、経営された気配がない。虫プロに関する情報をいかに集めても、経営面からする分析は、ほとんど見当たらなかった。
総売上金から、総出費を差し引き、それが赤字になって金が足りなかったら、手塚が漫画で稼いだ金で埋め合わせてゆくといった、原始的というか、全く会計に無知な、あえて言えば、どんぶり勘定で、経営が行われていたとしか、思われないのである。その帳簿ももっとも単純な単式簿記によるものだったと推理される。
手塚自身次のように述べている。
「プロダクション創立以来、虫プロの収支とマンガ家手塚治虫の収支は渾然一体であった。(中略)虫プロが大勢の社員を抱えて今日まで仕事を続けてこられたのは、ぼくの収入をそのまま、虫プロに回してきたからにもよる」(「現代」1967年9月号「鉄腕アトム苦戦中」)
虫プロの幹部アニメーターの中にも、昭和40年になってからだが、そこに気付いた人がいる。例えば「ジャングル大帝」のチーフディレクターとして、制作の一切を任された山本暎一が、大略次のように述べている。
「虫プロの経理は、手塚の漫画原稿と、その制作と収入の記帳方法を延長してできている。それは、あらゆる出費を『制作費』の勘定科目で処理するなどおおざっぱである。漫画の原稿づくりならそれで十分だし、アニメも一本作るだけなら、その程度でも把握できなくはない。しかし、複数の作品を同時進行で制作するとなると、もっときめの細かい帳簿や伝票のシステムが必要になる。
先ず虫プロの全作品の出費をひとまとめに帳簿につけるのではなく、作品ごとに分けてつけなければならないし、企画、設定、作画、撮影、現像、音響といった制作のプロセスに分けて掴まないといけない。
そういう、原価計算や、月計、集計の方法が、それまでの虫プロにはないのだ。なにしろ、テレビ・アニメというものが始まって間もなく、経理の人がアニメの作業内容に知識がないから、どんな帳簿システムを造ればいいのかわからないのである。」(前掲、『虫プロ興亡記』)
アニメーター、制作者である山本が、以上のことに気がついたのは、虫プロが始まって四年を経た後である。
虫プロの経営者であり、所有者は、100パーセントの出資者である手塚治虫である。その手塚治虫のもとに、アニメーションに大きな夢を抱く志に共鳴して協力を申し出た、アニメーター達、そしてその制作に協力したいと集まった人たちで、虫プロが創業されたのは、今まで述べてきた通りである。手塚とその周辺に集まった人たちは、いわば芸術的は制作者であり、財務、経理など経営面に無知な人ばかりであった。山本は、その中にあって、最も早く財務管理、原価計算の必要に気づいた人だった。

近代経営を知らない経営者

以上述べてきたような、財務管理、原価計算、複式簿記の計算法による伝票管理のようなことは、少し、経営的知識があれば、すぐ気づくはずである。手塚は漫画家として第一人者ではあったが、経営的な事務に関して、あるいは経営的な知識は全くと言ってなかった人だといえるだろう。中学、大學と漫画を描き続け、それが認められて以来、夜も寝ずに漫画を描かざるをえなかった手塚に、虫プロの社長だからといって、経営者の目をもてといっても無理な話であろう。
虫プロで、その経営面を担当する重役は、手塚の他、山下専務、穴見常務、小学館の編集者から転身してきた桑田常務などという人がいた。山下は手塚プロのマネージャーとして、編集者と手塚の間に立って、漫画原稿の進行、受け渡しを担当してきた人で、アニメの経営にはそれほどタッチしたとは思われぬ。桑田は総務方面の働き手であったが、アニメの経験は少なかったろうと思われる。
アニメの経営の役割を担ったのは、穴見薫であろう。彼が広告代理店の社員として、虫プロに入り込み、テレビと関係を付け、「鉄腕アトム」のテレビ放送に持っていったのである。その翌年、虫プロの経営に当たるべく、常務取締役役として、虫プロに転属した。はじめから「鉄腕アトム」にかかわった人である。
もし彼に、経営者としての知識なり、才能があれば、虫プロのどんぶり勘定的な単式簿記式の収支管理だけやって、原価計算や、計画、生産管理面で、何もしていないことに気が付き、原価計算による生産管理システムの確立を直ちに、手塚に提案した筈である。それに気が付かなかったのは、経理、生産管理などの知識がないため、虫プロ経営の欠陥に気付かなかったのだろうか。経営者としては経理、生産管理に対する知識に欠けていて、したがってこういう生産会社の経営者の資格に欠けていたということはなかったのだろうか。

アニメの生産管理は、先に紹介した雑誌の生産管理に比べて、そう難しいとは思えない。
アニメ制作は、手作業から脱却できないといわれたとおり、人件費の管理さえ厳密にやれば、比較的簡単で、雑誌の制作費の計算に比して、それほど難しいとは思えない。
まず一つの漫画をアニメ化するとなると、その原作料、あるいは印税をきめる。次に、原作を脚本化する脚本料を決める。その後の作業は、シノプシス、それによる原画制作、動画制作、背景制作は携わるアニメーターの人件費とそれに要するカンバス、絵の具、筆具などの機材の代金。それから撮影、現像、音響の費用、この行程は諸機材と人件費、音楽の作曲料などが入ってくる。これらの直接経費に加え、制作、進行の人件費、諸事務費を加えたものが、直接原価ということになる。それに当該事業が行う販売諸経費、間接の人件費などを、一本一本のアニメに割り振る間接経費を計算し、左記の直接経費にプラスすれば、アニメの総原価が出てくる。
テレビ局からくるアニメの制作代金、およびそのマーチャンダイジングによる収入などを足したものから、総原価を引いて行けば、一本一本の売上利益、或いは売上損が出てくる。
この原価計算を基に、帳簿システム、伝票制を充実させれば、立派に経理組織は成り立つと思うがどうであろうか。その経理の状況から、次の企画、作品の制作資料が生まれてくるはずである。

手塚は、一〇〇パーセント出資のオーナー経営者であり、自分のアニメ制作方法には、ワンマン的態度で、経営の改良を素直に受けいれたとは思えないが、誠実に説明をしながら、以上のような合理的な会計制度によって、経営改善を提言していったならば、それを拒否することは、まずなかったのではなかろうか。その提案を受け入れ、生産管理による経営に、理解していったに違いないと私には感じられるのであるがどうであろう。
しかし、経営の重大な役割を果たす重役が、数字による経営、生産管理に無知であったなら、これは悲劇である。重大な禍根が残っていくはずである。
私は後年の虫プロ崩壊の悲劇のもとはここにあったと思われるのであるが、如何なものであろうか。 (続く)

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