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あと読みじゃんけん  (10) 渡海 壮  探検家36歳の憂鬱

  • 2016年6月29日 18:31

子どものころから「たんけんか」に興味があった。長じてそれは「探検家」と書くことを学び、彼らが残した「探検記」を読むのが大好きになった。あこがれの探検家が活躍するのは南極や北極をはじめアフリカ、アマゾン、ヒマラヤ奥地など<地図の空白部>だった。気に入った探検家の名前をいちいち挙げないがざっと勘定しても数十人は下らないだろう。あこがれが高じて将来の目標を「探検家になる」ということにしたものの、氷に覆われた南極や北極は多くの命を奪った想像を絶する極寒の地だし、ジャングルに覆われたアフリカやアマゾンの奥地は未開民族だけでなく命を落とす未知の風土病の危険もありそうだった。単なるあこがれからというやわな動機だったし行先はどこでもよかったのだから、順番違いというか本末転倒だったわけで単なる夢に終わった。角幡唯介は<なれなかった私>がいまいちばん注目している探検家だから初のエッセイ集『探検家36歳の憂鬱』(文藝春秋)に、憂鬱なんてタイトルをつけるなんて「どゆこと!」と思ったのである。

角幡唯介著『探検家36歳の憂鬱』(文藝春秋刊)

角幡唯介著『探検家36歳の憂鬱』(文藝春秋刊)

北海道芦別生まれの角幡は早稲田大学探検部OBでチベットでは世界最後の空白部といわれたヤル・ツアンポー渓谷の核心部や、隊員129人全員が行方不明になったことで極地探検史上最悪の悲劇となった19世紀の英・フランクリン遠征隊の謎を求めてカナダ北極圏1600キロを踏破した。帯の写真はそのときのものだろうか。「生のぎりぎりの淵をのぞき見ても、もっと行けたんじゃないかと思ってしまう」。こんな惹句が目に入ったら、もう読む前からわくわくしてしまう。

探検家になりたいという夢だけで終わったヘナチョコの私が言うのは生意気かもしれないが、冒険とは個人にとってあくまで主体的なものだ。今こそ冒険が必要な時代だとしてもそんなものなどなくても生きていけるし、豊かな世の中だから社会生活で失敗しても飢えることはない。ところが冒険家の力量や精神力が試される極限の世界では、存在そのもの、つまり命があっけなく奪われる。角幡の肩書は「ノンフィクション作家・探検家」であるが、探検することで生計を立てているわけでなく探検したことを文章に組み立て直すことで原稿料を手に入れる。あるいはその派生として講演やテレビ出演もあるかもしれない。一時は新聞記者をしていたこともあって文章力もあるし、朝日新聞の書評委員をつとめたこともある。これまで手にしたのは開高健や大宅壮一の名を冠するノンフィクション賞、梅棹忠夫・山と探検文学賞、新田次郎文学賞などであるが、自身は「探検家」という希少種で勇ましい存在であることにこだわり続ける。

そんな角幡であるが一方では探検そのものや取り巻く時代の流れを冷静に分析している。フランクリン隊の場合、当時の北極海における北西航路の発見は、英国社会の大きな関心事で国家事業そのものだった。70年代の米国のアポロ計画や、現在中国が国をあげて推し進めている宇宙開発事業に近かったと思われる。大衆は北極探検に熱狂し、フランクリンは月に第一歩をしるしたニール・アームストロングのような時代を代表する英雄だった。エベレストが未登峰だった時代にも初登頂を目指して死んだ登山家のジョージ・マロリーは、世界最高峰に挑戦する理由を聞かれて「そこに山があるからだ」と答えたというが、別にそんな気障なセリフを吐かなくても①世界最高峰と②未登峰という二つの社会性が備わっていたので冒険をしない人にも登頂を目指す理由は比較的分かりやすかったはずだ。

1990年代以降、社会のポストモダン的な状況が進展したことも、冒険の世界から大きな価値が失われた、ひとつの要因であるように思われる。冒険する価値のある対象が地球上から失われてしまっただけでなく、仮にそれがあったとしても、もはやそうした大きな価値観自体が社会の関心をひかなくなったという事情もある。例えば1999年にエベレストに登頂した野口健や、その後の石川直樹、現在の栗城史多(のぶかず)といった、従来の登山家像とは異なる「エベレスト登山家」たちが、既存の登山界からの反発と嫉妬を受けつつも、お茶の間の支持を受けた理由は、彼らがエベレストそのものの物語を描いたからではなく、非力な青年が世界の最高峰に挑戦するという自らのヒューマンドラマを描いたからであるという。

探検から冒険へ、角幡は学生時代に読んだ本の中でも特に印象深いものの一冊として南米アンデスで体験した自身の壮絶な遭難劇を書いた英国の登山家ジョー・シンプソンの『死のクレバス』を挙げ、もしシンプソンが成功裏に登山を終えたとしたらこれほどスリリングな物語は書けなかっただろうと分析する。冒険の現場とは通常、冒険をしない人が考えるほどスリリングではない。冒険の最中は単調で退屈な時間が続くことが多く、人間のいない自然を相手に行う場合はことのほか顕著だ。冒険に行くだけでは面白い文章が書けないことが多い。北極を歩くという行為、スキーをはいてとぼとぼ氷の上を歩いているところを文章にしたところで、面白いことなんて何もない。
雪の上を歩いた。寒かった。飯を食った。寝た。
悲しいことにこのたった合計二十二文字しかない文章で、北極を冒険することのかなりの部分は説明されてしまっている。(シロクマを見た。という一文を加えてもいいかもしれない)北極の冒険とは何かを私なりに定義すると「文章で表現すると数行で終わってしまうようなことが何十日間も続く行為」ということになる。単独行だと仲間同士の会話さえなくなるので、なおさらである。つまり、冒険はノンフィクションには適さないのであると。

そりゃそうだろうなあ。ツアンポー渓谷で死を意識したものの結果的に生還できたからこそあの『空白の五マイル』(集英社、のち文庫)が生まれたのだろうし、自身が振り返るように絶望の淵で死を覚悟したことで「ひと皮むけた」ことは確かだろう。<死の危険>と常に隣り合わせであることも逆説的ではあるが冒険の魅力だから。「あとがき」で角幡は、今回のエッセイや雑文にはなんの自己規制なく「雑念」を書くことができた。本のタイトルに「憂鬱」というネガティブな語感を伴う言葉を選んだのも全編を通して流れる自己否定的なニュアンスを、この言葉がうまく表現している気がしたからであると書いている。合間にはさまれた日常そのままのブログ記事にもクスリと笑わされることが多かった。

ただし、「私の中には、エッセイストという肩書をいつか名刺に加えてやろうというただならぬ野心が、ふつふつと湧きあがっている」というのだけはもうしばらくはお預けにしていただきたい。ファンとしては「探検家・角幡唯介」の生きざまと、ノンフィクションをまだまだ楽しませて欲しいからである。

*『探検家の憂鬱』角幡唯介、文春文庫(2012)

私の手塚治虫  第26回  峯島正行

  • 2016年6月24日 15:09

どんぶり勘定だった虫プロの経理

記録的視聴率

日本最初の毎週放映のテレビ・アニメ「鉄腕アトム」好調にスタートを切った。第一週は27・8%の視聴率であったが、二週目は28・9%、第三週は、29・6%としり上がりの好調ぶりであった。そして第四週目の1月22日の放送では、大ヒットの基準である、30%の線を越え、32・7%の視聴率を記録した。
それに気をよくして、制作者一同、昼夜兼行で頑張った。手塚は当時を回想して、次のように書いている。
「三八年一月一日、アトムは第一回の放映を開始した。この時の感慨は終生忘れられないだろう。わが子がテレビに出演しているのを、はらはら見守る親の気持ちだった。終って、エンドタイトルが出た時、
『アーあ、もうこれで一本分終わってしまったなあ』
とつくづく思った.次の一週間はあっという間にたってしまった。
スタッフは、死にものぐるいで徹夜の奮闘を続けた。作っても、作っても、毎週一回の放映というテレビの怪物は、作品をかたっぱしから食っていった。二,三ヶ月のうちに、視聴率や、評判が上がるのに反比例して、スタッフの顔はぞっとするほど痩せ衰えていった。みんなを支えていたものは、我々は開拓者なんだというプライドだけだった。何人かが、ノイローゼになり体にガタがきて休んでしまった。アトムの画面に、ときどき、楽屋落ちのスタッフの似顔絵が出てくることがあったが、それがみんな、やつれはて、鬼気迫った顔に見えた」(『ぼくはマンガ家』大和書房、昭和54年)
と当時の苦闘ぶりを振り返っている。
だが視聴率ますますあがった。第五話にいたって、34・2%とさらに増加した。2月5日の第六話にいたっては、34・6%と驚異的な数字に跳ね上がった。大ヒット番組である。最初の連続テレビ・アニメとしては大成功であった。第七話では、30%と一時後退したがすぐに持ち直し、第十一話では35・1%を記録した。それ以後、同程度の視聴率を獲得し続けた。テレビ局もこうなっては黙っていられなくなり、五十万円という馬鹿安かった、一話の売値を、百万円ほどに自発的に上げたという。それでも製作費は赤字であった。

マーチャンダイジングとアメリカ輸出

やがて、多くの玩具メーカーや繊維業者がアトムのキャラクターを商品のマークに使いたいと、申し込んできた。つまりマーチャンダイジングの申し入れである。それまでの日本の漫画を商品に応用することは、ほとんどが野放しの状況だった。何処の誰でもが勝手に雑誌の漫画や映画の主人公を使って商品に利用しても、野放しの状態で、原作者は泣き寝入りの状態であった。そのなかでデイズニー・プロのバンビやダンボを使った場合には、確実にロイヤリティをとって、そこから大きな利潤を得ていた。手塚はこのディズニーを手本に、ロイヤリティを確実にとることにした。
一方、それまであった手塚治虫ファンクラブを発展的に解消させ、あらたに「鉄腕アトム倶楽部」という名の虫プロクラブを発足させた。これによって、全国に虫プロとキャラクター商品の愛好者を組織して、視聴率のアップとマーチャンダイジングの料金増大を図った。
この業務は虫プロ専務の今井が担当したが、さばききれない量になり、4月には大阪に虫プロ関西版権部を設ける繁盛ぶりだった。この好況ぶりで、版権収入は瞬くうちに、一憶数千万円を超す収入を上げた、という。
その年、昭和38年の暮れ、ビデオ・プロモーションというエージェンシーの社長から、「商談でアメリカに行くことになったが、ついては向こうの業者に、アニメのアトムを見せたいと思うが、見本に一巻、貸してもらえないか」という申し込みを受けた。そのビデオ・プロモーションというのは、広告の企画制作を行う会社であったが、タレントやアーティストのマネージメント、テレビ番組の企画制作から、テレビ番組の輸入業務まで、幅広く活動していた。永六輔などのようなアイデアタレント。久里洋二、柳原良平、トシコ・ムトーといった異色の漫画家を抱えた先端的なプロモーションだった。
そこでアトムの第一話「アトム誕生の巻」と第三話「火星探検の巻」を選び「お願いします」と渡した。このことによつて手塚は、
「だが正直なところ、一本や二本ならともかく、日本のアニメ・フィルムがアメリカで売れるとは信じられなかった。(中略)ことテレビ界に関する限り、本家のアメリカが相手では、せせら笑われるだけだと思っていた」(前掲『ぼくはマンガ家』)
と自ら語っている。
ところが、何か月かたって、アメリカの三大ネットワークの一つ、NBCの商事部が興味を示していると、ビデオ・プロモーションから連絡があった。さらに何本か見本を送った。すると、一年の放送分の52本買うから契約したいという話になった。このときは、手塚は欣喜雀躍したという。この話をまとめてくれたのは、ビデオ・プロモーションのSという敏腕部長だった。S部長は、アメリカ人より英語が達者と言われるくらい語学が達者なうえに、商売の駆け引きも、達者な人だった。
この商談の成立は、たちまち業界に漏れて、日本中が大騒ぎになった。その年の10月、手塚は正式契約をするため、アメリカに飛んだ。その頃は海外旅行が珍しいころだったので、行くとなれば、空港に大勢の人が送りに来て、大変な騒ぎになるのだった。手塚の場合も、バスを一台、チャーターして、虫プロ関係者全員が羽田に見送りに行った。同行のビデオ・プロモーションの社長はソフトを被っているのに手塚は、いつものベレー帽姿のままだった。
この時の契約内容は、ビデオ・プロモーションのS部長の手腕によって、買い手側が、フィルムに自由に手を入れることが出来る買い取り制でなく、売値を配給歩合制にした。それによって編集権はプロヂューサーの手塚のものとして、上映に際しては、日本人のメインスタッフの名前を、放送フィルムの中で明記することなどを条件に、一年52週分のフィルムを渡すという契約であった。収入は一本当たり1万ドル、52本で二億円の収入が見込まれた。
放送に当たっては、アトムという名前は「アストロ・ボーイ」と変えられた。アトムという言葉はアメリカでは「屁」を意味する言葉なので、このことは虫プロも飲まざるを得なかった。
アストロ・ボーイとなづけたわけはというと、NBCのゼネラルマネージャーのシュミットという人が、自分の子供にパイロットフィルムを見せて、どういう名前を付けたらいいと思うかと質問したところ、少年が「アストロ・ボーイ」と叫んだので、つけたのだという。渡米した、手塚がその家に招待されて、その話を聞き「じゃ坊やにパテント料を払わなければなりませんね」と冗談を言って、大笑いになったというエピソードが残った。
「アストロ・ボーイ」は全米の子供たちを大いに喜ばせた。

以上述べたような「鉄腕アトム」の成功に、アニメ界は驚くべき速さで、反応した。テレビのCM等を制作していた大手のアニメプロダクションが,新たにストーリー・アニメを造りだし、テレビで放送されるようになった。早くも、アトムの人気が高まった昭和38年の9月、大手のプロダクション、TCJが小島功の仙人部落をアニメ化して、日本テレビで放送した。然しこれは大人対象のエロチックな作品で、放送時間が深夜であったためか、先駆的作品ながら家庭になじまず、すぐに打ち切りとなった。
その一方、TCJは「鉄人28号」をフジテレビに、「エイトマン」をTBSに登場させ、東映動画が「狼少年ケン」をNETから送りだし、これらは、アトムのライバルとなってゆく。
競争相手の乱立

迎え撃つ、元祖虫プロ側は、新たな対抗手段を考え出してゆく。昭和39年1月に放映された「鉄腕アトム」の「地球防衛隊の巻」がテレビ・アニメ最初のカラー版として、40%を超える視聴率を稼ぐという大成功をおさめた。それを契機に、手塚の漫画作品「ナンバー7(セブン)」を日本最初のオールカラーでテレビアニメ化する企画を立て、虫プロ最高のアニメーター坂本雄作をチーフに選び、その準備にはいった。
同時に、手塚の傑作マンガ群の中から「新宝島」「リボンの騎士」「0マン」等傑作、36本を選び、これをそれぞれ1時間のカラーアニメに作り、順次放映してゆくという企画をたて、これも俊英アニメーターの杉井儀三郎をチーフにして、制作準備を開始した。坂本は「鉄腕アトム」のチーフディレクターだったが、それを山本暎一にバトンタッチし、「ナンバー7」のかかりきりとなるという熱の入れようだった。

このような虫プロの成功によって、その中核をなす原画家、演出家は、全スタッフの花形で、虫プロの大看板になった。一方、アニメーターの不足から、アニメーターを増やしていった。最初は手塚関係から人を入れていた。手塚のアシスタントだった北野英名、漫画家の村野守美、りん・たろうなどが入ってきたが、それだけでは到底足りず、一般からも募集して、アニメーターばかりでなく、スタッフ全体を増やしていった。
そういう連中が、それぞれ我こそはテレビ・アニメのパイオニアと自負して、虫プロの中をのし歩いた。最初六人で始まった虫プロも昭和40年代に入ると三百五十人という大所帯になってゆく。
こうなると、古いアニメーターは、虫プロの大看板となって、その給料は、「日本のサラリーマン」としては、超Aクラスの高給取りになり、多くの社員との差がつきすぎるようになってゆく。ここに虫プロの禍根が生まれる素地の一つがあった。

雑誌の原価計算とアニメの原価計算

ともあれ、このように順調な滑り出しを見せた虫プロだったが,裏に回ってみると、その財務、経理、計算の面では、全く原始的で、億という金を扱いながら、家計簿にも及ばない、どんぶり勘定的な計算でしか、収支が計算されていなかったのだから、驚く。なぜ、もっと精密な、原価計算、複式簿記式のシステムによる、経理、経営がなされなかったのであろうか。一つの商品を作るときは、まず精密な原価計算によって、収支のあり方を研究することから始まる。
虫プロの出発は、手塚とその下に集まったアニメーターが中心になって始まった。彼らはまず、アニメを創る意欲に燃えた芸術家であった。彼らの最大関心はいかにして、アニメを作り出してゆくか、という創作家の心情から出発した。これは当然な話であろう、だが事業が進むに従い、多種類の多くの人が協力し合い、出来上がったものを売ってゆくとなると、制作から、販売までのマネージングをする人が必要となるわけである。このマージャーが最初にやることは、作るものの原価計算である。それはごく自然に、普通の事業体では行われているものである。

ここから私個人の経験をもとに話を進めてみよう。
私は、昭和30年代から40年代かけて、週刊誌二誌、月刊誌数誌の創刊当事者だった経験がある。一つの雑誌を創刊しようとすると、まず、編集内容、方針を決める。その方針、内容に従って、雑誌の版型、ページ建て、発行部数などを決める。それによって、直接の原価を算出する。
まず紙代、表紙の紙代から、本文用紙、オフセットページの用紙、本文用紙の紙代を、部数に従って、割り出す。さらにこれらの原稿を印刷する印刷費、これらが物理的な制作費である。
次に編集経費を出す。まず編集担当者の役割に従って、人数とその総人件費を出す。次に原稿制作の費用、原稿料、取材費、カメラなど諸道具の費用を割り出す。これらの総計が直接編集費である。
編集経費と制作費を足したものが、直接生産費である。これに広告収入をプラスして、さらに、宣伝費を差し引いた金額が、雑誌の直接総原価となる。
さらに、この直接原価に間接経費をプラスしたものが、この雑誌の総原価となるわけである。間接経費とは、雑誌を発行する当該事業を維持する諸経費、つまり販売、広告、宣伝、経理、総務の経費など当該事業の総経費のうち、その雑誌が負担すべき金額をいう。その金額は、当該事業の総売り上げのうち、その雑誌売り上金が何パーセントを占めるか、によって割り出してゆく。これが間接経費である。直接経費に、この間接諸経費を足した金額が、この雑誌の総生産費となるわけである。これを発行部数で割った金額が一冊当たりの生産費となるのである。
その雑誌の総売上金から、総生産費を引いた金額が、一号当たりの利益あるいは損失となるわけである。
雑誌の販売を簡単に述べておくと大体定価の七掛けで、販売取次業者に卸される。卸した雑誌が全部売れるわけではない。必ず返品がある。その返品があまり多いと、収入は原価を割ってしまう。出荷部数の何割何部まで売れればとんとんになるかの境界線を、返品許容率という。この数字を見ながら、次の生産部数を考え、また生産費を減額するか、増額するか、調節していかなければならない。ここに雑誌経営の困難さと面白さがある。販売実部数が、伸びれば伸びるほど、販売益は幾何級数的に上り、反対だと、幾何級数的に、利益は減少する。だから一冊当たりいくらの原価でできているか、ということが、雑誌経営担当者が考えていなければならない根幹なのである。
このように原価計算と雑誌経営とは密接な、因果関係にあり、その数字は、経営担当者が、常に把握していなければならない。

どんぶり勘定の経理

以上のような雑誌経営担当者の苦労を味わってきた、私の目から見ると、虫プロでは、「鉄腕アトム」が終わるころまで、何等の財務管理、生産管理、原価計算のもとに、経営された気配がない。虫プロに関する情報をいかに集めても、経営面からする分析は、ほとんど見当たらなかった。
総売上金から、総出費を差し引き、それが赤字になって金が足りなかったら、手塚が漫画で稼いだ金で埋め合わせてゆくといった、原始的というか、全く会計に無知な、あえて言えば、どんぶり勘定で、経営が行われていたとしか、思われないのである。その帳簿ももっとも単純な単式簿記によるものだったと推理される。
手塚自身次のように述べている。
「プロダクション創立以来、虫プロの収支とマンガ家手塚治虫の収支は渾然一体であった。(中略)虫プロが大勢の社員を抱えて今日まで仕事を続けてこられたのは、ぼくの収入をそのまま、虫プロに回してきたからにもよる」(「現代」1967年9月号「鉄腕アトム苦戦中」)
虫プロの幹部アニメーターの中にも、昭和40年になってからだが、そこに気付いた人がいる。例えば「ジャングル大帝」のチーフディレクターとして、制作の一切を任された山本暎一が、大略次のように述べている。
「虫プロの経理は、手塚の漫画原稿と、その制作と収入の記帳方法を延長してできている。それは、あらゆる出費を『制作費』の勘定科目で処理するなどおおざっぱである。漫画の原稿づくりならそれで十分だし、アニメも一本作るだけなら、その程度でも把握できなくはない。しかし、複数の作品を同時進行で制作するとなると、もっときめの細かい帳簿や伝票のシステムが必要になる。
先ず虫プロの全作品の出費をひとまとめに帳簿につけるのではなく、作品ごとに分けてつけなければならないし、企画、設定、作画、撮影、現像、音響といった制作のプロセスに分けて掴まないといけない。
そういう、原価計算や、月計、集計の方法が、それまでの虫プロにはないのだ。なにしろ、テレビ・アニメというものが始まって間もなく、経理の人がアニメの作業内容に知識がないから、どんな帳簿システムを造ればいいのかわからないのである。」(前掲、『虫プロ興亡記』)
アニメーター、制作者である山本が、以上のことに気がついたのは、虫プロが始まって四年を経た後である。
虫プロの経営者であり、所有者は、100パーセントの出資者である手塚治虫である。その手塚治虫のもとに、アニメーションに大きな夢を抱く志に共鳴して協力を申し出た、アニメーター達、そしてその制作に協力したいと集まった人たちで、虫プロが創業されたのは、今まで述べてきた通りである。手塚とその周辺に集まった人たちは、いわば芸術的は制作者であり、財務、経理など経営面に無知な人ばかりであった。山本は、その中にあって、最も早く財務管理、原価計算の必要に気づいた人だった。

近代経営を知らない経営者

以上述べてきたような、財務管理、原価計算、複式簿記の計算法による伝票管理のようなことは、少し、経営的知識があれば、すぐ気づくはずである。手塚は漫画家として第一人者ではあったが、経営的な事務に関して、あるいは経営的な知識は全くと言ってなかった人だといえるだろう。中学、大學と漫画を描き続け、それが認められて以来、夜も寝ずに漫画を描かざるをえなかった手塚に、虫プロの社長だからといって、経営者の目をもてといっても無理な話であろう。
虫プロで、その経営面を担当する重役は、手塚の他、山下専務、穴見常務、小学館の編集者から転身してきた桑田常務などという人がいた。山下は手塚プロのマネージャーとして、編集者と手塚の間に立って、漫画原稿の進行、受け渡しを担当してきた人で、アニメの経営にはそれほどタッチしたとは思われぬ。桑田は総務方面の働き手であったが、アニメの経験は少なかったろうと思われる。
アニメの経営の役割を担ったのは、穴見薫であろう。彼が広告代理店の社員として、虫プロに入り込み、テレビと関係を付け、「鉄腕アトム」のテレビ放送に持っていったのである。その翌年、虫プロの経営に当たるべく、常務取締役役として、虫プロに転属した。はじめから「鉄腕アトム」にかかわった人である。
もし彼に、経営者としての知識なり、才能があれば、虫プロのどんぶり勘定的な単式簿記式の収支管理だけやって、原価計算や、計画、生産管理面で、何もしていないことに気が付き、原価計算による生産管理システムの確立を直ちに、手塚に提案した筈である。それに気が付かなかったのは、経理、生産管理などの知識がないため、虫プロ経営の欠陥に気付かなかったのだろうか。経営者としては経理、生産管理に対する知識に欠けていて、したがってこういう生産会社の経営者の資格に欠けていたということはなかったのだろうか。

アニメの生産管理は、先に紹介した雑誌の生産管理に比べて、そう難しいとは思えない。
アニメ制作は、手作業から脱却できないといわれたとおり、人件費の管理さえ厳密にやれば、比較的簡単で、雑誌の制作費の計算に比して、それほど難しいとは思えない。
まず一つの漫画をアニメ化するとなると、その原作料、あるいは印税をきめる。次に、原作を脚本化する脚本料を決める。その後の作業は、シノプシス、それによる原画制作、動画制作、背景制作は携わるアニメーターの人件費とそれに要するカンバス、絵の具、筆具などの機材の代金。それから撮影、現像、音響の費用、この行程は諸機材と人件費、音楽の作曲料などが入ってくる。これらの直接経費に加え、制作、進行の人件費、諸事務費を加えたものが、直接原価ということになる。それに当該事業が行う販売諸経費、間接の人件費などを、一本一本のアニメに割り振る間接経費を計算し、左記の直接経費にプラスすれば、アニメの総原価が出てくる。
テレビ局からくるアニメの制作代金、およびそのマーチャンダイジングによる収入などを足したものから、総原価を引いて行けば、一本一本の売上利益、或いは売上損が出てくる。
この原価計算を基に、帳簿システム、伝票制を充実させれば、立派に経理組織は成り立つと思うがどうであろうか。その経理の状況から、次の企画、作品の制作資料が生まれてくるはずである。

手塚は、一〇〇パーセント出資のオーナー経営者であり、自分のアニメ制作方法には、ワンマン的態度で、経営の改良を素直に受けいれたとは思えないが、誠実に説明をしながら、以上のような合理的な会計制度によって、経営改善を提言していったならば、それを拒否することは、まずなかったのではなかろうか。その提案を受け入れ、生産管理による経営に、理解していったに違いないと私には感じられるのであるがどうであろう。
しかし、経営の重大な役割を果たす重役が、数字による経営、生産管理に無知であったなら、これは悲劇である。重大な禍根が残っていくはずである。
私は後年の虫プロ崩壊の悲劇のもとはここにあったと思われるのであるが、如何なものであろうか。 (続く)

書斎の漂着本(89) 蚤野久蔵 パイプのけむり

  • 2016年6月9日 17:57

わが国を代表する作曲家でエッセイストとしても知られた團伊久磨の『パイプのけむり』の最初の一冊である。朝日新聞社の週刊写真誌『アサヒグラフ』への連載をまとめて単行本としたもので昭和40年11月30日刊。連載は平成12年10月15日発刊の「シドニー・オリンピック総集編」を最後に『アサヒグラフ』が77年間の歴史を閉じて休刊となるまで書き続けられた。本のほうも一冊分がまとまるたびに刊行され「続」「続々」「又」「又々」「まだ」「まだまだ」「も一つ」「なお」「なおなお」「重ねて」「重ね重ね」「またして」「さて」「ひねもす」「暮れても」とここまで書いてもまだ半分に届かない。團は連載の最終回で「自分が死ぬのが先か雑誌が休刊するのが先かどっちなのだろうと予想したことがある」と書き残したがその翌年5月、中国への親善使節団として訪問中だった江蘇省蘇州市で心不全により客死した。単行本は葬儀の参列者に配られた「さよなら」までなんと27冊もあるそうだから名実共に国民に愛された名エッセイといえるのではあるまいか。

團伊久磨著『パイプのけむり』(朝日新聞社刊)

團伊久磨『パイプのけむり』(朝日新聞社刊)

これは愛読者だった父が私に遺贈してくれた一冊である。他に何冊かあったが最初のいわば「正」にあたるこれだけを持ち帰った。本を大事にした父らしく購入時そのまま表紙には透明のビニールカバーがかけられていたが汚れていたので捨ててきた記憶がある。判型はいわゆる菊変形判の幅16センチ、高さ18センチとほぼ正方形で昭和39年6月5日号掲載の「ハンドバッグ」から同40年8月6日号の「あぶってかも」までの61回分が収録されている。

團は「あとがき」で、この連載を始めてからの一年半は僕にとって音楽的に豊饒な時であった。「オリンピック開会式序曲」が出来上がり、長くかかっていた「交響曲第四番」「交響曲第五番」が完結し、管弦楽のための「祝典序曲」弦楽のための「合奏交響曲」が完成し、僕自身の原作が脚色された東宝映画「戦場に流れる歌」の音楽が出来上がり、沢山の歌が出来上がり、それぞれが初演され、世の中に送られていった。(中略)音を書く時の僕は音を書く時の僕なのであり、文字を書く時の僕は文字を書く時の僕なのであり、僕にとって言い得る事は、音の世界と文字の世界は全く別の世界であり、その別の世界を生半可に混同したとすれば、その瞬間に、すべての音と文字は白い煙とともに消え失せてしまうものである。管弦楽の響きと合唱の高鳴りが渦を巻き、ピアノの走句(パッセージ)やソプラノの顫音(トリル)が飛び交う中で生活しながら、作曲と自作の演奏に従っている僕にとって、毎週木曜日と金曜日には、机の前で静かに過ごす時間を持つことがきまりで『パイプのけむり』を書くためである。毎週後半に訪れてくる静寂の時間は、何にも代えがたい大切な時間であった。そして、僕はこの時間を好きであった。

いくつか紹介しようと思って読み始めたらやめられなくなり結局、数時間がかりで全部を読んだ。根っからの活字好きというよりは、ま、ヒマなのでしょうね。第一作の「ハンドバッグ」は女性が持ち歩くハンドバッグの中身を見たいと思いながら果たせないという話である。それは男の目の届かぬ女性だけの秘密の空間であるから、気も狂わんばかりに見たく、また、身の毛がよだつほど見ることが恐ろしい。古事記から「夕鶴」の与ひょう、オルフェウスも見ることによって悲劇を招来した。何もそれほど大袈裟に考えるわけではないにしても、死ぬまで、きっとハンドバッグの中は見ないだろうと思う、という何とも屈折した心理を告白している。

「馬」は昭和20年4月13日の夜、東京大空襲で、当時、陸軍戸山学校軍楽隊の鼓手であった僕は、炎上する兵舎の火の手を消そうと奮闘したが及ばず、塀を越えて避難するなかで隣の東部第四部隊の燃える厩舎から逃げ出した数百頭の軍馬の中に取り残されたという恐怖の体験である。「王徳忠」は中国や台湾の服飾関係者かデザイナーだと思い込んでいたらフランスから伝わった服飾用語のオートクチュールだったという話で、外来語をありがたがってそのままカタカナで使いたがる国民性を皮肉る。あまりに無意味な外来語の氾濫に対するアイロニーは「天声人語」でも取り上げられたそうだ。「色盲」は小学一年生の図画の時間に、そうとは知らない教師から描いたクレヨンの色が違うと叱責されて廊下に立たされた辛い思い出。「義歯」は歯が悪かった僕はロンドン滞在中に駆け込んだ歯科病院で全身麻酔をかけられて一度に18本の歯を抜かれてしまう。退院後、一か月かけて通院した義歯専門医に製作してもらった義歯はなかなか具合がよく、久しぶりに行った英会話の先生に「ミスター・ダンは急に英語の発音が良くなりましたね」と訝られた。「それは当然でしょう。英国製の義歯ですから」と答えたが、こんどヨーロッパに行ったらドイツ、フランス、イタリアでそれぞれ義歯を作り、それらを「嵌め替える」ことで各国語を流暢に喋りまくろうと思う、というユーモアが笑わせる。

「暗殺」は昭和7年3月5日の白昼、日本橋の三井銀行本店前で車を降りた祖父の三井合名理事長、團琢磨が右翼・血盟団のテロリストによる暗殺に倒れた。75歳。「血盟団事件」である。白布に覆われた遺骸は、その日の午後原宿の家に帰って来た。報道陣の人達や、突然の凶変を聞いて駆け付けた弔問客のごった返す中で、僕は父に連れられて祖父に対面した。遺骸を覆っていた白布が静かに取除かれた時、僕は祖父の白い死顔を見た。顔色は異様に白く、頭髪も白く、綺麗に刈込まれていた髭も白かった。あたりの喧騒をよそに、白布の上の一点だけには異様な程の静寂が漂っていた。祖父の突然の死は8歳だった僕には何のために何者によって殺されたのかは知らされなかったが生まれて初めて見る<死>が其処にあり、<死>は滅法に白く、静寂であって、僕をいつも膝の上に乗せて可愛がってくれた祖父が、何か人為的な事件の結果もう動かないのだけ理解するのがやっとだった。

最後の「あぶってかも」も祖父の思い出につながる。四つか五つの頃、僕は、祖父が朝食をとる時、いつも膝に抱かれていた。福岡出身の祖父の朝食には、必ずと言って良い程、故郷の味のおきゅうと(ところてんに似た海藻の加工食品で博多人のソウルフード)とかあぶってかも(スズメダイ科の小魚を一塩にしたものであぶって食べる)が並んでいた。祖父は、大好物のあぶってかもの身を小さく毟(むし)りながら、小さかった僕に時々その僅かを食べさせてくれた。あぶってかもは良い香りがした。そしてあぶってかもは美味しかった。小さかった僕は、いつも祖父にせがんだ。あぶってかも。もっと。あぶってかも。
博多での一夜、女友達のアパートで「あぶってかも」をごちそうしてもらうことになる。
「さあ、焼けたわ」
小皿に盛った四尾の小魚の中の一つを手に取った。熱かった。それを毟った。その身を噛んだ。そして嚥んだ。毟れば毟るほど、噛めば噛むほど、嚥み下せば嚥み下すほど、涙が出て堪らなかった。僕はいつまでもその動作を繰り返し、いつまでも涙が止まらなかった。
女友達は、じっと部屋の隅に立ち竦んで僕を見ていた。
「疲れていらっしゃるようだわ。おやすみになった方が良いと思うわ」
然し、いつ迄も、僕は、この貧相な小魚を毟るために俯(うつむ)いていた。

書斎の漂着本(88)蚤野久蔵 琵琶湖底先史土器序説

  • 2016年6月9日 10:23

この連載を始めるにあたり「わが書斎には高価な本やいわゆる稀覯(きこう)本の類などはない」と紹介した。事実その通りなのであるが、今回紹介する『琵琶湖底先史土器序説』が滋賀県下の公立図書館などにどのくらい収蔵されているのかを検索してみる気になった。ご覧のような裸本で、中表紙など2カ所に紺色インクで押されていた3センチ角の蔵書印もなぜか削られている。図書館の蔵書なら表紙のほうは外されていて期待できないかもしれないが、ひょっとしてどこかの図書館から盗まれたものか、貸し出されたまま返却されなかったではないか、というのは考え過ぎとしても例えば蔵書印が押されているとすればインクか朱肉とか、その位置も確かめたいと思ったからである。

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こんなときに重宝しているのが滋賀県立図書館のサイトにある「滋賀県図書館横断検索」で、書名、著者名、出版社を入力すると県立図書館だけでなく市町立図書館や県下の各大学、研究機関の図書館、近畿各府県立図書館、京阪奈学研都市にある国立国会図書館まで一括して検索できる。もちろん単なる「思いつき」ではあったが、発行所の京都の学而堂書店も出版事業から撤退して久しいようだし、昭和25年2月発行、5百部限定というのも気になった。

検索でヒットしたのはただ一カ所、滋賀県某市の市立図書館だけだった。これはひょっとして・・・などと思いながらある日の午後、手持ちの本を抱えて<いそいそと>出かけた。カウンターにいた女性にその本を示して理由を話し、同じのを閲覧させていただきたいと申し込むとパソコン端末をたたいて「残念ながらうちには在庫がありません」という返事。「自宅で調べた横断検索ではこちらに一冊だけ在庫ありと出たのですが」と食い下がったものの、念のためもう一度、検索してもらうと不思議なことに県立琵琶湖博物館はじめ20カ所ほどで「在庫あり」と表示されたのに、この図書館にはなし。仕方なく帰り道にある隣市の市立図書館で閲覧することができた。図書館の開設に当たり市民に不要蔵書を持ち寄ってもらったなかの一冊だったようで所有者名が毛筆で書かれていたが館の蔵書印は押されていない。司書の方によると図書館での蔵書管理は背表紙下に貼るラベルが一般的であるとのことで「何でわざわざ蔵書印を削ったのでしょうねぇ」と興味は示されたもののそれ以上の進展はなかった。

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検索でなぜそうなったかの「謎解き」は後回しにさせていただくが、まずは『琵琶湖底先史土器序説』はどんな内容なのかを紹介しておきたい。著者の小江慶雄(おえ・よしお)は明治44年(1911)琵琶湖の北端、滋賀県湖北町(現・長浜市)に生まれた。九州帝国大学で考古学を学んだあと京都学芸大学(現・京都教育大学)で教鞭をとり、多くの考古学者を育て学長をつとめた。なかでも出身地近くの菅浦半島先端の葛籠尾(つづらお)崎東側の湖底に眠る先史土器の学術調査をはじめ、地中海を中心にして調査が進められていた水中考古学を日本の考古学界に紹介したことなどからわが国水中考古学の第一人者として知られる。葛籠尾崎の2キロほど南に浮かぶ竹生島には「琵琶湖八景」のひとつで西国三十三番札所三十番の宝厳寺と都久夫須麻(つくぶすま)神社がある。小江は漁師が船上から仕掛けた地引網に引っ掛かって揚がった土器が地元に保管されているのを知り、その時代区分などを分析し、この本で学術資料として紹介した。多くは壺や甕だったが鉢や高杯などもある。計23点のうち縄文式土器が6点、残りは時代がさがる弥生式土器に分類した。これは小江が「湖底発見土器中最も秀れたもの」とした高さ10センチ、直径20センチの「磨消縄文土器」で、完形での発見例は畿内や近隣地方では珍しいと評価している。溝の一部には朱が残っていることから朱彩を施して飾っていたものらしいとしているが余程のお気に入りだったのか表紙に「陰刻」しているのがおわかりいただけるだろうか。

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この本で小江は「湖底の土器はかって半島上に集落が営まれていてそこで用いられた土器が湖面の上昇や波の浸食などで湖底に沈んだのではないか」と示唆するにとどめている。自身の考察についても「湖底土器の研究が一歩前進したとは考えない。湖底の文化遺物の十分な究明は一学徒の微力を以てしては果たし得ないところであり、地史学・地形学・湖沼学等の科学陣の参加によって、湖底という制約が克服されて初めて所期の目的が達せられるであろう。ただ今後樹立さるべき湖底遺跡研究の上に小さいながらも一下絵を描き得たとすれば幸である」とあくまで控えめな感想を残している。

戦後の考古学会は、ともすれば開発などに伴う陸上の遺跡・遺構に調査が追われるなかで小江は琵琶湖の湖底に眠る多くの遺跡調査や海底遺跡、海外ではイラク・ティグリス川での水没文化財調査団などに参加するなど水中考古学にこだわり続けた。京都教育大の学長時代の昭和50年(1975)には講談社から『琵琶湖水底の謎』(講談社現代新書)を出版し私の愛読書の一冊になっている。そのなかで縄文から弥生時代にかけて琵琶湖の北岸で生活を営んだ人々を「葛籠尾人」と名付け、彼らが持ち続けた「母なる湖への信仰」が紹介されている。

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ところで、なぜ蔵書印が削られたのかであるが、そのすぐ脇には「謹呈」の二字と署名がある。著者とは違う名前だからこの人物がどなたかに贈ったものらしい。とはいえ自分の蔵書印を押したものに謹呈と書くのも解せないから印はその後に押されたのだろう。それにしてもあえて削ったのはそれなりの理由があったのか。私の推理はここまでであるが最後に検索した際の<在庫のあるなしの謎>について紹介しておきたい。実は<空振り>で自宅に戻ってから再度検索してみてようやく自分のミスに気がついたのである。つまり「琵琶湖底」と入力すべきところを「琵琶湖湖底」と「湖」の字が余分だったというわけ。せっかく某市の市立図書館まで出かけながらお目当ての本に出会えなかったのもカウンターにいた女性が<正しく入力>してくれたからである。文字通り「一字違いが大違い」のお粗末な結末である。