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ヒトラーの時代(15) 池内 紀

  • 2016年5月25日 16:39

亡命ハンドブック

ヒトラーの時代

ヒトラーの時代

1920年代から30年代にかけてのベルリンにフィロ書店という出版社があった。「フィロ」は紀元前一世紀のアレクサンドリアに生きたユダヤ人哲学者にちなんでおり、そんな名称からも、これがユダヤ人出版社であったことがわかる。責任者はルシア・ヤコビーといった。しっかり者の女性が経営の面倒をみていた。そのフィロ書店から一九三八年十二月初め、『フィロ・アトラス』が出た。「フィロ地図帳」といった意味だが、下にそえられた副題が、いかなる中身かを告げていた。つまり、「ユダヤ人の亡命のためのハンドブック」。本文222頁、図表・統計・一覧表60頁、20点のカラー地図つき。

いままさに亡命を考えている人、まだ決めかねて思案している人、これから準備にかかる人、そんなユダヤ人のためにユダヤ人の出版社が「亡命の仕方」を刊行した。事典式にAからZまでの項目に分けて、さまざまな情報を手ごろな一冊に収めていた。亡命にあたっての手続き、亡命先の国の体制、国情、警察、言語、気候、金銭、食べ物、風土病、ビザ、税関、国民気質、女性観、……。いずれも亡命するに際して、先に知っておきたいことであって、それももっとも新しい情報でなくてはならず、また信頼できるものでなくてはならない。

『フィロ・アトラス』表紙(リプリント版)

『フィロ・アトラス』表紙(リプリント版)

ためしにはじめのAの項、冒頭の一つ。

ABC 国家(ABC Staaten)アルゼンチン、ブラジル、チリのこと(頭文字による)「1915年条約」により三国協定を結んでいる。くわしくは各国の項参照。

最後のZの項の終わりにちかい二つ。

チューリヒ(Zürich) スイス最大の都市、経済の中心。人口34万。ユダヤ人6千人=1・7%、ユダヤ人援助協会あり。

中間デッキ(Zwischendecke) 船の等級のうち三等以下を指す。正規の渡航船には存在しない。「船の等級」の項参照。

ごく簡単な説明からも、作り手の意図がはっきりと見てとれる。チューリヒのようによく知られた都市であれ、ユダヤ人亡命者がまず知りたいのは、自分たちの同胞の数である。町の人口比率で、どれぐらいであるか。それがすなわち住みやすいか、住みにくいかの目安になったからだ。「中間デッキ」などの曖昧な標示を掲げた船には用心のこと。それを言外に述べている。亡命者の弱みにつけこみ、ひどいところに押しこんで法外な船賃を要求するはずーーまさしくかゆいところに手をさし伸べた、懇切丁寧なハンドブックであることがみてとれる。そして亡命マニュアルは、亡命のすすめにもなっていた。まさしくその必要があった。刊行の前月にあたる1938年11月9日から10日にかけての夜、組織的なユダヤ人迫害、いわゆる「ポグロム」があった。ドイツ全土にわたり、ユダヤ人商店、住宅が打ち壊しあった。ドイツ警察は見守るだけで、いっさい阻止しなかった。ユダヤ教会堂に火が放たれ、この夜、2万6千人にのぼるユダヤ人男性が不法に逮捕された。

これまでもポグロムは何度かあったが、この夜はとりわけ大規模で、ナチ党の指令のもとに大々的に実施された。打ち壊されたショーウインドウのガラスが夜の明かりにキラキラ光っていたところから、のちに「水晶の夜」の名がついた。このことはよく知られているが、その直後に矢つぎばやに政令が出ていたことは、あまり知られていないだろう。とりわけ11月12日付の政令が目を引く。「ドイツ在住ユダヤ人に対する10億マルクの課徴金支払いに関する政令」「ドイツ経済生活からユダヤ人排除のための政令」(「水晶の夜」を引き起こした者たちではなく、被害にあった者たちが修復の費用を負担させられる)。同日付でさらに「劇場、映画館、音楽会等へのユダヤ人の立ち入り禁止のための政令」が出された。

「水晶の夜」に放火され、炎上したユダヤ教会の祭壇。見物に来た市民たち。

「水晶の夜」に放火され、炎上したユダヤ教会の祭壇。見物に来た市民たち。

11月28日には「公開の場所へのユダヤ人の立ち入りに関する警察命令」。12月3日には「ユダヤ人の運転免許証没収」。

一寸刻みに人間としての存在そのものが消し去られていく。この時点で「ドイツ在住ユダヤ人」は約30万人とされていたが、おおかたがいわば亡命の初心者だった。そのためにイロハも知らない。事情に通じた上級者たちはーーたとえばノーベル賞作家トーマス・マンらはーーいち早く亡命をすませていた。

ことの進展に怯え、立ちすくみ、途方にくれている人たちーー。『フィロ・アトラス』がめざしたのは、そのような人々だった。海外に手づるをもたず、寄るべき機関や組織もなく、懐も乏しい。その人々に決断させるためには、ともかく知らせ、選ばせ、かすかな希望でも届けなくてはならない。そのためだろう、編集者は「はしがき」に、亡命は出国ではなく入国であると説いている。いいですね。これは「入国者のためのハンドブック」だから皆さん、勇気をふるってひらいてごらん!

亡命マニュアルの刊行は、さまざまのことを伝えている。

19世紀末からユダヤ人のあいだにシオニズム運動がひろがっていた。ユダヤ人によるユダヤ人のためのユダヤ人国家建設を掲げて、その場所をパレスティナと定めた。聖地エルサレムを望む土地に入植して新しい国家をつくる。1938年当時、本拠地パレスティナをはじめ、主だった都市にシオニストたちの支部がつくられ、亡命者を送り出し、かつは受け入れていた。必要な情報は各地の支部がだしていた。

『フィロ・アトラス』のめざした人は、そのようなシオニストではなく、協会の会員でもなかっただろう。どちらかといえばシオニズムに批判的で、これまでも運動には背を向けてきた。むしろドイツを愛し、こよなくドイツ文化を誇りにして、全力をあげてドイツ社会に同化してきた人々である。ユダヤ教を捨て、カトリック、あるいはプロテスタントに改宗した家族もいた。これまで申し分のないドイツ市民であったのに、ある日、その市民社会から排除されて「ユダヤ人」になった。はじめはゆるやかな「規制」というかたちをとった。ユダヤ人の専門職公務員を規制する。第一次世界大戦後にドイツに帰化したユダヤ人の国籍を規制して、帰化を取り消す。

1935年9月、「ドイツ人の血統とドイツ人の名誉を守るための法律」が成立した。おもて向きの対象は「ドイツ人」だが、法律の中身そのものはすべて「ユダヤ人」に向けられていた。ユダヤ人を規定して、その混血からドイツの血統と名誉を守る。同年11月の法令では、ユダヤ人との混血のカテゴリーがことこまかに定義された。いわゆる「ニュルンベルク法」の成立である。昨日までのドイツ市民が法律の定めるところにより、いや応なくユダヤ人にならなくてはならない。

以前から、ある一つのユダヤ人の協会があった。シオニズム運動がひろがるなかに、その運動に同調できない人々がつくったもので、「ユダヤ信条のドイツ市民協会」といい、1893年にベルリンで設立された。まわりくどく、わかりにくい名称がそのまま、立場の微妙さを語っていた。ユダヤ人であり、ユダヤ人としての信条は捨てていないが、しかし、同時にドイツ国家に忠誠を誓うよきドイツ市民であるーー。第一次世界大戦の終了後、反ユダヤ主義が声高に叫ばれ、暴力沙汰に及んできた。これに対抗し、さらにはひろく誤解につつまれたユダヤ性を啓蒙するため、1919年に協会が出版部をつくった。それが翌年、さらに整備されてフィロ書店が誕生した。

ナチ党新聞は連日、悪意あるデマをふりまいていた。ユダヤ人は守銭奴で、好色で、不潔で、協調性がなく、売国奴で、狭量で、狡猾で、小心で、抜け目がなく……鷲鼻で、毛深く、脚はワン曲、背は猫背……。派手なイラストが紙面を飾っている。これに対して誕生から1933年までの13年間に、フィロ書店の刊行物は153冊を数えている。くわしくはわからないが、タイトルからして、おおかたがパンフレットや小冊子だったのではないだろうか。根も葉もない宣伝に、一つ一つ答えていく。あわせて反ナチ運動の窓口になった。

1935年。ニュルンベルク法の成立とともに状況が一変した。ユダヤ系の市民たちは、自分たちが一夜にして奇妙な立場に追いやられたことに気がついた。ひとことで言えば、こうだろうか。ユダヤ人でありえないのに、ユダヤ人にならなくてはならぬ。ユダヤ人とは何か? それはナチスのプロパガンダが言い立てている。ユダヤの信仰をもち、ユダヤの文化や伝統や風習を尊び、ユダヤの国家理念をもつことだろう。だが「ユダヤ信条のドイツ市民協会」の人々は、シオニズムに背を向けたことからもわかるように、とりたててイスラエルの神を信仰していなかったし、ユダヤの文化や風習を尊んでいなかった。ユダヤの伝統とは祖父なり父の代で縁が切れていたし、誇らかに身につけたのはドイツの文化や風習だった。幼いころに夜の雪を踏んで出かけたのはクリスマス・ミサであってシナゴーグ(ユダヤ教会堂)ではなかった。

「水晶の夜」に破壊されたユダヤ人商店、笑いながら見物に来た市民

「水晶の夜」に破壊されたユダヤ人商店、笑いながら見物に来た市民

名前にしてもユダヤ名のアブラハムやヨカナーンではないのである。マルティンやマクシミリアンやフランツである。ユダヤの典礼を知らず、ユダヤ思想になじんだこともなく、ユダヤの儀式にも参加しなかった。にもかかわらず自分の愛してきた国の法律が自分をユダヤ人だと規定する。ユダヤ人ではありえないのにユダヤ人にならなくてはならない。

ヒトラーは国民社会主義(ナチス)を唱え、ナチス・ドイツはドイツを代表する国として、世界に認知されていた。その国の法令がユダヤ人を規定した。それを世界の人々が了承した。むろん、日本人も例外ではなかった。とりわけいそいそと了承した。ニュルンベルク法交付の翌年、日独防共協定が結ばれている。大日本帝國はナチス・ドイツとの運命共同体に入った。

ナチス国家という狂気じみた集団がもたらした妄想では決してなかった。ナチス・ドイツは政治的にも歴史的にも合法的な国家だった。ニュルンベルク法公布の1935年にも、「水晶の夜」が起きた1938年にも、世界中のどの国も、憤然として第三帝國との関係を断とうとはしなかった。

その国家によって、ユダヤ人存在が規定された。「ユダヤ信条のドイツ市民」たちの亡命が遅れたのは、このような事情による。おぞましい敵によって我が身が規定され、はじめて自分がユダヤ人であることを思い知った。「ユダヤ人ではない」のではない人間として、ユダヤ人でなくてはならず、そんな自分に途方にくれている。フィロ書店の「亡命の手引き」は、そんな30万にのぼる非ユダヤ的ユダヤ人のためにつくられた。

発行人はエールンスト・レーヴェンタール。編集はこのレーヴェンタールとハンス・オッペンハイマーの二人。編集協力として十六人の名があがっている。大半がドクターの肩書きをもち、地図はグレーテル・ヴィーゼンタールという女性が担当。名前はしるされていないが、ほかに無数の人々が協力したことが「はしがき」に述べてある。

刊行は状況の激変に応じてあわただしかったが、本文には十分な準備があった。フィロ書店は『フィロ・アトラス』に先立ち『ユダヤ事典』(1934年)、『ユダヤ引用事典』(1936)を公刊していた。前者は世界中にちらばったユダヤ人百科であり、後者は非ユダヤ人が語り、また書いた、ユダヤ人についての言葉を集めている。ともにナチス宣伝省がふりまくユダヤ人像に対峙させるためだった。

ナチス当局は、さしあたり刊行を許可した。ユダヤ人が国を捨てて出ていくのは、「ユダヤ人処理」の政策に合わなくもない。そのためのマニュアルは大目に見られたらしい。

扉の裏に「この本の使い方」がつけられている。日ごろ事典など手にしたことのない階層を考慮してだろう。「äやöやüの文字のかかわる事項は、それぞれa、o、uのあとに出てくる」からはじまって、まさに手にとるように教えている。ほとんど身一つで逃れる人々の重要な情報源としてトランクに詰められるはずである。より多くの情報を、より小さなスペースに収めるために、略字や記号などが工夫された。「この本の使い方」は念を押すようにして、本文に先立ち、略字、記号の説明に注意を払うようによびかけている。

思想家ヴァルター・ベンヤミンは、パリよりスペイン経由で亡命を図り、1940年九月、アペニン山脈を越えたところで自殺した。税関の官吏に密告の脅しでワイロを強要されたせいだといわれている。ベンヤミンはおそらく『フィロ・アトラス』をひらかなかったのだろう。ここにはナチスが支援したフランコ政権下のスペインに、ただ一行があててあった。

「入国する国ではない」

スターリン独裁下のソ連邦にも同じ一行が使われている。アトラス作成チームは、きわめて正確な情報を得ていたようだ。ソヴィエト占領地区、またキエフや南ロシア全土で凄惨なユダヤ人殺戮が発覚するのは、数年あとのことである。

ポーランドはもっともユダヤ人の多い国の一つであり、総数327万5千=9・7%、首都ワルシャワでは30%をこえる。人口密度の高いのが暮らしやすさの一つの目安だが、マニュアルの筆者は、ポーランドの項のはじめに、はっきりと述べている。これは「出国する国」であって、入る国ではないということ。その後のポーランド在住ユダヤ人の運命が、この上なく記述の正しさを証している。

ベンヤミンが無事スペインを通過して、ポルトガルに行き着いていたら、どうだったろう? ポーランド(Polen)の四項あとにあるポルトガル(Portugal)にはビザが不用なこと、到着一週間以内に滞在許可願を警察に出すこと、半年以上の滞在の際には長期滞在許可を身分証明によって働きかけることなどのあと、目下のところユダヤ人はポルトガル全土で3千=0・3%にのぼることを伝えている。それとなく「亡命おすすめ国」のニュアンスが感じとれるのだ。実際、リスボンはヨーロッパにあって、最後の希望の星の役割を果たした。ポルトガル政府は比較的リベラルな政策をとり、1940年から44年にかけて8万から10万の亡命者を受け入れた。その大半がユダヤ人で、無事に時代を生きのびた。

日本(Japan)はどうだろう? まず王国とあって、面積、人口、言語その他は巻末参照。ビザは必要はないが、前もって近くの領事館に相談するのが望ましい。「職が得られるかどうかは役所しだい。技術または言語の専門家以外は可能性が乏しい」。

つづいては地理的特徴、首都東京のこと(人口580万、世界第三の巨大都市)、気候、産業、鉄道、法律……。近年の拡大政策により、めざましく工業化が進展中。巻末の図表・統計・一覧表によると、当時の大日本帝国の人口は7千万、そのうちユダヤ人は約2千=0・002%。表に掲げられた国々のうち、その人口比率は、かぎりなくビリに近い。全体のそっけない書き方からして、あきらかにおすすめではないのである。

当時、アメリカやカナダは一般には「自由の国」とされていたが、必ずしも「自由の国」が、いつもユダヤ人に門を開いていたわけではない。「水晶の夜」事件の翌年5月、渡航船「セント・ルイス」号は937名のユダヤ人をのせて大西洋を横断した。まずキューバで上陸を拒否された。ユダヤ人の大半が女・子供であって、就労に適さないの理由だった。合衆国税関もキューバの例にならった。937名はヨーロッパへ還され、そのまま収容所へと送られた。

セント・ルイス号の例が示している。どの国にとっても実情は「望ましからざる民族」であって、ユダヤ人の受け入れを拒むためのさまざまな規制を定めていた。シオニストの聖地パレスティナにおいても事情はさして変わらなかった。イギリス統治下であれば、むしろ何倍か厳しかった。『フィロ・アトラス』のパレスティナの項は一般的な説明のあと、カテゴリーAからDまで分類してあって、亡命者の立場が一覧できるつくりになっている。カテゴリーAは「資産を持つ者」、カテゴリーBは「確実な収入の見込める者」、Cは「労働証明付きの者」、Dは「その他」。

カテゴリーAの「資産を持つ者」はさらに資産の額によってA1からA5に分けられるが、A5の場合は「特殊技能をもつこと」を条件とする。さらにA5備考欄には、つぎのような注意がある。「申請しても認められることはきわめて稀(まれ)」

ついでながら文筆家や芸術家は「特殊技能者」ではないのである。それは「自由業」に入り、たとえ資産持ちでも、この分野の人間は「認可困難」とある。

カテゴリーBの「確実な収入の見込める者」も、その収入の「安定度」によってB1からB3に分類され、どの場合も「公共の証明書」を欠いてはならない。

カテゴリーCのいう「労働証明」は、それがありさえすればいいわけではなかった。五年以上の経験のほかに「十八歳より三十五歳まで」の年齢制限があった。働き盛りの者以外は来てほしくないのである。

カテゴリーDの「その他」は、女、子供、老人にあたり、パレスティナ在住の親類縁者、それも一定の資産所有者の保証を必要とした。つまるところパレスティナは「約束の地」では決してなかった。どの場合にも煩雑きわまる書類と、長い待機の時間を必要としたし、しかもそののちにしばしば、イギリス政府委任統治者からの非情な「ノー」が舞い込んだ。

いっぽうでドイツ国内の規制はなおのこと強化されていた。翌39年1月には「ドイツ市民権法改正の政令」によりユダヤ人の歯科医、獣医、薬剤師は営業権を取り消された。4月の「ユダヤ人との賃貸借関係に関する法令」はユダヤ人の居住権撤廃を定めており、家主は一方的に賃貸を打ち切りにできる。同年9月、「ユダヤ人の外出制限に関する政令」。夏は夜の9時、冬は8時を限りとして外出禁止。また当月かぎりでユダヤ人の家庭からラジオ受信機が取り上げられた。わずかな慰安と情報すらも奪われた。

このような状況下である。『フィロ・アトラス』は亡命のハウツーであると同時に、人間の尊厳を守る試みでもあったはずだ。親しくなじんできた市民社会であれ、それに断固として背を向けること。それを捨てていく。この社会は無法な独裁者を容認し、歓呼の声を上げ、ナチスのカギ十字にヒトラー式の挨拶を送っているではないか。たとえ少数の心ある人が異義を申し立てても、それは小さな呟きにとどまって、決して社会の声とはならない。隣人は同情の目で見ても、何かあると、やむをえないというように、自分たちの隣家がユダヤ人一家であることを囁き合っている。たとえ世間がユダヤ人と決めてかからないでも、同じ世間がはっきりとユダヤ人ではないと言わないかぎり、ユダヤ人はユダヤ人でありつづける。市民社会の法によりユダヤ人であり続けなくてはならない。

この世間のなかで立ちすくみ、途方にくれている、とりわけユダヤ知識人、中年すぎた人、年輩者が絶望の淵にいた。捨てるのを要請されているのは家屋や資産だけではない。思い出、記憶、生きがい、誇りのすべてを捨てなくてはならない。『フィロ・アトラス』の編集者は、わざわざ「出ていくこと」(Auswanderung  )の項を立てて説いている。出ると同時に日常が大きく変化する。まるきりちがった気候、食べ物、言葉、習慣に直面して、体力、気力、精神力が必要だ。とともに、もう一つ大切なことがある。若者がいい手本だが、これまでの地位に執着しないこと。励ますようにして言いそえてある。「それはけっして不名誉なことではないのである」

『フィロ・アトラス』のリプリント版には編者や執筆協力者のうち、わかっている者たちの略歴がついている。おおかたが「ユダヤ信条のドイツ市民協会」の運営にたずさわり、広報や新聞発行の部局にいた。とりわけ情報にくわしい場にいたわけだ。

発行人E・G・レーヴェンタール(1904〜1994)は1939年にイギリスに亡命。ともに編集を担当したH・オッペンハイマー(1903〜1985)は「水晶の夜」に逮捕された。釈放後、オランダ経由でアメリカに亡命。

執筆者の一人W・カーマン(1902〜1980)は、ダッハウ強制収容所。その後、イギリスに亡命、労働許可が得られず、アメリカに渡った。

亡命マニュアル作製に加わったほぼ全員が三十代だった。そしてマニュアルを実践するかのように、それぞれが自分の選択をして亡命した。選択はしても実現できなかった者たちは数多くいた。その一人、ハンナ・カルミンスキー(1897〜1942)は、ユダヤ女性援助会の事務局にいて、最後まで残り、1942年、アウシュヴィッツへ送られた。

『フィロ・アトラス』はフィロ書店の最後の本だった。1938年12月初めの刊行から三週間後、同年12月31日をもって、「出版に関する新法令」にもとづき、ユダヤ系出版社はすべて活動を停止した。

フィロ書店責任者ルシア・ヤコビーについて、レーヴェンシュタールが報告している。いっさいの整理をすませたのち、彼女は亡命の準備をしていた。看護法やマッサージや保育をならい、英語とオランダ語を勉強していた。この勇気ある女性は自分の任務をはなれてのち、誰の負担にもなるまいと決めていたからだ。「ルシアを救出する試みはどれも失敗した。パナマ政府に働きかけたが成功しなかった。キューバのビザをととのえたが、直前に年齢制限の引き上げにあって無効になった」。

最後の手紙……内省と品位あふれた手紙は1941年12月初めの日付だった。そのあとは便りがとだえた。ルシア・ヤコビーは1942年、アウシュヴィッツへ送られ、そこで死んだ。

私の手塚治虫 第25回   峯島正行

  • 2016年5月16日 15:20

日本最初のテレビ・アニメ「鉄腕アトム」

パイロット・フィルムの試写

手塚治虫は、昭和三四年一一月に予定された、虫プロ第1回作品発表会に、「ある街角の物語り」と同時に、半分ほど、原画の撮影が終わっていた、「鉄腕アトム」のパイロット・フィルムを、上映することに決めた。パイロット・フィルムとは、作品のサンプルのことで、これを見れば、どんな番組が出来るかわかりやすいので、テレビ局やスポンサーとの契約の資料となるものである。

このパイロット・フィルムを造るのにも、大変な苦労をしなければならなかった。先にも説明したように、アニメーションを制作する場合、製作者の意図に沿って、シナリオ担当者がシナリオを造り、それにしたがって、画コンテを造る。そこには、一カットごとに構図とか、キャラクターの動き、背景が描きこまれ、カット版号セリフ、作画の注文なども描きこまれる。

それを受けた原画家が、それにしたがって原画を描き、動画家がその動きを描いて行くのである。

ところが、漫画に忙しい手塚は、画コンテを造る暇がないから、一カットの原画案が、ポツリポツリと原画家のもとに送られてくるに過ぎない。それがどう繋がっていくのか、原画家は分らない。つまり、画コンテは、手塚の頭の中にしかないので、原画が出来ると、それがどう繋がるのか、いちいち手塚に現場に来て貰い、順序を並べて貰わねば仕事は進まない。

その原画の案を受け取るのは、坂本というベテランをトップにしているから原画はすぐに書きあがってしまう。それで手塚に催促するというような進み具合で、能率が上がらなかった。

その為、一一月の発表会がきまったころまでにやっと一話の半分ほどの撮影しか、あがっていなかった。発表会に間に合わせるために、その半分にちかい一〇分ほどのフィルムに、セリフと音楽を入れて、やっとのことで、パイロット・フィルムを作り上げる始末であった。

それでも動画部のアニメーターたちが、その試写を見て、第一話のストーリーが理解できた。

二一世紀の東京。科学者天馬博士は、可愛い一人の息子のトビオ少年を交通事故で亡くし、トビオそっくりのロボットを作り、息子と思い一緒に暮らす。しかしロボットは一向に成長をしない。怒った博士は、ロボットをサーカスに売ってしまう。一〇万馬力の力を持ち、足からジェット噴射で飛ぶそのロボットは、鉄腕アトムと名付けられ、辛い暮らしを押し付けられている。

科学省長官のお茶の水博士は、それを知り、アトムをサーカスから取り戻そうと立上がる……、そうしてあの物語が痛快に展開する。

その試写を見て、製作スタッフはみんな拍手喝采だった。

経営部門の弱体

「虫プロ興亡記」の著者、山本映一は、このパイロット・フィルムの効果につて、簡単に記している。

「パイロット・フィルムの効き目はてきめんだった。局はフジテレビ、スポンサーは明治製菓がきまった。 放送は来年(昭和三八年)1月1日からの毎週火曜日午後六時一五分から四五分までの三〇分となった」(虫プロ興亡記・一九八九年、新潮社)

前述の穴見薫の属する広告代理店の萬年社が動き、スポンサーやテレビ局を回り、このように、早く契約がまとまりスポンサーが決まったということは、作品の前途に、明るい期待を持たせるに十分であった。しかし虫プロとしては、この早急な契約で、二つのマイナス要因を抱えてしまった。

その一つは、契約に際して、手塚が一回の放送料を五十五万円でいいと、はっきり明言してしまったことだ。テレビ局側の方が、そんな安くて、いいのかと念を押したくらいであった。実際は一回の製作費は、二百五十万円は掛かったといわれている。同席していた、虫プロ専務の今井がしきりに、目で合図を送ったにも拘わらず、手塚は平然たるものであった。

これについて手塚は次のように述べている。

「当時、普通のテレビ劇映画の製作費が四、五十万円で、それから飛び離れて高ければ、とてもスポンサーは寄り付かないだろうという思案が一つ。それにうんと安い制作費を発表しておけば、とてもよそでは、それだけではできないだろう――という計算をたてたぼくは、心で泣いて、赤字覚悟でこういったのだ」(ぼくはマンガ家 大和書房 昭和五四年)

あまり安いので、裏になにかあるのではないかと、明治製菓の方で疑ったが、結局手塚の人柄が信用され、契約は無事結ばれた。この製作費はその後,百万円程度、引き上げられたという説もあるし、広告代理店の萬年社が、百五十万にして、虫プロに払ったとかいろいろの説があるが、真相はわからない。いずれにしても、製作費は、放映後引き上げられたのは事実であろうが、それは制作実費に満たない金額であったのは事実ではないだろうか。

第二のマイナス要因は、虫プロの制作能力が検討されずに、放映時期と毎週の放映とし、一回の長さを三〇分と決めてしまったことである。その頃の虫プロの制作能力からすれば、毎週三〇分のアニメーション制作し、それを翌年の一月から放映開始するということは、困難だということは、虫プロの事情を知っているものの眼から見れば、分る筈ではなかったのではなかろうか。

民放のテレビ局が、新番組を始まるときは、電通、博報堂といった、広告代理店が、製作者、テレビ局、スポンサーの間にたち、それぞれの立場、条件を勘案しつつ、契約関係を決めてゆくのが、民放開始以来の慣習のようであった。時には製作者の力をつけるために、人材、資金の面倒まで見る場合さえあった。

「鉄腕アトム」の場合、萬年社の穴見薫という人物が、早くから、虫プロに接近し、制作スタッフと交流し、手塚の広告代理店として協力する約束を取り付けていたので、当然、萬年社が広告代理店として、役割を果たすことになったのであろう。

だから、実行困難な契約を結んだ責任の一端は、萬年社とそれを代表した穴見にあったというべきであろう。

これが萬年社でなく、当時隆盛を極めていた電通とか博報堂とかが、代理店としてついていたならば、どうなったか。虫プロがまだ、制作部門には、一応の人物がある程度揃っていたが、事業経営体としての経営部門が何もできていなかったことを見れば、直ちにその面の充実に力を貸し、また適当な人材を探し出して虫プロに投入させたかも知れない、と思われる。そして、経理、人事、生産管理、対外交渉などの、経営部門の整備を図ったはずであり、その部門が制作部門と相計って、合理的な生産計画、販売計画を立てて、事業を進めたはずである。

勿論、虫プロの社長であり、オーナーであった手塚が経営者である。社長である手塚に、経営する時間なり、その能力があったかという問題を考えてみよう。手塚は、作家としては超一流、世界的なタレントである。然し経営の面については、それと同程度の経験なり、才能があったかというと、疑問とせざるを得ないだろう。そういう場合、手塚社長の作家としての才能に見合うだけの、見識を持った経営担当者が社内にいれば、その言に納得して、経営面を担当させることは、手塚としてもやぶさかでは無い筈であろう。

ところが残念なことに萬年社というのは、そういう人物を探し出したりする能力があったか、また穴見にそういう経営的な才能があったか、どうか、やはり疑問とせざるを得ないだろう。

萬年社という会社は、日本で、最も古い広告代理店で、大阪に本拠を置き、大正時代には大いに栄えたが、昭和に入り、大阪の大企業が本拠を東京に移し始めてから次第に勢力が衰え、一九九〇年に多額の負債を抱え、自己破産してしまう。虫プロに接したしたころは、いわば衰微に向かう斜陽会社であった

テレビアニメにも一〇本ほど関係しただけで終わっている。その十本の最初が鉄腕アトムだったわけである。そういう斜陽会社と取引せざるを得なかったのは、虫プロの不運だとしか言いようがない。穴見もその社員として、懸命に働いたのであろうが、籍を置く会社が左前では、持てる力を発揮できなかったのかも知れない。恐らく、日本最初のテレビアニメを制作する会社に、経営のアドバイスする力も、それに当たる人材を、探し出す能力も無かったといえるのではないだろうか。穴見自身もサラリーマンとして,萬年社の社員として、一部門を担当しただけの経験しかもたず、契約をむすぶだけでも必死だったのではないだろうか。私は彼が、功を焦りすぎたのではないかとさえ、勘ぐりたくなるのを禁じ得ない。

かくして、虫プロは、手塚の力で制作部門では、坂本雄作、山本暎一などを擁し、一流の人材が集まったが、経営部門は人を得なかった。漫画部門の一マネージャーだった山下が専務になったが、経営者型の人物ではない。広告代理店の萬年社、およびその社員穴見薫に事態を見極める力がなかったため、社長の手塚の手の及ばぬ経営部門を補佐、あるいはリードできる人物がないまま、日本最初のテレビアニメ制作に、見切り発車の如く乗り出してしまったことが、後々、マイナス要因として、大きくは働くことになったしまった、と言えるのではないか、と思われる。

「鉄腕アトム」放映が始まった後、穴見が常務として経営に当たることになるが、前記の如く、この人物にそれだけの才腕があったか、どうか。それは、のちになって、一層はっきりしてくる。

ものを作る経営は制作部門と経営管理部門とに自然に分れる。管理部門とは、生産費の管理、その為の経理、生産物の原価の策定、そこから販売計画の樹立、販売の実践と進んでゆく。虫プロの場合、手塚が漫画で稼いだ金を虫プロにつぎ込み、その金で、ドンブリ勘定式に製作、従業員の雇用、その他経費を支払って行く。手塚は、その為にマンガの仕事から手を抜くことは不可能であり、そこからアニメ制作が遅れるという、悪循環の繰り返しになってゆくのはやむを得なかった。

連日徹夜の多忙さ

契約を結んだ以上、実行しなければならない。「鉄腕アトム」の来年一月一日の第一回の放送を控えて、一〇月末になってになってやっと第二話の原画制作があがるという進行状況で、その遅れを取り消すため、虫プロのテレビ部は、夢中で働いた。

一方の映画部の「ある街角の物語」の方は一一月に入ると完成のめどがついた。映画部の連中は、一斉にテレビ部の応援に回った。テレビ部のアトムの方は10月いっぱいでようやく第二話が上がり、11月に入って漸く第三話にかかっていた。年内に最低でも五,六話のストックが出来ないと、毎週の放映に支障をきたす恐れがある

山本暎一は自分の当時の働きぶりを書いている。

「能率を上げるには、結局、時間で頑張るしかなく、日曜も祭日もなくなり、全員が終電車まで残った。明太(この文章の主人公、つまり山本と等身大の男の名)ら独身者は、無人のアパートへ深夜帰ってまたすぐ出てくるのも面倒くさく、そのまま朝まで描きつづけた。

机に向かっていると時間の経過への関心がなくなり、気が付いたら三,四昼夜過ぎていた、などということがザラだった。右手の鉛筆を持つところや、小指の画用紙に擦れる部分の皮がすりむけて赤い肉がのぞき、血染めの原画が出来たりして、包帯を巻かねばならなかった。腹がへったら近所の店からラーメンや焼きそばをとり、眠くなったら机の下にもぐりこんで寝た。……ここはもう浮浪者の巣窟だった」(前掲書)

その頃、虫プロに入社した人物に、若き日のSF作家、石津嵐がいる。石津は元来が演劇青年だったが、若気の至りで、やることなすこと失敗の連続で、完全に食い詰めた。そんな時、電車の中で拾った新聞に、アニメーション映画スタッフ募集という広告があるのを見て、ただちに応募した。アニメーションも、虫プロの社長が手塚治虫であることも知らずにである。そんなうらぶれた青年が無事合格した。面接のとき、やたらに忙しい部署で働きたいと、焼け気味に云ったのだが、そんなこと言わなくても、全社を挙げての大多忙の中に、いやでも放り込まれたのであった。

最初は進行係の一人になったらしいが、

「ボクは、わけのわからないままにあらゆる雑用にこき使われることになったのだ。その初出社の日から1か月というもの、家に帰ることが出来なかった。

全スタッフが、一人三役、四役というハードスケジュールをこなしていたわけで、それは、もう、とても人間様の生活とも思えぬ地獄の様相を呈していた」(秘密の手塚治虫・昭和五五年、太陽企画出版)と、自著に当時の虫プロの様子を描いている。

このような状況の下で、作業の遅れは一挙に解消しようにもなく、時日は刻一刻と過ぎてゆく。

止めるか、進むべきかの境目

テレビ部のチーフアニメーターであり、演出家である坂本は、現在の進行状況では、週一本の放映に穴がなくという心配を、強く感じていた。仲間の原画家を集めて、心情を述べた。

「おれ達が全員でかかれば、1週間で上げなければならない原画と動画に、いまだに四週も五週もかかっている。その遅れの原因には、漫画の方で忙しい手塚先生の手を待つロスも大きい。テレビ・アニメの開拓は漫画を描く片手間で、やれるようなもんじゃない。

と言って,今の虫プロを支えているのは、手塚先生の原稿料収入だし…。テレビアニメは虫プロだけの問題ではない。アニメの未来がかかっている。もしスタートしてしまっておれたちが途中で失敗したら、二度とテレビ・アニメをやるものがいなくなる。だからこの際先生の覚悟を確かめに行こうと思っているんだ」

という坂本の言葉によって、アニメーターが打ち揃って、手塚の仕事場に押しかけていった。手塚は中二階の仕事場で、風邪を引いたといって、寝転んで、原稿を書いていた。

手塚は一同の話を聞いて

「君たちがそこまで考えてくれて、こんな嬉しいことはない。僕にちょっと考えさしてほしい」

と、言うことで、一同はその場を引きさがった。手塚の返事はすぐに来た。それは、手塚が演出、原画を受け持つのは第三話までとし、第四話からは、坂本、杉井、山本、石井、紺野の五人の原画家に任せようというのだった。つまり五人がローテーションを組み、順繰りに各一話ずつ演出を担当する。五人が五週間で、一本の作品のシナリオ、画コンテを描き、原画を描き上げる。

動画以後の仕事は人を分けずに、それぞれのセクションが総がかりで、一本分の作業をしてゆく。

手塚は、シナリオと画コンテのチェック、キャラクターのデザインを引き受け、さらに時間があれば原画を手伝う。時々手塚も一本の作品を担当する。

というものであった。

以上の手塚の提案を皆が受け入れた。漫画で忙しい手塚の手が空くのを待つという計算できない要素が排除され、きつくても、自分たちが頑張れば作業が進むので、この体制を歓迎した。

十二月。現場の苦闘は続いていた。放送開始前に五本をストックしたいという願望も、第三話のダビング完了までが精いっぱいだった。その第三話は、一月一五日に放送されてしまう。一月二二日に放送する第四話は、今作画中である。間に合うのか? よしやそれがやっと間に合ったところで、その次は?

そんなことを考えるとスタッフの面々は、恐怖に身が縮んだ。世間は年末多忙さの真っただ中にあったが、虫プロのスタッフは忙しさの限度を通り越していた。虫プロのテレビアニメの責任者の坂本は強烈な不安に駆られ、ひたすら鉛筆を握り続ける動画家の全員と、アニメにかかわる各部門の責任者を、代理店の穴見を含めて、招集をかけた。

「おれはテレビアニメを手塚先生に提唱し、今日まで必死にやってきた。しかしこのままやってゆけるか?これだけ奮闘してもまだスケジュールに間に合わない。

このまま進むべきか、いったん退くべきか。止めるなら今が最後のチャンスだ。退く、ことに勇気を擁することもある。とにかく放送が始まってしまってからでは、取り返しがうつかない。どうだ、止めると結論が出たら、すぐに先生の元に駆けつける。どうだい?」

と、声涙ともに下る決断を示した。これに反対したのは、山本だけであった。その時、穴見が立ち上がった。大きな図体の男の口から、重々しそうな声が出た。

「僕も反対です。坂本さん、男児たる者、時に命をかけても、腹を切る気でやらなきゃならない場合があるのではないですか。ここは死ぬ気で団結して、やって見ようじゃないですか。この際は、一致団結でやりぬくべきではないですか」

学徒兵の特攻隊上がりらしく、特攻精神でやろうというのだ。みんな黙った。坂本は口を引き締め、「じゃ、血のションベンたらしてもやり抜くか、どうだみんな」

反対するものがなかった。

この時は、男の意気地、特攻精神で行くことになったが、私は、坂本の言うとおり、いったん引いて置いて、十分とはいかないまでも、相当の物的、人的な準備をし直して、改めて出発した方が良かったと、思えるのである。さすが坂本はアニメの先駆者としての先見性があったと、今は思えるのである。

日本人の悪い癖で、男だ、やってやろう、という精神論が、往々にして、勝ちを占めるのである。この特攻精神で何が何でもやり抜こうとしたため、虫プロには、特殊な精神構造が生まれ、それが蔓延し、結局は後年の破局を生み出していったと思われる。

視聴率二七パーセントの大成功

ともあれ、この時以来、虫プロの空気は、冷静な計算より、一層、意気で仕事する雰囲気が強くなったといえようか。

「虫プロはおもちゃ箱をひっくり返したような会社だった。世間の常識に収まるものは一人もいなかったといってよいだろう」

鉄腕アトムの頃、虫プロで、制作進行の仕事をしていた柴山達雄という人物が、「虫プロてんやわんや・誰も知らない手塚治虫」(創樹社美術出版・平成二一年)という本の中で書いている文章である。仕事が目茶目茶な忙しさのために、非常識の人間ばかりできてしまったのだろう。

「地獄のアトム制作に身を投じたが、不夜城と化したスタジオは、鉄腕アトムならぬ徹夜アトム、練馬鑑別所に引っ掛けて練馬貫徹所と、内外から言われるほどの凄まじさだった。動かない漫画を動かすのは口で言うほど簡単なことではない。二三分三〇秒のアトム一話分に描く動画原稿は二千枚から三千枚である。アニメーター不足、連日の徹夜、体力の消耗、鉛筆を握ったまま椅子から落ちて、そのまま床に眠りこけるものが続出した。

ひとたびスタジオに入るや十日や二十日帰宅できなかった。手塚自身もその渦に飲み込まれていた。一日の睡眠時間は二時間ほどあっただろうか。しばしばスタジオの床の上で、ぼろ雑巾のように眠っていた」(前掲書)

というありさまだった。それが延々と続いた。

そのかわり、家内工業的な、牧歌的な面白いところもあった。原画を描くアニメーターは、すでに述べたように高い報酬を受けていたが、その後一般募集で入社してきたスタッフは、会社の規模通りの報酬しか貰っていない。例えば先の石津嵐氏だって、月給一萬三千円ほどしかもらっていなかった。

だが毎日、昼食時になると、手塚のお母さんがスタジオに現れ、スタッフの一人一人に、百円玉、ひとつずつ手渡してくれた。昼食代だ。

「これは定められた給料以外に手塚先生の好意から捻出されたものであった。

この百円玉を握って、近くの蕎麦屋に駆けつけ、五〇円のたぬきそばと四〇円大盛りライスをかっ込んだ。あの頃のことは、手塚先生を語るとき、どうしても連想してしまう風景なのである。

青春の記憶というものは、なぜか、いつも空腹感を伴うものである。」

と石津は前掲書に書き残している。

昭和三八年の元旦。午後六時一五分、フジテレビは、日本中の家庭に、「鉄腕アトム」を送った。先ず谷川俊太郎作詞、高井達雄作曲の、あの懐かしい歌が流れた。

もう引き返せない!

だが、視聴率は二七パーセント。大成功だ。

スタッフ一同、誰も彼も、強い感動に包まれた。前人未踏の大事業をやってのけたのだ。日本最初のテレビ・アニメ。長い間の制作の苦しさも忘れた。

坂本は、去年の暮の暗い顔つきはどこへいったやら、新たな決意で、第四話の撮影にかかり、手塚は新たな作画に入った。それらがやがて、三〇パーセントを超える視聴率を稼ぎ、さらにカラー化により、四〇パーセントを超えるに至るのである。(続く)