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ヒトラーの時代(14) 池内 紀

  • 2016年4月26日 16:43

分かれ道(Ⅱ)ーー名取洋之助の場合

ヒトラーの時代

ヒトラーの時代

名取洋之助という写真家がいた。いま、ある世代以上は「岩波写真文庫」で親しいかもしれない。戦後、1950年代に創刊された写真シリーズで、さまざまなテーマのもとに全286冊を刊行。戦後世代に視野を大きくひらいてくれた。目次をよく見ると、「編集・制作 名取洋之助」と小さく記載されている。個性的な写真シリーズの生みの親だったことがわかるのだ。

明治43年(1910)、東京・高輪の生まれ。慶應義塾普通部に入ったが学業不振。手のつけられぬ不良に両親は手を焼いた。昔の日本の富める親はそんなとき、「社会見習い」と称して我が子を外国へ放逐した。

名取家の長男は18歳のとき、ドイツへわたり、ミュンヘンの美術工芸学校で商業美術、今でいうグラフィック・デザインを学んだ。その間にドイツ娘に惚れて結婚。親が許さず、仕送りを絶ったので自活の必要にせまられた。友人の紹介でグラフ雑誌に写真を投稿したところ、予期に反して採用され、法外な礼金をもらった。このとき、20歳。写真家 名取洋之助の誕生である。

当時、ベルリンのウルシュタイン社はヨーロッパ最大の出版業者で、新聞・雑誌を数多く出しており、その一つ「ベルリナー・イルストリールテ・ツァイトゥイング(ベルリン画報)」は、発行部数200万部を誇り、多くの契約カメラマンをかかえていた。幸運にも20歳の東洋人が、その職にありついた。ドイツ語でルポルタージュ・フォトと呼ばれたジャンルであって、名取洋之助はそれを「報道写真」と訳した。のちに日本で広く使われる用語の生みの親でもある。

1933年、ヒトラーが政権をとってより、外国人がドイツで仕事をするのが難しくなった。1935年、ユダヤ人排除を意図した「ニュルンベルク法」成立。これに先立ち「ジャーナリスト規制法」が成立してより、「アーリア人種」でなければ正規の仕事につけない。名取洋之助はウルシュタイン社を退社。帰国して、写真仲間と「日本工房」をおこした。グラフ雑誌を創刊、報道写真を日本のジャーナナリズムに定着させた。

1936年8月のベルリン・オリンピックに際して、ナチスはスポーツの祭典を大々的に政治に利用した。一時的に反ユダヤのスローガンを下ろし、非アーリア人規制を解除した。名取洋之助は古巣ウルシュタイン社と契約して、主に日本人選手の活躍をカメラに収めた。ドイツ人に向けての「前畑ガンバレ」の水泳や、田島直人の三段跳は、Natoriのシャッターによって写し取られた。

『名取洋之助写真集 ドイツ・1936』(岩波書店・2006年)は1962年の死から40年あまりのちの出版である。個性的な報道写真、またベストセラーになった写真シリーズの生みの親の仕事が、なぜこれほど歳月を経てから世に出たのか。それはともかくとして、ベルリン・オリンピックのあと、名取洋之助はドイツ人の妻とともに車でドイツ旅行をした。

ベルリンーオリンピック・メインスタジアムのヒトラー式挨拶

ベルリンーオリンピック・メインスタジアムのヒトラー式挨拶

ナチス・ドイツは反ユダヤ主義によってアメリカをはじめ、主だった国々から激しい非難をあびていた。今も述べたとおり、オリンピックの前から、さらにオリンピックが終了してからもしばらくのあいだ、反ユダヤの旗を下ろした。そして「悪意あるユダヤ系ジャーナリストによる虚偽報道」と主張しつづけた。オリンピックでやってきた外国人報道者に「真のドイツ」の報道を訴え、いたりつくせりのサービスをした。名取洋之助のドイツ旅行は、そのようにナチスが抜かりなくお膳立てした期間中だった。

「ブランデンブルグ川コトブスにて」

名取洋之助の『ドイツ・1936年』には、このクレジット付きのものが一番多い。とりわけ写真家の興味を引いたからだろう。たしかにほかとちがっている。町そのものはちがわないが、人々のいで立ち、とくに女たちの服装が風変わりだ。あざやかな縫いとりのある上着とスカート、肩にレースのショール、頭に白い大きな頭巾。バイエルン地方の風俗に似ているが、全体のつくりと意匠があきらかにちがう。

コトブスはベルリンから電車で一時間あまり南東に走ったところの小都市である。ポーランド国境に近い。マイノリティ(少数民族)の町として知られ、1500年ばかり前にスラブ系のソルプ人が土地をひらいた。「コトブス」の地名そのものがソルプ語に由来している。

ベルリンから南東に向かうと、一面の低地に入っていく。湖沼が点々とちらばり、ところによっては湿地帯が鏡のような水面をつくっている。ソルプ人は「水に強い」とされており、独特の水利技術でもって土地をひらいてきた。ポーランド国境をはさみソルプ人の町や村は20ちかくを数えるが、その中心都市がコトブスである。

名取洋之助の写真の一つだが、市場の風景らしい。地面に陶器の皿や壺が並べられ、わきの車には鍋やフライパンが鈴なりだ。べつの一つでは一家揃って教会に向かうところらしいが、年寄り、中年夫婦、幼い子供たちが正装して歩いてくる。女の子はレースではなく、顎ひもでキリリと結んだ頭巾をかぶっている。

コトブスの風景、女性の民俗衣裳が美しい。

コトブスの風景、女性の民俗衣裳が美しい。

買い物帰りらしい主婦が道端で立ちばなし中。ともに黒の上着にスカート、黒い靴下。花のような大きな頭巾の一方は白、もう一方は黒。

名取洋之助はそんな土地の風俗が珍しくてカメラを向けたのだろう。そのはずである。しかし、ただそれだけだったのだろうか。

こまかくながめていくと、気がつくことがある。人々の表情に特徴があるからだ。名取はライカを愛用していた。当時すでに伝説的なカメラであって、1台が家1軒ほどの値段がした。シャッターを押すと、ライカ特有の乾いた、金属的な音がする。

市場の女たち、往来の男や女、正装の人々。きっとシャターの音を聞きつけて振り向いたのだ。どの顔も、にらむようなかたい表情である。「ギョッ」として体をこわばらせたふうにも見える。広場の写真は二階からカメラを向けたのだろう、頭上から写した角度で、お下げ髪の少女が見上げている。手を額にかざしている女の子もいる。かたわらの大人たちも仰ぎ見ている。あきらかに強いおびえに警戒がまじっている。すぐわきをナチ党員の制帽、制服にカギ十字の腕章をつけた男2人が、肩をそびやかして通っていくーー。

ドイツの地方町におなじみだが、コトブスもまた町の中心部は駅から少し離れている。旧の城門はレンガの塔としてつくられている。ソルプ人は水道用の塔を上手に使ったから、もとはそんな効用をおびていたのかもしれない。

これも地方町におなじみだが、中央通りに市(いち)がたち、人々がのんびり買い物をしていく。通りが三方から集まるところが町の広場で、週末にはメリーゴーランドやスケート場、臨時のビヤホールができる。親たちがビールを飲んでいるあいだ、子供たちは歓声をあげて遊んでいる。

ソルプ人は早くにキリスト教に改宗して、町や村をつくるごとに教会を建てていった。広場の集まったところに、旧修道院付属の教会があって、美しい彩色の聖人像をいただく中世の説教台が残されていた。ながらくそこではソルプ語とドイツ語の二つ言葉で聖書が読み上げられていたという。

広場の市には日常雑貨の店もあって、皿や壺、鍋やフライパンを売っていた。車の両面に鈴なりにさせるのも名取洋之助の写真とそっくりである。

小路を入ったところのソルプ博物館を見てまわっていて、ふと足がとまった。「ソルプ人の祝典」コーナーに、お祭りの時の晴れ着がズラリと展示してある。まさに写真集にあったのと同じで、美しい縫い取りのある上着とスカート、大輪の花のようなレースの頭巾、黒の上下に黒い靴下、頭に黒か白の大きな頭巾——。

「いったい、どういうことだろう」

しばらく首をひねっていた。名取洋之助が「ブランデンブルグ州コトブスにて」を撮ったのはのは、とりたてて祝典の日ではなかった。広場も通りも普段の風景であって、男たちは背広にソフトの帽子、子供たちはごく粗末な日常服で写っていた。そこに大層な祝典用のいで立ちの女たちが混じっていたわけだ。

ソルプ人の歴史が年表式になっていて、ヒトラー政権誕生の1933年には、こんな記述が並んでいる。

「ソルプ語の新聞禁止される」

「学校教育でソルプ語の使用禁止」

「ソルプ農民組合、解散を命じられる」

ナチスはユダヤ人とともに、ジプシーをはじめとする国内の少数民族を目の敵にした。アーリア人優生思想からして、それはすみやかに抹殺すべき対象だった。

名取洋之助の「1933年」は、何を語っているのだろう。くり返すが、ナチスはオリンピックを徹底的に利用した。町中に氾濫していた反ユダヤのポスターを撤去し、ナチ党の新聞「フェルキッシャー・ベオーバハター」はユダヤ人批判をピタリとやめた。選手村の村長にユダヤ文化人を抜擢。

そうやってオリンピックに訪れた外国人に「真のドイツ」をみせた。そして外国の報道陣がオリンピックのニュースとともに「本当のドイツ」を伝えるように要請した。その一方で厳しく報道管理をして写真は全て情報宣伝省に提出させ、許可の出たもの以外の発表を許さなかった。

名取洋之助がカメラに収めたのは、ナチス・ドイツが演出ずみだった。コトブス市当局にも「マイノリティの自由」を宣伝すべしと指令がきていたにちがいない。民俗服のいで立ちを奨励した。とりわけ女の衣装はめだちやすい。カギ十字の腕章の監視のままに、祝典の時の晴れ着が持ち出された。買い物袋を下げて立ち話をしている姿に、黒ずくめの上下と巨大な頭巾は、不自然といえば不自然きわまるのだ。ベルリン・オリンピックの翌年、歴史年表の一九三七年のところにはこうある。「ソルプ文化協会、解散を命じられる」。つづいて「教会におけるソルプ語の使用禁止」が申し渡された。お祭りの季節が終われば、もはや民俗服の必要もなかったにちがいない。

コトブス風景。左上にナチ党員の姿が見える。

コトブス風景。左上にナチ党員の姿が見える。

名取洋之助はナチス政府の戦術にのせられ、それと知らず記念の写真をとりまくったわけではあるまい。すでに十代のころからドイツに滞在し、ドイツ人の妻をもっていた。「分かれ道」をよく知っていた。日本の同僚たちがナチスが好むとおりの「真のドイツ」を嬉々として故国に送ったなかで、名取洋之助は撮りだめした膨大な写真を生前は公表しなかった。はじめて人目に触れたのが、死後四十年余りのこと。後世へサインを送るようにして、祝典服のそばを通っていくナチスの制服姿を写しとった。