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書斎の漂着本(87) 蚤野久蔵 二笑亭綺譚(3)

  • 2016年4月14日 20:33

ここ最近の連載はほとんど「一回完結」になっていたのに、今回の『二笑亭綺譚-50年目の再訪記』はこれで3回目を迎えた。私自身が「二笑亭」の怪しい魅力というか魔力に引き込まれてしまったのかもしれない。戦前、この<未完の怪建築>を実際に訪れ『二笑亭綺譚』などで広く世間に紹介した精神病理学者の式場隆三郎はゴッホやロートレックの研究家としても知られる。国内では画家、山下清の才能を見出し支援する一方で二笑亭主人の渡辺金蔵に大きな関心を持った。注目したのは、彼らの「芸術に対するひたむきな情熱」ではなかったろうか。式場は優れた精神科医であるが、その常として優れた人間観察者でもあった。日本文化史の研究者では「精神の異常と芸術表現」の問題に関心を持った最初の人物として知られる。それにしても昭和初期の、いわゆるモダニズムの全盛期に二笑亭という<ポストモダン>な建物に注目してそれを一冊の本にまとめた先見性には驚かされる。しかも二笑亭のデザインそのものに私的な好奇心をかき立たせ作者の渡辺金蔵に大きな愛情を寄せている点といい、創作的な価値においても画期となった作品ではあるまいか。

今回は模型師の岸武臣が復元した「二笑亭」の模型から建物の内部にご案内しよう。四男の豊氏の記憶では通行人からは「まるで牢屋そっくり」と言われた玄関の格子戸は子どもの力では開けるのに一苦労するほど重かった。おまけに開け閉めするたびにガラガラ、ガラガラとすごい音がしたそうである。おまけにガラスも目隠しもなかったので縁日のときなど、よくスリが空財布を投げ込んでいった。空になった財布が門の中にいくつも落ちているのを見つけてびっくりしたという。高さは低く見えるが意外にあって左手前は鉄板の雨除けである。鍵は付いていなかったらしい。

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入ったところが玄関ホールで、左側の壁には足袋製造業だった大野屋の屋号である「石」をデザインした浮彫がある。振り向けばはめ殺しのガラス窓からの光がやさしく差し込んで床の土間に並べて敷いた石臼を照らしている。ホールは二階まで吹き抜けだから圧迫感を全く感じさせない。前回紹介した写真で式場が立っていたのがこの壁の前である。奥に中庭、その左側に茶室のある母屋が見える。

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建築家の藤森照信は、ひとり時代に取り残されながら、黙々とおのれの奇妙な宇宙を作り続けた金蔵を内側から支えたのは茶道に精進していた教養にあふれた茶人だったからに他ならない。建物は「二笑亭」という命名からも「茶の空間」として考えられていることは間違いないと分析する。茶の流祖・利休居士の感覚を裏の山から竹の根っ子を持ってきてスッパリ切って花差しにしたり、朝鮮半島の捕虜の飯椀に使われるようなありふれた茶碗を取り上げたり、真っ黒の茶碗を作らせるなどなど、当然ながら常人の感覚ではない。茶室にしても二畳に満たない極小のものを作ったし、壁はワラスサがむき出しの下塗り、窓は壁土を塗り残した穴(下地窓という)で済ませて、とこんな具合である。利休の物を見る目には、明らかにわが二笑亭と同様“オブジェ感覚”が隠されている。ゴロッとした存在感、言いかえるならば、回りの関係から切れて存在するような唐突さであるとする。

前出の豊氏は茶室の床(とこ)には何と横幅1メートルもあるナイアガラの滝の写真がかかっていたと証言している。海外旅行の土産だったそうだが、茶室の床に掛け軸代わりにナイアガラの滝というのはやはりすごい。藤森はそれも含めて二笑亭は「昭和の暗号」だったのではないかという。時代の表では通用させるわけにはいかないが、裏では一群の人々によってのみひそかに使われ、表では語ることができないことが、この暗号に託して伝えられたのではないかとも。

作家の赤瀬川原平は小説『毛の生えた星』で二笑亭にやってきた星男エムディを登場させて茶室の金蔵と対話する。

ゆっくりと茶を点てているその後ろには、壁面いっぱいにナイアガラ瀑布の大きな写真がある。
「あの写真はどのお茶室にもあるのか」
「ほかは知らない」
「あの写真は誰が撮ったのか」
「私が撮った。世界旅行のときに撮った」

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要件としては茶碗にお茶の粉とお湯を入れ、掻き混ぜたのを飲む。というだけのことだが、彼はその一つ一つの動作を念入りに、順序よく、しかも威厳をもっておこなっている。
お茶を入れて飲むのに、何故威厳をもって振舞うのかはわからない。
その威厳、規律、動作への崇拝などは、宗教の儀式に似ている。
このようにお茶を点てることを茶道といい、これは日本の伝統文化として一般にもおこなわれているらしい。だからどこまでが彼のオリジナルかはわからないが、しかしこのお茶を点てるのを見ながら、二笑亭建築の骨格がここに潜んでいるのを感じる。この二笑亭という名前ももとはこのお茶室につけたのだと言っていた。

茶道とは、おそらく人間の不安が育てたものだろう。他は分からないにしても彼はそうだ。この世がいつも地面に崩れ落ちるという、その不安を彼は一人で呼吸している。それを持ちこたえるためには、日々の行いに規律の網の目を通す必要がある。すべてが順序よく、確実にキチンと進んでいくことで、この世は安定してくる。油断すると、規律の綻び、順序の綻びから、この世は不安定に動きはじめる。この世に隣接してある世界が、ふくらんでくる恐れがあるのである。背中の壁の向こうに溶けている魚の大群が、いつか背中越しに、大漁旗を押し立ててあらわれるのではないかという恐れがあるのである。それを防ぐために二笑亭は建築される。防御の軍事教練としてお茶を点てる、そのための要塞にあたるものが、威厳と規律と物質への崇拝をもって、ここに建築されているのである。私(=星男エムディ)はそう解釈している。

書斎の漂着本(86) 蚤野久蔵 二笑亭綺譚(2)

  • 2016年4月14日 12:54

渡辺金蔵が「二笑亭」の建築に取りかかったのは昭和2年(1927)である。建築家の藤森照信が『二笑亭綺譚-50年目の再訪記』で金蔵の四男・豊氏を突きとめ、詳しく取材して渡辺家に残されていた当時の家計簿で裏付けた。「十二月十五日 金九円、仲一払」。仲一は「二笑亭」の建築作業を一手に引き受けた大工の棟梁で、この月に石材店や石屋への出費が多くなる。おそらくこの時期に基礎工事が始まり翌3年になると「レール400貫」、「セメント10袋」、「材木」を始め資材の購入が活発化し、仲一や「鍛冶」、「挽」といった職人の動きも盛んになる。「挽」は木挽きのことで、二笑亭建築のための用材は木場から丸太を買い付け、敷地内で挽かせていたという豊氏の証言とも合っていた。

こうした取材と同時進行で藤森らの依頼で50分の1の模型が作られた。残された写真などから3カ月以上かけて作った模型師の岸武臣と藤森の対談も収録されている。岸は制作の過程で金蔵があらゆるところに<非対称>を構成しようとしたことに気付いたという。それは天井も壁もすべてに及んだ。逆に非対称なものは対称にしようとしたという。裏門近くに置いてあった狛犬は両方口を閉じている。「あ・うん」ではなく「うん・うん」の組み合わせ、そうすることによってバランスをとる。別名の「天秤堂」も前後が別々の重さをうまく担ぐ道具だから気に入っていた。一方の二笑亭は「二を笑う」と考えればおもしろい。偶数の最小単位は「二」で「一」と「一」に振り分けられるけど、それを<よし>としていない。建物全体が「非対称解明装置」になっているのがわかったと興味深い発見を語っている。

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これが二笑亭の模型。前回紹介した表玄関の写真は左側から写されたものだから、玄関を入ってホールがある建物を抜けると中央の母屋と茶室に続く。その奥、中庭の右が倉庫になる。敷地約316㎡に対し建坪約220平方メートルの木造2階建て、物置と倉庫は鉄骨造りだった。二笑亭のほうは3年がかりで建築され、金蔵が6年ほど住み、手直しを続けた。その後は金蔵が病院に入院させられたので無人で、精神病理学者の式場隆三郎が訪問しておもしろおかしく紹介したことから広く知られることになったものの<未完>のまま、昭和13年4月に取り壊された。

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式場が二笑亭を見学したときの写真である。どんな人物だったかを簡単に紹介しておこう。1898年(明治31年)新潟県生まれ、静岡脳病院院長などを経て千葉県市川市に精神病院の式場病院を設立した。雑誌『ホトトギス』を愛読して文芸の世界にあこがれ、白樺派の作家や民芸運動の柳宗悦、バーナード・リーチらと親交をもった。精神科医としてはゴッホやロートレックに関する多くの著書がある。画家の山下清の才能を早くから見出して活動を物心両面から支えたことや「二笑亭」についての著作で知られる。三島由紀夫とも交友があり、三島が『仮面の告白』における自身の性格・精神の投影を、式場とやりとりしたことで私淑し『サド侯爵夫人』などに式場の著書と同じ題名を借用した。

「二笑亭」を式場が知る発端になったのは「電話事件」である。昭和初期、電話を所有すること自体が珍しく、地位の象徴でもあった。ところが独り暮らしになった金蔵が末広がりで縁起の良いとされた「八番」の電話を東京電話局に無償で返上すると申し出るという前代未聞の「電話事件」が起きた。それまで金蔵が「二笑亭」建築に多くの費用をつぎ込んできたこともあり、心配した家族は財産の散逸を恐れて禁治産の申請をすることになる。鑑定にあたった精神科病院長が式場の知り合いでもあったから家族の許可を得て見学が実現した。同行したのは帝国劇場の設計者で博物館明治村の初代館長になった建築家の谷口吉郎で見取り図は谷口が担当した。

式場は異様な外観から始まって、不思議な間取り、檜の一枚板の節穴にガラスをはめ込んだ壁、五衛門風呂とバスタブのある和洋合体風呂、虫よけ壁がある9畳の間などをこと細かく描写している。虫よけ壁とは黒砂糖と除虫菊の粉末を混合したもので塗り込まれていた。盛夏に襲う蚊や虫を遠ざけようとする金蔵の独創だったというが左官はいつもひどいくしゃみに襲われ、両目から涙をぽろぽろ出して苦しみながら仕事を続けた。他にもいたるところに鉄材を使い、茶室の畳縁まで鉄板が使われていた。

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写真は「節穴にガラス入りの壁」である。式場は『芸術としての二笑亭』の項に「節穴をのぞく心理を想像してみられよ。彼(金蔵)の陰気孤独な性格は、節穴から社会を観察し、人生をのぞいていたにちがいない」と紹介する。さらに「もしラフカディオ・ヘルン(=ハーン)が生きていたら、二笑亭は彼の麗筆によって後世に残る傑作ができたであろう。洋風な匂いを加味してではあるが、日本的な味の濃い二笑亭は、日本的神秘と怪奇を好むヘルンにとって無比のテーマになったに相違ない」とか「一〇余年の情熱を傾けてつくりつつあったこの建築は、浅い模倣や一夜漬けの思いつきで制作される芸術作品の遠く及ばないものがある。グロテスクや、でたらめの構成物としてこれをみる人は、最も浅い理解者である」という訪問記『二笑亭綺譚』を『中央公論』に発表して好評だったので昭和14年2月に昭森社から単行本として刊行した。装本は親交のあった染織工芸家の芹沢銈介。写真40図を添え、学生版も出るなど版を重ねた。なかには50部限定本のように古書業界では稀覯本となっているのもある。次回はもういちど50年目の再訪記に戻ろう。

(以下続く)