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新・気まぐれ読書日記(38) 石山文也 ムーンナイト・ダイバー

  • 2016年4月27日 21:36

東日本大震災から5年、熊本地方を二度もの大地震が襲った。その後、熊本だけではなく大分などにも震源域が広がり一向に収まる気配が見えないなかで読み終えたのが天童荒太の『ムーンナイト・ダイバー』(文藝春秋)である。舞台は大震災から4年半を過ぎたフクシマ。自身も震災直後の津波で両親と兄を亡くした41歳のプロダイバー瀬奈舟作(しゅうさく)は月光を頼りに立入禁止の海に潜る。津波が町のすべてのものをさらっていった海底で人々が生きていた証拠となる「何らかの<遺品>などを探して持ち帰る」という目的のためだった。

天童荒太著『ムーンナイト・ダイバー』(文藝春秋刊)

天童荒太著『ムーンナイト・ダイバー』(文藝春秋刊)

舟作は漁師をしながら20代でスクーバダイビングのインストラクターの資格を取った。震災当日は漁で無理して腰を痛めたため自宅で休んでいた。代わりにセメント工場の夜勤シフト明けだった兄が、両親と一緒に港にあった持ち船の掃除と船室内の模様替え、エンジンのメンテナンスを引き受けてくれた。地震直後に舟作は妻や幼い子どもふたりと高台に避難して無事だったが港にいた3人は助からなかった。地方公務員の珠井準一は異動の辞令を受けて高校生の長男と内陸部の町に住んでいたが舟作と同じ町の自宅に残していた妻と長女が行方不明になった。しかも震災後に町全体が立入禁止地区に指定されてしまう。珠井は長くためらっていた死亡届を出すことで手に入れた生命保険を使い、同じ思いを共有できる仲間を集めて禁断の海へ潜って行方不明になっている人たちにつながる遺品や海中の写真を持ち帰ってもらう秘密のプロジェクトを立ち上げようと考える。

生き残った人たちは慟哭とともに「なぜ私が、私たちが生き残ったのか」というサバイバル・ギルトと呼ばれるある種の罪悪感めいた思いを抱えて生きて来た。珠井もそんなひとりだ。計画を引き受けてくれそうな漁師を何人も当たるうち、ようやく見つけたのが「報酬次第なら引き受けてもよい」という66歳の漁師の松浦文平だった。文平の一人息子は借金を重ねて町に居づらくなって行方不明になっているがその幼馴染が舟作である。あの日以来、手つかずのまま<封鎖されて>いる海底は住宅や家財、車の残骸、電柱や電線などあらゆるものが大量に沈んでいる。その後の地震で様変わりしているし(放射能)汚染の危険もある。いかにプロのダイバーであるとはいえ危険すぎる任務である。事故を起こすことは命を失うことにとどまらないから厳禁で、万一、海上保安庁や警察などの臨検を受けたとしても一切、その理由は明かしてはならない約束だった。

潜水は舟作が震災後からインストラクターをしているダイビングスクールの休日の火曜日の夜明け前に一回45分だけ行う。照明はまったく使えないので「月あかり」が期待でき、かつ海が穏やかなことが絶対条件になる。持ち帰るのは一辺が20cm以内、貴金属や、現金、有価証券など金目なものはダメ。バッグや財布も中身を抜き取られたかも知れないと疑われるから除外される。たとえおもちゃであっても指輪やティアラ(髪飾り)などは紛らわしいので海に戻す約束である。しかも場所がどこであるのかは作中には書かれてはいない。フクシマ(=福島)は帯に「3.11から5年目となるフクシマ」とあるだけ。舟作が身につけるインナーベストも「肩から股間まで胴部を完全に覆う形で、薄手の防弾チョッキに似ていた。ある種の物質から、内臓器官を防護する目的で開発されたものだという」と紹介され、珠井が米国から取り寄せたことになっている。昼夜を徹して廃炉への工事が進む福島第一原子力発電所も具体的な名前ではなく「海からは防波堤の向こうに巨大な建造物が望める<光のエリア>」として描かれる。フル装備の舟作を漁に使っていたモーターボートに乗せて現場まで送り迎えし、自宅に戻ると舟作の身体に「表面汚染検査計」を当てて異常がないかを確かめるのは文平、持ち帰った品物が基準値以下なのを調べるのは舟作の仕事だがあえて「放射線量」とは書かれない。町の場所も含め固有名詞、まして心情的にも聞きたくもない放射能などと具体的に書くことで傷を受けた人たちに一定の配慮を欠かさないのは直木賞を受賞した『悼む人』や『永遠の仔』などに共通する著者が自身に課した<約束事>にも思える。

非合法な<裏仕事>であるがゆえに高い報酬を貰いながら「もっと色をつけてもらえないかと頼め」とけしかける文平に送られて舟作が出かけるのは仕事を依頼した珠井が待つ人口30万人の街のホテルのスイート・ルームである。ここで品物と写真データの引き渡しが行われ、採集場所の詳しい説明が要求される。ひとつひとつの品物は小箱に詰められていく。そのあと時間を置いて会員たちへの「報告会」が珠井によって開催され、自分につながる品物であると申し出た会員は小箱を持ち帰ることになる。舟作が会うのは珠井だけで、他の会員にはダイバーの名前さえ明かされず、まして会うことはできないと固く申し合わされていた。

そんなある日、駐車場から出ようとした舟作の車の前に、女が飛び出した。あわててブレーキを踏んでかろうじて停車したがその女が助手席の窓をせわしく叩く。ドアロックを外すと女はドアを開いて乗り込んできた。それが東京でアクセサリー・デザイナーをしている眞部透子だった。別のホテルの喫茶室で舟作はダイバーであることを隠したが透子は実家の母を見舞っていた夫が未だに行方不明であると告げる。「わたしがデザインしたもので、夫がはめているものです」と言って結婚指輪の写真を見せた。「なので、わたしには願いがあります」と聞いて、舟作は夫の指輪を探してほしい、ということだろうと思いかけたが、透子は「わたしの願いというのは、ダイバーの方に、夫がしていた指輪を探さないで欲しい、ということです。たとえ見つかったとしても、写真にも撮らないでください。そのときの状況を話すこともしないでください。何も見つけなかったものとして、無視して欲しいのです」と懇願する。貴金属を持ち帰ることは禁じられているにしても広い海でたったひとつの指輪を見つけ出すのは・・・。と思いかけた舟作は「それにしても逆だろう!」と耳を疑った。

以前、天童は読者が想像できるような結末なら書き直すこともいとわないと書いていたのを思い出す。執筆前の取材で線量計を手にしてまったく復興が進まない町々を回り、港では打ち寄せる波に手をつけて「(自分なりの物語を)書かせていただきます」と誓ったという。表紙の装丁写真は物語がアイデア段階であったときに出会い、大切なイメージの一つとしていつも机のそばにあった。書店でこの本を見つけたのも表紙写真を目にしたからだが、この先を読んで私自身が深く引き込まれていったのも写真から想像が触発され膨らんだことも大きかったたのではあるまいか。「慟哭の夜から圧倒的救済の光さす海へ。鎮魂と生への祈りをこめた著者の新たな代表作誕生」という帯の惹句そのままに私は月下の海底へどこまでも潜降して行った。

ではまた

私の手塚治虫 第24回   峯島正行

  • 2016年4月19日 12:09

「ある街角の物語」の完成

虫プロの出発

一日おきの勤務、勤務時間は三時まで、昼食付、三時のおやつ支給。しかも、サラリーマンが足元にも及ばぬ高給で始まった手塚プロ動画部。これらの高待遇のもとはすべて、アニメーションの夢を実現すべく、夜昼もなく漫画を描き、稼ぎ貯めた手塚個人の財布から出ていた。それだけアニメーション制作に賭ける手塚の熱意は、燃え上がっていたといえよう。
手塚は、三時のおやつの時間から五時まで、漫画執筆を中断し、動画部にやってきた、第一作目と決めた「ある街角の物語」の絵コンテを書くためである。それが徐々にたまってくると、元東映動画の坂本雄作や、元横山隆一のオトギプロにいた山本暎一などのアニメーターが、それを補作して、完全な絵コンテにする作業を始めた。
絵コンテとは監督が、スク―リン上に展開するプランであり、製作スタッフへの作業指示でもあった。
手塚の描いてくる絵コンテは、完成したものではなく、手塚の意図が分るようにしただけのラフなもので、絵も説明も簡単なものであった。それを受け取った動画部の人は、完成された絵コンテに、まず仕上げねばならなかった。
絵コンテは、一カットごとに絵の構図、キャラクターの動き、背景を描きこんだ漫画の一コマのような絵が、二カット目、三カット目と縦に並んだ、こまわり漫画のようなものである。それぞれのカットの右側に、そのカットの秒数、セリフ、作画上の注文、撮影や音楽効果の注文、左側にシーン番号、カット番号を書きこんでゆく。
雑誌の漫画連載で、多忙を極める手塚は、三時を過ぎても、動画部に現れないことも多く、走り書きのメモ程度の、絵コンテを回してくることも多かった。動画部の人たちは、三時退社を止めて、一日おきの出勤も日勤に切り替えて、絵コンテ完成に、精を出すようになった。

九月になると、アニメ制作の現場となるスタジオ建設がスタートした。かねてから用意されていた手塚家に隣接する百坪ほどの土地が整備され、二千五百万円の予算で建築が始まった。建坪六十坪,二階建てである。動画部の人たちの意見を入れ、建物全体が、斜めの線を強調した、モダンな設計となった。
スタジオ名も、社の内外から募ったが、結局、手塚の案が通って、「虫プロダクション」に落ち着いた。
「虫」は自分の名前の虫であると同時に、アニメの虫という意味だと、手塚はスタッフに説明した。このスタジオの名前が、そのまま手塚プロから独立する、動画プロの名前となったわけである。
スタジオ建設の賑やかな音が響く中、一〇月になると、「ある街角の物語」の絵コンテは出来上がり、いよいよ原画を書き出すことになった。原画とはアニメの動きのもとになる画のことである。

永遠の手工業?

ここで、動画制作の行程を前出、山本暎一氏の「虫プロ興亡記」、豊田有恒氏の日本SFアニメ創世記」(二〇〇〇年、TBS・ブリタニカ)等によって、簡単に述べて置く。
新しく動画を制作する場合は、まずシナリオライターがシナリオを描く。それによって、先に述べたように演出家が絵コンテを制作する。
絵コンテが出来上がると、原画家(アニメーター)が、アニメーションの動きのもとになるキャラクターの絵を描く。アニメは、この原画をもとにして、一秒間につき、二四コマの少しずつ形のずれた画面からできている。それをつぎつぎとパッパッパと見せられると、目の残像で、画が動いて見える。
その絵を動画という。それを描く人が動画家と呼ばれる。
実際には一秒間に二四枚の動画ではなく、一二枚の動画で済ませている場合が多い。一枚の画で二コマ撮影しても、かなりなめらかな動きが見えるからだ。
そうすると、5秒間のカットだと、六〇枚の動画が必要で、三〇秒の場面だと動画の数は三百六〇枚必要になる。その一つ一つのカットの最初と最後の画が原画である。
つまり、原画家の描いた原画の間を、原画家と相談しながら,動画家がうめてゆき、一カットが出来上がる。
こうして、一カットの動画が出来上がると、それを仕上げ(トレース部)と背景(美術部)に回される。トレース部は画用紙に描かれたキャラクターを、セルと呼ばれる透明のアセテート版に、画の線をなぞって写してゆく。現在はこの作業は、コピー機によって簡略化されている。
そうして写し取ったものに色を塗る。白黒アニメの場合も、色の濃淡があるので、それを塗り分ける。
美術部は、回されてきたキャラクターの画の背景を描く。
以上が出来上がると、撮影部に送られる。撮影部では、カメラの下に背景をセットし、背景の上に、さっきのセルを重ねる。すると、キャラクターの部分は色が塗られているので、背景が隠れ、それ以外のところは、透明なので、背景が見えるというわけである。このセルを一枚一枚取り替えながら、一枚ずつシャッターを切ってゆく。
撮影の終わったフィルムは、現像所に持ち込まれ、ポジフィルムになる。これをラッシュと言い、これによって録音や編集作業をする。このラッシュを映写機にかけて、画の動きや撮影効果が、意図通りに出来ているか、スクーリンのうえで確認する。良ければそのカットは出来上がり、駄目な場合はリテーク、つまり最初から作り直しとなる。そうしてすべてのカットが出そろったときに、一本のフィルムの完成となる。
以上、簡単に述べたが、実際に、アニメが出来上がるまでには、大変な労力と人手を要するわけである。特に最初の動画制作までは、膨大な人手と時間を要する。これは動画が絵で描かれている以上、人の手で描くほかに、方法がないためである。
つまり事業としては、合理化の余地がきわめて少ない。絵を動かして物語を作るアニメは、機械化できない、永遠の手工業なのである。そこに手塚たちの創作家としての誇りもあるわけだが、事業としては、弱点でもあるわけだ。
このことが、アニメ・プロダクションの経営を困難にさせる要因であり、のちの虫プロの破綻の最大原因もここにあったと言えよう。

「鉄腕アトム」のテレビ化

しかし、虫プロの第一作で、虫プロの旗揚げを天下に知らしめる烽火にしようと手塚がもくろむ、芸術的実験作品「ある街角の物語」は、手塚の稼ぎをつぎ込んで、丁寧に作られていった。その年、昭和三六年の秋も深まる頃、原画作りからその後の作業も着々と進んでいた。人員も最初の四名から、徐々に増えて一五人になった。
意気揚々のうちに、その年も暮れ、新年を迎えた。手塚は虫プロを、手塚プロから独立させ、「株式会社虫プロダクション」を設立。資本金二百万円、全額手塚が出資、そして自ら取締役社長となった。手塚プロのマネージャだった山下が、虫プロ専務取締役を兼務した。このことは内外に、アニメーション制作に本腰を入れるという、彼の明確な宣言であった。
虫プロの内部では「ある街角の物語」に次ぐ、第二作制作が話題になっていた。手塚の理想のアニメを作ってゆくために、大衆的なアニメを造り、その売り上げと利益によって、その製作費を出してゆくというのが、手塚の描いた虫プロの将来像であったから、当然、第二作は、大衆的な興味を呼ぶ作品でなければならない。
虫プロの実質チーフアニメ-ターの立場になった、坂本を中心に、如何にして、金を稼げるアニメーションを作るか、論議を始めた。
彼らの頭に、ふと浮かんだのはテレビにアニメ番組をのせることだった。考えてみれば、日本で作られた本格的アニメが、テレビで放映されたことはない。そこに漫画アニメを流すようにしたら、必ず評判になるはずだ、と彼等は考えたのであった。
テレビでアニメをやるとしたら、一回限りで終わるものでは意味がない。一話一回の長編連続でなければ意味がない。しかし長編となると、膨大な資金と人員を要する。
アニメ映画の先駆的存在である東映動画では、一時間半の長編を一本作るのに、三百五十人のスタッフ、六,七千万円の製作費で、一年、二年という時間をかけて、制作している。
ディズニーや東映の作っているフル・アニメーションは、一秒に、十二枚の動画を使っている。これだと画面が滑らかに動く。これをテレビでやるとして、三十分番組だと、コマーシャルなどを抜いた本編の正味を二十五分間と考えると、動画枚数は一万八千枚必要となる計算である。毎週それだけの動画が出来るわけはない。もしやるとすると、数百人規模の動画家が必要になる。
アメリカでは、ディズニーのフル・アニメーションに対して、リミテッド・アニメーションという方式を編み出した。或るプロダクションがこの方式で漫画番組を作り出し、それが日本でも、関心を呼んだが、それは粗っぽくて、単純な四コマ漫画程度のものであったので、評判が悪かった。
虫プロの内部では、フル・アニメーションほど滑らかに絵が動かなくても、毎週完結する面白いストーリーがあれば、画はそう動かなくても、視聴者をひきつけることが出来のではないか、と考えたのだ。
「その原作者は、手塚治虫。その作品は鉄腕アトム!」
期せずして、彼等の口から、異口同音に、声がほとばしった。一番身近に原作の候補があったのだ。
それを一回正味、二五分の番組として、動画の枚数をどこまで縮められるか、改めて計算すると、原画一枚当たり一八コマ撮り、にすれば何とかなるという話になった。初めから終わりまで、一八コマ撮りにするのではなく、ある部分は二コマ撮りにして、滑らかに動かし、ある部分は五秒止めのカットを造るなどすれば、平均一回に、二千枚以下の動画ですむという計算をたてた。

一本、二千枚の動画

「鉄腕アトム」アニメ化案を手塚治虫へ提案するや、端からテレビアニメへの挑戦を考えていた手塚は直ちに、OKを出した。ただし、毎週放映、毎週一本ずつ制作となると、一本につき二千枚の動画では、労力的にも制作費から言っても、出来ないということになった。
手塚は、動画枚数をさらに減らして、千五百枚から千八百枚に抑えることにした。その為、手塚とアニメーターたちとの試行錯誤の結果、絵コンテで、動画枚数を食わない演技の工夫をすることにした。アニメーターの熟練度の必要なフル・アニメーション技法を捨て、絵心のあるものならば、誰でもできるような優しい技法も同時に研究した。
その結果、簡単で、動画枚数を減らせられるパターンが出来上がった。それは以下のような製作法だった。

1、 一枚の動画を三コマに撮る。
2、 キャラクターの顔のアップなど、動かさなくても、そうおかしくはないものは、動画一枚で済ます。
3、 歩いたり、走ったりするキャラクターの動きは、繰り返しの動画にして、背景の方をスライドさせる。
4、 人物が腕を振り上げたりする場合、顔と体は止めて、腕だけを部分的に動かす。
5、 セリフをしゃべる場合は、体を動かさず、口だけをパクパク動かす
其の他数項目の原則を基本にして、そのバリエーションで、動きのすべてを作り出すことにした。

手塚は、実際の仕事が始まってからさらに、現実的な方法を発案し実行した。手塚は、自ら次のように書き残している・
「『アトム』の絵がたまってくると、それを整理分類して積んでおき、同じ絵を何回も繰り返し使った。これはバンク・システムと名付けた方法で、(中略) バンクはつまり銀行であって、まあ、絵の銀行だ。アトムとか、お茶の水博士とか、ヒゲオヤジとかを別々に分類するだけではない。アトムならアトムの怒り、泣き、驚きなどの表情から、大写し、全身、遠景などに分け、はては手とか足とか口とか眼だけを別々に描いて分類した。自然現象の雨、風、雪や波、煙、噴火、崖崩れ、武器、各動物、乗り物、目を回した時出る星までナンバーを入れて分類した。これらを整理するスタッフは、毎週一回、ドサッと山のごとく持ち込まれる使用済みの新しい絵を悲鳴を上げながらより分けるのである」(ぼくはマンガ家、大和書房、一九七九年)

手塚は虫プロの内部を、テレビと映画部に分けた。テレビ部は今皆が考えている「鉄腕アトム」のような商業性に徹したもうかる仕事をする。映画部は、テレビ部のもうけた金で、「ある街角の物語」のような実験作品を作る。一番経験が多い坂本が、アニメーター全員のチーフになるとともに、テレビ部のチーフになり、映画部のチーフには、山本がなった。それぞれのスタッフは、映画部、テレビ部と固定せず、状況に応じて流動的に働くことに決めたのである。

穴見薫の売り込み

四月、スタジオが完成した。白塗りの瀟洒な建物である。虫プロのスタッフはそこに引っ越した。二階の大広間に、原画、動画、仕上げ、背景などの絵を描く連中が入った。二回の新人募集で、手塚や今井専務を除いて、スタッフの数は三八人に増加した。
五月。
虫プロの坂本が、一人の男を手塚のもとに、連れてきた。男の名は穴見薫。六尺豊かな大男、大手広告代理店、「萬年社」の企画部員だという。
この男が坂本と知り合ったのは、穴見の妻君が、東映動画では、名の知られたアニメーターであった関係からであった。東大在学中、学徒出陣、特攻隊員になったが、終戦で復員、一時新劇の仕事をした後、現在の仕事についたという。虫プロで、テレビアニメの企画を立てると聞いて、坂本に自らを売り込んで来たのだ。
テレビアニメを実現するには、広告代理店を通じ、製作者、テレビ局、スポンサーと結びつけなければならないことを知っていた坂本は、虫プロの仲間と共に、彼に会って、話を聞き、その熱意とテレビアニメへの夢を知り、手塚に紹介したのであった。
穴見は手塚に対して以下のように、必死な形相になって口説いたらしい。
「あなたたちの志を実現するためには、 テレビ局、スポンサー、広告代理店等、放送を構成する関係者たちへの啓蒙、説得、組織化がまず必要になります。これはかなりな大仕事です」
と述べ、自分がその業務に携わる広告代理店の役割について述べ立てた。広告代理店は単に、スポンサーとテレビ局の間に立って、放送料のマージンを稼ぐだけでなく、手塚らのやっているような、新しい仕事を成功させるのが使命である、と説いたのである。
「私は一広告代理店の社員ではなく、自分個人として、先生がなさろうとしている、前人未到の事業に参画させて頂きたい。私はみなさんの一員として自分の所属する萬年社を説得するとこから開拓を始めてみたい、ぜひそうさせてください」
大男の元特攻隊員が、必死の形相で、手塚に迫ったようだ。漫画作家である手塚は、テレビ用のアニメを作ろうとしているが、如何に売るかというビジネスの方面には、疎いし、作ることに夢中であったが、売る方法まで頭が回っていなかったのだ。
手塚はこの男の言を入れた。この時、その手腕は別として、穴見の言に嘘はなく、その誠実さも本物であったろう。手塚が彼を受け入れた後、もう虫プロの一員のように出入りしだした。
彼はその翌年に、虫プロの常務取締
役となり、この新しい企業の経営に当たるのであったが、私には、彼にその手腕があったとは思えないのだ。
彼はこうして、「鉄腕アトム」の制作販売に当たるのだが、その契約の時期とか、制作の方法を確立しないまま、アトムの放映を決めてしまったために、虫プロ全体が苦労するのである。私は中堅広告会社、萬年社の一社員にすぎないものが、野心に駆られて、虫プロの中に、会社経営のセンスのあるものがいないのを幸いに、この会社を牛耳ろうとしたために、虫プロの生存にさえ、影響を与えたと、思われるのである。いずれ、そのことは、おいおい述べてゆく。

ヤマハホールの発表会

夏に入って、映画部の努力の甲斐あって「街角の物語」の作業が進んで、秋にはどうやら、出来上がる見通しが立つようになった。手塚はスタッフを集めて、「アトム」の制作開始の宣言をした。
「アトムは僕の原作だから最初の何本かは、ボクが演出と原画はやります。慣れたところで、諸君にも演出、原画を描いていただきます」
といい、山本、今野など3人が「街角の物語」に集中し、他のスタッフは、手塚が書く原画をもとに、動画を描くことにした。仕上げや背景のスタッフは、両方の作品に共通とした。スタッフの数は、前述のように新旧三十八人である。その人たちの役割りは原画六、動画六、仕上げ一四、背景五、撮影四、制作進行二、総務一に割り振った。
これだけの人数で「街角」という実験作品と、毎週三十分のテレビアニメ、「アトム」を作って行こうというのである。それが出来るか、最初から疑問だった。「アトム」の場合、先に述べた通り、節約しても一週に二千枚近くの動画を要するのだ。そこが問題なのだが、ともかく発進した。
しばらくすると手塚の描いた「ァトム」の原画が三,四カット分が、テレビ部に届けられた。どうやら疾走する自動車のフロントからの眺めらしい。それから、原画は毎日、数カットずつ届けられて、一人の少年が、未来型車をぶっとばし、交通事故を起こすところまで、進んだ。そこに手塚が絵の説明といかなるカットにするか、を説明にやってきた。
漫画の執筆に追い立てられている手塚からは、そのようにポツリポツリとしか原画がでてこない。それを、ベテランの原画家が動画に描くのだから、すぐ消化してしまう。
二週間たっても、いくらも上がってこない。それを誰かかが口にすると「先生から原画が来ないのだからしようがない」
と原画部門の坂本が答えざるを得ない。現実に、テレビで放映されるようになったら、一週間のうちに原画と動画が上がらないと、放送に穴があく。しかも、一本の動画が二千枚近くになる。それを一週間で上げなければならない。それが出来るか、スタッフ全員が危惧していた。

秋も深まると、「ある街角」の方は作画作業をすべて終えて、最後の編集を終えると,長さが、三八分五二秒の中編作品になった。手塚は音楽を高井達雄に、効果音を制作グループに渡し、制作完了となった。手塚は十一月六日に、銀座のヤマハホールを借りて、「虫プロダクション第1回作品発表会」という名のもとに、試写会を開くことに決めた。
その発表会は、各方面の話題を呼び、当日は大盛況であった。
そして「街角」は、その年の「芸術祭奨励賞」を獲得し、続いて、「ブルリボン賞」「毎日映画コンクール大賞」を獲得した。
いまや手塚は、アニメーションの新しい旗手として、日本最初の芸術的なアニメ作家として、輝かしい日を迎えたのである。幼い時からの夢が見事に実ったといえよう。
手塚は、一年の日時と、一二〇〇万円の製作費がかかったと述べているが、この金額は、人気漫画家として、多くの連載漫画を抱え、締め切りに追われ、雑誌編集者からは、手塚嘘虫(うそむし)、手塚遅虫(おそむし)とよばれながら、悪戦苦闘の末、作り上げた金であった。またアニメの制作時間は、漫画執筆の間に、そっと抜け出して作った短い時間を重ねて作った時間であった。
この後、テレビアニメの「鉄腕アトム」の制作には、さらなる難関を続けて越えなければならなかった。(続く)

書斎の漂着本(87) 蚤野久蔵 二笑亭綺譚(3)

  • 2016年4月14日 20:33

ここ最近の連載はほとんど「一回完結」になっていたのに、今回の『二笑亭綺譚-50年目の再訪記』はこれで3回目を迎えた。私自身が「二笑亭」の怪しい魅力というか魔力に引き込まれてしまったのかもしれない。戦前、この<未完の怪建築>を実際に訪れ『二笑亭綺譚』などで広く世間に紹介した精神病理学者の式場隆三郎はゴッホやロートレックの研究家としても知られる。国内では画家、山下清の才能を見出し支援する一方で二笑亭主人の渡辺金蔵に大きな関心を持った。注目したのは、彼らの「芸術に対するひたむきな情熱」ではなかったろうか。式場は優れた精神科医であるが、その常として優れた人間観察者でもあった。日本文化史の研究者では「精神の異常と芸術表現」の問題に関心を持った最初の人物として知られる。それにしても昭和初期の、いわゆるモダニズムの全盛期に二笑亭という<ポストモダン>な建物に注目してそれを一冊の本にまとめた先見性には驚かされる。しかも二笑亭のデザインそのものに私的な好奇心をかき立たせ作者の渡辺金蔵に大きな愛情を寄せている点といい、創作的な価値においても画期となった作品ではあるまいか。

今回は模型師の岸武臣が復元した「二笑亭」の模型から建物の内部にご案内しよう。四男の豊氏の記憶では通行人からは「まるで牢屋そっくり」と言われた玄関の格子戸は子どもの力では開けるのに一苦労するほど重かった。おまけに開け閉めするたびにガラガラ、ガラガラとすごい音がしたそうである。おまけにガラスも目隠しもなかったので縁日のときなど、よくスリが空財布を投げ込んでいった。空になった財布が門の中にいくつも落ちているのを見つけてびっくりしたという。高さは低く見えるが意外にあって左手前は鉄板の雨除けである。鍵は付いていなかったらしい。

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入ったところが玄関ホールで、左側の壁には足袋製造業だった大野屋の屋号である「石」をデザインした浮彫がある。振り向けばはめ殺しのガラス窓からの光がやさしく差し込んで床の土間に並べて敷いた石臼を照らしている。ホールは二階まで吹き抜けだから圧迫感を全く感じさせない。前回紹介した写真で式場が立っていたのがこの壁の前である。奥に中庭、その左側に茶室のある母屋が見える。

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建築家の藤森照信は、ひとり時代に取り残されながら、黙々とおのれの奇妙な宇宙を作り続けた金蔵を内側から支えたのは茶道に精進していた教養にあふれた茶人だったからに他ならない。建物は「二笑亭」という命名からも「茶の空間」として考えられていることは間違いないと分析する。茶の流祖・利休居士の感覚を裏の山から竹の根っ子を持ってきてスッパリ切って花差しにしたり、朝鮮半島の捕虜の飯椀に使われるようなありふれた茶碗を取り上げたり、真っ黒の茶碗を作らせるなどなど、当然ながら常人の感覚ではない。茶室にしても二畳に満たない極小のものを作ったし、壁はワラスサがむき出しの下塗り、窓は壁土を塗り残した穴(下地窓という)で済ませて、とこんな具合である。利休の物を見る目には、明らかにわが二笑亭と同様“オブジェ感覚”が隠されている。ゴロッとした存在感、言いかえるならば、回りの関係から切れて存在するような唐突さであるとする。

前出の豊氏は茶室の床(とこ)には何と横幅1メートルもあるナイアガラの滝の写真がかかっていたと証言している。海外旅行の土産だったそうだが、茶室の床に掛け軸代わりにナイアガラの滝というのはやはりすごい。藤森はそれも含めて二笑亭は「昭和の暗号」だったのではないかという。時代の表では通用させるわけにはいかないが、裏では一群の人々によってのみひそかに使われ、表では語ることができないことが、この暗号に託して伝えられたのではないかとも。

作家の赤瀬川原平は小説『毛の生えた星』で二笑亭にやってきた星男エムディを登場させて茶室の金蔵と対話する。

ゆっくりと茶を点てているその後ろには、壁面いっぱいにナイアガラ瀑布の大きな写真がある。
「あの写真はどのお茶室にもあるのか」
「ほかは知らない」
「あの写真は誰が撮ったのか」
「私が撮った。世界旅行のときに撮った」

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要件としては茶碗にお茶の粉とお湯を入れ、掻き混ぜたのを飲む。というだけのことだが、彼はその一つ一つの動作を念入りに、順序よく、しかも威厳をもっておこなっている。
お茶を入れて飲むのに、何故威厳をもって振舞うのかはわからない。
その威厳、規律、動作への崇拝などは、宗教の儀式に似ている。
このようにお茶を点てることを茶道といい、これは日本の伝統文化として一般にもおこなわれているらしい。だからどこまでが彼のオリジナルかはわからないが、しかしこのお茶を点てるのを見ながら、二笑亭建築の骨格がここに潜んでいるのを感じる。この二笑亭という名前ももとはこのお茶室につけたのだと言っていた。

茶道とは、おそらく人間の不安が育てたものだろう。他は分からないにしても彼はそうだ。この世がいつも地面に崩れ落ちるという、その不安を彼は一人で呼吸している。それを持ちこたえるためには、日々の行いに規律の網の目を通す必要がある。すべてが順序よく、確実にキチンと進んでいくことで、この世は安定してくる。油断すると、規律の綻び、順序の綻びから、この世は不安定に動きはじめる。この世に隣接してある世界が、ふくらんでくる恐れがあるのである。背中の壁の向こうに溶けている魚の大群が、いつか背中越しに、大漁旗を押し立ててあらわれるのではないかという恐れがあるのである。それを防ぐために二笑亭は建築される。防御の軍事教練としてお茶を点てる、そのための要塞にあたるものが、威厳と規律と物質への崇拝をもって、ここに建築されているのである。私(=星男エムディ)はそう解釈している。

書斎の漂着本(86) 蚤野久蔵 二笑亭綺譚(2)

  • 2016年4月14日 12:54

渡辺金蔵が「二笑亭」の建築に取りかかったのは昭和2年(1927)である。建築家の藤森照信が『二笑亭綺譚-50年目の再訪記』で金蔵の四男・豊氏を突きとめ、詳しく取材して渡辺家に残されていた当時の家計簿で裏付けた。「十二月十五日 金九円、仲一払」。仲一は「二笑亭」の建築作業を一手に引き受けた大工の棟梁で、この月に石材店や石屋への出費が多くなる。おそらくこの時期に基礎工事が始まり翌3年になると「レール400貫」、「セメント10袋」、「材木」を始め資材の購入が活発化し、仲一や「鍛冶」、「挽」といった職人の動きも盛んになる。「挽」は木挽きのことで、二笑亭建築のための用材は木場から丸太を買い付け、敷地内で挽かせていたという豊氏の証言とも合っていた。

こうした取材と同時進行で藤森らの依頼で50分の1の模型が作られた。残された写真などから3カ月以上かけて作った模型師の岸武臣と藤森の対談も収録されている。岸は制作の過程で金蔵があらゆるところに<非対称>を構成しようとしたことに気付いたという。それは天井も壁もすべてに及んだ。逆に非対称なものは対称にしようとしたという。裏門近くに置いてあった狛犬は両方口を閉じている。「あ・うん」ではなく「うん・うん」の組み合わせ、そうすることによってバランスをとる。別名の「天秤堂」も前後が別々の重さをうまく担ぐ道具だから気に入っていた。一方の二笑亭は「二を笑う」と考えればおもしろい。偶数の最小単位は「二」で「一」と「一」に振り分けられるけど、それを<よし>としていない。建物全体が「非対称解明装置」になっているのがわかったと興味深い発見を語っている。

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これが二笑亭の模型。前回紹介した表玄関の写真は左側から写されたものだから、玄関を入ってホールがある建物を抜けると中央の母屋と茶室に続く。その奥、中庭の右が倉庫になる。敷地約316㎡に対し建坪約220平方メートルの木造2階建て、物置と倉庫は鉄骨造りだった。二笑亭のほうは3年がかりで建築され、金蔵が6年ほど住み、手直しを続けた。その後は金蔵が病院に入院させられたので無人で、精神病理学者の式場隆三郎が訪問しておもしろおかしく紹介したことから広く知られることになったものの<未完>のまま、昭和13年4月に取り壊された。

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式場が二笑亭を見学したときの写真である。どんな人物だったかを簡単に紹介しておこう。1898年(明治31年)新潟県生まれ、静岡脳病院院長などを経て千葉県市川市に精神病院の式場病院を設立した。雑誌『ホトトギス』を愛読して文芸の世界にあこがれ、白樺派の作家や民芸運動の柳宗悦、バーナード・リーチらと親交をもった。精神科医としてはゴッホやロートレックに関する多くの著書がある。画家の山下清の才能を早くから見出して活動を物心両面から支えたことや「二笑亭」についての著作で知られる。三島由紀夫とも交友があり、三島が『仮面の告白』における自身の性格・精神の投影を、式場とやりとりしたことで私淑し『サド侯爵夫人』などに式場の著書と同じ題名を借用した。

「二笑亭」を式場が知る発端になったのは「電話事件」である。昭和初期、電話を所有すること自体が珍しく、地位の象徴でもあった。ところが独り暮らしになった金蔵が末広がりで縁起の良いとされた「八番」の電話を東京電話局に無償で返上すると申し出るという前代未聞の「電話事件」が起きた。それまで金蔵が「二笑亭」建築に多くの費用をつぎ込んできたこともあり、心配した家族は財産の散逸を恐れて禁治産の申請をすることになる。鑑定にあたった精神科病院長が式場の知り合いでもあったから家族の許可を得て見学が実現した。同行したのは帝国劇場の設計者で博物館明治村の初代館長になった建築家の谷口吉郎で見取り図は谷口が担当した。

式場は異様な外観から始まって、不思議な間取り、檜の一枚板の節穴にガラスをはめ込んだ壁、五衛門風呂とバスタブのある和洋合体風呂、虫よけ壁がある9畳の間などをこと細かく描写している。虫よけ壁とは黒砂糖と除虫菊の粉末を混合したもので塗り込まれていた。盛夏に襲う蚊や虫を遠ざけようとする金蔵の独創だったというが左官はいつもひどいくしゃみに襲われ、両目から涙をぽろぽろ出して苦しみながら仕事を続けた。他にもいたるところに鉄材を使い、茶室の畳縁まで鉄板が使われていた。

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写真は「節穴にガラス入りの壁」である。式場は『芸術としての二笑亭』の項に「節穴をのぞく心理を想像してみられよ。彼(金蔵)の陰気孤独な性格は、節穴から社会を観察し、人生をのぞいていたにちがいない」と紹介する。さらに「もしラフカディオ・ヘルン(=ハーン)が生きていたら、二笑亭は彼の麗筆によって後世に残る傑作ができたであろう。洋風な匂いを加味してではあるが、日本的な味の濃い二笑亭は、日本的神秘と怪奇を好むヘルンにとって無比のテーマになったに相違ない」とか「一〇余年の情熱を傾けてつくりつつあったこの建築は、浅い模倣や一夜漬けの思いつきで制作される芸術作品の遠く及ばないものがある。グロテスクや、でたらめの構成物としてこれをみる人は、最も浅い理解者である」という訪問記『二笑亭綺譚』を『中央公論』に発表して好評だったので昭和14年2月に昭森社から単行本として刊行した。装本は親交のあった染織工芸家の芹沢銈介。写真40図を添え、学生版も出るなど版を重ねた。なかには50部限定本のように古書業界では稀覯本となっているのもある。次回はもういちど50年目の再訪記に戻ろう。

(以下続く)

書斎の漂着本(85) 蚤野久蔵 二笑亭綺譚(1)

  • 2016年4月8日 22:13

精神病理学者として名高い式場隆三郎(1898-1965)は戦前、東京の下町にあった怪建築「二笑亭」を著書『二笑亭綺譚』などで広く紹介したことでも知られる。建物が取り壊されてから半世紀、『二笑亭綺譚-50年目の再訪記』(求龍堂、平成元年=1989)は新たに加わった藤森照信(建築家)、赤瀬川原平(美術家・作家)ら4人が異彩を放っていたであろう「二笑亭」にあらゆる角度からアプローチすることで誌上に蘇らせた。

『二笑亭綺譚―50年目の再訪記』(求龍堂刊)

式場隆三郎著『二笑亭綺譚―50年目の再訪記』(求龍堂刊)

写真中央が「二笑亭」で東京市深川区(現・江東区)の繁華街、門前仲町にあった。現在の地下鉄、東京メトロ東西線と都営大江戸線が交差する「門前仲町駅」を上ってすぐの永代通り北側に面して建ち、当時は表を市電が通っていた。拡大写真に写る入口の扉は引き違いの頑丈な格子戸。二階部分は明かりとりのため、三枚のガラスが<嵌めごろし>になっている。

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「二笑亭」を建てたのは深川一帯の地主だった渡辺金蔵(1877-1942)という人物である。ところが金蔵が精神を病んでいたことや存命中であったので式場が昭和12年(1937)の『中央公論』11・12月号に発表し、2年後に昭森社から単行本化された『二笑亭綺譚』などには仮名の赤城城吉としている。『二笑亭綺譚-50年後の再訪記』では原著の再録部分が仮名、再訪記が実名となっているが、ややこしいのと金蔵の四男も父の思い出を語っているので実名に統一させていただく。

金蔵は旧姓を佐山といい九州で生まれた。父の手一つで育てられ、上京して東京・麹町の小学校へ入学した。成績はきわめて優秀で、卒業後は足袋仕立業の老舗であった渡辺家へ奉公した。働きぶりもまじめだったので渡辺家の養女だった妻と結ばれて婿入りする。4男1女をもうけたが足袋には見切りをつけ33歳で洋品雑貨商を始めたがうまく行かず、44歳で廃業に追い込まれた。それでも渡辺家は土地持ちでもあったので地主として生活できた。所有する土地の管理や地代の収受にも誤りはなかったが無口で変わりものの地主だった。しかも職人から始めたのでそうなると退屈で仕方ない。長唄、清元、謡曲、舞踊、生花、茶の湯だけでなく美術的な趣味では硯や篆刻の収集に励んだ。書も巧みだったから和歌や漢詩の揮毫などひとり自分の趣味に没頭した。

そんな生活が一変したのは大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災である。家族は無事だったが深川一帯を舐めつくした火災で住まいだけでなく家財のすべてを失った。トタン葺のバラックは建てたものの震災後の区画整理に直面して精神の変調を一層明瞭にする事件が起こって家人を驚かせる。突如として「家族を連れて世界一周の旅に出る」と言い出したのである。驚いた家人はあらゆる手段を使って制止しようとしたが頑として応じない。自ら外務省へ行き自分と長男、次男の旅券を申請し、欧州航路の船会社に船室を予約してしまう。小心者の長男が仕方なく旅程の作成や準備を重ね、大正14年(1925)10月に横浜港を出港した。ところが神戸に向う船中で心労を重ねた長男が不安、不眠などで錯乱状態になり神戸で下船してしまう。それでも金蔵は次男と旅行を継続することを選んだ。旅行はスエズ運河から地中海に入り、フランスのマルセイユ、イギリスのロンドンに寄港、大西洋を経てアメリカに渡り、カナダから太平洋を越え、翌15年(1926)4月に帰国した。

旅行のエピソードを少しだけ紹介しておこう。まず特記しなければならないのがその服装であろう。当時、和服に下駄で洋行する人は珍しくなかったが金蔵も洋服を着なかった。自ら縫ったシャツと股引(ももひき)を身につけた。これが「常用服」で何か改まる必要のあるときはどてらの上に袴をつけた。頭髪は短く刈り、シャツ一枚の異様な服装は船中では注目の的になった。金蔵はボーイにチップを100円も与え、贅沢な買い物をするので乗客は「奇人の富豪」と信じていた。ちなみに東京近郊の住宅地である板橋の一軒家の家賃が月に10円ほどだったから100円の価値がお分かりいただけるだろうか。=参考:『値段の明治大正昭和風俗史』(週刊朝日編、朝日新聞社、1981)=金蔵はそんな服装のままで一流ホテルに宿泊し、大劇場の特等席で演劇などを観賞した。

このシャツ股引旅行について、金蔵は後日こう弁解している。
「あれは自分の教養を示したものです。和服は洋服に比べると地が薄く破れやすいでしょう。破れたら縫わねばなりません。私は針ができます。だから自分の教養を人に知らせるためにも洋服は着られません」たしかに足袋職人だったから手先は器用だったのだろうが分かったような分からない説明である。世界漫遊の旅そのものが「大いなる奇行」ではあったが長男も脳病院に入院していたし、本人たちも無事帰って来たから家族は一安心した。

この頃、金蔵は同じ物品を多数買い集める習癖があった。大小数十個の鰹節削りの木箱を作ったり、多数の天秤を買い集めたり、岡持ちを同時に30個も作って近所に配った。天秤は両端に荷物をぶら下げて担ぐいわゆる天秤棒で、岡持ちは食堂やラーメン屋さんなどが出前に使う。それにしても食堂や料理屋さんならともかく貰った方も困惑したのではあるまいか。他にも地代の集金などがうまくできなくなる事態があちこちの物件で度重なり、復興局が進める区画整理にも一切協力しない態度を取り続けた。復興局も懇談を重ねて何とか妥協点を見つけようと八方手を尽くしたが、まったく相手にしなかった。やむなく強制処分の命令が下り、家屋が取り壊されることになった。家人は金蔵がどんなに激昂するかと案じたが、いよいよ当日となると金蔵は平然と現場へ行き呑気そうに見物していたという。

世界漫遊の旅から帰った金蔵は、震災後のバラック住宅を本建築に改造することにした。出発前にあるいは頭の中に大体の計画ができていたのだろうか。それに欧米で見て来た知識を加味したのかもしれない。昭和2年(1927)、いよいよ「二笑亭」の建築に取りかかる。 (以下続く)