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あと読みじゃんけん(5)渡海 壮 突破者

  • 2016年3月10日 23:19

関西でいうところの「とっぱ」は「突破」と書き、無茶者、突っ張り者を指す。<作家の看板をあげたアウトロー>を標榜する宮崎学が一躍、世間に知られる存在になったのが1976年(昭和51年)10月に出した『突破者』である。東京新宿の小版元、南風社の出版で、広告宣伝もしなかったにもかかわらず翌年夏までに15万部を売り上げて話題になった。ユニークな表紙を手がけた五味太郎は工業デザイナーを経て絵本作家になったが「熱烈な阪神タイガースファン」というのが意外な共通点らしい。

宮崎学著『突破者』(南風社)

宮崎学著『突破者』(南風社)

宮崎は敗戦の混乱さなかの1945年(昭和20年)に京都市伏見区に4人兄弟の末っ子として生まれた。父親は京都の伏見一帯を縄張りにしていたヤクザ組織、初代寺村組の組長。高校時代に共産党党員になり早稲田大学入学後は共産党系組織のゲバルト隊長として東大闘争などで派手な武闘を繰り返した。『週刊現代』の記者として活躍した後、家業の解体業を継ぎ、建て直しのために無茶のかぎりを尽すが企業恐喝容疑などで逮捕・検挙されること数度、銀行筋からの信用を失い家業を倒産させた。上京後はバブル地上げの象徴といわれた神田神保町の東洋キネマを手がけた。グリコ・森永事件では犯人の「キツネ目の男」の容疑者として<重要参考人扱い>されたこともある。まさか怒鳴り込まれたりする心配はないだろうがプロフィールは宮崎と新右翼のリーダーで政治団体「一水会」代表の鈴木邦男との対談集『突破者の本音―残滓の思想』(青谷舎)から引いたことを書き添えておく。

『突破者』の副題は「戦後史の影を駆け抜けた五〇年」で、第一部1945~1975と第二部1975~1996に分かれている。冒頭の「マイ・ファミリー」で京都府南部の貧農の次男坊だった父親は10代初めに京都に出て鳶職になり土建屋・解体屋の寺村組の親方になった。鳶や土方を数十人抱える一方、博徒でヤクザの親分でもあったが終生、読み書きはできなかった。母親も和歌山県の貧農の出の父親が大阪でヤクザ渡世を送っていたため釜ヶ崎周辺のスラムで生まれ育った。幼少の頃から当時のスラムの花形産業だったマッチづくりの仕事に追われ、小学校にも満足に通えなかった。親の目を盗んでときどき学校に行き、窓の外から同級生の授業を聞いていたものの読み書きは独学で身につけたという。

その親父に絶えずつき添って組と会社の裏方を支えていたのはおふくろだった。145センチあるかないかの小女で目の吊り上がったきつい顔をしていた。極端なほどに無口であったが、大変な働き者で、朝の4時に起きだして鳶や土方の朝飯の支度をし、工事現場にも出る。現場では土方連中と一緒にモッコを担いだ。夜の食事の後片付けが終わるのが午後9時頃、その後も鳶たちの衣服の繕いなどで、寝るのはいつも午前様だった。これは何も私のおふくろに限ったことではなく、当時の女たちは似たようなものではなかったかと思う。土建屋の親方としては、親父はなかなかの仕事師だった。解体屋というのは文字通り建築物を解体する生業で、関西では「こぼち屋」と蔑称されていた。元手要らずの裸一貫で始められる業種だけに昔は荒くれ者が集まっていた。ニッカーボッカーに革靴、足にはゲートルといういでたちであちこちを飛び回っていた親父は、夜は賭場か女のところに出かけ家を空けるのもしょっちゅうだった。そんな親父を<掌の上で踊らせている>というグレート・マザーのような面がおふくろにも多分にあったような気がする。

これが著者の両親についての回顧であり分析でもある。敗戦直後の京都でヤクザの組長の子として生まれたという出自がある意味生き生きと詳しく語られる。

回りにいたのは鬼のような顔をした荒くれ者ばかり、物心つく頃からそんな極道たちとの原始共産制のごとき猥雑で濃密な共同生活が始まったが福井大地震の復旧工事でしこたま儲けたこともあって自宅にはさまざまな人物が訪ねてきた。「永田ラッパ」と呼ばれた大映映画社長の永田雅一も麻雀をやりにしょっちゅう黒塗りの大型車で乗り付けた。京都生まれで日活撮影所の「見学者案内係」を振り出しに映画界に入った永田は、ラッパの所以となったハッタリ半分の弁舌と天才的なプロデュースの才を駆使して大映を興した映画界の風雲児である。「わしは映画人じゃない。最後の活動屋じゃよ。活動屋というやつは根っから映画に惚れとる」が口癖で、当時の活動屋のユニフォームであったニッカーボッカーに高級な背広を粋に着こなし、親父を「兄弟」と呼んでいた。極道たちの花札とは違い麻雀は子ども心には知的な遊びに思え、永田の膝に抱かれながら見物するとオーデコロンのような芳香が漂った。それは私が初めて体験した<東京の匂い>だった。

「少年鉄砲玉」、「喧嘩と資本論」、「都の西北とインター」、「秘密ゲバルト部隊」、「突撃記者の群れ」と、どの見出しをとってもそれぞれにドキュメント映画が何本もできそうだ。映画関連といえば永田との縁で引き受けた撮影所の解体工事でのぼろ儲けなどがあるが、そうそううまくいくわけもなかった。第二部の「掟破りの日々」、「金地獄に踊る」、「ゼネコン恐喝」では家業が倒産、債権者のヤクザに追われる日々となる。グリコ・森永事件で犯人の「キツネ目の男」の容疑者として<重要参考人扱い>されたことについて『突破者の本音』の鈴木によれば「容疑者だと自分からマスコミに売り込んだ」とある。ところが宮崎はその経緯を40ページにもわたって紹介し、犯人グループについて「なるほど」と思わせる独自の推理を展開してみせる。バブルの絶頂期にかかわった東洋キネマの地上げなどは「野郎どもとバブル」で、多くのバブル紳士や銀行とのやり取りが生々しく描かれる。宮崎はそもそも膨大な不良債権は、政官界の中枢と裏社会が結びついたプロフェッショナルで危険な方程式を安易に用いた当然の帰結であってハイリスク・ハイリターンに賭けたバブル紳士たち「脇役」は相応の傷を受けた。にもかかわらず「主役」の銀行や官僚や企業のほとんどは居座ったままで、窮地に落ち込んだ銀行や住専は自業自得なのに政府による救済が既定路線化されたのはおかしい。だれも責任を負わず、責任主体さえ定かでない戦後の無責任体制はここに至って、ついに完成を見たと主張する。

笑止千万な譬えであるが、と前置きした終章で宮崎はこの本は私の『風とともに去りぬ』なのであると書く。スカーレットやレッド・バトラー的人物は一切登場するはずもなく、顔を出すのはただならぬ形相をした男ばかり、このスマートでデオドラントな時代と折り合いをつけられない男たち。彼らと彼らがいた風景は私にとっては滅びゆきつつある哀切な「南部」であると。

一見穏やかで太平なこの社会ではあるが、その薄皮一枚下はたえず風が吹き、波が立っている。情報や金融の国際化、ボーダレス化などによって、われわれは近代国家、さらには近代主義の枠組みが崩れてゆく大きな歴史的局面に立ち合っている。東アジアだけでなく世界の転換期の混沌の現場に「荒くれの突破者ども」とともにこの身を置いてみたいという夢、それは歴史の過渡期の徒花(あだばな)にすぎず、世界の新たな再編の完了とともに窒息させられてゆく運命にあるとしても、束の間の光芒を放つのではないか。成り行きまかせの無茶な50年ではあったが、半面なかなか賑やかで悪くない年月であったと思う。難儀な面はあったが、その見返りとして人間に出会うことはできた。善も悪も含めて、やはり人間は面白いものである。たかが短い人生、人とのかかわりのなかで、瞬間瞬間の充足や感動を求めて生きるのも、これまた人生だろう。所詮は突破者、これからも、自分なりの花道を突破し続けてゆきたいと思う。

*『突破者―戦後史の影を駆け抜けた五〇年』宮崎学、幻冬舎アウトロー文庫( 上・下)