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書斎の漂着本(83)蚤野久蔵 アトランチス大陸研究

  • 2016年3月31日 18:36

「いまや地球に未解明な場所なんかどこを探したってないでしょう」と言われそうだが、衛星写真が普及するまでは<地図の空白地帯>が多くあったし、最近でもマレーシア航空機は行方不明から1年以上経つのに機体さえ見つかっていない。私もヒマさえあればアトランチスやム―など幻の大陸や島、あるいは「地球空洞説」などを取り上げた本を読み飛ばしていた時期があった。子供のころ親しんだスウィフトの『ガリヴァー旅行記』やジュール・ヴェルヌの『海底二万里』『地底旅行』などの読書体験の延長線上にあったのかもしれない。そのほとんどを処分したつもりでいたのに、この『アトランチス大陸研究』(大陸書房、1977)だけが書庫の奥に残っていた。

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本体は濃紺で背に金箔押しがあるだけなので「アトランチス大陸の首都復元図」が印刷されている外函のほうを紹介する。訳者の伊藤清久は著者のN・F・ジロフをソ連の化学博士でアトランチス大陸を研究する「アトラントロジー」の大家。欧米各国の数千冊にのぼるアトランチス文献を、あまねく渉猟し、その分析と批判との上に「プラトンが書き残した伝説が証明できる史実であり得た点」を研究してきたと紹介している。さらにこの大著を訳し終わったときに著者の訃報が届いたので、まさに伝説の大陸・アトランチス物の悼尾となる集大成であり決定版!という。もちろん新装特製版として3,500円の新刊を購入したのではなく、どこかの古書店で見つけ興味本位で入手したのだろう。その証拠に外函には紐で強く括られた跡があり<十把ひとからげ>で運ばれた痕跡が残っている。

アトランチスについて世界が初めて知ったのは有名な古代ギリシャの哲学者プラトン(紀元前427年~347年)の言葉からである。「一万二千年以上の昔、大西洋のジブラルタル海峡のすぐ向こう側のあるところに、大きな島があった。その島は自然の富に恵まれ、極めて多くの人口の強力な民族・アトランチス人が住んでおり、支配者が西方と東方へ向って侵略戦争を進めていた。彼らは立派な建築物を有する大都市を造り、権力者は無数の財宝を所有していた。ところが前アテネ人との戦いに完敗して間もなく、アトランチスは一昼夜のうちに全ての住民と共に大洋の底に沈み、滅亡した」。これがプラトンによるアトランチス伝説である。この伝説の幻想性と悲劇性は以来、二千年以上にわたって多くの作家や詩人だけでなく科学者までをも惹きつけた。もっともプラトンの弟子のアリストテレスでさえ師の主張には懐疑的立場であったし多くの否定論者を生んだ。しかし、全ては初めにプラトンありき、つまり<言い出しっぺ>なのである。

ここでは外函の「アトランチス大陸の首都復元図」だけを紹介するだけに留めておくが、そこにはいくつか具体的な数字があげられている。高い城壁を巡らせた中央の円形のアクロポリスには多くの神殿が建つ。中心は長さ185m、幅75mと巨大なポセイドン神殿で全体は銀と黄金で飾られ、円屋根の内側は黄金と銀の装飾象牙でできている。さらに内壁はここにしかない合金・オリハルコンで覆われ、内部には円天井に触れるぐらい巨大なポセイドンの黄金像とそれを取り巻くイルカに乗った百人の黄金像が置かれている。神殿を囲む庭には王と妃と子孫の黄金像や温泉と冷泉、さらに外側には高々と生長したあらゆる種類の樹木が茂る森が広がる。最も信頼された人々はこのアクロポリスに住んだ。それを囲む第三内堀までは外洋を航海してきた大船がそのまま入り込める。平面図はこうだ。

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アクロポリスと第三内堀で隔てられたすぐ外側のドーナツ型の地域には別の神殿や体育館、競技場や演技場が建てられている。競技場の端には近衛兵の住居があり、さらに外側には第二内堀、競馬場、第一内堀というように同心円状に配置された環状都市が造られている。ちなみにポセイドンの神殿は長さ185m、幅75mと巨大なもので、このような神殿が建ち並ぶ中心のアクロポリスの直径は数キロあった。そうなると二つの<ドーナツ島>はさらに大きいことになる。図の一番下、つまり南の方角に広がる外洋からアクロポリスに通じる運河は幅75m、深さ25mで総延長は9.2キロもあった。王国の総人口は5、6百万人というからその広さを想像してほしい。

紹介したように著者のジロフ博士は化学が専門であるから、地球物理学や地質学、地震学、重力学など「海底に沈んだアトランチス大陸」への直接アプローチには一見関係なさそうに思えるが、さにあらず、入手したあらゆる可能性を丹念に分析して見せる。それは否定論者の言い分や神秘学といわれる分野まで及び、さらにさまざまな深海調査や火山学、生物学などあらゆる直近の知識を手繰り寄せて「失われた大陸」の実在性に迫っていく。海底調査で得られた水深調査から独自のアトランチス大陸を復元しているのをせっかくの機会なのでお目にかけよう。

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中心になるのが一番大きいポセイドン島で北東から南西方向に「北大西洋山脈」が走る。ここにはフロレス山とコルウオ山がそびえる。東側は北からアゾレス山、アトランチス山、プラトン山などがありこの麓に伝説のアトラス王国があったのではないかという。さらに南西にはポセイドン海峡を隔てて二番目に大きいアンチリア島がある。これら二島とは別に西の海にはいくつかの島があるのがおわかりだろうか。名前がつけられた山のほとんどが火山で島々も火山島ではないかという。では水深2,500mから3,500mの海底に眠るこの島はどのあたりに想定されているかというとポルトガル沖約千キロにある現在のアゾレス諸島付近。つまり図のアゾレス山がある北東部がこの諸島ではないかという。

最終章でジロフ博士は「アトランチスの実在性に関する見解を最終的に確認するには、今後の客観的で偏見のない研究、まず海洋学や海洋地質学の分野にまつのみである。このために将来、探査や実験作業を多く行わねばならない。アゾレス諸島や北太平洋の他の場所で現在は海面下に沈下した山脈そのものに氷河の痕跡を発見する可能性で、これら海嶺の本質を仮説上の推定ではなく、綿密な地震探査や磁気比重測定及び十分な量のコア(地殻標本)の採取によって行うことである。従来、科学としてのアトランチス学については大半が熱心な個人であったので<素人臭>がつきまとい限界があった。私の次の著作は各種の科学分野の学者専門家集団が参加して発行されることを期待するものである、とさらなる情熱を表明している。

改めて読んでみると幻の大陸が<何だかありそうに>思えてくる。もし「無人島に持って行きたい本を一冊だけ挙げて下さい」というアンケートがあればこの本はその最有力候補になるかもしれない。

あと読みじゃんけん(8)渡海 壮 林原家

  • 2016年3月30日 18:42

変った題名である。「〇〇家」と「棺桶」とくればついつい葬儀を連想してしまう。林原家とは2011年2月に会社更生法適用を申請して倒産した岡山市のバイオ企業・林原の創業者一族である。『林原家』(日経BP社、2014年)の著者で表紙写真の林原健は倒産時の社長だったがその責任を取って辞任した。慶応大学在学中に父の死去に伴い林原の4代目社長に就任、林原を研究開発型の世界的な食品素材、医薬品素材メーカーに育て上げた。突然の倒産は社長就任から50年の節目の年に起きた。

林原健著『林原家』(日経BP社刊)

林原健著『林原家』(日経BP社刊)

隣県・広島出身の私が「岡山の企業といえば」として思いつくのは<御三家>といわれた天満屋、ベネッセとこの林原だ。デパートの天満屋は広島店に、ベネッセは旧社名の福武書店に知人がいたこともある。林原のほうは抗がん剤として使われるインターフェロンや甘味料トレハロースなどの<本業>よりもモンゴルでの恐竜化石発掘で多くの成果を挙げた林原自然科学博物館や林原美術館など文化・芸術活動を支援する旺盛な「メセナ事業」で知っていた。突然の倒産と書いたのはこうしたメセナ事業も社業の順調な発展があればこそ、と思っていたから林原倒産を新聞記事で知って意外だった。

会社勤めをしていた頃「サラリーマンたるものビジネス書を愛読すべし」と、ことある毎に声高に話す同僚がいた。彼は「それも成功者や、いい成績をあげたトップセールスマンの!」と付け加えるのを忘れなかった。それからするとこの本は「敗軍の将が敗因を語る」わけで間違いなく<論外>ということになるが、古書店の均一棚で見つけた時には副題の「同族経営への警鐘」や倒産に至る経緯などではなく、変わった題名と「棺桶の中まで持って行くつもりだったという真実」とは何かにがぜん興味が湧いた。

「経営破綻の真相」ではメイン銀行だった中国銀行からの電話から始まる経営破綻の発覚、粉飾決算、会社更生法の適用申請、経理部の聖域化などが外部調査委員会の報告書を引いて細かく紹介される。初めて<呼びつけられた>中国銀行の副頭取からは林原が何期にもわたってもう一つのメイン銀行、住友信託にそれぞれ異なる決算書を提出していたこと。実質的には債務超過状態が続いており、それをひた隠すために数字を粉飾していたことが伝えられる。社長の林原はその時まで会社の実態を一切聞かされていなかったという。「社長なのにうそでしょ」と言いたいところだが、企業統治以前に「どうせ林原家の会社だ。どんな経営をしていても自由だ」ということで非上場会社であるのをいいことに役員会は一度も開かれず、名目上の監査役はいるものの会計監査人も置いていなかった等々、常識では考えられないことだらけ。その挙句の倒産という結果がすでに出ているのだからいまさら触れないでおく。

江戸時代、美濃池田家に仕えていた林原家は関が原の戦いの戦功で姫路藩主となった池田公とともに姫路に、さらに鳥取藩への転封に従った。しかし42万石から32万石への石高減少で家臣を養えなくなった。林原家の先祖は藩公の窮状を見て士族を捨てることを申し出て米を取り扱う御用商人になった。1632年(寛永9年)池田公が岡山藩主に転封されると岡山に移り商売を続けた。いまふうにいえばリストラを言われないうちに真っ先に手を挙げたようなものか。当時の階級社会では懲罰としての士分剥奪はあっても自ら進んで武士から商人になることなどまずなかったが、士分を捨てても忠義を果たすことこそ武士の本懐と考えたのだろう。それだけに林原家は武士であったという<誇りと精神性>を現代にまで持ち続け「長幼の序」を重んじた武家社会そのままに長男には絶対的な強さが与えられ弟たちには長男への絶対的な忠誠が求められてきたこと。会社経理は弟の専務や経理部に任せきりの<放任>だったことなどが「林原家の宿痾(しゅくあ)」で明かされる。

明治維新を経て1883年(明治16年)祖父の克太郎が林原商店を創業し、米や芋を原料にした水飴の製造を始める。会社を急成長させたのは健の父で3代目を継いだ一郎だった。大阪商科大学(現大阪市立大学)を卒業すると京都帝国大学(現京都大学)の工業化学教室で飴の製造方法を研究した一郎は事業者と研究者の両面の能力に秀でていた。岡山に戻った一郎は積極的に設備投資をするが原料の高騰や排出される亜硫酸ガスに対する周辺住民の反対運動も起き、あえなく資金繰りが行き詰った。仕方なく林原商店を整理して旧満州に渡るが、再び岡山に戻ると画期的な量産技術を確立し「太陽印水飴」という商標で中国にも販路を拡大した。しかし売上の拡大をもくろんだ材料澱粉の先物取引で再び債務超過となり、倒産状態に陥った。さらに岡山はB29の空襲で一夜にして焼け野原になる。林原も工場を焼失したが、陸軍に納入予定の原料が空襲の翌日に入荷し倉庫に眠っていた。終戦後、一郎は財産すべてを工場再建につぎ込み、終戦5ヶ月目の46年1月に試運転を始める。これが吉と出た。当時は砂糖不足で、国民は甘さに飢えており、水飴は米に次ぐ貴重品だったから多くの「飴成金」が誕生した。群を抜いたのが林原で、年一度の澱粉買い付けは相場を左右すると言われた。

一郎は世の成金が豪邸の新築や遊興などに費消したのに対して、余裕のある財産は不動産、証券、古美術に投資することで完全な利殖の道を講じていった。岡山駅前にあった住友通信工業の工場跡地約5万平方メートルをはじめ「岡山で売り地が出るとことごとく買った」といわれるほど不動産投資に傾注した。対象は神戸、大阪、京都、東京などの一等地にも広がり、計20万坪(約66万㎡)にも及んだことでグループは「林原財閥」、「林原コンツェルン」、一郎は関東での巨大西武グループをつくり上げた企業家と並んで「西の堤康次郎」と呼ばれた。なかでも骨董や美術品には情熱を注ぎ、古物商から多くを買い取った。利殖目的とは別に購入したものもある。収蔵庫が空襲被害から奇跡的に免れた池田家所蔵の美術品や膨大な日記類などは希望を上回る金額を出した。トラック数台分にも上る藩公伝来の遺産はいずれも歴史資料としての価値が高く、将来的には岡山県に寄贈する予定だったがしかし資産目的の土地買収と同一視されたことで、こうした地域貢献さえも地元の評価は毀誉褒貶が相半ばしたことは否めない。1959年、一郎はついに新しいぶどう糖生産技術を確立し、岡山、大阪、東京で同時記者会見を開く。新聞紙上に「林原、酵素糖化法を確立」という大活字が躍り、事業家人生がさらなる高みに登りかけたその時、一郎は急死する。病名はスキルス胃がん、発見から死までわずか2カ月、享年52だった。

後を<いやいや継いだ>健社長の「それからの50年」については触れないでおくと書いたが独自研究に力点を置く経営手法は80年代に量産技術を確立したインターフェロン、90年代のトレハロースなどの成功によって林原をバイオ企業に変身させた。「成功体験とその秘訣」としてあげるのは

1.  大企業がやらない研究テーマを選ぶ
2.  社長が研究テーマを独断で決める
3.  予算に上限を設けず、成功するまで研究する

そして「神は現場に宿る」といって社内の工場を毎日のように歩く社長がいる。それも立派な経営スタイルだろうが私は違う。想像力をかき立てようと思うなら、現場を歩くだけでは無理だ。異分野の識者と話す機会、その咀嚼に時間を費やさなければならない。イノベーティブな会社をつくろうと思ったら、経営者が会社にいる時間は少しでいい。私が会社にいる時間は午前11時半から午後2時半までの3時間と決めていた。青天井の研究費についても持論を展開する。不動産に裏付けられた資金力があり、およそ10年ごとに大きなヒット商品が生まれたことで、管理体制を改めなくても会社は回った。上から締め付けるよりも個々の研究員の自主性を重んじる方が想像性を発揮しやすいのだと。経営破綻したことで、それまでメセナ事業のことを評価していたメディアが「メセナは社長の道楽で、それが破綻を招いた大きな要因」と手のひらを返して批判したことに対しても、投じた金額は年数億程度で会社に悪影響を及ぼす額ではないし、林原が発展していく上ではマイナスよりもプラスになった面がはるかに多いはずだと譲らない。たしかに結果的には林原家が私財を提供することで債務弁済率は93%に達し、社員の雇用も守られた。長瀬産業がスポンサーになってからも林原の社名はそのまま残った。

では、私の関心があった林原自然科学博物館のその後はどうなったのかと検索してみたら、奇しくも2016年3月吉日の「お知らせ」が掲載されていた。発掘標本のモンゴルへの完全返却、その他の化石や研究事業は岡山理科大や国内の博物館などに移管が完了して組織を解散したという内容だった。「あとがき」には、曾祖父が林原商店を創業して祖父に継ぎ、父の林原一郎が発展させ、そして私が会社を倒産させたという林原4代の企業物語にも、大きな時間軸で眺めれば、何らかの意味があったのだと信じたい。もっとも一財産を築いてくれた父には、いつか会うであろうあの世でこっぴどく叱られそうだが、その時はその時だ、と綴る。表紙の写真だけでなく、会社更生法の申請と辞任を発表した謝罪会見の写真を共同通信から入手してまで掲載したのは著者にしてもこの本は自身に贈る<葬送譜>だったのだろうか。

あと読みじゃんけん(7)渡海 壮 血族の王

  • 2016年3月25日 19:21

岩瀬達哉の『血族の王』(新潮社)には「松下幸之助とナショナルの世紀」という副題がついている。妻と始めた大阪の町工場を事業拡大への飽くなき執念で世界企業に育て上げ、従業員38万人の一大家電大国へと成長させた松下幸之助。激動の時代を背景に数々の神話に彩られた「経営の神様」を、徹底した取材と新資料で描き直すことで血族の王たらんとした<もうひとつの顔>が見えてくる。

岩瀬達哉著『血族の王』(新潮社刊)

岩瀬達哉著『血族の王』(新潮社刊)

岩瀬は創業者の幸之助から七代目の松下電器社長となった大坪文雄が創業90周年を迎えた平成20年(2008)に和歌山市禰宜(ねぎ)にある「生誕の碑」へ参拝するシーンから書き始める。鈍い青色の緑泥片岩に彫られた文字は母方の祖父が紀州藩の元藩士で和歌山に縁のあるノーベル物理学賞受賞の湯川秀樹博士が揮毫している。

蝉の声がいちだんと激しさを増したころ、目の前を一台のセンチュリーが音もなく滑り込んできて、バックで切り返すと、墓所と生誕碑のあいだの小道にぴたりと停車した。8月5日午前8時55分のことである、とあるから取材中に偶然目撃したのだろう。

このわずか2カ月後の10月1日、大坪は社名をパナソニックに変更し、誰もが親しんだナショナルというブランド名を廃止して社名とブランドの統一を果たした。さらに2カ月後の12月19日には、パナソニックの初代社長として三洋電機の完全子会社化に向けた資本・業務提携の締結を発表する。三洋電機は幸之助の仕事を長年手伝ってきた義弟の井植歳男が戦後間もなく創業した。幸之助の妻、むめのが淡路島の尋常小学校を卒業したばかりの弟を呼んで町工場時代から苦労を共にしてきた。お互いが離れたとはいえ<血族の企業>という因縁があった。「墓参はその交渉経緯を報告することで大坪は精神的な後ろ盾を求めたのかもしれない」と。

同じ和歌山市に生まれた岩瀬は幼いころから松下幸之助がいかに柔軟な思考と斬新な発想の持ち主であったかをよく聞かされて育った。周囲の大人たちが語る幸之助のエピソードの数々は「二股ソケットは、下着のステテコを見て思いついた」など少なからず脚色されて面白おかしく仕立てられたものが多い。しかも「遠い歴史上の人物」であると思い込んでいたが連載執筆の話があったときに迷わず選んだのは松下幸之助で「正伝を執筆する予感」さえあったという。幸之助には『私の行き方 考え方』『経営回想録』をはじめ社史など多くの出版物がある。それ以外の資料を独力で渉猟し役員OBや元幹部社員などの証言者を探し出すことで限りなく実像に迫ろうとした。取材と執筆の旅は実に7年がかりとなった。

松下家のルーツは苗字帯刀を許された地主階級に属し、祖父の代までは隆盛を極めていた。しかし父、政楠(まさくす)は祖父の死後、本業の農業は小作人任せにして養蚕、村会議員活動に熱中、挙句の果ては米相場の失敗で先祖伝来の田畑、家屋敷を失ってしまう。一家は、大八車2台に家財道具を積むと和歌山市内に引っ越し下駄屋を開業するが2年ほどで閉店に追い込まれた。政楠が相場から足を洗えなかったことにもあった。明治37年(1904)11月23日、尋常小学校を4年で中退した9歳の幸之助も<荷物は着替えのシャツなどを入れたふろしき包みたった一つの着の身着のままの姿>で和歌山から大阪に向かった。日露戦争の勃発で世相は暗く、旅順総攻撃は連日のように苦戦が伝えられていた。親元を離れて奉公したのは大阪の繁華街・千日前に近い八幡筋の宮田火鉢店だった。ところがわずか3カ月目に店が廃業することになったため、店主の紹介で当時は新しい商売だった自転車店の小僧になる。おもに英国製自転車を扱う店として創業した五代自転車商会は、幸之助が奉公に来て二カ月後、船場堺筋淡路町から内久宝寺町に移転した。この店で幸吉と呼ばれて6年間、一人前の商人になるための修行に励んだ。

幸之助は常に「ぼくが今日あるのは、やはりこの店でご主人と奥さんから実に親身で、またきびしい指導を受けて、知らず知らずのうちにも商売の道というものを体得することができた、そのおかげである面が大きい」と懐かしんでいる。奉公していた五代自転車商会には関西地区の自転車選手がよく顔を出した。一時は選手になりたかった幸之助は、仕事前の早朝練習を重ねて競争会と呼ばれたレースに出場するようになると賞品を稼ぐまでになった。幸之助は父の死などの寂しさを埋めるように自転車に熱中するが堺の競争会でゴール前に落車、鎖骨を折る大けがで一時は人事不省となり、主人から以後の出場を禁じられてしまう。おりから番頭と小僧の中間で、商売がうまかった手代が店の商品を他所に売り、代金を使い込むという事件が明るみに出て、それを主人が訓戒だけで済まそうとしたのが許せず店を飛び出すことになる。

その後はセメント会社の臨時運搬工、大阪電灯の内線工を経て、北区大開町でアタッチメントプラグの製造を始めた。むめのとの結婚後は猪飼野に2畳と4畳半2間の平屋を借り、大阪電灯時代の同僚二人が加わった。これがすべての躍進の始まりになるところだったが登録実用新案が認められた「松下式ソケット」はようやく完成には漕ぎつけたものの大阪の街をかけずり回っても百個ほどしか売れず、用意した資金も底をついた。給料も払えず、社員も去っていってしまったから歳男の呼び寄せは苦肉の策でもあった。初めて「ナショナル」の商標をつけた自転車用角型ランプ、ラジオ・セット(受信機)が売れ行きを伸ばして日本全国に販売店網ができていく。なかには電球のように技術力や品質が及ばない二流品を<情>で引き受けた販売店の苦労もあって「一大コンツェルン」を築いていく。

戦中から戦後へ、松下電器グループはGHQにより財閥に指定され、一族には「財閥家族の指定」がなされた。巻末には参考資料として6ページにわたり財産目録などがある。苦境打開を目指して経済研究所のPHP研究所を立ち上げて間もなく幸之助自身が公職追放となり、奈落の底に突き落とされてしまう。そこからの再出発はまさに「明るい光あればさらに暗い陰あり」ではあるまいか。「義兄弟の違う道」で井植の独立を、「崩れゆく王国」では社史に汚点を残した中国への密貿易事件を取り上げる。「経営の神様」といわれた幸之助神話が光であるとすれば、晩年の幸之助は経営を松下家にとって盤石なものにするための焦りが陰となって付きまとった。多くのビジネスプランが反故にされ、人事抗争が渦巻いた裏面史も語られる。終章「ふたつの家族」では幸之助と井植の<もうひとつの家族>にもふれられている。こちらも間違いなく名経営者が秘かに大切にした<血族>であろう。

*岩瀬達哉『血族の王―松下幸之助とナショナルの世紀』(新潮文庫、2014)

ヒトラーの時代(13)      池内 紀

  • 2016年3月23日 17:41
ヒトラーの時代

ヒトラーの時代

分かれ道––マレーネ・ディートリヒの場合

1933年5月、ドイツの映画雑誌「スクリーン」が、マレーネ・ディートリヒのことを報じている。

「アメリカ・パラマウント社の発表によると、マレーネ・ディートリヒは来る年度の契約を更新した。われらのマレーネは引きつづきパラマウント傘下ではたらく。見過ごしのならないニュースである」

筆名は末尾に wとあるだけで誰が書いたのかわからないが、ナチ党員の編集者、あるいはナチスの息のかかった人物であることは、つづくくだりからも見てとれる。祖国において「偉大な変革」が実現したというのに、われらの最愛の女優が、外国で、外国の監督のもとに、外国語をしゃべる役をつづけるなど、あっていいことなのかどうか。「マレーネはそろそろ、アメリカ・ドルの魔力から目覚めるべきときである」

この年の1月、ヒトラーは政権を掌握した。3月、全権委任法成立、ナチスの独裁が始まった。「偉大な変革」は、この間の政治事情を指している。「変革」は同時に、親ナチス・反ナチスの分かれ道でもあって、反ナチスの思想家、芸術家、作家たちが、いっせいに亡命あるいは祖国を捨てることを強いられたのに対して、ナチスの権力に従った者たちは、俗にいう「いい目」をみた。「偉大な変革」への理解と共鳴を口にしさえすれば、すてきな待遇が待っていた。

ボンテン、シュティーア、メル、ヨースト……のちに一括して「ナチス文学作家」と言われた者たちだが、發表誌と出版元はもとより、国家的栄誉とアカデミー入りが用意されていた。

ベルリン・フィルの首席指揮者フルトヴェングラーは「いい目」をみた一人である。ブルーノ・ワルターほかの同僚がドイツから追われたとき、フルトヴェングラーは公開書簡を發表し、ユダヤ人音楽家への弾圧に抗議した。芸術至上主義を唱え、政治からの独立を主張した。自分では反ナチスを貫いているつもりだったが、宣伝省大臣ゲッベルスにとって、この世界的指揮者はナチスの対外宣伝のための絶好の素材にすぎなかった。ゲッベルスの有名な言葉がのこされている。

「フルトヴェングラーには、彼が少しもわれわれに協力していないように思わせておけ。一方、世間には、彼はあたかも協力しているように見せることだ」

巧みに利用され、ナチス政府から「聖なる大芸術家」扱いされて、指揮者もまたその気になったらしい。身近にいた人が書きとめているが、ナチス時代のフルトヴェングラーは日常的にも、滑稽なまでにものものしく振る舞っていたらしいのだ。

作曲家リヒャルト・シュトラウスもまた「いい目」をみた一人だった。戦後、当人の声明文、証言が集められ、これ以上ないほど歴然と、倫理観のなさ、小心ぶりを露呈していた。

とりわけ好遇された「名士」たちだけではない。ナチス権力に従った作家、批評家、学者、ジャーナリスト、音楽家、画家、俳優、オペラ歌手……誰もが例外なく「いい目」をみた。すばやく信条を取り換え、ユダヤ人の友人、知人を縁切りにしさえすれば、権力の方から好条件のお呼びがかかった。もはやその名を知る人もいないだろうが、ナチス時代にドイツで流行した歌の多くは、「ペーター・クロイダー作曲」である。1905年生まれであって、ナチス政権誕生当時、将来を嘱目された二十代の青年作曲家だった。ローベルト・シュトルツ、ヴェルナー・ハイマン、パウル・アブラハムなど、ポピュラー音楽家で知られた人々は、そのユダヤ姓によって国を捨てなくてはならず、代わってクロイダーが空席の音楽監督に名乗り出た。以後、主題歌、劇中歌、祝典曲、流行歌に才気を発揮して、文字どおり「わが世の春」を謳歌した。

カウボーイならぬ、出演作「カウガール」1930年初めてアメリカへ。ハリウッドでの撮影。

カウボーイならぬ、出演作「カウガール」1930年初めてアメリカへ。ハリウッドでの撮影。

そんな時代である。ヒトラーの第三帝国は亡命したノーベル賞作家トーマス・マンとともに、ハリウッドの人気女優マレーネ・ディートリヒが祖国に帰ることを願っていた。ゲッベルスは特使をつかわし、様々な特典を用意して帰国を促したといわれている。トーマス・マンと同じくマレーネ・ディートリヒも誘いを拒絶した。映画「嘆きの天使」の女優は長編『魔の山』の作家よりも、より冷ややかに断ったようである。のちに彼女は述べている。

「私には祖国が恥辱になりました。だから捨てたのです」

いかにも的確な言葉づかいからもわかるように、この女優は、美しい脚や豊かな腰の持ち主には、おおむね欠けているもの、つまり聡明な知性をそなえていた。さらに女性がめったに持ち合わせていないもの、すなわち優美なアイロニーといったものすら身におびていた。それというのも、右の言葉につづけている、「私はドイツ人です。だからあのような恐るべきことをひきおこした国と和解することは、ごめんこうむりたいのです」

女優マレーネ・ディートリヒは、同じく愛された女優パウラ・ヴェッセリのように、たちの悪いナチスの宣伝映画にいそいそと出演したりしなかった。名優ヴェルナー・クラウスのように、ユダヤ人憎悪をかき立てるために制作された映画「ユダヤ人ジェス」で、迫真の演技を披露したりもしなかった。

マレーネはナチス特派の誘いを断った。元プロシア士官の娘は祖国からの特別招待を、そっけなく拒絶した。すばらしい肢体と、独特のエロティックなかすれ声とを、極上の条件に従わせることをしなかった。「スクリーン」誌の言うとおり、「アメリカ・ドルの魔力」があったにせよ、拒否の選択は、さしてワリのいいものではなかったはずなのだ。

というのも、もしドイツへもどるなら、マレーネは花形女優の地位を約束されていた。映画であれ舞台であれ、台本、監督、演出家にも好みを通すことができた。望むところの制作費のもとに、どんなわがままもかまわない。政府公認のトップの地位が約束されていた。

アメリカではどうだろう? 星の数ほどスターがいる。競争は激烈であり、さらにアメリカ大陸のいたるところから、美貌あるいは演技に自信のある若い女たちがハリウッドめざしてやってくる。これに対してドイツでは、いかにその種の女性が欠けていたか、それはゲッベルス宣伝相が親ナチスのスウェーデン政府に声をかけて、わざわざスター女優をスカウトしたことからもあきらかだ。ついでながら彼女は第三帝国時代の映画に、「ツァラー・レアンダー」の名でのこっている。

舞台やスクリーンの世界の幹部たちが、たとえしぶしぶながらにせよ新しい体制を認め、これまでどおりの立場と収入を確保したなかで、マレーネ・ディートリヒは自分の意志でナチス・ドイツを拒絶した。当時のナチスの用語をかりるなら「祖国を手ひどく裏切った」のである。

1901年、ベルリンの生まれ。マレーネは芸名で本名はマリーア・マグダレーナといった。その純ドイツ的な命名からもうかがえるように、父母とも軍人の家系で、父はプロシア士官だった。その父と早くに死別、母は近衛軍人と再婚した。

幼いときから芝居が好きで、俳優を志して、21歳のとき、演出家ラインハルト主宰の演劇学校に入学。やがて舞台に立ったが脇役ばかりだった。痩せていて、声がかすれぎみ、とうてい主役は望めない。自分で劇場に見切りをつけて映画に転じた。舞台とちがい、カメラが自由にイメージをつくってくれる。無声映画のころで、声は出さなくてもいい。主演は望めないが、女給や踊り子といった役はまわってくる。そんな状態で6年あまりが過ぎた。

1929年、運命が大きく変わった。ドイツ・ウーファ社のトーキー映画「嘆きの天使」の主役に抜擢された。監督はウーファがハリウッドより招いたジョゼフ・フォン・スタンバーク。

ドイツ・ウーファ社は、菱形でUFAを囲うロゴマークで知られていた。はじまりは第一次世界大戦末期の1917年で、国民の戦意高揚に苦慮していた軍部の大物に、強力なメディアとしての映画が目にとまり、帝国政府とドイツ銀行が巨額の出資をして、またたくまに制作・配給・映画館チェーンを一元化して、世界最初の映画コンツェルンをつくりあげた。

「嘆きの天使」の公開は翌30年のこと。当時のウーファを一手に取りしきっていたプロデューサー、エーリヒ・ポマーが大々的な宣伝をした。「世界同時封切」もその一つだった。配役のうち、男優は当代きっての名優とされていたエミール・ヤニングス、その相手役は無名の踊子あがり、これがまた宣伝になった。ただし、マリーア・マグダレーナではスクリーンがつや消しになる。華やぎのある「マレーネ」が採用された。制作にあたって作成された契約書があるが、出演料はエミール・ヤニングスが20万マルク、マレーネは10分の1の2万マルク。その数字からも無名女優の扱いぶりが見てとれる。

映画の原作は、ハインリヒ・マンの小説『ウンラート教授』で、謹厳実直なギムナジウムの教授をめぐっている。中年すぎてもひとり者。そんな教授が、ふとしたことからキャバレーの踊り子を知り、夢中になって入れあげる。教授もやめ、旅廻りの踊り子について巡業に出る。零落のあげく、もどってきた町で道化役として舞台に立つハメになった。哀れな中年男は顔にドーランをぬられ、不器用な道化として舞台をころげまわる。かつての教え子たちが客席にいて、大笑いしながらヤジをあびせかけ、ニワトリの鳴き声をまねさせた。ようよう楽屋にもどってくると、恋人が若い二枚目と抱き合っていたーー。

いかにも通俗劇だが、奇妙な予告性をおびていた。公開から5年後、ナチス独裁下にユダヤ人を規定した「ニュルンベルク法」が成立、ユダヤ人教授は教職から追放された。昨日までの権威が、物乞いとなり、かつての教え子のなかには、往来で見かけると笑いながら囃し立てる者もいた。強制収容所のエピソードにあるが、名のある学者が所内の余興にドーランをぬられ、ニワトリの鳴きまねをさせられた。

ともあれ大ヒットは、何よりも踊り子ローラ・ローラを演じたマレーネ・ディートリヒの魅力だった。彼女は美しい脚を惜しみなく画面に見せ、独特のしゃがれ声で「頭から足の先まで愛でいっぱい」を歌った。男を破滅に追い込む妖婦を演じ、一躍世界的スターになった。

「西班牙(西班牙)狂想曲」(1935)のディートリヒ。映画評論家・淀川長治曰く「ディートリヒ最高の美しさ」と評した。宿命の女を妖しく演じて、人工美の極致と絶賛された。

「西班牙(西班牙)狂想曲」(1935)のディートリヒ。映画評論家・淀川長治曰く「ディートリヒ最高の美しさ」と評した。宿命の女を妖しく演じて、人工美の極致と絶賛された。

無名女優を見出したのはプロデューサーではなく、監督スタンバークだったといわれている。撮影にかかる前年、ベルリンへ下見にきて、マレーネを知ったそうだ。そのとき、マレーネは27歳だった。既婚の身で、一児の母だった。自分にさして覚えのない「魅力」を説きたてる奇特な監督に対して、困惑したかもしれない。だが、聡明な彼女は、すぐさま映画という「夢の産業」のシステムを了解した。計算と演出と虚構の世界で、自分の演ずべき役を理解し、この上なくみごとに演じた。

「嘆きの天使」でデビューして以来、幾年もたたぬうちにマレーネは、ロラン・バルトのいう「日常の神話」になった。ナチス宣伝相ゲッベルスが、とりわけマレーネ・ディートリヒのドイツ帰還にこだわったのは、「第三帝国」という虚構づくりにいそしんでいた政治的演出家にとって、まさしく帝国の神話性に花をそえる女性であったからだろう。

ウーファは破格の条件で第二作をもちかけたが、スタンバーク=ディートリヒ・コンビはそれを受けず、アメリカ・パラマウント社と契約した。ナチ政権誕生の三年前のことだが、ユダヤ人スタンバークは時代の空気を正確に読みとっていた。

マレーネは以後、「モロッコ」「間諜X27」「上海特急」「ブロンドのヴィーナス」「西班牙狂想曲」などのヒット作を生み出した。ディートリヒのフィルモグラフィーに名作としてのこっているのは、五年あまりのスタンバーク監督の下に生まれた。仕事上の共作が私生活に及んだとき、スタンバーク夫人から訴訟が起こされ、コンビを解消した。

映画「モロッコ」のゲイリー・クーパーとのラブシーンの美しさ、映画「間諜27」のサスペンスなメロドラマの妖艶な美しさ、

映画「モロッコ」のゲイリー・クーパーとのラブシーンの美しさ、映画「間諜27」のサスペンスなメロドラマの妖艶な美しさ、そのいつも「けだるいような女を演じて、類まれな女優だった。

仕事仲間を失って痛手を受けたのは男だった。スタンバークは以後、めぼしい作がない。「巨匠」という肩書きで凡作を作りつづけた。死後に刊行をみた自伝は『天使の青』のタイトルで出た。編集者が「嘆きの天使」(原題「青い天使」)の縁で売ろうとしたせいだろう。スタンバークは「青」を失って、急速に色あせた。

マレーネは変わらなかった。ナチスからくり返し誘いを受けたのはコンビを解いて以後であって、そのつど拒絶し、映画と舞台で活躍をつづけた。いぜんとして「百万ドルの脚」は人々を魅了した。若いころ身につけたダンスが役に立った。いち早く美しい英語を習得した。改良されたマイクロフォンが弱い喉を補ってくれた。澄んだ眸と、謎めいた微笑に加えて、歌と踊りによってブロードウェイの人気者になった。この勇気あるドイツ女性は、時代の分かれ道を正確に判断して、その美しい脚とともにわが道を往った。

新・気まぐれ読書日記 (37) 石山文也 東京煮込み横丁評判記

  • 2016年3月18日 14:08

「不良隠居」を自称する坂崎重盛氏はいまも夜な夜な「ルート253」沿いの横丁に出没しているはずだ。逍遥記は『東京煮込み横丁評判記』として光文社から出版され、同社の知恵の森文庫に収録された。今回、書き下ろしの番外編2作とBS放送の人気番組「酒場放浪記」でおなじみの酒場詩人・吉田類との対談を加えた新刊を中公文庫から出版した。253は、ニ・コ・ミと読み、グツグツ煮えている居酒屋の「煮込み」である。「煮込みの美味い店は、いい居酒屋。そして、煮込みの美味い、いい居酒屋のある町は、愛しい町」という坂崎氏が足で歩いた選りすぐりの煮込み居酒屋を紹介してくれる。いずれも「ルート253」沿いの横丁にある。というか、横丁を結ぶと「ルート253」が浮かび上がる。

坂崎重盛著『東京煮込み横丁評判記』(中公文庫)

坂崎重盛著『東京煮込み横丁評判記』(中公文庫)

不肖・石山、氏(以下、同)に初めてお目にかかったのはこの本で「ホッピーロード」と紹介される浅草の公園本通りの「浩司」か、その先の「正ちゃん」だったか。「そこははっきりしろ」と言われても先に行った店が満員だったのでハシゴしましたから。氏がアロハ風の粋なシャツだったから夏場だったのでしょう。もちろんホッピーで乾杯し、つまみは煮込み、だったはず。だって氏はいちいちウンチクを披露したりする人じゃないから、こちらの記憶も(いつものことだけど)あいまいで。たしか、この通りにあるJRA=日本中央競馬会のウインズ浅草は間違いなく休みだった。観光客でにぎわう観音様の参道とは違い、このあたりは昭和レトロを残す<さびれ感>があって、競馬の開催日以外は閉まっている店もあったから。

冒頭に紹介した前作を<道案内>にして浅草橋、阿佐ヶ谷、小岩、新橋、立石、赤羽、北千住、町屋、三ノ輪と続く(もっとあるが)「ルート253」を巡ったという方も多かろうから、今回は「番外編」を紹介する。

最初は「いつも素顔の巣鴨の古典居酒屋に最敬礼」。ところが巣鴨に直行するかと思うと「悲しいことに、人は慣れる。最初のころは、あんなにドキドキ心ときめいていたのに。そのうち、なにごともなかったような平気な顔をして、やり過ごす。たとえば街に対しても」と書き出して、神楽坂の思い出から。飯田橋に事務所をもって、隣町の神楽坂の路地を歩きはじめたときは、ほんとうに嬉しかった。三十年以上も前のこと。石畳の入りくんだ路地、料亭の黒塀、暗い入口の朽ちかけた木造アパート・・・。普段は、これといった思い入れもなく、ただ人と会ったり、用事で行き来したりしているのに、最近はテレビの町歩き番組などで、この神楽坂が脚光を浴び観光地風にとりあげられたりされているのを見ると(なにをいまさらながら)などと、ぷいと横向く気分になる。スレッカラシになっているのだ。この町に対して。初心を忘れ、ワケ知りの半可通というやつ。慣れてしまったのだ。

自分に喝!初心に戻るべし!というわけで、初心の町へ行く。勝手知ったる安心と慢心のホームではなく、未知の初心と無心のアウェ―の町へ行こう。巣鴨だ。

「・・・例によってなかなか煮込みの話に入らない。この本は煮込みのガイドブック、といった親切本ではないので、ストレートに煮込みや煮込みの旨い店に直行、とはならないのだ。人生も、散歩も、文章も、寄り道しなくっちゃ。毒蛇は急がないし、クネクネ蛇行する」。これも氏の文章から拝借した。

巣鴨といえば「とげぬき地蔵」の高岩寺、ひょうたん形のもなかやどら焼きが人気の「千成もなか本舗」、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三匹のお猿さんの石像のある庚申堂などを寄り道しながら駅方面に戻る。「目指す店は巣鴨駅からスキップ踏んで一、二分。スキップができない人は歩いても三分とかからない」とようやく最初の老舗居酒屋にたどり着く。こうなるとすっかり氏のペース、そこらあたりがなにより面白いのだけれど。同行は、ブラジルから一時帰国中の酒場ライターに「色白の美女で、呑ん兵衛文化人たちのマドンナという雑誌編集長」、「とてもキュート&エレガンスな出版社編集者の女性」と氏としては最上級の表現が続く。「大人の飲み会、巣鴨の夜はゆったり、ほんわか、和気あいあい、オマヌケ話と、オトナのお色気話でふけてゆくのでありました」。

番外編もうひとつは「古町・麻布十番の老舗居酒屋と納得の泡酒」。ここでもそば屋の話、麻布十番温泉の思い出などをたっぷり。ジェラートの店で店員のおすすめをお腹に収めて・・・。あっちこっちと歩き回ったあとようやく一軒目、付き合うときりがなさそうだから気になった泡酒とは、氏の想像した<枝から落ちたぶどうから作った?>ではなくグラスになみなみと注いでくれることからきた「こぼれスパークリング」だそうで。

シメはトレードマークのハンチング帽でも知られる酒場詩人・吉田類との対談。

吉田:一休なんかそうだけど「痴にして聖」な人間を、江戸時代は生かしたわけですよね。いまの時代も「痴にして聖」なる存在を否定しちゃいかんのですよ。否定したら世の中がきな臭くなる。そうなったら、いちばん先に粛清されるのは僕たちですからね。

坂崎:ちょっときれいごとを言いますけど、われわれはカナリアなんですよ。

吉田:炭鉱で空気が薄かったり、ガスが出てたりしないかどうか確かめるための、あれですか?

坂崎:そうそう。僕たちは世の中の空気が悪くなったら最初に死んじゃうテスターなんです。われわれみたいな道楽人間がなんとなく生きているうちは、まだ世の中大丈夫。

吉田:僕たちが否定されるような世の中は、真っ暗闇に落ちていきます。

坂崎:全面的に賛成です!吟遊詩人の類さん、最近は吟遊哲学者っぽくなってきたなあ。

そういえばつい先日、私、<酒場詩人風>の黒ハンチング、黒のタートルネックセーターに同色のブレザーという服装で京都の居酒屋で飲んでいると隣の席のおじさんから「あなたテレビに出ている人?」と声をかけられた。「いやいや、詩人なんかじゃありませんから」と、否定したつもりだったのに???の反応だったが、「人違いですよ」だけでよかったのか。

ではまた