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新・気まぐれ読書日記 (18) 石山文也 偶然の装丁家

  • 2014年10月21日 17:44

書店で矢萩多門の『偶然の装丁家』(晶文社)を手に取ったのはまったくの偶然だった。おっと、題名と同じく<偶然>の2文字を使ってしまったけれども、彼が人気の装丁家で多くの作品を量産している人物とは知らなかったし、他にも多くが並ぶ新刊コーナーでこの一冊を手にしたのはたまたま朝日新聞で読んだ内澤旬子の書評が頭の片隅に残っていたからかもしれない。帯の谷川俊太郎の推薦文は、そのあとで目に入ったし、このシリーズが「就職しないで生きるには21」の一冊だったのは小さな活字だったので気付かなかった。就職活動もいよいよ最終の段階だから、「就職しないという選択」を考える人たちの背中を押すというか、生き方の参考に選ばれることにもなるのだろうか。

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ご覧のように青を基調にした表紙は、赤い本体がのぞくように1センチほど短くしたのが<遊び心>なのだろう。裏帯の「学校に行かなかった、インドで暮らした、本をつくっている、というのは多くの人たちにとって、特別で個性的な人生に映るかもしれないけれど、それらは単にいまの状況をつくり出すジグソーパズルの一ピースしかないのです。ぼくは、就職してもしなくても、どんな仕事をしていても、目の前の仕事を真剣に楽しみ、ほがらかに生きていく方法は無限にあると信じています」からは、いつのまにか装丁家になっていたという著者のこれまでの人生のアウトラインが伺える。

1980年、横浜市生まれ。中学1年で学校をやめ、ペンによる細密画を書きはじめた。95年から、南インドと日本を半年ごとに往復して帰国のたびに個展を開いて生活資金を稼いだ。本づくりの仕事にかかわるようになったのは2002年からで、これまでに350冊を手がけるとある。中島岳志や森まゆみをはじめ、小説、学術書、ビジネス書など幅広く「本の貌」を手がける、とあったので書棚の何冊かを引っぱり出したが最近作のようで違っていた。

初めて外国に行ったのは1990年9歳の時で両親とのネパール旅行だった。日本の民話やわらべ歌を題材にした作品を手がける木版画家の父親が、一カ月近くも出かけたインド旅行のみやげ話を、あきるほど聞かされていた母親がまず「次は自分も」と貯金を始め、ようやく2年後に旅が一家ぐるみの旅が実現した。母親はただ旅行するだけではもったいない、とネパールやチベットの雑貨や服を買い込み、実家のタバコ屋の一角に並べ、売った金で次の旅の資金を作った。初めてのインドは小学校5年生の時だった。マドラス(現・チェンナイ)を中心に南インドの東側を3週間かけて南下した。ヒマラヤに抱かれた小国ネパールと、多くの民族を抱える大国インドとはスケールがまったく違った。毎日何かしらの事件が起き、予定通りにコトは進まず、想像以上のトラブルに振り回された。

南インドの先端、コヴァーラム・ビーチでは亀をめぐる珍事件を目撃した。ビーチはハイシーズンで、欧米からの観光客も多く、お土産やフルーツなどを頭の上に乗せた行商のおばちゃんが代わる代わるやってきた。そのなかのひとりが大きな海ガメを乗せていて「亀を買わんかね」と観光客や店舗などに声をかけていたが誰も買おうとはしない。すると突然、大声を張り上げて人を集めだした。「さあさあ、亀を海に帰したかったら、お金をちょうだい!」。観光客だけでなく他の行商やレストランの店員も野次馬に加わってあっという間に人垣ができた。呆れて笑う若者たち、亀が可哀相だと怒りだす金髪マダム、騒ぎを収めようと警官まで出動する騒ぎになった。そのとき、眼鏡をかけたフランス人女性が「みんなで少しずつお金を出しあって、亀を買い上げて海に帰してあげましょう」と提案した。このおばあちゃん、待ってましたとばかりに法外な値段を要求する。閉口する観光客たち。それでも何人かが財布を開きはじめたころ、横で見ていた背の高い白人青年が、がばっと亀を奪い、波打ち際に全力疾走。何人かの外国人がそれに続く。あちこちから、拍手や口笛、よくやった!という歓声が飛ぶ。亀は海に帰され、めでたしめでたしで一件落着。呆然とするおばちゃんは「亀を盗られた」と警官に泣いて訴えるが、そのうちいなくなった。果たしておばちゃんから亀を取り上げ海に逃がすのは正しいことだったのか。そもそも亀を買うのはいけないことだったのか。生活のために1ルピーでも多くの金を稼ごうとするのは、手を出して単純にお金をせびる物乞いたちより、おばちゃんは一枚上手ではなかったか。考えれば考えるほど答えは出ず、正解は思いつかなかった。そんなインド体験もあってみんなとは違う見方をするあまのじゃくな子どもになっていった。

中学に行かなくなってひきこもる日々のなかで「インドに行きたい。暮らしたい」という思いが再びわいてきた。そんなときに祖父からの資金援助もあって家族ぐるみの移住が実現した。とはいっても長期滞在の繰り返しで19歳までの5年間を南インドのプッタパルティという小さな町で暮らした。町の手書き地図作り、インド映画、古典音楽、ビザの更新には帰国しなければならなかったがあるとき横浜で出会ったインドの民俗画、ミティラー画では有名な画家の展覧会に引き込まれてしまう。それからは暇さえあれば絵に没頭し、横浜での何度かの個展を経て銀座の有名画廊でも大成功を収めたことで画家のほうは最初の「インドと日本を行ったり来たりしながら」につながる。

初めての本作りは2002年の対談集『インド・まるごと多聞典』(春風社)で、最後は小学校の恩師との長い対談でしめた。この装丁を手がけたのが装丁家としての初仕事でこの時はまだ画家を名乗っていたが春風社が安原顕(あきら)の2冊を出版することになって装丁の依頼が舞い込み思いがけない大仕事となった。<名指し>で注文が来たのが当時京都大学大学院でアジアの政治思想を研究していた中島岳志の出世作となった『中村屋のボース』(白水社)で、一度はボツになった顔を大きくトリミングしたラフ案が採用になった。アジア・太平洋賞、大仏次郎論壇賞をダブル受賞し、書評も多く出て評伝・ノンフィクションの枠を超えてベストセラーになった。

この本では一冊の本がどのようにしてできて行くのかがくわしく紹介されている。とくに装丁は「買切り・売り切り」の仕事、つまり出版社にデザインを提供したらその対価に原稿料が払われる定額制だからたとえ装丁した本がベストセラーになり何万部売れても金一封やボーナスが出たりすることはない。それが著者に支払われる印税とは違うが手がけた本が有名になり、書店で多くの人の目に触れることで新しい仕事につながっていく。そこは編集者に似ていて編集者のテンションが低ければおざなりな本しかできないけれども装丁家の仕事としては本としてそのまま残る。だからどんな編集者であったとしてもそのときできうる限りの可能性をすべて試し、限られた時間とコストのなかで精一杯つくる。それがサービス業としての装丁家の役割ではないかと思っているとしてインドで手作り絵本を手がけるタラ・ブックスの現場を紹介する。いい本が売れないという言い訳がまかり通る日本の出版界とは対極にありながら、彼らの手作り本は年間わずか1万部ほどにもかかわらず、海外のブックフェアに出品し、国際的な絵本賞をたくさん受賞し、世界中では何万部から十何万部が売れている。社員みんながほがらかに本作りを楽しんでいるのが何より魅力的であるという。

個展やトークイベントでは「インド人はカレーが常食なのですか」、「インドに行ったら何か得るものがありますか」から始まって「就職しないでも生きて行ける技術みたいなものを教えてください」などさまざまな質問が浴びせられるという。学校をやめて、インドへ行って、絵を描けば、装丁家になれる・・・はずはないし、著者自身も「就職しないで生きてほしい」とはもちろん思っていない。他にも色々あってヒンズー教徒になったり、結婚し一児の父親になったりして現在は家族で京都市左京区で暮らすが、南インドの中心都市バンガロールにも拠点があり、装丁、ペン画、イベント企画など多岐にわたる活動を繰り広げている。

「ふつうに学校に行き、中小企業に就職し、上司に怒られ、日々の通勤電車にぐったりする人生だったかもしれない。でもそんなとき、不意に聞こえた音楽や、だれかのつぶやき、映画のワンシーン、街角の一杯のコーヒー、ちょっとした何かが、からだを少しだけ楽にしてくれる。この本もそんな風に読んでもらえたら嬉しい」という。読み終わって「そうか、たしかにそうだね、人生は偶然の結果だからね」とカバーを外したら奇妙な違和感に気付いた。何とカバーが3枚もあるではないか。

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「まさか、そういう装丁なの?」と念のために購入した京都の書店に確認の電話をしたら、少し待たされたあとで「店頭在庫を調べてみましたがカバーはすべて一枚だけです」という返事。「じゃあ私が買ったのだけが<偶然の装丁>ですか」と言いそうになったのをぐっと押さえて「そうでしょうね、お手数をかけました」とだけ伝えて電話を切った。これまでの読書人生でも初の体験だったが、店員さんには到底、信じてもらえそうもないし「偶然の<おまけ>みたいなものかいな」とつぶやいたのでありました。
ではまた

池内 紀の旅みやげ(46)豊前のグランド・キャニオンー福岡県香春町

  • 2014年10月17日 12:47

無人駅でおりて駅前広場へ出たとたん、足がとまった。正面の高みに奇妙なものがあって、しばらくまじまじとながめていた。判断がつかなかったからである。岸壁が削(そ)いだようにのびていて、一カ所がパックリ口をあけ、そこだけが白い。一瞬、アメリカ・アリゾナ州のグランド・キャニオンを連想した。写真で見ただけだが、似たような形のところがあった。ただし、グランド・キャニオンは渓谷で、水面から突き出ていたと思う。こちらの岸壁は石の砦のように山上に乗っていた。
福岡県田川郡香春町(かわらまち)。小倉から日田彦山線で約三十分。古くからひらけていて、万葉集にもうたわれている。「豊国の香春は吾家(わぎへ) 紐児(ひものこ)にい交(つが)り居れば香春は吾家」(巻九、一七六七)。昔は豊前国(ぶぜんのくに)香春である。岩山を香春岳といって、麓に鏡山(かがみやま)という地名がのこっている。万葉集にはまた「河内王を豊前国鏡山に葬りし時手持女王の作れる歌三首」が収録されており、河内王という貴人が当地に葬られ、ゆかりに女性が歌にした。その一つ。「王(おおかみ)の親魂(むつたま)会へや豊国の鏡の山を宮と定むる」
そんなことを本で知って、奈良の飛鳥(あすか)のような万葉振りの土地を想像してやってきたのに、和製グランド・キャニオンと出くわすとは思わなかった。

福岡県のグランド・キャニオン 香春町の香春岳の山容はなかなかの迫力です。

福岡県のグランド・キャニオン 香春町の香春岳の山容はなかなかの迫力です。

地図によると香春岳は一の岳、二の岳、三の岳と岩峰がつらなっていて、町から見えるのは一の岳のようだ。全山が石灰質でできており、パックリと口をあけたのが砕石場で、よく見ると中腹に塔のようなものがあって、砕石を運ぶベルトコンベアが川沿いに向けてのびている。標高は五〇〇メートルあまりだが、異彩を放つ岩山である。古人は特別の山と考え、麓に貴人を葬ったのだろう。
「鏡山」のほか、近くには「勾金(まがりがね)」という地名もあって、鏡山ー勾金ー香春とくると、早くに鉱石の採掘がはじまり、工人の集落ができていったのではあるまいか。鏡山には神功皇后が新羅に出兵するとき、必勝を祈願した丘があって、神社が祀られている。近くに銅山の抗口にあたる「間歩(まぶ)」が残されており、その銅で宇佐神宮の神鏡を鋳造したところから「神間歩(かんまぶ)」と呼ばれているーー
タクシーでひと廻りしたいのだが、無人駅の駅前に人影がなく、タクシーの看板もない。仕方がないので川を渡って、古い通りに入った。
「従是南豊後日田道」
空地のわきの石柱によって、この道が豊後と結ぶ街道だったことがわかる。少し行くと赤レンガの塀の前に「御茶屋香春藩庁跡」の石柱が立っていた。江戸時代は小倉藩に属し、藩主の領内巡見のための宿泊所として、御茶屋があった。幕末の混乱期に、そこが小倉藩の藩庁をつとめたことから、こんな二重の命名になったらしい。
さらに行くと、ちょっとした更地がひらけ、中央の奥まったところに三段式の石柱がある。とにかく石柱の多いところである。

田川郡役所跡

香春町役場跡

明治末年に田川郡の郡役所が置かれ、郡制廃止ののちに町役場として使われていた。さぞかし古雅ないい建物だったと思うが、取り壊して更地にした。山を背にしており、公園にするとステキな憩いの場になると思うが、町当局は業者に売り払ったようだ。大きなけばけばしい不動産広告が立ててあった。
「旧香春町役場跡地 宅地分譲開始!」石柱のある小さな一角だけをのこして、全十区画、「プラチナタウン」という。山おろしの風にまっ赤な「分譲中」の旗が音をたててはためいていた。
一つ一つはっきり覚えているのは、ここにくるまで誰とも会わず、まるきり人の姿を見なかったせいである。町の通りには「肉のまつかわ」「仕出し 鉢盛」「長谷川療術院」「鮮魚 刺身」「宝石 時計」……古びた看板がつづくだけで、どこもシャッターが下り、カーテンが引きまわしてある。シャッター自体が錆つき、カーテンが陽にやけて黄ばんでいた。ふつうどんなにさびれた街でも、美容院と理髪店は営業しているものだが、理髪店のガラス戸に手書きの「おわび」が貼ってあった。病気療養のため店を閉じるという。最後の砦が落ちたぐあいだ。ひとけのない通りに午後の陽ざしがさしかけ、建物の影がギザギザ模様をえがいていて、そこをノラ猫がゆっくり歩いていく。
まるで白昼夢のようだった。辺りは無人の町のように静まり返っている。そのうち軽トラが一台走ってきて、走り去った。

福岡県の香春町。かつてあった光願寺の庭にいにしえの記憶を抱え込んだ大楠の木が頑張っていた。

福岡県の香春町。かつてあった光願寺の庭にいにしえの記憶を抱え込んだ大楠の木が頑張っていた。

かつて山の背に光願寺という寺があった。キリスト教禁令のとき、その寺の庭で宗門改めの踏絵が行なわれたという。豪雨で山が崩れて、廃寺になったが、山門前の樟(くす)だけがのこっていた。幹は空洞だが、急斜面にしっかり根を張り、四方に枝をのばしている。樟の小花は白っぽい黄色で美しい。秋に実をつけて、樟脳(しょうのう)のもとになる。無人のキャニオンを見張っている番人のようで、見上げていると、なにやらいとしい気がしてくるのだった。

【今回のアクセス:香春岳は登れるのだろうが、とっつきの道がわからなかった】

新・気まぐれ読書日記 (17) 石山文也 石の虚塔

  • 2014年10月14日 19:04

わが読書スタイルを、前回うっかり<寝ながら読書>と紹介したら妙に受けてしまった。そんなことより紹介した本のことを聞きたかったのに。今さら、ではあるが「資料として読む本は机に座って!それ以外は寝る前に」と言い直しておく。とはいえ<寝ながら本>がほとんどだから、眠くなると読みかけのところにしおりを挟んで「続きはまた」となるのだが、珍しく目が冴えて夜更けまでかけて一気に読了した一冊だ。わが国の考古学会にかってない大激震を起こした14年前の「旧石器発掘捏造事件」を“再発掘”する上原善広のノンフィクション『石の虚塔』(新潮社)である。

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<寝ながら読書>を蒸し返したのは、細分化した考古学の基本となるのは地下に<眠る>遺構や遺物の発掘から始まることからの連想だからお許しいただきたい。なかでも歴史伝承のまったくない縄文時代なら土器や住居跡などがそこに古代人の住んでいた証拠になる。さらにそれ以前の石器時代なら、戦後間もなく無名の考古学マニアだった相澤忠洋によって発見された群馬県の岩宿遺跡のように石器の発見がそのスタートとなる。その地に初めて「人の歴史」が印されるとともに誰が石器を発見したのかが「考古学界の歴史」となる。表紙を飾る人物は左が相澤、石器を手に持っているのが終生の師であり盟友となって旧石器研究をリードすることで「旧石器の神様」といわれた東北大学の芹沢長介である。

旧石器研究はさらに時代を遡る「人の歴史」を探ることでその発展が試され、マスコミなどからも新発見が期待される。そこに遺跡捏造に手を染めた人物が登場する素地があった。それが「神の手」と持ち上げられた人物、藤村新一である。かねてから考古学に関心があった私自身も、平成12年(2000)11月5日(日曜日)の毎日新聞朝刊の「旧石器捏造事件」の大スクープには驚いた。まさかという思いもあったし、長期間にわたって専門の研究者たちがなぜ騙され続けたのか。以来、関連報道や本が出るたびに目を通すようにしてきたから友人たちからも旧石器ウォッチャーぶりをからかわれたこともある。出版前に行きつけの書店に予約しておいたのは「事件のその後」がどうなったのかという好奇心もあったからでもある。

著者の上原は、事件後に妻子と別れ、再婚することで名前を替えて福島県内に住んでいた「藤村」を探し出すとアポなしで訪問する。東日本大震災の起こる1年も前だった。自宅には電話もなかったし、あったところですぐに切られただろうからそうするしかなかった。ようやく自宅から出てきた藤村は身長も180センチと大柄で事件当時より体重も増えて100キロを超す巨体でおまけに丸坊主だった。もっとも名前は変わっているから、元・藤村だがそのまま藤村で登場する。何度かの訪問で心を許してくれようやく部屋に上げてもらうようになるが、大量の薬でかろうじて日常生活を続ける藤村はもはや一種、穴ぐらの中で咆哮する<怪物>で、肝心のところは「忘れた。思い出せない」で押し通す。上原は考古学にはズブの素人だった藤村が、どのようにして芹沢たちに認められ、結果的にここに至る<怪物>に育っていったのかという彼の人生に迫る長い道程を探る旅に出る。それにとどまらず旧石器の虜になった研究者や考古マニアの一人ひとりにまでも、である。

原点は相澤が発見した岩宿遺跡にあった。昭和24年7月、行商途中の相澤は坂道の切り通しに露出した関東ローム層という赤土の下の粘土層から黒曜石の矢じりを見つけたことがきっかけになった。赤土は主に富士山の噴火によって積もった火山灰の痕跡で、鹿児島湾ができるきっかけになった姶良(あいら)火山の噴火による火山灰も含まれていた。一連の噴火の火山灰で草木や樹木も枯れたから、列島に人間が住み始めたのは火山活動が終息したせいぜい1万年前からであると考えられていた。相澤は伝手をたどって当時は明治大学の学生だった芹沢に石器を見てもらう。それまでの独自調査で発見した石器コレクションは芹沢によって考古学研究室の助教授だった師の杉原荘介に報告してようやく正式な発掘調査が行われることになった。

しかしこの手柄は結果的には師の杉原のものとなる。杉原との意見の相違もあって明治を追われた形となった芹沢は東北大に移り、仙台の地から旧石器、なかでも前期旧石器の存在を証明しようと東北大の門下生をはじめ、在野のアマチュア考古学研究者をも次々に登用しながら猛烈な発掘調査を行っていく。しかし前期旧石器は、もはやホモ・サピエンス=新人の文化ではなく、未知の人類である「原人」の文化となるわけで<日本創世>という究極の“神の領域”に足を踏み入れることになった。こうした学界あげての狂騒の中で<怪物・藤村>が発掘現場を手伝うようになる。藤村の行くところには必ずといっていいほど旧石器の大発見が続く。「出たどーっ」の声で調査員が集まると藤村は誇らしそうに石器を<掘り出して>見せ、やがてマスコミからも「神の手」とか「ゴッド・ハンド」と持ち上げられる。多くの遺跡捏造は誰もが気付かないまま、あるいは気付こうとしないまま平成12年の毎日新聞の「旧石器捏造事件」の大スクープにつながっていく。

しかし上原は取材の旅を相澤だけでなく、多くの考古学者や考古マニアに至るまでこれでもかというほど掘り下げていく。出生からの人生、生活苦のなかで彼らを支えてくれた妻や支援者たち。そんなことまでもと思うところまで取材が続くのは、まさしく上原のブログ「全身ノンフィクション作家」を地で行くようでもある。

最終章「神々の黄昏」で相澤忠洋になろうとした藤村が再び登場する。藤村は捏造発覚から1年後、精神科への入院中に右手の人差指と中指をホームセンターで購入したナタで切断していたという衝撃の事実が明かされる。「人差指は、オレのこと慕ってきてくれた中高生、大学の考古ボーイたちに、中指は芹沢先生はじめ考古学の先生たちに詫びるため・・・。この手が<ゴッド・ハンド>とか<神の手>と呼ばれたんですよお。切ってしまわないとダメだったんですよお」という叫びは刑事事件として罰せられなかった藤村なりの自己処罰だったのだろうが精神の闇をかかえた哀れさが心を打つ。

近くにいて藤村の犯行を見抜けなかった考古学者は、発掘捏造ですべてが「幻の遺跡」になったことを「遺跡というものはね、発見した人の人生、そのものが出るものなんだ。相澤さんは学者にはない純粋な目と不屈の精神で岩宿を発見した。藤村のは全てがニセモノの遺跡だった。それを近くにいて見抜けなかった我々はまさに『石の虚塔』にいたんだ」という証言を紹介し、これが題名になった。
上原は取材の長い旅をこう結ぶ。

「前期旧石器研究は、芹沢が活躍した1970年代へと戻り、一から組み立てていくことになった。それはバベルの塔を築くようなものかもしれない。入念に選んだ場所に賭け、そこに辛苦の果てに石を積み上げ、登りつめたはずが、何かが間違っているとわかると、また一から場所を選んで、そこに石を積み上げ、登り直す。自ら石を選び、築き上げた石の塔の頂きに登り詰めた者は、きっとそこにいまだかって誰も見たことのない、素晴らしい神々の世界を見ることになるだろう。そうして一分の隙もなく完璧に築かれた石の塔の荘厳さは、多くの人々を感動させることになるだろう」。

「石の虚塔」、たしかにそうかもしれないなあと頷きながら、登場した旧石器に取りつかれた人々の人生をあらためて思い浮かべている。                                                                   ではまた

書斎の漂着本 (52)  蚤野久蔵 実験漂流記  

  • 2014年10月2日 15:29

歴史ライター・蚤野久蔵として原稿を書くようになって早くも3年目に突入した。突入はちょっとオーバーかもしれないが、連日のように「機動隊突入!」などという新聞紙面を経験した世代にはおなじみの表現なのでつい出てしまった。ところでこの『Web遊歩人』は文字通りWebで発信する<バーチャル文芸誌>だから蚤野久蔵というのも筆名というより<バーチャル・キャラクター>と呼ぶほうがぴったりかもしれない。こう書き出したのはライター本人=私が永くやってきた海を漕ぐシーカヤックで遭難してまさに「九死に一生」を得た漂流体験をきっかけに収集を始めた漂流・漂着本ジャンルを取り上げようと思うからだ。まずは1954年(昭和29年)に出版されたアラン・ボンバールの『実験漂流記』(白水社)で、アルプスやヒマラヤでの登攀・遠征記録など多くを手がけたフランス文学者の近藤等の翻訳である。
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著者のボンバールは英仏海峡横断競泳に参加するなど水泳や海が好きだったこともあってドーバー海峡に面するフランス北部の港町ブローニュ・シュール・メールの病院で医師としての第一歩を踏み出した。病院に担ぎ込まれる海難事故の遭難者の治療に当たりながらその4分の一は救助されたにもかかわらず、苦しみながら死亡してしまう現実を体験する。これを何とか改善できないかと自らを実験台として漂流航海を行うことを考えつく。選んだのは全長わずか4.65メートルのゴムボートで、表紙イラストにその「異端者号」があしらわれている。積み込むのは最低限の機材、非常用の食糧、薬剤だけで、釣った魚を絞って水分を確保し、プランクトンからビタミンCを補給する。さらに少量の海水を飲み続けるという「海水は絶対に飲むな」というそれまでの常識とはまったく違ったものだった。

DSCN1041写真は出発前にモナコ海洋博物館でボンバールが手に持つのが魚の圧搾器と絞り出した「魚のジュース」である。釣り上げたマグロやハタなどを材料にすることを集まった新聞記者に説明したが、誰も気味悪がって味見しようとはしなかったらしい。魚が獲れない日には網でプランクトンを採取してビタミンCを確保し、最小限の海水を飲むことで渇きをいやす計画だったが緊急用の飲料水も積み込んだ。海での遭難者を実際に治療した経験から難船後に水を飲めなければ人間は10日ほどで死に至る。ところが救助されても体内の水分は容易には元に戻らずに死んでしまうケースが多かった。では死の原因は渇きだけだったかというと遭難という「絶望」が主な原因だったと推理した。実験航海の主目的は自分を実験台にした生理的な条件を調べる生存実験ではあったが、漂流がもたらす心理面の影響も実体験することでもあった。

試験航海は昭和27年(1952)5月25日にモナコを出港、地中海の大西洋側出口のモロッコのタンジェ―(タンジール)間で行われた。乗り組んだのはパナマ国籍のヨットマン、ジャック・パーマーで、自分のヨットで、というパーマーの主張は漂流海難者と同じ環境で実験することでどうにか納得してもらった。タンジェで意見が合わなかったパーマーと別れると単独で大西洋に向けて船出した。8月13日早朝に港を出たものの地中海へ流れ込む潮流を帆に受けた風で乗り切ろうとするが風がやむなど悪戦苦闘し、翌日にどうにか大西洋へ。最初に寄港したのは約300キロ先のカサブランカだった。ここで4日間滞在して24日に出港し、11日後の9月3日にカナリア諸島に到着した。

カナリア諸島の中心ラスパルマスのフランス領事館には自宅の妻から長女誕生の電報が届いていた。空路パリへ引き返したりして再び実験航海に出たのは10月19日である。こんどはいよいよ大西洋横断で、時計回りに大きく回る北赤道海流に乗り、北東からの貿易風を帆に受けての航海する計画だった。北赤道海流の真ん中には海藻が繁茂する死のサルガス(=サルガッソ―)海があり南にはポルトガルとアフリカのコンゴから吹き付ける強い貿易風がぶつかる船乗りから恐れられる「黒壺」があった。その間をうまくたどるためには安定した海流と風が必要だったがそうはいかない。

「貿易風はいよいよつのってきた。やがて時化(しけ)となった。ある時は波頭に運び上げると思えば、またある時は波の谷底に沈ませながら、波頭はぼくを風から庇護し、あるいは風にさらした。(中略)波が真上から砕け散り、水より上に浮いているのは強力な両側にゴム・フロートだけで、他はすっかり水の中だ。ぼくには絶望する権利も、時間の余裕もない。ほとんど本能的に、まず両手で、水をかき出し、次に帽子でくみ出した」

ボートから休みなく水をくみ出す苦闘を2時間も強いられたものの何とか苦境を脱した。積んでいた器具類は防水袋の中に入れてあったがマッチは濡れてしまった。別の日には突風で帆が裂け、代わりの新品の帆が半時間もしないうちに吹き飛ばされてなくなったから裂けた帆を半日がかりで修繕した。逆に好天が続くとギラギラと照りつける直射日光を避けるすべもなく苦しんだ。そのなかで正午には六分儀を使った天測、午後2時からは血圧、体温、皮膚、粘膜検査、水温、気温および大気現象や気象観測で苦痛を紛らわせた。次に肉体的、精神的な自覚検査をやり、ラジオで音楽を聞き読書や翻訳を楽しんだ。日が陰ると再び医学検査にとりかかり、尿などの排泄量や筋肉の強度、釣り上げた魚の種類や量、同じように採集したプランクトンの活用法、目に止まった鳥の種類を記録した。

サメやシイラにも常に付きまとわれた。中には4、5メートルの大ザメもいて油断ならない。時化にはその後も何度も襲われた。何よりも孤独は体にこたえた。精神的にもかなり参った12月10日、偶然、貨物船アラカカ号に遭遇、乗船して食事をご馳走になり時計の時刻を修正しラジオ用の電池をもらう。船長からは航海を切り上げてはどうかと言われたがそれを断って再び航海を続けて同22日にアンティル諸島、バルバドス島の海岸に漂着した。地中海での航海を入れれば計113日。カナリア諸島からでも65日、体重は25キロも痩せ、出発時の赤血球500万から半分になるなどひどい貧血症になった。皮膚には発疹ができ体全体に広がりふやけた足の爪はすべて落ち、筋力も視力も低下した。嵐の中でもう駄目だと思い2回も遺書を書いた。

大西洋上で29歳になったボンバールはこの実験航海で「伝説の海難者たちよ、死を急ぐ犠牲者たちよ、諸君は海のために死んだのではない。諸君は飢えのために死んだのでもない。また、渇きのために死んだのではない。諸君は鷗(カモメ)の鳴き声を聞きながら、恐怖のために死んだのである」という名文句を残した。

冒頭、ライター本人=私がシーカヤックで遭難してまさに「九死に一生」を得た漂流体験をきっかけに、と書いた。それは忘れもしない昭和62年(1987)8月16日、九州の壱岐水道でのできごとである。対馬東海岸を単独で漕破して気を良くした私はフェリーで壱岐に渡り、郷ノ浦港から南海岸を石田港に向かった。途中、突然の高波に転覆して漂流したのである。この日は各家にお迎えした先祖の霊を送る日で一斉休漁だった。9時間後に潮が変わって運よく海岸に打ち上げられたが悪友からは「未だ日本記録破られず」といわれる。真夏とはいえ体温が奪われて本当に危なかった。まさに余談であるが、なんでこんな本を紹介するのかということにまつわるものとお許しいただきたい。