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書斎の漂着本 (49)  蚤野久蔵 負るも愉し1 

  • 2014年9月15日 23:28

活動弁士から漫談家、俳優、作家、はたまた「座談・対談の名手」としてラジオやテレビなど多方面で活躍、わが国における<マルチタレント>のはしりだった徳川夢声の戦中日記『負るも愉し』である。

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若い頃から老人めいた雰囲気があり、40代で「夢声老」、50代からは「夢声翁」と呼ばれた。『蚤の目大歴史366日』でもトーキー出現による活動弁士受難時代や『文藝春秋』が発売前から予約が殺到したサトウ・ハチロー=詩人・作詞家、辰野隆=東大教授・フランス文学者と夢声老との宮中参内記『天皇陛下大いに笑ふ』を紹介した。手に入れたのは連載が終わってからだったが著者名を見たとたん「おお、夢声老だ!」と懐かしくて手にした。

「戦中日記」と紹介したのは連載時に仕入れた<あと知識>であるが「はしがき」に出版までのいきさつが紹介されていて、これにすっかり引き込まれてしまった。

最初にこの原稿を書いた様子を昭和21年1月8日の日記としてこう書く。「練炭ヲオコシテ二階ヘタテコモリ『負ルモ愉シ』四百五十枚ホド書キ上ル。昨夜アタリヨリ風邪ヲヒキタリ」から、もとになった日記はカタカナ交じりだったことがわかる。出版することに対して当時は大変な意気込みだったのが伺える。この四百五十枚を檜(ひのき)書房編集部員ニワトリ君に渡すと、数日後に彼はイソイソと現れて「拝見しましたが大変に結構です。なんなら、もっと長くなっても尚結構なのですが」と言った。

そこで私はまたも百五十枚ばかり書いて追加した。というと、私が馬鹿に速筆のようだが、実は日記に少々ばかり手を入れて原稿用紙に引き写すだけだから、何百枚でもワケはない。「友人に読ませましたら、こいつは翻訳してアメリカで売り出したらベストセラーになるかもしれん。ただ、俳句の翻訳が厄介だけど、ひとつやってみるか、そう言っていました」と次に来たときニワトリ君が報告した。この“ニワトリ”というのは、彼が話しながら時々、鶏が水を飲むように、天井を向く癖があるので、私たちがつけたあだ名だ。

――アメリカでベストセラー!こいつは悪くない話。一体全体、一般日本人はどういう感じでこの戦争をやったのか、きっと興味あることだろうと想像された。「そうなると僕たちは成金ですぞ。いやまったく愉快ですなァ」とニワトリ君は連続的に天井を見るのであった。戦後の出版ブームでどんな内容の本でも、出しさえすれば最低一万部は羽が生えたように売れていった。檜書房は横浜の紙問屋が「これで出版界の“檜舞台”に出る」という縁起を担いでこの本の出版だけのために作られた。紙問屋だから紙はいくらでもある。その紙に何か印刷して出しさえすれば、どんどん売れてどんどん儲かる。ニワトリ君はじめ檜書房の人たちはそう思ってホクホクしていたのである。

本書の内容は太平洋戦争が始まった「宣戦布告」の日、昭和16年12月8日から「降伏の玉音放送」の日、20年8月15日までの日記を抜き出したもので、当初は“俳體(体)日誌”という副題が付けてあった。“敗退”の駄洒落も含まれていて、やたらと俳句が乗っけてある日記だ。俳句を始めてから今まで20年ばかりになるが、この間に私が発作的に句作したのはこの5年間がもっとも多量である。殊に空襲が激化してからますますその傾向がつのっていった。警戒警報、空襲警報、警報解除のサイレン、これが鳴り止む、とたんに俳句が作りたくなる。

――俳句とは、閑人か老人のやることだと世間一般ではそういう。私もそんなものかと半分はそう思っていた。見る人が見ると凡(およ)そ俳句なんてものにはなっていないかもしれないが、これらの句こそもっとも純粋なモノだろうと思う。人に見せるためではなく、作らずにいられなかった。今日は死ぬかもしれない、明日は死ぬかもしれない、いずれにしてももう永くは生きていられまい。そういう心境のもとに出来た句だ。もう一つ白状すると、こんなにたくさん俳句を採録したのは実を言うと、やっぱりGHQの検閲を多少用心してのことだった。いたるところに俳句みたいなモノが入っていると至極呑気そうに見えてスラスラ通るだろう、などとも考えたのである。

で、印刷のこと、校正のこと、装幀のこと、すっかり済んでいよいよマ司令部(マッカーサー司令部=GHQ)検閲係の「事前検閲」を受けることになった。ある日、私たちは内幸町の放送会館の五階だったかに呼び出された。出版関係でこの会館に足を運ぼうとはそれまで夢にも思わなかった。二世の士官が丁寧に応接して、少しナマリのある日本語で「大そう好い本だと思います。しかし、この四月からGHQのポリシーが変わりました。日本の方々に、戦争のことは出来るだけ忘れてもらう方針になりました。ですから、この本も、もっと年が過ぎて、それから出したらよろしいでしょう」という意味のことを言った。

つまり、全面的にイケナイと発行を遠慮させられた。もっとも、当時は「忠臣蔵」の芝居もイケナイころであった。気の毒に、わが檜書房は、五百ページを突破する高い組代(組版代)を払って、それがパアになったのでガッカリしてそのまま一冊も出版しないでツブレテしまった。

おやまあ!である。

書房の方でも、私を気の毒に思って、ゲラ刷りを製本し、宮田重雄画伯の装幀の、裏返しに印刷した紙を表紙に貼りつけて記念品として寄越した。宮田画伯の装幀は、当時としては凝ったもので、鼠色と樺(かば)色の2色刷りで、蛇(昭和16年辛巳)、馬(昭和17年壬午)、羊(昭和18年癸未)、猿(昭和19年甲申)、雞(昭和20年乙酉)と戦争中の十二支を「ろうけち染」風に図案化したものであったという。

宮田画伯は名古屋市出身、慶応大学医学部を卒業後、パリのパスツール研究所ヘ留学して破傷風の毒素に関する研究をした医学博士だが、梅原龍三郎に師事した洋画家としても活躍した。ラジオ番組や俳優として映画にも出演し小説の挿絵なども多く手掛けたことでも知られる。俳句や随筆もよくする夢声老と同じく多芸な人物であったから気の合う仲だったはずである。

しかし検閲の壁の前には「アメリカでベストセラー」や「みんなが成金になる」という夢も一気にしぼんで、この<手作り記念品>だけが残ったのだった。
(以下、この稿続く)