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池内 紀の旅みやげ(44)名寄教会─北海道名寄市

  • 2014年8月20日 16:25

北海道を道南、道東、というぐあいに、方角によって区分したりするが、道北は北の果て稚内を頂点とする三角であって、名寄(なよろ)市はそのエリアの中心都市である。古い世代は大相撲の名寄岩でなじんだものだ。「老雄名寄岩」といったのは、四十をこえ、髪が薄くなっても土俵に上がったからだ。あだ名が「怒り金時」で、にらみ合うほどに、まっ赤になり、形相ものすごくブチかました。ただし、土俵を下りるとやさしいおじさんで、とりわけ子どもたちに人気があった。ほんのしばらくだが、大関までいったと思う。「名寄岩物語」といって映画にもなった。さして恵まれないからだで、努力一筋の関取として、人気の点では横綱だった。
そんなことを思い出しながら、駅前通りをブラブラ歩いていった。名寄岩の銅像があるらしいが、「まちなかマップ」には出ていない。「怒り金時」を覚えているような人間の骨董品は、お呼びではないのかもしれない。
北海道の町の特徴だが、道路がきちんと碁盤目につくられていて、見通しがいい。「名寄第一電気館」の標識につられて右に折れた。まっすぐのびた道路は人っこひとりいなくて、遠近法の原理にともない、目のとどく先っぽが一つの点になっている。名寄は明治三十年代に町づくりがはじまったそうで、主に山形、福島、富山からの開拓団が入った。当時、道北の原野は一面の深い森で、まず木材業が基幹産業になった。名寄岩は少年のころ材木運びをしたので、それで足腰が強くなった。
「電気館」というのは初期の映画館につけられた名前である。うれしいことに名寄には、それが残っている。稚内に映画館ができるまでに、ながらく日本最北の映画館と称したらしい。「第一」というのは映画産業華やかなりしころ、ほかにも電気館があったからだろう。現在は第一のみで、「仕事は快速、恋は各駅停車、旅するハートフル・コメディ」を上映中。
手づくりの看板のキャッチコピーがどこかしら懐かしい気がするのは、いかにも正統派のつくり方で、映画好きの館主は、もしかするとわれらと同輩の骨董組かもしれない。駅から離れているのに、ビジネスホテルが一つ、二つとあらわれた。北海道では車がメインの乗り物であるからで、駅前につくる必要はない。とするとアメリカ式のモーテルが発達しそうなものだが、日本人は機能一点張りではなく、たとえビジネス用であれ、「展望風呂付き」といったのが好みに合うようだ。
もういちど碁盤目を右に折れると市役所のわきに来た。市民会館の向かいの木立の中に、シャレた建物がのぞいている。西田直治郎といって、当市きっての木工場の共同経営者だった人が大正十一年(一九二二)に建てたとある。和洋折衷で、イギリス積みのレンガと、ドイツ風片流れの屋根、そこに和風が巧みに組み合わせてある。

北国の名寄市に立っている明治時代の「名寄教会」いい雰囲気ですね。おとぎばなしに出て寄贈。

北国の名寄市に立っている明治時代の「名寄教会」いい雰囲気ですね。おとぎばなしに出てきそう。

そこからすぐのところだが、市立図書館の向かいに、ひっそりと名寄教会の会堂が控えていた。こちらはさらに古く、明治四十二年(一九〇九)の建築。しっかりした木造りで、正面は切妻破風、上が丸いタテ長の窓。ポーチ状の玄関の天井に鐘が二つ吊るされていて、ためしに綱を引くと澄んだ音を立てた。
「どなたでもおこしください 牧師 R・N・ウィットリー」
日曜の礼拝には、二つの鐘が軽快に打ち鳴らされるのだろう。木工場経営者たちを中心にしたキリスト教徒の寄付でできたという。原野を切り開いて基幹産業を確立するにあたり、仏教ではなくキリスト教精神が大きな支えになったことがみてとれる。教会であれば宗教活動のセンターだが、講演会や講習会にもあてられたのだろう。半地下の構造で、教会とホールを合体させたスタイルになっている。濃いグリーンの壁に赤い屋根。赤レンガの煙突が美しいアクセントをつくっていた。

名寄教会の中の鐘。自分で引いて撞けるというのはなんだか不思議な気分になりそう。

名寄教会の中の鐘。自分で引いて撞けるというのはなんだか不思議な気分になりそう。

「怒り金時」は、このような風土のなかで成長した。ブチかまして押す戦法をリチギなまでに守っていた。だからはたかれたりすると、あっけなく倒れたが、それでも自分の戦法をつらぬいた。子どもたちはそれなりに見るべきところを見ていたわけだ。
駅にもどる道筋で、名寄新聞社の建物に行きあった。北海道は北海道新聞一色と思っていたが、地元の小新聞社が頑張っている。小さな二階建てながら、近年に新築されたとみえてデザインがシャレている。しばらく足をとめて、しみじみとながめていた。
若いころはジャーナリスト志望で、新聞社の就職を考えていた。それも全国紙でも県紙でもなく、いわば「町の新聞」にあたるもの。記者・営業マン合わせて十人か、せいぜい二十人でやっている。現在は知らないが、当時は各地にそのタイプの新聞社があった。明治の自由民権のころに創立された由緒ある新聞もあって、きちんとした主義主張をもち、土地にしっかり根を下ろしていた。ヨーロッパでは今もそれが主流で、発行部数三万なり五万なりがおおかたである。何百万もの部数をかぞえるのは、スポンサーつきの御用新聞か、ハダカとスキャンダルが売り物系ときまっている。
そろそろ就職を考えだしたころ、小新聞社から会社概要を取り寄せたりした。北海道と信州をねらっていたのは、住みたいところと考えたからで、おおかたは旅行気分だった。リンゴの実る町で新聞記者になり、リンゴのような頬の娘と恋愛をして、腕を組んで散歩する──その程度の就職志望であって、おもえばノンキな時代だった。

【今回のアクセス‥名寄教会まではJR宗谷本線・名寄駅から徒歩十分】

書斎の漂着本 (40)  蚤野久蔵 大正女子書簡文  

  • 2014年8月7日 18:58

大阪・心斎橋の岡田文祥堂から出版された三浦圭三著『大正女子書簡文』である。菊判364ページ、定価55銭の和本は、ご覧のように当時の女学生がいかにも喜びそうな水辺の芦を描いた表紙で、わざわざ赤い綴じ糸が使われている。
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この本とは全く偶然の<出会い>だった。あるとき京都・河原町三条にある古書店で棚の本を眺めていると手前に積まれた本の山を熱心に動かして目的の本を探す研究者風の男性がいる。選んだ何冊かを購入して帰ったあとにいちばん上になっていたので目についた。赤い糸が珍しかったこともあって手に取ると裏表紙に岐阜県立加納高等女学校と印刷された横に生徒名が筆書きされている。その字が印刷部分とそっくり同じなので「卒業記念」だったのではないかと想像した。なぜそっくりかというと出版社に校名を書いて送ったのと同じ先生が一人ひとりの名前を、心をこめて書いたのですよ、きっと。

店頭均一棚や数百円までのものなら購入するかどうかは「迷ったら買い!」と紹介したが、裏の見開きに1,200円の鉛筆書きがあるから<とっさ判断>のボーダーラインを超える。もう少し動機付けを、とはいっても別に「大正女子」に関心があったわけではない。まあ、当時の女学校がまとめて購入した人気の<当世実用本>なら世相が反映されているだろうし、いかにも<文士風な>著者の写真もおもしろいと思ったのでしょう、きっと。わざわざ繰り返すこともないか。

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<いかにも>な写真は横一ページで中表紙の次のハトロン紙をめくったところ。右余白に「書斎に於ける著者」、左には、述懐として「寒けれど寒がるいとま無きまでに書に親しみつ二十九の冬」とある。ということは29歳の冬の<お姿>というわけ。棚いっぱいに本が並び、洋机の脚を短く切ったような机の上には図書館でもめったに見ることもないほど巨大な辞書か辞典が2冊。すぐ脇には花鉢が置かれて、手前の角火鉢には炭が真っ赤に熾って・・・。(モノクロ写真だから、あくまでイメージです)

次ページが「序」で、句読点は入れない正式な<分かち書き>になっている。

主として若き女性の生活を中心に現代の令嬢令夫人として なるべく 中正穏健な 書簡文の範例を示したいと云ふのが 本書の趣意である
大正五年十二月廿日    西高津の仮寓にて    著者識(しるす)

発行日は翌6年1月31日だが、不具合な個所があったのか直後の3日15日に「訂正再版」となっている。

年賀状からはじまって、月別の時候見舞、趣味の消息、親しき身内への消息、近況報知の文と続く。年賀状にしても「普通のもの」でも相当長いから割愛するが、干支にちなんでわが家の犬の絵葉書を送るにしても「元旦早々手飼いのポチを遣はして御許様の幾久しき御さちを祈上候」となる。「アケオメ!」に写真でメールというわけにはいかないのだ。

「趣味の消息」は「家庭納涼音楽会に友を招く」の内容がピアノと歌を披露するからというお誘い。「白波寄する磯回(いそわ)より」は、千葉県の銚子にあった徳富蘆花が愛した水明楼に宿泊したという文例である。「富士登山だより」に至っては「出発の際はわざわざ御見送りいただきありがたく道中無事只今御殿場に下車して田口旅館に宿とり申候」の第一信から、6合目仮泊までの第二信、頂上での第三信、下山から無事田口旅館への第四信まであって、現地だけでも三泊四日。最近のような夜行直登夜行帰りのいわゆる<弾丸登山>などからはとても想像もできない時代だったことがわかる。

「依頼文」では結婚したての若夫婦が新所帯用に、お寺の書院などが空いていたらお願いする「貸室の周旋を依頼」の諸条件がおもしろい。
一. 室代 拾円内外
二. 室数 大きな室ならば一つにてもよろしく普通ならば二室(ま)か三室
三. 一室の大きさ 六畳より廿畳まで
四. 一室の設備 床押入れつき、二方若しくは三方あき、廻り縁、特設の便所付
五. 場所 停留所に近きところ
六. 周囲 閑静にして庭園の広きところ
七. 雑  水勝手、火勝手の不便ならぬところ
      八百屋が始終来るところ
      寺内に催しある毎に立ち退きなどせずともよきところ

「大きさ20畳まで」「停留所に近い」「閑静で庭園が広い」・・・はたしてそんなぜいたくな物件があったのでしょうか。

当然ながら、借金の依頼文はないが「主人に代わりて配当金を催促す」や「貸金の催促文」はある。変わったところでは「議論の手紙」として女子高等教育、女子独身論、「新しき女」について、女子職業問題についてや「ローマンスの手紙」もちゃんとある。つまりラブレターです。他にも「女中の紹介」「仏語の教師紹介」「鑑定」の依頼というのも。これは知人の資産整理で頼まれて買った(円山)応挙など12点を鑑定してもらえないかというのだから例文にしてもすごい。まるでテレビの鑑定番組みたいだが、読者は「令嬢令夫人が対象」ですから。

ここまで読んで、著者の三浦圭三なる人物は上流社会の作法などに詳しかったからこうしたことまで書けたのだろうかと興味がわいた。手元の人名事典には見当たらなかったが、ネット検索から兵庫県氷上郡=現・丹波市出身で、地元の丹波新聞社が出版した『丹波人物伝』に掲載されていることが分かった。経営者の荻野氏に連絡すると親切にも該当部分を送ってくださった。

国文学者 三浦圭三 明治18年(1885)~昭和30年(1955)
丹波市春日町の繭(まゆ)やお茶、ミカンを商う家に8人兄弟の三男として生まれる。いつも二人の兄のそばにいて九九を兄より先にそらんじた。ひらがなやカタカナも覚えたので友達と連れ立って3歳で小学校に通った。大柄だったからだろうが一週間後に年齢を知った先生に、規則だから6歳になったら来なさいと言われてしまう。懇願したが「規則だから」の一点張りで、圭三は「規則というのは、よっぽど意地悪な人間だ」と思ったという。

翌年、小学校に入学、トップで卒業すると高等小学校に進学した。家が貧しかったので恩師と一緒に恩師の借家に住み、炊事を引き受ける代わりに勉強をみてもらった。卒業すると青垣町の佐治尋常小学校の代用教員になり、ここでも学校に住みこんで自炊した。参考書などを買う余裕はないなかで家には毎月の仕送りを欠かさず、学校の図書館や同僚の本を借りて勉強した。借りた本はすべて書き写して繰り返し学習した。数学の計算は、はじめに紙の表裏に鉛筆で書き、その上から筆で、さらに最後は朱で書いて一枚の紙も無駄にしなかった。こうして20歳ごろまでには教育学や倫理学の本はあらかた読みつくし、英語だけでなくドイツ語も独学でマスターした。

明治39年に高等女学校の教育免許を取ると大阪府立島之内高等女学校、後の夕陽丘高等女学校に勤務した。この本を執筆したのはこの時期に重なる。そうしてみると学校と出版会社の所在地は極めて近い。では、それで多額の原稿料が入ったから自由に本を買ったりしたのかというとどうも違うのではないだろうか。冒頭に掲げた「書斎に於ける著者」という写真も、添えられた「西高津の仮寓にて」から考えればあくまで<出版用の撮影>に思えてくる。

三浦は慢心することなく勉強を続けたことで大正10年に高等学校の教育検定試験に合格し、青森県弘前高等学校(現・弘前大学)の教授となった。当時は「小学校卒の学歴で大学の教授になった」と大きな話題になったから同じように苦学する青年の<希望の星>だった。昭和20年に定年退官し、故郷篠山で24年までを過ごしたが、音楽も得意だったようで、地元の春日部小学校の校歌を作詞・作曲した。国文学に関する多数の著書を残し昭和30年、脳血栓のため69歳で没。

「勉学が好きで好きでたまらない父でした。夕食が済むと寝床に入り、深夜二時に起きていました。朝食までの、誰にも邪魔されない時間が、父にとって至福のときだったようです」と『丹波人物伝』は娘さんから取材した「父の思い出」を伝える。

書斎の漂着本 (39)  蚤野久蔵 人肉裁判  

  • 2014年8月6日 18:41

大正13年(1924)4月に東京市神田区表神保町の三星社出版部から発行された「新訳名著叢書」の一冊、セキスピア作『人肉裁判』である。

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これがすぐにシェイクスピアの『ヴェニスの商人』のことだとわかるのはよほどの外国文学、いや、ズバリ<シェイクスピア通>ではないだろうか。題名にまずギョッとした私は手にとって『ヴェニスの商人』だと確かめたことを告白しておく。
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我々、団塊世代が親しんだ『ヴェニスの商人』は岩波文庫の中野好夫訳と新潮文庫の福田恒存訳が双壁だったが、これは太宰衛門訳となっている。「序」には「文豪沙翁が世界文学の上にいまなおどんな地位を占めているかを詮議するのは野暮であろう。そして彼の詩劇を散文訳して名声を後世に垂れたチャールス・ラムと其妹メリーの二人が英文学史中、見逃すべからざる巨匠であることも言をまたない。まことに彼ら兄妹ありしが故に、沙翁の詩劇は全世界に流布されたりというも過言ではない位『沙翁劇物語』は全地球を蔽うて普及されて居る。しかも兄妹の文章は後世なお何人を以てするも到底遥かに及ぶことの不可能な予感を強ゆるに十二分な壮麗と雄渾とを示して居るのである。全世界の読書子が一度はまず兄妹の沙翁劇物語を手にせざるものなきもむべなるかなだ。さて、沙翁の力作四十余編、ラム兄妹はその中から二十編を訳出して居る。そして本書では二十編の中、更にベニスの商人外三編を選び、本叢書中沙翁劇物語の第一巻とすることにした。我々は更になお八編位を選んで第二巻、第三巻を続刊する計画を立てて居る」とある。

巻末の「新訳名著叢書」の出版広告には他に『枕草子』『源氏物語』『芭蕉七部集』『老子』『荘子』『紅楼夢』『ファウスト』『ナナ』『小公子』が並んでいると思えば『種の起源』『力の哲学』もある。『種の起源』はダーウィン、『力の哲学』はニーチェだからごっちゃというか、バラエティに富むというか。新書とほぼ同じ三六判でいずれも1冊50銭。シリーズの統一テーマは「現代は総てに要領を得ざるべからず」とうたっている。ここでの要領とは要点を意味するから「抄訳」ということになる。

セキスピア=沙翁、つまりシェイクスピアの力作四十余編の中から二十編を訳出したのはラム兄妹で、訳者=太宰衛門はその中から四編を訳した。続いて八編位を選んで続編にするという。抄訳だからといってそれなりの難しさはあるだろうからかなりの力量のある訳者だったか。『紅楼夢』も同じ太宰衛門訳だからなかなか器用な人物である。まさか太宰治の別名ということはないだろうが、古書ネットで検索して1冊だけ在庫があった昭和4年版の『人肉裁判』はなぜか吉田耕舟訳となっているので、ひょっとするとこの太宰衛門と同一人物かもしれない。

ベニスの商人アントニオは友人の青年貴族バッサニオの願いを聞いて金貸しのシャイロックから3,000兩を3カ月の約束で借りてやる。間もなく彼の持ち船が入港するので積みこんだ荷物が売れればすぐに返すという約束だった。アントニオはバッサニオが止めるのも聞かず「もし返済が一日でも遅れたら自分の体の好きなところから肉を切り取ってくれても異存はない」という証文をシャイロックと交わした。ところがその船があろうことか難破してしまう。日ごろからアントニオはシャイロックをひどく軽蔑していた。人間でないとののしったり、野良犬でもあるように足蹴にしたりしていたからシャイロックは絶好の復讐機会がきたと裁判に訴えた。アントニオは牢につながれ裁判を受ける。シャイロックは勝訴を確信して持参したナイフを舌なめずりしながら研ぐ。判決はシャイロックの予想通りの勝訴で、証文通り「アントニオの体から肉を切り取ってよい」というものだった。アントニオ絶体絶命・・・その先はあえて書かないがまさしく「人肉裁判」である。ああ、そうだったとストーリーを思い出す方も多いだろう。

『人肉裁判』に入っているのは他に『僭王の幻(=マクベス)』、『三人の姉妹(=リヤ王)』、『真夏の夜の夢』で、どれかでもないかと本棚を探したら岩波文庫版の『ヴェニスの商人』が運よく見つかった。平成5年(2003)の第80刷、第1刷発行が昭和33年(1939)だから実に60年以上再版され続けている。中野好夫訳はいまも<健在>だから、そうなると70年以上である。中野訳がそのまま舞台で演じられるいわゆる上演用台本の「ト書き」スタイルになっているのとは違い、太宰訳は普通の物語文である。

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ちょっと比べただけでも題名も違えば地名表記や人物名も違う。中野にしても昭和48年の「改版に当たって」のなかで「拙訳は別に学術的翻訳というのでもなければ、といって、上演用台本のつもりでもない。一応は日本人の舌に乗る日本語にしたつもりだが、同時にまた原文と併読する読者のことも考えて、あまり原文脈を飛び離れることは避けた。多少二つの椅子の間に転げ落ちた感もないではないが、この種の文庫本としては致しかたなかろうか。固有名詞のカナ書きについて、旧版では英語の発音をなるべく忠実に写すつもりで、かなり面倒な表記をした。が、こんどはごく大まかなカナ書きにした。どうせカナで原発音を正確に移すなど、所詮不可能なことと思い直したからである。また固有名詞のカナ書きも、必ずしも英語に従わず、ギリシャ、ローマ古典からのものなどは、かなり大まかな言語読みにした。もっとも、きわめて厳密にそうだともまいらぬ」と書いている。

太宰訳『人肉裁判』と中野訳『ヴェニスの商人』で一例をあげると地名:ベニス(中野訳:ヴェニス)、人名:アントニオ(アントーニオ)、バッサニオ(バッサーニオ)、単位・金額:兩=両(ダガット)、同・重量:磅(ポンド)あたりをあげておく。「兩」は両の旧字で、「磅」はポンドが読みである。大御所の中野も自分の訳を「ごく大まかにした」と言っているから<重箱の隅をつつくが如し>ではあるけれど、抄訳とはいえ江戸時代じゃあるまいし「両」はなじまない気がする。やはり当時の単位である「ダガット」でないと。

書斎の漂着本 (38)  蚤野久蔵 太陽臨時増刊 

  • 2014年8月5日 17:12

戦前、わが国最大の出版社として隆盛を誇った博文館が、創業12周年記念に発行した『太陽』の臨時増刊である。明治20年(1887)に大橋佐平が東京・本郷で創業、富国強兵の時代風潮に乗り、数多くの国粋主義的な雑誌を創刊して社業を広げた。取次部門としてトーハンの前身の東京堂や、広告会社の内外通信社を作ったことでも知られる。なかでも初の総合雑誌といわれる『太陽』は、社の黄金時代を象徴する存在で、12周年にちなんでタイトルも「明治十二傑」として創業記念日の32年6月15日に発行された。

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寸法は152×218ミリの菊判570ページで、定価は35銭。表紙と裏表紙は別の和本の表紙に貼り付けて「和綴じ」で丁寧に修理してある。これまでの連載では古書店の店頭の特売棚での<掘り出し物>を中心に紹介してきたが、こちらはちょっと違って家具や古着、電化製品などを扱うリサイクルショップで偶然見つけた。厚いビニール袋に密封されて「古書・2,000円」の値札がついていたが『太陽臨時増刊「明治十二傑」博文館創業十二週年紀年』とあったのでどんなものかは想像できた。不見転で、おっと失礼、中身を確かめないで買おうかと思ったが試しに思い切って値切ってみた。店長いわく「半額はとても無理です。開封してお見せしますから1,500円なら!」。商売となるとさすがに向こうが上手、こちらの<買う気>をすぐに見破って、ハサミで袋を大胆にジョキジョキと。下三分の一は水濡れの大きなシミがあったが、読むには差し支えなさそうなので結局、購入する羽目になったのを思い出した。

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補修にはご覧のように『訓蒙罫画法 上』という題名の和本の表紙がそのまま使ってある。連載に取り上げる前に、奥付の上に貼られた「蔵書一代・中井書房」という空色の店名票を頼りに店主に現物を見てもらうことにした。中井書房は京都市左京区二条川端東にある。鴨川を渡って平安神宮方面に向かう南側である。京都に出かける用事もあったから思い立ったが、古書にくわしい業界人に尋ねるにしても過去に扱ったことがある店のほうが<話が早い>と思ったからで、気さくな方でよかった。

店主の「見立て」はこうだ。この本を修理したのは貸本屋ではないだろうか。貸し出すうちに表紙が痛んだのでやむなく補修した。当時、本を買える層は限られていたので庶民は「本は貸本屋で借りて読む」が当たり前だった。戦後しばらくは貸本屋全盛の時代で比較的安い雑誌といえども例外ではなかった。古書店はあくまで販売が目的なので「現状のままでの取引」というのが基本。修理することで逆に価値が下がる場合もあるから手をかけてまで修理したのはあくまで「使う」ためだろうし、その後、何らかの理由で本が濡れて「お払い箱」になったのではないか。貸本屋から流れてきたというのは昔はよく見かけた。黄色の表紙は明治時代の和本に好んで使われたが、もし蔵書家が修理したとしても題字くらいは剥がすでしょう。和綴じも職人仕事だから見た目ほど簡単ではないですよ。

脱線しかけたので本題に戻す。
「発刊の辞」では大橋の息子の新太郎が「十二傑」の選定を「読者投票によった」ことを強調している。「帝国近世の社会各方面における進歩の実相を描写するために」部門を政治、文学、美術、法律、教育など12に分け、それぞれの部門で投票の最多数を得た人物を「当選者」にした。人物紹介のために60人の伝記を付けるのも本人への直接取材を心がけた。次点者も当選者とほとんど差のない者も少なくないが、次点以下の人物については「紙数に限りがあるので」割愛せざるを得なかったことを了解してほしい。

十二傑を「投票順」に紹介するとこうなる。カッコ内に簡単な人物紹介を付けておく。
政治=侯爵・伊藤博文君(内閣制度、大日本帝国憲法、皇室典範など制定、初代総理大臣)
文学=文学博士・加藤弘之君(帝國大学第2代総長、初代帝国学士院院長)
美術=日本画家・橋本雅邦君(フェノロサ岡倉天心に師事、東京美術学校創設に尽力)
法律=法学博士・鳩山和夫君(弁護士、衆議院議長、鳩山由紀夫・邦夫兄弟の曽祖父)
教育=福沢諭吉君(民間啓蒙思想家、慶応義塾創始者)
科学=理学博士・伊藤圭介君(初の理学博士で「雄しべ」「雌しべ」「花粉」の名付け親)
医家=医学博士・佐藤進君(順天堂医院院長、長崎で狙撃された李鴻章を治療した)
宗教=釋雲照律師(京都・仁和寺門跡から大僧正に。乞食坊主姿の門跡として知られる)
軍人=侯爵・西郷従道君(「大西郷」西郷隆盛の弟、元帥海軍大将、「小西郷」)
農業=男爵・伊達邦成君(仙台・亘理領主から北海道に移住、現在の伊達市を開拓した)
工業=古河市兵衛君(古河財閥の創業者、足尾銅山の経営を立て直した)
商業=渋沢栄一君(第一国立銀行を創設、500余の会社を設立、「日本資本主義の父」)

それぞれの人物を紹介するとそれだけで数ページではきかないだろうからあえて1行だけにした。博文館の名前の由来は伊藤博文からとされているから同社にとっては人気投票での堂々一位は極めて順当な<慶事>だったのではなかろうか。「十二歌匠」では詩人・作詞家で「鉄道唱歌」や「故郷の空」で知られる大和田建樹(たけき)や、歌人の佐々木信綱。「十二俳仙」では正岡子規に続いて十千万堂紅葉の名前も見える。これは文豪・尾崎紅葉の俳号で神楽坂に建てた学堂「十千万堂(とちまんどう)」にちなむ。代表作『金色夜叉』で主人公の間貫一(はざま・かんいち)から許嫁のお宮(鴫沢宮=しぎさわ・みや)を奪う富豪の富山唯継のモデルが博文館の若社長・新太郎とされるだけにちょっと興味深い。

記事そのものの量が多かったからだろうが、広告ページは合計10ページに抑えてある。ピンクの紙を使った社外分の6ページは<年中無休刊>をうたう新聞の「日本」、米国産紙巻煙草「ゴールドコイン」と「ホーク」、ウオルサム懐中時計、目薬「壮眼水」、津村順天堂の「中将湯」、「素人用早印刷器・真筆版」で、早印刷器というのは「謄写版」と同じような製品のようだ。謄写版はこの5年前の明治27年(1894)に滋賀の堀井新次郎父子が発明したが、特許を取っていても類似品が次々に生まれた。この「真筆版」は陸軍参謀本部、憲兵隊本部など153台、大蔵省をはじめ中央諸官庁、郵便電信局など128台、帝國大学など477台、北海道庁、地方市町村1,300余台、日本鉄道会社など2,035台と細かい納入実績をあげている。それが『中学文壇』なる雑誌と発行・発売元が同じ東京神田今川小路の北上屋商店である。ガリ版といえば宮沢賢治を連想するが、北上(川)から、こちらの経営者も岩手出身だろうか。自社の出版広告は『帝國百科全書』、『通俗百科全書』、『日用百科全書』などに続いて『日本大文学史』の著者が大和田建樹君である。著者への起用は人気実力者だったから無理もないが、出版社としてはなるべく身内から選んだと言われないように「投票結果」であることをくどいほど強調したのだろう。

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ところでこの「明治十二傑」の中身の各ページは水濡れ以外にはほとんど痛みがないからぼろぼろになって修繕された表紙とは対照的だ。ということはお客がこの本を借り出す目的はその「顔ぶれを知りたかった」のにあったのではなかろうか。つまり「ちら見」だ。

貸本屋店主「えっ、もう返却かい」
客「アタぼうよ、こちとらはやりの速読で一気に読んじまったから」
店主「じゃあ、気持ちだけでもお代をまけとくよ」

なんてやりとりがあったかも。店主もそう言いながら本のあまりの<回転ぶり>に思わず頬が緩んだりしたのかもしれませんなあ。

書斎の漂着本 (37)  蚤野久蔵 うなぎ 

  • 2014年8月2日 17:12

この原稿を「土用の丑の日」に書き始めたので書斎の<うなぎ本コレクション>のなかではいちばん古い『うなぎ』を取り上げることにした。ついつい溜まってしまったのをコレクションというのも大袈裟かもしれないが20冊以上もあるから、どこで手に入れたのかはいまや定かではない。「うな重」に換算すると・・・なんて野暮は言わないので、そんな本を集めて「つかみどころのないうなぎのようなお方」などと評さないでいただきたい。
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東京淡水魚組合が音頭をとり、業界団体の全国淡水魚組合連合会が結成されるのを記念して昭和29年(1954)1月に発行した。学界から「お魚博士」として知られた東京大学教授の末廣恭雄博士や農林技官の東秀雄博士らに講義や原稿を委嘱し業界の「うなぎ通」を起用した。なかでも「鰻に関するアンケート」にこたえて作家や俳優、歌舞伎役者、落語家、俳人など63人がユニークな随筆を寄せ、はじめての総合的うなぎ資料となった。あらためて読み直してみると近年、ウナギの産卵場所が南太平洋マリワナ近海の深海にある「海山」と突き止められて大きな話題となったのが、この本の発行された60年前は「大きな謎」とされていた。

見開きの薄緑色に「さんせう」のカットは原寸大だろうから病院でもらった薬包紙を思わせる。山椒も同じ「薬」がつく<薬味>には違いないけれど、当時のうなぎ料理店ではこうして出されていたのだろうか。

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「はしがき」には
秋に入って、沼から川、川から海へと下っていく、いわゆる<くだり鰻>は、大抵ひと腹に八百万乃至一千万の卵を抱えて、本能の命ずるまま一気に太平洋を突っ切って数千哩も遠い印度洋の深海層、産卵に適した藻の海に達し、そこで卵を産んで一生を終るという。孵化した子うなぎ(柳葉状のレプトケバルス)は、何十万とも数知れぬ群団をなして、まだ見ぬ親のふる里、日本の近海を目ざして、吾勝ちに先を争って回帰し、河口に近づくにつれ、脱皮してはじめて二寸ばかりのハリウナギになるという。何だか聴いていても夢のような、しかも可憐で、涙のこぼれるような話である。学術の研究もこうなると実に神秘的だといわねばならない。

編集担当の吉岡保五郎が「聴いていても」というのだから、末廣博士らにくわしくレクチャーを受けていたのは間違いないだろう。末廣博士はデンマークのシュミット博士が約20年がかりの実地調査で1922年にヨーロッパやアメリカ産のうなぎは大西洋の真っただ中にある「藻の海=サルガッソ・シ―だった」と突き止めたことを紹介している。

彼はこの大発見に満足することなく、1928年にダーナー号という新しい調査船に乗って世界のウナギの産卵場所を調査する旅に出た。しかし、調査は日本のウナギや中国のウナギの産卵場が南洋諸島の付近の、やはり深海だろうと推論の程度で終わってしまった。というのは、彼は1933年2月10日、流行性感冒のため、終に帰らぬ人になってしまったのである。

ここまでか、と思ったが博士は「フィリピン東方の深海ではないかという気がする。日本でも探検隊を組織して実際にウナギの産卵場を突き止めるほかはないと思うし、これを切望してやまない」と結んでいる。レクチャーを受けた吉岡はその産卵場所を「印度洋の深海層、産卵に適した藻の海」と書いているのはちょっと遠すぎはしないか。

「鰻に関するアンケート」では「芝居の昼食は毎日うなぎでも飽きない」という歌舞伎役者の尾上松緑(二代)は、市川團十郎(九代)が『勧善懲悪覗機関(のぞきのからくり)』で重箱にあらかじめ熱湯を仕込んでおき、開けた時の湯気でうなぎの蒲焼の感じを出したから観客は大いに食欲をそそられたという裏話を紹介する。

俳優で多くの名随筆を残した池部良は、戦時中転戦した南方のハルマヘラ島での体験を寄せた。

食料に困りジャングルの蛇を捕まえて皮をむき、長いのを輪切りにし、それを開いて焼いて食べた。うなぎのかば焼きにそっくりだったから「ジャングルかば焼き」。それからは毎晩、「うなどん」のにおいと、どんぶりが浮かんでくる。うなぎをつまみ上げると、とろっとしてちぎれそうだし飯はギンメシと来ている。一晩中、「うなどん」が浮いては消え、消えては浮いて腹は鳴る。それがなんと一年の間続いた。毎日「うなどん」で豪華なものである。昼間になると一切れの配給にあずかる、ジャングルかば焼き。本物をほんとに、食べたかった。

復員して家族の疎開先の茨城県へ向かう途中、夢にまで見たうなぎがどうしても食べたくなる。古河という小駅についたら、うなぎと小さな字で書いた小さな店があった。

入ったら、ヤミうなぎだからと、おかみさんが奥の間に招じてくれた。
「お待遠さま」、目はランランと輝いて、手はふるえました。いいにおい。生つばが出てきた。パッとふたを開けてオドロイた。とても可愛い可愛いのが串にささって、反り返っていたのである。奥歯でぐいとかんで、食いちぎろうとしたら、のびる、のびる。おどろきました。蛇である。
「まあね、今どき、うなぎってのは、ないですからね」おかみさんの言である。
(帰国時に一律支給された外食券)三百円のうちから百五十円を払った。島に残っていた方がよかったのではないかと思った。悲しきあこがれのうなぎである。

処女作の『海鰻荘綺談』から、その書斎を「海鰻荘」と呼ばれた作家の香山滋は『探偵小説とうなぎ』でうなぎを使った殺人のアイデアを披露する。阪急電鉄の小林一三は、なぜ養殖のうなぎがうまいのかを『うなぎ漫談』で。作家の今東光は、台湾の繁華街の顔役「老鰻(ラオマン)」から書き始める。続いて知人の話。ある時、五島列島福江島の山奥のダム建設現場で「丼椀ほどの太さの川の主とも思える老鰻」が捕れた。それを焼いて食べようとしたがとても食えたものではなかった。現世において「老鰻」は煮ても焼いても食える代物ではないのだろう、と。

落語家の三遊亭金馬は江戸小話を引く。
うなぎの親子が神田川を通ると蒲焼のいいにおいがする。お父ちゃん、あのにおいはなんだい。あれは蒲焼と言って、おれたちを人間が焼いて食っているのだ。ぶらぶら遊んでいると取って食われてしまうぞ、と言われて、子うなぎがそんなにうまいのかと尻尾を少し食べてみると成るほどうまい。これはうまいうまいと自分でみんな食べてしまったら首だけになってしまった。
うなぎの夜釣りでもうなぎは触ればぬるりとしているが、海蛇は噛みつこうとするからよほどの注意がいる。小話にも山中で狼に出会ったときの心得に山犬か狼かを早く見分ける法がある。山中で山犬か狼に出会ったら石をぶつけてみろ。「山犬なら逃げ出すが狼ならすぐ食らいつく」。もっとも食いつかれてからでは間に合わない、というのがオチである。

随筆家の渡邊紳一郎は『鰻の話』としてお得意の鰻の蘊蓄を披露したあと、魚は違うが「瓢箪鯰(ひょうたんなまず」のことを英語でslippery as an eel =鰻のように、ぬらりくらりとする、という。フランス語の諺、ilya anguille sous roche イリヤ、アンギーユ、スー・ローシュは「岩の下に鰻がいる」で深いたくらみ、陰謀のあることを意味しているという。

「瓢箪鯰」の意味は少し違うとは思うが、これ以上のおせっかいは止めておく。作家の宇野浩二は『鰻ずき』を寄せている。こちらは短いので全文を紹介する。

私は何よりも鰻が好きであるから、一週間に二度くらい鰻の蒲焼をたべている。そうして、外に出ると、よく鰻丼をたべる。ところが、東京と大阪では「鰻丼」がまったく違う。それは、東京では「ウナドン」、大阪では「マムシ」というほど違う。「マムシ」とは「まぶす」という意味で、御飯の中に小さく刻んだ鰻をまぜるので、「まぶし」(つまり、「マムシ」)というのである。私は、前は東京の「うなどん」の方が好きであったが、(今でも好きであるが)今では、どちらが好きか、と言われたら、大阪の「まむし」の方が好きである。
斎藤茂吉先生も鰻が大好きであったので、鰻をよんだ歌が幾つかある。それをここに引こうと思ったが、忘れたので省く。

最後の「忘れたので省く」がおもしろいですねえ。

たしかに鰻と歌といえば斎藤茂吉をおいて他にはない。しかも恐るべき鰻好きだった。戦時中も鰻を二日に一回は食べていたと日記にある。

あたたかき鰻を食ひてかへりくる
道玄坂に月おし照れり

これまでに吾に食はれし鰻らは
仏となりてかがよふらむか

もっとも宇野が紹介しようと思ったのは別の歌だったかもしれないから、これもおせっかいか。明日あたり、気分転換に久しぶりの「本物の鰻」を食すことにしますか。