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書斎の漂着本 (44)  蚤野久蔵 肺病養生法  

  • 2014年8月29日 23:25

連載開始前に作った約50回分の予定リストは、当然ながらわが書斎にあった本のなかから選んだ。書き進めながら選び直し、追加してきたが新たな購入本もあって<継続更新中>である。こちらの主婦の友社から出版された『肺病患者は如何に養生すべきか』(医学博士・原榮著)も、先日、なじみの古書店の「店頭棚」で見つけ200円で手に入れた新顔である。

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タダといわれても見向きもされそうにないほど傷んだ「裸本」で、タイトルと著者名、下の出版社名は、エンボス=型押し、背は金箔押しで、大正13年(1924)1月初版発行、同じ年の10月に早くも10版を重ねている。これは昭和9年11月発行の48版「改訂版」で、四六判の全487ページ、定価は2円80銭。傍線や書き込みだけでなく、紙を切ってわざわざ貼り付けた「付箋」が何カ所にも残っている。ということは図書館(室)などに置かれていたものではなく、個人の持ちもので、購入者本人も肺病=肺結核を患い、繰り返し読んだからこれほどに痛んでしまったのか。戦後は抗生物質などの登場で、「治癒できる病気」になったが、それまでは<死病>と恐れられ、忌み嫌われていたから、本人としても少しでも長く生きるための「最善の治療法」を懸命に探ったのだろう。

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「物好きですねえ」と言われそうだが、かくいう私も<肺結核になりかけた>経験がある。広島の私立中学へ入学したばかりの5月の連休に、小学校時代の悪友を誘って近くの川に遊びに行った。よせばいいのにポカポカ陽気に誘われて泳いだが、水はまだ冷たかった。「お前らも早く来いよ」と、呼びかけたものの誰も続かない。仕方なく上がったが震えがきた。最初から泳ぎに行ったわけではないのでタオルの持ち合わせもなく、挙句に風邪をひき、悪いことにその晩から高熱が出て肺炎になった。休み明けには症状は一段落したものの、微熱が続き、レントゲン写真には「右肺に影があり、急性肋膜炎乃至肺浸潤ではないか」という診断が下った。わざわざ「乃至」と書いたのは付き添いの両親が確かめたからで、医者は「精密検査しないとはっきりしたことは言えないが、進行すると肺結核になる可能性がある」と診断した。叱られるだけなので泳いだことは言いそびれた。学校は休学して近くの国立療養所、つまりサナトリウムへ入院する羽目になった。

入れられたのは8人の大部屋で、マスク姿の主治医からは「当面、面会は仕方ないが、散歩は許可するまでは禁止。極力安静につとめること」と厳命された。病院では医師だけでなく看護師も、掃除のおばさんも、売店の係員まで例外なく常時マスクをしていて、面会者も半数はマスク姿だった。「病気ではない人の病気予防のため」だから、新参の私も当然ながら「保菌者」に分類されたわけだ。同じ病棟には何人か肺切除の手術をした人もいて、どちらかの肩が落ち込んでいたから遠目にも分かった。当時の手術法はろっ骨の何本かを切らなければならなかった。「菌は出ないから安心するように」とは言われたものの、それは目には見えないのであるから、自分もあんな重症患者になるかもしれないと初めて恐怖が湧いた。幸運にも私の場合はすでにストレプトマイシンなどが普及していたから入院4カ月で退院できたけれども。

著者の原を調べたところ、わが国に初めて系統的に「大気安静療法」を紹介した人物で、人間が本来持っている治癒力をなるべく引き出すことで病気を治す「自然療法」を一貫して提唱した。「自序」には大阪・土佐堀で原内科医院を開業する内科医で長年、肺結核の治療に取り組んできたが、薬でも注射でもない治療法を編み出し東京吐鳳堂書店から『肺病予防療養教則』という本を発行したとあった。一方、主婦の友社は主幹自らが中心となって大正6年から全国の読者から広く、全治者本人の<実体験談>を募集し誌面で紹介してきた。このなかで最も多かったのが原の『療養教則』だったので、新たに原に依頼して28回分の連載を書いてもらった。一部の同業者=医者からは自家広告(自己宣伝)だとか、学者の品位にもとるとか、あらゆる冷嘲と迫害を受け、売薬業者からも、目の上のコブのような扱いを受けたが、なにより読者からの反響がきわめて大きかったので本にまとめることにしたとある。

「現在なお、肺病患者の最多数は自分の病気を治すのに何か神秘的な特効薬や斬新な注射薬などはないかと、その詮索にばかり腐心していて真の治療法がいかに重大な意義を持っているかを少しも知ろうとしない。肺病の治療には、薬は第二、養生が第一で、<正路>はただひとつ、この本も無用のものならば数版を重ねるのが関の山であろうし、幸いにして病者からの現在の渇仰に投じるものであったなら年々歳々、益々広く全国に弘布をみるであろうし<真理>と<時>がその正しい判断を下すでありましょう」と続く。

総合雑誌『中央公論』が大正11年に80銭、昭和12年に1円に値上げされたことを考えれば、その3倍という価格は<命にかかわる>とはいえ、決して安くはなかったはずである。にもかかわらず改訂前の第25刷までに2万5千冊を販売したとあるので、この48版までとなるとその倍を売り上げたかなりの<人気本>ではあるまいか。なるほど、商売の邪魔になるから投薬や注射を勧めたがる医者や、薬品業界からは徹底的に嫌われるわけだ。

原は大気を汚す塵(ちり)は病人の大敵であるとして、家庭での安静時に和室の布団ではなく籐椅子による「横臥療法」を勧めている。病室内には塵の発生を防ぐため家具類はできるだけ少なくし、寝台=ベッドの他は籐椅子くらいにして、掃除も塵を舞い上げるから「掃く」ではなく「拭く」ように。横臥といっても横向きではなく、上を向いて横たわるのである、などと具体的に治療における態度を紹介している。目次は「結核恐怖病は前世紀の遺物」から始まり「肺病に遺伝はない」、「結核菌を持っていない人は一人もいない」と当時の医学知識が詳しく説明される。「正確なる理解と勇猛なる精神とが療養の出発点」、「肺病治療の経過を支配する最大の威力は精神力」と、一転、精神論に向かうのかと思えば「身体活力の根源となる食物――胃腸の健全は肺病治療の礎」から再び「精神の安静は肉体の安静より必要」、「肺病治療の<正路>はただ一つである」、「肺病は治病か不治病か」と核心に進んでいく。

結核で思い浮かぶのは幕末では新撰組の沖田総司、長州出身の志士・高杉晋作、明治維新後の政治家では陸奥宗光、小村壽太郎。同じく文学・芸術分野では正岡子規、国木田独歩、樋口一葉、滝廉太郎、長塚節、石川啄木、竹久夢二、梶井基次郎・・・と枚挙にいとまがない。『風立ちぬ』の堀辰雄もそうだった、とあげれば、いまや「宮崎駿監督ですね、スタジオジブリの」と言われそうだけど。<結核文学>の山には、死病=結核に倒れた無念の死屍累々である。同じ山でもトーマス・マンの『魔の山』はスイスのサナトリウムに夫人が入院したことから着想を得た。こちらはノーベル文学賞受賞の<大山脈>で、三島由紀夫や北杜夫、辻邦生に大きな影響を与えたことが知られるものの、彼を超える日本人作家は登場していない。

ところで、どんな個所に付箋が貼られているのかというと、まずは「療養地及び病室の条件」のところ。

「あまりに温暖な地方は湿度が強く、病者の体力を弛緩させるため、好ましくありません。発病から当初の六箇月は、場所はなるべく田園の地に定め、高燥の地で風当たりが強くないことが必要で、なるべく松林に近く人道車道からかなり離れたところで、かつ前面には相当の空地が必要であります。といってあまり急な坂道は好ましくありません。恢復期にあっては散歩が許される場合、坂路療法での往路は坂の緩やかな傾斜を登り、帰路はそこを下って戻るということが理想的・・・」とあるから、まさに「典型的なサナトリウム」そのもののイメージであろうか。

家庭療法での理想環境は「南向きの八畳乃至十畳くらいで南側には籐椅子の持ち出せるほどの縁側があれば更によろしい。部屋の前面には空地があること、北側には廊下が通っていて、他室と隣り合わせにならないこと」と、贅沢とも思える条件が続く。要は常に新鮮な外気を入れることだそうだが、よほどの「邸宅」でないとここまでは望むべくもない。

一方で「断食療法は肺患者には不適」とか、「滋養品でも牛肉や牛乳は滋養価が高いといっても好き嫌いもあるし、毎日連続するとかえって消化不良を起こす」という個所やバランス良くを理想とする「鯛より鰯(イワシ)安価な栄養」にも傍線が引いてある。他にも「日々のスケ―ジュール例」や「全治実験談」にも付箋が貼られている。そうかと思えば当たり前の「急がば廻れ、日々の安静」にもだからまさに手当たり次第である。「まず生活習慣をしっかり持つ」ということについてはわずか4か月の私の療養体験からしてもその通りではある。

巻末には景風園療養所長・医学博士中村善雄著『肺病は斯くすれば治る』、宮内省侍医・医学博士西川義方著『肺病全治早道、強肺健康法』に並んで、原の『肺病全治者の療養実験談』と『肺病全治者の自宅療養実験』。原が自序で「同種類の著書を他店より出版せぬの内規があったにも拘わらず<社会公益>のためとして快諾してくれた」という吐鳳堂書店の自著『肺病予防療養教則』と『自然療法』がちゃっかり主婦の友社が取次所として掲載されている。「主婦の友」の奥付には愛読者諸姉へ、とあるが、療養の注意事項に「心身の過労に注意」と書き込まれた筆跡はどう見ても男性に思える。病気を心配した奥さんか母親が、この本を買ってきたのではなかったか。果たしてこの患者さんが、必死で勉強した「肺病養生法」の効果はあったのだろうか。全治していて欲しい気がする。

書斎の漂着本 (43)  蚤野久蔵 軍艦大和  

  • 2014年8月26日 18:16

わが書斎にやってきた本の中にはどこで手に入れたのか思い出せないものも多い。これもそのひとつ、昭和24年、銀座出版社発行の『軍艦大和』(吉田満著)である。

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著者の吉田は東京帝大からの学徒出陣で、海軍予備学生となり海軍電測学校に入学した。大学を繰り上げ卒業後、電測学校を出ると同時に少尉に任官、戦艦大和の副電測士として沖縄特攻作戦に参加した。「特攻」の名のもとに片道燃料だけの、もとより生還を期すべくもない出撃だった。

広島生まれの私は、母の二番目の姉が呉に嫁ぎ、大和が建造された旧・海軍工廠を見下ろす宮原通で酒店を営んでいたから、子供のころに遊びに行くたびに「あの下のドックで戦艦大和が建造されたんよ!」という自慢話を聞かされた記憶がある。その後も同じドックで建造された当時世界最大となる初の10万トンタンカーを見に行ったら「戦艦大和より大きいのは大したものよねえ!」といわれたものの(大きすぎて)ピンとこなかった。あのときは小学生だったなあと<あたり>をつけて調べてみたら「ユニバース・アポロ」で、昭和31年に現在のIHI呉造船所で建造されていた。

わざわざ昔の記憶を紹介したのは<大和は戦艦>という思い込みがあったからで、古書店の均一棚で『軍艦大和』が目に留まったのも、題名への違和感からだ。もっとも軍事用語では「戦艦は軍艦の一種」なのであって、しかも「最も強力な大砲と、最も頑丈な装甲を備えた巨艦」が大事にされた<栄光の日々>は過去の歴史となり、いまや最新鋭のハイテク・レーダーや優れたコンピュータ・システムを装備した「イージス艦」の時代なのだ。

戦艦大和をあらためて考えるきっかけになったのは鬼内仙次の『島の墓標―私の「戦艦大和」』(創元社、1997)の書評めいた雑文を書いたからである。その数年前に仕事で出かけた徳之島で戦艦大和の慰霊碑を案内してもらったことや、NHKの特別番組で沈没場所を突き止める水中調査のドキュメントを見たことも関心につながった。『戦艦大和ノ最期』や『鎮魂戦艦大和』をはじめとする吉田の著作だけでなく、水中探査の写真集など本棚の一角が「戦艦大和関係」で埋まった。戦後、日本銀行に勤務した吉田が国庫局長時代に補佐した作家・千早耿一郎(ちはや・こういちろう)の『大和の最期、それから』(講談社、2004)などが書評で話題になるたびに読んだが、まだ『軍艦大和』はなかったように思う。

『軍艦大和』は四六判の縦を少し小さくした大きさで182ページ、表紙にセロファンをかぶせたのを、見返しの「きき紙」で直接押えてある。セロファン自体は劣化して右上など一部にしか残っていない。表紙だけではわかりにくいだろうから全体を紹介すると英文はOH’ THE PACIFIC:CALM LIKE UNTO THY NAME! で、右の裏表紙に3行に白抜きで分かち書きされた「太平洋よ その名の如く しずかなれ!」という意味である。

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表紙の装丁は武蔵野美大で長く教授をつとめた洋画家の三雲祥之助で、濃い藍に白い波をあしらっている。見返しにはやや抽象的な青年群像、扉には静謐に思える艦上人物図が共に洋画家の向井潤吉によって描かれている。同じ京都市の出身であるがその縁でタッグを組んだわけではなさそうだ。群像の青年は死んだ人物を抱え、あるいは倒れ、両手を広げて何かを叫び、顔を覆って慟哭する姿なのに対し、人物図のほうは双眼鏡を眺めている人、そこから別れた人もポケットに両手を突っ込み、ゆっくり歩き去る構図である。戦時中は従軍画家協会の会員として戦争画を手掛けた向井だが、あえて平時の艦上風景を描いたのもそれなりの意味もあったのだろうか。群像が<動>ならこちらは<静>である。晩年は古い民家の絵を描き続け「民家の向井」といわれたことを思い合わせると感慨深い。

右の扉に続いて「在りし日の軍艦大和」、「大和轟沈の瞬間」のモノクローム写真2枚に「軍艦大和建造秘録」1ページ。『軍艦大和』と『軍艦大和その後』が収録されて182ページで定価は150円である。24年8月10日に初版発行、15日に再版、手元の3版は20日と、立て続けに発行されたことが分かる。

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千早は『大和の最期、それから』で、当時、世界一とされた戦艦大和を沖縄へ出撃させた「天一号作戦」は戦争末期の戦況悪化の焦りから参謀本部が編み出した神風特攻に対して海軍の面子や見栄もあって採用されたという。駆逐艦30隻分の重油を食らう巨艦の維持はいよいよ困難で、「大和」は、重油を食らう巨体であるがゆえに邪魔者扱いされての出動だった。オトリとなって敵攻撃の矢面に立ち、来るべき「一億総特攻の模範」となれという連合艦隊参謀長からの指令を大和に乗り組んだ第二艦隊の伊藤整一司令長官は苦衷のうちに受け入れざるを得なかった。

大和轟沈後、米軍機の執拗な機銃掃射を受けながらも無数の将兵の遺体が浮かぶ重油の海を漂流すること4時間。駆逐艦に救助され、かろうじて生還した吉田は、漂流中に受けた頭部の裂傷のために入院した。だが完治しないうちに、みずから希望して退院し、特攻を志願する。「死に後れた」という気持ちに責められ続けていたが、命じられて赴任したのは高知県須崎にあった最大の「人間魚雷」基地の対艦船用電探(レーダー)設営隊長で終戦を迎えた。吉田はそのまま須崎に留まった。小学校の分教場の女教師の一人が身重で、代わりに教師を頼まれたためだが、敵が吉田を見つけたら生かしてはおかないだろうという集落民の心配もあった。もうひとりの女教師と元気な子供達に囲まれてはいたが、吉田は敗戦の<意味>を考え続けた。須崎から南南西、足摺岬のかなたに徳之島がある。さらにその北西の海底深くに大和と3千余名の戦友が眠っている。須崎は遥かな海からの<呼び声>が届く場所でもあった。

ようやく9月中旬、吉田は父母の疎開先の東京都西多摩郡の吉野村(現・青梅市)に帰郷した。恵比寿の自宅は空襲で焼けていたからだったが、偶然、近所に疎開していた作家の吉川英治が父と疎開仲間として旧知だったので訪問した。最初は問わず語りではあったが吉田から大和での話を聞いた吉川はしまいには涙を流し「君はその体験を必ず書き残さなければならない。それはまず自分自身に対する義務であり、また同朋に対する義務でもある」と送り出した。帰宅すると吉田はただちに筆をとった。わずか1日足らずで一気に書き上げたのが代表作の『戦艦大和ノ最期』の草稿である。題名にあるように全文が文語体で書かれていた。友人の何人かがそれを筆写して回覧したがそれで終わった。

この年の12月、吉田は日本銀行に入行して統計局に配属された。翌21年3月、外事局に異動したが直後の4月1日に評論家・小林秀雄の訪問を受けた。「エイプリルフールのいたずらにしては、手のこんだことをするやつがいる」と思いながら面会所に行くと、まぎれもなく小林本人がいて、友人が筆写した草稿を持っていた。小林は、いま編集責任者として準備中の『創元』第一輯にこれをいただきたいと言った。小林は「自分の得た真実を、それを盛るにふさわしい唯一の形式に打ち込んで描くこと、これが文学だ、それ以外に文学はない。だからこの覚え書きはりっぱに文学になっている」と口説いた。吉田は、発表するつもりで書いたものではないが、もしその価値があるのならお任せします、と答えた。

進駐した占領軍は、真っ先にすべての出版物についての事前検閲を行っていた。戦勝国にとって不利と判断されるものや、軍国主義の復活を想起させるものは、とくに忌避した。担当したのはGHQ=連合軍総司令部の下部機関のCCD=民間検閲支隊で、小林に指示された個所を吉田は一部修正し、原稿用紙に書き写したものの、校正の段階で「全文削除」扱いとなった。「戦闘そのものの記録ではあってもあくまで鎮魂のための挽歌ではないか」と小林は<しかるべき筋>を動かしてCCDの最高責任者の少将に抗議文を出したが回答はなかった。さらに吉田茂の息子で英文学者の健一や小林から頼まれた白洲次郎も動いたが、第二輯にも掲載されることはなかった。

CCDには下読み役として多くの日本人が働いていた。彼らにとって文語体で書かれた吉田の原稿そのものが拒否反応を与えるのではないかという<うがった見方>もあった。吉田健一や白洲たちの働きかけが多少なりとも軟化を誘った側面もあったかもしれないが、万一の場合は出版社自体がつぶれてもかまわないということで、「カストリ雑誌」を手掛けていた銀座出版社を見つけてきた。ためしに『サロン』24年6月号に口語の『小説戦艦大和』を掲載したがCCDからは何の反応もなかったこともあって、それを若干手直しして単行本の『軍艦大和』が計画された。題名を戦艦ではなく軍艦と変えたのもいささかの配慮かもしれない。ところが投書があったのか、CCDは編集長と吉田を呼び出して丸一日も色々と尋問した。その後の折衝で「口語体で、かつ、狙いは鎮魂に徹する」という主張がかろうじて認められたものの、当初は末尾に掲載する計画だった『戦艦大和ノ最期』は割愛せざるを得なくなった。その際に提供されたと思われる米軍撮影の「大和轟沈の瞬間」の航空写真もかなりの遠景からのもので、当然ながら機影はいっさい写っていない。

吉田は高校時代からバッハに傾倒していた。入隊の前夜も日比谷音楽堂でその「無伴奏ソナタ」を聞いた。入場券が売り切れていたが、懇願して入場を許され、観客席の横にある通路の階段に座して最後まで聴き続けた。その印象は強烈だった。

大和の艦影もとっくに消え、機銃掃射の音さえかき消すような負傷者の阿鼻叫喚の声も重油の海からは聞こえなくなった。

望むべくは、時を得てただ死を潔くすることのみ。ひたすらにかくみずからを鞭打つ。
ふと思う。この貴重の時。真の音楽をきくのは今を措いて他にあろうか。
聴こう。心さえ直ければきける。一瞬を得るのだ。
自分の音楽を持たなかったのか。すべては偽りだったのか。
――待て、今きこえてきたもの、たしかにバッハの主題だ。
――違う。作為だ。眩覚じゃないか。

『軍艦大和』からは、あえてこの一章しか紹介しないが、吉田は後年の著作で「バッハの主題」は「無伴奏ソナタ」であったと書いている。記憶のかぎりない純化と深化はさながら至高の叙事詩でもあろうが、偶然生かされるという運命によって負わされた、重すぎる使命を人生に重ねるように吉田は生きた。

書斎の漂着本 (42)  蚤野久蔵 ブレンダン航海記  

  • 2014年8月24日 00:43

航海記や漂流記に「マニア」などという言葉があるかどうかは別にしてもこれまで百冊以上を読んできた。「そのなかでいちばん夢中になったのは何ですか」と聞かれて「聞いたことがない」といわれるのもシャクだから『コンティキ号漂流記』をあげることにしている。これならノンフィクション全集だけでなく文庫などにも収録されているので「ああ、私も読みました!」という反応が期待できるし、会話が弾むからである。もっとも、南米から南太平洋への民族移動を証明するというヘイエルダールの試みはいまでは<学説上は否定された>けれども、航海記そのもののおもしろさが色あせることはない。この『書斎の漂着本』では、少なくとも<読んでもらえる>わけだから『ブレンダン航海記』をぜひ紹介したいと<思い至った>わけです。ティム・セヴェリン著、水口志計夫訳。23ページにのぼるカラー写真や地図などを入れて昭和54年(1979)に、サンリオから単行本として出版されたが、文庫化はされないまま絶版になった。

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聖ブレンダンは6世紀のアイルランドに実在した修行僧で、「牛の皮を張った舟」を使って大西洋を横断してアメリカに行って再び戻ってきたという中世ラテン語の文献を残した。邦訳すると「大修道院長聖ブレンダンの航海」といい、130もの写本があるとされる。著者のセヴェリンはアイルランド在住のイギリス人冒険家で現在も作家としても活躍している。米・ハーバード大学図書館に通いつめて探検の歴史を研究していて知り合った奥さんの専門が中世スペイン文学で、彼女はこの古文献の記述が「通りいっぺんの表現」ではなく、奇妙なほど具体的で、実際の航海を裏付ける部分があるのではないかと指摘した。

著者夫妻の<なれそめ>まで紹介してしまったが、これが航海を決断する重要なきっかけになったということでお許しいただきたい。それまでは聖ブレンダンと仲間の修行僧の航海は単なる伝説と思われていたが、訪れた場所の地理や、航海の過程、時間と距離などを注意深く書き残していた。その一方で、島と間違えてクジラの背中に<上陸>し、食事の支度で火を起したが、熱さでクジラが目を覚ましたため、命からがら船に逃げ帰ったとか、海中に浮かぶ巨大な「水晶の柱」に出会った話や、「鍛冶屋の島」からは怒った島人が何百メートルもの沖まで火のついた岩の塊を投げつけた。さらに「鼻の穴から火を噴く怪獣」に追いかけられたというのもある。なかでも最大の問題は「牛の皮を張った舟」で果たして厳しく長い航海に耐えられるのかどうかだ。後世のヴァイキングが航海に使ったのも木製の船で、牛皮の舟などどこを探しても残っていなかった。

ところが聖ブレンダンが出発したと伝わるアイルランド北西部にある湾の奥で、現在も木製の船体に厚いキャンバス地をかぶせて防水用のタールを塗ったカヌーが漁や牛の運搬に使われていることがわかった。早速、見学に行くと意外に安定感もあり、昔は帆を立てたのもあったということを確かめた。それからは防水牛皮の研究や艇本体の製作職人を探すなどの苦労を重ね、オークの樹脂や羊の油脂を使って処理した牛皮49枚ができあがった。3年がかりの奮闘で二本マストの「ブレンダン号」が完成して実験航海を重ねた。著者自身もイギリスから地中海を横切ってトルコを往復するなどヨットでの経験はあったが乗組員は慎重に選ばれた。最後の5人目に加わったのはアイスランド海域でトロール船に乗り組んでいた23歳の漁師で、1976年5月17日に下図の右にあるアイルランドを出発した。

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ブレンダン号の大きさは全長11メートル、最大幅2.4メートル、舟だけの重量1,080キロで13平方メートルの主帆(メインスル)と5.5平方メートルの前帆(フォアスル)にはアイルランドの「石の十字架」が描かれた。無風の時や港の接岸には長さ3.6メートルのオール2本で漕ぎ、後部にはかじ取りの櫂が方向舵がわりに取り付けられた。積み込まれたのは水590リットルのほか、食糧、無線機材、8人乗りの救命ボートなども含め、総排水量はほぼ10トンに上った。無線機の電池は2枚のソーラーパネルで補充されたが、荒天時の排水は人力でビルジポンプを動かして行った。

最初の嵐は5月末にやってきた。舟は一晩中、大きな波にもみくちゃにされ、何度か向きまで変わった。骨組みは絶えずぎいぎいときしみ、風が勢いを増して烈風に代わると4、5メートルの波が何度も襲いかかった。帆を支える紐も何度もちぎれたものの舟は意外に安定していることが確かめられた。しかし隊員のひとりが腕の筋肉を負傷して通りかかった漁船に曳航されて、ヘブリジーズ諸島の港で別のメンバーに交代せざるを得なくなった。応急修理を終えて2日後に再出発したが、さらに北、フェアロー諸島の近海では半日間も早い潮の流れと逆向きの強風に翻弄されて進まず、岬の崖に何度も吸い寄せられそうになった。ここでも偶然、トロール船に出会い、近くの避難港に入港できた。再度の修理をして出港、数百頭ものクジラやシャチの大群に囲まれたときには皮膚がかゆい大クジラに体をこすりつけられたらひとたまりもないだろうとヒヤヒヤした。岸近くでは海底火山の噴火を見つけたりしてようやく7月16日にアイスランドに到着して1年目の航海を終えた。

翌年の航海は5月7日にアイスランドのレイキャヴィクを出港した。艇全部をオーバーホールして機材を入れ替えたが、乗員は1人少ない4名でグリーンランド沖から直接、カナダのニューファンドランド島を目ざした。グリーンランドは氷河におおわれた大地なので近海は濃霧に包まれるのと流氷が心配された。この海域をなるべく避けて順風と潮流をつかんでいく計画で、飲料水も700リットルに増やし、前の航海では海水の浸入で廃棄した乾燥食料に替えて中世と同じ燻製のソーセージや牛肉、塩づけの豚肉を準備した。これなら海水に濡れても大丈夫と分かったからだ。

最初の航海と同じように何度も嵐に遭遇したが、最大の危機は6月18日の未明に起きた。悪天候の中、突然、船体に流氷がぶつかってバリバリという音を立てた。しかも何度も。舟を覆う牛皮が切り裂かれたらひとたまりもない。流氷は次から次へとやってきた。舟は何回も大きな流氷に乗り上げては滑り落ちた。あたりがようやく明るくなると見渡す限りの流氷帯の真っただ中にいることがわかった。見張りを立てて日中は氷の中に水路を見つけてはのろのろと進んだが水漏れは止まらない。やがて夜、氷が当たる音が止まず、全員が手分けして行う徹夜の排水作業で疲労困憊した。

ようやく流氷帯を抜け出て、朝を迎え、波が少し収まったのを待ってひとりが水中作業用のウェットスーツを着て舟底に潜り、破れ目にパッチワークのように皮の「つぎ」をあてることになった。底から皮にひもを付けた長い針を通し、上からはすかさずペンチで引き抜く。こんどは逆に針を刺して、という作業を続けてようやく穴をふさぐことができた。同じような作業を別の場所でも続け、3時間ほどでどうにか水漏れが止まった。

その後はなんとか無事に航海を続け、6月26日午後8時、ニューファンドランド、セントジョンズの約240キロ北西にあるペッグフォード島に着岸した。ここでようやく「新世界」に触れたわけである。

朝日新聞は6月29日の紙面で次のように報じている。
「皮舟で大西洋横断」
[ガンダー(カナダ・ニューファンドランド島)27日=ロイター]
6世紀に北大西洋を横断して北米大陸に到達したと伝えられるアイルランドの伝説的英雄、聖ブレンダンの偉業を立証しようと、アイルランドから当時と同じような皮舟で大西洋横断に挑んだ冒険家4人が13カ月もかかってようやく26日夜、カナダ・ニューファンドランド島北部のマスグレーブ港に無事到着した。ティム・セヴェリン船長ら英、アイルランド、オランダ人の混成チーム。上陸後、ホテルに落ち着いたセヴェリン船長らは27日「この航海成功により、聖ブレンダンがヴァイキングやコロンブスに先だって米大陸に到達した最初の欧米人である可能性が立証された」と語った。

たったこれだけ?といえばそうかもしれないけれどあくまで新聞記事ですから。

航海記の最後で、著者は「水晶の柱」は氷山、「鍛冶屋の島」の話は、アイスランドの海岸で海に流れ落ちる溶岩、「鼻の穴から火を噴く怪獣」も同じく岸近くの海底火山だったのではないかと<タネ明かし>してみせる。そして、強風と氷海を通り抜けることができたのはブレンダン号がしなやかで航海中でも修理可能だったからに他ならないという。

最初にあげた『コンティキ号漂流記』も同じく水口志計夫訳で知られるが、『ブレンダン航海記』のほうもなかなかおもしろい。たとえばブレンダン号が氷山に乗り上げるシーン。

氷山はわれわれの下で持ち上がり、ぎいぎいという音とともにブレンダン号を捕え、舟を持ちあげて傾けはじめた。「われわれは今川焼きのように裏返しにされようとしている」と思った。皮が氷の上でぎいぎいいう音がもう一回して・・・

ホットケーキではなく今川焼きというのに思わず拍手を送りたくなりませんか。

書斎の漂着本 (41)  蚤野久蔵 海の俳句集  

  • 2014年8月23日 00:07

この連載ではわが書斎にやってきた本や資料を<漂着してきた>と称して紹介してきた。そのなかではいちばんの<新顔>である。つい先日、京都・下鴨神社境内の糺(ただす)の森で開催された「下鴨神社納涼古本まつり」の300円均一コーナーで偶然見つけて手に入れた。太平洋戦争開戦の前年、昭和15年(1940)に日本政府が旗振り役となって大々的に行われた「紀元二千六百年記念」の奉賀記念に日本郵船が発刊した『海の俳句集』である。透明セロファンの袋から慎重に取り出して見ると題簽(だいせん=表題)はなくなり、わずかに日焼けあとが残るだけで、上の方には2か所のシミがある。背表紙にある日本郵船株式会社の文字もちょうど「日本」の2文字が剥がれ落ちている。しいて購入動機をあげるとすれば「海」の一字に惹かれたのと、300円なら格好の<来場記念>になると思ったから。

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数年ぶりに出かけた「古本まつり」のほうは、このあと人に会う約束もあったし間もなく雨が降り出しそうだったので長居もできず早々に退散した。もう少し探せば同時に発刊された『海の和歌集』もあったかもしれないとか当時の時代背景などについては自宅に戻って調べた<あと知恵です>と初めに告白しておく。

記念行事は神武天皇の即位から2600年にあたるとして「神国日本」という国体観念の徹底により国の威信を内外に広く示し、長引く日中戦争による国民生活の窮乏を一時的であれ、逸らせる狙いもあった。当初計画された東京オリンピックや万国博覧会は最終的には中止、または延期になったが、奉祝武道大会や美術展覧会が開催され、記念切手や記念映画も作られた。多くの勤労動員を募って宮城(=皇居)外苑の整備や橿原神宮、宮崎神宮の神域拡張、天皇陵の参拝道路の整備などが遂行される一方では北京神社、南洋神社(パラオ)、建国神廟(満州国)などが建立され、神道の海外進出が企てられた。

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題簽と表紙画などは津田青楓とあり、裏表紙(右)には日本郵船のシンボルマークが配されている。津田は京都出身の画家で農商務省の海外実習生として安井曽太郎とともにパリへ留学した。アカデミー・ジュリアンで学びアールヌーヴォーの影響を受けて帰国後は二科会創立に参加する。友人の京大教授河上肇の影響でプロレタリア運動に参加したことで昭和4年(1929)の第18回二科展ではそびえ立つ国会議事堂と粗末な庶民家屋を対比させた『ブルジョワ議会と民衆の生活』を出品したのが警察の圧力で題名を変更させられた。このときから警察サイドからは目を付けられていたから翌年出品した小林多喜二の虐殺をテーマにした『犠牲者』で検挙されてしまう。長く留置されたものの処分保留で釈放され、その後は日本画に転じた経歴を持つ。親友に夏目漱石がおり、漱石の『道草』や『明暗』の装丁を手がけたことで装丁画家としての実績が認められていたのだろう。さらりと書いた題字もそれぞれが微妙に違ってなかなか味があります。

奉祝行事は来賓接待など総てにわたって<簡素であるべし>が徹底された。この俳句集も四六判簡易装丁の本文187ページに約千句が収められ、季題索引と編集覚書が付けられているが函はない。なかの「とびら」(下左)は表紙と同じカットが描かれているが次ページはあっさりと「奉祝紀元二千六百年」の活字だけである。発行所は日本郵船株式会社船客課で定価の位置に「金五円」の紙が上から貼ってあるところを見るとあるいは諸物価値上がりで急遽「値上げ」されたのかもしれない。

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「四面環海の我国にありては、潮騒の響き、浪風の声、すべて我等の詩であり歌であり又俳諧である」から始まる「序」を寄せた大谷登は、当時の日本郵船の社長だと分かった。道理で「以て国民海事思想の普及に一助の功を」とか「七つの海に海運報国の航跡を引いて休むことを知らぬ我が社の」などと続く。

編集覚書には参考文献として芭蕉の『俳諧七部集』から始まり、其角、去来、蕪村、近代俳人では子規、虚子、碧梧桐、蛇笏、石鼎、たか女、誓子、秋櫻子、草田男の句集が並ぶ。いずれもおなじみの<俳人山脈>ではあるが、試験問題風に「それぞれの姓を書きなさい」といわれると書けるかどうかは自信がない。続いて物理学者の寺田寅彦、詩人の室生犀星、作家では夏目漱石、芥川龍之介、内田百閒、横光利一と書いていくとまさに<綺羅星の如く>である。漱石は子規の親友で門下生の芥川や百閒も師の影響もあって俳句もよくした。自死した芥川は『澄江堂句集』を残したし、百閒も『百鬼園俳句帖』などがあるが当然ながらこのなかにある。

芭蕉の海の句といえば真っ先に「あら海や佐渡に横たふ天の川」を思い出すが<秋・天文の部>にあるのを見つけた。寺田寅彦は「初汐や白魚跳ねて船に入る」と「波洗ふ舷側砲の氷柱(つらら)かな」、漱石は松島で詠んだ「春の海に橋をかけたり五大堂」が入集している。梅雨明けの南風を呼ぶ<夏・白南風(しろばえ)>では同じ漱石門下の芥川と百閒が並ぶ。芥川が「白南風の夕浪高うなりにけり」と夕方になって風で波まで高くなったと詠んでいるのに対し、百閒は「白ばえて岬の鼻に風もなし」で岬の鼻、つまり先端には風もないと対照的である。全部で9句も入った百閒は他にも「静けさや内海に降る春の雨」、「小豆島吉備と四国に霞み鳧(けり)」、「夏雲に岬の松は日蔭なる」、「炎天の海高まりて島遠し」などがいずれも定型。「隠岐の島洗ふ高波に去る燕」ともうひとつが五・八・五と「中七」が字余りの句である。選者の好みもあるのだろうが「中八などの膨張感覚を好んだ」という百閒にしてはオーソドックスな作品である。

いちばん多く採用されたのは岐阜・大垣出身で東京帝大薬学部を卒業して東京薬專(現・東京薬科大学)の教授だった内藤吐天(とてん)である。戦後は名古屋に定住し、名古屋市立大学名誉教授となった。「早蕨(さわらび)」を創刊するなどして多くの俊英を育てた学者俳人である。冒頭の<春・春浅し>で「魚寄りに春浅き波曇りけり」、「春浅き山川海に入りて澄む」の連続2句から実に30句が採用されている。

ここまで書いてきて百閒は日本郵船と縁があったことを思い出した。年譜を調べてみると「昭和14年(1939)友人の辰野隆の推挽により嘱託となる。50歳、台湾に旅行する」とあった。辰野は東京駅や日本銀行本店を設計した日本を代表する建築家・辰野金吾の長男で東京帝大の仏文教授だった。ならば百閒もひょっとしてこの句集の仕事も手伝ったのだろうかと考えたものの、ま、それはないかと思い直した。台湾旅行の句らしきものも見当たらなかった。

吐天に次いで多いのが兵庫県津名郡(現・淡路市)出身の高田蝶衣の21句である。あくまで私見ではあるが「秋立つや無風圏内の潮の色」がおもしろいなと。さらに「海のある国うれしさよ初日の出」はこの句集の発行意図にぴったりであるとも。淡路島の南端にある生家近くの足利尊氏ゆかりの妙勝寺の庭にこの句を刻んだ石碑があるという。

それにしても編集覚書に「数限りない古往今来の俳句を見盡(=尽)くすという事は、終生の大業である。本集は仮にその渉猟の範囲を一定の限度に止めて、敢えて或いは滄海の遺珠を割愛した。補訂は今後の機会に待つ事にする。昭和十五年新秋。編者識(しるす)」と書いた編者とは誰なのだろうか。奥付にある著作兼発行者の生駒實なる人物を調べてみたがわからなかった。極めて短時間にこれだけの句を選定するというのは相当の荒業である。では何人かの共同作業だったのか。<百閒嘱託>もなかなか気難しい性格だろうからうまくいきそうにないと思うがどうだろう。

そんなあれこれを想像しながら編者が残したことば「滄海の遺珠」から超大粒の真円真珠か貴重な黒真珠を思い浮かべている。選者がたとえたのはあくまで斯界=俳句界の、であるとわかってはいても。

新・気まぐれ読書日記 (16) 石山文也 僕のおかしなステッキ生活

  • 2014年8月21日 18:20

もっぱら書斎のベッドに寝転がって、だから<緑陰読書>というには当たらないだろうが、起き上ったときには、お隣のザクロの実が色づいたのを見つけたり、遠くの山並みを眺めたりできる<緑が楽しめる環境>ではある。ここ数日続く突然の雷雨の襲来が、夏の終わりを思わせて、少年の頃に毎年のように経験した「早く宿題を片付けなくては」の気分になる。そんなこんなで井上陽水の『少年時代』を口ずさみながら本棚から取り出したのがこちら。シゲモリ先生こと坂崎重盛の『ぼくのおかしなおかしなステッキ生活』(求龍堂、2014)である。まだ残暑の候だから、歌詞にある「夏~が 過~ぎ~」でなくてよかった。

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シゲモリ先生の本は、田舎暮らしや若隠居にあこがれていた?こともあって『超隠居術』(二玄社、1995)以来、楽しみに読ませてもらっているが、そのときはステッキのところではなく「超隠居の快楽生活は、パワフルな気力・体力あってこそ満喫できる」や「<義理>や<大義>を忘れアウトサイダーの境遇を楽しむ」「ナンセンスなコレクションにうつつをぬかす至福」などにフムフムとうなずいた。もっともシゲモリ先生はあくまで「都会の片隅でしぶとく生きる派」だから、田舎志向の私にはいささか勘違いだったので、斜め読みのあとは書庫に眠っていた。京都の古書店で求めた『蒐集する猿』(同朋社、2000)は、えらく丁寧にハトロン紙のカバーが巻かれていたので、これまで表紙の「ひょうたん型切り抜きの意匠」に気づかなかった。まさに新発見!今回、ステッキ趣味の原稿をあらためて読み直すことを思い立ったから、それぞれの表紙も紹介しておこう。新発見と書いたのは右の「ひょうたん」部分ですね。

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『超隠居術』で「ステッキほど素敵で不敵なコレクションはない」と宣言したシゲモリ先生が「おかしなおかしな」と繰り返すのは<物好きにもほどがある>からで「ステッキ生活の集大成」となる一冊である。とはいえ、ステッキを偏愛するのは自身の歩行を助ける介護用ではない。「少々、世の笑われ者となったとしても、ぼくは、そろそろ、手元のステッキを、あれこれ、とっかえひっかえ持って歩こうかと思っている。もちろん、そんな齢でもないので、ステッキが似合わないのは十分に承知している。キザでイヤミな自己顕示と思われるかもしれない。しかし、いいじゃないですか。せめて五体満足なうちに、かっての有閑階級のポーズとしてのステッキを持ち歩く」。街歩きには欠かせないおしゃれアイテムだった古き良き時代への憧憬を持ち続けている先生流の「記憶遺産としてのステッキのPR」とでもいえるのではあるまいか。

海外取材で訪れた街の専門店やアンティークショップをはじめ、国内での蚤の市などで買ったステッキは優に百本以上になるというが、お土産として配ったり、友人知人へ贈ったりして手元に残るのは五、六十本ほど。その一本一本どれもが、それぞれの楽しいシーンを思い出させてくれる「記憶再生杖」でもある。かつ、無言のよき伴侶であり、心身を癒す心やさしい友でもある。「心屈する日の昼下がりなど、そのうち何本かを取りだしてはボロタオルで、ヘッドや軸の部分をやさしく磨いたり、その装飾や彫刻をじっとながめたりしていると、なにか古い友と語り合っているような気持ちになる」。収集はステッキだけにとどまらない。写真や挿画、豆本、はたまたステッキが登場する古書、古文献の類まで幅広い。まさに何でもござれ。ステッキには筋金はないだろうが、ここまでくるとしっかりと筋の入ったステッキ・ハンターであろう。

明治時代に洋風スタイルのシンボルとして持ち込まれたわが国のステッキ文化は、戦前までは20代のまだ世に出ぬ学生ですらステッキを持ち歩いていた。青年やサラリーマンも、文豪・文人に至っては鴎外、漱石、荷風から井伏鱒二、国木田独歩、田山花袋、徳田秋声、内田百閒、小林秀雄・・・。堀辰雄のステッキは室生犀星からもらった上等の籐製だった。所有するだけでなく贈答品としても重宝された。

変わったところでは昭和初期に銀座にはステッキ・ガールという新職業があった。「銀ぶらガイド社」なる名称の「ステッキ・ガール派遣会社」が登場した。昭和5年の『モダン新用語辞典』には「1929年頃に東京に起こった新造語。銀座に出現して一定の時間及び距離の散歩の相手をする代償として料金を求める若い女の意味である。つまり男のステッキの代わりをする女である」とあると紹介する。翌年はやった『当世銀座節』(西条八十作詞、中山晋平作曲)にも「銀座銀座と 通う奴は馬鹿よ 帯の幅ほどある道を セーラーズボンに 引き眉毛 イートン断髪(クロップ) うれしいね スネークウッドを ふりながら ちょいと貸しましょ 左の手」と歌われている。スネークウッドこれを使ったが高級ステッキのこと、左手をちょいと貸すのがステッキガールに、というわけです。

「今日の人士にも<ステッキ系>と思われる人々がいる」では、ステッキそのものやステッキアイテムを集めていなくても、著書を読んだり、それらしいイラストレーションに出会うと「あ、この人は多分、<ステッキ系>の人、“ステキスト”だな」という雰囲気がなんとなく、わかってくる。まずは、日々、不急を楽しむ文人肌の人、あるいは自分自身を「無用の人」と思っている人、しかも散歩や街歩きが好きな人、内外の風俗や社会現象あるいは深層心理に強い関心を抱いている人――こんなところだろうか。

紹介している私も、ステッキは持ち歩かないが、十分、ステッキ系の人の<資格>があるなあ、と思えてきます。

「ステッキ夜話」では大正12年12月27日に、時の裕仁皇太子(後の昭和天皇)が無政府主義者に襲われた「虎ノ門事件」に使われたステッキ散弾銃は伊藤博文のロンドンみやげだったとか、ステッキには「左手用」と「右手用」があるのでグリップを握って掌になじむかどうかを確かめること。ステッキは持って歩く以上に「突いて歩く」シロモノだからアンティークのステッキを買い求めるときには先端の「石突き」を必ずチェックすることが肝要で「一見、時代物のエレガントなデザインでも、石突き部分が投げやりな感じであったり、チャチだったりしたら、首をひねらざるをえない。逆に、それがニブイ白色の、つまり象牙であったりすれば本物だ」などのうんちくがこと細かく述べられる。

そういえばここには紹介されていないけれど明治22年に東京の官邸で暗殺された文部大臣の森有礼は伊勢神宮参拝の折に、皇族以外は入れない御門扉の御帳を持っていたステッキで掲げて覗いたという「伊勢大廟事件」が発端になった。手で直接めくるのははばかられるけど、ステッキの先でならちょっとぐらい構わんだろう、みたいな。徳富蘇峰のように、ステッキで、自動車の座席を後ろからつついたり、人力車の車夫の頭を「早くしろ!」と小突いたりするのは、あまりほめられた行為ではないと強調する。ステッキのハンドル部分は人の頭を小突くためにデザインされているものではないし、内田百閒大人がステッキで駅員の部屋のドアのガラスをコツコツと叩いているのも、これもちょっと・・・かなり偉そうで、間違っても人の家を訪問した時にはやらないほうが無難です、と。

〇ぼくの「仕込みステッキ・ベスト10」〇ぼくの「いただきものステッキ・ベスト5」で紹介される詳細部分や、それぞれの店でのやりとりもおもしろいが 〇ぼくの「掘り出しものステッキ・ベスト3プラス1」は上野・不忍池の畔で開かれる骨董市で破格の値段(わずか5千円とか)で入手したスネークウッドの逸品は、これまで買い集めたステッキの代金の総額を軽く上回るかも、と聞くとまさに「好きこそものの上手なれ」であります。

文中にしばしば登場する「ステッキ系」なることばを紹介したが、もちろんシゲモリ先生の<造語>である。そういえば井上陽水の『少年時代』の歌詞も「夏が過ぎ 風あざみ 誰のあこがれ さまよう」の「風あざみ」も同じ<造語>である。シゲモリ先生、これからも変わらず「杖にあこがれてさまよう」のだろうなあ。                                     ではまた