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書斎の漂着本 (36)  蚤野久蔵 饒舌録② 

  • 2014年7月29日 12:43

谷崎潤一郎の随筆集『饒舌録』(東京・改造社)に掲載された『「九月一日」前後のこと』の続きである。関東大震災の前夜、芦ノ湖畔の箱根ホテルに泊まった谷崎は「和室では仕事にならない」と睡眠薬を飲んでようやく眠ったところまで紹介した。

谷崎のイメージというと<文豪・谷崎>として紹介される写真のほとんどが着流しの和服姿のせいか、執筆も「和室で座卓に向かって」と思っていたが大違いだった。前回紹介したように「西洋流に椅子に着かないと書けない」ので箱根ホテルの和室には大いに閉口したわけだ。

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九月一日午前八時半、私は場所が変わったせいか、例になく早く眼を覚ました。何処のホテルへ泊っても朝の食堂へ出たことなどはめったにないのに、その日は珍しく、九時過ぎに一階の食堂へ降りた。食事が済むと、又三階へ上がったが、やっぱり座敷が気に入らないし、仕事が出来なければこうしていても間が抜けるので、いっそ小涌谷へ帰ろうと思った。私は直ぐに会計を命じ、十一時半に出る乗合自動車で湖畔を発した。

箱根ホテルは「箱根駅伝」の初日のゴール地点の200メートルほど手前=東京寄り=にある。当時はこのあたりが芦ノ湖観光の中心だったから乗合自動車もここから出発したのだろう。箱根の温泉街へ戻る道路はもちろん未舗装だったが、位置は現在と変わらないのでテレビの駅伝中継の「復路」のコースを辿っていく。

夜来の雨は上がりかかって、足の早い雲がちぎれちぎれに空を流れ、ときどきぱっと日が照って往来の水たまりが光った。元箱根へ来ると、自動車はほとんど満員になった。私は運転手の後ろの、一番前の席に腰掛け、私の横には葡萄牙(ポルトガル)人らしい色の黒い若い婦人が乗っていた。元箱根からは芦の湯に行くまで、道がしばらく上がりになる。そのあたりで、又ひとしきり細かい霧雨がざあツと来た。幾度も降ったり止んだりして、湿気を含んだ冷たい空気がひたひたと車の中を浸した。葡萄牙の婦人はうすいジョウゼットの服を着て、両腕を露わにしているので、これでは風邪をひくだろうにと、そんなことを思ったりした。その黒い、肉づきのいい腕には、じーツと見るとむく毛が沢山生えていて、一本一本の毛の先に、小さな白い水蒸気の玉が結ばれているのが、絹糸のようにきれいであった。

なぜ隣の婦人がポルトガル人だとわかったのかは書かれていないが、谷崎の観察眼は冴えわたる。「むく毛の先に、小さな白い水蒸気の玉が」というのは、今と違って夏の乗合自動車の窓は開け放たれていたから。「湿気を含んだ冷たい空気がひたひたと車の中を浸した」ので、「薄着とノースリーブでは風邪をひくだろうに」につながるわけです。

この婦人は芦の湯で降り、私の周囲は日本人の男子ばかりになった。そこを出てからは左側は高い崖、右側は深い谷に臨んだ曲がり角の多い路であった。この夏、道普請をしたばかりのところへ、前夜の豪雨で流されて、凹凸が激しく、自動車が非常に揺れる。雨はほとんど降っていないが、たまにガラス窓へ点滴があたり、裾の切れた銀の脚が空間に見える。車はグーと右へ曲がったかと思うと、忽ちグーと左へねぢる。私の眼の前には、活動写真の移動撮影を見る如く、山山谷谷の鳥瞰図が右から左へ、つぎの瞬間には左から右へ、急速度を以て繰り返し展開される。

横浜に住んだのは大正活劇という映画会社の仕事を始めることになったからと紹介した。「脚本部顧問」として『鮫人』や『芸術一家言』を発表したが「活動写真の移動撮影を見る如く」に谷崎自身の<カメラ・アイ>を見るようです。道路は急角度に曲がりながら下っていきます。

「降ろしてください!降ろしてください!」
その時後部に乗っていた独逸(ドイツ)人の一団の一人が叫んだ。
「こんな所で降ろせるものですか、ここは道普請をしたばかりで地盤が脆いんです。もう少し安全なところまで行きます」
私は運転手が一生懸命梶(ハンドル)を取りながら、怒鳴り返す声を聞いた。前方の地面にみみずの這うような裂け目が出来、それがずるずると伸びて行った。路の端が谷の方へ崩れ始めた。

「大地震――」この感じは、ゆっくりと私に意識に上った。私は除かに席に着いたまま巨人の手を以て引きちぎられるように揺らいでいる樹樹の梢を見た。森や峰が一塊りになって動くのがわかった。半丁程先で谷に行き当たる路の突角が、正に起重機の腕の如く上下していた。明治二十七年の記憶が、明瞭に私に甦った。いやあれどころか、これこそ安政程度の地震だ。咄嗟に私は「しめた」と思った。汽車か電車で遭遇したいと願っていた私の希望は、自動車に依って充たされたのだ。私は最初の一撃の来た瞬間を知らずに済んだのだ。

突然私の脳裏には昔の母の俤が浮かんだ。母が生きていたら、どんなに驚いただろうと思った。それから私は、横浜の家族の身の上を案じたが、此の地震は多分関東一円の地震であろう。そうだとすれば横浜よりも東京の方がやられている。横浜は比較的安全、殊にあの家は大丈夫だ。そうして家族は、祖母も、妻も、あゆ子もちょうど此の時刻は家に居るに違いない。ただ会えるのはいつの事やら――東京も、横浜も、小田原も、箱根も、東海道の沿道が悉く火になるとしたら、早くて半月、遅くてひと月の後であろう。

乗合自動車の運転手のすぐ後ろに座っていた谷崎は、自動車の揺れもあって大地震の<最初の一撃>には気付かなかった。後ろの席のドイツ人の団体のひとりの「降ろしてください!」という叫び声と運転手の「ここは地盤が弱いからもう少し先まで行く」という会話で大地震に巻き込まれたことがわかった。「路が正に起重機の腕の如く上下した」というのは9歳の時にまざまざと体験した「平らな路が、あたかも起重機の腕の如く棒立ちになり、向こうの端の人形町通りを、天へ向かって持ち上げると思う間もなく、今度は反対に深く深く沈下したという記憶」とが瞬時に重なった。

「除(しず)かに席に着いたまま」というのは武田信玄の風林火山の一節「その徐かなること林の如し」の、徐(しず)かなることと同じように「泰然として」とか「あわてないで」の意味で使っている。いつもならほんのちょっとした微震に逢っても、すぐに胸がドキドキして真っ青になり、じっとしていることができず、反射的に立ち上がって慌てふためくのが常だった。これは長じてもまったく同じで、「私のは、逃げるために立つのではなく、動揺を感じるのが恐ろしいから立つのであって、自分が体を動かしていれば幾分かごまかせるから」と分析していた。そうなると「電車か汽車に乗っている時に大地震に逢えば(最初の揺れには気付かないだろうから)いいのではないかという気持ちを持っていた」と告白していたから、今回は咄嗟に「しめた」と思った。自分でも滑稽とまで思う自身の条件反射もこんどは「まったく違った」と紹介したわけである。

自分の知り合いでこの地震で「瞬間に圧死したのは誰誰だろうか」と具体的に横浜のふたりの名前をあげているのは、この原稿がかなり後に書かれていることからも実際にそうした<不幸な想像>が的中したのかもしれない。

最初の激動がまだ続いている間に、これらの考えが稲妻のように私の頭を通り過ぎた。その時自動車は、五六丁のカーブを命がけで走って、やっと十坪ほどの平地のある地点で停まった。

残念ながら『「九月一日」前後のこと』はここで終わる。目次から『饒舌録』か『阪神見聞録』にでも書かれているかと探したがなかった。

そうなると私自身も興味にかられて以前、『蚤の目大歴史366日』用に集めた資料を引っ張り出した。谷崎は「関東大震災で生来の地震嫌いが高じて関西に居を移した」といわれるがどうだったのだろう。

9月1日:続き
乗り合わせた一行と坂下にあたる小涌谷へ向かったが途中の道路が崩れていて通れなかった。午後3時ごろ、小田原の大火が望見されその晩は野宿した。

9月2日:ようやく小涌谷ホテルにたどり着くが建物は被害を受けていたから宿泊客としては受け入れられず仮泊したか。

9月4日:小涌谷から箱根峠を越え三島から沼津に出て汽車で大阪へ向かう。

9月5日:大阪着。芦屋にいた旧友の伊藤甲子之助を頼る。大阪朝日に地震に関する「手記」発表。

東海道線は沼津以東が普通なのでこの間、船便で横浜に戻ることを画策するが伝手がなく、最終的に朝日新聞から船会社を紹介してもらう。

9月9日:神戸から「上海丸」で横浜へ戻る。船長は旧知の作家・今東光の父・今武平。

9月10日:東京・本郷西片町の今東光宅で避難していた家族と無事再会。横浜の自宅が類焼したことを知る。都内の友人宅を転々とするが首都圏での借家は無理とあきらめる。

9月20日:品川から「上海丸」で家族ぐるみで神戸へ。

9月27日:京都市上京区等持院中町の借家を見つける。

11月、東山三条の寺の塔頭に転居、12月、さらに兵庫六甲の苦楽園に転居。

ご覧のように谷崎は「首都圏では気に入った借家が当分は見つかりそうもない」ので関西に居を移したわけで単純に「地震嫌いだったから」ではなかったことがおわかりいただける筈だ。

収録されている作品の執筆順はこの『「九月一日」前後のこと』、『阪神見聞録』、『上海交友記』、『上海見聞録』、『饒舌録』の順である。『饒舌録』は交友のあった芥川龍之介の自殺を挟んでいるだけに研究者も多い。今回は関東大震災に絞って紹介したが、この大地震の前後で谷崎自身も作風も含めて大変身を遂げる。そういう意味でも古書店の店頭で何気なく手にしたこの本は「一冊で何度も楽しめる拾いもの」であったことは間違いない。

書斎の漂着本 (35)  蚤野久蔵 饒舌録① 

  • 2014年7月29日 10:53

東京の大手出版社だった改造社から、昭和4年(1929)に発刊された谷崎潤一郎の随筆集『饒舌録』は、四六判303ページの初版ながらカバーが失われたいわゆる「裸本」である。裏表紙に黒インクのFHyodo(兵頭)というサインの余白に、ほとんど消ゴムで消されてはいるが、鉛筆で書いた子供の落書きがあり、三重丸や四角に混じって「おかっぱ頭の少女」らしいのもある。奥付の「検印紙」がはがされているのは兵頭家の子供たちが切手集めに熱中するあまり<切手そっくり>の検印紙まで失敬したのだろうか。もっとも世間には「検印紙コレクター」という変わった趣味まであるが、こちらは水を浸した布か紙を上から当てて無理にはがした跡が歴然で、いかにも「子供のしわざ」に思える。濃い臙脂色が「谷崎らしい」と感じた裏表紙も取れかかっているから、ここまできたら「破損本」のたぐいだ。それでも200円の値付けなのは、やはり文豪・谷崎の名前ゆえだろうか。

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「そんなのをよく買いますねえ」と言われる前に言い訳めくが購入した動機を紹介したい。気ままな文芸随筆の『饒舌録』も面白そうだったが、次に『「九月一日」前後のこと』があるのが目についた。まさしく大正12年に首都圏を襲った関東大震災が発生した日付である。幼少時から「地震嫌い」だった谷崎は、横浜の自宅が地震直後に発生した火事で延焼したことが関西移住を決心するきっかけになった。「その時、谷崎はどこで何をしていたのか」をはじめ、綴られた生々しい被災体験にも興味がわいた。

東京・日本橋で生まれた谷崎は、9歳だった明治27年(1894)6月20日に明治東京地震と呼ばれる大規模な直下型地震を体験した。M 8.0と推定される2410月の濃尾地震からわずか28ヵ月後の発生でM 7.0だった。これを大正5年の『中央公論』に、幼少時の地震体験から生まれる恐怖のイメージをテーマにした短編小説『病蓐の幻想』で書いた。病蓐(じょく)とは病床の意味である。『改造』に発表した『「九月一日」前後のこと』もその体験から始まる。

ちょうど彼が小学校の二年の折であったろう。午後の二時時分、学校から帰って、台所で氷水を飲んでいると、いきなり大地が凄まじく揺れ始めた。「大地震だ!」と、彼は咄嗟に心付いたが、何処をどう潜り抜けたのか、一目散に戸外へ駆け出して、大道の四つ角の真ん中につくばっていた。その頃彼の家では日本橋の蛎殻町に軒を並べた商店の土間に溢れるほど雑踏していた相場師の群衆は、誰も彼も金の取引に気を奪われて、日盛りの苦熱を忘れていたが、突然、ぐわらぐわらぐわらと家鳴動し出すや否や、右往左往にあわてふためき、殆ど路次(路地)のような、窮屈なせせこましい、往来のぎっしり詰まった家並みの下を揉みに揉んで逃げ惑うた。

彼の経験によると大地震というものは地が震えるのではなく、大洋の波のように緩慢に大規模に、揺り上げ揺り下ろすのであった。自分の足を着けている地の表面が、汽船の底と全く同一な上下運動をやり出した時を想像すれば、恐らく読者はその気味悪さの幾分かを、了解することが出来るであろう・・・いや、汽船の底と言ったのはまだ形容が足りないかもしれない。むしろ軽気球のように――踏んでも蹴ってもびくともしない、世の中のすべての物よりも頑丈な分厚な地面が、むしろ軽気球のように、さも軽そうにふらふらと浮動するのである。

そうして、その上に載つかっている繁華な街路、碁盤に目の如く人家の櫛比(=密集)した、四通八達の大通りや新道や路次や横丁が、中に住んでいる人間諸共に、忽ち高高と上空へ吊り上げられ、やがて悠悠と低く降り始める。彼は比較的見通しの利く四つ辻に居たために、此の奇妙なる現象を真にまざまざと目撃した。

ああその時のこわさ恐ろしさ!人間が、測り知られぬ過去の時代から生存の土台と頼み、光栄ある歴史をその上に築き、多望なる未来をその上に繋いで、安心して活動していた大地というものが、斯く迄も不安定に、斯く迄も脆弱であろうとは・・・

この作品は『中央公論』に発表した短編だったから、その10年後に書かれた『「九月一日」前後のこと』では「彼」は「私」として語られる。

私は今日、この文章を読み返して見るのに、あの時の大地が「大洋の波の如く緩慢に大規模に、揺り上げ揺り下ろした」というのは、どうも本当とは信じられない。しかしながら、子供の頭に非常に恐ろしいと感じたことは、案外正確な記憶を留めるものであるから、当時の私は、事実そういう印象を受けたのであろう。思うに四つ角へ逃げ出した時には、既に最初の激動が終わって、ゆるい余震が続いていたに違いなく、それが怯え切った少年の眼に怪しい錯覚を与えたかも知れない。

私は確か前記の四つ角へ母と一緒に逃げたのだった。地震の際に母と一緒に逃げた記憶は此れのみではない。その数年前、明治二十四年の濃尾の大地震の時は、東京もかなり強く感じたが、その頃の私は茅場町に住んでいた。揺れが来たのは早朝のことで、母と私は「スワ」というや家を飛び出し、裏茅場町の通りを霊岸島の方へ跣(裸)足で走った。今はっきりと覚えているのは此れだけだけれども、そんなことは幾たびもあった。「お前が騒ぐものだから、子供達が臆病になる」と、父はそういって母をよく叱った。

『「九月一日」前後のこと』には、東京住まいだった谷崎が千代夫人と結婚後、夫人の実家に近い向島に住んだが、江戸時代の安政2年(1855)の大地震ですぐ近くの本所浅草深川がもっとも被害が多かったのを知って、小石川原町へ転居して『病蓐の幻想』を書いた。それで余計に地震の怖さを思い出し、5か月後には同じ町内にあった「建築学のN工学博士」の家作を人から勧められて移った。ここで地震嫌いの母親没、その後は鵠沼、東京・本郷曙町の借家で暮らしたが妻子が流感で気管支を痛め転地療法をすることになって小田原へ。大正10年には映画の仕事の都合(大正活映での脚本家)で横浜・本牧へ転居。ところが海岸沿いの埋立地だったこともあり何度かの地震の後、大正114月の地震で大きく揺れた。谷崎は山下町の中国料理店の外壁が崩れて下敷きになった娘が死亡したと聞き、わざわざ<見物>に行って地震がますます怖くなり、10月に山手の平屋の洋館に転居した。もっとも直接のきっかけは9月の台風で海岸沿いの自宅まで波が打ち上がったためだったが、それにしても目まぐるしいほどの転居ぶりですねえ。

しかし何事も、十から十まで好都合には行かないもので、地震に対して安全な平屋は、私のような静かな書斎を必要とする者にとっては、仕事の上に支障が起こりがちだった。やっぱり二階か離れのような座敷でないと、家族や来客の話声が耳につく。その家の書斎は寝室と浴室に挟まれていて、間に廊下があるのでもなく、風呂に入るには書斎を通って行く始末だから、私は結局、書き物が忙しくなり出すと、原稿を抱えて何処かのホテルへ逃げ込まなければならなかった。(私は西洋流に椅子に着かないと書けないのであった)それでその後一箇年ばかりの間は、花月園ホテル、フジヤ・ホテル、海濱ホテル、熱海ホテル、はふやホテル、小涌谷ホテル、オリエンタル・ホテル、メゾネット・ホテルと京浜間から鎌倉箱根あたりへかけての、ホテルというホテルを廻り尽くした。

さて、いよいよ8月である。谷崎夫妻は長女と3人で箱根の小涌谷ホテルで過ごした。温泉だけでなくプールで泳いだり大涌谷を見物したりしたが長女の学校が始まるので27日に横浜へ帰宅。28日は聘珍楼(へいちんろう)で中華料理、29日は東京・芝の改造社へ『愛すればこそ』の印税を取りに行く。

八月三十日の夕刻、私と妻とは高砂町の玉屋で晩飯を済ませ、私はその足で横浜駅から小田原行きの汽車に乗った。妻は散歩がてら、プラットホームまで見送りに来た。

八月三十一日の午後、小涌谷ホテルの滞在ももう一箇月程になり、多少鼻について来たので、仕事をするには場所を変えた方がいいかと思い、この夏芦ノ湖畔に新築された箱根ホテルへ、一日二日試験的に泊ってみようという気を起した。私は折鞄に原稿用紙、備忘録、旅行用の小瓶に詰めたウイスキー、バイエル・アスピリン、下剤、睡眠剤等を入れて、晩餐の時間前に小涌谷を立ち、乗合自動車で湖畔へ向かった。

箱根ホテルはフジヤの経営で、支配人は顔馴染である元の「はふや」の主人であった。外観はコンクリート五層楼であったから、内部はすべて西洋間であろうと予期していたのだが、行ってみると、西洋間は一階にしかなく、それもその晩は満員で、已むを得ず三階の日本間で辛抱しなければならなかった。私はその座敷へ通った時、そういう大きな建物の中へ入った場合の常として、直ぐに「地震」ということが念頭に湧いた。火急の際にこの三階から梯子段を降りて表へ飛び出す暇はないが、しかし湖水に面した方に、相当に広い露台(テラス)がある。その土台は鉄筋コンクリートであろうから、そいつが崩れ落ちる筈はあるまい。よし、若しもの時はあの露台に逃げよう。――私はそんなことを考えながら、日本までは仕事は駄目と諦めて、いつもより早く床に就いた。夜に入ってからは大変な豪雨で、そのために却って地震の方は大丈夫と思ったけれども(大森博士は大風大雨中に大地震はないと言って居られた)土砂降りの音が耳について寝られず、カルモチンを飲んで漸く眠った。

大森博士は「日本地震学会の父」と評される大森房吉(18961923)のことで、谷崎とは同じ日本橋区阪本小学校の先輩にあたる。東京帝国大学物理学科を卒業し、大学院で気象学と地理学を専攻、イギリスから招かれた地震学者のジョン・ミルンの指導を受け、濃尾地震の余震の研究を行った。谷崎は博士に会ったこともあり以前は先輩として尊敬していたが大きな地震のたびに新聞に発表される「心配には及ばない」という談話には不信を募らせていた。「大風大雨中は云々」というのもあくまで単なる俗説だったが、そう信じたかっただけであろうか。カルモチンは谷崎が日ごろから持ち歩いていた睡眠薬である。

(以下、この稿続く)

書斎の漂着本 (34)  蚤野久蔵 帝国大学入學提要  

  • 2014年7月25日 13:20

東京・文信社編輯部編の『帝國大学入學提要』は、【昭和四年度新版】とある通り、この年の9月13日に発行されている。いまどきの受験参考書ジャンルでは「過去問」ということになろうか。大きさは縦19 cm、横10.5 cmで、新書の縦を1.5cmほど大きくしたサイズといったほうがわかりやすいだろう。本文は67ページだが、付録に大正15年度から昭和4年度まで4年分の入学試験問題集272ページが付いて定価は1円30銭である。古書店の「特価本コーナー」で見つけた時には発行元の文信社が「どこかで聞いたことがある名前だな」と思ったものの思い出せなかった。「特価本コーナー攻略術」などあるわけないが、わが戦術は「迷ったら買い!」である。もっとも「あなたの場合は、安いから、ま、いいかでしょう」と突っ込まれそうだけど。

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入試問題は各大学の先生が作成するから、当然ながらそれぞれの傾向が出るわけで、その対策は・・・と書いていて受験生の頃になじんだ「傾向と対策」ということばを思い出した。ごくありふれた二つの言葉をワンセットにしたのは学習参考書大手の旺文社で、あらゆるところに使いまくるものだから<専売特許>と揶揄されましたねえ。

行きつけの大型書店で、日頃は縁のない受験参考書コーナーをのぞいたら、教学社の「赤本」と河合出版の「黒本」という<二大勢力>が棚を独占していた。店員さんに聞くと大学受験の「赤本」は各大学の学科別で、センター試験中心の「黒本」はノンジャンルなのだそうだ。どちらも解説・解答付きで価格は「赤本」の税込み950円に対し、「黒本」は1,000円で、こちらは英語リスニングテストのCDまで付いている。この価格でやっていけるのは系列進学ゼミのPRということもあるのだろう。隣の棚の公認会計士、税理士、ケアマネージャーなど各種受験参考書の棚の題名にも「まる覚え」「最短合格」「出る順」などが目立つものの題名の「傾向と対策」は見当たらなかったから、キャッチコピーとしては古びてしまったというか、時代の流れではあろう。

寄り道していると思われそうだが、いまどきの「過去問」を取り上げたのは『帝國大学入學提要』との相違点を紹介したかったからである。いちばんの違いは「過去問」には当たり前のように付いている模範解答や解説がなかったから、自分で問題を解く必要があった。いまも昔も<敵を知り己を知れば百戦危うからず>までは変わらないが、各大学の入試傾向がわかったら、自分なりの対策、いや勉強をしなければならかった。もっとも、自分で解答してみることで「己の実力」がよくわかるはずである。

『帝國大学入學提要』の冒頭では「冷淡なる現行制度」と題して「現在の高等学校は高等普通教育を授けるところで大学の予科ではなくなった。北海道、京城、東京商科大学のように予科制度のある大学もあるが、事実は高等学校を卒えただけでは社会が相手にしないし、学問研究も単に糸口だけを与えられたに過ぎないもので、社会に職を求め、研究を続けるにはどうしても大学の門をくぐらなければならない。ところが文部省も大学当局も(受験制度を)冷淡視している」として、ある帝國大学を三年連続で落ち、某私立大学へ入学した例をあげて「しかし当局は彼に一掬の同情も持たない。責めは彼にあるのだから制度がこうある以上は、よくよく自分の能力、将来の仕事を見極め、充分熟慮したうえで、いかなる大学、学科に向かうべきかについて態度を決せねばならぬ」としている。それを前提にしたこの解説もまわりくどいし、いささか冷淡であるまいか。さらに学部学科の選択については「同じ文科系統であっても分かれた各部の相違は実に天地の差も甚だしいものがある。それは単に攻究する科目の差異のみならず卒業後の一生の生活を支配するところのものである。もっとも人間はある程度までは適応性があるのであって<住めば都>のたとえのように多少の差異は無視してもいい場合もあるが、これも程度問題で、自分の不適当の学科を出たために大学生活を棒に振ったという例も少なくない」と警鐘を鳴らす。

こうした「一般論」が延々と続いたあとで本文の半分近い30ページ以上を割いて紹介されるのが東京帝国大学の入学試験や卒業後の進路についてである。時代を反映しているのは、法学部は、「兎に角、官界における東大法科閥の根ばりはすばらしいもので殆ど絶対的といっても過言ではない」。医学部は、「陸海軍、鉄道、赤十字の病院、伝研(伝染病研究所)駒込、泉橋病院等に行くか、市内一流の病院に入るかで、背景が大東京を控えているだけに地方へ行くものは少ない」。工学部は、「もう5月になれば卒業者三百十余名中八九割は何れかへ売れて行く。その中、役人が一番多く、次が三菱系の諸会社、満鉄その他の順である」としている。ところが理学部では「ほとんどが教員であり、次が官庁民間技術員であることは工科に似ている」に続いて「不景気のこの頃でも困難しない特徴を持つ。俗塵を追わず静かに自然を友とし宇宙を対象として悠々研究に耽らんとする好学の士にはもってこいのところである」というのがおもしろい。

関東大震災後に新設されたと思われる地震学科を「我が地震国にあっては益々重要視されるであろう」と紹介しているが理科系学科では必ず「特記」されているのが体格について厳重な試験がある点だろう。とくに医学部では「多忙な学科であるから殊に身体の強健であることを必要とする。健康に自信のない人は志望しないことを希望する。体格だけで不合格になる者が毎年少しずつあるのは残念である」、農学部では「学術試験にパスしたが体格検査で、あまり病勢が進んでいない者は来年の優先権を与えて1年休学させる」としている。

これに対して他の帝國大学などは「東京帝大のところでその概略を記したのでそれぞれの特色のみを拾う」としているものの京都、東北が3ページ、九州、台北が1ページ、その他の帝國大学に至ってはわずか6行だけなのは取材先がすぐ近くの東京帝国大学の先生方や学校当局に集中していたからだろう。

ところでユニークな問題として昭和3年度の東京帝国大学医学部の物理の問題のひとつに「端艇を漕ぐ時、櫂先にて水を泡立たせると、泡立たせざると、いずれが艇を進むるに有利なるか、その理由を説明せよ」がある。ねらいは、単なる勉強家ばかりではなくボートマンならよく知っている問題で<応用力>を試そうとしたのだろうが「ボートを知らないほうが却って良かったという結果になったとある。平生から真面目に普通の勉強さえしていれば驚くには当たらないし、医学部では身体強健で、かつのんびりした実力を持った人を歓迎する」としている。想像だが「泡によって浮力が増すから」などの珍答・迷答が多かったか。たまたま同じ水上スポーツのカヤックをやっているので知っているが、ボートマンの常識のひとつに「大きな泡で漕ぐな」というのがある。櫂=オールの先端部のブレードを水中に浅く入れるとその廻りに白い泡が発生する。泡は乱れた渦を生じさせてエネルギーを無駄に使うことになる。ブレードは艇を進めるための「梃子の支点」なので、エネルギーを吸収する泡がない方がよりスムースな流れとなるわけで後者が正解だが、出題者は<漕艇部出身>だったのではなかろうか。

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冒頭で出版元の文信社が「どこかで聞いたことがある名前」と思ったと書いた。そうだ、宮沢賢治が東京へ家出したときに校正係として勤めていた「東大赤門前の謄写プリント店」だったと思い出したのは帰宅後だ。「ひょっとしたらこの本も賢治が校正したのだろうか」と期待して賢治の伝記研究で知られる児童文学者の堀尾青史の年譜を調べた。それによると「文信社は謄写版で学生用テキストを出版していた印刷所で、大正10年(1921)1月、家出した賢治はアルバイト校正係として採用された。本郷菊坂町の下宿から歩いて通勤したが8月、妹トシ病気の知らせで花巻に帰る」とあるから、残念ながら時期がずれていた。

謄写版印刷を細々やっていた文信社も、その後は活版印刷も手掛けるようになり、奥付から東京だけでなく、大阪、京都、名古屋、九州に売捌所を契約していたことがわかる。ここにある発行者の石田嘉一が賢治の苦境を聞いて採用した人物だったのだろうか。

もうひとつ紹介したいのは『帝國大学入學提要』の<厚さ>についてである。古書ネットには東京都武蔵野市の古書店に昭和10年版がたった1冊だけ見つかった、価格は6,300円で「少朱線有、厚さ3センチ」とあった。その値段はさておき、わざわざ注記された厚さのほうに興味がわいた。手に入れた昭和4年版が半分の1.5センチだったのが6年間で厚さが2倍になったことになる。ならば、毎年度の新版が発行されるたびに厚くなっているのではないだろうかと考えた。
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次に全国の図書館の在庫データを検索したところ、東京大学の駒場図書館にこの本の前身の『帝國大学入學受験提要』と、同じ昭和4年版から11年版までが揃って収蔵されているが「禁帯出」だった。国立国会図書館には昭和7年版以降しかなかったが、たまたま近畿では彦根高商の流れをくむ滋賀大付属図書館の本館旧書庫に7年版と11年版があることがわかったので思い切って問い合わせてみた。いただいた返事は「表紙が外れたので現在修理中だが、本体の厚さはそれぞれ2.3センチと3.5センチです」ということだった。手元にある昭和4年版が1.5センチだから、想像した通り毎年厚くなっている。原因として考えられるのは毎年度、付録の問題を追録して発行したからだろう。あるいは「解答編」を付けたから厚くなったとも考えたが、それならもっと厚くなるか「別冊」になったはずで、やはり「付録は問題集だけ」だったはずだ。解答付き、ましてや懇切丁寧な解説まで付けるというのは当時というか戦前の<常識>ではなかったのである。

池内 紀の旅みやげ(43)江戸の掘抜──山梨県河口湖

  • 2014年7月18日 15:56

大きな川や湖には水量を示すスケールが立てられているものだ。専門用語でどういうのか知らないが、目盛りを刻んだ細い板であって、大きな物差し状のものが水からスックと突き立っている。
ときおり、そのタテの標識版に小さな横板がついている。洪水や増水のときの異常水位を示すもので、利根川などには何本もの横板がついており、洪水常習地帯だったことを伝えている。
これは河口湖のもので、上の横板には「昭和十三年洪水高3・07m」、下には「昭和十年洪水高2・50m」と記されている。数字上はたいしたこととも思えないが、見上げる横板の高さよりして、そこまで満々と水があったと思うと、ただならぬ風景だったにちがいない。

河口湖の水量計。

河口湖の水量計。

それ自体は何でもない標識だが、まさにその水量をめぐり、二百年近くに及んで汗と血をしぼるような土木工事が行なわれたことを思い出すと、様相が大いにちがってくる。
歴史の本には「河口湖掘抜(ほりぬき)」として出てくる。河口湖畔の船津から、山一つ向うの赤坂までトンネルを掘り、水を送ろうというのだ。湖畔の村々は毎年のように洪水で苦しんでいた。一方、山向うの新倉村は水に乏しく、こちらは旱魃に悩まされた。
立ちはだかる山を動かすことはできないが、水を通す穴を掘ることはできる。一本の隧道が治水と水利の効用をもち、二つの苦しみを一挙に解決できる。
元禄三年(一六九〇)、郡内領主秋元但馬守喬和(たかかず)の命により、全長約四キロに及ぶ掘抜き工事が始まった。道具といえばせいぜいのところ鶴嘴(つるはし)や石鑿(いしのみ)ぐらいで、クワとモッコが補助をする。堅い岩盤は「焼堀り」といって、その上で火を燃やし、石質を軟化させてから崩していった。煙の処理のために竪穴を掘った。竪穴は土砂の搬出や、進路の確認のためにも必要で、深さ四メートルから二十三メートルに及ぶものが計九本つくられた。
取水口と出口の双方から掘りすすめ、中で合わさるはずが、当時の測量技術のせいだろう、隧道は大きな食い違いをみせて合わさらなかった。
期待が大きければ、落胆も大きい。隧道熱は一挙にさめて、以後、放置されていたが、弘化四年(一八四七)、工事再開。部分的に旧隧道を改修しつつ新しく掘りすすめ、六年後についに完成。悲願の通水をみた。しかしながら水位の見つもりに計算ちがいがあったとみえて、水量に乏しく、増水対策、開田のいずれにもさほど効用をみせてくれない。文久三年(一八六二)、みたび工事にとりかかり、三年後に完了。ようやく大量の水が湖から山向うへと送られて新田を誕生させた。着工から数えると一七〇余年後のことだった。元禄年間のことがほとんどわからず、弘化以後の記録だが、総工費一二〇〇〇両、総労役のべ一〇余万人とある。もっぱら人海戦術で土木史上に珍しいトンネル工事をやってのけた。
現在の船津は河口湖遊覧船発着所であって、小公園、土産店、旅館が並んでいる。天皇お泊まりの由緒を誇る河口湖ホテルもすぐそばだ。冨士レークホテル、山梨宝石博物館、「湖上の女神」、河口湖ハーブ館……。誰もがリゾート地の観光に忙しく、掘抜工事の由来などには関心を抱かない。観光地図には、華やかなエリアの中の一点のシミのように「河口湖新倉掘抜史跡館」とある。
富士急の終着河口湖駅のやや東かたに「新倉」の三叉路がある。しかし、そこから船津までは一キロたらずであって、旱魃で苦しんだ旧新倉村ではないだろう。史跡館のあるのは船津三叉路から湖に出る手前、旅館街の入口の山沿いで、黒々とした溶岩のかさなり合う斜面にポッカリと穴が口をあけていて、中に石仏が祀られている。すでに地形が大きく変わってしまって、取水口がどこにあったのかも判然としないが、石仏のある穴は掘抜の一部にちがいない。
かたわらの古びた建物の奥まったところに、通り側とは別の入口があって、「日本最長手掘トンネル 河口湖掘抜史跡館」の看板があって、「入館料 大人500円 小人300円」。しかし、入口にはさびついたシャッターが下りていて、看板自体も放置されたぐあいなのだ。開館時間が黒く消されており、史跡館というよりも正確には「史跡館史跡」というべきものかもしれない。

日本最長手掘トンネル河口湖掘抜史跡館の史跡ですか?

日本最長手掘トンネル河口湖掘抜史跡館の史跡ですか?

冨士五湖のうち、河口湖は賑やかだが、一つ西の西湖はもの静かな湖である。南には広大な青木ヶ原の樹海、北は十二ヶ岳をはじめとする山々。先だって周遊バスに乗って西湖を一周してきた。そのあと、気になったので船津で下りて、数年ぶりに「掘抜史跡館」の前に佇み、黒々とした石の重なりと、ポッカリと口をあけた穴をひとしきりながめていた。
前代未聞の土木工事は噂をよんで、工事現場には連日、多くの見物客がつめかけていたのではなかろうか。風雲急を告げる幕末にあって、風光明媚な湖畔の山で、フシギな隧道工事が進んでいた。当事者は神に祈る思いで見守っていたのかもしれないが、民衆には多少とも風変わりな祭礼である。その点では「日本最長手掘トンネル」の多少ともショー的なキャッチフレーズは、トンネルの一面を要約しているかもしれない。
それはともかく、前近代の土木技術がみせた貴重な成果の一つである。町当局は資料をまとめ、残された隧道を整備して、「水の物差し」にかかわる過去の記憶を、きちんと残す必要があるのではなかろうか。

【今回のアクセス:】富士急・河口湖駅よりゆっくり歩いて十分たらず。河口湖町教育委員会の説明板がある。

書斎の漂着本 (33)  蚤野久蔵 踊る地平線② 

  • 2014年7月16日 10:12

谷譲二の『踊る地平線』(中央公論社、昭和4年)の続き。満州・ハルビンの滞在がようやく終わり、いよいよ7日間のシベリヤ横断の旅に出発する直前でアフガニスタンの国王一行と乗り合わせることになったところまで紹介した。
*        *        *
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王様一行は王族をはじめ、宮内大臣、侍従、料理部員などの「一大混成旅行団」だから、いい車両はすべて彼らの専用車両に充てられることになった。仮にも王様御用達なら致しかたない。一等旅客は不平たらたらであったが汽車賃の払い戻しを受けて二等車に詰め込まれる羽目になった。

同じ車両に乗り合わせたのは日本人が九人、ドイツ人の男女が各ひとり、アメリカ人の老婆、チェコスロバキアの青年、中国人の紳士という顔ぶれで、モスクワに着くまで「一致団結して外敵露西亜人へ当たる」ことを申し合わせた。何しろ、人も怖れる西比利亜(シベリヤ)の荒野を共産党の汽車で横断しようというのだから、その騒ぎたるや福島少佐の騎馬旅行以上だ。ことに本邦人=日本人は、知るも知らぬも低頭しあって
「や!どちらまで?」
「伯林まで参ります。あなたは?」
「ちょっと巴里へ。いや、どうも――」
「いや、どうも」
名刺が飛ぶ。
「こういう者でございます。どうぞ宜しく」
「は。わたくしこそ」
何かとそこはお互いに<にっぽん人>だ。こうなると黄色い顔がばかに頼もしい。これだけ揃っていれば、なあに矢でも鉄砲でも持ってこい!さあ、やってくれ!というので、わっとばかりシベリヤさして威勢よく押し出した――とまあ思いたまえ。

運命をともにする日本人諸彦(氏)。車室順。

A氏。日本橋の帽子屋さん。汽車が走っている間は花(札)と将棋。停まるが早いか駅々から故国日本へ懐かしい便りを投ずる。
M氏。銀座の洋物店M屋の若旦那。A氏と同伴で商売発展の準備にチェコのプラアグ(プラハ)へ行く途中。鞄からいろいろなものが出る。山本山の玉露、栄太郎の甘納豆、藤村の羊羹、玉木屋の佃煮、薬種一式、遊び道具各種、至れり尽くせりだ。外国語がペラペラである。
O教授。K大学法学部の若い先生。しきりに沿線各駅で子供の絵本を買い集める。おっせっかいなのが「坊ちゃんですか、お嬢さんですか」。教授、猛烈な近眼をぽかんとさせて「え?じょ、冗談じゃありません。まだひとりです」。道理で洋服のお尻に穴があいている。
W選手。J新聞社世界早廻り競争の西まわり選手だ。大きな日の丸を胸へつけて、社内随一の元気である。莫斯科(モスクワ)から伯林へ飛行機で飛ぶべく、毎日その返電を待っている。一同いっしょになってやきもきしているが、まだ来ない。勝っても負けても好漢Mはその独特のスポウテイな微笑を忘れないだろう。
Y氏。K造船所の飛行機技師長。口角泡を飛ばして列強航空力の優劣を討議し、つねに正確に悲憤慷慨に終わる。独逸に行かれるのだそうだが、いろいろの専門の機微に入った使命があるらしい。一日、お願いして私と彼女に飛行機の講義をしていただく。絶えず葉巻を口にして「そりゃあ着々やっていますよ、日本でも。えらいものです」
S氏。Y氏の同行者。停車中、雪の降る野天のプラットホームを外套なしで歩くのは、全乗客中Sさんだけだ。みな驚いている。
O先輩。H高師(高等師範)教授。いつも彼女をつかまえて婦人問題を論ずる。その他の場合には忍耐深い傾聴者。伯林へ。

これから九人の日本人が同じ車両に陣取ってへうべう(縹渺)たる西比利亜を疾走するのだから、そのア・ラ・ミカドなこと宛然移動日本倶楽部の感がある。めいめい社会への接触点を異にしているために、ふだんは滅多に顔が合わず、会っても社交的儀礼に終始するであろう人々が、ここに各人生の一頁を持ち寄って心おきなくおたがいの生活と人間を提示しあっていく。旅なればこそ、だがこうして旅行中に逢っては離れる「人の顔」ほど断面的にそして端的に印象を彩るものはあるまい。それは私にとっては、忘れ得ない感傷の泡沫でさえありうるのだ。

紹介するにあたり何ヵ所かは現代用語に置き換えたが「ア・ラ・ミカドなこと」ってどういう意味だろう。ミカドは帝ではなく御門とすると、宛然は「そっくりそのまま、あたかも」だから、意訳すれば「その多士済々ぶりはまるで移動日本(人)クラブの感がある」くらいの意味だろう。ア・ラ・カルトが「献立表によって(注文する)」から、一品料理と訳されるが、このア・ラに御門=ミカドをつけたシャレだったか。そのものずばりの項目があるかと戦前の辞書を探してはみたが見当たらなかった。

満州最後の停車駅、満州里(マンチュリ)で通関。いよいよ露西亜である。莫斯科(モスコウ=モスクワ)まで何日、あるいは何十日かかるか。それはひとえに時の運と汽車の感情によるのだから、復活祭に乗り込んでXマスの前夜に着くかもしれない。のみならず食堂車というのも名ばかりで、兵隊みたいな給仕のほか、政府の規則によりあまり多くの食品は積まないことにしているし、これも政府の規則で、莫斯科に近づくにつれてだんだん皿とフォークだけになってしまうし。とにかく欧羅巴(ヨーロッパ)に行きつくまで何とかして露命をつなぎ、せめては餓死しない判断を上分別とする。

車内「これだけは心得おくべし」
O停車時間を見るには時計よりも暦のほうが便利なこと。そうかと思うと気まぐれにすぐ出ることもあるから、合図の鐘が鳴ったら逸早く駆け込むこと。
O常ににこにこして、殊に露西亜人のボーイには必要以上の好意を示すこと。
O神仏どちらでもいいから、絶えず安着を祈ること。
O念のための格言=艱難(かんなん)汝を玉にす。

当然、すったもんだがあったが汽車はようやく莫斯科「北部停車場」に滑り込んだ。
彼らの莫斯科(モスクワ)日記を少しだけ紹介しておく。

1928年の初夏、ふたりの極東の巡礼が靴の紐をむすび直した。
第一日。
にわかに旅程を変更して「赤い都」の何日かを持つべく、保護色のために私たちもせいぜい赤い顔をして赤い群衆に混じり、赤い――実は黒い――石たたみを踏んで最初の赤い空気を呼吸したのだ。Mind you 私たちは現世紀を吹きまくる赤色台風の中心にいるのだ。気のせいか提げている鞄まで赤くなりつつある。その重みでよろけながら、停車場の石段のうえで私は心中に絶叫した。――はゝあ!これが莫斯科か!
*        *        *
「5月1日が近い」という第十一日目であって、ワルソオ(ワルシャワ)、伯林、オスタント(フランス)へ。

私たちはオスタント・ドウヴァ間のSSヴヰユヰユ・リエイジュ号の甲板上に、近づく白亜の英吉利の断崖を見守っている自分たちを発見した。
はるばるも来つるものかな――やがて人潮(ヒューマン・タイド)の岸、ロンドンをさして汽船はドウヴァをゆるぎ出るのだ。半球の旅の終わりと、空をこがす広告塔の灯りとが私達を待っているであろう。

ここまでで日本から朝鮮半島、満州、ロシア、ヨーロッパへの「踊る地平線」の第一章はようやく終わり、次の「テムズに聴く」のイギリス篇に移る。
*        *        *
もちろんさまざまな大事件、珍事件が起こる。最後の最後、帰国の前夜の倫敦(ロンドン)で夫妻は旅券を紛失してしまう。

部屋の内外は勿論、荷物は全部出して、トランクからスーツケースから一応、順々に逆さにして振ってみたけれど徹夜で探しても問題の旅券はとうとう出てこなかった。この旅券捜査には、下宿の老婦人をはじめ、同宿の連中から女中一同まで、総動員で手、というより眼を貸してくれたのだがついに徒労に帰した。

翌朝早く、私達二人は倫敦の日本領事館へまかり出た。そして平身低頭、泣きを入れてやっとのことで新しい旅券の再交付を受けてようやく帰国の船に乗ることができた。
もっとも、帰国の船だから旅券なしでも乗れるけれど、そのかわり旅券入用の土地、例えば英領植民地などへは寄港しても上陸が許されない。

ところが五十日近い海の旅を終えて先日日本に帰ってみると、外遊中の留守宅を頼んでおいた鎌倉の某家へ、私宛に倫敦の下宿から厚い封筒が届いている。シベリヤ経由だから私たちより先に、当の昔に着いたのだ。何だろうと開けてみると、出発の時、あれほど骨を折らした古い旅券が出てきたのには驚いた。手紙がついていた。

「御出発後、女中がお部屋を掃除しましたところ、戸棚の敷紙の下からこれが出て参りました。勿論あなた自身が安全のためにそこへ入れてお忘れになったのでしょう――」。

それにしても大冊なのに全く飽きさせないのは変幻自在な文体と、旅を単なる直線の記録ではなく、時を遡り、かと思えばまた先のことを紹介していく巧みな構成によるものだ。この旅券騒動記も顛末が明かされると続けて

が、これは五十日あとのこと。
いまはもう一度倫敦出帆に逆行して、あらためて錨を上げる。
(4月20日)午前九時、SS・H丸はロウヤル・アルバアト・ドッグを離れてテムズの河口へ揺るぎ出た。
がたん!
踊る水平線へ!
そして、極東日本へ!
*        *        *
巻末の広告は1ページ大の「西部戦線異状なし」である。
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「独逸(ドイツ)では80万部を売りつくし・・・」とあるが、反戦的ということでナチス・ドイツでは所有そのものも制限される禁書扱いになった。
「あたりはいちめん死人の山で誰一人生き残って、軍司令部の公報「西部戦線異状なし」を聴く者がいない。何という静かな幕切れ・・・

戦争はまだ遥かかなたの欧羅巴にあった。