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書斎の漂着本  (29)  蚤野久蔵 京都寶塚ニュース

  • 2014年6月23日 18:22

京都の古書店で見つけた昭和16年(1941)の『京都寶塚劇場ニュース』9月号は、隅の一部は欠け触ると破れそうだった。あと3か月ほどで太平洋戦争が始まるという時期である。値段はたしか300円だったので、ひょっとしたら『蚤の目大歴史366日』に使えるかもしれないと購入した。ぼろぼろのチラシを買おうなんて何をまたモノ好きなと言われそうだが、なかに観覧券の半券が挟まれていて、そのスタンプから「9月4日」と日が特定できるのも面白いとも考えた。「三階席リ18」で、そこからは舞台をかなり下に見下ろす位置になる。料金は税共1円ちょうど。「此切符発行後公演中止の際を除く外料金の払戻他日又は別の番号の切符と御取替致しませぬ」と印刷されている。

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半券と同じ日付が表紙のいちばん上の写真のところに「16.9.4」とブルー・ブラックのインクで書かれている。これは家に帰ってから記入し、半券も大事に挟んでおいたからそのまま残ったのだろう。半券などはポケットに突っ込んでいつの間にかなくしている私と違ってかなり几帳面な性格だ。しかも数字の感じから男性のように思える。喜劇ファンだったが舞台に近い席には手が出なかったから3階にしたのか、それともそこしか空いていなかったののだろうか。検索したところ天候などはわからなかったが9月4日は木曜日だった。ということは木曜定休の店などに勤めているとか、休みを自由に取ることができる仕事、あるいはそういう立場の人物なのか。半券は一枚だけなのでひとりだったのだろうと想像したりしているが「そんなことわからないじゃないか、アベックだったかもしれない」などと突っ込まれても「そうかしら」と受け流すしかない。

表紙のカット写真には演目の「エノケンの文七元結(ぶんしちもっとい)」の一場面が使われている。裏表紙は東京・平尾賛平商店謹製の乳白美容料「レートフード」の広告で、「身嗜みに!二・三滴でお肌がひきしまり、溌剌とした美しさになります」とうたっている。肌色と白色の2種類がある。それにしてもこの乳液も、表紙の「ノルモザン錠」という胃薬も、戦後生まれの私は聞いたことのない製品だ。中面の「頭痛・目まひ・歯痛に、ノバポン錠」や「あなたは健康でお美しい!そのお美しさをもっと輝くやうに。品質―第一級品たる東寶化粧料を!」という<ほめあげ・おだて戦術>の東寶健康化学研究所の「ルピナシリーズ」も「場内売店にて発売中!」というから普及品のたぐいだろう。唯一、知っているのは「残暑から・・・秋口の胃腸をまもるヱビオス錠」だ。製品も、それを製造した会社自体も戦争で消滅したのかもしれない。

エノケンの名前で親しまれた榎本健一は東京生まれ、麻布十番のせんべい屋の長男で幼いころから「エノケン」と呼ばれた。学校をさぼって浅草花屋敷で遊ぶうち浅草オペラの魅力に取りつかれ、大正11年(1922)に根岸歌劇団のコーラスボーイになった。翌年の『猿蟹合戦』の猿役のアドリブで大当たりをとるも、歌劇団は関東大震災で壊滅した。その後は名古屋や関西を転々としたあと東京に戻り、昭和6年暮れに自分の一座を持つと小柄だがどんぐり眼に大きくて厚い唇、しゃがれた声で口から出まかせのセリフをしゃべりながら舞台を飛び回る面白さが受けて一躍浅草の人気者になった。

演出家の菊谷栄と組んで映画にも進出してヒットを続け、松竹専属になったが菊谷が中国で戦死すると、舞台でも精彩を欠くようになり松竹を退社してしまう。昭和13年には東宝に移籍したが名前はエノケンと榎本健一が混在した時代だった。京都での座長公演も「東宝榎本健一一座」となっている。演目には『エノケンの文七元結』六景と『逃げる仇討』四場、『嫁取り婿取り』七景の3本が組まれている。

『文七元結』は落語の三遊亭園朝の創作で、腕の立つ左官だが賭けごと好きで50両もの借金を作ってしまった父親の長兵衛をいさめようと娘が吉原に身売りする。長兵衛はこの金を受け取って帰る途中、吾妻橋で身投げをしようとしている男を見つける。そのわけを聞くと白銀町の鼈甲(べっこう)問屋「近江屋」の奉公人の文七で、さる屋敷から集金した金50両をすられてしまい、死んでお詫びをするという。長兵衛は持っていた50両を差し出して・・・。どんでん返しに次ぐどんでん返しだからこのくらいにしておくが、<大真打>と呼ばれる落語家だけが許されるご存じの人情話である。

『仇討』の猿江充馬も『嫁取り』の山下課長も主役はすべて榎本健一だから、表紙には「おことはり」として「出演者病気その他事故により休演の節は代役をもって相勤めます故、何卒御了承下さいませ」とあるが代役は端からいそうにない。「東宝榎本健一一座」の公演がいつまでかは書かれていないが、そのあとは映画3本立てが予定されているようで成瀬己喜男監督、高嶺秀子主演の『秀子の車掌さん』、原節子主演の『女教師の記録』、榎本健一一人三役主演の『エノケンの爆弾児』が紹介されている。「エノケン一座総出演」とあるからこちらでも大活躍である。榎本は太平洋戦争の勃発を朝鮮・満州巡業中に聞いたそうだから京都公演の次は休む間もなく海を渡ったのだろうか。<忙しすぎる喜劇王>である。

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昭和16年の京都を『京都の歴史』(学藝書林)の年表からたどると3月13日には市役所に防衛部が設置され、4月1日には大政翼賛会京都支部が正式に結成された。同じ4月には立命館大学で国防講座が始まり、同志社大学では日米関係悪化を理由に外人教師が学校を去った。近づく戦争にもかかわらず、京都寶塚劇場は連日満員だったようだが、最後のページにある『映画放談』のなかに<戦争の予兆>を見つけた。

「最近色々の事情から、劇場内案内用の懐中電灯の電池が、以前の様に無制限に入手出来なくなりました。又、それでなくとも時局下一片の資材も生産工業へ、との私達の建前から、今後は場内案内の電気を節減の方針を取る様になると思います。しかしだからといって場内を現在以上明るくすることはスクリーンへの影響上不可能なので明るい戸外から急に入場されたお客様に多分御不満を感じさせる様な事が有るかも知れませんが何分この事情を御諒解の上御辛抱をお願い申し上げます。皆様の劇場として銃後娯楽報国の誠を盡す覚悟でおります」

「たかが電池」だけにとどまらず、映画製作にも軍部の全面協力と引き換えに国威発揚の<美名>のもとに戦争賛美があからさまに求められる時代背景を感じる。そこまで来た戦争の足音が聞こえるようだ。

待望一年!全日本映画界の注視を浴びて完成、いよいよ封切迫る!という原節子主演の『指導物語』には「戦野を駆ける鉄道隊!多くの兵士を前線へ輸送する血と汗の鉄道兵の活躍!機関車乗務員の涙ぐましき激闘を描いて限りなき感激と興奮を盛って支那大陸へロケ敢行、初秋に放つ一大熱血巨篇!」とある。

『映画放談』にも「聖戦遂行の一端を負う鉄道兵のなかでも機関員になる兵士は、他の諸兵科と違って特殊技能を得るために、国鉄の機関区に入って機関、運転、投炭の技術を僅か三ヶ月で修得して各戦野に赴き、幾多の兵士の生命を預かる。修得期間における指導員と兵との間には骨肉もただならぬ愛情の炎が燃え上がってくるわけで、この映画はそこを狙っているのである。『上海陸戦隊』を発表して以来、この作品に全力をかけてきた寡作家・熊谷久虎監督の力作を期待して止まない」と紹介されているのも開戦を見越したかのように思えてくる。

この6年前の昭和10年10月12日に宝塚少女歌劇団花組記念公演で華やかに開場を飾った京都寶塚劇場は河原町六角交差点の北西角にあった。戦後建て替わったが平成18年(2006)に70年の幕を下ろした。「銃後娯楽報国」の流れのなかで「東寶榎本健一一座」の喜劇公演のあとには『指導物語』が上映されたわけである。

さて、「三階席リ18」の<喜劇ファンの御仁>は果たしてこの映画も観に行ったのだろうか。

池内 紀の旅みやげ(42)涅槃経ミクロコスモス─旧品川宿

  • 2014年6月18日 16:06

用があって都心に出てきて、思いのほか早く用件をすませたときなど、どこかに足をのばしたくなるものだ。中央線沿線に住んでいるので、西の方にはなじみがあるが、東の総武線や、北の王子、浦和方面はまるで知らない。「つくばエクスプレス」と聞くと、一泊で出かけるような遠方の乗り物を思ってしまう。

この日は三時すぎに神田で用をすませた。神田駅近くには午後早くから開いている居酒屋があるが、何となく縄ノレンという気分ではなく、昔風の落ち着いた喫茶店で、香りのいい珈琲を飲み、少し考えごとをしたいと思った。フランチャイズ系のチェーン店ではなく、すわると冷たい水がきて、やおら注文。ジョッキのようなカップにバケツ一杯風のコーヒーではなく、挽きたて、煮だしたてが、店主のこだわりのあるカップで出てきて、口に運ぶと香ばしい匂いが鼻をくすぐりにくる──そんな珈琲。

記憶というのはヘンなはたらきをするもので、とたんに思い出した。京浜急行の青物横丁駅を出たところ.ある女性から交番のすぐわきに「イケウチさん好みの喫茶店」があるとおそわったことがある。二年あまりも前のことで、「わざわざ品川くんだりまでなァ」と思って聞き流した。どこで二年間眠っていて、いかなるメカニズムで甦ったのか、やにわに青物横丁が記憶をかすめた。風変わりな駅名で、ズラリと野菜や果物の店が並んでいるふぜいである。品川経由の京急乗り換え、ものの十五分もしないうちに当の駅に降り立っていた。

交番はすぐに見つかった。すぐわきの「イケウチさん好みの喫茶店」というと……ドアが閉まり、そこに貼り紙がしてある。近年よくあるのだが、この貼り紙というのがイヤなもので、たいていの場合、通いなれた銭湯や理髪店の休業を告げている。時代に合わない世代が通いなれた店は、お店自体が時代に合わず、主人が老齢で、そろそろしおどきということになったケースである。

その覚悟をして、こわごわ近づいたところ、ヤレうれしや、休業のご挨拶ではなく、奥のボイラーが故障したので、取り替え工事のため臨時休業とのこと。喫茶店にボイラーというのも奇妙であるが、古風なつくりの店であって、何かの理由でボイラーがついているのかもしれない。古風なだけでなく、よく見ると、ドアや窓飾りにもこだわりがありげで好ましい。まだ一度も入ったことはないのに、なにやらなじみの店的親しみを覚える。前をウロウロしていると、となりの交番の前に警官がいて、問いたげにこちらをみた。

京急と交叉する通りに「ジュネーヴ平和通り」と標識が出ている。青物横丁がどうして急にジュネーヴになるのか不可解だが、ジュネーヴに似ても似つかぬ通りを行くと四つ辻に出た。こちらはオーソドックスな「東海道」の標識で、おもえば品川は東海道五十三次の一番目の宿場である。京から下ってきた人には第五十二番目で、はるばる来しものかなの思いがしたにちがいない。

右に曲がると品川寺(ほんせんじ)という立派な寺で、古木の下に大きな青銅の地蔵がすわっている。「江戸六地蔵」の一つだそうだ。ジュネーヴから突然、江戸と対面して、頭は了解しても感覚がともなわない。お地蔵さまが夢の風景のように見える。奥に入ると大銀杏(いちょう)がそびえている。樹木も高齢になるとお化けに似てくるらしく、太い幹から乳が垂れて固まったようなものが何本も下がっている。おとなりは閻魔堂で、地獄の大王がハッタとにらんでいる。これまた突然の出現で現実感覚が伴わず、何やら白昼夢を見ているここちである。

しかし、人間はすぐに現実に目ざめるようで、夕方のけはいに居酒屋が恋しくなってきた。「香ばしい珈琲を味わいながら考えごとをする」というのが当初の目的だったと思うが、ボイラーの故障ひとつで思いがけない周遊をした。距離にするとほんの数百メートルだが、青物→ジュネーヴ→地蔵→お化け銀杏→閻魔様ときて、時空間をへめぐった気がしないでもない。さしあたり品川駅に近い吞み屋で、カン酒を手に考えごとをすることにして、しかしよく考えてみると、さして考えごとの必要があるわけでもないのである。

考えごとをするために彷徨った末の光照山真了寺の山門の象さんです。品川区

考えごとをするために彷徨った末の光照山真了寺の山門の象さんです。品川区

気持ちがふっきれて身が軽くなった。同じ道はつまらないので、ジュネーヴを通りから一つ先の小路づたいに京急駅へ向かっているとフシギな門に遭遇した。青銅づくりで鳥居のかたちをしているが、横木にあたるのが三本ある。左右の柱には頭に飾りをつけた象が長い鼻をのばしている。その上に仏がいて、さらにその上にバクのような動物や、極楽鳥がレリーフ状に刻まれている。「光照山 真了寺」と金文字が入っているから、寺の山門にあたるのだろう。

品川宿の古刹・真了寺の不思議なブロンズの山門。めぐる輪廻の世界があるのですね。

品川宿の古刹・真了寺の不思議なブロンズの山門。めぐる輪廻の世界があるのですね。

内側はカラーつきで、蓮の花が咲き乱れ、羽衣をひるがえして無数の天女が舞っている。上に立て琴のようなのが二つ乗っていて、これが奏でる楽音につれて天女が舞い、天界から霊が下りてくる趣向のようだ。あまりに突飛なので、再び現実感覚がともなわず、しばらく、ボンヤリとブロンズ門の下に佇んでいた。

確かダンテの『神曲』地獄篇には、「この門をくぐる者は希望を捨てよ」といった意味のことが刻んであったが、幸い品川の門は、そんな邪険なことはいわない。慈悲の涙を流しているように見える。涅槃(ねはん)経がどういうものか知らないが、万物が哀しむとき、象もまた涙を流すと聞いた。何でもありのニッポン国五十三次旧宿場の外れで、ありがたいお経のミクロコスモスを一巡したぐあいである。

【今回のアクセス:京急・青物横丁下車、二十分でゆっくり一巡できる】

書斎の漂着本  (28) 蚤野久蔵 俳人読本

  • 2014年6月17日 11:06

昭和7年(1932)6月に東京日本橋の春秋社から出版された『俳人読本』(下巻)の初版で、もとは箱があったことが、箱張装幀―蕪村真蹟―として「うぐいすの啼や師走の羅生門」など5句が紹介されていることからわかる。ちょっと惜しいような気もするが下巻だけの裸本だから安かったわけで、そこは仕方ないか。

俳人読本表紙編者は明治・大正・昭和と俳人として活躍した荻原井泉水(せいせんすい)で、表紙裏にも芭蕉の真蹟書状が紹介されている。亡くなる1カ月前に江戸での有力スポンサーであり、諸大名の魚御用商だった杉風(さんぷう)宛て。「名月は伊賀にて見申し候」とあってこれが故郷での最後の月見となった。

俳人読本

奈良で作った

菊の香やならには古き仏達
菊の香やならは幾代の男ぶり
びいと啼(なく)尻声悲し夜ルの鹿

があるから、まあ<良し>としよう。

下のカットが紹介した奈良での句である。

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荻原井泉水のことをもう少し書く。東京生まれ、兄と姉が早く亡くなったため、両親が延命地蔵で占ってもらったところ「次子は男であるから長命するように幾太郎と名付けるべし」と言われたそうで、本名は荻原幾太郎。その通り91歳まで生きた。麻布中学時代から俳句を作りはじめ、東京帝国大学文学部言語学科を卒業すると新傾向の俳句機関誌『層雲』を主宰し、季語を使わない自由律俳句の種田山頭火や尾崎放哉を育てたことでも知られる。

もっとも、この『俳人読本』は上巻が1-6月。下巻が7-12月を日付ごとに紹介しているので自由律俳句の出番はなし。代わりに研究を続けていくつも著作がある芭蕉や一茶が多く取り上げられている。俳句にとどまらず手紙や日記、紀行文などもある。

芭蕉の座右銘はこうだ。

人の短をいふ事なかれ
己が長をとくことなかれ
銘に云  ものいへばくちびるさむしあきのかぜ

『風俗文選』にあるそうで、そういえばどこかで聞いたことがありますね。

裏表紙の杉風は、姓を杉山で屋号は鯉屋。江戸日本橋に店を構えていた。

がつくりとぬけそむる歯やあきの風
たま川の水におぼれて女郎花(おみなえし)
あさがほや其日其日の花の出来
川ぞひの畠をありく月見かな

『杉風句集』から引いているが、いくら大店の主とはいえ歯が抜けてしまえば現在のような入れ歯やましてインプラント治療などなかった時代だったから<がっくりと>に実感がこもる。最後の句も畠を歩きながら、だから月に気を取られて足を踏み外し、女郎花のように溺れるなんてことのないようにしなければ。

芭蕉は大阪に着いた元禄7年(1694)9月10日の朝から発病する。ふるえが止まらず、寒気がし、頭痛と高熱があるので「おこり」になるかもしれないと伊賀上野の実兄・松尾半左ェ門に書状を出した。「おこり」はマラリアのような熱病のことだが、それがまさか死病になろうとはその時は気付かなかった。

10月5日
南久太郎町の花屋仁左衛門の裏座敷に病室を移した。夕方、弟子の支考を呼んで「ことのほかに心が安堵した(落ち着いた)よ」と申された。

10月6日
薬が効いたのか気分が良く、自ら起き上がったが「影もなくおとろえはて、枯木の寒岩にそえるようにみえて、今もまぼろしには思はる」と。

10月7日
この朝、急を聞いた大津の正秀が夜船で駆け付け、枕辺で無言のまま涙を流す。京都からは去来が、夕方には乙州、木節、丈艸がやってきた。去来は仕事が忙しく師への孝道ができなかったので、せめてこんどはそばに離れないでおりますという。

10月8日
この朝、門弟たちは住吉大社の四社明神にお参りして師の回復を祈った。夜遅く、芭蕉は看病していた呑舟を呼んで病中吟として

旅に病て夢は枯野をかけ廻る

を書き取らせた。

10月10日
夕方から容態が変わった。夜に去来と少し話をし、その後、支考を呼んで遺書3通をしたためさせた。他に伊賀上野の兄には自筆で「先立つこと残念に思ってやってください」などとしたためた。

10月12日
次の間に門弟らが控えるなかで昼過ぎに芭蕉は目をあけ、周囲を見渡した。お粥を勧めて助け起こしたが唇を濡らす程度だった。小春日和で暖かかったので障子に蠅があつまったのを竹に鳥もちをつけて捕まえようとするのに上手と下手があるのをおかしがられた。その後はなにも言われないまま、申中刻=午後4時に臨終申された。死に顔はうるわしく、まるで眠っているようだった。この夜、川舟で淀川を上った。去来、乙州、木節、丈艸、支考、其角ら10人がつき従った。

10月14日
遺言の通り、大津・膳所の義仲寺で直愚上人を導師にして埋葬、300人をこえる人々が見送った。

死の前後の紹介は、支考の『笈日記』、其角の『枯尾花』などを引いて論考しているから読み物としても面白い。

この本、奥付の上に鉛筆書きで「S44.3.3 阪急西宮北口古本店にて。¥400-」に続けて「上巻 S28年頃、京都高野橋畔の古本屋で、眞岡氏宅訪問の帰りに求めて以来約15年ぶりにて上下茲に揃う」とある。

それから幾星霜、私が入手したのは下巻の裸本だから、芭蕉ではないが『奥の細道』の最後の句「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」である。こちらは、ふた(=外箱)と、み(身=中身)と上巻、下巻だけど。

書斎の漂着本  (27) 蚤野久蔵 奄美の島々

  • 2014年6月15日 07:53

奄美群島は昭和28年(1953)12月にようやく本土復帰を果たした。その当時の様子をよく伝える写真集『奄美の島々』は31年(1956)年4月に毎日新聞社から出版された。黒潮に沿った島々での民俗に関心があったので表紙で紹介された女性の頭上運搬に目がとまって手に取ったが、徳之島の闘牛の写真もあって迷わず購入した。東京時代に買ったがどこでだったか。表紙も破れているから売れなかったらそのまま廃棄処分にされていただろう。

『奄美の島々』毎日新聞社『奄美の島々』 毎日新聞社

鹿児島県のいちばん南にあるのが奄美群島で、奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島が北東から南西にほぼ一直線に並び、奄美大島の東に喜界島がある。与論島のすぐ隣は沖縄本島で、奄美諸島などと表記された地図もあったが、4年前に国土地理院により正式名称の奄美群島に統一された。最大の島である奄美大島の北部に中心都市の奄美市名瀬がある。こちらも以前は名瀬市だった。

写真集は人類学会、民族学協会、地理学会など国内の9学会から構成される「九学会連合」が共同で行った対馬、能登でのフィールド調査に続く奄美大島調査の報告である。戦前は盛んに行われた海外植民地や占領地での調査も敗戦でその全てが失われ、学術体制自体も崩壊するなかで、乏しい研究費をやりくりしてようやく実現した大規模調査だった。本土復帰の翌々年の30年7月から1か月がかりで行われ、調査のニュースはマスコミでも大々的に報道された。それだけに調査地域の人々も大きな期待をもって調査団を受け入れた。フィルムも亜熱帯での使用に耐えるように試作され、調査委員18人が撮影した写真は計9千枚にのぼった。電灯の暗い夜間には1,500発ものフラッシュ球を使用したのはストロボ全盛の現在からは想像できない。

調査当時は、まだ沖縄返還前だったので奄美へは鹿児島からの船便しかなく、写真集はたくさんの紙テープで調査団の出発を見送る鹿児島港の風景から始まる。

名瀬:鹿児島から南方205マイル(330キロ)17時間。大島本島の西北部に位置する自然の良港。船が港に近づくにつれて港の中央にぽつりと岩礁が浮かんで見える。立神岩である。島の人々にも、島に旅する人々にも、名瀬の町の印象とともに忘れえぬ岩である。

名瀬は人口約4万人、群島唯一の市。行政、経済の中心であり、島への一切の文化はここを中継として島々に運ばれる。大島支庁、警察、郵便局、市役所などの公庁、デパートなどがある。だが、市街の大半は1955年12月の大火で焼失した。

調べてみたら12月3日午前4時50分に中心部の料理店から出火、おりからの強風にあおられて市全体の3分の1に当たる1,413戸を全焼、30名余りが重軽傷を負い、約6,600名が焼け出された、とあった。手元にあるいくつかの歴史年表には掲載されていないから、これほどの大火でも<離島のできごと>として報道はされなかったのだろう。

集落(しま):大島本島、徳之島はほとんど全部が山岳地帯で山は海に迫り、耕地に乏しく、部落はほとんど海岸に面したわずかな狭い土地に作られている。サンゴ礁でできた喜界、沖永良部、与論の島々は土地が平坦なため農耕地も多く、部落は島の中に点在している。

台風に備えて山陰にある家々(徳之島亀徳)

台風に備え山陰にある家々(徳之島亀徳)

奄美の部落を眺めるとこの島の独特な形の屋根に気がつく。台風や激しい季節風に備えて、棟には押えが施され、家々は互いに密集して風を防いでいる。また部落の周囲も石垣や榕樹(ようじゅ=ガジュマル)などに囲まれていることが多い。各戸は、住居と台所が別棟になっているところが本土の農家と異なっている。風に耐えるため家の柱や桁にも独特の構造が工夫されている。

戦争中米空軍の爆撃を受け、大部分の部落は壊滅したが、戦後復興し、それとともに古い形の家に混じって近代風の家も並ぶようになった。



高倉の前での農作業(宇検村)

高倉の前での農作業(宇検村)

高倉:高倉は奄美名物のひとつである。穀物倉庫で、収穫した農作物は大切にここに保存し、ねずみの害から防ぐ。太い高い柱はねずみが登れないのである。柱は普通四本であるが、六本のもの、時には九本のものもある。柱の上には桁が設けられ、床が設けられ上には直に屋根がかぶさっていて壁がないのが特徴である。工作に当たっては釘は一本も用いられず、全部組み合わせである。一見不安定のように見えるが、きわめて堅固で、暴風にもよく耐える。また構造上風土的特質である高湿度も防いでいる。近年になってコンクリート建ての倉庫がこれに代わる傾向があり、だんだんその数が減ってきている。



ノロ神(右)を拝む村長たち(名瀬市大熊)

ノロ神(右)を拝む村長たち(名瀬市大熊)

ノロ:約七百年前の琉球王の統治下に施行された祭祀制度であって、当時は那覇の王宮へ行って直接任命されていた。村単位にノロがいて、王妃が任命、直轄する制度であったので、薩摩藩島津の統治下では厳重に取り締られた。ノロの祭は男が全く見てはならない女だけの秘儀なのである。写真やテープに撮るのはもってのほかと部落の女性たちから応諾が得られなかったが世話役の男性総がかりで説得してくれて、祭の前夜の十一時過ぎにやっと「祭の場の神聖を汚さない」という条件付でOKを得た。


祭村芝居:加計呂麻島諸鈍(しょどん)では夏の稲刈りが終わったころ、村芝居が行われる。村人はもとより、離れた小島から舟で押しかけて来た見物人たちは広場の木陰をぎっしり取り巻いている。素朴な大太鼓のひびきで演じる野外劇はリズミカルで動きが活発だ。室町時代前後の念仏踊りや沖縄の素朴な芸能が入り混じっており、奄美文化の特色の一部を示している。

最後に紹介するのはこの写真である。

実家風景瀬戸内湾に面した村(本島宇検)という説明に紙が貼ってあり「この〇印が私の家です。今は母の母が居ります。向こうの山が枝手久島、山と海にかこまれた所です。海はちょっと海の様な感じは致しませんでせう。左側のカヤブキは大島でいう高倉で畠がバナナ園になっております」と書かれている。

〇印 は右下のま新しい白っぽい屋根に付けられている。

他に便箋2枚がはさまっていて、そちらには「秋田在住の井上さん」に宛てたものだ。井上さんが大きな被害が出た31年8月の台風9号について心配して出した手紙への返信のようである。大島はさほどの被害もなかったけれど、ちょうど友人に長く貸したままになっていた奄美の島々の写真集が戻ってきたので送りますとして

「宇検村は私が女学校へ行くまで育ったところです。ハブがとっても多くて襲来にあったことは一度や二度ではありません。私が大島で一番怖いのはハブです。この小さな集落も空襲で焼け野原になりました。戸数百戸ほどですもの。爆弾を二つも落されると全滅でした。あの時のことを思うと身震いします」とある。他にも「8月19日は旧の盆でしたので田舎に行き、父の墓参りをして昨日帰ったばかりです。盆踊りがとってもにぎやかでした。大島の暑さはまだまだこれからです。市内を歩く人々の肌も汗でびっしょり、完全に暑さに参った格好です。秋田の方はそろそろ涼しくなる頃ですわね。こうしてペンを走らせている間でも暑くてやりきれないのです。本当に秋田の方々が羨ましいと思います。そういうことでまた後便とします。サヨウナラ のぶ子」

詮索するわけではないが、手紙の相手の井上さんは男性で、他にも婦人警官の名前などが出てくるのでどこかの警察にいた人物で、定年後?に故郷の秋田に帰郷したのか。のぶ子さんは元同僚らしく、お父さんが亡くなったので、母親の住む名瀬に帰り、何か<臨時の仕事>をしている。ハブの多いことや戦争についてこの手紙に書いたということは、一緒だった職場では故郷・奄美の話はほとんどしなかったようだ。また秋田は<一足早く涼しくなっているから羨ましい>わけで、その分、冬は厳しいのだから行ったことはなさそうだ。ウーム、ていねいな文章の割には「サヨウナラ」はなんか不釣合な気もする。

写真集は奄美から秋田に旅をして、巡り巡って私が入手した東京の古書店に流れて来た。なぜかこの手紙も一緒に。まさしく漂着していたわけですねえ。

書斎の漂着本  (26) 蚤野久蔵 日本昆蟲図鑑②

  • 2014年6月12日 18:55

『日本昆虫図鑑」2前回の『日本昆蟲圖鑑』の続きである。この2.5キロもある図鑑を持って休日に勇躍、手塚治虫ゆかりの宝塚まで出かけたところまで紹介した。

*      *    *

手塚治虫記念館は手塚が5歳から24歳までの約20年間を過ごした宝塚市の武庫川沿いにある。阪急電車の宝塚駅を降りて宝塚大劇場に向かう「花の道」を通るのは、歌劇ファンでもないから“遠慮” して、武庫川を渡る一つ手前の宝塚南口からのコースにした。その2年前に記念館が開館したことを知り、機会があればぜひ訪ねたいと思っていたのと関西学院大に進んだ親友の下宿が近くにあって土地鑑があったのも助かった。

宝塚大橋を渡っていくと川向こう左手が大劇場、右手東側が記念館という位置関係だ。大きさからいうと大劇場には圧倒されるが、記念館のほうはヨーロッパの古城を思わせる。壁面にチタンを貼った円塔のてっぺんには遺作の「ガラスの地球を救え」をモチーフにしたガラス張りの屋根を兼ねた「地球」が見えてすぐにわかった。目ざす常設展示「ジオラマ手塚治虫の昆虫手帳の宝塚」は地階にあった。愛用の黒ぶちメガネや万年筆と並んで北野中学2年生から書きはじめた手描き精密画を添えた『昆蟲戦線記』などがある。ケースの中にあったのをガラス越しに読ませてもらったが、現在の当用漢字の「昆虫」ではなく「昆蟲」が使われてはいたが、それは当時では当たり前だったわけで、実際に見ることができた手塚の細かな字体は図鑑の書き込みとは違う印象だった。がっくりである。

それでもせっかく来たのだからと思い直し、研究員の方に挨拶して訪問目的と後日、質問事項を手紙でおくるのでぜひよろしくとお願いした。来館者が多くそれ以上は難しそうだったからでもある。帰りは図鑑がやたら重かったことだけは記憶にあって、いつもならついでに立ち寄る阪急梅田の「古書の街」にも行く元気はなかった。

手元に10月8日付で記念館からもらった手紙のコピーが残っている。なぜコピーかというと現物は古書店の主人に渡したからだろうが忘れてしまった。

当館には手帳の『昆蟲日記』、手書きの『昆蟲戦線記』『昆蟲の身の上ばなし』をはじめ愛用していた『原色千種昆蟲図譜』『原色千種続昆蟲図譜』『趣味の昆蟲採集』などの本を収蔵しております。そのなかで『昆蟲日記』は昭和17年(1942)10月4日=当時13歳から昭和18年(1943)10月23日=当時14歳にかけてつけていた昆虫に関する日記で、蝶と蛾がほとんどで、それらの関係を研究しています。この手帳は友人間の情報交換の役割を果たしていただけでなく、自分が欲しいのや、交換しても良い昆虫のリスト、今後の採集計画などを連絡し合っています。友人への連絡には次のものがあります。

小生これからクソムシをせんもんにすることにきめました。よろしく御指導ねがいます。

自身が採集したものに限らず、昆虫に関する知識が「豆知しき」として記述されていますが、アブ、カはなく、「手塚治虫所蔵昆虫標本目録」にもないようです。

昭和18年(1943)9月24日(金)箕面奥山でヒラタアブ1種、クロヒラタアブ1種、他24種の昆虫を採集しています。このうちセンチコガネ、蝶と<29世紀ノ昆蟲>に関して絵があることから想像上の昆虫と思われます。地図に描かれた採集経路・採集昆虫には宝塚、生瀬などがあり、今後の採集地として能勢があげられていますが「老黒山」の地名は見当たりません。

手塚所蔵の本にはページの隅にパラパラ漫画を描いたものはいくつかありましたが、書き込みやマーキングはないようです。唯一、『昆蟲日記』の表紙裏に

OSAKAHURITU.KITANO.MIDDLE.SCHOOL.

2.5.44

TETSUKA.OSAMUSI.

というのが見つかりました。以上のこと程度しかわかりません。お役に立てなく申し訳なく存じます。なお、ご参考までに㈱手塚プロダクション資料室の連絡先をお知らせします。『日本昆蟲圖鑑』にまつわる伝説を探るという貴方様の活動、私共も大変興味深く感じております。『圖鑑』はいったい誰のものだったのか。お分かりになりましたら、私共にもご一報いただければ嬉しく存じます、とあった。

調査を依頼する手紙にそう書いたのだろうが、古書店の主人との安請け合いが<伝説を探る活動>になってしまった。ならば、と手塚プロダクションにも連絡を取ることにした。埼玉県新座市野火止のスタジオに出した手紙が、いちばん詳しいというアニメーターとして手塚作品に参加してきた小林準治氏に回り、5ページもの返事が届いた。

手塚先生は小学生から中学3年くらいまで、約5-6年がいちばん昆虫に熱中した時代でした。戦後は採集など直接の虫との付き合いは終り、ずっと漫画に専念して、それでも大好きな昆虫は彼の700(生涯の)作品のうち約180作に、いろいろな形で出ています。

現在、日本には2万人の昆虫愛好者がおり、そのうち80%が蝶の専門家で、他がコガネムシやクワガタの甲虫及び雑虫屋ということになります。その割合のように手塚作品の中の昆虫も圧倒的に蝶が多く、お話のアブやハエなど双翅目(そうしもく)も少しは出てきますが先生がそちらに熱中したという事実は小生の知る限りありません。

また先生は書き込みのクセはなかったですし、図鑑が発行された昭和16年というと手塚少年は13歳です。その頃の文字は上手いけどもう一寸(コピーの文字と比べると)子供子供していて明朝体に近いきちっとしたものです。先生はオサムシが好きで治の本名の後ろに虫をつけたのは有名な話ですが、オサムシや甲虫に興味を持ったのはほんの初期で、昆虫採集期間の80%以上は蝶のみだったようで架空チョウの図譜もずいぶん描いています。ただし「クソムシをせんもんにすることにきめました」というのは先生を昆虫趣味に導いた石原実氏で現在、大阪の老舗時計店・石原時計店の社長をされています。

手紙にはオサムシやクソムシの解説から始まって、昆虫趣味はもともと英国の貴族の趣味で、戦前は虫を採っていても白い目で見られることもなく、むしろ今よりも一般的な趣味でした、とも。さすがに日本昆虫協会の理事だそうだから、虫の話になると<止まらなくなる>とお見受けした。自身が日本のコガネムシ400種のうち110種を採集したとしてハナムグリのスケッチまで添えてあったからさすがにアニメーターであるなあと感服した次第。手紙は1996.11/3の日付のあとに「11/3は奇しくも手塚先生の誕生日で、元気なら今年で68才になられた筈です。いまだに残念です」と結ばれていた。

ここまできたらその石原氏にも会わなければならない。事前に役員秘書にアポイントを入れて大坂・淀屋橋の石原時計店の社長室で思い出話を聴かせてもらったが、書き込みクセはなかったのと字もまったく違うということを再確認しただけだった。収穫といえば「手塚はオサムシ類のなかでもとくにマイマイカブリが好きで、首が長くて目がギョロリとしているところが僕に似ているとみんなに言っていました」というのが印象に残る。さらに老黒山は記憶にもないですねえ、というところで約束の時間が終わった。

『圖鑑』789ページにある右が「をさむし科のまひまひかぶり(マイマイカブリ)」である。

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体長47-58ミリ、体ハ光沢ナキ黒色、少シク藍色ヲ帯ブ。頭ハ円筒形ニシテ甚ダ長ク、前頭及頭ノ両側ハ凹陥ス。(中略)本邦産最大ノ歩行蟲ニシテ本州・四国・九州二産シ、殊ニ九州ニハ稀ナラズ。

このときの<探索>は残念ながらここまでで終わったのであるが、古書店の主人には細かい報告をして随分楽しんでもらったようで、思いがけずこの『日本昆蟲圖鑑』はそのお礼としてわが書斎にやってくることになった。

今回の連載を書いていて実は<新たな情報>が見つかった。前回紹介した青鉛筆で「老黒山十月十一日頃ミル」とあった書き込みの地名についてのデータ検索で、旧満州、現在は中国黒竜江省になったが、そこにあった町の地名がヒットしたのである。ハルビン市のはずれにあたる。他にも老黒山(ろうこくざん)という活火山もあった。中国名でラオ・ヘイ・シャンと読むこの火山のほうは違うとしても、老黒山と呼ばれた町ではじめて「体長13-15ミリ、北海道・本州及九州二産ス」という「こまばむつほしひらたあぶ(片仮名も同名)」を捕獲したからうれしくなって記入したのではないか。

そんなバカな、と言われそうだが同じその100ページのところに挟んであった右の目印にしたらしい短冊を裏返すと「朝鮮戸籍及寄留例規昭18」と書かれている。

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26人の執筆者のなかには当時の関東軍の下部にあったある研究組織に属していたとされる研究者もいる。本人とはいわないまでも、その教え子の研究者がこの図鑑を携えて赴任していた可能性もひょっとしたらあるかもしれない。

いずれにしてもいまとなっては確かめようがない。だが、書き込みにせよ、この短冊にせよ、両方とも韓半島、そしてさらに北、旧満州の<方角>を指すのである。