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書斎の漂着本  (20) 蚤野久蔵 求人広告半世紀

  • 2014年5月28日 20:34

1991年(平成3年)にリクルートから出版された『求人広告半世紀』は400ページ、電話帳ほどの大きさで厚さは4cm近い。最近は電話帳のないお宅も多いから、と測ったら縦28cm×横21cmでちょうど新聞「四つ折り大」だった。それで「新聞広告が中心だからその大きさにしたのだ」と気がついた。1940年から1990年までの50年間、はじまりの40年は太平洋戦争の前年で、流行語は「ぜいたくは敵だ」。最後の90年は東西ドイツが統一され「NOと言える日本」と<キツイ・キタナイ・キケン>の「3K」が巷の話題になった。

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手に入れたのは思い出せないほど前だが『蚤の目大歴史366日』の世相ウオッチングには重宝した。監修は雑誌『広告批評』を主宰し、朝日新聞連載の『CM天気図』などの名コラムニストとしても活躍した天野祐吉である。

天野は、新聞広告が面白い理由を①切実である ②小さい ③答えがすぐに出る と分析する。求人側は切羽詰っているのでなんとか人に来てもらいたい。切実な思いがあるから広告は<言葉がピンと立っている>からちゃんと人の心に届く。たった3行の広告でもなかには<長編小説を感じさせてくれる>ものもある。「答えがすぐに」は<応募者〇人>というように結果がすぐ出るからキビシイ。

こういう求人広告を歴史的にズラッと並べてみたら、ちょっと面白い「人間史」というか「仕事史」、「社会史」ができるのではないか、やってみようよ、ということで企画した。が、そう自信をもって言うには、あまりに時間がなさすぎた。だいたい、こういう仕事は、5年か10年をかけて取り組むものだと思うけれど、関係者全員がなにぶんせっかちなもので、実際には半年くらいしか時間をかけていない。「1世紀」ではなく「半世紀」にしたのも、時間がなかっただけの話である。

ベルリンの壁がこわれた時点で、「近代」は完全に終わった。ぼくたちは、いま、何もないノッペラボーの空間のなかで、「さあ、これからどうする?」という時代を迎えている。こういうときに、「経済大国ニッポン」の軌跡を、こんな人間くさい資料でたどってみるのも、何かの役に立つのではないだろうか。

まずは「求人広告前史」から

探検隊員を求む。至難の旅。わずかな報酬。極寒。暗黒の長い日々。絶えざる危険。成功の暁には名誉と賞賛を得る――アーネスト・シャックルトン
(1900)私がシビレたコピーで、ロンドンの新聞に出された広告だからもちろん英文だが和訳で。

貰ひ子 よき人の〇をとしだね 凡二歳内届前、四ツ谷七軒町五番地荒川六太郎迄御来談
(1892、明治25)「をとしだね」だから育てられない事情アリ、ですか。

俳優見習募集 志望の者ハ来る三十一日限毎日正午迄に申込あれ 但し書状にての照会ハ謝絶す 日本橋区住吉町三番地 上音二郎
(1894、明治27)あの川上も新聞広告で俳優見習いを募集した。

〇モデル 体格よき婦人を求む 当方彫刻家午前在宅 本郷区駒込林町二十五 高村光太郎
(1914、大正3)「体格よき婦人」はそのまま作品に反映されています。

南米ブラジル移民募集 生活向上を計らんとするものは海外に雄飛すべし海外発展は国家の為一身一家の為である 政府の規定により一切無料で手続きをします 海外渡航相談所
(1936、昭和11)「生活向上」どころかとんでもないことに。同じ年には「満州行少年少女募集」というのもあります。

「求人広告半世紀」
1940年(昭和15)

大社交場 池袋處女林 初心の女給募集 相当の収入を保証す

1941年(昭和16)

大陸ノ花嫁並ニ開拓民大募集 東京府

1942年(昭和17)

海軍志願兵徴募 今だ!皇国の運命を決定する秋!! 海軍省

1945年(昭和20)

ルソン島=米奴撃滅の天王山 急ぐ補給=増産、飛行機と弾薬、船がいる 船員が要る 父兄と教導者は海上輸送拡充の緊迫を知れ 船舶運営会船員局

1946年(昭和21)

緊急募集 一. 大工二〇〇名 一. 焼跡整理労務者大募集 株式会社新生社

大映新スタア募集 大映東京撮影所企画部

美貌のダンサーを求む 六〇〇名 白木屋

急募ダンサー三〇〇名 明石町ダンスホール

日本人専用高級ホール ダンサー急募五〇〇名 キャバレメイフラワー
大工さん200名はわかるが、ダンサー600名、300名、500名の面接はどうやったのだろう?

1949年(昭和24)

連合軍要員緊急募集 楽ニ英語ノ話セル方(最高給優遇シマス) 神田公共職業安定所

1952年(昭和27)

警察予備隊員募集 平和と治安はわれらの手で!採用人員三万二千五百人警察予備隊本部

1955年(昭和30)

スチュアデス募集 当社は国内のみならず、ハワイ、桑港、沖縄及び香港へ就航していますが、更に将来の飛躍に備へて優秀なスチュアデスを募集します 日本航空

「前史」はともかく、最初の15年分の<選りすぐり>をかけあしで紹介しただけで紙数が尽きた。天野サンは「見落としはかなりある」と書いているが、こちらはほんのちょっと紹介しただけだから残念極まりない。

ところでこの本が発行されたのは<戦後最大級の疑獄事件>といわれた「リクルート事件」(昭和63年、1988)の2年後。巻末の『年表とデータ――人は世につれ、世は人につれ』の『年表・仕事の50年史』にはこの年の出来事として「青函トンネル開通」「瀬戸大橋開通」「天皇重体報道、列島<自粛>」と並んで「リクルート事件」が大活字で掲載されている。事件の影響で経営が大きく揺らいでいた時代、編集を急いだのもこうした社内事情が影響したのだろうか。

書斎の漂着本  (19) 蚤野久蔵 ブラック・チェンバ

  • 2014年5月28日 14:07

ブラック・チェンバというのはアメリカ国務省にあった「機密室」(MI-8)のことである。この組織を創設し、暗号の専門家として16年間在籍した著者が書いた<内幕もの>で、昭和6年(1931)8月に「米国はいかにして外交秘電を盗んだか?」という副題をつけて大阪毎日新聞社から緊急出版された。初版本だが、表紙のない裸本だから、安い割に面白そうだと入手したのだろう。

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『ブラック・チェンバ』(大阪毎日新聞社)

こちらが著者のハーバート・オ―・ヤードリなる人物で、国務省らしい建物の正面テラスで、ブラックスーツに蝶ネクタイの正装で写真に収まっている。そんなことはどうでもよろしい、と言われそうだが細巻きの煙草(シガ―)をくわえたなかなかのイケメンである。

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あらためてこの昭和6年という年を考えてみる。2年前の昭和4年(1929)10月24日にニューヨーク・ウォール街で始まった大恐慌が世界に広がり、オーストリアの中央銀行が破綻したのをきっかけに全欧州を巻き込んでいった。日本では前年11月、金解禁政策やロンドン軍縮条約を巡る統帥権干犯問題に不満を持つ右翼に浜口雄幸首相が東京駅頭で襲撃され、病状悪化で4月に総辞職。続く民政党の若槻内閣も党内の内紛で不安定ななか9月には関東軍による柳条湖事件が勃発する。その前月の緊急出版はどう受け止められたのか。まずは「奥付」から読み解いてみたい。

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右端の「翻訳」は大阪毎日新聞社となっている。版権を入手して例えば外信部など英語に堪能なメンバーだけでなく大学の先生や研究者に声をかけるなどして短期間で仕上げることを狙ったかもしれない。販売は自社=大阪と、首都圏で新聞を発行していた同系列の東京日日新聞の両社の読者をターゲットにした。もちろん、政府や軍部にも売り込みたかったはずだから価格の「金1円」も、同時期の出版物と比較したが「まあ、そんなものか」の印象である。

著者がなぜこの本を書くことになったのかについては最初の「原著者序」に書かれている。読みやすいように直して紹介する。

「書かれた世界歴史の中には、秘密外交の背景を包む<厚ぼったい>カーテンの後ろに隠された背景はほんの少しも触れられていない。背景とは何か?『機密室』だ。言い換えれば暗号局だ。そこでは専門家が外国政府の暗号電報に、眼を皿のようにして注いでいる。化学者が外交文書の封印を偽造し、外国全権の文書を写真に撮る。電信技手だった私は、米国政府内にこの『機密室』を創設し、全盛時には165名の男女職員を擁していた。しかし1929年に新国務卿(大臣)の命によって、『機密室』の戸は堅く閉鎖されてしまった。全ての列強が、それぞれの『機密室』をもっていることを知りながら、外交文書は不可侵のものだとあえて声明を出す勇気―純朴さと言った方が適切かもしれない―を持った最初の外交官はわが新国務卿だ。こうして米国暗号局の秘密活動は休止した。『機密室』が破壊されたのだから、その秘密を秘めておく理由は毛頭ない。『機密室』という秘密機構の内容を、こまごまと<冷静に暴露する>私の目的は誰にも妨げられないはずだ」

退職後や組織解散後も「永遠の守秘義務」が課せられるいまとは大違いではあるが、だからこそこの本が残ったということか。

『機密室』は各国の暗号電報などの情報を収集・解析するセクションで、その前提になるのは暗号そのものの解明である。成果としては当然だろうがアメリカとは<友好国>であった英国、フランスも含まれている。他にはヴァチカン法王庁、メキシコ、キューバ、スペイン、ニカラグア、ペルー、ブラジル、ドイツ、もちろん日本もある。

なかでも漢字混じりで話し言葉と書き言葉が異なる日本語にはいちばん苦労したようで、解読までのさまざまな裏話が書かれている。そのひとつは半年間、任務にあたった「マンヂ」という60前後の日本人の元宣教師が突破口を作ったことが紹介される。「日本側は1915年から1920年春までに11種もの暗号を作った」とか「1921年にワシントンで開かれた海軍軍縮会議中、日本側の暗号電報、全権本部への秘密訓電を含めて約5千通を解読して(米国)政府に送った」などを読むと改めて情報が<筒抜け>になっているのに驚く。

1921年は大正10年で、12月13日の会議では1902年以来続いてきた日英同盟が失効し、あらたに日・米・英・仏の4カ国の間で太平洋方面の現状維持に関する条約が結ばれている。その裏側で日本の動きはすべて<読まれていた>わけだ。

「特殊な成分であることが突きとめられた隠しインキ」「第一次世界大戦中、唯一死刑になったドイツの間諜(スパイ)ウイトケ」「女間諜ヴィクトリカ夫人」などはそこらのスパイ小説どころではない。暗躍する女スパイは大使館の書記官とダンスをする可愛らしい少女だったりするが、<いんぎん>な関係になると厳重機密だったはずの外交文書がわずかな時間、持ち出される。封印は入念に開封され、文書は写真に撮られる。偽造された封印で封印は元に戻される。「機密室」に届いた暗号文書は翻訳され50人のタイピストが手分けしてタイプしていく。文書だけでなく精緻な表や設計図さえも寸分たがわず復元される。

この本が出版された年=昭和6年(1931)=日本は太平洋戦争まで長く続く15年戦争の、まさに<とばぐち>にいた。「機密室」閉鎖は1929年だからわずか2年前だ。アメリカの情報戦の最新情勢がこの本で克明に紹介されているが、初版のみで終わったことからしても国内では話題にすらならなかったと見る。著者のその後はどうだったかというと「暗号学者」としてカナダ政府の暗号部門創設に力を貸したりして1958年に70歳で没した。その後、「機密室」が復活したのかはさておき、暗号を巡る各国の情報戦は外交だけでなくさまざまな分野で公然たる秘密として激しく繰り広げられた。もちろん、現在も、である。