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池内 紀の旅みやげ(41) 血の素─三重県関

  • 2014年5月20日 14:57

名古屋で関西本線に乗り換えた。桑名、四日市、亀山。次の関(せき)で下車。坂道をのぼっていくと十字路に出る。とたんに二十一世紀が十九世紀に逆転したような町並みに入っていた。

「関の地蔵さま」で知られた旧宿場町で、東海道五十三次の四十七番にあたる。その点では五十三のうちの一つにすぎないが、ここがユニークなのは、旧の町並みの大半がそっくり残っていることだ。だから「展望台」と呼ばれるちょっぴり背の高い建物から眺めると、古い瓦屋根がかさなり合って、うねうねとつづいている。奇妙な黒い二筋道が、ゆるやかに湾曲してのびている。

よく観光ポスターなどで歴史的な家並みを見かけるが、たいていは写真のマジックで、実際に訪ねてみると、ほんの何軒かがチラホラとあるだけ。すぐ隣りはコンクリートやプレハブや合板づくりである。そのほんの数軒も、あれこれ手を入れて観光の目玉にしたまでのこと。その点、伊勢の関宿はまるきりちがう。歴史的家並みが現代にそのまま生きており、連子格子の奥で美容院が営業している。魚屋、野菜・果物店、米屋、酒屋、雑貨店……。いずれも暮らしに必要な商店である。重厚な白壁の店内にドコモの製品が並んでいる。どうしてこれほどみごとに町並みが残されたのだろう?

首をひねりながらノンビリと歩いていった。何軒かごとに参道がひらけて、奥に寺や神社がある。よそ者にはわからないが、組みなり隣保なりの単位があって、それぞれの小さな共同体を氏神さまや「お寺さん」が守っている。南に国道が走っていて、旧道を往き来するのは暮らし用の車だけ。ほぼ中央の地蔵堂と前の広場が宿場町コミューンのヘソにあたるのだろう。そこから西の家並みが小振りになる。大工、石工、指物師などの職人衆のエリアだった。現在も工務店の名入りの軽トラが軒先にとめてある。

「アレレ……」

「補血強壮ブルトーゼ」なんだか随分元気になりそうな看板です。

「補血強壮ブルトーゼ」なんだか随分元気になりそうな看板です。

おもわず足がとまった。まっ赤なBlut(ブルート)が目にとびこんできた。ドイツ語で「血」の意味であって、たしかに血のように赤い。「補血強壮・ブルトーゼ」。薬屋のガラス戸に張り出されている広告。ポスターのデザインは、大正時代から昭和初年に流行したアール.デコ調で、そのころの商品と思われる。いつの時代にも体力の衰えをクスリで回復したい中高年がいるもので、そのための強壮剤である。「味の素」が登場したころであって、とすると血の素があってもおかしくない。

神社の縁側でミカンを食べながら小休止。ことのついでに裏通りを探訪してわかったが、旧の家並みはウナギの寝床のように細長くて、裏手は畑につづき、野菜や果樹がうわっている。そこは宅地にもなるわけで、日当りの悪い表通りの家は表札だけにして、日常の生活は裏の新宅といったケースが少なくないようだ。表札と暮らしを二本立てにすれば、古い住居を壊さずにすむ。

しかし、そうはいっても暮らしにくさにねをあげて、住みいいのに建て換えたい人が次々と出てきたはずだ。昭和四十年代に始まる日本経済の高度成長のなかで、瓦屋根、土壁、格子戸の建物は惜しげもなく打ち壊されて、安っぽい新建材のものがとってかわった。日本の町の景観は、この時期を境に一挙に醜くなった。

かつての関宿で知られた旅籠が記念館になっており、そこの展示で知ったのだが、やはり先覚者がいた。昭和初年にはやくも関町の古さを生かす提言をした人がいる。世の発展から取り残されたように思っていた町民に、この古さこそ貴重である旨を説いてまわった。日本全国が「所得倍増」に浮かれだし、何であれ古いものを毛嫌いして新しいものにとびついたころ、再び古い町並みの意味を説く人があらわれ、グループが形成され、町に働きかけて景観条例をつくるまでになった。日本中が打ち壊しに走っているただなかで、古さを生かした町づくりは勇気のいることだったのではなかろうか。セメントとコンクリート組にアナクロニズムだとせせら笑われたにちがいない。

瓦屋根が続く、ゆるやかな波のうねりのように、家を被いつくして緩やかな波はどこまでも人の住まいを、大事に守っているのです。

瓦屋根が続く、ゆるやかな波のうねりのように、家を被いつくして緩やかな波はどこまでも人の住まいを、大事に守っているのです。

よく見ていくとわかるが、単に古いままではないのである。「血の素」の広告のように、過去の記憶を封じこめたような小物(こもの)を装飾として配置する。暮らしのための改良、補修には伝統とマッチする工夫をほどこしていく。どうしても現代の家屋を主張する人には、建物を奥に引くかたちにして、通りに面したところに古さをデザインした塀をつくってもらう。住人の数ほど注文はあるだろうが、ねばり強く話し合って解決していけばいいのである。関町の景観がここちよいのは、住民自治の精神が支えになっているからだ。

地蔵堂の階段で、涼しい風に吹かれていると、杖をついた老人がヨチヨチやってきた。どこから来た、何しに来た、どこへ行く、と警官が尋問するように問いただされた。

「日本の中心を知っているか?」

「血の素」を愛用したような血色のいい顔。長寿眉の下で、目がギョロリとにらんでいる。東京と言いかけ口ごもっていると、やにわに杖でドンと階段を叩くなり、「ここだ、関だ」としゃがれ声で言った。それが証拠にここを境にして、東を関東、西を関西というじゃろう──。

言われると、そんな気がしたので、「なるほど」とうなずくと、じいさんは満足げに回れ右をして、またヨチヨチと歩いていった。

【今回のアクセス‥関西本線関駅より徒歩約十分】

新・気まぐれ読書日記  (12)  石山文也 辞書になった男

  • 2014年5月20日 00:28

読んでいる途中で、これはぜひ読書日記で紹介しようと思った。4分の1ほどのところだった。しばらくしてまたそう思った。まだ3分の1が残っていたから、並行して書き始めるとその先に「どんでん返し」もありそうなので思いとどまった。『辞書になった男』(文藝春秋)は「ケンボー先生と山田先生」の副題がついている。ケンボー先生=見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)と山田先生=山田忠雄。東京帝大文学部国文科の同期だったが、昭和14年(1939)に卒業すると見坊が大学院に進んだのに対し、山田は盛岡の岩手県師範の教師になった。そんな人生のスタートだったが、まず見坊が三省堂の辞書編纂要員に採用されると辞書原稿の校正を山田に頼んだことから再び同じ道を歩み始める。そして戦時中の18年に『明解国語辞典』を作り、その後の改訂作業のなかで決別し、見坊が『三省堂国語辞典』、山田が『新明解国語辞典』という日本を代表する辞書を作った。なぜ決別したのか。いったい何があったのか。まるでミステリーを読み進むように<封印されていた謎>が明らかにされていく。

辞書になった男 (2)

佐々木健一著 『辞書になった男』

文藝春秋

著者の佐々木はテレビディレクターで、この本の元となった『ケンボー先生と山田先生~辞書に人生を捧げた二人の男』を制作した。昨年、NHKのBSプレミアムで放送されたからご覧になった方もあるだろう。作品は第30回のATP賞最優秀賞を受賞したが、時間に制約のある番組では割愛せざるを得なかったエピソードや、放映後に明らかになった新事実を盛り込んでどうしても伝えておきたいと書き下ろしたノンフィクションである。本にならって『三省堂国語辞典』を『三国』、『新明解国語辞典』を『新明解』とするが、「ケンボー先生」と「山田先生」はそれぞれの苗字を使わせてもらう。

『三国』と『新明解』を「日本を代表する」と書いた。両方合わせた累計発行部数は4千万部に迫る。第6版まで出ている岩波書店の『広辞苑』の約1,200万部と比較しても『新明解』だけで2,000万部を超える。最近はインターネットやスマホで簡単に言葉の意味が検索できるとはいっても身近にある隠れたベストセラーであることは間違いない。

二人が手がけた『明解国語辞典』が刊行されたのは昭和18年5月。大本営が山本五十六連合艦隊司令長官の戦死を公表した時期にあたるが、戦時下の国民が待ちに待った国語辞書として累計62万部を売り上げた。編纂の中心となったのは見坊で、入社面接で訴えた「引きやすく」「分かりやすく」「現代的なこと」という編集方針を全面的に実現させた。その助手役となったのが山田、方言やアクセントなどを手伝ったのはアイヌ語研究で一時代を画した金田一京助の息子の春彦だった。しかし完成した辞典に印刷されたのは「文学博士 金田一京助編」の名前だけだった。金田一京助は辞書出版界では<大ブランド>だったから天才的な仕事ぶりを評価されたとはいえ、当時の見坊は「無名」に甘んじるしかなかった。

むめい【無名】①名前がないこと。②名前がわからないこと。③有名でないこと。

「編者名据え置き」は従来からの業界慣習通り。見坊らは辞書でことばの意味を説明する「無名」の語釈の通りだった。

戦後、二人は辞書編纂者として独自の進化を続ける。当然の成り行きとしてそれぞれの辞書には「個性」が出る。言い換えれば書き手の「人格」が反映される。そう言っても信じてもらえないかもしれないので例をあげよう。

どくしょ【読書】本を読むこと。「―の秋」(『三国』二版)

どくしょ【読書】〔研究調査や受験勉強の時などと違って〕想を思いきり浮世の外に馳せ精神を未知の世界に遊ばせたり人生観を確固不動のものたらしめたりするために、時間の束縛を受けること無く本を読むこと。〔寝ころがって漫画本を見たり電車の中で週刊誌を読んだりすることは、勝義(その言葉の持つ本質的な意味・用法)の読書には含まれない。〕(『新明解』四版)

ベッドに寝ころがってこの本を読んでいた私、思わず付箋を貼ってしまった!

その後も面白そうなところに次々に付箋を貼っていくとこんなになってしまった。

DSCN0726

あこうだい【赤魚鯛】タイに似た、細長いさかな。(『三国』二版)

こちらは見坊らしさというより他の辞書とほぼ同じく<簡にして明>な表現だ。ところが山田のほうはというと

あこうだい【あこう鯛】顔は赤鬼のようだが、うまい。(『新明解』三版)

『新明解』は他にも、はくとう【白桃】、はまぐり【蛤】には「おいしい」、紹介したあこうだいや、おこぜ【鰧】などは「うまい」と書かれていてグルメ番組のコメントのようでもある。

くるしい【苦しい】「苦しい中から子供を三人まで大学にやる。」(『新明解』三版)

つくづく【熟】「A新聞は子供のころから我が家の愛読紙だったが、十数年前に〔ある事情がきっかけになって、すっかり〕いやになって、取るのをやめた。」(『新明解』四版)

どだい【土台】「土台僕は原稿料を収入と考えたことはない」(『新明解』四版)

ながら「薄給ながら七人の子供を大学までやった。」(『新明解』初版)

「 」は用例だが、山田自身の家庭のことではないかと思えなくもない。山田が七人兄弟だったかは書かれていないが、例にあげたように長文・詳細で主観的である。対して見坊の『三国』はあくまで短文・簡潔である。話題を呼んだ代表例は「恋愛」の語釈である。

れんあい【恋愛】男女の間の、恋いしたう愛情(に、恋いしたう愛情がはたらくこと)。恋。(『三国』三版)

れんあい【恋愛】特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒にいたい、できるなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。(『新明解』三版)

「辞書を“引く”ものから“読む”ものに変えた」ともてはやされ、多くのメディアにも盛んに取り上げられた。淡々と正しい意味を教えてくれるはずの国語辞書が突如、「恋愛=合体論」までいってしまう。かといって著者はもともと古典研究が専門だった山田の『新明解』を「規範的で骨太の国語辞書」と評している。そして「辞書は“文明批評”である」と言い続けた山田を紹介する。

では見坊はどうだったのか。生前、見坊は「自分が作っているのは『現代語の辞典』である。決して『新語・流行語辞典』ではない」と強調し続けた。生涯、145万例もの膨大な用例採集を行い、「ことばの同時代性」を追求した。どこまでも「現代」に寄り添うためと用例採集を位置付けた。そして「辞書はかがみである。それはことばを写す“鏡”であり、同時にことばを正す“鑑”である」という名言や「辞書にも作家主義を導入すべきだ。世人は辞書編纂家に対して冷淡に過ぎる」という発言を残している。

三省堂の辞書出版部門という裾野にあって互いを圧してそびえ立とうとする二つの巨大活火山。両方を一つにまとめないで、それぞれに十分な裾野を広げた会社もすごい。そして著者はなぜ、二人が終生相まみえることはなくなったのかという核心に迫っていく。それが昭和47年1月9日夜のあるできごとである。著者はさまざまな証拠を積み重ねることでそれに肉薄して行く。

冒頭、「ミステリーを読み進むように<封印>されていた謎が明らかにされる」と紹介した。ならば、この本を読まれるみなさんのためにその「謎」は残しておこう。まさに「事実は小説より奇なり」以上に「辞書は小説より・・・」であるから。

ではまた