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書斎の漂着本  (14) 蚤野久蔵 生命の河

  • 2014年5月15日 23:40

長崎に投下された原子爆弾で最愛の妻を失い、自らも爆風で頭に大けがを負いながらも被爆者の治療に当たった永井隆博士が、昭和23年(1948)11月に東京・日比谷出版社から出した診察・治療記録の『生命の河』である。


生命の河 生命の河裏表紙

(左が表紙、右は裏表紙)

爆心地からわずか700mの長崎医大の診察室で被爆した博士は、爆風による右頭部の動脈切断という重傷にもかかわらず、血止めの布を巻いただけで不眠不休の救護活動に当たった。結核のX線診断など放射線医学の専門家だったから、翌日に米軍が投下した宣伝ビラで原子爆弾が使われたと知ると「アメリカが原子爆弾の研究をしているのは知っていたが。こんなに早く使えるまでになっていたとは・・・」と絶句した。

被爆の3日後、ようやく上司の許可をもらって自宅に戻った博士は、焼け落ちた台所跡から妻の骨片と熱で変形したロザリオを見つけた。骨を埋葬し、二人の子供と義母が疎開していた西浦上の三山を訪ねて無事を確認すると、ここに救援本部を設置して被爆者の治療にあたった。治療記録は「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)として大学に提出したが、原爆の惨状のなかで体験した深刻な医学的影響を広く伝えたいという思いから一般の人にもわかりやすい表現で診察・治療記録を別に書き上げた。これが『生命の河』の<原本>である。連合軍統治下ではこれだけでは真っ先に検閲に引っ掛かることが予想されたので、半分以上をX線やガンマ線などの放射線の発見から、研究に命をささげた人たちの苦闘の歴史にページを割いた。このなかではキューリー夫妻やヒットラーに追われてアメリカへ渡った多くの科学者の名前を挙げている。さらに放射線を医学に役立てる「原子医学」の発展の陰に多くの研究者の命が奪われたことを「原子病」によるものであるとして「原子力はつねに裏に原子病の危険を隠していることをこれからの原子力時代の人々は常識として知っておかねばならぬ」と警鐘を鳴らしている。自ら名付けた「原子医学」や「原子病」の解説にある「大量照射による障害」こそ、博士が残したかった長崎での症例である。

全 身

症状:即死するものがある。

これは原子の塊りの破裂した近くにいた場合でくわしいことはわからないが、外傷も内傷もなく、物に寄りすがって立ったまま、あるいは座ったまま死んでいるのさえある。電離性放射能ではそんなに早く内臓などに変化を起こさないはずである。思うに熱線による熱射死ではなかろうか?――焼けたストーブすれすれに飛び過ぎようとした蛾がぽろりと落ちて死んでいるように、放射線の来た方向に向いた皮は、黒焦げになっている。その皮下かなりの深さまで焼魚のように、肉も固まっているのではなかろうか?蛋白の凝固と炭化とが熱線のために起こる。原子の熱であぶられたわけで、熱いッ、と感ずる神経も同時に死ぬのだから、全く一瞬の出来ごと。肉が固まって動き難いから、寄りかかったまま、座ったままの死体が残っているのだろう。

(後略)とせずにここだけは全文を紹介するが「即死しないまでも極めて短い時間に死ぬ」「しばらく生き延びる」では苦痛の症状までこまかく書かれている。さらに皮膚、消化器、血液、毛髪なども「症状・病理・治療」を紹介し、「局所大量照射の障害」では各臓器の諸症状や患者の訴える症状を具体的に列記しているが、さすがにそれは止めておく。

後記には「農家の方々が長い間苦労して獲りいれた米や芋をいさぎよく供出して私の餓えるのを救って下さった。私もわずかな知識をそっくり供出して、原子病について知りたがっている人々の御用に立てたいと思った。今こうしてそっくり差し出し、頭の中が空っぽになって、何か、ほっとした気持ちである。まる3年かかって、ようやく話をまとめあげることができた。3年前の今日、私は大学と学友848名のかばねに頭を垂れた。その日、私の心の中にこの本を著そうという念願がわいた」と書く。3年がかりというのは前段に置いた「放射線研究史」をさす。

博士はこの原稿を東京の知人に託したが、引き受ける出版社は見つからない。最終的に相談したのが精神科医の式場隆三郎博士だった。「東京タイムス」や雑誌「ロマンス」を創刊、山下清を画家として世に出し、三島由紀夫らとも親交があるなど出版界にも顔が広かったが、博士をしても厚い<検閲の壁>があった。GHQは核兵器使用を巡る表現などについて細かく干渉したので博士の息のかかった日比谷出版社が最終的に引き受けることになった。題名も(原子病の話)とカッコ書きで副題が追加されたものの『生命の河』に変更された。表紙は「原子爆弾中心地」という標識の前で、裏表紙は崩れ落ちた浦上天主堂の前で、祈る女性信者の写真が使われているが、場所などの説明はどこにもない。

『生命の河』の出版を突破口とするように同じ日比谷出版社からは翌24年1月に永井博士の『長崎の鐘』が出版されて版を重ねた。4月には「死病に罹っている父=永井博士=が二人の幼い<孤児予定者>に遺す!」というキャッチフレーズの『この子を残して』(大日本雄弁会講談社)が出版されてこの年のベストセラーを分け合った。しかも用紙さえあればこの何倍も売れたのに、と経営陣を悔しがらせた。

松竹大船は翌25年に大庭秀雄監督、主演・若原雅夫=博士役、月丘夢路=緑夫人役、滝沢修らのキャストで『長崎の鐘』を映画化し空前の大ヒットとなった。脚本は若き日の新藤兼人、橋田寿賀子らが担当し、メロドラマのヴェールをまとうことで検閲をようやくパスした。主題歌はサトウハチロー作詞、古関祐而作曲で歌手に藤山一郎を起用した。詞を読んだ古関は「これは長崎のことだけを歌ったのではなく、この戦争で受難したすべての日本人に捧げたい」と感動した。作曲のポイントを聞かれて「前半の短調から後半部を長調に変えた」と答えている。これを鮮やかに歌いあげたのが藤山だった。映画の主題歌というのを超えて広く歌い継がれた。

26年5月1日午後9時40分、博士逝去。3日午前9時から浦上天主堂で行われた長崎市の公葬には2万人が参列、吉田茂総理大臣も弔電を寄せた。正午には天主堂の鐘が鳴るのを合図に全市の教会、寺院、工場、船の鐘やサイレン、汽笛が鳴り響き、市民は1分間の黙祷を捧げた。博士が長崎医大に提出した「原子爆弾救護報告書」は新制の長崎大学医学部の資料倉庫に眠っていたのが25年ぶりに長崎放送の記者の取材過程で<発見>されて大きく報じられた。『生命の河』は初版のみで絶版になった。博士が後世に役立ててほしいと願った「長崎での原子病の治療記録」は再び使われることはなかった。核兵器は進化を続け、質、量とも人類を何十回、何百回も滅ぼす規模になったけれども。