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書斎の漂着本  (6)  蚤野久蔵 夏の狐

  • 2014年4月30日 18:21

本が好きだった父の本棚のいちばん奥にあった一冊で、先だって帰郷した際に見つけた。昭和22年(1947)2月に大坂市南区松屋町4の三島書房から発行された井伏鱒二の随筆集『夏の狐』である。

夏の狐

最初の家を建てたときには、設計も得意だった父に頼んで玄関わきにわずか3畳の書斎兼書庫を追加してもらった。他人から見れば物置程度だろうが、窓以外はすべて本棚にして「わが小宇宙」などと気取っていたがすぐに満杯になった。父の死後、「蔵書はすべて長男(=私)に譲ると繰り返していた」と母から聞いたものの、本の趣味も違うし、なにより引き取る物理的余裕もなかった。それでも芥川賞や直木賞の受賞作やベストセラー本など数百冊は、勤務先の海外拠点に「日本語図書のコーナー」を作るという企画があったので有効利用になるなら供養にもなるのではと思いついて寄贈した。

早いものでもう20数年、実家2階の父の書斎はガラス扉の付いた書棚も、なかの本も当時のまま眠っている。変化といえばいまの家を建てて少しスペースができたので、ふたつの『世界ノンフィクション全集』(いずれも筑摩書房版)をはじめ、のぞいた折々に関心のある本があればもらってくることくらいだろうか。この『夏の狐』もそんな一冊だが、面白いと思ったのは著者や題名ではなく値段のところである。ご覧のように「定價(価)二十八圓(円)」という紙が貼ってある。

夏の狐奥付

こういうのって「じゃあ元はいくらだったのだろう」とちょっと興味がわきますよね。透かして見ると下には「二十五圓」とあり、すぐ左にある小さな活字の「郵送料二圓」は同じだが裏表紙には「¥20.00」と印刷されている。まさに<三重価格>ではないですか。

思い当たったのが本の出版年、戦後のこの時期、経済用語で「ハイパー・インフレ」と呼ばれる超インフレが敗戦国・日本を覆っていたわけです。出版界も例外ではなくその波にもみくちゃにされた証拠がこんなところに残っていたとは。さらに着目したのが大阪の三島書房が印刷を頼んだのが京都市二條通堺町東入の川北印刷工業所という印刷業者である。なぜかを考えると京都は大きな空襲を受けなかったので、二条城の東側にあたる市の中心部にもこうした印刷所が残っていた。しかも使われている用紙が粗悪な仙花紙ではなく書道用紙のような和紙であることは倉庫に在庫があったからではなかろうか。わざわざ「装幀 中安五郎」と印刷されているところをみると、名の通った装丁家だったかもしれないし、そう思えば表紙はふすまなどに使う京唐紙風である。ところが奥付の一枚だけは「洋紙」のようだ。

私の想像は、本の配給元が東京の日本出版配給株式会社だから奥付だけを東京で印刷して最終的に製本したのではないか。根拠の一つが奥付の発行者と発行所の住所違いで、発行者のほうに「區南」(正しくは南區)と誤植がある。まさか自社の住所は間違わないだろうと。裏表紙に印刷した「¥20.00」までは手が回らなかったか、うっかり見逃したのだろう。「インフレがこれ以上進まないうちに早く売り出してしまえ」という配給元のあせりが伝わるようでもある。

ここまで皆さんから見れば瑣末なことを長々と書いてしまったので題名となった『夏の狐』を紹介しておこう。

井伏は広島県安那郡加茂村(現・福山市)生まれ。現在の市の中心部からは北に約15キロのところだ。代表作の『山椒魚』が、通っていた中学の池に飼われていたサンショウウオに想を得たように井伏が好んで書いた故郷にまつわる話のひとつである。

毎年のように夏になると田舎では嫁入り前の娘が狐にだまされて山中に消えてしまう。コビキ屋のオテツ、谷本屋のシゲ、水車のオキチとその妹のコハナ、そのほか十二名もが。狐にだまされた娘たちはとても逃げるのが上手で急な坂も平気で駆けのぼり崖を飛び降りる。いずれも盛装して山を駆け回るのを村人が追いかけてもなかなか捕まらない。

こどものころに大人の背におぶさって実際に見た記憶があるので、「いまも同じようにだまされる娘さんがいますか」と村の人に問い合わせたが、「先日、井戸がえ(そうじ)をしていたら、お前さまが子供のとき玩具にしていた水晶二個が井戸の底から現れた。冷たい井戸の中に沈めておくと子が生じるとお前さまは思ったのだろうとお前さまの母上が申された」という話ともに「そんなことは生まれてこのかた見た記憶などありません」とすげない返事が返ってくる。

これだけの短編であるが作家の想像の世界にこちらもつい引き込まれてしまった。

『鐘の音』では青森県金木町の寺にある釣り鐘の由来をたずねる手紙を出す相手が津島修治氏とある。どこかで聞いた名前だと思ったら後に井伏に弟子入りすることになるあの太宰治の本名である。おかげで全作品を読了してしまったのだから思いがけない発見の<余禄>といえなくもない。

書斎の漂着本  (5)  蚤野久蔵 旅復刻版

  • 2014年4月28日 21:26

旅復刻版

旅行雑誌『旅』の創刊65周年、750号となるのを記念して昭和63年(1988)9月に日本交通公社から出版された復刻版である。東京・西荻窪に住んでいたころに行きつけの古書音羽館で手に入れた。ずっと本棚に置きっぱなしにしていたが、『蚤の目大歴史366日』を連載するにあたり、その中の一冊、写真右の昭和32年(1957)2月号に新連載小説として松本清張の『点と線』があるのを思い出した。「1月13日の出来事」として紹介したが「366日」のなかでは唯一、歴史からではなくフィクション(=小説)から日付を引かせてもらった。ご存じ、冒頭の「安田辰郎は、1月13日の夜、赤坂の割烹料亭<小雪>に一人の客を招待した」のくだりである。

清張を「発掘」したのは当時の編集長で、のちに評論家として活躍する戸塚文子だ。清張はその4年前に『或る「小倉日記」伝』で第28回の芥川賞を受賞していたが、現在のように受賞で脚光を浴びることもなかった時代だからほとんど無名だった。それまで『旅』に掲載した3回のエッセイは、作品に盛られた土地の描写のたしかさや詩情や旅情にあふれた巧みな筆致で旅先の地名が克明に入れられており、名所案内だけではなく歴史の考証にも目配りされたサービスに富んだ内容だった。それに戸塚は深い感動を受けていた。しかも制作費が限られているなかで原稿料が安いというのも決め手になった。当然のように新連載もエッセイと同じ1枚1,500円の約束だったという。

新年号からの開始を狙ったが国鉄幹線のダイヤ改正が行われた関係でひと月遅れになった。小説に登場する東京―博多間の特急「あさかぜ」のダイヤを見極めてから、がその理由だった。九州方面への長距離列車が発車する東京駅15番線は、横須賀線13番線ホームからあいだの14番線に列車が入っていなくて<見通せる>時間は1日で午後5時57分から6時01分のわずか4分しかない。この「4分間」が重要な伏線となるというのを念のために確かめておきたいというもっともらしい理由でやむなく2月号からの<発車>となった。同じころ週刊読売に『眼の壁』を連載する約束があり、4月14日号からのスタートが予定されていた。『点と線』も開始したもののなかなか原稿が届かず、清張の原稿だけが空白のまま割り付けされて印刷所でぎりぎりまで到着を待つということから編集部では「清張待ち」という言葉まで生まれたと戸塚は「『点と線』の苦労」(昭和48年11月文藝春秋臨時増刊)で回想している。

ともあれ『点と線』は計12回で完結したが、この面白さに目を付けたのが光文社の編集者の松本恭子で、渋る出版局長の神吉晴夫を説得し練馬に住んでいた清張を訪ねることになった。光文社はまだ新興出版社だったが交渉の結果は意外にも「光文社から単行本を出版してもらえるなら、印税なんかいりません」というものだった。そこは朝日新聞の広告部に長年勤めていた清張がその派手な宣伝ぶりを知っていたから<印税分を宣伝費にかけてくれるなら>というしたたかな計算もあったはずで、連載終了直後の翌年2月にまず四六版で売り出すとたちまち版を重ねた。

点と線単行本

手元にある35年の「27版」のあとがきに清張は、汽車の時刻表を使ってアリバイ崩しをするのはクロフツ(「樽」「アクロイド発12時30分」などで知られる英国の探偵作家)が第一人者だが、この小説はべつに彼を意識したのではない。最初の東京駅の「四分間の見通し」と、情死の着想とははじめから頭の中でできていた。東京駅の現場の係員に聞いても「四分間」のことはあまり気がつかなかったと言うし、「情死」のことは、警視庁の鑑識課員にたずねると、それならわれわれもだまされるだろうとの答だったので自信をつけて書いた。この本には、私の希望として関係時刻表と地図とを凸版で入れた。十分とは言えないが、旅の気分を出したいためであると書いている。

点と線冒頭

さらに記録的なベストセラーとなる35年7月からの軽装版のカッパ・ノベルスでは「著者近影」に版を改めるごとに別の写真で登場している。自宅でのおなじみの和服姿やスーツ姿もあるが、時には多忙な執筆活動の合間をぬって東京駅に出かけ、思い出のホームでポーズをとったりした。『旅』デビューの昭和32年2月号冒頭のカット(左)にも使われた13番線ホームでのひとこまを紹介しておくが、若いですねえ。

点と線のころ

「小説は面白さが本体なのだ」が生涯変わらなかった清張の真骨頂だが、文章だけでなく自作の映画やドラマへの出演までも楽しんだのも彼ならではのサービス精神で、巨匠の茶目っ気たっぷりの素顔がのぞいている。

書斎の漂着本  (4)  蚤野久蔵 コン・ティキ号探検記

  • 2014年4月24日 23:57

「好きな探検記のベスト5」を挙げるとすれば必ず入れたいのが『コン・ティキ号探検記』であろう。ノルウェ―の人類学・海洋学者のトール・ヘイエルダールが南米大陸と南太平洋のポリネシアとの人類移動を証明するために1947年に行った「コン・ティキ号」という古代筏を使って行った実験航海の記録である。今回紹介するのは<新旧>の『コン・ティキ号探検記』ということになる。

従来の学説ではイースター島のモアイ像に象徴される巨石文化を持ったポリネシアの人々は、西方の東南アジアからやってきたとされていたのに対し、ヘイエルダールはまったく逆ルートの東方からの南米起源を裏付けようと考えた。彼は苦心して資金を集めるとペルーに出かけ、現地の住民とともにジャングルからバルサ材を伐り出し、ロープを使った昔ながら方法で筏を組み上げた。「設計図」の元になったのはインカ帝国を征服したスペイン人が残した図面だったから古代さながらの復元筏で、船体中央には竹を編んだ壁にバナナの葉を葺いた小屋、マングローブを逆V字に取り付けた帆柱には布の帆が張られた。船名の「コン・ティキ」は古代インカの太陽神からとった。

最終的に乗り組んだのはキャプテンの当時32歳のヘイエルダールと5人の仲間、それに1羽のオウムだった。4月28日にペルーのカヤオを出港したが沿岸近くを北に流れるフンボルト海流という激しい潮流を乗り越えることができず自力航行は断念、ペルー海軍の軍艦に曳航されて80キロ沖合から漂流を開始してイースター島を目ざした。彼らは大波にオウムをさらわれるなど多くのトラブルを乗り越えて102日後の8月7日に約8千キロ離れたツアモツ諸島のラロイア環礁に座礁したものの島民によって無事救出された。

探検記は父が購読していたリーダース・ダイジェストで初めて読んだ記憶があるが、はっきり覚えているのは中学時代に父が全巻予約した筑摩書房の「世界ノンフィクション全集」によってである。その第1巻に、スウェン・ヘディンが中央アジアの幻の湖・ロブノールを探す『さまよえる湖』、間宮林蔵の『黒龍江(ウースリー)紀行』などとともに収録されていてそれが第一回の配本だったこともあって繰り返し読んだ。本のジャンルでは何よりもノンフィクションが好きだった父は「内容が違うのもあるから」と新版の「現代世界ノンフィクション全集」をまたまた全巻予約し、無駄遣いを母がこぼしていたのを思い出す。もっとも父は本を買ってくるのは好きだったが、熱心に読むのは私だったからそれが父なりの<教育法>だったのかもしれない。新旧の全集は父の遺言もあって私が引き取ったからそろってわが書庫に“漂着”してきたことになる。こちらは全集のなかにはいっているので単に<新のほう>とだけ紹介しておく。

では<旧のほう>というとこの2冊である。戦後間もなく東京・月曜書房から出版された単行本で、左が昭和25年(1950)1月発行の初版、右が同じく翌年4月の第三版である。いつ手に入れたのかは忘れたが古書店の店頭で題名が目にとまり、懐かしくて思わず手にとったのが運の尽きで結局、買ってしまった。

コンティキ号漂流記

「初版本マニア」というわけではないけれど、私が<物心つく>はるか前に、帯にあるように「重版又重版!!」とか「各界の名士絶賛推薦!!」となった話題本だったのかと知ったのと、紹介された「名士」の顔ぶれやコメントが面白かったから、ということもあったか。

第三版にはさまれていた月報には「太古の筏にのって南太平洋を西へ西へと漂流すること四ヶ月 !! 何故こんな無鉄砲な冒険が決行されたのか?いまや全読書界の話題になっている実録科学冒険譚」とある。ご丁寧に「現地撮影写真版三十二葉、B6版280頁、定価200円」と紹介されている。他には、阿部公房『壁』、花田清輝『二つの世界』、梅崎春生『櫻島』、W・S・モーム著、日高八郎訳『スパイ物語』(中野好夫氏推薦序文)などがあり、当時の出版事情がうかがえる。だが一般的になったのは筑摩書房の「世界ノンフィクション全集」の登場以来かとも思うがいまは普通に使われる「ノンフィクション」という用語はまだ使われていない。帯には「今や世界のベストセラーとなった実録科学冒険譚」と書かれている。月報の<実録科学冒険譚>がそのまま、現代ならさしずめ「ノンフィクション」とする代わりに使われ、シカゴトリビュン(=トリビューン)紙評と、「各界の名士」として6人が登場する。

シカゴトリビュン紙評「大当たり!何たる本・・・それはヴァイキングが地球から一掃されていないことを示した」  ここでヴァイキング云々もヘンですねえ。著者がノルウェー生まれだとしても。

徳川夢声氏評「とても面白い。一人の青年が自分の信念に従って無茶をやるところが大いに愉快なり」  32歳のヘイエルダールもまだ<青年>であるか。

梅崎春生氏評「夢と冒険にあふれた楽しく魅惑的な記録。一夜の耽読に値する」  一夜で読み切るのは無理と思うけど。

中野好夫氏評「たしかに二十世紀の奇書たるを失わない」  奇書?そうかなあ。

超多忙な人気者の夢声氏はどこにも顔を出すことで知られるが、月報にも新刊が紹介されている各氏は出版社とは「持ちつ持たれつの関係」だったろう。そう考えると「狭い日本に住みあいた人々よ、ぜひ御一読お楽しみあれ」という高田保氏評と「とにかく現代の世の中が飢えている健康な書物である」という金森徳次郎氏評も<出版社の作文>とも思える。

さらに花田清輝氏評に至っては「この本は、アバンギャルドの手になった二十世紀のオデュスセイアー(=オデッセイ)だ。著者は科学者だがまた危うきに遊ぶことを恐れない無邪気な芸術家でもある。光と風と夢と――次々に展開してゆく太平洋の風物は、わたしにワルト・ディズニイの作品を連想させる」  アバンギャルドが前衛的活動家、オデュスセイアーが伝説のギリシャ詩人ホメロスの一大叙事詩としても<大上段に構えすぎ>の表現で、ワルトでもウォルトでもよろしいけれどディズニー作品を連想させるというのもこれまたなんだかなあ、ではある。

最後にもうひとつ付け加えると、紹介した新旧4つの『コン・ティキ号探検記』はいずれも水口志計夫(しげお)訳である。冒頭、この探検がおこなわれた年を1947年と紹介したがこれは私が書き足しておいたものだ。何が言いたいのかというとヘイエルダールの原著には年号が書かれていなかったようなのだ。あるいはその年か翌年に発表したから当然のこととして省略したのか、それともどこか別のところにあったのか。邦訳のほうは同じ水口訳を使っていることもあって、いずれも地図をはじめどこにも年号は見当たらない。

「<面白さ時空を超える>と思えばそんな瑣末なことなんかどうでもいいじゃないの」と言われそうだが、探検記マニアとしてはどうしても気になるのだ。

書斎の漂着本  (3)  蚤野久蔵 食用蛙飼養法

  • 2014年4月22日 10:28

「農家唯一の副業」をうたった『食用蛙飼養法』という宣伝パンフレットである。広げると縦20センチ、横幅52センチだが封筒に入れて郵送するために細長く折り畳んである。発行は徳島県小松島町の徳島県水産試験場嘱託 金磯食用蛙養殖場。京都・平安神宮近くの古書店の店頭「均一棚」に十数部が古びた麻紐に括られてほこりをかぶっていた。すべて同じものだったから真ん中の小奇麗なのを一部だけ入手したが代金を払ったのか、それとも購入本の<値引き代わり>だったのかは忘れてしまった。

食用蛙飼養法

最後のところに手紙形式で昭和2年(1927)5月6日の日付があるのがよくある「吉日」ではないのもおもしろい。「差出人」に「場主 多田友泉 述」とあるのは「いろいろと述べさせていただきました」ということらしく、養殖場名は金磯の地名からとられていた。

〇当場への順路として「小松島波止場(省線小松島駅)より東南約二十五丁、阿南鉄道金磯駅より東方、金磯弁天参道に沿い約七丁の位置にあり」と書かれているから2.7kmほど、弁天さんを目ざして歩いても半時間ちょっとだろうか。それにしても阿南鉄道なんてあったかな、と調べたら国鉄牟岐線から現在はJR四国の牟岐線の一部となり「阿波室戸シーサイドライン」の愛称が付けられている。しかし肝心の金磯(かないそ)駅のほうは用がある時だけ列車が停まる臨時駅だったのが昭和37年に廃止となっていた。

とんだ<脱線>だったので話を戻すと、ご覧のように茶色のインクで印刷され、表面だけでなく裏面も活字だけで写真や挿絵もいっさい見当たらない。

食用蛙飼養法全体

項目としては〇食用蛙の系統と本邦における養蛙事業の歴史 〇食用蛙の形態及び其の性状 〇産卵 〇池の構造及障壁の作り方 〇餌料 〇冬眠 〇幼蛙の発育状態と当場の成績 〇販路と利益など、それこそ微に入り細にわたり「事業としていかに有望であるか」が書かれている。もっとも、活字だけで<副業を考える農家のみなさんをその気にさせよう>というのだからくわしいのは当たり前かもしれない。いささか味気ないので食用蛙の写真か図版でも入れようか、と思ったものの「蛙は苦手!」とおっしゃる向きもありそうだからそれは止めにする。

原文通りではわかりにくい表現もあるので、多少手直しして紹介してみよう。

〇食用蛙の系統と本邦における養蛙事業の歴史

「米国において普通食用として市場に販売されている五種類の蛙のなかでいちばん大きく、肉質優良美味なブルフロッグ種を大正6年に東京帝国大学名誉教授の理学博士渡瀬庄三郎氏が北米ルイヂァナ州ニューオルレアンス市から輸入して養殖に成功した」

もちろんこれはルイジアナ州の南部メキシコ湾に通じる州最大の港湾都市であるニューオーリンズ市のこと。州都かと思ったらそちらはバトンルージュ市でした。

「三年後に初めて産卵したのを農商務省に譲り、同省では農家の副業に役立てようと茨城、滋賀の水産試験場で飼育させたが好成績で、人工養殖が確実にできることが証明されたので邦名を食用蛙と命名した」。

「当養殖場は大正十二年六月に徳島県水産試験場からその養殖研究を嘱託され、十一年産の蝌蚪(かと=おたまじゃくし)を滋賀県水産試験場から分譲を受け、それ以来科学的研究により養殖している」

東京帝国大学、農商務省、各県水産試験場、徳島県水産試験場の嘱託などをあげて<いかに由緒正しいか>を力説している。

〇食用蛙の形態及び其の性状

「食用蛙は俗名をBull Frog(牛蛙)、学名をRana Catesbeianaといい、北米ではロッキー山脈以東、南はメキシコ湾沿岸、北はカナダの国境に至る広い範囲に生息している。形態は赤蛙及び殿様蛙のようで皮膚は極めて滑らかに、色彩は美しき濃緑褐色を呈し、親蛙の体長は鼻緒より肛門まで最大六寸五分余、後脚の長さは八寸五分以上、全長実に一尺五寸余、重量二百五十匁乃至三百匁余ある」

「その肉は栄養価に富み、極めて淡白にして雛鶏肉に類似するがそれより軟らかく且つ美味である。食用としての蛙肉の特長はまったく臭味がないことだ」

「性質は極めて敏感で動作は軽快であり、春期の交尾期を除くと孤独的生活をなすものにして交尾期の啼き声は牡牛の吼声(ほえごえ)に類似しているので牛蛙の別名がある」

「寿命は十五年から二十年、産卵は一匹あたり四千から一万八千である」

「余」とか「以上」が付くのをざっくり換算すれば全長は50cm超、重さは優に1.2kg以上という<超デカガエル>なのであります。「孤独的生活」というのは一匹ずつ離れて暮らしているということだろうが、一度聞いたら忘れないあの鳴き声がここで出てきました。「牡牛の吼声に類似」しているのはまさしくその通りです。

育て方の注意点についても

「養殖に当たっては蝌蚪(かと=オタマジャクシ)が親蛙に食べられる恐れがあるので池を別にすること。小さいときは亀、蛇、鯉、鮒、鰻、鯰、ゲンゴロウ、さらに野鳥やイタチ、カワウソ、猫などに襲われないように注意が必要」

などと細かく紹介している。思わず笑ってしまったのが〇池の構造及障壁の作り方で、「池は広大なれば蛙の成長は速やかなるべきも補獲に不便あり」と。そりゃそうでしょう。

当然ながら裏面の3分の一を使った<事業として儲かるのか>についてはぬかりない。

〇販路と利益

「生後十五ヶ月を経過すれば体重四五十匁(約190g)となるから食用にできる。食用の外にも生物学的研究材料及医学的実験用として既に海外において多数の需要があり。本邦においても此種の需要は将来生ずべきは明らかである」

「食用においては、目下のところ養殖時代なので極めて高価なので広く用いられてはいないが、近いうちに一般に用いられるのは疑いない」

「当場へは関西一流の料理店より申し込みを受けている。種用としての繁殖を終われば食用として市場へ輸出する計画をもっている」

「食用の販路は我国の外に欧米、中国、南洋等の主要都市の旅館や料理店、遠洋航海の各船舶等である」

「消費が最も多い米国では往々にして供給不足を訴えることありという

海外において、将来生ず、疑いなし、繁殖を終われば、我国の外に、訴えることありという・・・思わず下線を引いてしまったが、さらに

〇農家副業として養蛙業の利益では

「廃水面(池など農耕に使わない水面か)を利用できるので固定資本が少なくてすむ」

「親蛙、卵の捕獲が容易で飼養に手間や経費がかからない」

「産出量が大きく確実でしかも利益が大きく、需要が年々増加しつつある」

「親蛙の飼料は主に昆虫類なので害虫が多い農村には駆除の最良手段となる」

「飼育、管理にあたってはとくに経験は要しないから婦人子供の仕事で十分である」

と盛りだくさん。きわめつけが

「冬眠中、約半年間は全く給餌が不要で活動期に入っても蛙が自然にある餌を勝手に食べてくれるので人工給餌しなくても差し支えない」

ではないだろうか。半年も冬眠しているとは思えないけど。

このパンフレットには書かれていないが、渡瀬博士はこれら食用蛙の餌として同時にアメリカザリガニを初めて輸入したことでも知られる。各地の蛙養殖場で餌として与えていたのがいつの間にか逃げ出して野生化したことで列島全土に大繁殖した。食用蛙のほうは、というと一時的に燃え上がったかに見えた養殖ブームはあっという間に下火になり、蛙食文化はわが国には根付かなかった。「うまい話には気をつけろ」というのは昔も今も、ではあります。

書斎の漂着本  (2)  蚤野久蔵 登山

  • 2014年4月19日 16:12

大正14年(1925)に東京市京橋区の目黒書店から発行された『登山』という“一風変わった”ガイド本である。その理由はあとで説明するとして、タイトルだけを金文字で刻印した左の写真は、臙脂=濃いあずき色の裸本で味気ないから著者顔写真入りの中表紙を紹介しておきたい。

「登山」-1

「登山」-2

目黒書店は教育全般をカバーする当時の大手出版社のひとつで、巻末の図書目録にも国語、数学、理科、歴史、修身、体育、音楽、図画、児童書とあらゆる科目を網羅している。この「日本体育叢書」は医学博士木下東作監修によるシリーズ15冊目にあたる。

著者の田中 薫は明治44年(1911)東京生まれ。東京高等師範学校付属中学校=現・筑波大付属中・高等学校時代に氷河学者の大関久五郎教授の指導を受け山岳部員として活躍、旧制学習院高等科から東京帝大理学部を卒業した。学習院、東京帝大時代も山行を続け、日本山岳会を設立し、後にマナスル登頂隊長として日本人初の8,000m峰登頂を果たした槇有恒らとも親交があった。田中自身も神戸大学の教授時代の昭和32年(1957)には南米・パタゴニア探検を行ったことで知られている。こちらも同じく日本初の壮挙だった。

自序ではヨーロッパアルプスのワイスホルンを初登頂した物理学者でイギリス人登山家のジョン・チンダルのことばとして「高嶺には永遠と全智の意思が存在する。このなかで筋肉的快感の数時間を持つことは無限の味があるわけで、人生にとって決して時間の浪費ではない」とその高邁な哲学を披露している。さらにこの本の特長として、「第一線に立つ登山者には役に立たないかもしれないがただ夢中で登る年若き人々がよりよい時間を費やすために科学的知識を多く取り入れた。紀行文や案内記のような記述は一切省いたのもいかに詳細に記述したところで一山岳毎の紀行文や研究には到底及ばないし、実際の役に立たないからである」と述べて

・風景の観賞に地形学の知識を取り入れたいこと

・日本には日本の山岳の実質に応じた登山を盛んにしたいこと

・四季を通じて山岳に親しむようにしたいこと

・婦人の登山はまず服装問題から解決していきたいこと

の四つをあげる。

でも、上の三つはいいとしても「婦人の服装問題」というのはあまりに唐突すぎはしませんか。それが“一風変わった”と感じた点である。目次で紹介すると第一編「山に対する態度」、第二編「山に対する予備的知識」、第三編は「山岳に関する実際的知識」では、地理学者らしく専門の地質学や地形図からはじまって気象、雪崩から装備品、食料、撮影機材などについて詳述している。

本が発刊された大正14年7月5日は、パリで開催された第8回オリンピックで三段跳びの織田幹雄が日本人初の6位入賞を果たしたが、ヒマラヤの高峰でもヨーロッパの登山隊を中心とする熾烈な初登頂レースが繰り広げられていた。残されたのは最高峰のエベレスト、英国隊は3度の遠征でも登頂を果たせず、前年には山に登る理由を聞かれて「そこに山があるから」と答えた名アルピニストのマロリーを失っている。日本においても例外ではなく山仲間の動静として未踏のカナダ・アルバート峰への初挑戦を紹介している。

ようやく「婦人の服装問題」が登場するのは第四編「登山に関する知識」の各論に入ってから。「婦人の登山のために(服装の問題)」としてわざわざ6ページを割いている。当時の山行には案内や荷物運搬のために現地で「人夫」を雇うのが一般的だったことを書き添えておく。

まず「持物」では「婦人は体力が弱いから荷物の携帯は免除されるべきだが、弁当とセーターくらいは必ず小型のリュックサックに入れて携行するのが良い。山中では人夫が重荷に耐えず客より遅れることもあるし、道に迷わないとも限らないから、万一の飢餓に備えなければならない」。飢餓とはオーバーだが道に迷うのは客のようでもあり、ひょっとして人夫のほうかもしれませんな。

「服装」については「和服(日本服)は、裾の構造が充分ではない。(めくれてしまうからか)沢などの渡渉の際に人夫に背負われることもあるし、急坂を攀(よじのぼる)こともあるから下に洋服の際のような下穿(ブルーマースの類)を用いなければならぬ」と細かい。さらに「雪山の登山」の項でも「スカーツ(=スカート)を廃して男子のようなズボンにすることはスキー・登山に必要だが、外套は一般に必要ないとしても婦人は荷物を持たないようにするから、その代わりに多少の重さを我慢して外套を使用しても差し支えない」「ノルウェー式の長ズボンは短身の日本婦人には外観上醜い。日本婦人は一般に腰の上が細いから乗馬服形のものが適すると裁縫師は言う。図のような上下一体の服装は雪の侵入を防ぐから利点が多い」として紹介しているのがこのスタイル画である。

「登山」-3

どうでしょうか。この時代、登山する女性というのはよほど恵まれた階層の子女だったわけで、たしかに当時のニューファッションではあります。著者が服飾デザイナーの田中千代と結婚し、夫妻で収集した世界の民族衣装が国立民族学博物館の主要コレクションのひとつとなっているのを考えれば、こんなところにも学者らしからぬファッションセンスを発揮したということになりますか。<一風変わった>という感想もむべなるかな、ではあります。