季語道楽(17)駄文を書いている場合ではなかった秋の夜ぞらに… 坂崎重盛
今回の、竜巻き共連れ台風、すごかったですね。ひとつの台風に、これだけ各地で竜巻きが起きたのは、やはり観測始まって以来とか。
豪雨と竜巻き──竜巻き被害の光景はちょっと慣れっ子になってしまったけど(当事者の方々にとっては、とんでもない話でしょうが)、京都の豪雨、嵐山・渡月橋に押し寄せる濁流。あんなニュースの映像を見たのは初めてです。もうすぐ嵐山ならではの紅葉の季節になろうというのに。
しかし、台風が去って、本当に、やっと秋の気配が。というわけで秋の季語をひろってゆく気分になりました。生活関連の季語を見てみよう。
「毛見(けみ)」あるいは「検見(けみ)」。
室町、江戸時代からの言葉。その年の年貢(税)を徴収するために、役人が稲の実り具合いを検(けみ)してまわること。もちろん今日、そんな税のかけかたなどしないが、かつての稲作行事のひとつとして季語に残ったのだろう。
これからこの季語で新しい句が生まれるとは思えない。新しい歳時記には収録されにくい季語ではないだろうか。例句を挙げておこう。
不作検見声なく莨(たばこ)火をわかつ 豊川千陰
力なく毛見のすみたる田を眺め 高浜虚子
軒雀時々下りる毛見の庭 川島寄北
そういえば、総武線に「新倹見川」という駅がありました。
「古酒」。「新酒」「新走(しんばしり・あらばしり)」「今年酒」などが秋の季語というのはよく知られているが、では「古酒」は──というと、これも秋の季語。
新酒が出るころとなっても前の年にできた酒のことをいう。左党にとっては、新しい酒もいいが、古酒もまた珍重したい心持ちになる。
一盞(さん)の古酒の琥珀を讚ふる日 佐々木有風
岩塩のくれなゐを舐め古酒を舐め 日原 傅
古酒の壺(つぼ)筵(むしろ)にとんと据え置きぬ 佐藤念腹
「夜食」。秋の夜長、農家や商家は夜遅くまで仕事をしていると、当然、小腹が空くので軽い食事をとる。いかにも秋の季語といった気配がある。「夜業」「夜学」も秋。それぞれ例句を挙げる。
黙々と人のうしろに夜食かな 和田嘯風
梟が鳴けば夜食となりにけり 青木月斗
時計みる顔のふりむく夜なべかな 西山 誠
親方の影の大きな夜なべかな 三宅応人
雨のバス夜学おへたる師弟のみ 肥田埜勝美
くらがりへ教師消えたる夜学かな 木村蕪城
悲しさはいつも酒気ある夜学の師 高浜虚子
いずれも秋の夜ならではの、ひっそり、しんみり、人懐かしい一景です。
寂しい気持ちに沈んだときは、美味い物を食べるにかぎります。食べて口の周りがかぶれる人はお気の毒ですが「とろろ汁」は字を見ただけで腹がへってくる。もちろん夜なべしての夜食にも大歓迎。
生家には凭(よ)る柱ありとろろ汁 小原啄葉
トロロ薯摺る音夫(つま)にきこえよと 山口波津女
くらくなる山に急かれてとろろ飯 百合山羽公
「扇置く(おうぎおく)」。「秋扇(あきおうぎ)」、「忘れ扇」、「捨て扇」、「団扇(うちわ)置く」。
夏の季節、身の周りで活躍した物が秋の到来とともに脇役にまわり、あるいはつい忘れられたりする。といっても、そこに置かれた扇や団扇には、その物のもつ気配が残る。物の気、物の怪の磁気を発したりすることもあるのでしょう。
一文字に秋の扇の置かれけり 野村喜舟
人の手にわが秋扇のひらかれぬ 井沢正江
亡き妻の秋の扇を開きみる 佐藤漾人
と、ここまで事務所で書いてきたら、傍のW君が「月が凄いですよ。満月で」と。今日は九月の十九日。「中秋の名月」そのもの。台風一過のあと、雲を吹き去っての、まさに煌々たる満月。
「月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月」という小倉百人一首、読み人知らずの歌を思い出してしまった。
秋の季語で「月」は、あまりにも当たり前すぎるかもしれないが、この良夜の思い出のためもあり「名月」の句を見てみたくなった。名月とは「明月」であり「望月(もちづき)」であり「満月」。「十五夜」、「今日の月」、「月今宵」、そして「中秋の月」、「良夜」である。
名月や故郷遠き影法師 夏目漱石
生涯にかかる良夜の幾度か 福田蓼江
乳房にああ満月の重たさよ 富沢赤黄男
眉秀でし人と隣りて良夜なる 松崎鉄之介
さて、このへんで歳時記を置いて、仕事中のW君を誘って、近くで、月の見える外飲みのできる居酒屋へでもいくこととしますか。それこそ生涯このような良夜が何度あることか。駄文など書いている場合ではないかもしれないじゃないですか。
そういえば井伏鱒二に「逸題」と題する中秋の名月の詩がありました。この二節のみを記して本当に筆を置いて出かけることにします。
「逸題」(新橋よしの屋にて)
今宵は中秋名月
初戀を偲ぶ夜
われら萬障くりあわせ
よしの屋で獨り酒を飲む
春さん蛸のぶつ切りくれえj
それも鹽(しお)でくれえ
酒はあついのがよい
それから枝豆を一皿
池内 紀の旅みやげ(33)牛乃乳─長野県須坂
牛乳は江戸時代にも薬用として一部の人には飲まれていたようだが、一般にひろまったのは、幕末・明治にかけて外国人から効用を教えられて以後である。明治政府は北海道開拓にあたり畜産奨励を柱にしていたので乳牛にも力を入れた。乳を搾(しぼ)るのを、当時は「搾乳(さくにゅう)」といったが、いずれのびる職種と考えたのだろう。山県有朋、副島種臣といった要人たちは牧場を手に入れ、搾乳業を経営していた。
ひところまで新聞配達と並んで牛乳配達が早朝の町の風物詩だった。はじめブリキ缶だったのが、明治の半ばすぎにガラス瓶使用が義務づけられた。そのころすでに牛乳が、かなり普及していたのだろう。明治三十年代の「風俗画報」にミルクホールが出てくる。牛乳を注文すると、そなえつけの新聞が自由に読めた。カフェの役まわりを果たしていたらしい。
しかし、そういったことは東京でのことで、ハイカラが表看板の首都ではおなじみでも、地方ではどうだったのだろう。肉食とのつながりから、相当の抵抗があったのではなかろうか。
長野県須坂市で古い牛乳屋の看板と出くわした。たたみ一畳分に近い大きなもので、コテ絵で乳牛が浮き彫りになり、大きな乳房に子牛がしゃぶりついている。母牛が鉢巻をしているところがおかしい。上に大きく「牛乃乳」、左に「坂本屋」。もともとは店の二階壁にはめこまれていた。廃業後、建物が取り壊しになったとき、ワクごと取り外して旧郡役所に移された。
「須坂は近代シルクロード起点の町です」
町のパンフレットが高らかにうたっている。かつて北信濃一円の繭(まゆ)が当地に集められ、美しい絹糸になって高崎、ついで横浜へのコースをたどった。さらに海上の道を経て世界中へ送られた。とすると「近代シルクロード起点の町」に嘘いつわりはないのである。
善光寺平(だいら)の東にあって、上州に通じる大笹街道と草津とを結ぶ街道が分岐している。繭蔵をもつ町家が軒を並べ、手びろく物産を扱う大商人が生まれた。そんな町であれば、牛乳の効用も早くにつたわっていて、坂本屋のような牛乳店が生まれたのだろう。雄大なコテ絵の看板が、かつての店の繁盛ぶりを伝えている。
須坂のある辺りは、上高井郡であって、大正六年(一九一七)、大笹街道から少し入ったところに郡役所がつくられた。木造二階建て、寄棟造り、瓦葺の洋風建築で、外壁は淡い緑色。正面玄関の車寄せの上にテラスをそなえ、切妻破風の飾りがほどこしてある。旧制松本高校の建物とよく似ているのは、同じころ、同じ職人集団によってつくられたからではなかろうか。
明治政府はヨーロッパを手本にして市制と合わせて郡制を採用したが、ヨーロッパとはちがい、郡に課税権を与えなかった。中央集権をすすめるに際して、国土のおおかたを占める郡が強力になって自治を主張するのを恐れてのことと思われる。
財政の裏づけのない行政は名ばかりであって、土地の名士が名をつらねるだけの郡役所は、経費がかかるわりに意味がない。上高井郡役所はわずか実働九年で廃止。建物は県事務所、保健所などに転用され、現在は須坂市教育委員会の運営になり、市誌編さん室、史料整理室、市民交流室にあてられている。二階は多目的ホールで、会議や催しに使える。市民会館としては全国でも指おりの美しい建物であって、大正のころの須坂市民が気前よく立派な郡役所を建てたのはムダではなかったわけだ。そんな建物の玄関フロアに滋養満点の「牛乃乳」の大看板がある。もっとも望ましい位置に落ち着いたといえるだろう。
かって栄えて古い財産がどっさりある町には、地方史家とよばれる民間学者がおられるもので、廊下の窓越しに史料整理室がよく見える。年輩の三人ばかりがおもいおもいに文書類をわきにおき、調査に余念がない。昔はカビたような古文書をひろげたのだろうが、現在はすべて写真撮影されており、パソコンであたっていく。威厳のある白髪頭が、じっと画面を見つめ、おりおりメモをとる。大正モダンの建物と、昭和ひとけたの年輩組と、最新の電気メディアが、それなりのバランスで調和し合っている。「牛乃乳」の母牛が、大きな顔を振り向けて、無心の目で見守っているぐあいなのだ。
【今回のアクセス:長野駅より長野電鉄で約二十分の須坂駅より、徒歩約十五分】