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私の手塚治虫(14) 峯島正行

  • 2013年9月23日 11:30

アトムの終末

 

 人間はロボットの家畜

 

前回の最後で、その一端を紹介した「アトムの最後」という物語は、アトムの最後という表題そのままの物語である。この作品は、昭和四五年七月号の「別冊少年マガジン」に掲載された。手塚のまんがとしては「人間ども集まれ」の連載が始まった三年後に発表されたものだ。

この作品は実はアトムが大活躍したころから、かなりの時を経た時代の話で、この物語の世界では、ロボットが主人公で、人間はロボットに飼われる家畜以下の存在になっている。ロボット法などというものは、とっくの昔に打ち捨てられているのだ。

社会生活は現代と同容な普通の家庭が、平和に保たれて、幸福そうに見える。だが家庭の主人公たちは、皆ロボットなのだ。したがってロボットを構成している機械を治して行きさえすれば、皆長命で若々しく生きてゆかれる。

そのころの東京には、MFC貯蔵庁という役所が存在していた。そこには健康な人間の精子と卵子が貯蔵してある。その両者を試験管に入れて、受精させて、生れた赤子を透明な管に入れて、そのなかで生理学を応用して育てる。こうして生まれた赤子には市民であるロボットが配給され、そのロボットが人間に育てあげる、という仕組みになっている。

なぜそうなったのか。それは人間の数が減った故なのだ。放射能と公害のため、自業自得で、人間は一人立ちの生活ができなくなった。だから人間は家畜に堕ちたのだ。

裕福な鉄皮夫妻は、丈夫という人間の男の子を育てている。夫妻は息子を決闘士にすべく大事に育てている。決闘士とは、むかしローマのグラウンドで、奴隷と猛獣を闘わせて、市民の熱狂を受けたように、今この社会ではロボットが、二人ずつ人間と人間を決闘させて、決闘のトーナメントをし、それをロボットの群衆が、賭けをしながら見物するのである。

鉄皮丈夫少年も、決闘士たるべく、鉄川夫妻に育てられている。決闘者登録証も父親に公布されているのだ。父親が彼に与える玩具と言えば、武器、刀剣などの玩具のみであった。

そんなことは知らない丈夫は、ジュリーという隣の娘と恋に陥っている。ジュリーは丈夫の遊び相手であったが、遊んでいる間に事故が起き、一時彼の前から姿を消していたが、一〇年後丈夫と再開して、二人は恋に陥ったのであった。ジュリーはこの時は、ロボットに変じていた。というのは事故があった時彼女は死に、彼女の両親が、ロボットとして生き帰らせた娘である。

人間とロボットの恋は、この社会では固く禁じられていたのだ。ロボットであることをジュリーは丈夫に秘密にしていた。優しいパパなら、二人の結婚は絶対に許してもらえると信じ、丈夫は、父親に結婚の許可を申し出る。

「駄目だ!」

予期に反する父親の断固たる反対であった。

両親は「もう話していいだろう」と肯きあって、「自分たち夫婦はロボットで、お前は決闘者にすべく大事に育ててきたのだ。決闘者登録証があるからいつでも、申込みをすれば、出場して相手の人間と決闘ができるんだ」

ママも言う。「人間は闘うのが好きだから、男も女も強く育てて、二人ずつ戦わせるのさ。お前は私たちが育てた決闘者なのよ、お前たちの決闘を私たちロボットが見て、楽しむんだ。」

「それじゃまるっきり人間はロボットの家畜なんですか?いやだ!絶対にぼくは闘技場などに行かない。こんな証文破いてしまう」

と叫ぶと同時に、パパの鉄拳が飛んだ。

「ふざけるな、この人間め」

 

 

飛び去ってゆく(アトム)

 

張り倒された丈夫は、闘技場に強引に引かれて行くのであった。決闘場は今や、決闘のまっ最中、負けた選手が、血だらけになって、ぶっ倒れると、場内の見物はエキサイトして大声で叫びをあげている。

その日のメインエベントは、登録番号2318697号の鉄川丈夫の試合だった。丈夫のママは、「あの子は勇気がありますから、七,八人は殺してくれると思ています」などと、賭け仲間としゃべったりしている。突然、会場に轟音が鳴り響いた。高性能のマイクは会場に告げた。

「今日のスター選手鉄皮選手が行方不明になったので、試合時間を遅らす」

というのだ。丈夫はジュリーの家に駆けつけていた。二人でこの世界を逃げ出そうというのだ。あらゆる交通機関には監視隊がいるのだ。逃げる道は無い。

その時丈夫はロボット博物館に保管されている五〇年前のロボット、(アトム)を思い出した。二人は、ロボット博物館に駆け込んで、配置されている「アトム」を叩き起こす。アトムの活躍していた時代は、ロボットは人間の味方だった。ロボット法というのがあってロボットは人間に奉仕し、人間の為に尽くすことが約束されていた。

眠りから覚めた(アトム)に向かってそういう昔に帰って、自分達たちを助けてくれるか考えてくれと丈夫は哀願する。

「あなたとジュリーさんとは本当に愛し合っているんでしょうね、どんなことがあってもその心は変わりせんね」とアトムは念を押す。そこに追手が迫ってきた。アトムは二人の恋人を抱えて天高く飛びあがる。

「僕たちを助けたら、君は世界中のロボットから憎まれるぞ」

丈夫が言うと「アトム」は「解っていますよ」        と答える。

三人はある南海の孤島に降りた。そこで二人は当分愛の巣を固めることになった。「アトム」直ちに飛び立つという。そこで「アトム」は、人間とロボットの関係はどうしてこうなってしまったのか。あれは誤魔化しであったのか、本当は信じていなかったのかも……」と心の中で自問自答しながら、そしてアトムは思い切って丈夫たちに聞く。

「あなたたちなら心配ないでしょうが、たとえ人間とロボットの愛でも…」

すると丈夫が聞く

「誰がロボットですか」

「もちろんジュリーさんですよ、ぼくは一目見てわかったよ」

驚愕し怒り狂った丈夫はジュリーに、「あたしは人間だといってくれ」とすがりつく。

ジュリーも、「愛さえあれば人間だって、ロボットだっていいじゃないの」

その時追手のロケットの大群が押し寄せてくる。

「いくぞ!」と一声発してアトムは敵のロケットに向かって飛び去った。それが最後の「アトム」のすがたであった。

怒り狂った丈夫はジュリーに

「よく俺をだましたな、俺をいくら愛するといっても、こっちでお断りだ」と丈夫は一発の弾丸でジュリーを壊してしまう。そして天からふる銃弾の総攻撃に、一塊の肉も残さず、丈夫は果ててしまった。

 

アトムも「R・R・U」と同じ結果を呼んだことになる。人間は金属を使って、いかに技術と工夫を凝らしても、人間の生活を向上させる、ロボットはできないということは次第に鮮明になってきた。

そこで、手塚はずっと若い時分から、医学者である知識なり発想をもって、生物学的、生理学的にロボットができないか、言うことを考えていたようだ。つまり生命のある動植物や、今日でいうクローン人間的なロボットを作ることを、頭の中に入れていたように思える。

手塚は大阪大学医学医学部付属医学専門学校を昭和二六年に卒業した。その年の前年に私も大学を卒業し、出版社に入社、新米編集者になっていた。手塚はその翌年の27年に医師国家試験にパスして、医師の資格を得た。

そこで生活が楽な医者たらんか、人気上昇中の漫画家の道を歩いて、競争に明け暮れる一生を送るかということに悩んで、母親と相談し、自分のやりたいことをやったらと忠告され、最終的に漫画家として進むことに決めた、といわれている。

この辺のことは手塚の伝記に詳しい。手塚は医師の資格を得たと言っても、専門は外科である。

その外科の手塚がある時から、電子顕微鏡のある奈良県立医科大学に通いだした。児童漫画が盛んになり、競争相手も、次々登場する超多忙なときに、よく奈良に通えたと後でそのはなしを聞いて、私は驚いた。

しかもその研究内容が、生物の精子だというのだ。これにも驚いた。研究材料のタニシが豊富な奈良大学で精子の研究をしたという話もある。

生理学的に、動物の変化をもたらすもの、は生殖によるほかない。手塚は生き物の精虫を研究すれば、生きものに変化を与える道が開けると考えたのかも知れないと、私は近頃思うようになった。

「アトム」を描き、機械のメカニズムによるロボット製造の行き先は、結局人間をだめにするということがはっきりしてきた。あの「アトム」の末路や、チャペックの「R・U・R」の行く先はおなじだとすれば、生理学的技術の進歩によって、別なロボットができるかもしれない。それが人間にプラスになるのかも知れない、とクローン人間の出現に恐れを抱いた、田才益夫の考えと同じ結果になるのか、また反対の結果が出るのかも知れないと手塚は思案したと、と私はおもう。

手塚は奈良大学で、こうして「異形精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」(タニシの異形精子細胞の研究)として纏まり「奈良医学雑誌」(1960年10月1日)に発表され、それにより医学博士の称号を得た。

そうして手塚がその長い時間を描けた思案してきた人間の未来と新しい漫画のアイデアのヒントを生かすため、壮大は実験を、漫画の中で行ったのが畢生の大作「人間ども集まれ」であったといいえよう。そしてこの壮大な物語が手塚に何をもたらし、我々読者は何を与えられたかを、これから探ってゆこう。

 

 

 

三大悪人の腕前

 

「人間ども集まれ」の初版表紙  昭和四三年十二月発行   実業之日本社

「人間ども集まれ」の初版表紙  昭和四三年十二月発行   実業之日本社

 

個性の全く違う悪人

 

さて、ここから いよいよ待望の「人間ども集まれ」の解説、論評、評価にはいってゆくことになるのは当然だろう。この物語は先に紹介した、「アトムの最後」より約三年早く始まっていることを、ご承知おき願いたい。

まず、この長大な物語は、三人の大悪人が、主役で、全編にわたって彼らは、大活躍する。

その三大悪人の一人は、天下を狙う大伴の

黒主である。黒主は悪人でも六歌仙の一人で、その和歌は古今集その他の勅撰集に採択されている。しかし六歌仙の作品で、百人一首に選ばれていないのは、彼ひとりである。

黒主の名前が出るときは「天下を狙う大悪人」という形容詞が何時もつく。よっぽど悪いヤツだったのだろう。黒主の名を我々が知っているのは、常磐津の舞踊曲の大曲「関の扉」の主役になっており、それが歌舞伎の舞踊劇として、しばしば舞台に登場するからであろう。

「関の扉」という芝居では、ふてぶてしい大男が、いかにも実直そうに、庭の桜の木のもとに胡坐をかいている場面から幕が開く。これこそ天下を狙う大伴黒主だというばかりである。彼はいま関兵衛と名をかえ、逢坂山の関守として、天下取りの機会を狙っている。関兵衛は、大願成就を祈る護摩木として庭に生えている黒染桜の大木を切ろうとすると、桜の精である美女が傾城の姿で現れ、黒主である山師をさんざんに悩ませ、ついに黒主の陰謀は暴露するといった趣向の、舞台である。

その黒主と同名の悪人が、この漫画の物語の主役である。

次の主役が黒主とは正反対のタイプの男である。外見は、そんじょそこらへんに、よく見かける、ごく普通の庶民である。ちょろちょろ、うまいことないかと探して歩くような男だが、泥棒もスリもできない、まして人をごまかして詐欺などできる人間ではない。然しよくばりで、意地汚い。断固自己主張ができない弱さから、チョット人の口車に乗って、わずかな報酬を狙ってやったことが、天下の悪事につながることなど認識できない頭脳と、一見ひ弱い軟弱な平凡さがこの男を悪人たらしめているところである。

彼の名は天下太平。自分のしたことが天下にドンナ影響があろうと、なかろうと彼の心は暢気に天下太平。

 

もう一人は、これまた別種の悪人である。頭の毛はアメリカ紳士風に刈って、何本かの髪を額から垂らして、ニューヨーク仕立てのチェックの上着を着て、薄い色眼鏡、指に金の指輪、腕に、材質不明の腕輪などはめちゃって、本人は精々おしゃれしているつもりの、国籍不明型の紳士、キザが身上である。

職業はプロジューサーと言ったらいいか、企画屋、興行師と言ったらいいか、一時流行の「呼びや」といったらいいか、アイデアと企画が売り物の、職業名の頗るはっきりしない人間である。もともと悪だったのが、テレビ界、興行街を歩き、アメリカくんだりまで行って、興行街のどん底まで放浪して、悪を磨いてきた男である。

ともあれ、ここで漫画を見て、三人の男の典型的風貌を、確認してください。

 

この三人は、さてどんな行動をとるのか。開巻第一ページに 一九XX年  パイパニア (東南アジアのある独裁国)とある。

一九六七年に発表された作品だから、舞台は一応現代と考えてもよかろう。世界情勢は一九六〇年代と現代とは、本質的に変わっていないからだ。

熱帯樹の繁る山々の向こうに、峨峨たる山岳が遠望できる、野蛮な風景、これが一ページ目である。まずパイパニアはあまりいいところとは思えない。

その奥深い谷川に渡してある吊り橋のたもとをめざして、敗残兵か、脱走兵かわからない襤褸服一枚の天下太平が谷底から上ってゆく。

やっと吊り橋まで、たどり着くと、そこにパイパニアの衛兵が立っていた。太平を見ると兵役忌避者じゃないか、登録カードを見せろと、剣銃を突きつける。太平は懐から数枚の写真を出す。それがエロ写真であったため、思わず敵兵が油断すると、いかにのろまの大平でも、戦場だから、敵のすきを逃さない。手にした剣でとっさに敵兵を突き刺し。危難を逃れる。

逃げるときエロ写真を忘れず拾って往くところが、この人間の、あるしたたかさを表している。

彼は吊り橋をそっとわたり、山の中を徘徊して安全な逃げ道を、探し回る。原野に出ると、いきなり上空のヘリコプターからの機銃掃射を受ける。そしてヘリからは高音のスピーカーが鳴り響く。

「兵役拒否者、および脱走兵諸君に告ぐ。今でも遅くない。日本、中華民国、韓国の義勇民諸君!わがパイパニアは諸君に期待している!直ちに原隊に戻れ」と大スピーヵーが吠えまくる。野原には兵隊の死体がいっぱいだ。ぐずぐずしているとまた機銃掃射を受ける。太平は目についた穴倉に飛び込んで、ようやく助かる。

 

吹き出しの文字はすべて手塚の手になるペン字

吹き出しの文字はすべて手塚の手になるペン字

 

黒主の生き構え

 

すると穴の奥から「もっと奥に入りなさい」と声がかかる。声をかけた男は大柄、顔中剛毛が生えている。頼りになりそうな男だ。「

どうです鴉の骨のスープでも」

と欠けたどんぶり鉢を出される。

「あの殺された死体をつついている鴉のスープですか」

流石の大平も手が出ない。「人ひとり生き延びるために野ざらしの死体を食った鴉を食うのは、かえって功徳になりますよ」

と、彼は言う。この男はもう一月間、こうして銃撃さらされながら、洞穴で生きている。

「今度の戦争は先が見えない。無計画に逃げても駄目です。落ち着いて逃亡するチャンスを探すのです」

という。彼はれっきとした日本の軍医だったといい、太平も日本の自衛隊にいた兵だと名乗り、当分一緒にチャンスを待つことにする。髭の男は大平に語った。

「前の戦争では軍医でしてね。戦後パイパニアで開業したんだが、また戦争に狩り出されてな。野戦病院で働いたが或る時、パイパニアの相当の人物らしい怪我人が、運び込まれましてな、一見ダメとわかるような体でしたが、文字通り寝食を忘れて、手当したのです。

その甲斐あってその患者はついに全快し、その男は感謝の涙にくれた。しかしそれもつかの間、わたしが『お互い戦争は否ですなぁ』といった瞬間、態度がよそよそしくなった。その男は、秘密警察の長官だった。間もなくそいつは部下を連れて、反戦派の危険人物とし私を逮捕にやってきたんです。

私は思わず腰の拳銃を抜いて、彼を『恩知らずめ』と彼の額をぶち抜いた。

余りの事にかっとなって、私は男を殺した。命をかけてやっと直した人間だったのに、なぜ殺した!

その後私はどうしようもない虚無感さいなまれ、病院を抜け出したのですよ」

と元軍医は語った。大賊、大伴黒主誕生の瞬間である。

大平は自衛隊の平凡な兵隊だったのが、無理やり義勇兵にえらばれて、この戦場に送り込まれたんだが、あまりひどい軍隊なので脱走したんだ。卑怯者のレッテルを張られては二度と戻れない」

と嘆く。彼らの隠れる戦場には、毎日脱走兵狩りが、ヘリコプターの銃撃で行われたが、何時かそれも沙汰やみになった。

彼等は逃亡者の旅に出る。

「逃亡者って、もっとかっこいいと思った」

「馬鹿、それはテレビの上のお話しよ」

二人は不毛の山野を、毛布その他の日用の荷物をしょって歩き続ける。その途中、村人全員が逆殺された、悲惨な村を通り抜けたり、ついに食物に窮して、大伴の知恵で、アリ塚を破壊して、アリの幼虫や蛹を手束みで食って、やっと飢えを脱したこともある。大平は「蟻って奴は、あんなに大勢巣食って、よく食えるなー」とつぶやくと、黒主が答える・

「働き蜂が稼いで、皆を養っているんだ」

「その働き蜂はオスかいメスかい」

「中性だよ」

「中性というとゲイか」

「馬鹿、中性は中性だ、第三の性だ」

「その働き蜂が戦争やら、力仕事を割り切って一切やってんのかい。で、オスとメスはいったい何の役をしているんだ。」

「セックスさ」

「それじゃまったく不合理じゃないか、なぜ、人間にゃ働きアリがいねえんだ」

「下らんことを考えるな」

この時この物語の中心的な材料となる(無性人間の創造)というアイデアが、黒主の本性を表して、その脳髄にひらめいたに違いあるまい。

 

 

スペルニウム採取

 

その黒主も天下太平も寝込みを襲われ、ガンで囲まれて運び込まれたのは、軍の調査部長の前であった。二人とも軍用医学研究所行きを命ぜられた。毒ガスや細菌兵器を作るところだという。そこの鉄格子の部屋に放り込まれた。黒主は生体実験のモルモットにされるんだと、言う。太平は弱い癖にモルモットにされてたまるか、と強がりを言う。先に呼び出しを食ったのは、太平の方だった。

衛兵に連れられて美しい洋室に入ってゆくと、大柄のグラマー美人が、あられもない姿で、ダブルベッドに寝そべっていた。大平の「男性」は直ちに直立した。

女はベッドからさっと立ち上がり「起立」と怒鳴った。

「よし、姓名、階級を言え、私は当研究所所属看護将校リーチ大尉である。これよりお前のスペルミウムを採取する」

「スペル何とかとは」

「精子だっ!」(続く)

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   1」

ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む 6 柴崎信三

  • 2013年9月23日 10:33

 〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

 

6 〈邂逅〉について

     山本芳翠とジュディット・ゴーティエ

 山本芳翆「裸婦」(1880年,岐阜県美術館蔵)(左)  ジュディット・ゴーティエ(ナダール撮影、1880)(右)
山本芳翆「裸婦」(1880年,岐阜県美術館蔵)(左)  ジュディット・ゴーティエ(ナダール撮影、1880)(右)

 

 ジュディット・ゴーティエとはどんな女性だったのか。

 ナダールが撮影した肖像写真は1880年ごろとされているから、三十五歳の女ざかりである。左向きの横顔の眼は意志的で、鼻梁は一筋に伸びている。長く巻いた髪が肩までかかり、襟を開いた服で包んだ豊かな半身がゆったりと息衝くようである。

 詩人のボードレールや作家のゴンクールの寵愛を受けて育ち、文豪のヴィクトル・ユゴーやドイツの作曲家のリヒャルト・ワーグナーら、19世紀末を代表する晩年の巨匠たちと奔放な愛を結んだ才媛。著名な詩人・評論家だった父親のテオフィールの知性と、母親の歌姫エルネスタ・グリジの美貌とを受け継いで社交界に羽根を広げ、自らも東洋趣味の小説や詩などで文学的な才覚を開花させた、世紀末のパリの花。役どころをその頃流行した言葉で呼ぶなら〈ファム・ファタル〉、魔性の女ということになる。

 ゴンクールの手放しの賛辞がその「日記」に残されている。

 

 〈テオの娘は、不思議な美しさを持っている。白い顔はほんのりと薔薇色に染まり、象牙のような歯を覗かせた、くっきりとした口元。輪郭の美しい整った顔立ち、固い睫毛を持った大きな目。その印象は謎めいて捉え難く、眠り続けるスフィンクスのようだ……〉(木々康子訳)

 

 岐阜県の明智村という山深い僻村に生まれた二十八歳の日本人が、画家を目指して西洋画を学ぶために横浜を発ち、海路パリの地を踏む。維新からまだ10年あまりしかたっていない1878(明治11)年3月のことである。のちに山本芳翠の名で知られるこの若者は随員の松方正義に随行して、この年に開催されるパリ万博の日本政府事務局雇員という身分を得ており、かたわら徒手空拳で西洋画を学ぶ機会を求めて遥々パリの都へやってきたのである。ジュディットより5歳ほど若い、文字通り東洋からの異邦人(エトランゼ)である。

 ルイ・ナポレオンの第二帝政が普仏戦争の敗北で崩壊し、第三共和政のもとで復興に向かうフランスがこの年開いたパリ万博には、世界から36カ国が参加した。セーヌ川を挟んで日本庭園が作られたトロカデロ宮殿の本館にはエミール・ギメやサミュエル・ビングらが収集した日本の美術品が展示され、対岸のシャン・ド・マルス広場には巨大なパヴィリオンが設けられた。日本の陳列館には、輸入した陶磁器や漆器、象牙、螺鈿、織物、家具などの美術工芸品が入場者の目を奪い、抜きんでた人気を集めていた。

ちなみに、いまこの地に建つエッフェル塔はまだ立ち上がっていないが、ここでは世紀末の欧州を包んでゆくジャポニスムの波がすでに大きなうねりとなっていた。

 芳翠はそれから足掛け10年をフランスで過ごして帰国する。この間に描いた作品にはジュディットをモデルにしたといわれる「西洋婦人像」や日本人が初めて描いた油彩の裸体画といわれる「裸婦」、さらに留学中だった西園寺公望の監修で選んだ日本の和歌八十八首をジュディットが仏訳し、それに芳翠が美しい挿絵を付けて出版した豪華な詞華集『蜻蛉集』など、親密なつながりを裏付ける作品が残されている。二人はどこで合い知り、どうかかわったのか。そしてどんな世紀末の美の饗宴を持ったのか。

 

芳翠は厳(いか)つい、野性味あふれる風貌で、フランス語も片言しか話さなかったが、南画を基礎にした東洋的な画風のキゾチックな作品の味わいに加えて、持ち前の磊落で社交的な性格によって在留する日本人はもちろん、フランス人の日本(ジャポ)愛好家(ネズリ)たちともすぐ親交を深めるようになっていった。万博の日本政府事務局で働くかたわら、国立美術学校(ボザール)のジェロームの下で西洋画を学んだが、フォブール・サントノーレ通りに構えたアトリエはそうした内外の知友の梁山泊のような場所になった。

限られた素材で日本料理を巧みに手がけた。卵焼きや焼き魚などはもちろん、煮物に鰻のかば焼きや豆腐料理、さらには日本酒まで材料を調達して工夫を凝らし、かの地では味わえない一品にして振る舞うから、自ずと故郷の味を慕って日本人が集まってくる。

酒が好きで気分が高じれば得意の講談を即席で演じた。表裏のない性格は人に愛されて、異郷での人間関係を広げた。留学してきた書生から万博などで洋行してきた政府の高官や貴顕紳士まで、その客の幅はまことに広範であった。

のちに「日本洋画の父」と呼ばれる黒田清輝もその一人だった。法律を学ぶために当地へやってきた留学生の黒田が美術へ転向するのは、芳翠の慫慂によるものといわれる。

黒田は故郷の母親にあてた手紙で、芳翠のことを伝えている。

 

〈山本さんという人は面白いことをしじゅうしゃべっております。人を笑わせてばっかりいます。この人は自分で家を借りて居りまして、ばばのおさんどんを一人使っております。そうして毎日毎晩米の飯を炊き日本のおかずをこしらえて食べているそうです。日本の飯が食べたいときは皆この山本さんの家へ行って食べます。山本さんは大変お料理が上手です。まるで料理屋の頭領です〉(1884年8月28日付、原文すべて仮名書き)

 

やがて芳翠は本格的な日本料理店まで開いて内外の客を迎えている。のちに首相となり、元老となる青年公卿の西園寺公望も行政を学ぶためにかねて念願だったパリ大学に留学中の身で、しばしば山本の料理にあずかった日本人の一人だった。

パリに着いた時、ちょうど真っただ中のパリ・コミューンに遭遇した西園寺は、国家というものがいかにもたやすくその足場を失ってゆくかを目の当たりにした。そうしたなかで師であったエミール・アコラスやのちに首相となるジョルジュ・クレマンソーら共和派の友人たちと親しく交わる一方、ゴンクールやリストといった芸術家や中江兆民ら自由民権派の日本人らとも幅広い交友を広げていった。そうした舞台の下で、西園寺が日本公使館員だった船越光之丞の紹介で知り合ったジュディット・ゴーティエに芳翠を加えた三人による、東洋と西洋を結んだ奇跡のような〈美の邂逅〉が生まれるのである。

 

〈あふれ出る美しさをたたえた私の愛するひと。やさしい手紙をありがとう。あなたの身体の具合がまだ悪いとは、私の愛し方が少なすぎるのでしょうか。それは、私の愛があなたに対して十分な力を持っていない、ということですから。どうか、すっかり恢復するよう大事にして下さい。そして自分に自信が持てるようにしてください〉(ジュディットに宛てたリヒャルト・ワーグナーの1878年1月22日付の手紙、金沢公子訳)

 

芳翠がパリへやってくる年の初め、ジュディットはドイツのバイロイトからリヒャルト・ワーグナーのこのような恋文を受け取った。

その秘められた関係は、かれこれ10年にも及んでいる。しかし、この間に夫と離別して若い音楽家志望の恋人、ベネディクトゥスを伴うようになったジュディットに対して、ワーグナーの気持には陰りが広がりつつあった。この手紙はそうした二人のもつれた関係が破局へ向かう、愛の物語の終曲に相当する。ワーグナーはジュディットに対しこれ以降、手紙は妻のコージマを介することを伝えて、関係は途切れるのである。

若いジュディットが夫の詩人、カチュル・マンデスと作家のヴィリエ・ド・リラダンを伴って初めてワーグナーをルツェルンに訪問したのは1869年の7月である。「トリスタンとイゾルデ」の巨匠はたちまちジュディットの美貌と機知の虜になり、妻のコージマの目を盗んで熱い愛を手紙に認めるようになった。ジュディットもこれに応えた。輝かしい楽劇の巨人に憧れて接近してくる若い女の媚態と、自身の成功の足がかりを求める機略がまじりあった情熱の焔にあおられて、男は演奏旅行先の欧州各地で逢引を重ねた。

三十二歳も年上の高名な音楽家とジュディットが初めて結ばれたのは、第一回バイロイト音楽祭が開かれた1876年の夏である。四夜通して演じられる「ニーベルンゲンの指輪」に各地からやってくる賓客を迎えて連日の舞台や祝宴の熱気に包まれながら、主役の巨匠はジュディットの手をとって劇場を案内し、合間を縫って秘かに滞在先を訪ねては、東洋的な美貌を漂わせたこのフランス女性に憚ることのない老いらくの愛を告白した。

 

ワーグナーがジュディットに惹かれるきっかけは何だったのか。

明らかにされてきた二人の間の恋文には〈日本〉がキーワードとして浮かび上がる。

パリの骨董屋で見つけた日本の着物を買ってジュディットに贈り、それを着た恋人の姿を夢想する。妻のコージマへの贈り物として着物の着方について、手紙でジュディットに教えを乞う。ワーグナーにとってジュディットが醸し出す「日本」にまつわる情緒や知識は、いわばこの歪んだ恋をとりもつ〈芳香〉であったのだろう。

ジュディットは父のテオフィールの影響もあって、若い日から東洋と中国や日本の文化に関心を寄せていた。18歳の時に父親が知っていた中国人から中国語を学び、4年後の1867年にはフランスで最初となる中国詩の詞華集『翡翠の書』を出版するなど、東洋文明に通じたその早熟の文藻が知られるようになっていた。

1862年にロンドンで開かれた万博へ父のテオフィールとでかけたジュディットは、そこで出会った日本人を通して〈日本〉への関心を強めた。美術作品や工芸品など、当時流行のジャポニスムから得た知識が、伝統文芸や宗教など精神文化の由来にまで翼を広げていくのは必然であったろう。こうした背景の下でジュディットが西園寺公望に出会うのは、おそらくこのワーグナーとのもつれた恋が破局へ向かう時期と重なっている。

 

ゴンクールは「日記」でしばしば西園寺との交渉を記している。

 

〈今夜、ビュルティ邸で、公子西園寺は自分の趣味を驚かし且魅了したものが三つあると語った。その三者とは苺と、桜桃と、アスパラガスである。更に、彼は今でも寝言を日本語で云ったり仏蘭西語で云ったりするとも語った。そこで、何語で観念が形成されるのかを我々が訊ねると、彼は素直に、法律に関することや、人工的な事物は仏蘭西語の言い廻し方で思い浮かぶし、自然的な事物、恋愛に関する事などは日本語の言い廻し方で思い浮かぶのであると述べた〉(1875年5月3日付)

 

〈頃日、若き公子西園寺が、家重代の大小(打刀と脇差)をビュルティに贈った。これを贈るにあたって、公子はひどく損じているのは巴里で友達が三鞭酒(シャンパン)の口を切るのに用いた故であると言い訳をした。この素晴らしい、百錬の利刀がさりとは惨めにもなり下がったものである。私は小刀の刃に、見分け難い雲形の波を見つけた。この雲形といえば、公子西園寺はビュルティに自分の指の爪と爪とで極狭い幅を作ってみせながら、日本人ならば、こんな狭い幅の中に含まれた雲形の数を算え上げ、刀匠の銘を読み取る事が出来るといったとの事である〉(同年10月16日付)

 

フィリップ・ビュルティはそのころパリで美術評論と美術行政に力を持った人物で、西園寺がこうしたサロンでゴンクールやジュディットと相知るようになるのは、おそらく自然の成り行きであったろう。

こうして結ばれたパリの社交空間のなかで、シャンゼリゼからほど近いワシントン街31番地のジュディットのサロンに招かれた西園寺が、そこで日本の詩歌など伝統芸術や東洋文化に話の華を咲かせたのは、想像するまでもない。瀟洒なアパルトマンの室内は日本や中国の仏像や絵画が飾られ、毎週日曜日にはジュディットと親しい文人や画家、音楽家やジャーナリストらが集って談論は風発した。花々と紫煙とワインの香りに包まれたサロンの客のなかに、西園寺はいた。やがてそこに芳翠が加わった。

 

「サイオンジ、それではあなたは恋の夢を日本語で見ているのかしら。それなら夢に現れる古代からの日本の詩には、どんな恋が詠まれているのでしょう」

四歳年上のジュディットが艶めいて問いかけるのに、公子西園寺はどう答えたのか。

「日本は古来詩歌の国であったのですから、私の国の王朝びとの歌はみな、自然や風景のはかない移ろいに託して、自分の気持ちを表現したのです」

紀貫之の『古今和歌集』の〈仮名序〉をとりあげて、古代から連綿と続く日本の歌の精神を説く極東の若い貴族は、色恋の奥義を極めた達人のジュディットにどう映ったのか。

 

そうしたサロンのなかに、人懐こい不思議な魅力を持った若い日本人画家の芳翠が現れて、ジュディットを囲む日本趣味を通した人々の親密なかかわりが輪を広げる。

芳翠がフランスで学ぼうとしたのは、もちろん西欧の伝統のもとで発展してきた油彩画である。岐阜の山奥から横浜へ出てワーグマンや五姓田芳柳に西洋画を学び、工部美術学校でお雇い外国人のフォンタネージに学んだのも、それまで手がけてきた南画や北斎漫画の世界に飽き足らず、西洋画のリアリズムの逆らえない魅力に惹かれたからである。

ようやくやってきたパリで国立美術学校教授のジェロームの指導を受け、ルーブルへ通って模写を重ねるという勉強を始めたのだが、サロンで出会ったこうしたフランス人たちが憧れて求めて来るのはもっぱら、伝統的な花鳥画や艶やかな色彩と線描を生かした浮世絵風の日本絵画の流儀である。芳翠は西洋画の写実精神に向き合いながらも、引き裂かれるようにジュディットとその周囲が醸し出すジャポニスムの奔流に身を寄せ、捨て去ってきたつもりの日本の伝統美術の筆触やモチーフを披歴して喝采を浴びるのである。

パリの芳翠の最初の本格的油彩画として残されているのが、渡仏から二年後の1880年ごろ描いたとみられる「裸婦」(岐阜県美術館蔵)である。この作品は芳翠が西洋画家として描いた油彩画の実質的なデビュー作というだけでなく、そのモデルの同定や描かれた作品が日本へ戻る経緯、そして何よりも日本人の手になる最も古い油彩の裸体画という点でも、多くの謎と余白を含んだ物語を残している。

もとより浮世絵の美人画などに風俗として女性の裸体が描かれることはあっても、西洋美術のなかで理想化された裸体画(ヌード)の伝統を持たない日本にあって、芳翠はどのような経緯でリアルな女性の裸体画に取り組むにいたったのか。ルーブルで見た裸体画の名作に触れて模写を繰り返し、美術学校でついたジェロームから写実の基本としての裸体画についての教えを受けるといった場面は、もちろん想像することができる。

それにしても、一糸まとわぬモデルの女性を前にしてその姿を写すべく筆を運び続けるということ自体が、日本人にとってすでに大きな異文化体験であったに違いない。

実は芳翠の「裸婦」が現実のモデルをポーズさせたものでなく、ある種の〈模写〉で描かれたのち、特定のモデルの顔をあてたとする研究が明らかにされてきた。以下は鐸木道剛、三浦篤、古川秀昭氏らによる、この裸体画のモデルについての推理である。

芳翠の「裸婦」とほぼ同じモチーフ、構図の作品が同じ時代にやはりパリにいた二人の外国人画家によって描かれている。一つはユーゴスラヴィアの画家、ヴラホ・ブコヴァツの「横たわる若い女の裸像」(1880年)、もう一つはドイツの画家、エルンスト=―フリードリッヒ・フォン・リファルトの素描「裸婦習作」(1879年)である。

三人の画家は同じ時代にパリで美術を学んでいた同時代人だが、互いに接点があったかどうかは詳らかでない。しかし三作を比較してみると、芳翠の「裸婦」のモデルの顔だけが異なっている。つまり、同じモデルで描いた後の二作のいずれかを模写したうえで、芳翠がモデルの顔を描き変えた、という推測が成り立つ。

手掛かりとしての有力な接点は、リファルトの描いた「裸婦習作」が当時ルノワールら印象派の画家たちの作品や論評を紹介する舞台となっていた、パリの週刊誌「現代生活」の1879年5月15日号に掲載されていることである。なぜなら、その数週間後の6月26日付けの同じ雑誌に掲載されたフランス人のジャポニスム論の挿絵に、芳翠が日本女性の羽根つき姿を描いた素描を寄稿しているからである。寄稿を求められた芳翠が雑誌のバックナンバーを繰るうちに、リファルトの裸婦を目にすることとなり、それを模写して作品にしたという経緯は十分考えることができるだろう。

それならばなぜ、モデルの顔は描き替えられたのか。そしてそのモデルは誰なのか。

芳翠はこの作品を描いた二年後、代表作の「西洋婦人像」(東京芸術大学蔵)を描いている。こちらは着衣の若い女性の横顔を描いた華やかな肖像画で、モデルは渡仏後に西園寺を介して知遇を得たジュディット・ゴーティエであることがわかっている。「裸婦」のモデルの横顔はこのジュディットとよく似ており、その後の日本とフランスを結んだ美術と文芸を巡る二人の親しいかかわりを考えるとき、若い芳翠が異郷で知り合ったジュディットの成熟した魅力に惹かれて描き替えた、という筋書きは十分許される想像であろう。

模写を土台にした作品とはいえ「裸婦」は芳翠が日本人として初めて取り組んだ油彩の裸体画である。やはりパリに学んでのちに「日本洋画の父」と呼ばれる黒田清輝が描き、やがて戦災で焼失した「朝妝」が美術史上で日本初の幻の裸体画とされるが、それに先立つこと13年という作品である。師のジェローム譲りともいえる新古典派風の暗い緑の森を背景にして、モデルの肌はひんやりとした硬質の官能美を漂わせており、まなざしは草花に巣を架けた蜘蛛を見つめている。作者はそこにどのような寓意を託したのだろうか。

ともかく、芳翠が出会ったジュディットというフランス女性から受け止めた霊感によって日本で初めての油彩裸体画がここに誕生するのである。13年後に黒田清輝がやはりパリで描いて日本へ持ち帰った「朝妝」が1895(明治28)年4月、京都で開かれた第四回内国勧業博覧会に出品された際、「風俗紊乱」などとする世論の激しい反発にあい、その後の裸体画の展示では隠し布を腰の部分にあてがうなどの混乱を広げたことを考えれば、長く私蔵されていたために社会的に知られることが遅れた芳翠の「裸婦」は、これに先駆けた異文化を結ぶ記念碑的な作品ということができよう。

 

「ヤマモト、このゆかしい日本の詩情を再現するにはあなたの絵筆の助けが必要です。サイオンジが日本へ帰国するということなので、これはその餞にもなるでしょう。日本の古来の文芸の美しさを絵筆で描いて見せて下さい。楽しみにしていますよ」

前後してそのころ、日本の古い和歌を翻訳して美しい挿絵を添えた書物にする計画を巡って、ジュディットから示されたこのような求めに、芳翠はもちろん喜んで応じた。

西洋画の伝統に息衝く裸体画に向き合う芳翠のかたわらで、パリの美術界に広がるジャポニスムの波が〈日本〉という未知の世界の扉を開こうとする。

ジュディットが西園寺公望とともに日本の和歌八十八首を選んでフランス語に翻訳し、それに合わせて芳翠が美しい14点の挿絵と装丁を担当した『蜻蛉集』を刊行するのは1884年である。西園寺は1880年にパリ留学を終えて帰朝しているから、少なくとも芳翠が「裸婦」を描いたころには、この詞華集の編集が具体化していたのであろう。

この頃のジュディットは巨匠ワーグナーとの恋が翳りを来たす一方、父親のテオフィールが親しかった43歳年上の文豪、ヴィクトル・ユゴーとの間に、経済的な後見の見返りのような打算的な男女の関係を抱えるなど、奔放な暮らしはますます高じていた。

西園寺と芳翠、そして『蜻蛉集』のプロデューサーとして巻頭にジュディットが献辞を掲げたのちの駐仏公使、光妙寺三郎らと結んだ日本とフランスを繋ぐ「美の共同体」の成立は、こうした激しい愛の情念の奔流のなかで「東洋」に恋した「魔性の女」の磁力を抜きにしては語ることはできない。

 

『蜻蛉集』(POEMES DE LA LIBELLULE)の表紙は空色の厚紙で、鰐皮の浮き出しに芳翠の筆による笹の葉と蜻蛉の絵が描かれている。もちろん、このタイトルは神武天皇が大和国の山上から国見をした際、その形状が蜻蛉の交尾する姿に似ていたことからこの国を「蜻蛉島」と呼んだという故事に由来する。

 

      POEMS de la Liballule par JUDITH GAUTIER

      Illustré par YAMAMOTO

 

このような表紙のあとに蜻蛉と菊の花を描いた日本画の見返りがあり、蜻蛉の4枚の羽根が短冊形になっていて、そのそれぞれに「蜻蛉集」「千八百八十四年春」「じゅじつとあらはす」「山本画」という日本語が示され、同じ意味のフランス語のあとに〈日本天皇参与 西園寺の手になる直訳に拠ってジュディツ・ゴオチエが日本語より訳したる“蜻蛉の詩篇”〉というフランス語の記述が目を惹く。

 

〈こよなく君の愛で給う/大和島根のもろもろの花/ここに集めて捧げまつる。/涙しげきこの国に/おぼつかな 香ぐわしきそのこころは、色は。 ジュディツ・ゴオチエ〉(高橋邦太郎訳)

 

『蜻蛉集』の巻頭にフランス語で掲げられたジュディットの献辞は、西園寺と同じパリ大学の留学生仲間であり、帰国後代議士となった光妙寺三郎に宛てられている。

『蜻蛉集』は古今和歌集に選ばれた歌を中心に、勅撰集からの選歌が大半を占めるが、冒頭に紀貫之による古今集の「仮名序」がジュディットの仏訳で掲げられている。「やまと歌はひとの心をたねとして、よろづの言の葉とぞなれりにける」という、和歌の本質を簡潔に述べることで王朝文芸の精神を説いた、よく知られる序文である。

おそらくは西園寺の監修で抄訳したものをジュディットがフランス語で書き改めたとみられる。こうした共同作業は全体の選歌とそれぞれの歌の仏訳でも踏襲されたとみられ、西園寺の下訳をジュディットがフランス語の語感や韻律を踏まえて五行詞に置き換える、という手続きがとられて、二つの訳を並置する構成で全巻が貫かれている。

例えば「新古今集」から選ばれた紫式部の

 

〈北へゆく雁のつばさにことづてよ雲のうはがきかき絶えずして〉

 

については、ジュディットの仏訳のあとに西園寺の直訳的な下訳が付されている。

八十八首の選歌については著しい特色がある。古今集(三十三首)、新古今集(十八種)、拾遺集(九首)、御撰集(五首)など、王朝期の勅撰集から選んだ作品がほとんどで、万葉集からは一首も選ばれていない。詠まれた歌の季節は圧倒的に春が多く、その主題も「花」に集中している。これは収録する候補として西園寺が挙げた歌が、すでにそのような傾向で選択されたものであったともいえるし、ジュディットの好みが春と「花鳥」や「恋」などに強く傾いていたことの表れともいえる。

 

〈見ずもせず見もせぬ人の恋しきは文なく今日や眺めくさらむ〉(在原業平)

〈君こふるなみだしなくばからごろも胸のあたりは色もえなまし〉(紀貫之)

 

こうした八十八首の歌に付されたのが、芳翠の描く八点の彩色された挿絵である。「飛びかう蜻蛉の図」「女性が川水に手を差伸べる図」「競馬を見る男女」「女性が鸚鵡に語りかける図」「蝉丸像」など、鮮やかな色彩が施されたやまと絵風の画面には、それぞれの歌に合わせた画賛が書き込まれている。定型詩歌という日本の伝統文芸がフランス語と交響し、それに芳翠の絵筆が融和した、希有の造形というべきであろう。

 

『蜻蛉集』は刊行後にジュディットの周辺の日本(ジャポ)愛好家(ニザン)らに所蔵されたが、広く知られることがなかった。1917(大正6)年にジュディットが72歳で没したのち、屋敷の書庫から200冊ほどの艶やかなこの詞華集がみつかり、日本でも知られるようになった。

 

芳翠は『蜻蛉集』が出版される前年の1883年春、米国人画家のジョン・S・サージャントを伴ってブルターニュの海岸に面したサン・テノガの別荘に蟄居するジュディットを訪ねた。この頃、ジュディットは若い愛人のベネディクトゥスとも別れて喧騒の渦巻くパリを離れ、この地の瀟洒な館に過ごす日々が増えていた。身近にいるのは晩年をともにした若い女友達のシュザンヌ・メイエール・ジュンディルだけである。

すでに西園寺は祖国へ帰った。芳翠はサージャントとともにこの別荘で過ごしてジュディットと親しく日本の文化や伝統についての議論を交わし、いくつかの創作にも取り組んだ。この時サージャントとともに描いたジュディットの肖像画は、いま行方を知らない。

ジュディトはここで、若い日の情熱を傾けたあのワーグナーの「パルシファル」を翻訳し、土地に根付いたケルト神話を調べるなどして、ひっそりと晩年を過ごした。それでもドーバー海峡に面したゆかしい館の別棟として建てられた「煙草入れ」と呼ばれるアトリエには多くの芸術家が滞在した。作曲家のドビュッシーはここで、嵐に見舞われた海峡を見つめながら「海」を作曲したといわれる。

芳翠がその「煙草入れ」の板張りの内装に描いた装飾画が残されている。「竹に雀」「鷺」「梅に錦鶏」といった日本的な装飾壁画は、ジュディットへの深い謝意でもあったろう。

 

西園寺が帰国したのちも、ジュディットは芳翠と独特の友情を持続したようである。

『蜻蛉集』を出版した翌年の1885年4月、ジュディットと屈折した愛憎をとり結んできた文豪、ヴィクトル・ユゴーが83歳の生涯を閉じた。父親のテオフィ-ルを亡くしたのち、心身ともに困窮したジュディットを助けて年金の受給を手配するなど、父親に代わって生活を支えたことの見返りのような、43歳も年長の文豪との屈折した愛人関係は境涯にわたって続いた。5月23日に没したユゴーの葬儀の情景を芳翠が「ヴィクトル・ユゴー葬送図」に描いたのは、ジュディットとのかかわりを措いてありえまい。

芳翠は1887年5月に10年近くにわたる滞仏生活に区切りをつけて帰国するが、文豪の死後もジュディットが芳翠をまじえてユゴーの一族と親しい交わりを続けていたことを、『林忠正とその時代』(木々康子著)が記している。

 

〈親しいお友だちへ。今、私は山本の家から書いていますが、あなたの用件を彼に伝えているのです。あなたは一〇〇フランで(商売抜きの値段で)白い絹地のすてきなカケモノを一枚手に入れるでしょう。あなたの望むもの、好きな品物を直接彼に書いて下さい。彼はすぐに取りかかるでしょう。愛をこめて。ジュディット・ゴーティエ〉

 

〈親しいお友だちへ。山本に関しては、はっきりしたことを引き出すのは容易ではありません。というのは、彼は笑ってばかりいるのよ。けれども多分あなたが一五〇フランも出せば、彼は大変満足するでしょう。もっとも、彼はいつも機嫌がよいのだけれども。土曜日に、ヴァックリー(ユゴーの長女レオポルディーヌの夫で劇作家。ユゴーの息子たちの雑誌『事件』の編集長)の家でお会いしたいわ。心をこめて。ジュディット・ゴーティエ〉

 

これらは親しかったユゴーの孫の妻、ポリ―ヌ・メナール・ドリアンにあてて、求められていた芳翠の掛け軸の入手や水彩画の個人指導をとりもつ手紙である。のちに芳翠はポリ―ヌに「芳林」の雅号を与えている。

 

ジュディットは1888年に既に帰国した西園寺公望への献辞を掲げた『微笑を売る女』という戯曲を刊行している。〈ヤマト〉という侍が〈翡翠の心〉という芸者を妾にしたことから家族が崩壊し、孤児となった息子の〈イワシタ〉はやがて〈マエダ公〉の養子となって成人する。その恋した相手が実は〈翡翠の心〉の娘だった、という悲劇である。

荒唐無稽ながら濃厚なオリエンタリズムに彩られた物語はパリで人気を集め、その年にオデオン座で百回以上にわたって上演された記録がある。西園寺はもちろん、芳翠も既に祖国へ帰国している。ジュディットが残した〈日本の物語〉の終章である。

                                 =この項終わり

(参考・引用文献等は連載完結時に記載します)