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ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 5 柴崎信三

  • 2013年8月29日 16:59

  〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

 

5 〈武士(もののふ)〉について

    「平重盛像」とアンドレ・マルローの〈永遠〉

 

伝藤原隆信(国宝)「伝平重盛像」(12世紀末、京都・神護寺蔵)

伝藤原隆信(国宝)「伝平重盛像」(12世紀末、京都・神護寺蔵)

 

「源頼朝」「藤原光能」とともに〈神護寺三像〉の一つと呼ばれる『伝平重盛像』は、平家の盛衰と運命をともにした平清盛の長男で、『平家物語』では温厚にして沈着な武将として描かれる重盛がモデルとされる。作者は宮廷歌人で、当時肖像画の名手だった藤原隆信と伝えられてきた。

奔放で多才な藤原隆信の周辺には源平のいくさのさなか、衰亡に向かう王朝末期の宮廷の周辺に生きた男女がとり結ぶ、転換期の哀切な離合の物語がある。建礼門院右京大夫という才色兼備の閨秀歌人も、この絵の背景に生きた悲劇のヒロインの一人であろう。

高倉天皇の中宮平徳子(建礼門院)に出仕する女房だった右京大夫はその優れた容色に加えて、知的で艶やかな歌を詠み、琴や笛など音曲の芸にも非凡な才能を示した。皇族や平家の公達がまじわる歌の贈答や管弦の遊びなど、王朝のサロンの花形であった。

父は書家の世尊寺伊行、母も代々宮中で雅楽をつかさどる名門であり、学芸の才覚には持って生まれたものがあったろう。晩年に生涯の詠歌をまとめて回想した『建礼門院右京大夫集』には、若い日に平家の公達とまじわった美しい思い出が、四季折々の情趣に彩られて鮮やかに描かれている。

なかでも平重盛の二男で壇ノ浦の戦に命を断った資盛との悲恋は、この回想記の白眉をなす大きなモチーフを形作っている。25歳でいくさに殉死した年下の恋人の面影を偲んで、右京大夫は「はるか西の方」をながめながら若い日を回想する。

 

〈契りとかやはのがれがたくて、思ひのほか物思はしきことそひて、さま〲思ひみだれしころ、さとにて、はるかに西の方をながめやる、梢は、夕日の色しづみて、あはれなるに、またかきくらししぐるヽをみるにも〉

 

資盛は公卿に列したのちに平家の都落ちに身を投じ、元暦2(1185)年3月24日の壇ノ浦の戦に敗れて入水した。『平家物語』は「小松新三位中将資盛、同小将有盛、従父兄弟左馬頭行盛、三人手ヲ取組、海ニゾ沈ミ給ケル」と記している。歴史の激動に引き裂かれた資盛との遠い恋の記憶を、右京大夫は晩年にいたるまで深く心に温め続けた。

 

右京大夫のもう一人の恋人が『平重盛像』の作者とされてきた藤原隆信である。

こちらはひと周り以上も年上の、手連にたけた中年貴族である。「似絵(にせえ)」と呼ばれる肖像画を確立した絵師であり、『明月記』で知られる藤原定家とは腹違いの兄弟で、『藤原隆信朝臣集』をはじめとする和歌や物語作家としても足跡を残している。

若い公達との悲恋の傍らで、右京大夫は没落しつつある王朝の「色好み」の伝統を体現したような、この多芸多才の「恋多き男」にも恋したのである。

 

〈あはれのみ深くかくべき我をおきてたれに心をかはすなるらむ〉(隆信)

〈人わかずあはれをかはすあだ人になさけしりても見えじとぞ思ふ〉(右京大夫)

 

「私をさておいてあなたは誰に心を通わすのですか」と問う中年男に対し、若い女は「恋の気分はわかっていても、あなたのような浮気性の男にそのように思われたくはありません」と機知をきかせてはぐらかす。

それでも「よ人よりも色好むと聞く人」と評判の隆信に、女心は揺れ動くのである。

それから80歳近くまでの長寿を全うする右京大夫は、平家が滅んでのちの晩年に後鳥羽帝のもとに再び出仕した。すでに70歳を超えていたが、勅撰集に自分の歌を求められた折、選者の定家から名前をどうするかと問われて、こう歌に詠んで答えた。

 

〈言の葉のもし世に散らば偲ばしき昔の名こそ留めまほしけれ〉

 

時代は移った。「けれども懐かしい平家の時代の建礼門院の名をとどめてほしい」と。

 

作品に映しだされるのは、男女の情愛のやりとりを通して映しだされる華やいだ王朝末期の美学である。そうした時代背景の下で、右京大夫は勃興する武士という「公」の倫理に若い命を捧げた公達との悲恋の傍ら、没落しつつある王朝の「色好み」の伝統を体現するような、貴族文化に生きた多芸多才の「恋多き男」に恋したのである。

藤原隆信の「平重盛像」は、そのような時代を背景にした一人の〈サムライ〉の肖像である。同じ隆信の「源頼朝像」や「藤原光能像」とともに「神護寺三像」と呼ばれるこの人物画は、俗人を描いた「日本最古の肖像画」として、フランスの作家、アンドレ・マルローによって「発掘」されて世界に知られるようになった。

源平争乱の激動の時代、父の清盛のもとで戦功を重ねた平家一門の後継者の肖像から、乱世を生きた一人の武将の沈着にして果断な〈武士の精神〉のかたちが浮かび上がる。マルローはこの人物画に何を見ようとしたのだろうか。

オズワルド・シュペングラーのいう20世紀の「西欧の没落」を生きてきたフランスの知性は、中世の日本の一人の武人の画像なかに見出した、〈死〉を厭わない自己犠牲の行動哲学に導かれて、極東の小さな島国に息衝く「もうひとつの文明」に瞠目するのである。

 

1958(昭和33)年の末、戦後のフランス第五共和制初の大統領に就いたばかりシャルル・ド・ゴールが文化担当大臣に起用するアンドレ・マルローを、政権発足からほとんど時をおかずに特使として日本に派遣したのは、どんな意図が込められていたのであろうか。

最初の閣議でド・ゴールは〈私の右手にいつもアンドレ・マルローに座ってもらう〉と宣言した。そして厚い信頼を寄せるこの遥か年下の鬼才に対し、すぐさまイラン、インド、日本を歴訪してそれぞれの元首との会見を実現することを指示した。この旅はレジスタンスの勇士として祖国に貢献したマルローへの〈休暇〉であったのか、あるいは戦後世界に沸き起こるアジアへの関心が、老いた将軍の心を動かした結果であったのか。

対ファシズム抵抗運動の闘士であり、東洋文明への深い洞察に基づいた小説『王道』や『人間の条件』などで知られる行動派の作家、マルローにとっては、戦前の1931年に続く二度目の訪日であった。東洋(オリエント)に魅せられた作家は、この訪日で初めて現代文明に比類のない日本文化の《静謐(セレニテ)》と《永遠(エテルニテ)》の表象として、若い日から深い鑚仰を寄せ続けていた隆信の「平重盛像」の実物に対面して、あらためて深い衝撃を受けるのである。

父親に連れられてギメ美術館の展示に親しんだことなどから、マルローは若い日から東洋、とりわけ日本の美術には深い関心を育んでいたが、フランスを中心に19世紀末から20世紀初頭にかけて欧州を席巻したジャポニスムに親しんだ形跡はない。

初めて藤原隆信の「平重盛像」に接したのは1904年、日本から輸入された美術雑誌の『国華』に掲載された図版を通したものだった。戦後の1951年、ガリマール社から刊行した『沈黙の声』のなかでマルローは「平家の一人物像」のタイトルで、はじめて図版入りでこの作品をとりあげている。そのころ、終生親密な友情で結ばれる日本の作家、小松清にあてた手紙で、マルローは「神護寺三像」のなかでもとりわけ「平重盛像」から受け止めた大きな霊感を隠さずに伝えた。

 

〈ぼくは『国華』のコレクションには非常に感動した。日本の偉大な芸術を知らないわけではなかった。しかし、これらの作品はほとんど知らなかった。ここでは作品がひとつの塊りになっているよ。ここにある頼朝の肖像(藤原隆信作)は(神護寺のもの[隆信作の『平重盛像』]ではないけれども)、驚くべき傑作だ。それに、これらは鎌倉時代のすべてと、土佐(室町)時代初期のものだ!ここには、ほんとうの日本、日本の音楽につながるものがある〉(林俊、クロード・ピショワ訳)

 

マルローがはじめて実物の『平重盛像』に対面したのは1958年12月。ド・ゴールの特使として、アジア歴訪のなかでの二回目の日本訪問は多忙をきわめた。

文化特使という立場で日本へ到着した直後の記者会見で、マルローは日仏文化交流の促進へ向けて、パリで日本文化展を開く計画を明らかにする。奈良、平安、鎌倉時代のものを中心にした日本の絵画、彫刻を通して日本の伝統的な精神文化を4,5カ月にわたって紹介するという内容がそこで示された。

この旅で最初に訪れたのは奈良と京都である。

法隆寺の大法蔵院で聖徳太子の絵姿に対面し、救世観音と百済観音に大きな感動を呼び起された。中宮寺の半跏思惟像、薬師寺の薬師如来像、唐招提寺の鑑真和上像、奈良博物館の「涅槃図」や「信貴山縁起図」などを鑑賞した後、マルローは京都国立美術館でかねてから思いを募らせてきた隆信の肖像画にようやく対面した。

隆信の「源頼朝像」と「平重盛像」を並べてみたい、という希望によって、源氏と平家の両雄を描いた二つの国宝の肖像画が並置された展示室で、20分ほどにわたってこの作品をじっくりと比較した。そして、マルローはそれまでの日本の国内の評価を覆すように「古拙で高貴な重盛像のほうを隆信の代表作として選ぶ」と断定する。

このことによって、王朝の〈雅〉から武士の〈無常〉へ移ろう時代精神をかたちにした肖像として、「平重盛像」は「サムライの表象」として世界に紹介される機会を得た。

この訪日はフランス大使館でのカクテルパーティーや午餐、藤山外相、灘尾文相や田中最高裁長官の訪問、首相官邸の岸首相への表敬、入院中の作家、川端康成への見舞いなど、予定で埋め尽くされたあわただしい日程であったが、その合間を縫って昭和天皇との会見という、特筆すべき場面が設けられた。まだ文化相への任命を受けていない大統領特使という立場での謁見ということから、これは天皇の公式の会見としても記録されていない。しかし、それは一人のフランスの作家と昭和天皇のあいだで交わされた、日本文化をめぐるまことに興味深い対話として、今日に伝えられている。

 

「モーニングコートにシルクハットといった装いの、両国の、通弁役大使たち」を前にして、「どこか憂愁のチャップリン(!)といった面影の万乗の君」と、フランス第五共和国国務担当大臣との対話を、マルローは自ら『反回想録』のなかで次のように記した。

 

「奈良へ行ってこられたそうですね?」

「さようでございます、陛下」

「それはいいことをなさいました。なぜ、いにしえの日本に興味をお持ちですか?」

「武士道なるものを興した民族が、騎士道を興した民族にとって、どうして無意味のはずがございましょうか?」

しばし、間。天皇は、またも絨毯に視線を落としておられたが、

「ああ、そう…… あなたがこの国に来られてまだ間がないということもあるでしょうけれど。しかしあなたは、日本に来られてから、武士道のことを考えさせるようなものをひとつでも見たことがありますか? たったひとつでも?」

質問は、この縉紳の広間のなかに、あたかも古池に投じられた小石の広げるような波紋を、絶望的なかたちで押しひろげていった。石庭の、条痕を刻んだ白砂のおもてに伸びる物陰に似て、ゆっくり繰りひろがるところところの波紋を。

 

〈サムライ〉の哲学の現代日本におけるその不在を逆に問いかける天皇に、マルローは大きな衝撃を受け止めた。のちに隠棲したパリ郊外の館を訪ねたフランス文学者の竹本忠雄に対し、マルローはその時の天皇との対話を回想して「天皇のお口から言われてことを考えると、じつにすごい言葉ではありませんか!」と述べたうえで、この「不在の証言」こそが、逆説的な日本文化の「渝(かわ)らない本質」の証明である、と熱を込めて伝えた。

そこでは「不在の提示」というかたちで〈永遠の日本〉が示された、というのである。

昭和天皇とマルローとの間には、余り知られていない多くの往来があった。明示的には1958年12月のド・ゴール特使として来日した折の会見を嚆矢として、1960年2月には文化相として、1974年の訪日では川端康成の遺志を携えて皇太子夫妻への進講の折に、そして1971年には訪欧した昭和天皇がパリでマルローとの会見を望んで、フォンテンブロー城のサロンで極秘に会見が行われている。

二年後に再び日本を訪れた折、マルローは東京・駿河台に竣工した日仏会館の開館式で講演する。西洋文明にとって20世紀は「文明の複数性を発見した」ことこそに大きな意味があるという指摘を前置きして、日本文化を次のように見立てて讃えた。

 

〈日本は中国の一部ではない。なぜなら日本は、愛の感情、勇気の感情、死の感情において中国とは切り離されているから。騎士道の民であるわれわれフランス人は、この武士道の民のなかに、多くの似かよった点を認めるようつとむべきであろう。かつ、真の日本とは、世界最高の列のなかにあるこの国の十三世紀の偉大な画家たちであり、(藤原)隆信であり、この国の音楽であって、断じてその版画(浮世絵)に属する世界ではない〉

 

優美さや繊細さといった表現と感受性の水脈をつなぐ相互の文化の伝統に結ばれて、日本とフランスのあいだでは近代への入り口から今日まで、さまざまな人々が美をめぐる交響を広げてきた。

葛飾北斎らの浮世絵に東洋の美のユートピアを夢見たヴィンセント・ファン・ゴッホは言うに及ばず、そのポスト印象派から西洋絵画への憧れの「輸入」に腐心した日本の洋画の屈折した短い歴史がある。あるいは戦前の駐日大使として滞在した日本で伝統美術や文芸に深く親炙し、広く世界に紹介したことで知られるに詩人で劇作家のポール・クローデル、はたまたフランスの近代絵画に対する日本人の憧憬が世界的な収集となった「松方コレクション」の事跡なども、思いつくままに例示することができる。

こうした東西の二つの国を結ぶ往来の歴史の先で、マルローが見出した〈日本〉は装飾性や感受性といった人間の表層を超えて、伝統を持続させる文明の深層に及んでいる。

 

藤原隆信の「平重盛像」に対する、マルローの渇仰にも似た讃歌はやがて、その最晩年にいたってある具体的なかたちとなって立ち上がる。

南仏のニース近郊、サン=ポール=ド=ヴァンスにあるマーグ財団美術館で「アンドレ・マルローと空想美術館」と名付けた展覧会が開かれたのは、1973年7月である。

マルローがこの展示に選んだのは、自らの美の遍歴のなかで選び抜いた古今東西の絵画や彫刻など、180点の名品である。いわばこれは西欧と非西欧という枠組みを超えて、あらゆる「文明」と地域と時代の流れのなかに見据えたマルローの美術史であり、その窮極にある〈20世紀〉への問いにほかならない。

ティツィアーノ、ベラスケス、ゴヤ、セザンヌからピカソやマチスといった西欧絵画の巨匠たちとともに、古代インド、中国、シュメールなどの彫刻が展示室に並び、さらにはアフリカの仮面や北米の先住民族のホピ族の人形など、あらゆる時空を超えた作品が会場の展示を埋め尽くした。

そのなかで最後の展示室にただ一点、日本からようやく招いた藤原隆信の『伝平重盛像』が厳かに、しかし凛々しい佇まいで展示された。このピリオドは暗示的である。

マルローは最後に置いた重盛像の展示をこう解説する。

 

〈重盛は、1200年ごろの大臣であった。角ばったキモノを着て脚を組んだ等身大の肖像画。キモノの間から、淡青、石榴色、サーモンピンクなどの、極小の、しかし不可欠な装身具が見えている――それは、三角形と同じく絶対的かつ永遠の幾何学であり、宇宙に与えられた「ゲルニカ」がそうであるように、威厳に満ちている。英雄という言葉の表意文字。平板な顔――そこでは顔立ちも目も髭も、ほとんど消えかかった線からなっている――が、それ自体ひとつの象形文字を形作っており、直衣のゆったりした台形が全体を秩序立てている〉(『黒耀石の頭』岩崎力訳)

 

マルローの賛辞はなお、とどまることがない。

 

〈隆信は重盛を「至高の本質」に結びつける。イタリア14世紀のフランチェスコ派の絵画が、たまゆらに消える生者たちにイエスの世界を対置するように、極東の伝統的絵画は、千年以上の長きにわたって、人物、動物、風景、花など、人間によって創られたのではないものすべてを、戦いも罪もない世界に結びつける〉

 

画家がモデルの内部に探り当てたもの、つまり精神のかたちを造形したものとして、マルローは隆信の重盛像に特等席を与えることで、世界にこれを示した。それは日本人にとって眠っていた伝統の覚醒であり、西洋絵画へ投げかけられた疑問符でもあった。

 

ド・ゴールの退陣とともにすでに政権から下ったマルローは、南仏での「空想美術館」の展覧会を終えた翌年の1974年5月、人生最後となる4度目の日本訪問の途に就いた。

隆信の「重盛像」をフランスへ招いた見返りとして、ルーブル美術館の至宝であるレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』を東京で展覧するのに合わせた訪日であった。

10年前の東京オリンピックあわせて『ミロのヴィーナス』を日本に初めて送り出し、述べ71日間に百七十二万人を超える入場者を迎えた折、門外不出の名品の海外展示に対する批判がフランス国内で高まり、国会で責任追及が行われたことがある。

答弁に立った文化相のマルローは「東京オリンピックの最終日にわれわれは金メダル一個を得たにすぎないが、ヴィーナス像のうしろに掲げられた三色旗を振り仰いだ日本人は400万人にも上る。これはまさにダイヤモンド・メダルではないか」とかわした。

『モナ・リザ』展にも150万人を超える入場者があり、マルローが企図した日仏文化交流は大きな成功のうちに終わった。

この最後の日本への旅で、マルローは京都で再び隆信の「重盛像」と「頼朝像」に対面した後、奈良からはじめて熊野と伊勢神宮を訪れた。根津美術館で見た『那智滝図』から大きな啓示をうけたのがきっかけである。

 

〈画軸が広げられたとき、私は思った―これは《アマテラス》だ、と。日本の女神にして、水と、杉の列柱と、日輪との神霊〉(竹本忠雄『アンドレ・マルロー 日本への証言』)

 

130㍍の瀑布の前に佇んだマルローの感激は大きかった。

伊勢神宮の内宮を参拝して経験した死と再生への祈りとともに、マルローの日本体験はこの旅によってより根源的な思想経験となって最晩年へ導かれたと窺える。

 

マルローの〈日本〉に対する強い恋着の軌跡をたどってみると、その最も深いところでこの国の〈サムライ〉の文化が育んできた〈死〉の哲学への抜きがたい傾斜がある。

それは若い日に仏印やカンボジア、中国などアジアを探査し、スペイン戦争や対独レジスタンスに身を投じながら、戦後はド・ゴール政権の一翼を担って祖国に献身したこの行動主義の作家の人生とも深くかかわっている。

 

マルローの人生に〈死〉はいつも親しい伴侶としてあった。

8歳の時、海運業者だった祖父が自死する。29歳の時、今度は父のフェルナンがガス自殺で死ぬ。アパルトマンの傍らにはインドの輪廻思想についての本が置かれていたという。

レジスタンスに身を投じた義弟はゲシュタポにとらわれて処刑された。

若い日の恋人で、ジャーナリストのジョゼット・クロティスの事故死。二人の間に生まれた二人の息子も青春のさなかに自動車事故で亡くなった。そして失意の中で再会して晩年をエソンヌの広壮なシャトーにともに暮らした詩人のルイーズ・ド・ヴィルモランも、突然病に倒れて逝った。

まことにマルローの人生には累々たる死があった。

戦前の最初の訪日の折、マルローは出迎えた日本の報道陣を前にして、こう述べている。

 

〈近代的な日本人にとって過去の遺物となってしまったものが、私たち近代のヨーロッパ人にとっては、大きな謎となったり、あるいは深い暗示となって現れたりすると、私ははっきりと率直に言っておきたい。ハラキリにおいて<死>は消滅する。死という人間的諸条件を、ある人間の意志が自由に否定する行為であるからだ。ハラキリにおいては、より高き倫理的価値が、自己に対する超越のかたち、死に対する克服のかたちによって、肯定されているからだ〉

 

『反回想録』のなかでマルローは登場する「坊さん」の言葉として「ハラキリは自殺ではない。例証です」と述べて、西洋における自殺とは本質を異にする積極的な意味を与えている。「愛する人を死に導くことを潔しとするのは、おそらく究極の愛の形であり、それに勝るものはないだろう」と『人間の条件』のなかで登場人物に語らせているのは、まさにそのような「隷属」から逃れて理想化された「死」を日本のサムライの文化のなかに見出すことができるからであった。

戦後をともに歩んできた巨星、ド・ゴールが80年の生涯を閉じた1970年の晩秋、時を置かずしてマルローは日本の作家、三島由紀夫が「楯の会」の若者を率いて東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部総監に乱入し、クーデターを企てたのち割腹自殺するという、驚くべき報道を聞いて激しい衝撃を受けた。まさにマルローが思い描いてきた〈サムライの死〉が、高度経済成長のただなかの20世紀の日本に再現されたかのようなできごとであったからである。

マルローと三島はついに直接見(まみ)えることはなかったが、互いにその思想と行動に対して並々ならぬ関心を寄せていた。

 

〈行為者であり表現者であること、表現される者であり裁く者であること、死刑囚であり、死刑執行人であること、かつてボオドレエルが企て、二十世紀にいたって、マルローの<行為>の小説がそのひとつの典型を打ち建てた、真に今日的な文学の困難な問題がここにある〉(『ジャン・ジュネ』)

 

三島の死に続く川端康成の自裁のあと、マルローは竹本忠雄の問いに答えていった。

 

〈三島については、行為としての死はじつに強烈な現実性を持っているといわざるをえません。そこには偉大な日本的伝統が息づき、儀式がものをいっている。(左から右へと真一文字に腹を切るしぐさをして)なんといっても、これは凄まじい行為ですよ!西洋では、このようなローマ的自決にたいして、結局はこれをロマンチックな自殺と混同してしまうのが落ちですが、しかし、われわれのロマン主義者たちはけっして同じような自殺をとげたわけではありませんからね。彼らにおいては、行為の意味はぜんぜん別だったのです〉

 

『反回想録』に「日本の挑戦」の一章を書き加えたのは、事件の二年後である。マルローは1976年の晩秋、パリ近郊の病院で娘たちに看取られて75歳の平穏な死を迎えた。

 

さて、以下はこの犀利で謎に満ちたなこのフランス人作家の死後に明らかになった、藤原隆信の『平重盛像』とマルローをめぐる物語の、まことにアイロニカルな終章である。

1995年になって、美術史家の米倉迪夫が「神護寺三像」に描かれたモデルの冠や着衣の様式、眉や目鼻などの描法を考証した結果として、平重盛像のモデルを足利尊氏、源頼朝像を尊氏の弟の直義、藤原光能像は室町二代将軍の義詮とし、制作年代も一世紀半ほど下げるという新説を公にした。

制作年代と像主を変更するという、大胆な学説は美術史のみならず、先入観に支配されてきた日本の中世史の見直しにもつながるものとして、大きな反響を呼んだ。

「武士らしく、尊厳に満ちて凛々しい表情」が英雄の理想化という象徴作用をもたらして、後世の人々が歴史の文脈を読み違えてきたとすれば、これはまことに大きな問題提起である。もっとも、これには反論も強くあって決定的な同定にはなっていない。

実在したモデルのイメージを前提にして、時代風俗という状況証拠から像主の姿かたちの異同を問うのなら、これにも歴史の歪みを引き寄せる落とし穴がる。

ただあの神話的な肖像画の像主が重盛ではなく尊氏であり、作者も隆信ではなく遥か下った南北朝期の絵師ということになれば、絵画としての価値は揺らぐことがないとしても、マルローが得た霊感のありようは大きく揺らぐことにもなろう。

歴史とは、そしてそれを眼差す人間とは、まことに無慈悲なアイロニーに満ちている。

                                =この項終わり

(参考・引用文献等は連載完結時に記載します)

私の手塚治虫(13) 峯島正行

  • 2013年8月29日 16:59

ロボット法とロボット工学三原則

 

フランケンシュタイン・コンプレックス

私の少年時代は、あの怖い、恐ろしい顔をしたフランケンシュタインの話を読んだり、映画で見たりして、恐怖におののいたものであった。みなさんそういう経験がおありだろう。怖いもの見たさに、もう一度見たいと思ったりして……。

西欧では大人だって、私たちのそれとはちょっと違うが、フランケンシュタインに恐怖感を持っていた。フランケンシュタインというのは、一九世紀初頭の小説。主人公のフランケンシュタインは、名家出身の青年科学者。生命の謎を解き明かし、自由自在にこれを操ろうという野心に取りつかれ、「理想の人間」の設計図を完成させる野望の実現を期す。それが創造主である神の掟に背く行為である、という恐れを抱きながらも、実行に移す。彼は墓を暴き、人間の死体を手を入れ、それをつなぎ合わせることで、怪奇な人物の創造に成功する。

しかしそれで誕生した怪物はすぐれた体力と人間的知性を持っていたが、筆舌に尽くしがたい醜い容貌を持ち、生みの親であるフランシュタインさえ、怪物からか逃げ出す始末で、それから、いろいろな恐怖に満ちた事件が起きる。

この物語は、人類の心の底で常に持つ恐怖の基となった。

この恐ろしさとは、造物主である神に代わって人造人間、ロボットといった生命を持つ被造物の創造への憧れと同時に、その被造物により、創造物を作った神に背いた行為として、その罪で人間が滅ぼされるのではないか、という恐怖が、人間の心の底に沈泥しているからではないのか。この恐怖の感情を、アメリカのSF作家、アイザック・アシモフによって、フランケンシュタイン・コンプレックスと名づけられた。

アシモフは草創期のアメリカSFの作家である。彼はその後幅広い作家活動によって、アーサー・クラーク、ロバート・ハインラインなどと並ぶSF界の巨匠になった。

彼は一九五〇年、(昭和二五年)、「I,ROBOT」 (われはロボット)という、SF短編集を発刊した。昭和二五年という年は、第二次大戦終了後、五年目であり、いまだに戦塵の匂いが漂い、また朝鮮戦争が勃発した年である。そこで育ったSFは、文学の分野としては、若い、未知の荒野に芽を出したばかりであった。SFの未来は、光と闇が交錯していた。

アシモフはその中でもロボット小説の世界では先鋭な先駆者であった。彼がロボット小説を書くにあたって、一番悩んだ問題は、彼自身が名づけた「フランケンシュタイン・コンプレックス」であった。

SFにおいては、宇宙という無限の世界で人間が活躍するためには、宇宙という過酷な環境のなかで、頼りになる労働力であり、同時に太陽系の外に飛び出してゆくという困難なフロンテア事業の協力者が必要である。それがロボットである。宇宙の現場は人間とロボットのチームが密接に結びついて行動しなければならない。

しかし、人間が、フランケンシュタイン・コンプレクスを持つ限り、ロボットとの間に感情の擦れ、対立、が生じて事がうまく運ばないことがおきる心配がある。

その一方ロボットの能力は、日に日に進歩を遂げる。

技術の進歩ばかりでなく、人間の精神の動きをとらえ、彼ら自身のものにしてゆくであろう。そうなった場合に人間とロボットの関係はどうなるか、ロボットと対等、さらにはロボットの優位さえ生まれる。アイザック・アシモクは、この問題についての解決法を編み出さねばならなかった。

最初の短編集「I,ROBOTT」の序章において、75歳になるベテラン女性技術者が、ユナイテッド・ステーツ・ロボット&メカニカルマンK/Kの創業七五年を迎えて、自分の七五才の引退についての話をしている。

記者に向かって女史は聞き返す。

「あなた幾つ」

記者が三二歳と答えると、誇り高き女性技術者はこう答える。

「それではロボットのいない世界は知らないのね。人類が頼る友もなく広大な宇宙を一人ぼっちで、闘わねばならない時代があった。でも今は助けてくれるものがいる。人類より強靭で、忠実で、有能で、全く献身的に仕えてくれる者が。人類はもう孤独ではありません。

貴方にとって、ロボットはロボットなのね。歯車と金属、電気と陽電子。鉄にくるまれた心!人間の創造物!必要なら人間の手で破壊できるもの、でもあなたはロボットと一緒に働いたことがおありでないから、彼らのことは解らないわね。彼らは人間より、ずっと無垢で優秀な種族ですのよ」

とベテラン技術者はのべるのである。

こうなってくるとアシモフは一層、人間のフランケン・シュタイン・コムプレックスの問題を解決し、ロボットと人類とが、うまくいくようにしなければ、その方法を考え出してゆかなければ、小説の世界でも乱れきってしまう可能性が強いと判断したようだ。そして先輩作家であり、すぐれた編集者だった、ジョン・W・キャンベル・ジュニアと相談し、戦後、短編集「I,ROBOTT」に収められるロボット小説「ロビー」をかいた。一九四〇年の事である。それから四作目「堂々巡り」(一九四二)を書いた頃にいたって、「ロボット工学の三原則」(The Three Lows of robotics) という、彼の小説の憲法のような規定を確立する。この[robotic]という言葉も全くアシモフの造語である。日本ではこれを「ロボット工学の三原則と訳している。

一九五〇年、初期の小説をまとめた「I ROBOT」の巻頭にこの三原則を載せて、アシモフはその重要性を喚起している。その三原則を上げてみると、次のようなことになっている。

 

 ロボット工学の三原則

 

第一条          ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条          ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が、第一条に反する場合は、この限りではない。

第三条          ロボットは、前掲第一条及び第二条に反する恐れのない限り、自己をまもらなければならない。

 

アシモフは、「I.ROBOTT」の後、出版した「ロボットの時代」として同時代を描いた短編集も出しているが、この作品群が雑誌単行本を通じてロボット工学の三原則、つまりロボット・行動体系の倫理規則が、文壇一般に広められた。またこの規則は、他の作家や思想家が、この種の話題を扱うに際し、大きな影響を与えた。その後もアシモフのかいた一連の作品には一見して三原則に反するような行動をとったり、それをめぐる謎を解決するというミステリ仕立ての作品も多いという。この辺りに来ると筆者も勉強不足なので、詳しい解説は、ご勘弁願うとする。

 

 

ロボット法は手塚の独創

 

さてそこでわが手塚治虫に話を戻そう。手塚治虫と言えばすぐに連想されるのが、言うまでもなく鉄腕アトムであろう。雑誌の漫画に、それを基にして、アニメーションとして多数の映像作品が制作され、また映画にもなっている。正義と平和のために、10万馬力の超能力を駆使し奮闘するアトムの活動には、世界中の少年が熱狂したことは説明するまでもない。それはディズニーの作品に匹敵する世界の人気者である。

鉄腕アトムにでてくるロボットにもロボット法は存在する。最初雑誌の連載を始めたときは、ロボット法は、活字化されていなかったが、手塚のアタマの中には存在していたことは確かである。

初出雑誌、「少年」にはロボット法は明記されないが、平成11年に初版を出したサンデー・コミックス(秋田書店)の、鉄腕アトム第一巻では、開巻初頭から、「ロボット法の説明をしている。手塚はこういう方面には、非常な敏感な感性を持っている。

アシモフが、「I ROBOT」を発表したのは、前述の通り一九五〇年であったが、日本でも先駆的SFマガジン「宇宙塵」が、柴野拓美によって発行されたのは一九五七年である。柴野を中心に先駆者である今日泊亜蘭、矢野徹が協力、同人として星新一、小松左京、光瀬流、筒井康孝、眉村卓などの新鋭作家が加わって、この雑誌を中心にSF文壇を作り上げていったのであった。これに手塚も参加している。慧眼、早耳の才に恵まれた彼らが、アシモフのロボット三原則を、早くから知っていたと思われる。

そういう情報は、昭和二七年(一九五二年)四月、アトムの連載が始まったころにはすでに手塚の耳に入っていたと考えていいだろう。手塚は、じぶんのロボット法をつくるにあたっては、アシモフのロボット工学三原則と重なる部分があるが、自分のロボット法は独自に考案したものだと、言っている。

手塚に「鉄腕アトムの生い立ちと歴史」という短編漫画があるが、その中で「ロボットの法律を作ったのは、アシモフよりずっと前なんですよ」と記者の前で強調している場面が描かれている。

私はアシモフの場合は、フランケンシュタイン・コンプレックスから始まった、人間生、神性を、ロボット強化時代に、守る方に重点を置き、手塚は,科学技術の進歩により製造され、人間の進歩、生活を補助するよう、ロボット法の重点を置いているように見える。

漫画の上ではすでに制定され、アトムがサーカス団から、お茶の水博士に引き取られたのも、この法律が制定されていた結果だとされている。其の後ロボット法の内容は、連載の上で徐々明らかされてゆくが、最も具体的内容が載ったのは、「青騎士の巻」(少年、一九六五年・昭和四〇年・一〇月号~六六年三月号)

である。今それをかかげてみる。

 

 鉄腕アトムロボット法

一、          ロボットは人間を幸せにするために生まれたものである。

二、          ロボットは人間に尽くすために生まれてきたものである。

三、          ロボットは人を傷つけたり、殺したりしてはならない。

四、          ロボットは作った人間を「父」と呼ばなくてはならない。

五、          ロボットは何でも作れるが、お金だけは作ってはならない。

六、          男のロボット、女のロボットは互いに入れ替わってならない。

七、          無断で自分の顔をかえたり、別なロボットになったりしてはいけない。

八、          大人につくられたロボットが子供になったりしてはいけない。

九、          人間が分解したロボットを別のロボットに組み立ててはいけない。

十、          ロボットは人間の家や家具を壊してはいけない。

十一、     その目的にかなう限り、すべてのロボットは自由であり、自由で平等の生活を送る権利を持つ。

十二、     ロボット省の許可なくして無断で国を離れた行動をとるものは、エネルギーの無期限差し止め、または解体の刑に処する。

十三、     ロボットは人間を信ずべし。

 

機械工学や文化が進んでくると、ますますロボットに磨きがかかり、自己主張が生まれてくる。人間に奉仕するためにだけの存在に疑問を持つロボットが現れるのは当然だといえよう。

それに一九六〇年代というと、学生運動が燃え盛り、東大安田講堂占拠などという世相になって、作者としてはいい子のロボットばかりでは読者が、不満を生むかも知れないと思うようになるのは当然だ。

いくつかの編で、人間に盾をつくロボットも現れてくるが、そのさいたる一編が、青騎士の巻である。この辺の物語を簡単に記しておこう。

 

 

反逆者、青騎士

 

アトムは多少の波乱があったが、相変わらず学校で勉強をしながら、平和を乱す事件があると、出動、活躍するという生活をしていた。トントというロボットの学友もできた。

所である時、南ア連邦のダイアモンド採掘場に、青騎士と称する騎士風の男が馬に乗って現れた。ここの仕事場は、ロボットをこき使うロボットの敵であるから、爆破すると脅す。警備軍はこれを迎え撃つが、簡単に敗れ去った。採掘場を破壊して、一二人の死者を出し、いずれとなく青騎士は去った……というニュースが世界中に飛び、人々に恐怖を巻き起こす。

ロボット法によって守られている人類はこういう経験をしたことがなかったのだ。

やがて、青騎士は、自分を作った親許であるロッス博士の家に現れる。

青騎士はブルー・ボンと言いロス博士にかわいがって育てられた優秀なロボットであったのだが、ロボットだけの国を作ると家出をしていたのだ。ロッス博士は、何度も引き止めるが、生みの親である博士を捨てても、自分の決心は代えられないと断言する。

「ロボットはロボット法でがんじがらめに縛られています。やりたくてもやれないことがうんとあります。

ロス博士、私はこのロボット法を片端から破ってやろうと決心したのです。」

と叫ぶのにロッス博士は

「そんな無茶なことはやめてくれ。人間にだって法律はある。でも人間はちゃんと守っているじゃないか」と叫ぶ。

「それは人間に都合のいい法律だからです。ロボット法だってそうです。私はロボットのためのロボットの法律を作ります。今日から父と子の縁を切ります。さよなら」と言って青騎士はさった。

ここはインドのデリーの近くロボット分解工場。そこを守備しているのはss18号という豪傑のロボット。単騎やってきた青騎士に「来るなら来い、ss18号の目の黒いうちは指一本触れさせぬ」と立ちはだかった。だが二騎士の決闘は結局青騎士の勝利に終わる。

「もうほかに邪魔するヤツはいないのか。それでは工場を破壊するぞ」

大工場を完膚なきまで叩き壊し、青騎士は悠々と去って行った。それを世界中のニュース網が伝えていた。

「これで青騎士に襲われたところは全世界で三三か所になりました。次にあらわれるのはどこか。各国警察ででは、青騎士の行方を必死に探しています……」

その世界のお尋ね者の青騎士がアトムの家の庭に深夜、突然に表れた。

青騎士はアトム前に立ちはだかって、

「私の仲間になれ」という。

彼は続けて「お前は世界一の素晴らしいロボットだ。だからこうして頼みに来た。

アトム、人間は今や怠け者で、愚かな動物だ。ロボットが力を合わせて立ち上がるのはいまだ」

それを聞いてアトムは驚く。青騎士は「ロボットの一番の幸福はロボットだけの国を作ることだと思う。アトム、そのためにはお前の力がいるのだ。どうか仲間になってくれ。

それとも今までのように人間の奴隷で暮らす気なのか」

アトムは答える。

「ロボットは奴隷じゃない。今でも僕たちは自由だ。」

「いやロボット法がある限り人間の奴隷だぞ,日をあらためてくる、よく考えて於いてくれ」

と青騎士が去ろうとするのをアトムは、それをおさえ、

「君をこのまま行かせるものか。君はまたどこかで人間を殺したり、傷つけたりするだろう!」

「そうだ、それがなぜ悪い」

「人間を傷つけるような奴はこのままゆるせない。僕が邪魔をしてやる」

そこで、二人の一騎打ちが始まる。双方が能力とエネルギ-を出し尽くして戦う。だが戦いは勝負がつかずに終わる。アトムの前から相手の姿はきえた。

場面が変わって、南フランスのある海岸。そこに設置された研究所で、青騎士を倒すために、白騎士が制作された。フランスの科学庁長官は「フランスが誇る五〇万馬力の超ロボットだ。君は人間をまもり、青騎士を打倒すのだ。必ず勝て」と命令する。

テレビでこのことが全世界に伝わったために、突然そこに青騎士が出現する。そして白青の対決が始まった。

「人間の奴隷め」と青がいえば「わたしが奴隷ならお前は恩知らずだ、人間に作ってもらいながら、裏切るとは、何ということだ。」

かくして二人は決闘を始める。激闘の末、戦いは、結局白の首がもがれ、青の勝利となった。

「人間諸君、死んだ勇士のためにフランス国家でも歌いたまえ」と凱歌を上げたが、彼の方も兜が割れ、仮面の内側の顔が現れそうになる。彼は海中深くの逃れてゆこうとする。

だが日本のテレビでこの決闘を知ったアトムが、駆け付けて来たのであった。青が海中に逃げたことをしったアトムは、その青騎士を海中に追って行くのだった……。

 

以上物語の発端を簡単に紹介したが、この後物語は複雑極まりない展開を見せて、永く続いて行くのだが、それを知りたい人は手塚の作品を読んでください。

その物語は、アトムに出てくるキャラクター、アトムの家族は勿論、人間ではご存じお茶の水博士、アトムの生みの親、天馬博士、ヒゲオヤジ、ロボットを目の敵にするブルグ伯爵、四部垣、田鷲警部、ロボットでは主役の青騎士その妹、ロボットマリヤ、弟のロボットトントの他多数の人物、ロボットが登場し、反転、逆転、変転極まりない、複雑なお話となっている。「青騎士」一篇でおわらず「メラニン一族」「ミーバ」の三作続き、本にして二冊の長編となっている。

私が、この漫画を持ち出したのは、あのように平和と正義を謳歌してきた「鉄腕アトム」という作品でも、その後半になると、人間に反逆するロボット、あるいはその集団ができ、ロボット国を繰ろうとしたりするように、人間とロボットの力関係の変化を手塚が、描き始めていることだ。

前に述べたように、人間は、自分が創り出した科学技術の産物によって自らが滅びるところまで行くのではないかという懸念を、すでにアトムという漫画の中で、考えていたことを強調したいのである。

 

 

チュウーブから生まれる子

 

アトムの連載が終わった後、手塚は、幾つかのアトム・ヴァリエイションを発表しているが、その一つに「アトムの最後」という作品がある。

それはアトムが活躍した時代から長い年月がたって、アトムの遺体が、ロボット博物館に飾られてから,五〇年の年月を経たころの話である。

少年丈夫は父と母との三人暮らしの幸福な家庭の子供として育っている。或る団欒の夕べ、母の膝の上で、丈夫は母親に質問する。

「僕チューブの中から生まれたって、ほんと?ママから生まれたんじゃないの?」

「ええそうよ、今赤ちゃんはどこのうちでもチューブのなかでうまれるの」

すると父親が言う。

「昔はお母さんのおなかの中で育ったそうだけど…今はそんなことより、乾燥して保存してある精子や卵子を、チュウーブに入れて、受精させて子供をつくるんだ。」

「フーン、なんだかわけがわからないや。要するにママは楽なんだね。」

と子供は無邪気に言う。

「もう一つ聞いていい?人間て、年をとるんでしょう?ママやパパはちっとも年をとらないのはどうしてなの。」

父親が答える。

「パパも年をとってるさ、お前に比べればのろいんだ」

子供は母に抱かれながら

「僕幸せだね。ママがずっと若いもん。おばあちゃんにならないもん」

団欒の一コマとは読めない。パパもママも、ロボットなのだ。そして丈夫はクローン人間なのだ。

田才益夫が、前述したように、チャペックと言えども人間が生きた人間を生産することは考えもつかなかったろう。ところが今クローン技術によって生殖によらず人間を再生産することができるようになった。今は人間の倫理観という恐怖心がそれを抑制している。もし生きた人間ロボットが出現した時、我々は安心してはいられないだろう。

そう田才は言うが、手塚の漫画の上ではそれが現実になっているのである。恐ろしいのは、それをこの現在の社会でやろうと思えば可能性が大であることだ。(続く)

池内 紀の旅みやげ(32)◯Ⅹの町──茨城県結城市

  • 2013年8月19日 18:33

角を曲がって参道に入ったとたん、ギョッとした。正面に×のかたちで木が打ちつけてある。一瞬、「磔刑(たっけい)」という言葉が頭をかすめた。寺の大門がハリツケにされた。

茨城県結城市(ゆうきし)の名刹称名寺(しょうみょうじ)。初代藩主結城朝光の墓所のあるところ。べつに墓が目当てで訪れたわけではなく、町歩きの途中になにげなく立ち寄ったばかりだが、大門に角材が打ちつけてあるのは珍しい。くぐり戸から中に入ると、内側にも×があって、正面・左右と念入りである。ゴルゴダの丘のキリストは、二人の盗賊といっしょに処刑され、三つの磔刑像で描かれるが、なにやらそれと似ている。

結城市にある称名寺のハリツケにされた門前の姿である。

結城市にある称名寺のハリツケにされた門前の姿である。

雄大な屋根と小屋根をもつ大門ながら、頭が立派すぎて支えきれなくなり、危険につき使用停止のための処置だろうか。それならそれでほかにやり方もあるだろうに、ハリツケ型で釘づけとは少々乱暴ではあるまいか。

結城紬(ゆうきつむぎ)で知られた町である。通りごとにコットンコットンはた織りの音が聴こえそうに思うのはよそ者の早合点で、もともと下総(しもふさ)一帯の農家の家内産業として発展した。町にあるのは問屋ばかりで、養蚕のはじまりから絲づくり、染め、織り、買い上げいっさいを管理してきた。ひところは最上の紬の里として大いに栄え、問屋街には、いまも重厚な蔵をそなえた建物が軒をつらねている。

はじめて知ったのだが、おそろしく手間のかかる織物なのだ。「煮繭」といって、繭を重曹で煮て、真綿状にすることから始まり、糸つむぎ、管(くだ)巻、糸あげ、染色、下糊(のり)づけ、図案作成、機延べ(はたのべ)、墨づけ、絣(かすり)くくり。これでまだ全行程の半分にもいかない。そのあともすべて手づくりで、どれにも経験と修練が要る。平成二十二年(2010)、その技術がユネスコ無形文化遺産に登録された。審査にかかわった外国人は、美しいキモノになるまでの気の遠くなるようなプロセスに唖然としたのではなかろうか。

大町、陣屋町、白銀町、紺屋町、鍛冶町……旧来の地名がそのままつかわれている。結城藩一万七千石。高級地場産業を持ち、財政に恵まれていたのではあるまいか。幕末・維新のころ、へんてこな事件があった。江戸にいた藩主水野家第十代の殿様は佐幕思想の持ち主で徳川方。国もとでは家老以下、勤王方で、新政府軍に恭順を伝えていた。これを知った殿が激怒し、みずから「水心隊」という彰義隊の別動部隊を率いて国元へもどり、城を砲撃して占拠した。藩主が自分の城を攻撃したわけである。新政府軍の進撃にあって、殿は城を脱出、彰義隊のもとへ奔った。この「不始末」に対して結城藩では二人の家老が切腹した。ハリツケ大門のとなり合わせの寺に、切腹した家老の一人の「自刃の跡」の碑があったが、歴史はおりにつけ奇妙ないたずらをするものである。

称名寺の門の裏にまわってみるとなおさらにしっかりとハリツケにされていた。よほどアタマが重いのだろうか。

称名寺の門の裏にまわってみるとなおさらにしっかりとハリツケにされていた。よほどアタマが重いのだろうか。

町のあちこちに紬の製作を見学できる施設がある。問屋の出店がカフェに改築され、香ばしいコーヒーと、おいしいケーキがいただける。あざやかに旧型をのこしたシャレた店づくりで、それに店の女性の品のよさ。話のぐあいから当家の生まれ育ちと知れたが、旧問屋の底力がチラリのぞいたぐあいだった。

地酒の蔵元をおそわったので寄ってみた。赤レンガの煙突と、黒瓦の大屋根のコントラストがみごとである。よくみると瓦の半分ばかりが灰色がかっている。東日本大震災の被害のあと葺き直した。ふつうならチャンスの到来とばかり旧の建物を引き倒して現代風の効率的な蔵にしそうなものだが、元どおり木造の瓦屋根に修復した。「観光物産センター」のおばさんによると、日本酒の業界は右肩下がりでラクじゃないのに、地震の大痛手を受け、ときおり蔵元が立ち寄ってボヤいていくそうだ。老舗の跡つぎに生まれたばかりに運命が大きく変わった──。

大旦那でいられる人が、売り場のおばさんにボヤくところがほほえましい。

城下町特有の少しうねった大通りが何やらスッキリしているのは、余計な看板がないせいで、それぞれの店の一つにかぎっている。見通しがきく上に、伝統的な日本家屋の威厳と味わいがよくわかる。

やればできる見本であって、ひそかに○じるしをつけた。大門の×マークと○×が並び立ったぐあいである。

【今回のアクセス:JR東北本線小山駅で水戸線に乗り換えると二つ目が結城駅】