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ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 4 柴崎信三

  • 2013年7月23日 09:54

 〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

 

4 〈豊饒〉について

     「ツマリマセンネ」―六角堂の岡倉天心

 

再建された五浦六角堂(2013年)

再建された五浦六角堂(2013年)

 遠く、海はささやくような波に輝いている。

初夏の陽光は凪いだ海に照り返り、眼下の太平洋から伝わる熱気と風のざわめきが岬にしつらえられたこの小さな空間にも伝わる。熱を孕んだ一陣の風が堂宇を吹き抜ける。

〈私は何を求めてここへやってきたのだろう〉

東京美術学校(現東京芸大)の校長という自らの立場をめぐって、東京の美術界で繰り広げられた抗争で窮地に立った岡倉天心は、公職を追われて遥か茨城県五浦の海岸に自らの美の拠り所の日本美術院を移し、その岬の突堤に六角堂という小さな庵を設けた。

豊饒に輝く太平洋の波頭を見つめながら、蟠るおのれの情念に向き合う、まことに私的な祈りの聖域(アジ―ル)であった。この朝も、ひとりここに座して海をみつめているうちにしばらくまどろんだ。母親の胸に抱かれたような、幸福なまどろみだった。

いまは日課になったように、昨日も船を出して沖合で釣りに興じた。前夜、晩酌をしながら釣り道具を整えて、翌朝は読みかけた本を携え、漁師の千代次とともに船に乗る。

筒袖の道士服のような衣に、烏帽子風の被り物、草鞋履きで手には釣り竿と魚(び)籠(く)を持っている。自身を流謫の身になぞらえて演じる、東洋的(オリエンタル)な隠遁者の姿と呼ぶべきなのか。人影のない海辺でその異形はひときわ目を引くが、それこそが天心の境涯を貫くダンディズムであり、世界への眼差しの表現でもあった。

盛んな夏の海の照り返しを受けて、肌を刺す陽光が降り注ぐ小舟の上から沖合を眺めていると、手元の釣りざおが鋭い反応を見せた。アジ、サバなどとともに、宝石のような模様のシマダイがかかることもある。釣りに飽きると船上では持ち込んだ本を読んで、一日は過ぎた。昼寝をして自宅へ戻れば、また酒になった。

四十路も半ばになる。横山大観や菱田春草ら若い同志の日本画家を引き連れた五浦の暮らしを「都落ち」と嗤う声が、時折都から聞こえてくる。六角堂に身を置くとそんな憂さも清められて、黙想は過ぎ去った遠い風景や美しいものへのこころよい追想をよびおこし、秘めやかな乾坤(けんこん)が立ち上がるのである。

 

それにしても、見渡す海に突き出した景観の奇想にあふれた自然に比べれば、この小さな構築は六角形の鮮やかな朱塗りの外観を除くと内部はまことに装飾性に乏しく、あたかもそれが設計者の頑な意思に貫かれているようにさえみえる。

広さはわずか三坪、すなわち10平方㍍余りの庵を、天心は「観瀾亭」と名付けた。

奇抜な六角形の建物は、八角形をした法隆寺の夢殿から想を得た。私淑したお雇い外国人、アーネスト・フェノロサとともに古来不出の秘仏を千年の眠りから目覚めさせた、天心にとっての美の故郷であり、理想(アルカ)郷(ディア)とも呼ぶべき場所である。とはいえ、設計はその八角形が六角形となり、茶の湯を楽しむための開放的な茶屋の要素を色濃くした。

居宅とあわせて設計を請け負った地元の大工の小倉源蔵は、宮大工など伝統建築についての格別の知見を持った職人ではない。それゆえ、六角堂の外観も内部もおよそ天心の意匠をそのままかたちにしたものといっていい。

擬宝珠を頂いた瓦葺きの方形造の屋根が6つの面をなし、それを一辺の幅がほぼ2㍍ほどの壁面で支えている。そのうち海へひらいた4面にはガラス窓がある。外側には朱色の庇が張り出し、紅殻色の板張りの外壁と鮮やかな調和を生んでいる。

畳敷きの部屋の内部からは、大浦と小浦の断崖を左右において、眼下に初夏の陽光を映した太平洋の穏やかな波頭が窓越しに広がる。

室の中央には六角形の炉が切ってある。窓には内側に鴨居と敷居があって障子を立てることもできたから、まれに訪れる客を招いて海から吹きくる風にそよぐ松籟の音を伴侶にしながら茶をたてることもあった。

 

蝉雨緑に霑(うるお)う松一村

鷗雲白く漾(ただよ)う水乾坤

名山斯処詩骨を託す

滄海誰が為に月魂を招く

 

漢詩の『五浦即事』で天心は五浦の景観をこのように讃えた。

 

土壁とにじり口で閉ざされた数寄屋の茶室の、様式的な空間でたてる茶とは違って、海に向かって自然に放たれた六角堂のおおらかな茶の湯は、世俗の塵埃にまみれてたどりついた天心の心の傷を癒すのに相応しい舞台ではあった。

 

「この海原の彼方に、あのアメリカがある」

 

潮の香りを運んでくる白南風に身をまかせながら、天心は遥か彼方から若い日の一年余りに及ぶ欧米視察旅行から帰国する途上の、太平洋航路の遠い記憶を思い起こしている。

そもそも我が身の流転の端緒は、あの帰途の船上の日々の出来事にあったのだから。

 

祖国へ帰るアーネスト・フェノロサとその家族ともに、24歳の天心が横浜から米国船〈シティ・オブ・ペキン〉で欧米視察の旅の途に就いたのは、1885(明治19)年10月2日のことである。日本の美術品の収集家で修復保存の支援者でもあったウィリアム・ビゲローや画家のジョン・ラ・ファージらも同道した。

文部官僚だった天心が、国立の美術学校や美術館の設置などで「美術行政の一元化」を打ち出して時の文相、森有礼に建言したことから、文部省が美術取調委員として天心とフェノロサに9ヶ月間の欧米視察を命じたのである。

若い血気が漲る、洋々たる異郷への旅であった。

再三にわたってフェノロサとともに京都や奈良の寺社をめぐり、廃仏毀釈運動の下の荒廃のなかで「開けば落雷がある」と扉を閉してきた法隆寺の夢殿を開扉させて、秘仏の救世観音像のまばゆい姿を目の当たりにしたのは二年前である。それ以降、日本美術の心酔者であったこのお雇い外国人をいわば西洋からやってきた日本文化の後見人として、明治政府の欧化主義の影に埋もれていた日本の伝統美術を正統に復することで美術教育と美術界を主導するという、天心の文化官僚としての野望は着々と奏功していた。

一行は太平洋を渡ってサンフランシスコに上陸したのち、ボストンやニューヨーク、ワシントンで歓迎を受けた。年が明けてから大西洋を越えて欧州へ渡り、フランス、イタリア、スペイン、オーストリア、英国などの各国の美術館や博物館はもとより、国家や産業界と文化行政のかかわりまでを丹念に調査、視察した。一年余りに及ぶ、夥しい任務を帯びた長い旅であった。

帰途、天心は再び米国へ立ち寄り、かつての文部省の上司で米国駐在の特命全権公使としてワシントンにあった九鬼隆一を訪問する。

摂津三田藩から文部省に入り、木戸孝允や大久保利通といった元勲の知遇を足がかりに、若くして文部少輔、つまり事務次官へ栄達を遂げた。さらにやがて男爵の爵位を得るという人物である。欧化路線の森有礼に対抗する国粋派の文部官僚であり、腹心ともいうべき立場であった天心にとっては、その縁で出世の階梯に導かれ、一方でその昵懇なまじわりが後の自身の曲折に満ちた歩みと深くかかわる、運命的な絆で結ばれた人物である。

天心は三つ揃いの背広姿で横浜を出発したが、船上でインド人の相客がターバンやサリーなどの民族衣装を堂々と身につけているのを目の当たりにして、考えを改める。

米国や欧州の地で外国人を訪い、あるいは官庁や美術館の視察など、人目に触れる場面では、常に三つ葉かたばみ五所紋という、家紋の入った羽織袴姿でのぞんだのである。

流入する西洋文明の香りに満ちた横浜の居留地で育ち、母国語のように流暢な英語を話すこの若い日本人の奇抜な自己演出は、思惑通り欧米の各地で人々に強い印象と話題を提供した。ところが、帰途ワシントンの日本公使館を訪ねた折、天心の古風な紋服姿を認めるや、九鬼は一喝した。

「なんだ、その格好は」

「『郷に入っては郷に従え』という言葉を知らんのか」

怒気を含んだ声が返って来た。

いま振り返れば、あの姿も祖国の伝統文化を西洋に誇示しようという、若い日の気負いの現れであった。

 

もっとも九鬼の苛立ちは、若い天心が仕組んだ場所をわきまえない時代錯誤のいでたちばかりに原因があったのではない。日本から伴ってきた妻の波津子が、心身の不調を訴えて取り乱す日々が続き、帰国を強くのぞんでいたからである。

「折り入って相談したいことがある」

久々にまみえた若い腹心の部下に向かって、九鬼は声をひそめて言った。

「異郷の暮らしになじめない家内が心身を損ねて、先に日本へ帰りたがっている。貴君が帰途に同道してやってくれはすまいか」

天心に否やはない。

二人の子供をかかえ、「言葉も通じない国で外交官の妻として社交の場にのぞむことなど到底できません」と、もともと同行に消極的だった波津子であったが、ワシントンの公使館など社交の場にのぞむようになると、その美しさと控え目で淑やかな振舞が地元のメディアなどでも知られるようになった。

 

〈日本公使夫人は美しい。(略)九鬼夫人は英語を習得しようと果敢に奮闘中であるが、火曜日夕、公使館で催された見事なパーティーの席上、招待客に英語で挨拶した。顔色はつやつやしたオリーブ色で、頬には赤味がさし、非常に整った顔立ちをしている。淡いローズ・ピンクのヴェルヴェットとサテンのドレスはブルネット・タイプの夫人にはまさにぴったりのものだった〉(1885年2月6日「ハーバーズ・バザー」紙)

 

もともとは京都の花柳界の出身という。「若々しく、愛らしい。細身で、姿勢もよく、生き生きとした表情をしている」といった波津子の評判は、ワシントンの社交界に広がっていた。イラスト付きでその可憐な佇まいを伝える記事もあったが、やがてそれはこの東洋からやってきた美しい公使夫人が心身の変調を来たし、夫に先んじて帰国することを伝える内容に変わる。波津子はその時、ワシントンで生まれた幼子を連れた上、のちに哲学者となって『「いき」の構造』で知られる三男の周造を身ごもっていた。不安をかかえる帰路のエスコート役を引き受けたことが、後の天心の歩みに大きな影を落とすのである。

1887年9月、サンフランシスコからの海路は平穏であった。フェノロサ一家や公使館の書記官ら同行者とともに、長い欧米視察の成果を抱えた天心は帰国後の前途に大きな野望を温めながら船上にある。太平洋を横断してゆるやかに進む船上のデッキで三つ揃いの背広に装いを改めた若い天心に向き合うと、多忙にかまけて家庭を顧みずに奔放な女性関係の絶えないない夫のふるまいや、慣れない異郷の社交の場をとりもつことに疲れきった波津子は、久々の祖国が近づくにつれて次第に屈した心を開いていった。

「西洋の暮らしは何かと窮屈であられたでしょう。どうぞ、心を寛がせて下さい」

天心はそう語りかけながら、穏やかな初秋の海を背にして緩やかなワンピースに小柄な身を包んだ波津子に、眼差しを注いだ。

「お手間を取らせて申し訳ございません。無理にご一緒していただいてしまって」

若くしてすでに妻帯していた天心が、この米国からの帰路の船上で波津子への最初の愛情を育てたかと言えば、それはおそらくまだ同情という性質の感情であったろう。

 

天心の生涯に繰り返し噴出する、女性に対する柵を突き破るような不埒とも呼ぶべき情動の由来を、どこに探るべきなのか。これは、近代の日本文化のプロデューサーとして毀誉褒貶のうちに生涯を閉じたこの人物が遺した、大きな謎と呼ぶにふさわしい。

幼くして母を失ったことは、憧れが高じて堰を切ったような女性への没入を抑えることができない、この男の無頼のひとつの要因ではあったろう。天心の人生の折々にあらわれそれはしばしば、不倫や頽廃、そして時に迸るような女性への讃仰のかたちをとった。

波津子と天心が常軌を逸脱したような激しい恋愛関係に陥り、それが社会から醜聞として問われるようになったのは、米国から太平洋の船旅で帰途を共にして帰国してから10年ほどの歳月がたった時期である。

帰国後、天心は強かな行政手腕を駆使して官途を上り、東京美術学校の開設にあたった。

下山観山、六角紫水、横山大観ら、のちに野に下りて主宰する日本美術院を支えることになる若い才能を迎えて開校にこぎつけると、その翌年の1890(明治23)年には28歳という若さで自らこの日本で初めて生まれた美の学府の校長という顕職にのぼるのである。

脱亜入欧政策の下でグローバル化の道をすすむ日本にあって、西洋絵画の〈輸入〉に腐心する洋画派や日本画の守旧派を退けて、伝統に寄り添った新たな国粋美学を行政と画壇の中心に据えるという天心の戦略は、ここでも外連(けれん)に満ちたかたちになって現れる。

そのひとつは、天心が採用した東京美術学校の異形の制服である。

風俗史の教授である黒川真頼がデザインしたというこの制服は、天心の発案で天平時代の朝服を範にとって造られた。上衣は羅紗で作られた武官の闕腋袍(けつてきのほう)に筒袖で、袴は表袴の裾を紐で括った。靴は麻鞋で帽子は折烏帽子に似た天平風の代物であった。

明治の半ばとはいえ、洋服と洋髪の時代である。古代まで遡ったこの制服に学生はもちろん、当時の教員たちも不評の声をあげたが、天心は有頂天であった。

根岸の自宅からこの制服で愛馬にまたがり、上野の学校までの道のりを通った。天心は文化官僚として美術史や日本文化について多くの著述を残したが、理念の図像化、いわばプロデューサーとしてのこうした自己演出は最も得意とするところであった。

とはいえ、「日本美術史」などの講義のかたわら美術雑誌の『国華』を創刊し、合間にぬって帝国美術館の委嘱で中国美術調査旅行に出かけ、はたまた帰国した九鬼の下で古社寺保存に取り組むという多忙な重職にありながら、妻の元子と別居した天心の私生活は荒んでいた。原因は波津子との道ならぬ情交である。

長男の岡倉一雄がそのころの父の姿を描いている。

 

〈愈々仲根岸四番地を引き払つて、谷中初音町の新宅へ移転する数カ月の天心は、不羈とも放縦とも、言はふなき狂態に終始して、全く世間の軌道を踏み外してゐた。だらしなく袴を後ろ下りに穿いたまま、深夜の坂本通りを目的もなく彷徨(さまよ)ひ歩き、酒家を叩いて升酒を仰いだり、宿酔ひ未だ醒めやらぬ面を美校の校長室に晒すことも、決して一再には止まらなかつた〉(岡倉一雄『父天心』)

 

波津子は天心に伴われて帰国してのちも、夫の九鬼との不和とそれに伴う心身の不調が続いた。渡米前から九鬼の漁色は止むことがなかったが、その対象は花柳界から雇い人の娘まで、選ぶところがなかった。それが波津子の病の悪化の原因でもあった。

やがて別居を望んで移り住んだ根岸の御行の松のそばの瀟洒な中二階の家は、天心の住んでいた旧居とは指呼の間である。10年前に太平洋航路でともに帰国した波津子が、年下の天心を頼って寄る辺ない日々の光明を探る心の動きと、波津子の別居で温めたかつての同情と憧れが蘇り、天心の心が激しい恋情に移ろうのとは、どちらが先であったのか。

九鬼が世間体を慮って波津子に設えた御行の松の「中二階の家」は静寂だった。波津子は日中、琴と書と生け花に親しみながら過ごした。天心はしばしばここを訪れた。夕刻、雪洞の灯がともされた中二階の奥の間で、天心は波津子の酌を受けながら酔いに身を任せた。至福のひと時であった。

幼い周造は母の膝に凭れながら、この時折訪れる伯父さんの面白い話に聞き入った。

 

「周造は虎をみたことがあるか。伯父さんは朝鮮を旅したときに山の中で本物の野性の虎に出会ったことがあるぞ」

「君は通学に驢馬を使うといい。お父さんに買ってもらいなさい」

 

天心は周造を美術学校に連れて行ってモデルにし、橋本雅邦に幼い肖像を描かせた。筑波山へ狩猟に連れて行ったこともある。まことに父子のようなまじわりがあって、周造はひところひんぱんに母を訪れて来る天心を自分の実の父と疑ったことさえあった。

 

〈東京美術学校は世の希望をいれず、東西両洋とも目下多数の美術家が唱道せる学説あるを排斥し、あえて一種の奇僻たる志想を以て生徒を教養し、ますます怪物的の製作を出さしめ、美術自然の発達に背馳し、大いにその進歩を障礙せり。その校長たる岡倉覚三なるものは一種奇怪なる精神遺伝病を有し、常には快活なる態度を以て人に接し、また巧みに虚偽を飾るも、時ありて精神の異状を来すに及びては非常なる残忍の性をあらわし、また獣欲を発し、苛虐を親属知友に及ぼし、人の妻女を強姦し、甚だしきはその継母に通じて己が実父を疎外し、怨恨不瞑の死を致さしむる〉

 

「築地警醒会」なる名前でこうした天心の乱脈な私生活を指弾し、東京美術学校の刷新を迫る怪文書が関係者に送りつけられたのは1898(明治31)年3月のことである。

天心の腹心だった美術学校図案科の教授、福地復一が中国視察で校長が不在だった折の専横を周囲から問われ、管轄する九鬼の差配で退職に追い込まれたことを恨んで、天心の排斥運動を仕組んだのである。もっとも、そこには天心が仕切る西洋画を排除した美術行政への不満が美術界に渦巻き、校長の私行上の乱脈をあげつらうことで局面を逆転させたいという思惑が背後にあって、その勢いを恃んだことはいうまでもない。

それにしても、ここに及んで九鬼までもが天心の独断専横をとがめるのはなぜか。

身から出た錆という。放縦に身を委ねているうちに流れは変わったのである。

天心は美術学校校長を辞することを決意した。

若い教官たち、橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら天心を支えてきた17人が「不当な排斥」を憤って「連訣退職」を求めてついには免官となった。

立場をわきまえない、女性への憧れと没入という天心のエロスの衝動こそ、〈官僚天心〉の脆さの証明であった。

 

〈谷中鶯 初音の血に染む紅梅花

堂々男子は死んでもよい

奇骨侠骨 開落栄枯は何のその

堂々男子は死んでもよい〉

 

自ら手がけた東京美術学校を追われて下野した天心は、その年の秋に東京・谷中に「日本美術院」を発足させる。橋本雅邦、下村観山、横山大観ら、天心の理想と志を恃んで東京美術学校を連訣退職した26人の同志が参加する「美の共同体」である。

その発足に際して同人たちが作ったというこの俗謡は、ほとんどニヒリズムに接した気分が横溢しており、当時の天心らのメンバーが抱える空気を伝えている。

 

新たな拠点とした日本美術院は官立の美術学校とは異なる在野の一研究所にすぎない。

新しい日本画の勃興を掲げて、西洋画の写実主義を超えた「空気を描く」という理想を追求する天心という指導者を得たことで、その設立の経緯への関心も手伝って当初は同人たちの作品が社会的にも大きな反響をもたらした。

ところが、やがて日本絵画の伝統的な線描を否定し、西洋画に流行していた印象派の手法を取り入れるなどした折衷的な〈日本画〉は不評を招き、「朦朧派」などと手厳しい批判を浴びるようになった。

同人の中には美術学校からの働きかけに応じて教員に復帰する者もあらわれる。作品の売れ行きの不振はたちまち、美術院の経営を逼迫させ、天心はまたまた窮地に立たされる。

 

このような身辺の激動に見舞われていた天心がしばしば身を寄せた、上根岸の「中二階の家」に住まう波津子がその頃、どうしていたのか。

美術学校校長の辞任と日本美術院発足という波乱のなかでも続く頽廃(デカダンス)の日々を周囲が心配し、説得に応じてようやく天心が波津子のもとを離れ、妻、基子の住む自宅へ戻ることを決意するのと前後するように、夫の九鬼隆一と別居生活を続けてきた上根岸の波津子の精神の乱調は高じた。自宅へ出向いて天心の妻の基子と諍い、はたまた自ら出奔や奇行に及ぶことが頻繁となった。こうしたことから天心が怪文書事件で美術学校校長の座を降りて2年後の1900(明治33)年、夫の九鬼は帝室博物館館長の職を辞したうえで、とうとう波津子との協議離婚に踏み切った。

一人身の孤独をかこつことになった波津子の病勢はひときわ改まり、虚言や妄想が絶えることがなくあらわれるようになる。ついには1902(明治35)年、波津子は精神医療を専門とする東京府巣鴨病院に入院する。爾来1931(昭和6)年に七十一歳で没するまで、病室から出ることはなかったといわれる。

公私の場面を問わず、現実が思うに任せないまま窮地に立つと、責任を放棄してそこから逃げようとするのが天心の拭いがたい悪癖であった。その逃避の対象となるのが身近な女性であり、また遠く異国の地であった。

あまつさえ天心は東京美術学校の校長職に在ったこの間、家事手伝いにきていた異母姪にあたる若い娘と関係を結び、男児を産ませるという背徳を犯しているのである。波津子の精神の錯乱の原因が直接には夫の九鬼の放蕩にあったにせよ、その隙間に天心が寄せる出口のない泥沼のような愛欲が高じさせことは容易に想像できる。

 

波津子の悲劇をよそに1901(明治34)年、天心は日本美術院の窮地を逃れて今度はかねてから関心を深めていたインドへの旅に出る。ここでは世界的詩人のラビーンドラ・ナート・タゴールと親しく交わり、ベンガルの志士たちと西欧の植民地支配からのアジアの解放について熱い意見をかわした。

 

〈アジアは一つである。二つの強力な文明、孔子の共同主義を持つ中国人と、ヴェーダの個人主義を持つインド人とを、ヒマラヤ山脈がわけ隔てているというのも、両者それぞれの特色を強調しようがためにすぎない。雪を頂く障壁といえども、すべてアジアの民族にとっての共通の思想遺産ともいうべき窮極的なもの、普遍的なものに対する広やかな愛情を、一瞬たりとも妨げることはできない〉

 

のちに対外侵攻へ向かう日本が掲げたアジア主義のスローガンとして引用される『東洋の理想』のこうした主張は、この旅が書かせた天心一流の文化的な扇動文芸として、内外に知られるところとなった。

天心は一年にわたるこのインド周遊やその後の再度の米国歴訪のなかでも、新たな心のよりどころとなる女性を見出して偶像と仰ぐことになる。ラ・ファージの紹介でボストンに訪ねた富豪の美術評論家のイザベラ・ガードナーとインドの美貌の女流詩人のプリヤンバダ・デヴィ・バネルジーである。

なかでもプリヤンバダへ寄せるほとんど鑽仰に近い愛には、天心の失意の晩年の痛ましい情念が反映されているかのようである。

 

プリヤンバダはベンガルの名家に生まれた美貌の女流詩人で、詩聖タゴールとも血をつなぐ才媛であった。天心はインド周遊の折にカルカッタで招かれた席で初めて出会ってから、激しい思慕を募らせる。その帰途、そして再び滞在した米国のボストンや帰国後に日本美術院の拠点として移り住んだ茨城県五浦から、プリヤンバダにあてて夥しい情熱的な書簡を送り続けていたことがわかっている。

 

〈結局のところ、私の悲哀は、私のとりわけ気に入りの娯しみらしく思われます。私は孤独の中に逃げ込んで、秘かに祭りをくりひろげるのです。私の過去は、触れることもできない理想、むなしい憧憬を追っての、長い闘争でした。そして今、私はぼろぼろになり、疲れはて、しばしば長い眠りだけを欲する状態で放り出されています〉(1913年3月3日付、ボストンから)

 

こうした自己憐憫に、プリヤンパダという新たな偶像へ向けて一途な同化を求める、晩年の天心の子供のような甘えの心を認めるのはたやすいことであろう。

 

〈奥様/何度もペンをとりましたが、驚いたことに何ひとつ書くことがありません。すべては言い尽され、なし尽されました―安んじて死を待つほか、何も残されていません。広大な空虚です―暗黒ではなく、驚異的な光にみちた空虚です。炸裂する雷鳴の、耳も聾せんばかりの轟音によって生みだされた、無辺際の静寂です。私はまるで、巨大な劇場にたった一人で坐り、みずから一人だけで演じている絢爛たる演技をみつめる王侯のような気分です〉(1913年8月2日付、五浦から)

 

これは天心が認めた、最後の女性への恋文と呼ぶべきであろう。

 

六角堂が構築されたのは、天心が横山大観や菱田春草、六角紫水らを伴い、ボストン美術館の招きで一年余りの米国旅行から帰国した1905(明治38)年の6月である。

鄙びた五浦に暮らしの場を移した天心が、日本文化を世界に問うことになる英文の『茶の本』を米国ニューヨークで刊行したのはその翌年である。

 

〈やさしい花よ、星の涙滴よ、園に立ち、露と日の光をたたえて歌う蜜蜂にうなづきながら、おまえはおそろしい運命がおまえを待っているのを知っているのだろうか。夏のそよ風に撫でられているあいだは、夢をみつづけ、風に揺られ、浮かれているがいい。明日は情け容赦のない手が、おまえの喉を締めるだろう〉

 

西洋文明の嵐が日本という「やさしい花」を踏み散らすという暗喩は、アジアの南の彼方のブリヤンバダへの呼びかけに呼応するかのようである。

 

〈私は終日浜辺に坐し、逆巻く海を見つめています―いつの日か、海霧の中からあなたがたちあがるかもしれないと思いながら〉

 

大いなる構想は砕けて舞い、眼前の青い海の彼方に去ってゆく。

いま静かな五浦の沖合の波の間に探りみるのは、遠い日の波津子や遥かな南国のプリヤンバダの面影である。

 

〈ツマリマセンネ〉

 

早すぎる晩年を五浦で過ごした天心は、問わず語りにこうつぶやくことがあった。

つまりませんね。振幅の激しい生涯の果てのこのつぶやきは、悲痛である。

 

50歳という若さで天心が没してから一世紀近い日々が流れた2011年3月11日の午後3時前、激しい地震にともなう大津波がこの六角堂を一瞬のうちに沖合へ流し去った。

〈豊饒な世界〉を夢想し続けながら夢破れた天心が晩年、太平洋を望む僻村の岬に設けた心の隠れ家(アジール)の流竄は、百年の歳月ののちに迎えたある精神のかたちの崩壊でもあった。

                             

この項おわり
(参考・引用文献等は連載完結時に記載します)

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