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私の手塚治虫(12) 峯島正行

  • 2013年7月23日 09:57

「RUR」から鉄腕アトムへ

「ロボット」の誕生

チェコスロヴァキアの思想的作家で、おなじみのロボットという名称の創始者、カレル・チャペックが、ロボットを主題にした戯曲「R U R」を発表したのは、一九二一年(大正九年)である。原稿はその前年に脱稿していた。第一次大戦が終わった直後である。一九一八年に、ベルサイユ講和条約が締結されたばかりのときである。

この大戦中、機械工学の発達が著しく、軍事科学が頂点に達したと思われるほど、次々と新兵器が開発され、両軍の兵士の損害は夥しいものであった。戦車、戦闘機、化学兵器などが戦場を暴れまくった。

チャペックの研究家、田才益男はこれまで人間が営々と育て上げてきた「機械文明が実は、人間虐殺の優れた道具になり得ることを第一次大戦が証明したのを目の当たりにして、機械文明に疑問をもつようになる」(チャペック戯曲全集 八月社 二〇〇六年 訳者あとがき)という。

チャペックは、その一方朝夕、神に額づき、額に汗して、耕す古い伝統の中にもいいものものがあるという心境にもいたる。チャペックのそんなところは、後年の手塚治虫にも通ずるところがあると思われる。

そしてドイツ帝国は崩壊、ソビエト連邦の誕生、国際連盟の進展などがあり、二度とあのような人間の大殺戮は行われないでほしいと全世界の人々が願っているとき、このロボット物語は発表されたのだ。

「R U R」の正式な名称は「Rossum‘s universal  robots―ロッサムズ・ユニバーサル・ロボッツ」で、タイトルは英語になっている。本国ではエル・ウー・エルと、チェコ語読みの表記で通用しているそうだ。ロボットという言葉はこの時初めて使われた、全くのチャペックの造語で、この戯曲が発表されてから、一般語として世界に通用することになったのである。わが手塚治虫の「鉄腕アトム」もそのロボットの一つである。

ロッサムズ・ユニヴァーサル・ロボッツとは、未来のとある孤島にあるロボット製造会社の名称なのだ。この企業ではすでに多くのタイプのロボットを製造し、世界中に輸出している。人々は、このロボットをありとあらゆる生産労働に従事させている。その社長、ハリー・ドミンは、劇中で次のように言う。

「……10年後までに、ロボットはたくさんの小麦を生産し、多くの織物そしてほとんどすべてのものを生産するから、いわば物にはもはや価値がなくなる。さあ、みんな欲しいだけ取れです。貧困はありません。そうです、労働ななくなるでしょう。そして仕事は存在しなくなります。すべてを生きた機械がやってくれます。人間はただ好きなことやればいい。ですからひたすら自分を完成させるためにだけ生きることになるでしょう。やがて人間が人間に仕えるということはなくなり、物質に対する人間の隷属もなくなるでしょう。もはやパンの代価を生命と憎しみで支払う必要もなくなります。」(田才益夫訳、チャペック戯曲全集、RUR)

と、ロボット製造会社のドミン社長の言うことは、最初の段階では正しかったといえよう。

ロボットに滅ぼされた人類

かくして労働から解放された人間はどうなったか。女性は子供を産まなくなり、出産率は0パーセント、出生率0パーセントの日が続く。

やがてロボットが世界中にあふれんばかりに行き渡った。ロボットの人間に尽くす姿に対して、ドミン社長の夫人、ヘレンの、ロボットにも人間的な心の働きを与えるベきだという主張が通ってしまった。

ロボットは泣きもし笑いもして、自己主張をするようになってしまった。その為にロボットは人間に抵抗することを覚え、ついには人間に対する反乱がおきて、圧倒的に数において優勢なロボットによって、人類は滅亡する。

ところが思いがけない、ロボット世界に衝撃が走る。ロボットは機械工学の産物だから、自然摩耗して末期にいたる。その生命は二〇年程度しかない。しかしロボットたちは,自分自身を製造する方法を知らない。その製造法を記した膨大な書類は、ロボットをこれ以上造ってほしくない、という社長夫人ヘレナによって焼却されていたのだ。

ロボット社会に生き残った、たった一人の人間がいた。ロボットとともに労働することに生きる意味を見出していた建築技師、アルキストであった。ロボット社会の滅亡を前にして、ただ一人の人間となった彼は全ロボットの崇拝の的になるが、彼とてロボットの、再生はできない。

そのうちに犠牲者たらんとするロボットが名乗りでた。自らに、その体を解剖して、新しい生命しい命を作ってくれと嘆願した。アルキストたちが努力してようやく生命を持つ一対ができたが、ロボット社会は既に消え失せ、あらたなアダムとイブによって人間再生の第一歩が踏み出される。

というのが物語の骨子であるが、これを読んでゆくと、当時のチェコ国民の不安というよりチャペックの時代に対する反発が、物語の背景にあるように私には思えるのだ。

この物語が描かれて十年語には、ヒトラーのナチスによって侵略的独裁主義政治が確立された。やがてチェコスロバキアが、最も強くその影響をうけ、チェコ固有の地、ズデーテン地方をヒトラーにむしりとられ、ヒトラーの侵略欲はとどまるところを知らず、チェコ全土の占領のまで発展し、ついに第二次大戦に突入してゆくのである。こうしてチャペックの最も恐れた事態へと、全人類は突入させられてゆくのである。

第二のロボット「山椒魚戦争」

チャペックはもうひとつ、RURと並んで、恐ろしい警告の物語を発表している。それはナチスが隆盛を極め始めた一九三五年に新聞に連載され、翌三六年に出版された小説「山椒魚戦争」である。来栖継の翻訳で、岩波文庫に入っている。今それによってこの小説の内容を概観してみる。

東南アジア一帯の海域で、仕事をしていたオランダ船の船長が、偶然インドネシアの小島で、人間の言葉を理解し、道具を扱ええる山椒魚の群れに遭遇する。彼らに教えると真珠貝を海底から探してくることが分った。

船長は彼らを使って真珠の採取を事業化する可能性を見出し、本国の大事業家と連絡し、その協力で、この事業化を創める。

この島にやってきた青年たちによって山椒魚の存在が喧伝され、山椒魚の学問的研究も行われ、また見世物などにも登場させ、彼らが会話できることが世界に知られていった。

山椒魚の発見者の船長が死ぬと、大事業家は、真珠採取という一事業から撤退し、山椒魚が海中でのあらゆる作業に使えることに着目し、その力により海底の大開発に着手した。それが、成功をするのだが、この時点で、山椒魚は六〇〇万頭を数えた。

そして山椒魚の利用は世界に広まり、山椒魚の方もその間に、多くのことを学び取り、彼らの生活も向上した。そして彼等を利用することで人類にも多くの富がもたらされた。だが一方、山椒魚の独自性の意識も向上した。

世界の各国は山椒魚を武装させ、海面下で戦争を起こさせるに至った。既に山椒魚の個体数は、人間をはるかに超え、人間社会は山椒魚に強く依存するようになっていった。

そのことを危惧する識者も現れ、山椒魚は人間の未来にとって危険だという意見もでてきた。

ある日アメリカの海岸線で大規模な地震が起き、陸地が広く埋没した。つづいて、中国、アフリカで同様な現象が起こり、世界は動揺する。すると山椒魚総統が、人類に対する反抗声明をだした。それによると、今までの大事件のすべては山椒魚の手によるものだというのだ。山椒魚は生存上、浅い海域が必要であって、人間はそのための技術供与を惜しんではならないと主張していた。

人間への革命であり、反逆であることがここにはっきりした。世界各国は、これに対抗して、山椒魚への攻撃を試みるが、ことごとく失敗し、さらに海上封鎖が行われて、窮地に人間は陥る。そして陸地の水没は続く。かくて人類は滅亡に向かう。

この長編では、山椒魚が人類を滅ぼした後山椒魚は二つの、グループにわかれ激しく抗争し、果ては食うか食われるかの戦争を起こすが、化学毒液や培養した殺人用バクテリアを平気に使ったために、世界中の海洋が汚染され、結局、山椒魚は全滅してしまう。

科学技術の進歩は幸福を呼ばない

このように人間は自ら作り出し山椒魚によって滅亡され、その山椒魚もまた戦争で、自ら全滅してしまう。まさに先のロボットの二の舞である。

「山椒魚戦争」の文庫版の巻末に訳者来栖の解説が掲載されているが、その中で訳者は次のように述べる。

「私は『山椒魚戦争』をチャペックに描かせた最大の要因は、人間は自ら作り出したものによって滅びるのではないか、という恐怖ないしは危機感ではないかと思う。つまり「R・U・R」のロボットが山椒魚に姿を変えただけのことなのである。そしてその山椒魚は、その後、現実の原水爆・核兵器となって、我々人類を死滅させようとしている。科学、技術の発展は、さらに『公害』をいたるところにまき起こし、このままでは地球上の人間の生存そのものが危ぶまれるほど」だといい、さらに次のことも付け加えている。

チャペックが生きていた時代の様相から見て、かれは「人間自ら創り出した科学・技術によって滅びるというよりも、やはり、人間の中から生まれた全体主義的な思想、哲学、体制によって発展を阻害され、滅亡する危機に立っているということの方が、より強調したかったのではないか、と思えてきた」

とも述べている。これはヒトラーのナチス、ロシアの一党独裁共産革命をさしているといえよう。

山椒魚が出版されて二年後、チェコはナチスドイツ軍のために、全土を占領され、反ファシズム、反ヒトラーを露わにした、この書が、ドイツからにらまれるのは当然であろう。「山椒魚」の終わりに近く、人間と戦争する山椒魚軍の総指揮官が、実は人間であって、その男は本名をアンドレアス・シュルツェといい、第一次大戦中はどこかで曹長を務めていたと、さながらヒトラーを思わせる記述をしている。これだけでもナチスとしては、許せなかったに違いない。

チャペックは幸か不幸か、祖国がドイツに蹂躙される前年のクリスマスの朝、肺炎でこの世を去った。翌年、チェコがドイツに占領された時、早速、ゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密警察)が、チャペックの自宅にやってきた。

作家であり俳優でもあったチャペック未亡人オルガ・シャインブルゴバーは「残念がら、チャペックは昨年のクリスマスになくなりました」と皮肉を込めて言ったという。

チャペックの世界では、ロボットにしろ、山椒魚にしろ、機械的に、科学によって実現された、あるいは養成された最高の機械であり家畜である。それによって人類は滅亡したしたのだが、チャペックの研究家、田才益夫は、さらにその先を心配して、以下のように書く。

「チャペックと言えども、まさか将来、人間が生きた人間を生産できるようになろうとは、想像もできなかっただろう。ところが、今、クローン技術によって、生殖によらずして人間が人間を再生産することができるようになった。」

このことに説明を加えると、人間の生殖細胞を取り出し、人工的に人間を生ますことをクローン技術というが、それにより、同じ遺伝的特徴を持つ子を人工的に生産することができるのである。つまり同質人間の大量生産が可能になったのである。まだ人間は、はその実行には移っていない。人類の倫理がそれを許さないからだ。

田才は続けて言う。

「ロボットが機械である限り、それがどんなに人間に近づいても、人間は恐れる必要はないだろう。生きた人間のロボットが、出現した時、つまり怖いのは人間が機械になる時だ」というように語っている。

以上要するに、人間は今に科学知識を向上させても、その為に自らに首を占める結果になるし、また科学が生み出したものを政治的、独裁的権力者の手に渡るときは、戦争は尽きない、したがって人間の衰亡に導かれる……。チャペックの考え方を推し進めると、このように要約できるのではないか。

そうして、わが手塚治虫の心情の奥においても、ほとんど同じような思想が隠されていたのではないか、と私は思う。おいおい、それを作品の上から探ってゆくのであるが、ひとまず、この問題を棚の上に置いておく。

「鉄腕アトム」は何をもたしらたか

この回の初めから、ロボットという言葉が何回も出てきたが、単純に日本で「ロボット」という言葉からまず連想されるのは、『鉄腕アトム』であろう。この手塚治虫の作品の内容は、だれでもご存知だろうから説明の用もあるまい。

そしてそれがアニメ化され、あのかわいい無敵なアトムが、軽快な小気味よい主題曲のメロデーに載って、大空に、宇宙の果てに飛んでゆく姿を、茶の間のまのテレビで、眺めた頃を思い起こすだろう。

チャペックのロボットと違って、あれだけ人に愛されたロボットはなかった。アメリカをはじめとする外国でも、あのアニメは放送され、いわば世界のアイドルであった。

「鉄腕アトム」は昭和二六年に雑誌「少年」(光文社)誌上で生まれた。最初連載は「アトム大使」という題名で一年続いたが、その中の登場人物として、アトムというロボットが出ていたが、強くてかわいいという主張でアトムを主人公として、新たに連載が始まった。

「ロボットが主人公になるが」

という手塚に対して、編集部ではそれも面白いだろう、という返事だった。新しいロボット漫画として、手塚は期するところがあって「鉄腕アトム」を描きだした。

それが圧倒的な人気が出て、昭和四三年(一九六八年)まで、掲載が続く。その後もいろいろな形で、雑誌に掲載され、それらが様々な形で、出版された。昭和五六年の段階で、その発行部数は、1億冊を突破したというから、驚く。

一歩映像化の方は、昭和三三年から、初めての国産テレビ・アニメーションとして、手塚が主催する「虫プロ」で制作、フジテレビで放映された。

この虫プロ第一作は、平均視聴率30%を超える人気を博した。やがてはカラー版の二作目も登場した。その後もいろいろな形式で、映像化されている。「アトム」は日本人全体の心の奥底に浸みこんだといえよう。手塚が国民作家たるゆえんである。

この物語の中では、アトムはいつの頃活躍したのか。ロボット製作技術が進歩し、プラスチックから、人造皮膚が発明され、それをロボットに取り付けて、それまで金属製だったロボットがやっと人並みの体になった。それは1978年ごろであった。そのころから、世界各国では自分の国のロボットの技術を隠し始め、ロボットの輸出も禁止された。

しかしロボットの技術は日に日に進み、、普通に話もでき、怒ることも笑うことも、人間並みとなり、人間の仕事は何でもできるようになった。

政府の科学省では、年に五千体のロボットを生産するに至った。かくしてロボット人口は増えてゆき、学校でも、人間と同じように勉強するようになった。そして、ロボット法という法律ができた。

その内容は、例えば第1条は、ロボットは人間を幸せにするために生まれたものである。第13条では、人を傷つけたり、殺したりできない。

これらの法律は厳重に守られ、ロボットと人間の関係は、緊密なものになっていった。

手塚はこのロボット世界の進行について、「『鉄腕アトム』は昭和26年に始まりましたが、以上にのべたロボットと人間の関係は昭和二六,七年頃ぼくが未来を想像してかいたものです」といっている。(アトム誕生 一九七五年6月20日 朝日ソノラマ『鉄腕アトム』①)

アトムというかわいい少年ロボットは、そうした中で生まれた。だがある事件で、アトムは商人の手で、売られ点々と苦労の放浪しいていた。

そのアトムを救ったのはお茶の水博士だった。サーカスに出ているアトムを一目見て、ただ物でない天才的能力を秘めていることを見抜いた。博士は直ちにアトムを引き取り、深い慈愛のもと、親代わりとして勉強させ、訓練し、あの強くてかわいい鉄腕アトムを完成されたのだ。

そうして出来上がった能力を列挙すると、1、ジェット噴射で空を飛び、身体が宇宙ロケットにかわる。2,六〇か国語を自由に操る。3、人間の心の善悪を感じ取る能力がある。4、聴力を千倍に出来、目がサーチライトになる。5,お尻からマシンガンを発射でき、6、その体力は十万馬力に達する。

このような超能力を発揮して、正義のため、平和のために、人間への愛情のため、あのかわいい姿を以って、大空を、宇宙のかなたに、ががたる山中に、深い深い大海の底まで飛び回り、走り回る姿に、雑誌のうえで、茶の間のテレビの前で、日本中の、いや世界中の人の心を躍らせたのであった。

だがしかし、手塚は前掲漫画書の中で、自画像に語らせている。

「昭和二六年からもう三〇年近くたっています。コンピューター文明はひましにすすんでいます。

しかし科学全体から見たらどうでしょうか。

ロボット法の第一条の「ロボット」を「科学文明」に置き換えてみたとき、「科学文明」は、はたして人間を幸せにできたでしょうか……」

この手塚の言葉を押し詰めてゆくと、カレル・チャペックの懸念、憂慮と同じことになりはしないだろうか。(つづく)

ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 4 柴崎信三

  • 2013年7月23日 09:54

 〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

 

4 〈豊饒〉について

     「ツマリマセンネ」―六角堂の岡倉天心

 

再建された五浦六角堂(2013年)

再建された五浦六角堂(2013年)

 遠く、海はささやくような波に輝いている。

初夏の陽光は凪いだ海に照り返り、眼下の太平洋から伝わる熱気と風のざわめきが岬にしつらえられたこの小さな空間にも伝わる。熱を孕んだ一陣の風が堂宇を吹き抜ける。

〈私は何を求めてここへやってきたのだろう〉

東京美術学校(現東京芸大)の校長という自らの立場をめぐって、東京の美術界で繰り広げられた抗争で窮地に立った岡倉天心は、公職を追われて遥か茨城県五浦の海岸に自らの美の拠り所の日本美術院を移し、その岬の突堤に六角堂という小さな庵を設けた。

豊饒に輝く太平洋の波頭を見つめながら、蟠るおのれの情念に向き合う、まことに私的な祈りの聖域(アジ―ル)であった。この朝も、ひとりここに座して海をみつめているうちにしばらくまどろんだ。母親の胸に抱かれたような、幸福なまどろみだった。

いまは日課になったように、昨日も船を出して沖合で釣りに興じた。前夜、晩酌をしながら釣り道具を整えて、翌朝は読みかけた本を携え、漁師の千代次とともに船に乗る。

筒袖の道士服のような衣に、烏帽子風の被り物、草鞋履きで手には釣り竿と魚(び)籠(く)を持っている。自身を流謫の身になぞらえて演じる、東洋的(オリエンタル)な隠遁者の姿と呼ぶべきなのか。人影のない海辺でその異形はひときわ目を引くが、それこそが天心の境涯を貫くダンディズムであり、世界への眼差しの表現でもあった。

盛んな夏の海の照り返しを受けて、肌を刺す陽光が降り注ぐ小舟の上から沖合を眺めていると、手元の釣りざおが鋭い反応を見せた。アジ、サバなどとともに、宝石のような模様のシマダイがかかることもある。釣りに飽きると船上では持ち込んだ本を読んで、一日は過ぎた。昼寝をして自宅へ戻れば、また酒になった。

四十路も半ばになる。横山大観や菱田春草ら若い同志の日本画家を引き連れた五浦の暮らしを「都落ち」と嗤う声が、時折都から聞こえてくる。六角堂に身を置くとそんな憂さも清められて、黙想は過ぎ去った遠い風景や美しいものへのこころよい追想をよびおこし、秘めやかな乾坤(けんこん)が立ち上がるのである。

 

それにしても、見渡す海に突き出した景観の奇想にあふれた自然に比べれば、この小さな構築は六角形の鮮やかな朱塗りの外観を除くと内部はまことに装飾性に乏しく、あたかもそれが設計者の頑な意思に貫かれているようにさえみえる。

広さはわずか三坪、すなわち10平方㍍余りの庵を、天心は「観瀾亭」と名付けた。

奇抜な六角形の建物は、八角形をした法隆寺の夢殿から想を得た。私淑したお雇い外国人、アーネスト・フェノロサとともに古来不出の秘仏を千年の眠りから目覚めさせた、天心にとっての美の故郷であり、理想(アルカ)郷(ディア)とも呼ぶべき場所である。とはいえ、設計はその八角形が六角形となり、茶の湯を楽しむための開放的な茶屋の要素を色濃くした。

居宅とあわせて設計を請け負った地元の大工の小倉源蔵は、宮大工など伝統建築についての格別の知見を持った職人ではない。それゆえ、六角堂の外観も内部もおよそ天心の意匠をそのままかたちにしたものといっていい。

擬宝珠を頂いた瓦葺きの方形造の屋根が6つの面をなし、それを一辺の幅がほぼ2㍍ほどの壁面で支えている。そのうち海へひらいた4面にはガラス窓がある。外側には朱色の庇が張り出し、紅殻色の板張りの外壁と鮮やかな調和を生んでいる。

畳敷きの部屋の内部からは、大浦と小浦の断崖を左右において、眼下に初夏の陽光を映した太平洋の穏やかな波頭が窓越しに広がる。

室の中央には六角形の炉が切ってある。窓には内側に鴨居と敷居があって障子を立てることもできたから、まれに訪れる客を招いて海から吹きくる風にそよぐ松籟の音を伴侶にしながら茶をたてることもあった。

 

蝉雨緑に霑(うるお)う松一村

鷗雲白く漾(ただよ)う水乾坤

名山斯処詩骨を託す

滄海誰が為に月魂を招く

 

漢詩の『五浦即事』で天心は五浦の景観をこのように讃えた。

 

土壁とにじり口で閉ざされた数寄屋の茶室の、様式的な空間でたてる茶とは違って、海に向かって自然に放たれた六角堂のおおらかな茶の湯は、世俗の塵埃にまみれてたどりついた天心の心の傷を癒すのに相応しい舞台ではあった。

 

「この海原の彼方に、あのアメリカがある」

 

潮の香りを運んでくる白南風に身をまかせながら、天心は遥か彼方から若い日の一年余りに及ぶ欧米視察旅行から帰国する途上の、太平洋航路の遠い記憶を思い起こしている。

そもそも我が身の流転の端緒は、あの帰途の船上の日々の出来事にあったのだから。

 

祖国へ帰るアーネスト・フェノロサとその家族ともに、24歳の天心が横浜から米国船〈シティ・オブ・ペキン〉で欧米視察の旅の途に就いたのは、1885(明治19)年10月2日のことである。日本の美術品の収集家で修復保存の支援者でもあったウィリアム・ビゲローや画家のジョン・ラ・ファージらも同道した。

文部官僚だった天心が、国立の美術学校や美術館の設置などで「美術行政の一元化」を打ち出して時の文相、森有礼に建言したことから、文部省が美術取調委員として天心とフェノロサに9ヶ月間の欧米視察を命じたのである。

若い血気が漲る、洋々たる異郷への旅であった。

再三にわたってフェノロサとともに京都や奈良の寺社をめぐり、廃仏毀釈運動の下の荒廃のなかで「開けば落雷がある」と扉を閉してきた法隆寺の夢殿を開扉させて、秘仏の救世観音像のまばゆい姿を目の当たりにしたのは二年前である。それ以降、日本美術の心酔者であったこのお雇い外国人をいわば西洋からやってきた日本文化の後見人として、明治政府の欧化主義の影に埋もれていた日本の伝統美術を正統に復することで美術教育と美術界を主導するという、天心の文化官僚としての野望は着々と奏功していた。

一行は太平洋を渡ってサンフランシスコに上陸したのち、ボストンやニューヨーク、ワシントンで歓迎を受けた。年が明けてから大西洋を越えて欧州へ渡り、フランス、イタリア、スペイン、オーストリア、英国などの各国の美術館や博物館はもとより、国家や産業界と文化行政のかかわりまでを丹念に調査、視察した。一年余りに及ぶ、夥しい任務を帯びた長い旅であった。

帰途、天心は再び米国へ立ち寄り、かつての文部省の上司で米国駐在の特命全権公使としてワシントンにあった九鬼隆一を訪問する。

摂津三田藩から文部省に入り、木戸孝允や大久保利通といった元勲の知遇を足がかりに、若くして文部少輔、つまり事務次官へ栄達を遂げた。さらにやがて男爵の爵位を得るという人物である。欧化路線の森有礼に対抗する国粋派の文部官僚であり、腹心ともいうべき立場であった天心にとっては、その縁で出世の階梯に導かれ、一方でその昵懇なまじわりが後の自身の曲折に満ちた歩みと深くかかわる、運命的な絆で結ばれた人物である。

天心は三つ揃いの背広姿で横浜を出発したが、船上でインド人の相客がターバンやサリーなどの民族衣装を堂々と身につけているのを目の当たりにして、考えを改める。

米国や欧州の地で外国人を訪い、あるいは官庁や美術館の視察など、人目に触れる場面では、常に三つ葉かたばみ五所紋という、家紋の入った羽織袴姿でのぞんだのである。

流入する西洋文明の香りに満ちた横浜の居留地で育ち、母国語のように流暢な英語を話すこの若い日本人の奇抜な自己演出は、思惑通り欧米の各地で人々に強い印象と話題を提供した。ところが、帰途ワシントンの日本公使館を訪ねた折、天心の古風な紋服姿を認めるや、九鬼は一喝した。

「なんだ、その格好は」

「『郷に入っては郷に従え』という言葉を知らんのか」

怒気を含んだ声が返って来た。

いま振り返れば、あの姿も祖国の伝統文化を西洋に誇示しようという、若い日の気負いの現れであった。

 

もっとも九鬼の苛立ちは、若い天心が仕組んだ場所をわきまえない時代錯誤のいでたちばかりに原因があったのではない。日本から伴ってきた妻の波津子が、心身の不調を訴えて取り乱す日々が続き、帰国を強くのぞんでいたからである。

「折り入って相談したいことがある」

久々にまみえた若い腹心の部下に向かって、九鬼は声をひそめて言った。

「異郷の暮らしになじめない家内が心身を損ねて、先に日本へ帰りたがっている。貴君が帰途に同道してやってくれはすまいか」

天心に否やはない。

二人の子供をかかえ、「言葉も通じない国で外交官の妻として社交の場にのぞむことなど到底できません」と、もともと同行に消極的だった波津子であったが、ワシントンの公使館など社交の場にのぞむようになると、その美しさと控え目で淑やかな振舞が地元のメディアなどでも知られるようになった。

 

〈日本公使夫人は美しい。(略)九鬼夫人は英語を習得しようと果敢に奮闘中であるが、火曜日夕、公使館で催された見事なパーティーの席上、招待客に英語で挨拶した。顔色はつやつやしたオリーブ色で、頬には赤味がさし、非常に整った顔立ちをしている。淡いローズ・ピンクのヴェルヴェットとサテンのドレスはブルネット・タイプの夫人にはまさにぴったりのものだった〉(1885年2月6日「ハーバーズ・バザー」紙)

 

もともとは京都の花柳界の出身という。「若々しく、愛らしい。細身で、姿勢もよく、生き生きとした表情をしている」といった波津子の評判は、ワシントンの社交界に広がっていた。イラスト付きでその可憐な佇まいを伝える記事もあったが、やがてそれはこの東洋からやってきた美しい公使夫人が心身の変調を来たし、夫に先んじて帰国することを伝える内容に変わる。波津子はその時、ワシントンで生まれた幼子を連れた上、のちに哲学者となって『「いき」の構造』で知られる三男の周造を身ごもっていた。不安をかかえる帰路のエスコート役を引き受けたことが、後の天心の歩みに大きな影を落とすのである。

1887年9月、サンフランシスコからの海路は平穏であった。フェノロサ一家や公使館の書記官ら同行者とともに、長い欧米視察の成果を抱えた天心は帰国後の前途に大きな野望を温めながら船上にある。太平洋を横断してゆるやかに進む船上のデッキで三つ揃いの背広に装いを改めた若い天心に向き合うと、多忙にかまけて家庭を顧みずに奔放な女性関係の絶えないない夫のふるまいや、慣れない異郷の社交の場をとりもつことに疲れきった波津子は、久々の祖国が近づくにつれて次第に屈した心を開いていった。

「西洋の暮らしは何かと窮屈であられたでしょう。どうぞ、心を寛がせて下さい」

天心はそう語りかけながら、穏やかな初秋の海を背にして緩やかなワンピースに小柄な身を包んだ波津子に、眼差しを注いだ。

「お手間を取らせて申し訳ございません。無理にご一緒していただいてしまって」

若くしてすでに妻帯していた天心が、この米国からの帰路の船上で波津子への最初の愛情を育てたかと言えば、それはおそらくまだ同情という性質の感情であったろう。

 

天心の生涯に繰り返し噴出する、女性に対する柵を突き破るような不埒とも呼ぶべき情動の由来を、どこに探るべきなのか。これは、近代の日本文化のプロデューサーとして毀誉褒貶のうちに生涯を閉じたこの人物が遺した、大きな謎と呼ぶにふさわしい。

幼くして母を失ったことは、憧れが高じて堰を切ったような女性への没入を抑えることができない、この男の無頼のひとつの要因ではあったろう。天心の人生の折々にあらわれそれはしばしば、不倫や頽廃、そして時に迸るような女性への讃仰のかたちをとった。

波津子と天心が常軌を逸脱したような激しい恋愛関係に陥り、それが社会から醜聞として問われるようになったのは、米国から太平洋の船旅で帰途を共にして帰国してから10年ほどの歳月がたった時期である。

帰国後、天心は強かな行政手腕を駆使して官途を上り、東京美術学校の開設にあたった。

下山観山、六角紫水、横山大観ら、のちに野に下りて主宰する日本美術院を支えることになる若い才能を迎えて開校にこぎつけると、その翌年の1890(明治23)年には28歳という若さで自らこの日本で初めて生まれた美の学府の校長という顕職にのぼるのである。

脱亜入欧政策の下でグローバル化の道をすすむ日本にあって、西洋絵画の〈輸入〉に腐心する洋画派や日本画の守旧派を退けて、伝統に寄り添った新たな国粋美学を行政と画壇の中心に据えるという天心の戦略は、ここでも外連(けれん)に満ちたかたちになって現れる。

そのひとつは、天心が採用した東京美術学校の異形の制服である。

風俗史の教授である黒川真頼がデザインしたというこの制服は、天心の発案で天平時代の朝服を範にとって造られた。上衣は羅紗で作られた武官の闕腋袍(けつてきのほう)に筒袖で、袴は表袴の裾を紐で括った。靴は麻鞋で帽子は折烏帽子に似た天平風の代物であった。

明治の半ばとはいえ、洋服と洋髪の時代である。古代まで遡ったこの制服に学生はもちろん、当時の教員たちも不評の声をあげたが、天心は有頂天であった。

根岸の自宅からこの制服で愛馬にまたがり、上野の学校までの道のりを通った。天心は文化官僚として美術史や日本文化について多くの著述を残したが、理念の図像化、いわばプロデューサーとしてのこうした自己演出は最も得意とするところであった。

とはいえ、「日本美術史」などの講義のかたわら美術雑誌の『国華』を創刊し、合間にぬって帝国美術館の委嘱で中国美術調査旅行に出かけ、はたまた帰国した九鬼の下で古社寺保存に取り組むという多忙な重職にありながら、妻の元子と別居した天心の私生活は荒んでいた。原因は波津子との道ならぬ情交である。

長男の岡倉一雄がそのころの父の姿を描いている。

 

〈愈々仲根岸四番地を引き払つて、谷中初音町の新宅へ移転する数カ月の天心は、不羈とも放縦とも、言はふなき狂態に終始して、全く世間の軌道を踏み外してゐた。だらしなく袴を後ろ下りに穿いたまま、深夜の坂本通りを目的もなく彷徨(さまよ)ひ歩き、酒家を叩いて升酒を仰いだり、宿酔ひ未だ醒めやらぬ面を美校の校長室に晒すことも、決して一再には止まらなかつた〉(岡倉一雄『父天心』)

 

波津子は天心に伴われて帰国してのちも、夫の九鬼との不和とそれに伴う心身の不調が続いた。渡米前から九鬼の漁色は止むことがなかったが、その対象は花柳界から雇い人の娘まで、選ぶところがなかった。それが波津子の病の悪化の原因でもあった。

やがて別居を望んで移り住んだ根岸の御行の松のそばの瀟洒な中二階の家は、天心の住んでいた旧居とは指呼の間である。10年前に太平洋航路でともに帰国した波津子が、年下の天心を頼って寄る辺ない日々の光明を探る心の動きと、波津子の別居で温めたかつての同情と憧れが蘇り、天心の心が激しい恋情に移ろうのとは、どちらが先であったのか。

九鬼が世間体を慮って波津子に設えた御行の松の「中二階の家」は静寂だった。波津子は日中、琴と書と生け花に親しみながら過ごした。天心はしばしばここを訪れた。夕刻、雪洞の灯がともされた中二階の奥の間で、天心は波津子の酌を受けながら酔いに身を任せた。至福のひと時であった。

幼い周造は母の膝に凭れながら、この時折訪れる伯父さんの面白い話に聞き入った。

 

「周造は虎をみたことがあるか。伯父さんは朝鮮を旅したときに山の中で本物の野性の虎に出会ったことがあるぞ」

「君は通学に驢馬を使うといい。お父さんに買ってもらいなさい」

 

天心は周造を美術学校に連れて行ってモデルにし、橋本雅邦に幼い肖像を描かせた。筑波山へ狩猟に連れて行ったこともある。まことに父子のようなまじわりがあって、周造はひところひんぱんに母を訪れて来る天心を自分の実の父と疑ったことさえあった。

 

〈東京美術学校は世の希望をいれず、東西両洋とも目下多数の美術家が唱道せる学説あるを排斥し、あえて一種の奇僻たる志想を以て生徒を教養し、ますます怪物的の製作を出さしめ、美術自然の発達に背馳し、大いにその進歩を障礙せり。その校長たる岡倉覚三なるものは一種奇怪なる精神遺伝病を有し、常には快活なる態度を以て人に接し、また巧みに虚偽を飾るも、時ありて精神の異状を来すに及びては非常なる残忍の性をあらわし、また獣欲を発し、苛虐を親属知友に及ぼし、人の妻女を強姦し、甚だしきはその継母に通じて己が実父を疎外し、怨恨不瞑の死を致さしむる〉

 

「築地警醒会」なる名前でこうした天心の乱脈な私生活を指弾し、東京美術学校の刷新を迫る怪文書が関係者に送りつけられたのは1898(明治31)年3月のことである。

天心の腹心だった美術学校図案科の教授、福地復一が中国視察で校長が不在だった折の専横を周囲から問われ、管轄する九鬼の差配で退職に追い込まれたことを恨んで、天心の排斥運動を仕組んだのである。もっとも、そこには天心が仕切る西洋画を排除した美術行政への不満が美術界に渦巻き、校長の私行上の乱脈をあげつらうことで局面を逆転させたいという思惑が背後にあって、その勢いを恃んだことはいうまでもない。

それにしても、ここに及んで九鬼までもが天心の独断専横をとがめるのはなぜか。

身から出た錆という。放縦に身を委ねているうちに流れは変わったのである。

天心は美術学校校長を辞することを決意した。

若い教官たち、橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら天心を支えてきた17人が「不当な排斥」を憤って「連訣退職」を求めてついには免官となった。

立場をわきまえない、女性への憧れと没入という天心のエロスの衝動こそ、〈官僚天心〉の脆さの証明であった。

 

〈谷中鶯 初音の血に染む紅梅花

堂々男子は死んでもよい

奇骨侠骨 開落栄枯は何のその

堂々男子は死んでもよい〉

 

自ら手がけた東京美術学校を追われて下野した天心は、その年の秋に東京・谷中に「日本美術院」を発足させる。橋本雅邦、下村観山、横山大観ら、天心の理想と志を恃んで東京美術学校を連訣退職した26人の同志が参加する「美の共同体」である。

その発足に際して同人たちが作ったというこの俗謡は、ほとんどニヒリズムに接した気分が横溢しており、当時の天心らのメンバーが抱える空気を伝えている。

 

新たな拠点とした日本美術院は官立の美術学校とは異なる在野の一研究所にすぎない。

新しい日本画の勃興を掲げて、西洋画の写実主義を超えた「空気を描く」という理想を追求する天心という指導者を得たことで、その設立の経緯への関心も手伝って当初は同人たちの作品が社会的にも大きな反響をもたらした。

ところが、やがて日本絵画の伝統的な線描を否定し、西洋画に流行していた印象派の手法を取り入れるなどした折衷的な〈日本画〉は不評を招き、「朦朧派」などと手厳しい批判を浴びるようになった。

同人の中には美術学校からの働きかけに応じて教員に復帰する者もあらわれる。作品の売れ行きの不振はたちまち、美術院の経営を逼迫させ、天心はまたまた窮地に立たされる。

 

このような身辺の激動に見舞われていた天心がしばしば身を寄せた、上根岸の「中二階の家」に住まう波津子がその頃、どうしていたのか。

美術学校校長の辞任と日本美術院発足という波乱のなかでも続く頽廃(デカダンス)の日々を周囲が心配し、説得に応じてようやく天心が波津子のもとを離れ、妻、基子の住む自宅へ戻ることを決意するのと前後するように、夫の九鬼隆一と別居生活を続けてきた上根岸の波津子の精神の乱調は高じた。自宅へ出向いて天心の妻の基子と諍い、はたまた自ら出奔や奇行に及ぶことが頻繁となった。こうしたことから天心が怪文書事件で美術学校校長の座を降りて2年後の1900(明治33)年、夫の九鬼は帝室博物館館長の職を辞したうえで、とうとう波津子との協議離婚に踏み切った。

一人身の孤独をかこつことになった波津子の病勢はひときわ改まり、虚言や妄想が絶えることがなくあらわれるようになる。ついには1902(明治35)年、波津子は精神医療を専門とする東京府巣鴨病院に入院する。爾来1931(昭和6)年に七十一歳で没するまで、病室から出ることはなかったといわれる。

公私の場面を問わず、現実が思うに任せないまま窮地に立つと、責任を放棄してそこから逃げようとするのが天心の拭いがたい悪癖であった。その逃避の対象となるのが身近な女性であり、また遠く異国の地であった。

あまつさえ天心は東京美術学校の校長職に在ったこの間、家事手伝いにきていた異母姪にあたる若い娘と関係を結び、男児を産ませるという背徳を犯しているのである。波津子の精神の錯乱の原因が直接には夫の九鬼の放蕩にあったにせよ、その隙間に天心が寄せる出口のない泥沼のような愛欲が高じさせことは容易に想像できる。

 

波津子の悲劇をよそに1901(明治34)年、天心は日本美術院の窮地を逃れて今度はかねてから関心を深めていたインドへの旅に出る。ここでは世界的詩人のラビーンドラ・ナート・タゴールと親しく交わり、ベンガルの志士たちと西欧の植民地支配からのアジアの解放について熱い意見をかわした。

 

〈アジアは一つである。二つの強力な文明、孔子の共同主義を持つ中国人と、ヴェーダの個人主義を持つインド人とを、ヒマラヤ山脈がわけ隔てているというのも、両者それぞれの特色を強調しようがためにすぎない。雪を頂く障壁といえども、すべてアジアの民族にとっての共通の思想遺産ともいうべき窮極的なもの、普遍的なものに対する広やかな愛情を、一瞬たりとも妨げることはできない〉

 

のちに対外侵攻へ向かう日本が掲げたアジア主義のスローガンとして引用される『東洋の理想』のこうした主張は、この旅が書かせた天心一流の文化的な扇動文芸として、内外に知られるところとなった。

天心は一年にわたるこのインド周遊やその後の再度の米国歴訪のなかでも、新たな心のよりどころとなる女性を見出して偶像と仰ぐことになる。ラ・ファージの紹介でボストンに訪ねた富豪の美術評論家のイザベラ・ガードナーとインドの美貌の女流詩人のプリヤンバダ・デヴィ・バネルジーである。

なかでもプリヤンバダへ寄せるほとんど鑽仰に近い愛には、天心の失意の晩年の痛ましい情念が反映されているかのようである。

 

プリヤンバダはベンガルの名家に生まれた美貌の女流詩人で、詩聖タゴールとも血をつなぐ才媛であった。天心はインド周遊の折にカルカッタで招かれた席で初めて出会ってから、激しい思慕を募らせる。その帰途、そして再び滞在した米国のボストンや帰国後に日本美術院の拠点として移り住んだ茨城県五浦から、プリヤンバダにあてて夥しい情熱的な書簡を送り続けていたことがわかっている。

 

〈結局のところ、私の悲哀は、私のとりわけ気に入りの娯しみらしく思われます。私は孤独の中に逃げ込んで、秘かに祭りをくりひろげるのです。私の過去は、触れることもできない理想、むなしい憧憬を追っての、長い闘争でした。そして今、私はぼろぼろになり、疲れはて、しばしば長い眠りだけを欲する状態で放り出されています〉(1913年3月3日付、ボストンから)

 

こうした自己憐憫に、プリヤンパダという新たな偶像へ向けて一途な同化を求める、晩年の天心の子供のような甘えの心を認めるのはたやすいことであろう。

 

〈奥様/何度もペンをとりましたが、驚いたことに何ひとつ書くことがありません。すべては言い尽され、なし尽されました―安んじて死を待つほか、何も残されていません。広大な空虚です―暗黒ではなく、驚異的な光にみちた空虚です。炸裂する雷鳴の、耳も聾せんばかりの轟音によって生みだされた、無辺際の静寂です。私はまるで、巨大な劇場にたった一人で坐り、みずから一人だけで演じている絢爛たる演技をみつめる王侯のような気分です〉(1913年8月2日付、五浦から)

 

これは天心が認めた、最後の女性への恋文と呼ぶべきであろう。

 

六角堂が構築されたのは、天心が横山大観や菱田春草、六角紫水らを伴い、ボストン美術館の招きで一年余りの米国旅行から帰国した1905(明治38)年の6月である。

鄙びた五浦に暮らしの場を移した天心が、日本文化を世界に問うことになる英文の『茶の本』を米国ニューヨークで刊行したのはその翌年である。

 

〈やさしい花よ、星の涙滴よ、園に立ち、露と日の光をたたえて歌う蜜蜂にうなづきながら、おまえはおそろしい運命がおまえを待っているのを知っているのだろうか。夏のそよ風に撫でられているあいだは、夢をみつづけ、風に揺られ、浮かれているがいい。明日は情け容赦のない手が、おまえの喉を締めるだろう〉

 

西洋文明の嵐が日本という「やさしい花」を踏み散らすという暗喩は、アジアの南の彼方のブリヤンバダへの呼びかけに呼応するかのようである。

 

〈私は終日浜辺に坐し、逆巻く海を見つめています―いつの日か、海霧の中からあなたがたちあがるかもしれないと思いながら〉

 

大いなる構想は砕けて舞い、眼前の青い海の彼方に去ってゆく。

いま静かな五浦の沖合の波の間に探りみるのは、遠い日の波津子や遥かな南国のプリヤンバダの面影である。

 

〈ツマリマセンネ〉

 

早すぎる晩年を五浦で過ごした天心は、問わず語りにこうつぶやくことがあった。

つまりませんね。振幅の激しい生涯の果てのこのつぶやきは、悲痛である。

 

50歳という若さで天心が没してから一世紀近い日々が流れた2011年3月11日の午後3時前、激しい地震にともなう大津波がこの六角堂を一瞬のうちに沖合へ流し去った。

〈豊饒な世界〉を夢想し続けながら夢破れた天心が晩年、太平洋を望む僻村の岬に設けた心の隠れ家(アジール)の流竄は、百年の歳月ののちに迎えたある精神のかたちの崩壊でもあった。

                             

この項おわり
(参考・引用文献等は連載完結時に記載します)

新・気まぐれ読書日記  (9)  石山文也 漂えど沈まず

  • 2013年7月23日 00:13
ことし上半期の芥川賞(第149回)を受賞した藤野可織の受賞インタビューをニュースで見ていて「そういえば巨匠・開高健はどういう受け答えをしたのだろう」と興味がわいたのでYou-Tubeを検索してみた。ちょうど『開高健名言辞典 漂えど沈まず』を読んでいたから。
滝田誠一郎『漂えど沈まず』(小学館)
『漂えど沈まず』
滝田誠一郎 小学館
『裸の王様』で1957=昭和32年に芥川賞(第38回)を受賞したインタビューの録画がすぐに見つかった。便利なものですねえ。声はTVコマーシャルなどでおなじみのあのバリトンだが黒ぶちのメガネをかけて頬がこけ、神経質そうな印象だ。「私は遅筆なのでたくさん(作品を)書くというより、今後は自重しているよりほかに作品の若さや新鮮さというものを保つしか道はないと思います」と生真面目に答えている。映像はもちろんモノクロで、初々しいというより、ぎこちない感じを受ける。
本の帯の裏表紙側にある桐山隆明撮影のモノクロ写真も腕組みして誰かをにらみつけているような表情で晩年の<ニコニコ丸顔>とは違い、同じように頬がこけているから芥川賞受賞前後か。朝日新聞の臨時海外特派員としてベトナム戦争に従軍したときに同行したカメラマン・秋元啓一と万一の際の<遺影代わり>に撮り合ったポートレートは晩年の体型に近いし、戦争から<生還>した後の作品『夏の闇』(新潮社)に
私は栄養といっしょに
思い出で
体重がふえている。
と書いた。この作品のラストシーンで主人公に
入ってきて、人生と叫び、
出て行って、死と叫んだ。
と語らせている。自身もベルリンから陥落寸前のサイゴンに戻る。フィクションと作家の実行動をないまぜにするのは筋違いかもしれないがベトナムでの苛烈な体験がこの言葉を書かせたのではあるまいか。死はすぐ隣り合わせで、流れ弾どころか狙われたら一瞬にして<仲間入り>させられてしまう。一応はベトナムの最前線で報道するための心得として「非情多感」を胸に刻んではいた。「ベトコンに協力した」と通報されただけで数え切れない若者たちが白昼の路上で<公開処刑>されていった。不条理極まりない死、予告なく行われる「戦場の正義」が極めて日常のできごとだった。
右の眼は
冷たくなければならず、
左の眼は
熱くなければならないのである。
いつも心に
氷の焔をつけておくことである。
『夜と陽炎 耳の物語』(新潮社)
小説家の名言中の名言と知られているのが
明日、世界が滅びるとしても、
今日、あなたは
リンゴの木を植える
<あなたは>の代わりに<君は>と書くことも多かった。オリジナルは宗教改革で知られる16世紀の神学者、マルティン・ルターの言葉で、「もし明日世界が滅びるとしたらどうしますか?」と聞かれたルターは「今日、わたしはリンゴの木を植える」と答えたことによる。何があろうといたずらに慌てず騒がず、今日自分にできることをただ粛々とするだけであるという意味が込められている。生きようとして生きているのではなくたまたま今日も命を永らえた。世界のことなど皆目わからない。大切なのは生身の自分が<生きている>という現実。リンゴの木を植える?どこに?そんなこと・・・・・
焼け跡から走り続けた戦後派日本人として食にも貪欲だった。『最後の晩餐』(文藝春秋)には「名酒の名酒ぶりを知りたければ日頃は安酒を飲んでいなければならないし、御馳走という例外品の例外ぶりを味得したければ日頃は非御馳走にひたっておかなければ、たまさかの有難味がわからなくなる」という持論を展開し
美食とは
異物との衝突から発生する
愕(おどろ)きを愉しむことである。
と断じる。
私が色んなものを色んなところで食って、どうも近頃あんまりうまくない。知らんでもええことを知ったために世の中つまらなくなる。これを「知恵の悲しみ」という。悲しみが舌の先に出てきて困る。
とも。
1968=昭和43年から始めた釣りは翌年からアラスカを振り出しに、アマゾン、中国、モンゴルと世界をほぼ半周する<発熱>ぶりで現在ではわが国でも釣った魚をそのまま川に戻す「キャッチ・アンド・リリース」を広めたのは開高だといわれる。モンゴルでの釣行での名言は
モンゴルのものはモンゴルに。
ジンギス汗のものはジンギス汗に。
私は挑戦し、征服するが、
殺さない。支配しない。
『河は眠らない』(文藝春秋)では「魚釣りも一瞬である。そのときの手が遅れるとだめだ。同時に一方、ゆったりとした気持ちでもなければならない」として
悠々として急げ
が生まれた。大阪生まれだから「そんなに急かんでもええのんとちゃう。けども、や!」てな感じだろうか。
最後に表題はパリが「ルテチア」と呼ばれていた頃から掲げ続けられている市のモットーで、パリ市の紋章にはセーヌ川に浮かぶ帆掛け舟のデザインとともにこの文言が書かれているそうだ。原文はラテン語の
FLCTUAT
NEC   MERGITUR
「パリが誕生してから五百年か六百年、あの街の歴史を見てごらんなさい。風にうたれ波にもまれ、しかしその歴史はこの<漂えど沈まず>の一言に、見事に要約されているじゃないか。男の本質、旅の本質はまさにこれなのだ」(『地球はグラスのふちを回る』(新潮社)からである。
巨匠が愛した名句・警句・冗句200選、You-Tubeを見たせいもあるが当分は<耳>に残りそうだ。
ではまた

池内 紀の旅みやげ(31)四つ割りの南無阿弥陀佛ーー岐阜県東白川村

  • 2013年7月18日 17:20

大きな石に「南無阿弥陀佛」と太い字が彫りこんである。いわゆる「名号碑」であって全国にごまんとあるだろう。しかし、よく見ると石のまん中に上から下へ筋が走っている。石がタテに割れたぐあいだが、横にまわると、こちらにもタテ一文字に割れ目がある。上から見ればピッタリ十字の形に割れていて、自然にできたとも思えない。実際、そうであって、人間がした。四つに割って、四切れの石にし、土に埋めたり、橋の土台に用いた。

所は岐阜県加茂郡東白川村。村役場の前に小さな杉木立があるが、その中に四等分されたのが元どおり合わさって立派な土台石にのっている。人よんで「四つ割の南無阿弥陀佛」。先祖の蛮行のせいで、世にも珍しい名物ができた。

岐阜県東白川村。「寺のない村」の奇蹟のような南無阿弥陀佛。

岐阜県東白川村。「寺のない村」の奇蹟のような南無阿弥陀佛。

いや、必ずしも蛮行ではなかったのだ。お上(かみ)に命令されて、泣く泣く分割に及んだまでと思われる。それが証拠に放置したように見せかけて、ちゃんと親から子へと居どころを伝えておき、のちにきちんと復元した。まんまとお上の鼻をあかしたぐあいである。

明治初年、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が全国に吹き荒れた。明治政府は強引に神道国教化を押しすすめ、神仏分離、寺、仏像、仏具の破棄、破壊を命じた。廃藩置県により大名が知事に登用された矢先で、知事布達のかたちをとった。

命令は伝えても、実行に関しては土地ごとにちがいがあったようだ。なにしろ千数百年に及ぶ信仰の拠点をぶっ壊せときた。由々しい事態であって、真宗をはじめ寺の門徒の強いところは、手かげんするしかなかっただろうし、明治政府に反感をもつ大名は、おいそれとは動かなかったと思われる。

岐阜県の白川村は世界遺産になった合掌造りの民家で知られている。東白川村は名前からして東どなりみたいだが、距離はうんと離れており、白川村は飛騨だが、東白川村は美濃である。江戸時代は苗木藩といって、現・中津川市苗木に城をもつ藩の一部だった。石高わずか一万石。地理的にいえば美濃よりも信州に近い。

小藩の宿命だが、お上に逆らっては生きていけない。新政府からの命令に対して、ひときわ厳密に実行させたのではあるまいか。当時、村には主だった寺が二つあったが、どちらも廃寺にして取り壊し、僧侶は村を去った。以来、東白川村は現在も「寺のない村」である。

もよりのJR駅は高山本線「白川口駅」。白川村の入口と思って下車する人があとをたたない。駅近くは白川町なので、なおのことまちがいやすい。東白川へはバスで三十分ほど揺られていく。たえずつきそって流れているのが白川だ。平行して赤川、黒川も流れている。川底の色合いから命名されたとみえる。

世界遺産ではなく、そもそも観光の目玉になるようなものは何もないが、空気が澄んでいて、水がきれいで、風音が聞こえるほど静かな、いい村である。「日本の最も美しい村連合」といって、合併で大きくなろうとなどせず、小さいながら自立をめざし、独自の行政に励んでいる町村の組織があるが、それに加わっている。加盟にはいくつかの条件のほか、二つの特産を求められ、東白川村は六百年の伝統をもつ白川茶と、ヒノキ材のブランド・東濃(とうのう)ヒノキがきめ手になった。「寺のない村」は一つの特色だが、これは特産というわけにいかない。

村役場からバス停で二つばかり西の山の斜面に、雄大な石垣がのこされている。「幡龍寺(ばんりゅうじ)趾」の標識から、これも廃仏毀釈のツメ跡かと思ったが、幕末に先立ち、寺と集落とのイザコザがあって廃寺となったのだそうだ。もしかすると村には、寺を厭う何か理由があって、毀釈が徹底して実践されたのかもしれない。

権力への無言の抵抗は奥が深い。この石の節理に添って闇がどこまでもつづく。高遠の石工の仕事が今も残る。

権力への無言の抵抗は奥が深い。この石の節理に添って闇がどこまでもつづく。高遠の石工の仕事が今も残る。

制度としての寺は廃しても、名号入りの石を立ち割った記憶は負い目のようにのこっていたのだろう。天保六年(一八三五)、施主の求めにより、信州高遠の石工伝蔵という者が制作した。知事布達で打ち砕くべしと命じられたとき、村は再び伝蔵にゆだねた。その際、ひそかなやりとりがあったのではなかろうか。石には「節理」というのが通っていて、これに添って割れば全体は損なわれず、のちに合わせると元通りになる。四つ割りを役人に見届けさせ、埋めたり土台に利用。百年後の昭和十年(一九三五)、あらためて四つを集めて建立した。息の長い知恵が、歴史の証言役を生み出した。

【今回のアクセス‥文中に述べたとおり、JR高山本線白川口駅よりバス。駅近くの白川橋は巨大なワイヤーの橋で、大正十五年(一九二六)架橋。「土木遺産」に指定されている】

季語道楽(16)ラテンを聴きながら、心は柳橋か神田明神か 坂崎重盛

  • 2013年7月18日 16:49

いつの間にか梅雨が明けて、七月に入ってからの連続の猛暑日は、気象台の観測はじまって以来、だそうですが、どうもこのごろ「統計をとりはじめて以来」ということが多くありません? 異常気象が、こうも続くと“異常”が通常になってしまう。

なんてことを書いても頭がボーッとしている。喫茶店の二階にいるのでクーラーは効いているのだが、窓から外を見ると、白熱したような炎天。日傘の人の影がネットリと濃い。街路の植込みのタチアオイの花が、なにか道行く人を嘲笑うかのように咲いている。

梅雨どきは「我こそ季節の花」と咲き誇っていたアジサイも、この猛暑でたちまち干上がって枯れてしまった。夏本番の到来。

梅雨どきは「我こそ季節の花」と咲き誇っていたアジサイも、この猛暑でたちまち干上がって枯れてしまった。夏本番の到来。

BGMが眠けを誘うのか、店内、少し前まではハービーハンコックかなんかのクロスオーバー系がかかっていたのに、今日は、ラテン、タンゴだ。実は好きなんですよ、子供のころに聴いていた、このての音楽。「ラ・マラゲーニア」とか「ジェラシー」とか。いまかかっているのは「アモール・アモール」か……。気持ちよくて、眠くなる。

半分寝惚けた状態で歳時記のページをめくっていく。ま、これもまた盛夏の昼下がり的な気分といえましょうか。

省エネの推奨植物、ゴーヤ(ニガウリ)の棚。すでに小さな黄色い花をつけている。正式名はツルレイシ(ウリ科)。

省エネの推奨植物、ゴーヤ(ニガウリ)の棚。すでに小さな黄色い花をつけている。正式名はツルレイシ(ウリ科)。

閑話休題、夏の季語。夏負けせぬよう食欲系からいきますか。

「麦飯」これが夏の季語。麦飯なんて秋でも冬でも食べるぞ、などと言っても、これは夏の季語なのです。理由? ないわけではない。

最近はヴィタミン剤の普及で、あまり聞かなくなりましたが、脚気(かっけ)、この脚気予防として夏に麦飯を食べる。で、夏の季語。

「鮨」だって、いつで結構、いただきます、といいたいところですが、こちらも夏の季語。鮨はかつては保存食だから、夏。

例句を見てみよう。

蓼添へて魚新たなり一夜鮓   三宅孤軒

鯛鮓や一門三十五六人      正岡子規

鮓押すや貧窮問答口吟み    竹下しづの女

やはり、この鮨は押し酢ですね。握りでは季節感が出ない。一句目、旨そうですね。蓼(たで)を添えるあたり。鮎かなんかの川魚の鮨でしょうか。

子規の句は、なんか目出たい感じがしますね。鯛鮓だからか、いや「一門三十五六人」の賑やかさだろう。

しずの女の句の「貧窮問答」は、もちろん、万葉歌人・山上憶良の「貧窮問答歌」。これを口ずさみながら鮓を作るというところに、そこはかとないユーモアを感じてしまうのはぼくだけでしょうか。

鮓をつくるつもりではないのに、この季節、ご飯がすえて、においを生ずることがある。「飯すえる」は季語になっている。もう少し俳味を感じるのが「飯の汗」

今日は、炊飯器ですぐにご飯がたけてしまうので「飯すえる」の

実感がなくなりました。子供のころ、少しすえたご飯は水で洗って臭いをとってからたべたものです。なんか懐かしい。同じ「洗い飯」「水飯(みずめし、すいはん)」いずれも夏の季語。

夏といえば、ビール(麦酒)。もちろん、夏の季語です。ビールといえば、かつては、ビヤホールは別として、生ビールは夏しか飲めなかった居酒屋がほとんどでした。だから一年中、生ビールが飲める店は貴重で、人を連れていって自慢したりしたものです。たとえば湯島天神したのTとか。

ところで「焼酎」、これが夏の季語。なぜって? これも理由がある。つまり「暑気ばらい」。日本酒ではだめなんです。暑気ばらいといえば、キュッとアルコールの度数の高い焼酎でなければ。

かと思うと「甘酒」も、この季節の季語だから、知らないと間違ったりする。かく言う自分も、また肌寒い梅見のときや雛祭りに、甘酒が出たりするので、つい早春あたりの季語かなと思っていました。

もともと甘酒は、夏の季節、麹に粥を加えて発酵させ(6〜7時間ほど)甘味を出す、これを沸騰させて飲む。ひと晩でできるので「一夜酒(ひとよざけ)」ともいう。

本来は、甘酒はあたたかい飲み物なのだが、甘酒といえば神田明神の鳥居脇の甘酒屋・天野屋糀店(こうじてん)では涼し気なグラスに入った冷やし甘酒を飲むことができる。女性に絶対喜ばれます。

「にんきや」の閉店にショックを受け神田明神の「天野屋」へ冷やし甘酒を求めて。その外観と冷し甘酒(450円)。このモロミもうまい。こちらは500円。

「にんきや」の閉店にショックを受け神田明神の「天野屋」へ冷やし甘酒を求めて。その外観と冷し甘酒(450円)。このモロミもうまい。こちらは500円。

冷やし甘酒、です。

冷やし甘酒、です。

そうか! この稿はこれくらいにして、人を誘って冷やし甘酒といくか! いや、この季節、柳橋の「にんきや」の白玉も、いいなぁ。この店、安藤鶴夫先生のごひいきでした。

——ということで白玉求めて柳橋に向かったのですが、念のためと、途中から電話を入れてみたら通じない。なになに!? ブログに「閉店」の書き込みが……。しまった!

「いつまでもあると思うな親と老舗」。

淋しいじゃないですか。そうか……ということでリベンジ気分で足はーー。