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私の手塚治虫(11) 峯島正行

  • 2013年5月10日 13:30

戦争で鍛えられた愛の精神

手塚漫画の根底にある生命愛と反戦

手塚漫画の根底にある生命愛と反戦

修練所のしごきに耐えて

手塚の漫画を描く根本思想は,まず生きとし生けるものを愛する心である。もう一つが、反戦である。全体主義、独裁的権力によって戦争が起こされ、愛すべき多くの人や生物が殺される。

近代になって飛躍的な速さで、発達する科学、技術が、この独裁的政治勢力によって、戦争の道具にされてきて、生きるものの命が奪われてきたことが、現代の最大の問題だ。そういう状況が起きないように、心底から願う、これが手塚の漫画を描く精神の奥深く蔵されていた思想だ。

「人間ども集まれ」も、その心情で貫かれている。

手塚がこういう精神をきっちりと掴んだのは、彼自身の戦争体験から来ている。

手塚は戦争中、まだ中学上級生の頃、強制修練所に入れられた経験を、「ぼくはマンガ家」という自伝的文章の中で、以下のように書いている。

「修練所のシゴキは凄かった。畑仕事や教練はまあ我慢できるとしても、我慢ならないのはほとんど絶食に近いくらいの食事の減量だった。目はおちくぼみ、腕は鳥の脚のようになり、ものをいう元気もなくなってきた。教官だけは、どういうわけか丸々と肥え太り、元気旺盛だったので隠匿品があるのだろうと噂が立ち、とうとう教官室を襲撃しようかという計画まで企てた。しかしこれは実現しなかった。

ぼくは、こんな所から逃げ出そうと思った。しかし修練所の周囲には鉄条網が張り巡らされ、付近の地面は蟻が歩いても、足跡がつくくらいで、とても脱走はできない。

『だが俺は脱走して見せる』

『馬鹿、日本刀で切られるぞ』

『このままいたって餓死するだけだ』

ある夜、皆が寝静まるのを待って、ぼくは修練所の窓から抜け出した。ひんやりとした、おぼろ月夜だった。僕はあぶら汗を流しながら鉄条網をくぐり、足跡を消した。草をかき分けて本道へ出ると、やっとシャバへ戻った安心感がこみ上げてきた。電車に乗って,ほうほうの態でうちまでたどりついた。

ふらりと玄関を入ると、出てきた母は、腰を抜かさんばかりに驚いた。幽霊だと思ったそうである。

『腹がへった』

と、一言いうと、ぼくはへなへなとすわりこんでしまった。母は、家中から食べ物という食べ物を出してきて、ぼくに食わせてくれた。ただもうありがたかった。食糧といえば、乏しい配給だけの時代だ。おそらく家中の食物を洗いざらい食べてしまったに相違ない。

腹ができてホッと落ち着くと、また不安になってきた。母は修練所へ帰ったほうがよいという。しかたなく、また電車に乗って草深い鉄条網の中へ帰っていった。何食わぬ顔で寝てしまったので、誰にも気づかれず済んだ。」(『ぼくはマンガ 手塚治虫自伝・1』大和書房 一九八八年)

この文章は、手塚の一本気で勝ち気な性格をよくあらわしたものであるが、手塚の伝記資料を読み、このくだりにくると、私は涙がこらえきれない。彼と同年代で、学生時代に同じような経験を経ているためかも知れない。

おなじ場面を『手塚治虫物語』(伴俊男・手塚プロダクション 朝日新聞 一九八二年)という手塚の生涯を絵物語にしている文献では、ちょっと違う表現をしている。

修練所から実家に逃亡した学生は、手塚だけでなく、結構いたことになっている。逃亡を見ぬふりをして助けた仲間は、逃亡者の「土産」をあてにしていたような表現になっている。手塚の場合も、彼の母が作ってくれた蒸しパンを、旧友と分かちあって喜ぶ情景が描かれている。

単行本「人間ども集まれ!」

単行本「人間ども集まれ!」

前記の文章より、この絵物語の方が真実に近いと言えよう。

終戦間近いあのころは教育のありようも朝令暮改と言ったらいいか、上からの達しでいつのまにか制度が次々、変えられることがあった。そのため、私も手塚と同じような経験をさせられた。

昭和一九年の夏休みの前に、修練という科目が課されることになった。それは戦場へ行ったとき、困窮に耐えられる体を作るためだ、という説明だった。

私はその頃専門学校の学生だったが、週に十何時間の教練の時間のほかに、運動部の剣道部、柔道部、航空部とか、兵隊として役に立つ運動部の班に所属しなければならなかった。私は航空部のグライダー班に所属した。グライダーに乗る訓練も、毎週多摩川の河原で受けていたのである。

こうして学問をする時間がものすごく少なくなっている。その上修練という科目が付け加えられ、肉体の修練なんかさせられたら、学問どころではなくなる。学校は兵隊養成所と化していた。

ともあれ手塚さんと同様に、私たちにも修練所ゆきが通告された。訓練期間は8月の夏休み中とのこと

行く先の修練所は、千曲川の源流、甲武信岳の麓、高原列車小海線の「信濃川上」から四キロ山に入ったところにある長野県立の修練所だという。われわれは大いに喜んだ。食糧も特別に配給されるという。

学徒上がりの配属将校が指導教官として、助手二名を連れて参加、学生食堂の調理主任夫婦が付き添い、「せいぜい山の中の食品を使って旨いものを作ってやろう」と張り切った顔を見せた。

日本一高所を走るという、小海線を降り、トラックに載せられ、現地に到着。信濃川上と言えば、今日の若者にとっては レジャーのメッカみたいなところだが、当時は険しい山と、深い谷川、狭い高原の畑に桑がおい茂る寒村だった。そこに湿った冷たい空気が冷え冷えと流れていた。

宿舎も新しく修練にはいい場所には違いなかったが、なんとなくうら淋しい建物だった。

引率者から訓練生まで、期待外れのわびしい顔になった。さらに夕食時には、絶望的な気持ちに、落とされた。

村役場も長野県も宿舎を貸すだけで食料、副食物の援助は何もないということであった。われわれが持参した一日当たり二合三勺の配給米と、村から支給される普通の配給の野菜しか食うものがない、ということが分った。張り切っていた学生食堂の小父さんも手が出なかった。

翌日から手塚さんが訓練所で経験した通りの日が続く。そのあたりは穀物が高地のためにとれない。わずかばかりの雑穀やそばを、土地の百姓は貯え、それと寒冷の地でもできる馬鈴薯などを、主食にしているらしかった。

夜ひそかに仲間の学生が、村の百姓に頼みジャガイモを僅かばかりふかしてもらったり、そばの団子を作ってもらったりしてきたのを、皆で分け合って食って、飢えをしのぐ有様。

文部省の命令で横浜から訓練にきたのに、それに対応する受け入れ態勢の用意が、県からも、農林省からも届いてないのである。

或いは戦争末期で、もう学生を訓練する米さえなかったというのが実情かも知れない。

小川ほどの谷川である千曲川の水源のすんだ冷水を、すき腹に流し込みながら,つくづくと戦争を恨んだ。

戦争末期に中学や高等専門学校に学んだものは、皆同じ思いをしたのだ。手塚の戦争嫌いのもとにあるものは、終戦までの一,二年間の学生生活にある、と私は思っている。

 

焼夷弾の雨の中で

私たちは、修練という科目の訓練に行った山奥から帰ると、通年動員がかかった。通年動員とは、学校に行かず工場で働くのであるが、学生である証拠に、月に何日か学校に行って勉強することになっていた。

手塚の場合も同様であった。大阪府立北野中学の四年生は、淀川下流の三国という場所にあった、飛行機格納庫の屋根にするスレートを造る工場で働かされた。昭和二十年に入ると米軍の空襲が激しくなった。

手塚の著書『ぼくのマンガ人生』(岩波新書)から、抜粋させてもらう。

「戦争末期、淀川沿いにB29が大編隊を組んで、大阪と阪神沿線を空襲にやってきました。淀川は格好の目標で、B29大編隊は紀伊水道から上ってくると、まず淀川を見つけ淀川に沿って上がってゆきます。軍需工場に爆弾を落として、帰りに余った爆弾を淀川下流の民家などに無差別に落としてゆく」

こんな日々が続いたあと、六月の大阪大空襲へと続く。その日、見張り役として、工場の火の見やぐらの上で敵機を見守っていた。普通は警戒警報のサイレンが鳴ってから、空襲警報が鳴るのであるが、どういうわけか、この日はいきなり空襲警報が鳴り、監視塔の手塚の目にB29の編隊が、自分の方をめがけて飛んでくるのが眼に入った。空襲警報が鳴ると見張りのものは塔から降りて、防空壕に非難することになっていたが、この日はそんな暇はない、大編隊は手塚の頭上で、焼夷弾の雨を降らせた。淀川付近の工場や、民間の住宅に焼夷弾の雨が降り注いだ。

手塚は頭を抱えて空を見上げていた。敵機が手塚の頭上に来たと思ったら「キューン」という音がした。その音はごく近くに焼夷弾が落下する時の音だ。

「もう駄目だ」と観念し、監視哨の上で、うずくまった。焼夷弾は、長さが一メートルほどの小型爆弾が三十個か五十個とかにまとめられ大型爆弾となっている。そいつが落とされると、地上近くになってばらばらの小型爆弾となって降り注ぐのだった。

私は横浜の専門学校の裏山を削って造った教練場に、空襲に来たB29が去る時、残り物の焼夷弾を捨てて行った跡をみたことがあった。

広い赤土の原に、縦横約1メートルおきに、小型焼夷弾の殻が半分突き刺さったままたっているのだが、それが整然とした正確な市松模様を描いているのに驚いたことがある。

その焼夷弾の束が監視哨をすり抜けて、バラバラにばらけて落ちて行った。下の監視所の屋根の穴をいくつもあけて、焼夷弾が突き抜けて行った。忽ち火の海になった。

「ああ、自分は助かった」とその瞬間、無意識に、駆け下りた。

焼夷弾は塔の下の防空壕の屋根を突き抜け、その中で爆発をしていた。

辺りには手塚の学友は勿論、大勢の工員さんが手足しをもがれ、首をもがれ、無残な屍の山を築いている。

手塚は逆上し、一散に工場を駆け抜け、淀川の堤防に逃げたという。本能のさせる技だろう。

淀川の堤防は、空襲警報が鳴った時に避難所に指定されていた。そこに多くの人が避難してきていた。そこに敵機が何トンとういう爆弾を、その堤防をめがけて無差別に落としていった。避難した人は皆殺しだ。手塚が堤防に逃げ上ると、死骸累々、山を築いていた。淀川の河原では食糧増産だといって牛を飼っていた。

「そこへ爆弾が落ちて、人間もウシも一緒くたに死んでいる。ウシは黒こげになって煙が出ている。ビフテキみたいな臭いがぷーんと漂っています。」(『ぼくのマンガ人生』)

この辺り手塚でないと書けない表現だろう。上流にある淀川大橋にも直撃弾で破壊された。大橋の下に逃げた人々は皆死んだ。北の方を見ると、大阪、阪神間の方は真っ暗な空の下が、赤黒く光っている。「地獄だ」そう感じた。

もちろん汽車も電車も止まった。宝塚の家迄徒歩で帰らなければならない。火がボウボウ燃えている中からやってきた避難民が、阪急沿線を歩いている。その一人となって、空襲下の汚れた空気で真っ黒になった姿で歩いた。

豊中辺りに来ると、さすがに被害が及んでなかったが、腹が減って喉が渇き、歩けなくなった。道路際の民家にとびこんで

「僕大阪から歩いてきたのです。おなかがぺこぺこで歩けません。食べ物があったら下さい」

と出てきた小母さんの優しそうな顔に向かって言うと、そこにへたり込んでしまった。

「まあ学生さん、かわいそうに」

といって、大きな握り飯を作ってくれた。お茶も入れてくれた。どこの家も、1日二合三勺の配給で、食糧が窮迫している時代で、おばさんの親切が身に浸みた。その握り飯をほおばると、涙が流れた。

二,三日して、その辺も空襲に会い、その家も焼けてしまった。親切な小母さんの行方も知れなかった。

書き貯めた漫画、三千枚

その頃、手塚が家では勿論学校の授業中、動員された工場の寮で、孜々として書き貯めた二千枚か三千枚かの、漫画の原稿絵を蔵していたことは、手塚の伝記に興味のある人は皆知っていることだ。

この空襲で手塚の友人の家はあらかた焼けてしまった。

「ぼくが描き貯めた漫画の原稿を、ごっそり貸してあった友人の家もきれいさっぱり焼けてしまった。焼け跡に舞い上がった灰の中に何百枚かの丹精を込めて書いたヒゲオヤジやアセチレン・ランプたちが昇天していった。ついでだが、ヒゲオヤジ、アセチレン・ランプは、ぼくが中学生のとき、すでに作ったキャラクターなのだ。

もう国のため一身をささげる意欲を全く失ったので、それ以来、ほとんど自宅にひき籠って漫画を描いていた。たまに工場に顔出しても原料の攪拌機の後ろへ隠れていて、配給のパン一週間分を食べてしまったり、蛮唐(バンカラ)の持ってきた煙草をふかしたりする……」(『ぼくはマンガ家』)

蛮唐というのは、腕力の強い不良というか、右翼というか、要するに、番長とかガキ大将みたいなものだ。中学生の間で、幅を利かせていたらしいが、こいつが手塚の漫画を気にいって、手塚の保護者になってくれた。時々美少女の絵など描いてやると、喜んだという。

そのうちせっかく描いた漫画を誰にも見せないで置くのはもったいない、どこか発表するところは無いか、二人は相談して、工員用の便所に張ることにした。

「あそこなら教官とか、えらい奴は入ってこないぞ」

ということで一頁ずつ、トイレの壁に貼った。朝早く来て、貼り替えるのである。客が便器にしゃがんだ目の前に来るように張るのだ。これは相当長く続いた。

彼の住まいのある宝塚の近辺も空襲の洗礼を受けており、夜になると尼崎、伊丹、仁川の街に、焼夷弾の雨がまるでクス玉のから出る紙テープのように、はるかかなたに降っているのが見えた。

「僕は自分の部屋にうずたかく積まれた原稿の山を見た。三千枚近くある。色が変わって黄色くなったものや、埃を被ったもの……どうせ日の目を見ることはあるまいと思ったが、焼いてしまうのは何となくもったいない気がした。そして、八月一五日がやってきた」(『ぼくはマンガ家』)

通年動員と横浜大空襲

私は漫画以外のことは、当時、手塚とすべて同じような経験をした。先に述べたような昭和一九年の夏が終わると、通年動員で、鶴見の海べりの、化学工場に連れてゆかれた。

その工場の技師によれば、B29迎撃用のロケット戦闘機の燃料となる炸薬を製造する工場の建設が、ぼくたちの仕事だという。

「このロケット飛行機が量産されれば、B29などいくら来ても撃退できる。もう試作機がドイツから来た技術によって出来上がっている。あとは生産するだけだ」

戦後にわかったのだが、このロケット戦闘機は「秋水」と名づけられていた。だがいかに優秀な飛行機でも、これからロケットの炸薬を作るのではなく、炸薬を作る工場を作るというのでは、戦争に間に合わないではないか、と私たちは思った。もうマーシャル、カロリン群島はとうに占領され、そこにB29が配され始め、日本領空を飛んでいる。

マルロとなづけられた、このプロジェクトは、機材、運送などすべての軍需産業に優先する、君たちも頑張ってくれ、と技術者は我々に言う。

だが実際に仕事について驚いた。建設用の機材が何もない、トラック一台、起重機一台さえない、ほかはおして知るべきだ。原始的な機材で、私たちか弱い肉体の労働力で、この重大な工場をつくるというのだ。

劇薬の材料液を電気分解するために、電解槽が必要なのだが、機材がないのでこれを陶器で代用するというのだ。その陶器の電解槽が、瀬戸の陶器工場で焼いて作られたという。その電界槽が鶴見に着くのを待ったが、中部大地震で、その陶器の電解槽は全壊、シャレにもならないが、もう来ないことになった。桐生高工出の技師は仕方がないから木製で、これにピッチを縫って代用するというので、我々も驚いた。それが軍の命令ならやらざるを得ない。

電解層に、硫酸アンモニアとかいう劇薬を入れて、その両側の電極を通して電気分解すると、過酸化水素というものができる。これがロケットの炸薬なのだという。

その電極となる白金は、国民から宝石類を供出させて作られ、工場の片隅に積んであった。木製の電界槽から劇薬が漏れないようにするためのピッチを塗り、試験管を並べた冷却装置を作るというのだから、今から思えば、噴飯ものだが、私たちはその作業を強いられた。ものすごい肉体労働だった。

それでも何か月のちには、工場らしいものが出来上がった。私たちの素手で作られたようなものであった。電気を入れると、1升ほどの炸薬が出来たという。戦争の役に立つはずはない。

その上、翌日の夜中の空襲で、私たちの成果は、灰燼にきしてしまった。あまつさえ私たちの面倒をよく見てくれた、寮に泊まっていた女子事務員の何人かが犠牲になった。学生たちは皆泣いた。

考えてみればいかに軍が無能であっても、資材がないのに、こんな無駄なことがあっていいものか。私たちは手塚と同じように、虚無と絶望感にとらわれ、何もする気も失われた。

それから川崎の海岸の製鋼工場に配属になったが、ニヒルな思いで通うだけであった。そういう我々を米軍の戦闘機が、川崎駅の前で、ぐいーんと急降下して機銃掃射をしたりした。

昭和二〇年年五月二五日、その日はB29、五〇〇機と艦載一〇〇機という空前の大編隊に襲われ、真昼間、半日にして、灰燼に帰した日である。

わたしはこの日はちょうど学校に登校する日に当たっていた。その日の午前、横浜の六角橋の山の上にある専門学校に行く途中、空襲警報が鳴った。学校の門まで行くと、同級生たちが、危険だから校舎に集まっていてはいけないと、追い出されてきた。私は一瞬どうしようかと思ったが、友人の一人が「警報が解除になるまで、俺ん所にきておれ」と彼の下宿に連れて行ってくれた。

警報下でも学生は暢気なもので、窓に腰かけて、和辻哲郎かなんかについてお喋りをしていると、いきなりドドーンと焼夷弾が裏に落ちて、下宿の家が傾いた。ラジオが敵機は京浜地区に侵入しつつあり、と放送していたので暢気に構えていたのがいけなかった。

下宿のおばさんたちは、近所の防空壕にすでに避難していた。

友人と二人で律儀に、バケツに水をくんでは消火に努めていた。その時ふと気がついて、表通に私は出てみた。向こう一面真っ黒な煙を出して燃えているではないか。群衆が下宿の前を通って、神奈川工業学校の方に、逃げてゆく。私たちの学校のある山の方に逃げればいいのにと思って丘の方を見ると、群衆が駆け下りてくる。

私はあわてて友人に言った。ここでぐずぐずしていると焼け死ぬぞ、すぐ逃げよう。私は友人の布団一枚と自分の鉄兜を持ち、逃げようとすると、友人は本箱の前で躊躇してから、おもいきって西田幾太郎の『哲学の根本問題』一冊を鞄につきこんで、私と表に出た。それから、雨のように降る焼夷弾の中を、布団を笠に、群衆に押され逃げ回った。

結局気が付くと東神奈川の駅から、線路の上を逃げていた。そして線路の段差にあるところに、排水溝が流れていた。その溝の中に、腰を据えて、火の手が収まるのを待つことにした。向かいは石垣で、その上は道路である。道路の並木に馬をつないだまま、馬方が逃げたらしく、その馬が焼け死ぬ様を見せられた。私たちの周囲は逃げてきた人がいっぱいで、体中火傷しているおばあさんもいた。

ここに落ち着くまで、いかに多くの人が焼けただれ、直撃弾で倒れたのを見たことか。焦熱地獄である。空は真っ黒、四方に真っ赤な炎がメラメラ首を持ち上げている。

何時間かすると、周辺の火が収まり、命が助かったのを確認できた。

二人は、道路に這い上がり、反町の通りを歩いて、友人の下宿のほうに歩いて行った。男、女、大人、子供を問わずやたらに死体が転がっている。それをよけて歩き、下宿のあった場所に行った。幸い下宿のおばさんは無事で我々を迎えてくれた。その焼跡を見ると友人の本箱が、元のままの形で、真っ黒い炭と化していたのだった。

それから三ヶ月足らずで、八月一五日を迎えるのであるが、手塚と言い、我々と言い、戦争末期に、ものの分別が付き始めた頃、終戦迄の二年程の間に学生生活を送ったものには、共通した感覚があるのではないか。戦争反対の考えにおいても、生きる感覚においても、相通ずるものあるように、私には思えてならない。

私は手塚の書いたものを読むと、おのずから、腹のそこから、共感、同感するものが湧き上がるのを禁じ得ない。

手塚の敗戦感、戦争観に、私は自分と共通するものを、いつも感じてならない。そして手塚の作品なり、文章をよむと、そのことに感動して、涙が出てくるのである。

シャンデリアの光に感動

八月一五日の夕方、手塚は一人阪急電車に乗って大阪の街に向かった。その時の感慨を次のように書いている。

「大阪に着きました。阪急電車の駅は焼け落ちて鉄骨だけになっております。其処から阪急百貨店の下のホールを出ると、なんと阪急百貨店ホールにシャンデリアの明かりがパーッとついているのです。

それまでは灯火管制と言って、夜になると電灯を消さなければいけなかったのです。電灯を消さないまでも、まず黒いカーテンで窓を覆って、電燈にも黒いシェードをつけて、そのシェードから漏れるわずかな光で本を読んだりしたものです。(中略)

八月一五日の夜、阪急百貨店のシャンデリアがパーッとついている。外に出てみると、一面の焼野原なのに、何処に電燈が残っていたのか、こうこうと街灯がつき、ネオンまでついているのです。

『ああ、生きていてよかった』と、その時初めて思いました。ひじょうにひもじかったり、空襲などで何回か、『ああ、もう駄目だ』と思ったことがありました。しかし、八月一五日の大阪の街を見て、あと数十年は生きられるという実感がわいてきたのです。本当にうれしかった。ぼくのそれまでの人生の中で最高の体験でした。

そしてその体験を今でもありありと覚えています。それがこの四十年間、ぼくのマンガを描く支えになっています。ぼくのマンガではいろいろなものを書いていますが、基本的なテーマはそれなのです。

つまり、生きていたという感慨、生命のありがたさというようなものが、意識しなくても自然に出てしまうのです……とにかく書いているかぎりどうしても出てしまう。」(『ぼくのマンガ人生』)

「ロボット」と「原子爆弾」の発明者

ロボットという言葉を作ったカレル・チャペック

ロボットという言葉を作ったカレル・チャペック

ここに紹介した文章が手塚の中心思想であり、反戦思想もそこから出てくるのである。別の頁で次のように書く。

「『生命の尊厳』は僕の信念である。ですから、ボクの作品の中には、このテーマが繰り返し出てきます。『鉄腕アトム』がぼくの代表作と言われていて、それによって僕が未来は技術革新によって幸福を生むようなビジョンをもっているように言われ、大変迷惑しています。アトムだってよく読んで下されば、ロボット

技術をはじめとする科学技術がいかに人間性をマイナスに導くか、いかに暴走する技術が社会に矛盾引き起こすかがテーマになっていることが分って頂けると思います。しかし、残念ながら10万馬力で正義の味方というサービスだけが表面に出てしまって、メッセージが伝わりません」(『ぼくのマンガ人生』)

今、鉄腕アトムの原作をじっくり読み返してみると、子供が正義は強いと安易に考えて、ただ単に読んで楽しむ漫画ではないことがよく分る筈だ。頁と頁の間から滲み出てくものは、我々にとっても重いものなのである。

だが、鉄腕アトムにより、ロボットという言葉は誰知らぬものない言葉となり、10万馬力の原子力エネルギーということも子どもは知っている。

ところで、ロボットという言葉も原子力という言葉も、一九二〇年代から三〇年代に活躍した、チェコスロバキアの思想家であり、偉大なSF作家、カレル・チャペックが、作った言葉である。

第一次世界大戦後、一九二〇年代に台頭したヒトラーのナチスに反感を以って、ロボットを主体とした、『R.U.R』という戯曲、それに類する小説『山椒魚戦争』原子爆弾を題材にした小説『クラカチット』などの、反ファシズム文学を発表している。それらによって警鐘を鳴らしたのであるが、ファシズムはますます蔓延、ついに第二次大戦へと、すすんでしまったのである。

日本のチャペック研究家として知られる田才益男は、次のように書いている。

「カレル・チャペックは一九二〇年代の最初の数年間にその後の人類の生存に大きな影響を及ぼす二大発明をしてしまった。『ロボット』と、今一つは『原子爆弾(薬)』である。後者は人間社会に取り込まれ、人間との不可欠な関係をかろうじて保っているが、ロボットには善悪の区別がつかない。自分が上司の命令で大量生産しているものが、はたして人間のためになるものかどうかの判断は無く、命令されたことを実行するだけで、判断の主体は、まだ、依然として人間である。(『クラカチット』訳者あとがき 青土社 二〇〇八年)

そうして、チャペック自身も、理学、工業、医学等すべての「技術は要するに人類に対して途方もない物質的手段を供しますが、それを用いて善をなすか悪をなすかについては、すでに最小限の影響力さえ持っていない」と説いている。

それを用いるのが、独裁者とか独裁政権が権力の維持のためである場合が、戦争という大惨事をもたらすことになるわけである

手塚の「人間ども集まれ」の主体となる「無性人間」は医学の技術を悪用して生まれた「ロボット」だといえよう。宇宙に生きとし生けるもののために造られた「アトム」とは正反対の存在である。

次回は、チャペックの作品と手塚の作品とを比較しながら、「無性人間」の誕生から滅亡までを検討したいと思います。(つづく)