Web遊歩人

Web遊歩人
You are currently browsing the Web遊歩人 archives for 5月 2013

池内 紀の旅みやげ(29) 誉の家─山梨県富士吉田

  • 2013年5月23日 14:19

古い家の門や玄関には思いがけないものが見つかるものだ。私はそれを「歴史の落とし物」と名づけている。人がよく定期券や財布の落とし物をするように、歴史が何げなく小モノを落としていく。

「譽之家」

大門の柱に鋲で打ちつけてあった。重厚な鉄製、両手でつつむほどの大きさ。タテの楕円形の上が王冠状のレリーフになっていて、そこに三文字が浮き彫りされている。左右に桜の花びらが四つばかり、よくみると下に波の文様が刻んである。赤黒く風化しているが、なかなか手のこんだつくりで、ドッシリとした重量感が見てとれた。

「歴史の落とし物」がこんな形で残されていた。「譽」の旧字が時代をも語ってくれる。

「歴史の落とし物」がこんな形で残されていた。「譽」の旧字が時代をも語ってくれる。

しばらく何のことかわからず、まじまじと見上げていた。「誉」の旧字を「ホマレ」と読むことに気がつき、「ホマレの家」となって、戦死者の出た家だと気がついた。そういえば色の褪せた「山梨縣靖國會員」の標識が寄りそっている。

山梨県富士吉田市。現在は富士スバルラインで五合目まで車で走り上がるが、その前はここの浅間(せんげん)神社が登り口だった。そのため御師(おし)といって、団体をたばねる冨士登山のマネジャーがいた。神職にして宿坊の亭主である。関東一円に得意先をもち、そこから送られてくるツアー客を迎え、かつはお祓いをし聖なる山へ送りこむ。

ひところ富士吉田に多くの御師がいて、目抜き通りに御師の町をつくっていた。タツミチとよばれる引き込み路の奥に大門があって、そのわきを禊ぎ用の清流が走り、奥の大きな宿坊につづいている。江戸から明治にかけて冨士講中とよばれるツアー登山が大はやりで、富士吉田だけで九十人にちかい御師がいた。信仰登山が下火になり、やがてスバルラインができて仕事もなくなり、御師の町もたたずまいを変えたが、それでもかなりが旧形を残している。そのうちの一軒を外川家といって、市の博物館付属施設となり、建物がそっくり旧のまま保存されている。はからずもその大門で「譽」の標識と出くわした。はたしてこれは、いつのころの名誉をあらわしたものだろう?

日清戦争、日露戦争、日中戦争、日米戦争。おもえば近代日本は戦争ばかりしていた。そのたびに数多くの戦死者を出した。軍人は職種として戦死が含まれているが、一般の人は国の命令で出ていき、国のために死んだわけだから、国としては遺族を名誉でつつまなくてはならない。事務方の軍人官僚が知恵をしぼったのだろう。戦争のたびにいろんな名誉マークが生まれたらしいのだ。

以前、山陰地方の小さな町で「満州事変殉国勇士之家」を見かけた。少しかしいだ廃屋の軒に鋲でとめてあった。たしか陶製で長方形だったと思う。長々つづいた日本と中国の戦いはレッキトした戦争だったが、日本軍部は戦争ではなく「事変」だと主張した。政治学ではユーフェミズムというが、遠まわしの言い方をして事実をくらますわけである。戦争なのに事変などとゴマかすものだから、戦死者と名指しできず、苦しまぎれに「殉国勇士」などの珍妙な用語をひねり出したのだろう。官僚のやりそうなことである。講談では真田十勇士が活躍したりするから、そのあたりをヒントにしたのだろうか。

「譽之家」は鉄の素材、職人芸的なつくりの立派さ、ホマレといった明治調の語の使い方からして、日中戦争以前、日清か日露の産物ではあるまいか。国から県・郡・市町村に告知して、遺族をよび出し、ものものしげに手渡したと思われる。もともとは金メッキされていたのが、歳月を経るうちに赤黒い鉄片と化したのではなかろうか。

日中戦争以降は戦死者がうなぎのぼりにのびて、いちいち丁寧なつくりのしろものをつくっていられない。日米戦争のころは鉄をはじめとする物資に欠乏して、鍋、釜の日用品まで供出させたほどだから、鉄製の名誉マークをつくりっこない。たしか薄いアルミ板に「戦没者遺族の家」としるしたのが門に掲げてあった。上に金色の菊の紋章がついていた。

「誉之家」の柱の下にありました。

「誉之家」の柱の下にありました。

門や玄関の軒に「歴史の落とし物」があるのは、その家が旧のままとどまっていたからである。旧家の屋台骨がゆるがなかったケースもあるが、おおかたはそうではなかろう。戦死者が何人も出て家が絶えた旧家もある。富士吉田の御師の家も「おばさんひとり」になり、その死後、市が買い上げて博物館の付属にしたそうだ。

【今回のアクセス:富士急・富士山駅より徒歩十分】

ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 2 柴崎信三

  • 2013年5月17日 15:02

〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

2〈象徴〉について

米国大使館の35分

昭和天皇とマッカーサー元帥との会見写真(1945年9月27日、米国大使館)

昭和天皇とマッカーサー元帥との会見写真(1945年9月27日、米国大使館)

余りにも知られつくした昭和天皇とマッカーサーの記念写真は、終戦の日からまだ40日余りしかたたない1945年9月27日に東京・赤坂の米国大使館で撮影された。一枚の写真が敗戦後の新しい日本のかたちを決定的なものにした。これは占領軍という、歴史を動かし、日本の姿を変えた為政者の大きな意思を体現した画像であるが、同時にこの画像を受け入れた国民と国際社会の眼差しによる、ある種の〈合意〉によって日本の戦後の(精神)を視覚化した、きわめて深い含意を持つ写真でもある。
撮影者はジターノ・フェイレイス。1904年、ニューヨーク生まれの米軍将校で、米国陸軍極東司令官として太平洋戦争の指揮にあたったダグラス・マッカーサーの専属写真家として従軍、レイテ上陸作戦などを取材した。終戦直後、連合国総司令官として日本へ赴任したマッカーサーとともに来日、1945年9月27日に米国大使館で行われた昭和天皇との会見の冒頭で記念写真を撮影した。引退後には、占領期の東京や横浜を撮影した写真集『マッカーサーの見た焼跡』を日本で刊行している。
さて、その写真を少し仔細に眺めてみたい。
モーニングに正装した昭和天皇はこの時44歳。身長が165㌢ほどで両手を側面へまっすぐに下げ、足元は踵をそろえて直立している。その身辺には敗戦からまだ一月余りという時点で、占領軍の頭目と初めてまみえる緊張に強張った空気が漂っている。傍らのマッカーサーは65歳だから、世代的には父と子ほどの隔たりがあるとはいえ、日米の指導者の公式な会見写真として、その寛いだ姿の対照はあまりにも際立っている。
マッカーサーの身長はおよそ180㌢で、天皇より顔一つ抜き出た長身はいかにも軽快な軍装で整えられ、もちろんネクタイもなく、襟元は自然に開かれている。後ろ手で両手を腰のポケットにあてがい、隣の天皇と50㌢ほどを隔てて立つ足は心持前後に開いて、ほとんどスナップ写真のポーズといってもいい。
一人はフィリピン米国極東陸軍司令官として、太平洋上の日本陸軍の進攻をバターンで迎撃して、壊滅に追い込んだ伝説の英雄。隣に立つもう一人は超越的な「現人神」として軍部の独走の下で日米開戦へ道を開き、やがて戦況の悪化でポツダム宣言の受諾による敗戦へ国民の運命を導いた、日本の若いカリスマである。そこには勝者と敗者、支配者と被支配者の露わな構図があっても、乗り込んだ占領軍がその敗戦国の当主としての天皇へ寄せる同情や敬意、民族の誇りへの眼差しはない。撮影者にシンボリックな演出がない即物的な写真であるだけに、モデルの〈無意識〉が戦後の日本と国際社会に効果的で大きな政治作用をもたらした、というべきかもしれない。
実は、フェイレイスが撮影したこの記念写真はほぼ同じポーズで三種類ある。1枚は会見の直後にメディアを通じて内外に流布された、この有名な写真である。公表されてこなかった残りの2枚は米国ヴァージニア州ノーフォークにあるマッカーサー記念館に保存されている。その1枚は裏に「アイ・クローズ」と書かれており、その通りマッカーサーがフラッシュに目が眩んで両目を閉じている。残りの一枚は「マウス・オープン」と裏書きされていて、こちらは昭和天皇がやや口を開いて、足も少し開いた姿勢になっている。いずれも撮影技術上の失敗からボツとなって未使用のままにされた写真である。
メディアに公表された写真は背景のトリミングが施されてわかりにくいが、元の写真を見ると背景には米国大使館の居室の二つの大きなフランス窓の前にカウチ(長椅子)が置かれ、その前の飾台には伊万里のような絵皿が数点置かれている。また右手には公表写真には映っていないクラシックな応接用の椅子や観葉植物が見える。35分間の歴史的な会見を包んだ空気が、こうした未使用の写真からリアルに浮かび上がってくる。
会見の終了後、撮影された3枚のうち失敗のない一枚が報道用としてGHQから内外のメディアに提供された。とはいえそれから二日間、この写真は〈勝者〉と〈敗者〉を絵にしたあからさまなその図像性によって、メディアの上で翻弄されることになる。
すなわち、当日のGHQの提供を受けて海外メディアがこの写真を掲載し、国内メディアも掲載へ踏み切るのだが、内務省は国民感情への影響を恐れて発行前にその阻止へ動くのである。しかし、占領統治者の圧倒的な力を背景にした連合国軍総司令部は「掲載命令」という強制力をもってこれを覆す。初期の占領統治下の息詰まる政治の駆け引きによって二転三転したあと、会見から二日を経た9月29日付の国内各新聞紙上で、この写真はようやく日本人の目に晒されるのである。

江藤淳は『閉ざされた言語空間 占領下の検閲と戦後日本』のなかで、この写真の公表を挟んだ数週間にかかわる、言論表現をめぐって繰り広げられたGHQの検閲や統制と日本政府やマスメディアとの葛藤について記している。
9月10日、連合軍最高司令官代行、ハロルド・フェア名の「新聞報道取締方針」で、日本政府に対し「報道機関が真実に合致せずまた公共の安寧を妨げるべきニュースを伝播することを禁止する所要命令を発出すべきこと」など、占領軍の強い統制を明示した。さら14日には同盟通信が英、仏、西、中国語で行っていた海外放送を「公共の安寧を妨げるニュースの伝播」を理由に即時中止の措置が取られた。
15日には民間検閲支隊長ドナルド・フーヴァーが同盟、NHKなどのメディアの代表と情報局総裁らを招致し、GHQの統制下に置かれている日本の言論表現にあっては、連合国軍と対等な関係で意見を述べるような自由な公表を認めない旨、声明を発表した。
さらにこの三日後、軽井沢に隠棲していたのちの首相、鳩山一郎が米国による広島・長崎への原爆投下を批判して「極力米人をして罹災地の惨状を視察せしめ、彼ら自身彼らの行為に対する報償の念と復興の責任とを自覚せしむること」を求める談話を掲載した朝日新聞に対し、二日間の発行停止の指令がフーヴァーによって発せられている。
占領開始から日の浅いこの時期、広島・長崎への米軍の原爆投下による非戦闘員の大量殺戮という非人道行為を問い、あるいは戦後進駐した米兵による日本人婦女子への非行を暴露するなど、国内メディアの占領軍に対する批判的な論調の広がりを危ぶんだGHQは、ただちに占領統治者の強権を発動して、マスメディアの報道に対する事前検閲や発行・公表の停止による厳しい言論統制に踏み切るのである。この間、報道の差し止めなどの措置は「朝日」のみならず、独占的に日本の占領統治情報を世界に伝えていたさきの同盟通信の外国語による海外向け短波放送への停止命令、占領軍兵士の日本人女性らに対する非行を暴いた「東洋経済新報」9月29日号の押収処分と、相次いだ。
「天皇・マッカーサー会見」の写真公表をめぐってGHQ、内務省、メディアの間に繰り広げられた三日にわたる「暗闘」には、初期占領体制下の勝者と敗者のこうした情報操作のせめぎ合いが背景にある。マッカーサーと並んだありのままの天皇の姿を国民に示すことは、戦前の神格化された天皇像を覆して民主化をすすめる占領統治者のGHQが、日本の国民世論の誘導へ向けて要請された、喫緊の重要なイメージの統治にほかならず、天皇の威信の失墜と国民心理への影響を恐れて掲載をためらう政府や国内メディアと真正面から対立するのは必然であった。
天皇・マッカーサー会談に先立つ二日前、天皇は米紙「ニューヨーク・タイムズ」の特派員、ロバート・クラックホーンとの会見に応じた。ここでは、戦争責任問題にからんで「日米開戦に当たり、真珠湾攻撃を開始するために行った東条英機による宣戦の詔書の扱いは陛下の意思であられたか」という問いに対し、天皇は「そうした意図はなかった」と答えている。これは国際社会で広がる天皇の戦争責任追及をかわすために、真珠湾への奇襲が「東条の独断」であったことを示す天皇のメッセージを米国世論に向けて発信する意図を受けた発言といわれる。25日付の同紙に「ヒロヒト、東条に責任を押し付ける」などと報じられたこの記事は、その後に天皇の免責ともに「象徴天皇制」への道を開くことで日本の戦後を主導した米国とGHQの企図の伏線とみることができよう。
内外に広がる天皇の戦争責任追及と戦後の天皇制のありかたをめぐる決断が、GHQの占領統治の大きな懸案であったから、天皇自らの発意によるとされる二日後の米国大使館におけるマッカーサーとの会見で撮影された二人の記念写真が、その後の占領体制下でどのような政治的文脈を形成していったかは、おのずから想像できる。
公表されたこの写真が日本国民にとって、勝者の威光と敗者の悲傷をそのまま図像としたものであり、それゆえに敗戦という現実を目の当たりに示す戦後の黙示録として国民に受け止められていったことは、改めて指摘するまでもない。
その意味でこれは紛れもない〈政治的写真〉なのであるが、その一方で〈無防備〉な図像がつくる新しい物語が「象徴天皇」という戦後日本の文化シンボルの形成へ向けて、国民の眼差しを統合していったこともまた事実なのである。撮影後、同じ部屋で行われた歴史的会見がもう一人の当事者であるマッカーサーの天皇と戦後日本に対する認識に決定的な影響を与えたという意味においても、これは日本人と米国社会の双方に深い暗喩を伴って二重の歴史の痕跡を残した写真というべきであろう。

1945年9月27日の午前10時から、米国大使館の応接室でおおむね35分間にわたって行われた会見は、冒頭でフェイレイスが記念撮影をしたあと、昭和天皇とマッカーサーの二人のほかは通訳の外務次官、岡村勝蔵だけが同席した。
その内容は今日に至っても公式に発表されていないが、後年マッカーサーが書いた回顧録や奥村が遺した手記、それらの伝聞のかたちで公にされた周辺の人々の談話などによって、虚実が入り組んだやりとりが伝えられている。
敗戦間もない日本で、「現人神」と怖れられる天皇を頂いた軍部の暴走によって破産に至った国家を、占領軍の総帥として根本的に改革しょうと乗り込んだマッカーサーが、その天皇本人と日本の統治について初めて直接会話を交わした。神秘のヴェールに覆われてきた天皇自身は国際社会の一部から「戦犯」として問われ、国内でも戦争責任をめぐる論議が広がっていた。密室での35分、その二人はそこで何を話したのか。

〈モーニングに縞のズボン、トップハットという姿で、裕仁天皇は御用車のダイムラーに宮内大臣と向かい合わせに乗って、大使館に到着した。私は占領当初から、天皇の扱いを粗末にしてはならないと命令し、君主にふさわしい、あらゆる礼遇をささげることを求めていた。私は丁重に出迎え、日露戦争終結の際、私は一度天皇の父君に拝謁したことがあるという思い出話をしてさしあげた〉(『マッカーサー大戦回顧録』津島一夫訳)

帰国して退役したマッカーサーが1964年に84歳で亡くなる前の3年間を費やしてまとめたこの回顧録は、会見の時点からの長い時間の経過に伴う事実の誤認や過去への美化などによる矛盾が多く、とくに9月27日の最初の会見での天皇の発言については、今日では歴史資料としての信頼性に多くの疑問が投げかけられている。
赤坂の米国大使館で行われたこの日の会見は、天皇が到着した午前10時に始まった。同道したのは宮内大臣の石渡荘太郎、侍従長の藤田尚徳、侍従の徳大寺実厚、侍医の村山浩一、行幸主務官の筧素彦、それに通訳の奥村である。
玄関で待ち受けたマッカーサーの軍事秘書を務める准将、ボナー・フェラーズと通訳の少佐、フォービアン・バワーズの案内で、一行は居室の入り口へ案内され、マッカーサーの出迎えを受けた。待ち構えるフェイレイスが部屋の中央で記念撮影すると扉は閉ざされ、暖炉の前のソファへ移動した二人と通訳の奥村の三者だけで会見が始まった。
「回顧録」のこの場面の記述には、マッカーサーの記憶違いと思われる箇所が多い。

〈私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか、という不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろという声がかなり強くあがっていた。現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ〉

天皇の名前を筆頭に記載した戦犯リストが連合国から提出されたことはなかったし、天皇が訴追されて裁かれればゲリラ戦が起こりうるから、その時は百万の将兵が必要になるというワシントン(米連邦政府)への警告をマッカーサーが送ったのは翌年一月である。
最も大きな疑問点は、戦争責任についての天皇自身の言葉である。

〈「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした」/私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽している諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである〉

この天皇の「全責任を負う」という発言は、晩年のマッカーサーの感傷と記憶の誇張による「虚構」とする見方が、いまは有力である。
後年、作家の児島襄が月刊『文藝春秋』誌上(1975年11月号)で発表した「天皇とアメリカと太平洋戦争」は、ただ一人立ち会った通訳の奥村勝蔵の手記によっており、今日もっとも正確に両者の会話を再現したものとみられている。

〈元帥ノ案内ニテ居室中央立御。元帥其ノ向ツテ左側ニ立テバ、米国軍写真師ハ写真三葉ヲ謹写ス。/更に元帥ノ案内ニテ「ファイア・プレイス」ニ向ツテ左ノ椅子ニ陛下御着アリ、元帥ハ右側ノ同様ナル椅子ニ着席ス〉

マッカーサーは自由な態度で「実際写真屋というのは妙なもので、バチバチ撮りますが、一枚か二枚しか出てきません」と冗談をかわす余裕をのぞかせたあと、冒頭約20分間にわたってこの戦争と日本の再建についての考えを論じた。これを受けて天皇は言った。

〈コノ戦争ニツイテハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ、戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ、自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス〉

通訳の立場で詳細にこの会見を記録した奥村勝蔵の手記に、天皇の「全責任」云々の発言のくだりはない。したがって戦争責任についての「処罰も覚悟している」と天皇がこの席で述べたという後年のマッカーサー周辺の記述を裏付ける材料はない。
ただこの歴史的会見は天皇の戦争責任と戦後の天皇制の存続が大きな争点として浮かび上がっていた時期と重なり、日米開戦と真珠湾攻撃などへの関与の責任を戦犯として収監中の前首相、東条英機にすべて負わせて天皇を救済するというシナリオは、東京裁判を控えた政府や天皇周辺でも検討されていた。この文脈の下で、天皇が自らの戦争責任についてGHQとの政治的な駆け引きのなかで何らかの意思表明を試みたことは想像できるし、その言葉から天皇の高潔無私な人格にマッカーサーが感銘を受けて、戦争責任の免責と「象徴天皇制」の成立に少なくない影響をもたらしたことも、ありえた展開であろう。
その朝、米国大使館の玄関で天皇を出迎えなかったマッカーサーは、35分間の会見を終えると玄関先まで伴って御用車に乗りこむ天皇を見送った。回顧録のなかで天皇の戦争責任についての発言に「虚構」が入り込んだのは、マッカーサーがその会見で天皇から受け止めた強い印象に伴う、ある種の心の飛躍があったからではなかったか。そしてこうした会見の空気を映した冒頭の記念写真は、日本人のみならずマッカーサーと米国世論に対しても歴史の神話作用をもたらしたというべきであろう。

そこには一人の隠れた演出者が浮かび上がる。会見の朝、大使館の玄関で天皇一行を出迎えたマッカーサーの軍事秘書を務める准将、ボナー・フェラーズである。
戦前に二度も来日したことがある知日派の軍人で、ラフカディオ・ハーンの著作などを通じて深く日本文化に馴染んだ人物である。戦争中は対日心理作戦を指揮し、終戦直後にGHQの要員となってマッカーサーの片腕として来日したフェラーズは、すぐに旧知のクリスチャン教育者で恵泉女学園創立者、河井道を訪ねるなどして天皇の戦争責任と天皇制のあり方を問い、連夜にわたって最高司令官に提言を重ねた。その集成が会見直後の10月2日にマッカーサーにあてて提出された「フェラーズ覚書」である。

〈天皇に対する日本国民の態度は概して理解されていない。キリスト教徒とは異なり、日本国民は、魂を通わせる神をもっていない。彼らの天皇は、祖先の美徳を伝える民族の生ける象徴である。天皇は過ちも不正も犯すはずのない国家精神の化身である。(略)いかなる国の国民であろうと、その政府をみずから選択する固有の権利をもっているということは、米国人の基本的観念である。日本国民は、かりに彼らがそのような機会を与えられるとすれば、象徴的国家元首として天皇を選ぶであろう〉

〈大衆は、裕仁に対して格別の敬慕の念を抱いている。彼らは、天皇みずから直接国民に語りかけることによって、天皇はかつて例がないほど彼らにとって身近になると感じている。和を求める詔書は、彼らの心を喜びで満たした。彼らは天皇がけっして傀儡などではないことを知っている。また、天皇を存置しても、彼らが権利として選びうる最も自由主義的な政府の樹立を妨げることはないと考えている〉

まことに「文学的」と呼んでもいい、きわだった占領文書である。
「フェラーズは頭のいい、歯切れのいいがっちりした、そしてほんの一寸ばかりダンディな、国際人的なところを持った五十代の男、全身ぴちぴちした弾力性にはずんでいる」。当時文部省でGHQとの連絡にあたった精神医学者の神谷美恵子はそう回想する。
フェラーズの覚書が提出されてから4か月後の1946年1月25日、マッカーサーは本国政府の米国陸軍参謀総長にあてて天皇の処遇に関する最終回答を送った。

〈過去十年間に、程度はさまざまであるにせよ、天皇が日本帝国の政治上の諸決定の関与したことを示す同人の正確な行動については、明白確実な証拠は何も発見されていない。可能なかぎり徹底的に調査を行った結果、終戦時までの天皇の国事へのかかわり方は、大部分が受動的なものであり、輔弼者の進言に機械的に応じるだけのものであったという、確かな印象を得ている〉

かくして天皇の免責と新憲法のもとで象徴天皇制への移行の条件が整った。
2月、神奈川県を皮切りに天皇の戦後地方巡幸がはじまった。5月に開廷した東京裁判では、6月に入って首席検事のジョセフ・キーナンが「天皇訴追せず」を正式に言明した。
昭和天皇の侍従として終生仕えた入江相政のその頃の日記に、こんなくだりがある。

〈侍従長、次長と車で侍従長の官舎に行く。七時前にフェラーズ、その女秘書メッカ、寺崎(英成、侍従)氏、同夫人、同令嬢マリ子さん来着、牛鍋で会が始まる。はじめの中は言葉の関係でまるで御通夜のやうなものであったが、段々えらい騒ぎになり、終は脱兎の如き勢、和洋のダンスが始まったりする。終にジョーといふ運転手まで来て、実に愉快であった〉(1946年6月7日付)

隠す事の出来ない喜びと安堵が行間から伝わる。
象徴天皇制への移行が固まったのである。
連合国軍総司令官として日本の占領統治にあたったマッカーサーは1950年、朝鮮戦争を指揮する国連軍総司令官に転じたが、作戦をめぐって大統領のトルーマンと対立して解任され、帰国後は失意の晩年を過ごした。
老いた英雄にとって遠ざかる昭和天皇との35分間への回想は、一枚の記念写真の向こうに懐かしくも美しく呼び起されていったのであろう。

=この項終わり
(参考・引用文献等は連載完結時に記載します)

私の手塚治虫(11) 峯島正行

  • 2013年5月10日 13:30

戦争で鍛えられた愛の精神

手塚漫画の根底にある生命愛と反戦

手塚漫画の根底にある生命愛と反戦

修練所のしごきに耐えて

手塚の漫画を描く根本思想は,まず生きとし生けるものを愛する心である。もう一つが、反戦である。全体主義、独裁的権力によって戦争が起こされ、愛すべき多くの人や生物が殺される。

近代になって飛躍的な速さで、発達する科学、技術が、この独裁的政治勢力によって、戦争の道具にされてきて、生きるものの命が奪われてきたことが、現代の最大の問題だ。そういう状況が起きないように、心底から願う、これが手塚の漫画を描く精神の奥深く蔵されていた思想だ。

「人間ども集まれ」も、その心情で貫かれている。

手塚がこういう精神をきっちりと掴んだのは、彼自身の戦争体験から来ている。

手塚は戦争中、まだ中学上級生の頃、強制修練所に入れられた経験を、「ぼくはマンガ家」という自伝的文章の中で、以下のように書いている。

「修練所のシゴキは凄かった。畑仕事や教練はまあ我慢できるとしても、我慢ならないのはほとんど絶食に近いくらいの食事の減量だった。目はおちくぼみ、腕は鳥の脚のようになり、ものをいう元気もなくなってきた。教官だけは、どういうわけか丸々と肥え太り、元気旺盛だったので隠匿品があるのだろうと噂が立ち、とうとう教官室を襲撃しようかという計画まで企てた。しかしこれは実現しなかった。

ぼくは、こんな所から逃げ出そうと思った。しかし修練所の周囲には鉄条網が張り巡らされ、付近の地面は蟻が歩いても、足跡がつくくらいで、とても脱走はできない。

『だが俺は脱走して見せる』

『馬鹿、日本刀で切られるぞ』

『このままいたって餓死するだけだ』

ある夜、皆が寝静まるのを待って、ぼくは修練所の窓から抜け出した。ひんやりとした、おぼろ月夜だった。僕はあぶら汗を流しながら鉄条網をくぐり、足跡を消した。草をかき分けて本道へ出ると、やっとシャバへ戻った安心感がこみ上げてきた。電車に乗って,ほうほうの態でうちまでたどりついた。

ふらりと玄関を入ると、出てきた母は、腰を抜かさんばかりに驚いた。幽霊だと思ったそうである。

『腹がへった』

と、一言いうと、ぼくはへなへなとすわりこんでしまった。母は、家中から食べ物という食べ物を出してきて、ぼくに食わせてくれた。ただもうありがたかった。食糧といえば、乏しい配給だけの時代だ。おそらく家中の食物を洗いざらい食べてしまったに相違ない。

腹ができてホッと落ち着くと、また不安になってきた。母は修練所へ帰ったほうがよいという。しかたなく、また電車に乗って草深い鉄条網の中へ帰っていった。何食わぬ顔で寝てしまったので、誰にも気づかれず済んだ。」(『ぼくはマンガ 手塚治虫自伝・1』大和書房 一九八八年)

この文章は、手塚の一本気で勝ち気な性格をよくあらわしたものであるが、手塚の伝記資料を読み、このくだりにくると、私は涙がこらえきれない。彼と同年代で、学生時代に同じような経験を経ているためかも知れない。

おなじ場面を『手塚治虫物語』(伴俊男・手塚プロダクション 朝日新聞 一九八二年)という手塚の生涯を絵物語にしている文献では、ちょっと違う表現をしている。

修練所から実家に逃亡した学生は、手塚だけでなく、結構いたことになっている。逃亡を見ぬふりをして助けた仲間は、逃亡者の「土産」をあてにしていたような表現になっている。手塚の場合も、彼の母が作ってくれた蒸しパンを、旧友と分かちあって喜ぶ情景が描かれている。

単行本「人間ども集まれ!」

単行本「人間ども集まれ!」

前記の文章より、この絵物語の方が真実に近いと言えよう。

終戦間近いあのころは教育のありようも朝令暮改と言ったらいいか、上からの達しでいつのまにか制度が次々、変えられることがあった。そのため、私も手塚と同じような経験をさせられた。

昭和一九年の夏休みの前に、修練という科目が課されることになった。それは戦場へ行ったとき、困窮に耐えられる体を作るためだ、という説明だった。

私はその頃専門学校の学生だったが、週に十何時間の教練の時間のほかに、運動部の剣道部、柔道部、航空部とか、兵隊として役に立つ運動部の班に所属しなければならなかった。私は航空部のグライダー班に所属した。グライダーに乗る訓練も、毎週多摩川の河原で受けていたのである。

こうして学問をする時間がものすごく少なくなっている。その上修練という科目が付け加えられ、肉体の修練なんかさせられたら、学問どころではなくなる。学校は兵隊養成所と化していた。

ともあれ手塚さんと同様に、私たちにも修練所ゆきが通告された。訓練期間は8月の夏休み中とのこと

行く先の修練所は、千曲川の源流、甲武信岳の麓、高原列車小海線の「信濃川上」から四キロ山に入ったところにある長野県立の修練所だという。われわれは大いに喜んだ。食糧も特別に配給されるという。

学徒上がりの配属将校が指導教官として、助手二名を連れて参加、学生食堂の調理主任夫婦が付き添い、「せいぜい山の中の食品を使って旨いものを作ってやろう」と張り切った顔を見せた。

日本一高所を走るという、小海線を降り、トラックに載せられ、現地に到着。信濃川上と言えば、今日の若者にとっては レジャーのメッカみたいなところだが、当時は険しい山と、深い谷川、狭い高原の畑に桑がおい茂る寒村だった。そこに湿った冷たい空気が冷え冷えと流れていた。

宿舎も新しく修練にはいい場所には違いなかったが、なんとなくうら淋しい建物だった。

引率者から訓練生まで、期待外れのわびしい顔になった。さらに夕食時には、絶望的な気持ちに、落とされた。

村役場も長野県も宿舎を貸すだけで食料、副食物の援助は何もないということであった。われわれが持参した一日当たり二合三勺の配給米と、村から支給される普通の配給の野菜しか食うものがない、ということが分った。張り切っていた学生食堂の小父さんも手が出なかった。

翌日から手塚さんが訓練所で経験した通りの日が続く。そのあたりは穀物が高地のためにとれない。わずかばかりの雑穀やそばを、土地の百姓は貯え、それと寒冷の地でもできる馬鈴薯などを、主食にしているらしかった。

夜ひそかに仲間の学生が、村の百姓に頼みジャガイモを僅かばかりふかしてもらったり、そばの団子を作ってもらったりしてきたのを、皆で分け合って食って、飢えをしのぐ有様。

文部省の命令で横浜から訓練にきたのに、それに対応する受け入れ態勢の用意が、県からも、農林省からも届いてないのである。

或いは戦争末期で、もう学生を訓練する米さえなかったというのが実情かも知れない。

小川ほどの谷川である千曲川の水源のすんだ冷水を、すき腹に流し込みながら,つくづくと戦争を恨んだ。

戦争末期に中学や高等専門学校に学んだものは、皆同じ思いをしたのだ。手塚の戦争嫌いのもとにあるものは、終戦までの一,二年間の学生生活にある、と私は思っている。

 

焼夷弾の雨の中で

私たちは、修練という科目の訓練に行った山奥から帰ると、通年動員がかかった。通年動員とは、学校に行かず工場で働くのであるが、学生である証拠に、月に何日か学校に行って勉強することになっていた。

手塚の場合も同様であった。大阪府立北野中学の四年生は、淀川下流の三国という場所にあった、飛行機格納庫の屋根にするスレートを造る工場で働かされた。昭和二十年に入ると米軍の空襲が激しくなった。

手塚の著書『ぼくのマンガ人生』(岩波新書)から、抜粋させてもらう。

「戦争末期、淀川沿いにB29が大編隊を組んで、大阪と阪神沿線を空襲にやってきました。淀川は格好の目標で、B29大編隊は紀伊水道から上ってくると、まず淀川を見つけ淀川に沿って上がってゆきます。軍需工場に爆弾を落として、帰りに余った爆弾を淀川下流の民家などに無差別に落としてゆく」

こんな日々が続いたあと、六月の大阪大空襲へと続く。その日、見張り役として、工場の火の見やぐらの上で敵機を見守っていた。普通は警戒警報のサイレンが鳴ってから、空襲警報が鳴るのであるが、どういうわけか、この日はいきなり空襲警報が鳴り、監視塔の手塚の目にB29の編隊が、自分の方をめがけて飛んでくるのが眼に入った。空襲警報が鳴ると見張りのものは塔から降りて、防空壕に非難することになっていたが、この日はそんな暇はない、大編隊は手塚の頭上で、焼夷弾の雨を降らせた。淀川付近の工場や、民間の住宅に焼夷弾の雨が降り注いだ。

手塚は頭を抱えて空を見上げていた。敵機が手塚の頭上に来たと思ったら「キューン」という音がした。その音はごく近くに焼夷弾が落下する時の音だ。

「もう駄目だ」と観念し、監視哨の上で、うずくまった。焼夷弾は、長さが一メートルほどの小型爆弾が三十個か五十個とかにまとめられ大型爆弾となっている。そいつが落とされると、地上近くになってばらばらの小型爆弾となって降り注ぐのだった。

私は横浜の専門学校の裏山を削って造った教練場に、空襲に来たB29が去る時、残り物の焼夷弾を捨てて行った跡をみたことがあった。

広い赤土の原に、縦横約1メートルおきに、小型焼夷弾の殻が半分突き刺さったままたっているのだが、それが整然とした正確な市松模様を描いているのに驚いたことがある。

その焼夷弾の束が監視哨をすり抜けて、バラバラにばらけて落ちて行った。下の監視所の屋根の穴をいくつもあけて、焼夷弾が突き抜けて行った。忽ち火の海になった。

「ああ、自分は助かった」とその瞬間、無意識に、駆け下りた。

焼夷弾は塔の下の防空壕の屋根を突き抜け、その中で爆発をしていた。

辺りには手塚の学友は勿論、大勢の工員さんが手足しをもがれ、首をもがれ、無残な屍の山を築いている。

手塚は逆上し、一散に工場を駆け抜け、淀川の堤防に逃げたという。本能のさせる技だろう。

淀川の堤防は、空襲警報が鳴った時に避難所に指定されていた。そこに多くの人が避難してきていた。そこに敵機が何トンとういう爆弾を、その堤防をめがけて無差別に落としていった。避難した人は皆殺しだ。手塚が堤防に逃げ上ると、死骸累々、山を築いていた。淀川の河原では食糧増産だといって牛を飼っていた。

「そこへ爆弾が落ちて、人間もウシも一緒くたに死んでいる。ウシは黒こげになって煙が出ている。ビフテキみたいな臭いがぷーんと漂っています。」(『ぼくのマンガ人生』)

この辺り手塚でないと書けない表現だろう。上流にある淀川大橋にも直撃弾で破壊された。大橋の下に逃げた人々は皆死んだ。北の方を見ると、大阪、阪神間の方は真っ暗な空の下が、赤黒く光っている。「地獄だ」そう感じた。

もちろん汽車も電車も止まった。宝塚の家迄徒歩で帰らなければならない。火がボウボウ燃えている中からやってきた避難民が、阪急沿線を歩いている。その一人となって、空襲下の汚れた空気で真っ黒になった姿で歩いた。

豊中辺りに来ると、さすがに被害が及んでなかったが、腹が減って喉が渇き、歩けなくなった。道路際の民家にとびこんで

「僕大阪から歩いてきたのです。おなかがぺこぺこで歩けません。食べ物があったら下さい」

と出てきた小母さんの優しそうな顔に向かって言うと、そこにへたり込んでしまった。

「まあ学生さん、かわいそうに」

といって、大きな握り飯を作ってくれた。お茶も入れてくれた。どこの家も、1日二合三勺の配給で、食糧が窮迫している時代で、おばさんの親切が身に浸みた。その握り飯をほおばると、涙が流れた。

二,三日して、その辺も空襲に会い、その家も焼けてしまった。親切な小母さんの行方も知れなかった。

書き貯めた漫画、三千枚

その頃、手塚が家では勿論学校の授業中、動員された工場の寮で、孜々として書き貯めた二千枚か三千枚かの、漫画の原稿絵を蔵していたことは、手塚の伝記に興味のある人は皆知っていることだ。

この空襲で手塚の友人の家はあらかた焼けてしまった。

「ぼくが描き貯めた漫画の原稿を、ごっそり貸してあった友人の家もきれいさっぱり焼けてしまった。焼け跡に舞い上がった灰の中に何百枚かの丹精を込めて書いたヒゲオヤジやアセチレン・ランプたちが昇天していった。ついでだが、ヒゲオヤジ、アセチレン・ランプは、ぼくが中学生のとき、すでに作ったキャラクターなのだ。

もう国のため一身をささげる意欲を全く失ったので、それ以来、ほとんど自宅にひき籠って漫画を描いていた。たまに工場に顔出しても原料の攪拌機の後ろへ隠れていて、配給のパン一週間分を食べてしまったり、蛮唐(バンカラ)の持ってきた煙草をふかしたりする……」(『ぼくはマンガ家』)

蛮唐というのは、腕力の強い不良というか、右翼というか、要するに、番長とかガキ大将みたいなものだ。中学生の間で、幅を利かせていたらしいが、こいつが手塚の漫画を気にいって、手塚の保護者になってくれた。時々美少女の絵など描いてやると、喜んだという。

そのうちせっかく描いた漫画を誰にも見せないで置くのはもったいない、どこか発表するところは無いか、二人は相談して、工員用の便所に張ることにした。

「あそこなら教官とか、えらい奴は入ってこないぞ」

ということで一頁ずつ、トイレの壁に貼った。朝早く来て、貼り替えるのである。客が便器にしゃがんだ目の前に来るように張るのだ。これは相当長く続いた。

彼の住まいのある宝塚の近辺も空襲の洗礼を受けており、夜になると尼崎、伊丹、仁川の街に、焼夷弾の雨がまるでクス玉のから出る紙テープのように、はるかかなたに降っているのが見えた。

「僕は自分の部屋にうずたかく積まれた原稿の山を見た。三千枚近くある。色が変わって黄色くなったものや、埃を被ったもの……どうせ日の目を見ることはあるまいと思ったが、焼いてしまうのは何となくもったいない気がした。そして、八月一五日がやってきた」(『ぼくはマンガ家』)

通年動員と横浜大空襲

私は漫画以外のことは、当時、手塚とすべて同じような経験をした。先に述べたような昭和一九年の夏が終わると、通年動員で、鶴見の海べりの、化学工場に連れてゆかれた。

その工場の技師によれば、B29迎撃用のロケット戦闘機の燃料となる炸薬を製造する工場の建設が、ぼくたちの仕事だという。

「このロケット飛行機が量産されれば、B29などいくら来ても撃退できる。もう試作機がドイツから来た技術によって出来上がっている。あとは生産するだけだ」

戦後にわかったのだが、このロケット戦闘機は「秋水」と名づけられていた。だがいかに優秀な飛行機でも、これからロケットの炸薬を作るのではなく、炸薬を作る工場を作るというのでは、戦争に間に合わないではないか、と私たちは思った。もうマーシャル、カロリン群島はとうに占領され、そこにB29が配され始め、日本領空を飛んでいる。

マルロとなづけられた、このプロジェクトは、機材、運送などすべての軍需産業に優先する、君たちも頑張ってくれ、と技術者は我々に言う。

だが実際に仕事について驚いた。建設用の機材が何もない、トラック一台、起重機一台さえない、ほかはおして知るべきだ。原始的な機材で、私たちか弱い肉体の労働力で、この重大な工場をつくるというのだ。

劇薬の材料液を電気分解するために、電解槽が必要なのだが、機材がないのでこれを陶器で代用するというのだ。その陶器の電解槽が、瀬戸の陶器工場で焼いて作られたという。その電界槽が鶴見に着くのを待ったが、中部大地震で、その陶器の電解槽は全壊、シャレにもならないが、もう来ないことになった。桐生高工出の技師は仕方がないから木製で、これにピッチを縫って代用するというので、我々も驚いた。それが軍の命令ならやらざるを得ない。

電解層に、硫酸アンモニアとかいう劇薬を入れて、その両側の電極を通して電気分解すると、過酸化水素というものができる。これがロケットの炸薬なのだという。

その電極となる白金は、国民から宝石類を供出させて作られ、工場の片隅に積んであった。木製の電界槽から劇薬が漏れないようにするためのピッチを塗り、試験管を並べた冷却装置を作るというのだから、今から思えば、噴飯ものだが、私たちはその作業を強いられた。ものすごい肉体労働だった。

それでも何か月のちには、工場らしいものが出来上がった。私たちの素手で作られたようなものであった。電気を入れると、1升ほどの炸薬が出来たという。戦争の役に立つはずはない。

その上、翌日の夜中の空襲で、私たちの成果は、灰燼にきしてしまった。あまつさえ私たちの面倒をよく見てくれた、寮に泊まっていた女子事務員の何人かが犠牲になった。学生たちは皆泣いた。

考えてみればいかに軍が無能であっても、資材がないのに、こんな無駄なことがあっていいものか。私たちは手塚と同じように、虚無と絶望感にとらわれ、何もする気も失われた。

それから川崎の海岸の製鋼工場に配属になったが、ニヒルな思いで通うだけであった。そういう我々を米軍の戦闘機が、川崎駅の前で、ぐいーんと急降下して機銃掃射をしたりした。

昭和二〇年年五月二五日、その日はB29、五〇〇機と艦載一〇〇機という空前の大編隊に襲われ、真昼間、半日にして、灰燼に帰した日である。

わたしはこの日はちょうど学校に登校する日に当たっていた。その日の午前、横浜の六角橋の山の上にある専門学校に行く途中、空襲警報が鳴った。学校の門まで行くと、同級生たちが、危険だから校舎に集まっていてはいけないと、追い出されてきた。私は一瞬どうしようかと思ったが、友人の一人が「警報が解除になるまで、俺ん所にきておれ」と彼の下宿に連れて行ってくれた。

警報下でも学生は暢気なもので、窓に腰かけて、和辻哲郎かなんかについてお喋りをしていると、いきなりドドーンと焼夷弾が裏に落ちて、下宿の家が傾いた。ラジオが敵機は京浜地区に侵入しつつあり、と放送していたので暢気に構えていたのがいけなかった。

下宿のおばさんたちは、近所の防空壕にすでに避難していた。

友人と二人で律儀に、バケツに水をくんでは消火に努めていた。その時ふと気がついて、表通に私は出てみた。向こう一面真っ黒な煙を出して燃えているではないか。群衆が下宿の前を通って、神奈川工業学校の方に、逃げてゆく。私たちの学校のある山の方に逃げればいいのにと思って丘の方を見ると、群衆が駆け下りてくる。

私はあわてて友人に言った。ここでぐずぐずしていると焼け死ぬぞ、すぐ逃げよう。私は友人の布団一枚と自分の鉄兜を持ち、逃げようとすると、友人は本箱の前で躊躇してから、おもいきって西田幾太郎の『哲学の根本問題』一冊を鞄につきこんで、私と表に出た。それから、雨のように降る焼夷弾の中を、布団を笠に、群衆に押され逃げ回った。

結局気が付くと東神奈川の駅から、線路の上を逃げていた。そして線路の段差にあるところに、排水溝が流れていた。その溝の中に、腰を据えて、火の手が収まるのを待つことにした。向かいは石垣で、その上は道路である。道路の並木に馬をつないだまま、馬方が逃げたらしく、その馬が焼け死ぬ様を見せられた。私たちの周囲は逃げてきた人がいっぱいで、体中火傷しているおばあさんもいた。

ここに落ち着くまで、いかに多くの人が焼けただれ、直撃弾で倒れたのを見たことか。焦熱地獄である。空は真っ黒、四方に真っ赤な炎がメラメラ首を持ち上げている。

何時間かすると、周辺の火が収まり、命が助かったのを確認できた。

二人は、道路に這い上がり、反町の通りを歩いて、友人の下宿のほうに歩いて行った。男、女、大人、子供を問わずやたらに死体が転がっている。それをよけて歩き、下宿のあった場所に行った。幸い下宿のおばさんは無事で我々を迎えてくれた。その焼跡を見ると友人の本箱が、元のままの形で、真っ黒い炭と化していたのだった。

それから三ヶ月足らずで、八月一五日を迎えるのであるが、手塚と言い、我々と言い、戦争末期に、ものの分別が付き始めた頃、終戦迄の二年程の間に学生生活を送ったものには、共通した感覚があるのではないか。戦争反対の考えにおいても、生きる感覚においても、相通ずるものあるように、私には思えてならない。

私は手塚の書いたものを読むと、おのずから、腹のそこから、共感、同感するものが湧き上がるのを禁じ得ない。

手塚の敗戦感、戦争観に、私は自分と共通するものを、いつも感じてならない。そして手塚の作品なり、文章をよむと、そのことに感動して、涙が出てくるのである。

シャンデリアの光に感動

八月一五日の夕方、手塚は一人阪急電車に乗って大阪の街に向かった。その時の感慨を次のように書いている。

「大阪に着きました。阪急電車の駅は焼け落ちて鉄骨だけになっております。其処から阪急百貨店の下のホールを出ると、なんと阪急百貨店ホールにシャンデリアの明かりがパーッとついているのです。

それまでは灯火管制と言って、夜になると電灯を消さなければいけなかったのです。電灯を消さないまでも、まず黒いカーテンで窓を覆って、電燈にも黒いシェードをつけて、そのシェードから漏れるわずかな光で本を読んだりしたものです。(中略)

八月一五日の夜、阪急百貨店のシャンデリアがパーッとついている。外に出てみると、一面の焼野原なのに、何処に電燈が残っていたのか、こうこうと街灯がつき、ネオンまでついているのです。

『ああ、生きていてよかった』と、その時初めて思いました。ひじょうにひもじかったり、空襲などで何回か、『ああ、もう駄目だ』と思ったことがありました。しかし、八月一五日の大阪の街を見て、あと数十年は生きられるという実感がわいてきたのです。本当にうれしかった。ぼくのそれまでの人生の中で最高の体験でした。

そしてその体験を今でもありありと覚えています。それがこの四十年間、ぼくのマンガを描く支えになっています。ぼくのマンガではいろいろなものを書いていますが、基本的なテーマはそれなのです。

つまり、生きていたという感慨、生命のありがたさというようなものが、意識しなくても自然に出てしまうのです……とにかく書いているかぎりどうしても出てしまう。」(『ぼくのマンガ人生』)

「ロボット」と「原子爆弾」の発明者

ロボットという言葉を作ったカレル・チャペック

ロボットという言葉を作ったカレル・チャペック

ここに紹介した文章が手塚の中心思想であり、反戦思想もそこから出てくるのである。別の頁で次のように書く。

「『生命の尊厳』は僕の信念である。ですから、ボクの作品の中には、このテーマが繰り返し出てきます。『鉄腕アトム』がぼくの代表作と言われていて、それによって僕が未来は技術革新によって幸福を生むようなビジョンをもっているように言われ、大変迷惑しています。アトムだってよく読んで下されば、ロボット

技術をはじめとする科学技術がいかに人間性をマイナスに導くか、いかに暴走する技術が社会に矛盾引き起こすかがテーマになっていることが分って頂けると思います。しかし、残念ながら10万馬力で正義の味方というサービスだけが表面に出てしまって、メッセージが伝わりません」(『ぼくのマンガ人生』)

今、鉄腕アトムの原作をじっくり読み返してみると、子供が正義は強いと安易に考えて、ただ単に読んで楽しむ漫画ではないことがよく分る筈だ。頁と頁の間から滲み出てくものは、我々にとっても重いものなのである。

だが、鉄腕アトムにより、ロボットという言葉は誰知らぬものない言葉となり、10万馬力の原子力エネルギーということも子どもは知っている。

ところで、ロボットという言葉も原子力という言葉も、一九二〇年代から三〇年代に活躍した、チェコスロバキアの思想家であり、偉大なSF作家、カレル・チャペックが、作った言葉である。

第一次世界大戦後、一九二〇年代に台頭したヒトラーのナチスに反感を以って、ロボットを主体とした、『R.U.R』という戯曲、それに類する小説『山椒魚戦争』原子爆弾を題材にした小説『クラカチット』などの、反ファシズム文学を発表している。それらによって警鐘を鳴らしたのであるが、ファシズムはますます蔓延、ついに第二次大戦へと、すすんでしまったのである。

日本のチャペック研究家として知られる田才益男は、次のように書いている。

「カレル・チャペックは一九二〇年代の最初の数年間にその後の人類の生存に大きな影響を及ぼす二大発明をしてしまった。『ロボット』と、今一つは『原子爆弾(薬)』である。後者は人間社会に取り込まれ、人間との不可欠な関係をかろうじて保っているが、ロボットには善悪の区別がつかない。自分が上司の命令で大量生産しているものが、はたして人間のためになるものかどうかの判断は無く、命令されたことを実行するだけで、判断の主体は、まだ、依然として人間である。(『クラカチット』訳者あとがき 青土社 二〇〇八年)

そうして、チャペック自身も、理学、工業、医学等すべての「技術は要するに人類に対して途方もない物質的手段を供しますが、それを用いて善をなすか悪をなすかについては、すでに最小限の影響力さえ持っていない」と説いている。

それを用いるのが、独裁者とか独裁政権が権力の維持のためである場合が、戦争という大惨事をもたらすことになるわけである

手塚の「人間ども集まれ」の主体となる「無性人間」は医学の技術を悪用して生まれた「ロボット」だといえよう。宇宙に生きとし生けるもののために造られた「アトム」とは正反対の存在である。

次回は、チャペックの作品と手塚の作品とを比較しながら、「無性人間」の誕生から滅亡までを検討したいと思います。(つづく)

“10月31日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

  • 2013年5月8日 23:46

*1919年  パリの古美術オークションに<フランス王・アンリ4世の首>のミイラが出品された。

モンマルトルの古美術商が入手したもので鑑定では「300年ほど前に殺されたアンリ4世のもの」とされたが決め手に欠けたのか、気味悪がられたか結局、引き取り手がなかった。本物と信じて疑わない古美術商はルーヴル美術館に寄贈しようとしたが断られ、ゴシップ記事の片隅を飾っただけで終わった。

アンリ4世とはどんな人物だったかをおさらいしておく。宗教改革による戦乱に揺れる1553年に生まれ、カトリックがプロテスタントを大量虐殺した聖バルテルミの虐殺(1572)に巻き込まれたが改宗することでかろうじて難を逃れた。父のアンリ3世の暗殺で王位を継ぎブルボン朝の初代国王になった。ナントの勅令(1598)を発布してカトリックとプロテスタントの融和に努め40年続いた宗教戦争を終結させた。疲弊した国の再建を進めるなか1610年5月14日に狂信的なカトリック信者に暗殺され、サン=ドニ大聖堂に埋葬された。国民の人気が高く「大アンリ」とか「良王アンリ」と呼ばれた。

それならオークションに出されたミイラは<偽物>だったのかと思われるかもしれない。ところがフランス革命後の1793年に墓が暴かれ頭部が切断されて行方不明になった。当時なお名君として人気があったから熱烈な<信奉者>が持ち去ったものとされた。それがひょっこり出現したというわけだ。

さらに後日談がある。2010年、個人コレクションとして秘蔵されていたこのミイラが出てきた。さっそくアンリ4世の研究者や法医学者、化学者など19人の専門家チームが結成されて鑑定にあたった。ジャンヌ・ダルクのものとされていた遺体が別人と鑑定した法医学者のフィリップ・シャルリエ博士もいて最新の科学的手法が駆使された。その結果、骨格から<復顔>した顔が生前の肖像画と一致したことやデスマスクと骨格の合致、描かれた鼻のホクロや耳たぶに開けられたイヤリング穴が同じ位置に確認された。さらに当時のフランス王族に使われた遺体の防腐処理用の薬剤成分や年代鑑定、以前の暗殺未遂事件で受けた唇の傷跡があったことでアンリ4世本人のものであると確認した。

それで再度オークションに?いえいえ、今度はサン=ドニ大聖堂に戻されたようです。

*1940=昭和15年  午後10時を期して東京都内6カ所のダンスホールが閉鎖になった。

警視庁による「風紀取締強化策」として7月31日に発表され、3か月の猶予期間が満了になった。風雲急で<時局に合わぬ>とやり玉に挙がった各ダンスホールには専属のダンサーがいて踊りの相手をつとめた。1曲約3分でチケット1枚、チケットは10枚つづりで1円が相場だった。当局は最初から目をつけていたから「必ず軍国歌謡をバンド演奏すること」から始まり「出入り客の記名捺印」そしてとうとう「全面閉鎖」になった。

この日はどのホールも超満員で最後の『蛍の光』でラストダンスを踊ったあとも客はなかなか帰ろうとはしなかった。ダンサーたちもそれぞれ身の振り方を考えなければならず、他の水商売に転じたり故郷に帰ったりとさまざまだったが工場や事業所など生産の場に転じるのはまれだった。大正末年の開設以来踊り続けていたダンサーも多かったから無理からぬことだったか。

翌日からたばこの「バット」は「金鵄」に、「チェリー」は「桜」に。文部省は「絶対音感教育」を進めるという名目で、明治時代以来の「ドレミハソラシド」に替え<音名唱法>として「ハニホヘトイロハ」を採用すると発表した。この年流行った標語は「八紘一宇」「新体制・臣道実践」「南進日本」「一億一心」。

*1884=明治17年  埼玉県の秩父地方を中心とする「秩父事件」が起きた。

竹槍や鎌、斧、刀、猟銃などを武器に集まった農民数千人がいっせいに蜂起した。弾圧されて地下に潜った自由民権運動の自由党の旧党員やシンパらを核とした「秩父困民党」で「金のないのも苦にしやんすな、いまにお金が自由党」と唄いながら郡役所や警察などを次々に襲った。政府は軍隊を送って鎮圧に躍起だったが長野県の飯田や名古屋でも政府転覆計画が発覚したから政府首脳は「まるでフランス革命の前夜のようだ」と困惑した。

*1918=大正7年  一高生の川端康成は伊豆・修善寺温泉から友人に絵はがきを出した。

初めての本格的な旅行に伊豆半島を選んだ。最初の宿が修善寺温泉で「思ったほどよいところではありません」と書いたが翌日、天城峠の「トンネルの出口」で太鼓をさげた踊り子たちに出会う。伊豆大島からやってきて温泉場を巡る旅芸人の一行で、鬱屈した心を抱えて同じように旅をする<私>はそのひとり、いちばん若い薫という少女に魅かれてゆく。トンネルの闇から光のなかへ。青年が大人に脱皮する旅のひととき、ロマンチックな出会いと別れが『伊豆の踊り子』に。

“10月30日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

  • 2013年5月8日 23:36

*1938年  アメリカCBSラジオが午後9時すぎから突然<臨時ニュース>を流し始めた。

プリンストンから緊急ニュースです。ただいまニュージャージー州トレントンからの発表によりますと、今日午後8時50分に隕石と思われる巨大な炎に包まれた物体がトレントンから20マイルのグローバーズ・ミル付近の農場に落下しました。

人々はラジオに釘付けになった。するとこんどは現場からの<実況中継>に変った。

放送をお聞きの皆様、動きがありました!
物体の底の部分が開き始めました。

たった今、物体の端が外れようとしています。
てっぺんの部分がまるでネジのように回転し始めました。

大変です。みなさん、大変です。内部から何かが、何かが出てきました。
怪物です。何かを持っています。拳銃のようなものです。光線のようなものが出ています。

あっ、近づいた人に当たり炎があがりました。
悲鳴が聞こえます。炎が、炎が車に燃え広がりました。

これは当時23歳だったオーソン・ウェルズがプロデュースした『宇宙戦争』というラジオ・ドラマだった。宇宙人=火星人が地球に攻めてきたという内容で、現場からの実況中継は実際のニュース番組のように放送された。

レポーターの実況は前年に起きた大型飛行船ヒンデンブルク号の事故を泣きながら実況したアナウンサーそっくりで真に迫っていた。しかも舞台をニューヨークに移したことも<勘違い>を引き起こす原因になった。番組の途中から聴いたリスナーは<火星人が侵略してきた>と本気で信じてしまった。

ラジオ局には聴視者からの問い合わせが殺到した。電話回線がパンク寸前になってようやく局側も<異変>に気づき、何度も「これはドラマです」というスポットを入れて注意を喚起したもののリスナーの多くは家から飛び出し、避難を始めた数百台の車が道路を埋め尽くした。
警察は暴徒の襲撃に備えて番組終了後にラジオ局を緊急警備する一幕もありパニックは翌日の午後まで続いた。幸いにして1人の死者も出なかった。

この放送で一夜にして有名人になったウェルズはやがて俳優、監督、脚本家としても大御所になった。『市民ケーン』などの監督や『第三の男』、『白鯨』『パリは燃えているか』などでの存在感ある演技が特筆される。ひげ面で登場したニッカウヰスキーのテレビコマーシャルも懐かしいですねえ。

*1912=大正元年  フランスの活劇映画『ジゴマ』が治安を乱すとして上映中止に。

作家レオン・サジイの怪盗小説シリーズの映画化で、パリを舞台に変装名人の怪人ジゴマが毎回、殺人や強盗を繰り返すといういささかアブナイ作品で、いま風に言い換えると<ピカレスクロマン>か。東京・浅草の金龍館を皮切りに『探偵奇譚ジゴマ』の題名で前年11月に封切られるとたちまち大評判になり、連日超満員で劇場側は舞台両袖にまで観客を上げて対応した。日本における洋画の最初のヒットになった。

無声映画だから弁士・加藤貞利の『ジゴマ』ニックカーターの巻の前説明はこんな調子。

花のパリーかロンドンか。
月が啼いたかホトトギス。
夜な夜な荒らす怪盗は、題してジゴマの物語。
名探偵ポーリン死すとき、ニックカーターの手をしっかと握り、
御身、吾に代わりて怪盗ジゴマを捕らうべし。
これよりニックカーターの活躍となりますが、
追ってくわしきことは画面とともに説明つかまつります。

ここで弁士が笛を吹くと場内の灯りが消え、楽士席から「天国と地獄」の演奏が響きスクリーンには横文字のタイトルが・・・。

「凶賊ジゴマ」の別名もあったから少年犯罪を誘発するとか、実際にあった「ジゴマ団」による事件、泥棒を真似た「ジゴマごっこ」の流行などで世論の反対が高まってようやく警察が腰を上げた。内務省もこれを後押ししてジゴマ映画や類似映画の上映禁止通達が出された。上映禁止は全国に広まりそれまでは各警察署が行っていた映画などの興行にまで検閲が制度的にも整えられてようやくブームは下火になった。

*1921=大正10年  漏電による朝火事で東京の歌舞伎座が炎上した。

午前8時40分ころ地下の電気室から出火、純和風で総檜造り3階建ての建物は1時間以上燃え続けて焼け落ちた。この火事で3人が焼死、被害は500万円に上ると報じられた。1889=明治22年にできた第1期の外観は洋風だったのを1911=明治44年に大幅に改造し、帝国劇場に対抗して和風の外観にした。焼けたのはこの第2期歌舞伎座だった。再建工事は建物の躯体が完成したところでこんどは関東大震災に見舞われ、工事が中断したうえに敷地が震災道路の拡幅で削られそうになったが東京市長だった後藤新平の鶴の一声で中止になる一幕もあって翌13年12月にようやく完成し東京の新名所になった。