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季語道楽(14)いつのまにか「行く春」の、この不確かな感覚 坂崎重盛

  • 2013年4月25日 17:30

やはり、桜が一つの境ですね。

桜が咲く前と、散った後とで、季節感がまったく違う。今はもう、八重桜も散ってしまった。

桜が咲く前のことが、ほとんど思い出せない。こうして原稿を書いていて、無理に記憶のページを捲ってみる。

早春は来たはずだ、もちろん。だから、今、春、しかも晩春。「行く春」である。一、二カ月前、ぼくはどう生きていたのだろう。何を見ていたのだろう。四月に出る本のゲラのチェックに追いまくられていたとはいえ……。

そういえば、人の家の塀から、人を招くようにユキヤナギの白い花がゆれていた。

二階の窓にふとんが干され、春の陽の中にコブシの白い花。

アスファルトの巾六メーター道路脇のU字溝に沿って、ツクシが数本生えていた。歩いていて、それに気づいた人は何人いただろうか。

アスファルトの道路の隅、U字溝脇の、ほんの狭いスペースにスギナとツクシが。なぜか小石の散ったようなところによくツクシは生える。ツクシん坊を見つけると誰でも、ちょっと嬉しくなるのでは。

アスファルトの道路の隅、U字溝脇の、ほんの狭いスペースにスギナとツクシが。なぜか小石の散ったようなところによくツクシは生える。ツクシん坊を見つけると誰でも、ちょっと嬉しくなるのでは。

初夏のような暑い日があったかと思うと、冬に逆戻り。突風も吹けば、豪雨にも見舞われる。別に今年に限ったことではないのだろうが……。初唐の詩人・劉廷芝の、

「年々歳々花相似たり

年々歳々人同じからず」

また、井伏鱒二の、

「花に嵐のたとえもあるぞ

さよならだけが人生だ」

あるいはT・S・エリオットでしたっけ、

「春はもっとも残酷な季節だ」

こちらは、わが邦の梶井基次郎の、

「桜の樹の下には屍体が埋まってゐる!」

といったフレーズが頭の中を横ぎってゆく。

春は、浮かれる一方、凶事の予感がある。

いや、春は、凶事の予感があるから、浮かれるのか。

歳時記を手にすることは多いのだが「○○忌」の項は、ほとんど見ない。句を作ったこともない。いや、一回あったことを思いだした。自分の本の帯裏に、

「志ん生忌昼酔う人の浮沈(うきしずみ)」

といった句を添えたことがある。

これとても、なにも「志ん生忌」にする必然性はなく「葉桜や」でも「藤の花」でもよかったのですが、本の奥付の刊行日が、古今亭志ん生の命日に近かったのと、「昼酔う人」が、この噺家を連想させたので、テキトーに上五に据えた次第。じつに、いいかげんな態度です。

ということで、今回は春の季節に逝った人々の名を思い起こしてみたい。

先ほど記した「行く春」や、「春愁」といった気分が、そんな気にさせたのかもしれない。歳時記を開く。

角川書店編の『新版俳句歳時記』(昭和46年初版)では「行事」の項の末尾に忌事関連の季語が列記されている。

「西行忌」「利休忌」「其角忌」「梅若忌」「人麿忌」「茂吉忌」「鳴雪忌」「三鬼忌」「虚子忌」「啄木忌」……。

なるほどなぁ、こうして改めて見ると錚々たるラインナップ。

「梅若忌」「人麿忌」「西行忌」は、かなりいにしえのことがらではあります。

「梅若忌」はもともと梅若伝説ですよね。謡曲「隅田川」。向島の北墨堤には梅若伝説に因む木母寺がある。今は、四月十五日には梅若祭が開かれる。

梅若忌日もくれがちの鼓かな     飯田蛇笏

ビルの前にモクレンが咲き誇っています。高層ビルの量感に紫モクレンは負けていない。

ビルの前にモクレンが咲き誇っています。高層ビルの量感に紫モクレンは負けていない。

人麿(柿本)だって、相当昔の人、万葉集の歌人ですから、高校で「東野の野にかげろひの立つ見えて返り見すれば月傾きぬ」などといった歌を憶えさせられました。

灯ともればやさしき湖や人麿忌     藤田湘子

この一句、一時、話題となった梅原猛の『水辺の歌──柿本人麿論』を思い起させます。

西行の死は彼自身の歌によって強く人の記憶に残った。例の「願わくば花の下にて春死なむ この如月の望月のころ」と歌って、実際、この季節に死に至った。

つぼみなる花かぞふべし西行忌     五十崎古郷

江戸の俳人・其角の句には理解に手を焼く難句が少なくないが、明治以後活躍した鳴雪、虚子、三鬼となると、グッと身近な存在に思えてくる。

それぞれの忌を読んだ句を見てみよう。

花の戸や其角を祭る絵蠟燭       岡野知十

なるほど、絵蠟燭に江戸の華やぎが感じとれます。

子規知らぬコカコーラ飲む鳴雪忌    秋元不死男

そうか、子規はコカコーラを知らずに命を終えたのか。子規より二世代若い高村光太郎の浅草の牛鍋の「米久」の詩にはコカコーラが出てくるけど。

その子規の「ホトトギス」を継いだ俳壇のドン・虚子の命日は、いかにもその存在にふさわしく、釈尊の誕生した日と同じ四月8日。「仏生会・花祭」の日である。

墓前うらら弟子等高声虚子忌かな    山口青邨

師がエネルギッシュなら、その忌に集う弟子たちも、ということか。「弟子等高声」にチラッと皮肉を感じるのはぼくだけだろうか。

西東三鬼も春に死すか、しかも四月一日。エイプリルフールの日だ。

水枕ガバリと寒い海がある

おそるべき君等の乳房夏来る

など、少しでも俳句の世界を覗いた人なら、まず知っている有名な句がある。

釘買って出る百貨店西東忌      三橋敏雄

空地に咲いたポピー。このポピーという花も、種を飛ばし、ほんのちょっとした土のあるところにも可憐な花を咲かせます。春の風にゆれるポピーは人の心をくすぐりますね。(看板は面白いのでわざと入れました)

空地に咲いたポピー。このポピーという花も、種を飛ばし、ほんのちょっとした土のあるところにも可憐な花を咲かせます。春の風にゆれるポピーは人の心をくすぐりますね。(看板は面白いのでわざと入れました)

茂吉忌、啄木忌の例句も見てみよう。

えむぼたん一つ怠けて茂吉の忌    平畑静塔

うーん、いかにも茂吉の雰囲気。「えむぼたん」はもちろん、ズボンの前のMボタン。ボーヨーとした、あの風姿と、老いらくの恋が思い出される。

啄木はといえば、上京はしたもの、その生活は失意の日々となった。

靴裏に都会は固し啄木忌       秋元不死男

ところで、もう一冊の文庫版歳時記を手に取る。角川学芸出版編『俳句歳時記』(第四版・増補 平成23年刊)をチェックすると、あることに気づかされる。忌事の項で新しい人物が登場しているのだ。これだから歳時記は買いたして何種も持っていたほうがいい。

これまた崖の下のちょっとしたスペースに藤の花房がたわわに。物干し棹で支えているのが不粋の粋というものでしょう。(鉄柵のシートはわざとフレームに入れました。生活感があって面白いので)

これまた崖の下のちょっとしたスペースに藤の花房がたわわに。物干し棹で支えているのが不粋の粋というものでしょう。(鉄柵のシートはわざとフレームに入れました。生活感があって面白いので)

新たに歳時記に登場、季語になったその人とは、永井荷風と寺山修司。ラインダンスの太ももが目に浮かぶ。

レッスンの脚よくあがる荷風の忌    中原道夫

いかにも、ですね。

寺山忌の方は、

青空に染めきらぬかもめ修司の忌    遠藤若狭

なるほど、浅川マキの、あのハスキーな歌声を思い出しました。

その人の死も季語ともなれば、どこか親しげな気持ちが湧くのでしょうか。ところで昨日、今日は四月も下旬というのに都心でも朝は五、六度の冷え込み。季節感が狂います。いよいよ「今年の春」の記憶が混乱する。

ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 1 柴崎信三

  • 2013年4月20日 02:04

文芸、美術、写真、建築、映画などを通してあらわれた〈日本の図像〉にまつわる、小さな物語を読み解いてみたい。〈日本〉という場所をめぐって繰り広げられたあこがれや屈折など、一世紀の表象のたたかいはグローバリゼーションの下のこの国のいまに重なる。〈日本〉はみずからをどのように伝え、それが世界にどのように受け止められたのか。〈ジャパネスク〉の表現を通して、20世紀のこの国の人々の隠された風景に光をあてる。
〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

1 〈望郷〉について

モンパルナスの光と影

モンパルナスの藤田嗣治を囲む日本人画家たち(1923年)

モンパルナスの藤田嗣治を囲む日本人画家たち(1923年)

パリに住む美術プロデュサーのヘレン・ザーディは2011年春、サントノーレ通りの画廊で、埋もれていたベル・エポックの画家、板東敏雄の個展を開いた。おそらく没してからのちのパリで初めてのこの画家の個展である。板東は「エコール・ド・パリの寵児」と呼ばれた藤田嗣治とともに同じ時代を異郷に生きた日本人画家のひとりだが、いまはその作品はもちろん、板東という名前自体を知る人も、おそらく少なかろう。
留学した東京芸大で日本美術を学んだヘレンは、美術品競売会社のサザビーズで多くの作品の流通にかかわりながら、フランスのこの時代に生きた日本人画家の作品や消息を訪ねてきた。そのなかで出会ったのが板東敏雄という画家の境涯と作品である。

「〈寵児〉となった藤田の周辺にはモジリアニやパスキンといった、1920年代を中心に世界から集まったエコール・ド・パリの画家たちがいましたが、同じように藤田の後を追って日本からやってきたたくさんの〈小さなフジタたち〉がいました。そのなかでも板東は作品的にも、実生活の面でもきわめて藤田に近い存在だったといえるでしょう」

いまはほとんど知られていない〈Bando〉の名前は、国や時代を超えて世界の芸術家を網羅した美術辞典とされている「べネジット」で調べると小さな記述があった。それをたよりに調べてみると、フランス人の未亡人と娘がパリにいることがわかった。所在を訪ねあてた1994年、晩年の未亡人の手元に200点ほどの作品と、板東が遺した戦間期から第二次大戦後にかけた日記が残されているのがわかり、その記憶を聞きとってきたのである。
渡仏して「乳白色の肌」の裸体画で脚光を浴びる藤田の影に寄り添うように生きた板東の作品は、静物や風景、犬などの小動物を繊細で静謐な筆触で描いたものが多い。藤田を売り出したシェロン画廊と契約して日本人画家としての一定の評価を得ながら、板東はふとしたすれ違いから藤田と決別して、パリで孤独な画業を続けた。フランス人女性と結ばれて娘が生まれ、日本が敵国となった戦時下もフランスにとどまった。1973年にパリの自宅で階段から転落して78歳の生涯を閉じるまで、ついに帰国することはなかった。

パリの板東の若い日    「ガレの自宅の美しい眺め」        「子犬と子猫のいる自画像」 =いずれも「Toshio Bando 板東敏雄(1895-1973)」から
(左)パリの板東の若い日    (中央)「ガレの自宅の美しい眺め」    (右)「子犬と子猫のいる自画像」
〈Toshio Bando 板東敏雄 (1895-1973)〉(Saint Honoré Art Consulting,2011)から

ヘレンは板東の自画像のダンディで孤高なたたずまいが伝える、作品の独特の静けさに惹かれた。その一見平穏な境涯に浮かび上がる藤田との離別は、パリに埋もれたこの画家の大きな転機であったろう。海老原喜之助、岡鹿之助、長谷川路可、小柳正といった、藤田の周辺に集った若い日本人の画家たちのなかでも、板東はこの「エコール・ド・パリの寵児」となる巨匠ときわめて親密なかかわりをもった一人であったからである。
1895(明治28)年に徳島県で生まれた板東は、上京して川端画学校で藤島武二に師事した。23歳で文展(文部省美術展覧会)に入選したのち1922年にパリへ渡った。
フランスの土を踏んだその足ですぐに画学校で同期だった上山二郎を訪ねている。「日記」には渡仏した板東が上山の紹介で藤田と出会った場面がある。作品を見ての帰り道、すでに日本人の留学生たちから「先生」と呼ばれていた藤田の作品を「下手だ」と批判して上山にたしなめられ、それをきっかけにして始まった藤田との交流は、10歳ほどの世代の隔たりを超えて急速に深まった。当時の藤田の恋人だった伝説のモデル、キキを交えて頻繁に食卓を囲み、アトリエを訪ね合って時間をともにする。遠く日本からやってきた若い画家たちのモンパルナスの青春は、燦々と輝いてことであろう。
藤田の名声はますます高まって1925年にはレジオン・ドヌール勲章を受章するが、地方へ一緒に旅をするなど親密なかかわりを深めていた板東との関係は、そのころある事故をきっかけに暗転して離別に向かう。1924年、郊外で藤田を後ろに乗せた板東のオートバイが事故を起こし、藤田が脚にけがを負って病院に収容された。以来二人は不仲となり、藤田は右岸パッシーに転居、板東もパリの郊外へ住まいを移して袂を分かつのである。
それにしても、この離反はいささか唐突である。何があったのだろうか。

「板東は藤田のモデルのキキを通じて写真家のマン・レイとも懇意になり、ポートレートも撮ってもらっています。板東が撮ったキキの写真や彼女からの手紙、キキをモデルにした裸婦像も数点残されています。藤田との付き合いのなかで、作品への影響とともにキキやマン・レイとのかかわりが深まっていったようです。さらに当時藤田と不仲になっていた妻のフェルナンド・バレーとの関係も影を落としているようです。のちに藤田が再婚するユキからも、板東が嫉妬された形跡がうかがえます」

年上のモデルだったフェルナンド・バレーは、無名のころの藤田の苦しい生活を支えた。しかし藤田の名が高まるにつれてそのうるわしい男女の関係は崩壊する。バレーはやはり藤田の周辺にいた日本人画家の小柳正と不倫関係に陥り、藤田も傷心をいやすように、シャンゼリゼで浮名を流す文学少女のユキに心を移してゆく。そんな修羅場のただなかで起きたオートバイ事故は、男女関係が絡んだ互いの「才能」をめぐるゲームに発展して、板東と藤田の間に抜き差しならない対立をよびおこしたのだろうか。
「才能」をめぐるライバル関係の深まりが、異郷の二人を引き裂いたのではないか、とヘレンがみるのは、当時のパリの新聞には板東の作品を絶賛して「フジタのライバル」と見なすような記事が散見されるからである。
渡仏して間もない時期の板東の作品には藤田の影響が色濃く残されているものの、やがてそのミニアチュア(細密画)風の画面は独特の素材と色調によって「Bandoの世界」が形作られていく。

〈ここでは藤田と板東の絵を比較するつもりはない。しかし、板東は日欧美術界に第二の段階を築く才能を秘めているようだ。板東はデッサン画家というよりは本格画家としての素質を持っている。藤田風ではなく、被写体を忠実に描いている。ヴォリューム感を大切にして、三次元の世界へ到達している。自分のアイデンティティーを失うことなく、筆触はほとんど欧風である。超現実主義的な才能とともに、描かれた帽子の藁や婦人のケープの毛糸、陶器の冷たい硬さなど、完璧なほどの素材感がうかがえる〉

当時、有力だった評論家のアンドレ・ワルノが《アヴェニル》紙上に書いたこうした記事を通して、ヘレンは板東が当時パリの日本人画家のなかに置かれた立場を想像する。
板東は藤田と出会った1922年から1929年までの間に、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダン、サロン・デュ・チュルリーなどに出品し、ワルノをはじめとするフランスの画壇の周辺ばかりでなく、イタリアやベルギー、米国でもその画風に注目する評論家があらわれた。藤田と袂を分かってから1931年まではシェロン画廊と契約し、200点ほどの作品が売られているのをみれば、一定の評価を得た日本人画家であったのだが、それ以降も作品に「寵児」である藤田との対比が終生にわたってつきまとったことが、板東の運命を大きく動かしていったことは否めない。
結局、藤田とその恋人のキキ、キキの恋人のマン・レイ、そして藤田の前妻のフェルナド・バレーと後妻となるユキといった、「エコール・ド・パリの寵児」の周辺の入り組んだ人間模様の渦のなかで板東が暮らしたのは、渡仏した年から2年余りという短い時間であった。その後、郊外のピエルフィットの田園に移り住んだのちも板東は画業を続けたが、1929年に故郷の徳島から父の死が伝えられ、その二年後に後ろ盾となってきた画商のシェロンが世を去ったことは、大きな痛手であったろう。
一方のそのころの藤田はといえば、一世を風靡した「乳白色の肌」の画布に大きな喝采が寄せられ、私生活の混乱を抱えながら「エコール・ド・パリの寵児」は絶頂期にあった。
木綿貿易で巨財をなした近江商人の孫で、大戦後の好景気を背景にその惜しみない散財から当時パリの社交界で〈バロン〉(男爵)と呼ばれた薩摩治郎八による巨額の資金提供によって、パリの大学国際都市に日本館が華々しく開館したのは世界恐慌が見舞う1929年の5月であった。藤田と離別した板東が祖国から伝えられた父の死で失意に沈んでいた年である。首相のポアンカレ以下、政府首脳や作曲家のモーリス・ラヴェルら華やかな招待客を前にして、パリ日本館のホールの正面をパトロンの薩摩が描かせた藤田の大作「欧人日本へ渡来の図」が飾った。
蕩尽して戦後帰国した〈バロン〉は晩年、当時を振り返った自伝のなかで、藤田を売り出したシェロン画廊の飾り窓に板東の作品が並べて展示されていた情景を回想して、その才能を惜しみながら記憶を書き遺している。

〈板東敏雄は美術評論家として権威的なアカデミー・コンクール会員レオ・ラルギュから現代のシャルダンと買われた。ミニチュア(ママ)風画風の静物画家で、若し藤田派なる一種のアカデミーが成立していたとしたら、その第一人者となるべき人物だった。重厚な性格で、細密な静物を藤田風に描き続けていた。彼は現在でもパッシーの画室で克明な画風を続けている〉(『せ・し・ぼん』)

板東が遺した「日記」には、藤田と決別して田舎のピエルフィッテに退いた板東を海老原喜之助が訪ねて来る場面がある。

「ようやく手に入れたハムを切って歓待しようとするのですが、おなかをすかした海老原がなけなしのハムをほとんど一人で食べてしまった、とあります。モンパルナスの仲間たちと別れて田舎に移り住みながら、板東は1938年に開かれた第一回在仏日本人美術家展には参加していて、その記念写真には藤田たちと一緒に映った姿があります。孤独でゆとりのない暮らしのなかで、板東にとって絵を描くことは表現への情熱を持ち続けることであるとともに、自らの暮らしを支えることでもあったでしょう」

ヘレンはそこに、藤田の影で異郷に生き続けた日本人画家のあらわな寂しさを見る。

板東は犬や鳥などの小さな動物を愛した。住みついた田舎町の獣医師のところへ通って繊細な動物画を数多く描いた。その縁で獣医師の娘のマリー・ユーゼニ・ネルシーと結ばれ、第二次大戦が始まってからも帰国することなくフランスの片隅で家族とともに暮らした。

日本が第二次大戦の敵国となって戦火が激しくなると、フランスを去って祖国へ舞い戻った藤田が戦争画を積極的に手がけて、戦争協力の指導的立場に立ったことはよく知られている。戦後その立場を問われて祖国を追われた藤田は再びフランスへ戻って帰化し、カトリックの洗礼を受けた後、望郷と無念の思いに引き裂かれながら1968年に没している。
パリの近郊で家族とともに過ごしながら、板東もひっそりと動物や風景や静物を描いて異郷の戦後を生きた。晩年は病弱ではあったが、ピアノ教師の妻の支えによって同じ画家の道を選んだ娘のキミエの個展の開催に力を注いだ。しかし同じフランスの地に戦後を過ごしながら、藤田と再びまみえることはおそらくなかったであろう。
ヘレンは晩年の板東の未亡人、マリーからこんな話を聞いている。

「板東が亡くなってからまもなく、夢のなかに現れた板東が〈里帰りをしてくる〉といっており、一週間後に再び見た夢では〈帰って来たよ〉と嬉しそうに微笑んでいた、というのです。その夢をみて彼女は安心したといっていました」

藤田嗣治という、戦争を挟んで西欧と向き合った〈日本〉の写し鏡のような巨匠の褒貶の影で、異郷に生きた一人の画家が終生抱えた〈望郷〉の心の痛ましさを考える。
繊細で、孤独で、それでいてどこか素朴な温かさを伝える動物や静物の佇まい。それはついに日本へ戻ることなくフランスに生涯を閉じた板東敏雄が〈祖国〉へ寄せた、遠い祈りのようにもみえる。                          (この項終わり)

池内 紀の旅みやげ(28)値切り方─新潟県塩沢町

  • 2013年4月16日 17:49

越後の魚沼地方では「雪季市(せっきいち)」という。雪の多いところなので雪中に催されるが春の祭礼であって、長い冬の終わりを意味している。昔はあちこちで開かれたが、現在は塩沢の一宮神社のものが、ほとんど唯一だそうだ。

三月のその日を毎年のようにこころ待ちにしていたのに、なぜか用事とかさなって見送りにしてきた。やっと念願かなった今年二〇一三年、お昼前に市の立つ一宮神社にやってきた。道路わきに盛り上げた雪が三メートルちかい壁になっている。東京ではすっかり春の陽気なのに、越後では有名な川端康成の小説のいうとおり、トンネルを抜けると「雪国」だった。いかにも一面の雪景色だが、空気はほのあたたかく、雪そのものもゆるんだ感じで、水路を音をたてて水が走っている。

参道の両側に藁細工、竹細工、木工品、金物、カマやクワなどの農具、包丁などの店ができている。店といっても雪の上にぢかに品物を並べたのもあれば、即席の台をかまえたのもある。以前は駅までの道路全部が市になったというが、今は伝統的な雪季市にあたるのは、正面参道とその入口付近だけで、ほかは催しごとにおなじみの焼き鳥、風船、植木などの露店ばかり。

「一宮神社御祭禮 氏子一同」

大きなノボリが勇壮だ。極彩色の提灯が白い雪との対比で、なおのことはなやかである。拝殿の格子天井の一つ一つが絵になっていていかなる絵師の手になるのか、絵柄、色合いとも、なかなか見ごたえがある。縁起物や歴史のエピソードをあらわしているようだが、真上なので首を九十度折らなくてはならず、それに参拝人がぶつかってきて、じっくりながめるわけにいかない。

新潟県の塩沢町にある一宮神社の拝殿の天井絵。誰が描いたものか見事な絵柄です。

新潟県の塩沢町にある一宮神社の拝殿の天井絵。誰が描いたものか見事な絵柄です。

市の並びにもどってきて気がついたが、商う品物はあっても値札がない。もとよりバーコードがついているわけはない。客はまず竹籠なら竹籠、包丁なら包丁を手にとって、ひとしきり検分し、やおら値段を聞く。それから改めて手の品を吟味する。大きさ、重さ、持ちぐあい、手にしたときの感じ、値段とつり合うかどうか。本来はそれから値切りにかかった。二度、三度やりとりなり掛け引きがあって、双方が納得すれば売買が成立。そんなふうに聞いてきたが、値切るのが売買の習わしから姿を消して久しいのだ。若い人は値切りそのものをほとんど知らない。わずかに体験して知っている人も、やりとりの呼吸を忘れてしまった。だから品物をとり換えて、順に値を聞くだけで値切るまでに至らない。

もともとは農家の副業だった。長い冬に囲炉裏端で藁仕事をしたり、土間で竹を編んだ。手づくりの日常品を持ち寄り、物々交換したのがはじまりだったのではなかろうか。それが買い手売り手に分かれる露店市になった。売り手は作り手でもあって、材料は山などから切り出して揃え、水につけたり、たたいたり、家中で用意した.工場生産とちがって、材料費、労賃その他、いたって曖昧である。単純に原価計算して利益上のせというふうにはいかない。

それに商売は本来、客との対応のなかで値段がきまるものなのだ。長年のおなじみさん、身内や縁者、日ごろお世話になっている人、あるいは買い物上手……売り手は即座にそのあたりを勘案する。一日の時間によっても値が上下するもので、幸先がいい幕開けの客は、ドンと値引きしたり、モノ知らずと見ると利益に色をつける。売れ残るよりも売りつくすほうがいいので、一日の終わりは一挙に半値に落としたりもするだろう。市には経済の原初的形態が残っていた。

世才を全身に詰め込んだようなオバさんが、藁のむしろを持ち上げて製法を訊いている。魚沼弁で、よくわからないが、縁側の敷物にしたいらしい。織り方、藁の締めぐあい、光沢、手ざわり。売り手はタドンのように色の黒い人で、家代々のやり方で編んでいる。説明の途中に、やおらオバさんが値段をたずねた。意表をつかれたように売り手が値を言うと、オバさんは黙ってうなずいている。

「意表をつかれた」と思ったのは、こちらの思いすごしで、そのあたりも勘定に入れていたのかもしれない。むしろを受け取ると、タドンは放るように元のところにもどした。敷き物になりそうなのは、それ一点きりで、あとは藁袋か小さな細工物である。タドンおやじはつまらなさそうにソッポを向いている。

一宮神社の雪季市で「さるぼぼ」を売っていた。昔のお守りみたいなものかしら?

一宮神社の雪季市で「さるぼぼ」を売っていた。昔のお守りみたいなものかしら?

雪の上にザルばかり並べた人。「ぬか釜」といって、ストーブの胴だけのような金物にお釜がのっている。たきだしの道具だろう。「さるぼぼ」とは何だろう? 包丁を並べた人によると、作っていた人が亡くなって、売りつくすとおしまいだそうだ。非売品というのもまじっている。これ一つなので売るわけにいかない。売れないものをわざわざ並べているのも、商売のコツかもしれない。先ほどのオバさんが横手で包丁を目の上にかざしている。

しばらくまわりをひやかしてから藁細工にもどってくると、例のオバさんがいた。売買が成立したようで、万札を出し、釣を受け取っている。それによると先刻より二割方、値切ったようだ。買わないそぶりで、いちど離れるのも掛け引きだったのだろう。タドンのオジさんはむしろをきちんと巻いて、飾り紐でゆわえている。ボヤき口調だが、本心かどうかはわからない。大きな一点モノがさばけて、内心はしめしめだったのかもしれない。

【今回のアクセス:JR上越線塩沢駅より徒歩十五分。毎年、三月十二日と日が決まっている。】

私の手塚治虫(10) 峯島正行

  • 2013年4月8日 21:51

「人間ども集まれ」の完結

「人間ども集まれ!」表紙

「人間ども集まれ!」表紙

  
漫画集団の筆法
 
手塚治虫は成人漫画の作成には、彼のいわゆる、シチュエイション・マンガ手法を、多用したということを、前回、詳しく述べた。
手塚は成人漫画を描く場合、もう一つの特徴ある手法を併用した。それは手塚においては従来の少年少女向きの作品と違った画風と表現法を用いたという点である。
 その画法を以って、「タダノブ」「人間ども集まれ」「上を下へのジレッタ」等の作品を描いて貰った。
手塚は講談社版、手塚治虫漫画全集の「人間ども集まれ」(二)の「あとがき」において、次のように述べている。少し長いが、成人漫画についてのべることが少ない手塚が、重要な事を言っているので、そのまま引用する。
「そのころの週刊漫画サンデーは今みたいな劇画誌ではなく、漫画集団の作品を中心としたユウモア・ナンセンスものの専門誌でありました。
(成人漫画を)なぜこういう画風でこれらの作品をかいたか、という点については、たしかに漫画集団の人たちの画風の影響をうけていることは事実ですけれども、何よりも、それまでの僕の漫画の画風に限界を感じていたからです.子どもむけ、あかぬけしない、ごちゃごちゃしたペンタッチから、抜け出したいと思っていたからです。
それが成功したかしないかは別として、手塚治虫の漫画にしては、どうもあらけずりな、かきなぐりのようなペンタッチである、と批判もされたりしました。
漫画家もだんだん年をとっていくと、若い時のようなこまかな線がなかなかかけなくなるといいます。ぼくの場合、たしかに目が悪いせいもあって、細かいペンタッチには次第に苦痛を感じてきたわけで、この「人間ども集まれ!」や「フウスケ・シリーズ」のような書き方は、たいへん、気をはらずにかくことができました。ただ、たくさんの子供むけの連載漫画をかかえているなかに、ひとつやふたつこのような画風を変えて書くと、どうしても劇画風のペンタッチがまぎれこみます。「人間ども集まれ!」にも、そんなごたごたした部分があちこちにでています。」

これはよく、手塚の成人漫画の画風をよく表した言葉といえよう。
漫画集団の漫画の画風は、それぞれ漫画家個人によって、個性は強く持っているものの、共通した画風とムードをもっていたことは確かであった。これは集団発足して以来、かれらが努力して作り上げた、「絵の筆法」である。
 ポンチ絵を滅ぼす

漫画集団が、誕生する前の漫画家は、日本画家が内職に書く場合とか、或いは日本画家から、漫画家に転職した人も多かった。
「時事新報」の専属漫画家として有名だった北沢楽天の漫画を見ても、風刺を効かした「本画」であるというべきものだろう。今日的感覚からいうと「漫画」とは違う。
また近藤日出造や杉浦幸雄や横山隆一を育てた、近代漫画の親ともいうべき岡本一平でさえ、最初から漫画家たらんと志したわけではなかった。初めは夏目漱石の小説の挿絵を描くために、漱石の推薦で朝日新聞社に入社し、その後漱石の漫文の挿絵を描き、これを漱石が絶賛し、その後押しで漫画を描くようになったわけである。
この二人の大家のほかに多くの漫画家が生まれたが、総じて、漫画家たらんとして、漫画家になった人は少ない。多くは本画家のなれの果て、といった感じの人が多かった。その作品も人物や事物を茶化して、滑稽に描くという、感じのものが多かった。それは漫画の笑いとは異なるものと言えよう。

そして総じて、当時の漫画の役目は、ジャーナリズムの脇役、主役の添え物、飾りのような役割しか与えられなかった。
当時のジャーナリズムの主役というか、主流というか、その役目は、新聞であった。雑誌や、その他の出版物においても漫画は使用されることがあったが、いつも添え物の役しか与えられなかった。漫画はその新聞、その他の脇役であり、埋め草だったのだ。
そのためだろうか,明治から大正、昭和に入ってまで、彼らはジャーナリズムからも、蔑まれた存在であった。
その絵はポンチ絵と呼ばれた。その語源は、イギリスの漫画雑誌「パンチ」に由来するといわれるが、その辺を詮索していると、また時間も手数もかかるので、割愛しておくが、「お前の顔はポンチ絵みたいだ」ということは、相手を侮辱したことだった。
今日「君の顔はブラックジャックに似ている」あるいは「君の子供はアトムに似ているね」というのとでは、意味が正反対であったのだ。
たしか飯沢匡が伝えていたことだったと思うが、昭和に入ってから、ある日、編集室に伝言板の黒板に、「本日何時、ポンチ絵来る予定」と書いてあったという。
つまり記事のカットに漫画を頼みたい記者とか、漫画探法などの記事を企画している記者など、漫画家に用のある記者のための伝達であったのである。電話が自由に使える今日と違って、電話の普及が進んでない時代らしい話だとしても、岡本一平という有名漫画家さえ、ポンチなどと、黒板に書かれたりすることがあったということである。
明治の小説に、あいつのポンチ絵をかいてやった、などという表現があるが、これはたとえ冗談にそう言ったとしても、相手を侮蔑した表現であった。「漫画で似顔を書いてあげよう」という現在の言葉とは、まったく意味が違うのである。

ポンチ絵的侮蔑語が亡くなったのは、漫画集団が、ジャーナリズムの人気者になって以後のことだろう。しかしポンチ絵的侮蔑は、なかなか消えなかった。
西川辰美がよく言っていた。「戦前のことですがね。国勢調査があるでしょう。役所から調査用紙が配られてきて、それに家族のことを書きこむのですが、職業欄という枠もあるのです。そこに八百屋とか大工とか書くのですが、その用紙について来る職業分類には、漫画家という職業はないんです。
そこで役所に何と書いてよいのかと問い合わせると、こっちの仕事の説明を聞いた後、そういう仕事なら「画工」とでもしておいたら、という返事だった。
つまり漫画家という職業はなかったのですよ。
 
そう言う状態から、漫画家を堂々たる文化人の職業として、世間にも、お役所にもみとめさせたのは、近藤さんや横山さん達なんですよ。つまり漫画集団の漫画が世間の人気を集め、文化的役割を果たしたことによってなのですよ」
と西川は言っていたのである。

 モダニズムの先端をゆく

昭和七年頃の近藤日出造の作品 ガルフォ・ファン シネマ館の前で、彼を待つ彼女です

昭和七年頃の近藤日出造の作品 ガルフォ・ファン シネマ館の前で、彼を待つ彼女です

西川の言はともあれ、昭和七年、発足した漫画集団は、すくなくとも、ポンチ絵的な感覚を一掃したのであった。彼らの絵は、今までの筆を使って描いた日本画的な漫画に対して、ペンとインキによって、欧米のナンセンス漫画に見られるよう細い単純な線画による描写に、一変させたのである。しかもケント紙という真っ白な用紙に描いたのである。それによって、絵の雰囲気が一変したのである。   
そして、画の中では、描く対象をできるだけ単純化し、その形態は一本の線で描き出すという手法をもってしたので、当時の読者には、たいへん新鮮に見えたに相違ない。
背景など必要限度しか描かない。なくてすめば最初から書かない。
そして描く内容は、人間生活をしている中で、思わず笑いたくなる材料を、タイミングよくとらえて、一目で読者を笑わすという手法であり、また人間生活の空間の現象、つまり国家の政治、経済から、朝起きて朝飯を食い電車にのって通勤する、日常茶飯事まで、すべてを同一線上において、近代的批評精神で風刺し、ユウモア化して見せる、これが漫画集団が始めた日本のナンセンス漫画の手法であった。つまりペンをつかった短純な線を以って、描く対象を掴み、人間生活の虚をつくという表現法を編み出した。
もう一つ、ナンセンス漫画の特徴は、絵の中に登場する人物がしゃべる、吹きだしの言葉を、作者自身がペンでかいた。それまでの漫画は日本的な絵のわきに、活字で、説明文をながながといれるとか、絵の枠内に書くとしても印刷文字で、説明文を書いたものが多かった。
それを漫画集団の単純な線画の中で、吹き出しの文字を作者自身で描きいれる手法を使った。
これらの手法で、スピード感と軽快感を読者に与えた。
集団に集まった若者は、共同で行動する術を知っていた。彼等は共同制作、共同販売の売り込み方を発明した。適任者を担当マネージャーにして、会員の知っている雑誌社や新聞社に共同で売り込んだ。
これが当時のジャーナリズムの話題を呼んだ。しかも描かれた絵は、青年らしい活気に満ちた斬新な手法による、一見爆笑のナンセンス漫画であった。
忽ち彼らの作品が、ジャーナリズムの漫画領域を占領する事態となった。

昭和初年は、西欧的な生活文化が謳歌されたモダニズムの時代であった。文学では、横光利一、川端康成、中川与一などの新感覚派の登場、風俗的には、モボ (モダンボーイ)やモガ(モダンガール)を生んだモダーン感覚の隆盛、大衆演劇でも浅草では本格的なオペラが、群衆を集めると同時に、それを皮肉ったエログロな演劇の興行も盛んになり、盛り場ではカフエーが流行するといった世相になっていった。
 漫画集団の漫画は、この時代の軟派風潮にぴったり合った。モダンではあるし、エロでもグロでもなんでも来い、という調子の良さがあって、人気ものになった。昭和八,九年から、「エロ、グロ、ナンセンスの時代」だといわれたが、エノケン、ロッパのユーモアあふれたミュージカルとともに、ナンセンスの漫画集団は、時代の人気者であった。
 ある日浅草の劇場で、ラインダンスの踊り子が、パンテイを、舞台の上で落としたのを見たという噂が広がって、翌日から観客が押し寄せたという、そういう時代であった。
 
集団のナンセンスの絵は、戦後引き継がれて、新漫画派集団が、漫画集団と名前を変更しても、人気は衰えなかった。従来の漫画家に、加藤芳郎、横山泰三、荻原賢治、岡部冬彦、六浦光雄、小島功などの新鋭が加わり、さらにそのあと馬場のぼる、富永一朗、サトウサンペイ、さらに若い園山俊二、東海林さだお、秋竜山など、あたりまで、紹介しきれない位、多くの才能を生んできた。
 そしてそれらの人たちは、集団らしい画風を作り上げてきた。
 成人漫画に参入の労苦

子供漫画の先駆者として、ほとんど子供向けの漫画ばかり描いてきた手塚が、集団の中に入って、その集団が作り上げた画風で、長編物語漫画を創造しようとするのだから大変であった。
「人間ども集まれ」を描いたころは,すでに児童漫画の第一人者として多くの作品を完成させ、現に何冊もの連載マンガ執筆中であった。また一方で虫プロというアニメーションの、「大工場」を抱え、自ら描き且つ運営していたのである。
  だから担当編集者が、手塚の原稿を貰うのは大変だった。連載、読み切り合わせて、目いっぱいの仕事を抱え、アニメーションをかくのだから、各出版社の編集者の、「原稿取り競争」は大変なもので、それに関して幾多の逸話や伝説が残っている。
 その編集者の苦労話が何冊も本にされて、出版されている。例えば『神様の伴奏者』(佐藤敏章 小学館) 『1億人の手塚治虫』(1億人の手塚治虫編集委員会、gicc出版局)『ブラック・ジャック創作秘話』(宮崎克,吉本浩二 秋田書店)などなど、これに類する本や雑誌の特集が、幾つも世に出ている。いかに手塚の原稿を入手するのが困難であったか、証明されているわけだろう
 その大多忙の中に、新たに、成人向けの野心作を書くことが加わったのだから、その執筆時間の捻出が大変であった。
 
それに加えて、成人漫画執筆については、もう一つ難関があった。手塚は漫画集団流の絵で成人漫画描くと決意していたのは前に述べたとおりだが、そうなると児童漫画と違って、吹き出しの文字がすべて、作者の手書きである。この吹き出しの文字にも作者の個性が出て、漫画を面白くしていると評論家筋にもいわれていた。漫画評論の中に、そのことを論ずる評論家もあったくらいであった。
普通の児童漫画は、吹き出しの文字や、一コマの中に説明文があれば、すべて、写植印刷であった。この場合はまず漫画のこまわりを決めて、吹き出しの囲みまで鉛筆で下書きをする。
 吹き出しの中に書く文字は、別原稿にして、写植にする。編集者は写植にする文字原稿を写植工場に回して写植版を作る。その間に先生はマンガの絵を完成させて、編集者に渡す。これで漫画家の仕事は終わる。
 編集者は写植の活字原稿を切り抜いて、吹き出しに貼ってゆく。貼り終わると原稿の上がりである。
 この場合下書きさえできれば、後は画を完成させるために、下書きにペンを入れてゆけばいいわけである。その時にアシスタントが手伝うわけである。というかアシスタントがペンを入れてできたものを先生が、最後に訂正の筆を入れて画の完成となるわけである。
 だから、下書きと吹き出しの文字が決まりさえすれば、先生は次の仕事に移れるわけである。
 しかし、吹き出しの文字を先生が書くとなると、すべてを先生がやらなければならない。吹き出しの文字さえもらえば、まずは、一安心という、児童漫画の場合とちがって、分業化、アシスタントの手を借りる部分は少ない。
 そういうわけで、その週締め切りの、児童漫画の連載物がすべて書き終えた後でないと、成人漫画の仕事に入れないという不利な点があった。その為に「漫画サンデー」の担当者は、それだけ苦労が多かったのである。

 そういう悪条件のもとに長編「人間ども集まれ」がはじまったのだが、担当者も編集部も苦闘の連続であった。その苦闘ぶりを、当時の担当編集者遠山泰彦が、後年若者のために経験を書き残した文章がある。今ここに本人の承諾を得てその一部を引用させてもらう。

「それにしても、あんなに多忙なのによく連載執筆をオーケーしてくれたものです。毎日不眠不休で描きつづけていて、もはやスケジュール調整不可能状態のところへ『漫サン』が割り込んだのですから、しかもこれが週刊誌で毎週、締切があるのですから、これはもう大変なんてものじゃありません。逆に言えば、それだけ手塚先生に大人漫画へのチャレンジ意欲が旺盛だったということでしょう。案の定、連載スタート直後から毎週これ以上遅れたらもうダメというきわどいところでようやく書きあがるという、すれすれセーフの連続になりました。初の長編大人漫画ということで先生も模索しながら描いていたのでしょう。絵のタッチは意識的に変えていました。非常に白っぽいさらさらした絵でした。それにテーマがセックスです。ですから、少年漫画の合間には書けないということで、毎週他の連載をすべて片づけてから頭を切りかえて最後に取り掛かるので、どうしても遅くなってしまうんですね。
 そのころ編集会議はいつも月曜日で、連載物の締め切りは木曜日、金曜の夜には校了という進行でしたからどんなに遅い漫画家でも木曜の夜までには書いて貰いましたが、手塚先生だけは、早くて金曜の夜、たいていは真夜中か土曜の夜明け方でした。しかもそのためには手塚邸に月曜日から詰めていないとダメなんです。それで、編集会議が終わると、すぐ着替えを以って手塚邸に行きます。手塚邸には編集者のための待機部屋があり、何時も何人か編集者がいて花札をしたりしていました。時には深夜、先生の奥様がアシスタントや編集の人たちのためにラーメンを作ってくれることもありました。こんなふうに金曜の深夜ようやく原稿を貰うと、すぐさま印刷所へ届けて、それから家に帰ります。次の月曜部に編集会議が終わると、また手塚邸に行くという、そういう暮らしを1年半ぐらい続けました。いかにも辛そうで、大変そうに聞こえるかもしれませんが独身の私には、これが結構面白い仕事だったのです」

 このようにと遠山が書いているが、こんな惨めな生活を、大學出たての白面の青年たちに強いなければならなかったことを思うと、年老いた目に涙がたまりそうになるのを禁じ得ない。
 遠山は続いて書いている。
「私が手塚先生の担当になってから、長編の一回目を貰うまで、八か月ぐらいかかっています。先生はその間、何度も『では何月何日号からはじめましょう』といってくれましたが、結局やってくれない。私も先生のスケジュールを調べ、事前に調整しておいたりして万全の準備をしたつもりなのですが、それまで描き終えるはずだった分が終わらず押せ押せになって結局書いて貰えない。今度は時間的にゆとりがあるから大丈夫なんていうときは、いつのまにか外出して映画なんか見に行っちゃう。で、やっぱり押せ押せになる。私もそのつど、『今度こそ大丈夫です』なんて編集長に報告していますから、煮え湯を飲まされた思いで、もう合わせる顔がありません。
 そうしたら、あるとき編集長が『あのなあ、約束したから原稿ができるわけはないだろう。書く気にさせなきゃだめだよ。どうやったら描く気になってくれるか。おだてたって言い、怒ったっていい、泣いてもいい,なんでもいいから描かなきゃという気に追い込むんだよ。原稿取りは論理学じゃない、心理学だよ』とアドバイスしてくれました。(論理学じゃない、心理学だよと私が言ったことを今でも鮮明に覚えていてくれて、なにかというと、このことばをだすが、遠山は教育大の社会学専攻                                             の学生気分の抜けない男であったから、論理学じゃない、心理学だなんて、ぺダンチックなジョークをわざと使ったことを覚えている)編集長のそのアドバイスは目からうろこでした。それからは、からめて作戦を重視することにして、当時は先生のご両親も一緒に住んでおられて、よく邸内でお見かけしたので、つとめて話し相手になって、好感をもたれるようにしたり、ふたりのお子さんがまだ小さかったので、庭で一緒に遊んであげたり、アシスタントの人たちを連れてスケートに行ったり、旅行に行ったりなんていうことをしました。直接、接することがあまりないので、間接的に『漫サンの遠山』をアッピ-ルしようとしたわけです。ただし、そんな努力をしたことと新連載が取れたことと関係があったのかどうか、それは全然わかりません。
 実は手塚治虫作品リストをよく見ると一九六六年(昭和四一年)は「漫サン」に三月、五月、七月とそれぞれ読み切り短編を、また一二月には三回連載の作品を描いています。先生が、一年間にこんなに何本もの大人漫画を描いたのは初めてです。翌六七年一月から『人間ども集まれ』がスタートします。ですから、もしかすると、先生は私のお願いなんかと関係なく、六七年から『漫サン』に大人漫画の長編連載を始めると決めていて、六六年に描いた短編群はそのためのトレーニングだったのかなと思っているのです。」
 この遠山の文章の最後のところは、前号に描いたことと矛盾するようですが、私は確かに、六六年正月前後に六七年から長編を描く約束をとりましたが、その通りに行くかどうかが、自信が持てなかった。長編のまえに短編を幾つか書いてくれという約束もしました。遠山が四月に入社し手塚の担当者になった時、とにかく一刻も早く長編をとること、その前に時間つなぎ的な意味で、短編を書いて貰うように、命じたのだと思います。ほぼ半年強のあいだに、三回連載の中編を含めて、四本の中短編をとったということは遠山の努力のたまものであると思っている。六七年の正月から、長編連載を始められたのは遠山の大功績と、私は思っている。
 というのは最近発見したのだが、この長編の背後には、たいへんな思想的文学者の著作があったのではないか、ということだ。いずれ、後の章で詳細に検討するが、その思想的文学は、一九三〇年代、ナチスに抵抗したチェッコのカレル・チャペックの作品ではないかと思う。手塚はあの多忙な仕事の間に、この作家の膨大な作品を読んで、構想を練っていたと思われる。
 その意味で、この作品は思想漫画ともいうべき作品だと思うのである
 発売が間に合わず

さて、長編の連載が始まってからの担当者と編集部員の協力と努力は、一層強くなった。
或る金曜日の深夜、一二時近く、編集部に待機している私に、遠山から電話がかかった。今手塚先生が、眠気覚ましにチョコレートが欲しいといってるんですが、この辺を探しても、そんなものを売っているところはないんです。どこか手にいるところはないでしょうか」
これは難題である。銀座にある編集部の近所でも。一二時近くに菓子など売っている店はない。まだ深夜営業のコンビニなどなかった時代である。そこで浮かんだのは、銀座の高級クラブでよく酒のつまみに、ツブツブのチョコレートを出しているところがったことだ。あれを分けて貰えばいいかもしれないとおもった。そこで知るっているクラブに電話をかけたが、営業時間が11時30分に決まっていて、閉店になっている所が多く、たまたま営業をしている店があっても、そのマネージャーにうちでは、チョコレートを出していませんと言われ、私としては万事休す。
その結果どうなったか知らないが、とにかく原稿は入った。おそらく、遠山や手塚プロの人が、チョコレートの代わりにラーメンか寿司でも出前させて、その場をしのいだのだろう。
これが伝説化し。遠山が前日子供のためにチョコレートを買ったのを思い出し、車で横浜の家まで、それを取りに行ったという伝説が残った。そんなことはあり得ない。彼はまだ昨年卒業したばかりで、独身であったからである。とにかく手塚は疲労してくるとチョコレートをほしがることがあったらしい。
いつ頃のことか忘れたが、校了日が過ぎても、原稿が一枚も取れないということがあった。土曜日の深夜、今原稿がはいらないと、明日の朝のトラック便に何万部乗せなくては、配本が間に合わない、というぎりぎりの時間であった。遠山にもう今号は休載にするから、その旨を先生に伝えるように電話した。すると遠山から電話があった。今から大至急かくと先生が言っている、もちょっと待ってください、という。
私は大日本印刷の出張校正室で校了事務に当たっている編集次長に連絡をした、もはや絶対の時間切れである。私は遠山に最後の連絡をした。
「今号は休載に決定したから先生に連絡してくれ。」
その手続きをデスクと連絡をしていると、遠山から電話がかかった。
「先生とアシスタントが消えちゃったんです。おそらく僕と編集長と連絡の電話をしている間に、ここを出ちゃったんだと思います。みんなはタクシーで、そっち(編集部)に向かっていると思います。そっちに着いたら先生と話してください。」
 さすがの遠山の声も上ずって、泣きそうな声である。編集部で残りを描くということだろう。それにしても間に合わない。手塚が到着したら、その旨を話して休載することに決めていた。休載についてごたごたやっているうちに,手塚が数名のアシスタントを連れて、守衛に案内されて、どかどかと編集室にやってきた。
 私が、手塚に話かけようとすると、手塚は物も言わず空いている他の部の席に座ってしまった。その周りをアシスタントの青年が取り囲むように席を占めた。手塚は肩をいからして威厳を示し、ものも言わずに、原稿を書き始めた。唖然とした私が、声をかけても返事もせず原稿を描き続ける手を休めることもない。
 そこで私は、覚悟の臍を固めた。雑誌の発売時間の遅延である。
 今思い出してみるとどのくらい時間がかかったか、もう忘れたが、原稿が出来上がると、それを無言で、戻ってきた遠山に渡し、さ、さ、さと、帰り支度をして、大波が引くように、一同は編集室を去った。
 これで半日以上週刊誌の発売が遅れることは確かであった。週刊誌の販売遅延等あってはならないことである。それが起きてしまったのである。その損害は、販売量の激減はもとより、運賃、人件費その他を含めた多額の損害、その責任は私にある。
 私は、こういうことで編集部員が、非難されるのを慮って、翌日の編集会議を延期したばかりでなく、出社せずに自宅に待機するように、編集部員に言った。
 二,三時間睡眠の後私が出社すると、本社の販売本部長が私を待っていた。ある程度気脈の通じている本部長は、大きな目玉をぎょろりとさせて、睨めつけた。そして
「二度とこういうことの無いように」
と言って去って行った。
次にやってきたのは大日本印刷の営業本部長であった。これも若い時からの付き合いで、社内の出世頭であった。これも鷹揚に「困りますな」という。
「手塚さんにあんなことの無いように大日本印刷から正式に言ってくださいよ」
 そんな話の末帰っていった。大日本から手塚プロに正式な申し入れをしたかどうか、それは知らない。
 ともあれ非難ゴウゴウたることもなく、至極冷静にことは終わった。

「人間ども集まれ」の担当者は、人事の事情から、昭和四三年の春から、担当者は遠山から、中村俊一に変わった。
 中村も遠山と全く同じ苦労をして、六八年七月二四日号で長編連載「人間ども集まれ」を無事完成させた。完成までにどのくらい担当者と編集部員が苦労したか、ということは、次の事実からも知れよう。
 連載は毎号一〇頁の約束だった。一〇頁を描いたのは全六五回のうち一四回しかない。そのうちには一二頁、一一頁とサービスしている回もあるが、大抵は一〇頁に満たない。一番多いのは七,八頁で、三四回に及んでいる。たった四頁、五頁の週もあった。何れも時間切れで終わりとなっている。
 それでも手塚も編集も忍耐して、この未曾有の作品をよく終わらせたと思っている。
 「人間ども集まれ」はたんに漫画として成功しているばかりでなく、チャペックの「山椒魚戦争」「RUR」と並ぶ、人類の本質に迫る第一級の思想物語だと、私には思われる。次回に、そのことを考えてみたい。
 
 この「人間ども集まれ」を終結させた担当者中村俊一は、その後、七五年四月、「一輝まんだら」が終結するまで、足掛け八年間、手塚の担当を続け、その間に「上を下へのジレッタ」「サイテイ招待席」(フウスケもの)など力作、傑作を生み出している。その漫画に対す功績は実に大きい。彼が手塚からとった作品は逐次紹介してゆく。