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“10月28日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

  • 2013年3月31日 23:17

*1520年  マゼランが南米・パタゴニアの海峡を越えて太平洋に抜けることに成功した。

のちに彼の名を取って「マゼラン海峡」と名付けられるがラプラタ川を遡ったり、いくつもの入江を試して迷ったりした末の海峡発見だった。通過には7日間もかかり、途中で艦隊最大の艦で多くの食料を積んでいたサン・アントニオ号とはぐれてしまう。5隻だった艦隊は1隻を難破で失っていたからこれで3隻になった。しかし提督のマゼランは「喜びのあまりはらはらと涙を流し、水路の出口の岬を<待望の岬>と命名した」と艦隊に同行していたイタリア・ベネチアの貴族だったアントニオ・ピガフェッタが書き残している。

マゼラン(1480-1521)は大航海時代のポルトガルの航海者で探検家である。本名は英語読みではフェルディナンド・マゼランだがポルトガル語ではマガリャネスだから近年は海峡名を現地呼称の「マガリャネス海峡」と表記されることが多い。速い潮流と暗礁だらけの<海の難所>でパナマ運河開通まではさらに南の南米・ホーン岬と南極大陸の間のドレーク海峡回りを選ぶ船が多かった。

マゼランは「スペイン艦隊を率いて初めて世界一周を成し遂げた」と紹介されるが実際にはこの翌年の4月27日にフィリピン・セブ島で原住民に襲われて戦死した。難破や破船で最後の1隻となった「ビクトリア号」だけがスペインに帰国したのはさらに翌年の1522年9月6日で出発時の約270人のうち世界一周ができたのはピガフェッタらわずか18人だった。つまり世界一周を成し遂げたのは「マゼラン艦隊」だったわけで、スペインでは世界一周の栄誉を最後まで生き残ったスペイン人船長のファン・セバスティアン・エルカーノらに与えた。

ではマゼランが名付けたとされる「太平洋」はどうか。ピガフェッタは自分たちが航海した海洋を太平洋と書いているが<マゼランが命名した>とはどこにもないそうだ。スペイン国王が彼らに謁見した際の記録にも「南の海(mar del sur)」とあるだけで艦隊の誰が太平洋と名付けたかは謎であるらしい。マゼランはポルトガル艦隊では東回りでフィリピン諸島まで行ったのでこの西回り航海と合わせれば<世界一周した>という擁護論もある。しかしそれさえもフィリピン諸島のどこかは不明だからつながらない可能性もあるという意見もあり探検家の栄光もまさしく<生きていりゃこそ!>ですなあ。

*1910年  ロシアの文豪で82歳のトルストイがこの日朝、家出した。

置き手紙に驚いた妻のソフィアは大声をあげて庭の池に飛び込み、娘らがあわてて引き揚げる一幕もあったがこれもいつものことだったらしい。『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』『復活』などで名声を博し、自らの莫大な財産で貧困層への支援を続けたが受け取る印税や地代を断ったり農作業に従事したりする生活スタイルなどを巡ってはソフィアとしょっちゅう衝突した。

不仲から何度も家出を繰り返したことから今回の家出も<またまた>で、文豪は知り合いの修道院に泊まったあと妹を訪ねた。その後、鉄道で移動中に悪寒に襲われ、我慢できずにいまはトルストイ駅と名付けられている小駅で下車、運ばれた鉄道官舎で治療を受けていたが11月20日に肺炎により死去した。

それもあってソフィアはソクラテスの妻・クサンティッペ、モーツアルトの妻・コンスタンツェとともに「世界三大悪妻」に数える向きもある。カーネギーもトルストイが臨終の直前に「妻を近づけるな」と遺言したことやソフィアが「お父さんが死んだのは自分のせいである」と自責の言葉を述べたが、それを聞いた子どもたちは誰も反論しなかったエピソードを紹介している。しかし夫婦の対立は、トルストイが宗教や社会活動に傾倒して家庭を顧みなかったことや著作権などの遺産を「ロシア国民に移譲する」とする遺言状を作成しようとしていたことで10人以上もいた子どもたちを養い、生活を守るためには現実重視で生きざるを得なかったためとみることもできる。

立場を変えれば別の理由あり。夫婦喧嘩はやはり<犬も食わない>のでしょうか。

*1962=昭和37年  自然主義の代表的作家で文芸評論家の正宗白鳥が83歳で死去した。

トルストイを巡って小林秀雄と繰り広げた「思想と実生活論争」を思い出したからトルストイつながりで紹介する。生家は岡山県備前市の旧家で網元や材木商で繁栄した資産家だった。早稲田大から読売新聞に入社して文化・美術・演劇を担当したが退社して本格的な作家生活に入った。日露戦争後の青年像を描いた代表作の『何処へ』で自然主義文学の新境地を開いたと注目された。1935=昭和10年には島崎藤村らと日本ペンクラブを設立し、戦中から戦後にかけて第2代の会長をつとめた。

写真家・土門拳は敗戦直後の雑誌社で正宗に会った印象を「手の平に乗るような小兵な老人だった。ニッカー・ボッカー姿につぶれたリュック。だが何か凛として犯すべからざる気迫があったのが懐疑派作家、正宗白鳥だった」と書き残した。これだけで人物をほうふつとさせる土門ならではのたしかな描写力ではあるまいか。

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